小倉日明教会

『では、お前は神の子か』

ルカによる福音書 22章 63〜71節

2025年6月29日 聖霊降臨節第4主日礼拝

ルカによる福音書 22章 63〜71節

『では、お前は神の子か』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                        役員 川辺 正直

神の子とつながる

 おはようございます。カナダのヴィクトリアという美しい町に、あるクリスチャンの作家がおられます。この作家のエッセーに、次のような話があります。

 あるとき友人の娘の結婚式で、聖書のメッセージを語ったのだそうです。披露宴パーティーまでの間、バルコニーに出て夕焼け雲を見ていました。するとそこに一人の青年がやってきて、次のように言うのです。『先生、あなたは先ほどおっしゃったことを、全部本気で信じているのでしょうか。つまり、キリストを信じよとか、神の言葉には力があるので、そこに目を留めよとか、天国の希望とか、そういったことを本気で信じているのでしょうか』。この作家は『もちろん』と答えました。するとその青年は、『僕は大学で哲学を専攻しているのですが、あなたの言ったような迷信的なことは、僕には必要ないと思います。だいたい、キリストを信じるより自分を信じることの方が、実際的ではありませんか。神の言葉に励まされるより、自分で自分を励まして生きて行くことができる人間になることこそ、人としての成長なのではないでしょうか。大体、見ることも触ることもできない天国などに希望を置くなんて、絵に描いた餅だと思います。そんなあの世に希望を置くのではなく、目の前の現実の生活の中で、希望を見出していくということこそ、人間に必要なことだと思います』。

 青年の言葉に対して、この作家は静かにこう言ったのです。『そうだねえ、同意するよ。でも僕は何人かの友人のことを思い出してたんだ。一人の友人は、30代で証券会社の重役になり、美しい妻とかわいい子どもたちに恵まれ、大きな家と最新のスポーツカーを持っているんだ。でも、奥さんが末期のガンに侵されているということがわかったんだ。子どもたちは『ママ行かないで』って、いつも言うけど、この一家はクリスチャンでね、天国への望みがあるんだ。だから『ママは消えてしまうんじゃないのよ。天国というもっと素敵なところで、君たちを見守っているからね』と励ますことができるんだ。ところで君は、天国なんて見えないものに希望をおくより、現実の生活の中にこそ希望を見出すのが人間らしさだって言うけれど、君のその哲学は、この家族にとって力になるのかな』。青年はブスっとした表情で黙っていたそうです。

 作家は続けました。『もう一人の友人のことも思い出した。彼はまるで、女性のように美しい男だったのだが、ゲイになり、同性愛の売春で稼ぐようになったんだ。でも、40歳になったとき、エイズを発症し、今では誰も彼に近寄らなくなったんだ。彼の願いは、バンクーバーの母親のところに行くことなんだけど、そのバス代さえもないので、僕はチケットをプレゼントしてあげたんだ。ところで、君は先ほど、キリストを信じるのではなくて、自分自身を信じ、神の言葉に励まされるのではなく、自分で自分を励ます人間になるべきだって言ったね。それができれば、それもいいのかもしれない。でも、彼にとって、君の哲学はどんな力になるのだろうか。君の提案は、どんな希望になるのだろうか』。すると青年は答えました。『そんな難しい質問は、今すぐには答えることはできません。でも、考え続けたら、きっと答えが出ると思います。神やキリストによらなくても、人間自身の支えによる救いが、きっとあると思います』。『うーん、そうか。じゃあその答えが見つかったら、私に連絡してくれないか』。『はい、わかりました』。そう言って青年は去ってゆきました。それから何年も経ちましたが、その青年からは、未だに連絡がないのだそうです。

 キリスト教は、主イエスを神の子・救い主と信じるという宗教だと言うことができます。従って、聖書を読む者は、いつの時代に於いても、福音書の主人公である主イエスに向かって、『あなたは神の子なのか』ということを問いながら、聖書を読んで行くことになります。現代の聖書を読む者にとって、理解し辛いのは、聖書記事の中の、奇跡と呼ばれる出来事であると思います。処女降誕、数々の奇跡、復活などの記事を読みますと、主イエスが神の子・救い主ということを信じ難くなるという方も多いのではないでしょうか。現代人にとって、日常生活の中で、日頃、接する実際に起きた事実と比較して、聖書に記されている事実がかけ離れている場合に、聖書に描かれているキリスト教信仰そのものが、信じるに値しないように思えてしまうのだと思います。

 逆に、主イエスと同時代の古代の人にとっては、主イエスの奇跡を描いた不思議な記事の方が、主イエスが神の子・救い主であると信じることができるのです。むしろ、古代人にとっては、主イエスを救い主と信じるのに、最も障害となる出来事は十字架という歴史上の事実です。神の子・救い主である主イエスが十字架刑に架けられた死刑囚であるということは、古代のユダヤ人にとってはつまずきの出来事であり、古代のギリシャ人にとっては愚かな教えです。ですから、新約聖書の福音記者は、主イエスの受難物語を丁寧に描いて、十字架にかけられた主イエスが神の子・救い主なのだということを丁寧に伝えているのです。本日は、主イエスがユダヤの最高法院での裁判を受けている記事を通して、『では、お前は神の子か』ということを、私たちも問いながら、今日の聖書の箇所を読んで行きたいと思います。

主イエスの裁判

 本日の聖書の箇所では、最高法院での主イエスの裁判の様子が描かれています。ここで、本文に入る前に、主イエスの時代のユダヤでの裁判の流れについて確認してみたいと思います。当時のユダヤでの裁判というのは、宗教的裁判と政治的裁判に分けられていたのです。まず、主イエスの場合の宗教裁判の3段階というのは、①が、アンナスの前で行われた予備審問(ヨハネによる福音書18章12〜14節、ルカによる福音書22章54節)です。そして、②が大祭司カイアファの前で行われた、夜明け前の私的な裁判です(ヨハネによる福音書18章24節)。アンナスは大祭司カイアファのしゅうとで、大祭司カイアファの後ろに控える黒幕とも言うべき人物です。この私的な裁判の後、③の最高法院の前で、夜明け後に明るくなってから、行われる公式の裁判(ルカによる福音書22章66〜71節)なのです。この3つのステップが、宗教裁判なのです。本日の聖書の箇所の最高法院での裁判で、主イエスは神様に対する冒涜罪で有罪が宣言されます。しかし、それだけではユダヤ人たちは主イエスを死刑にする権利がなかったのです。

 そこで、次にローマの法廷に持ち込むのです。それが、2番目の政治裁判の3段階なのです。最高法院の議員たちは、①でユダヤ総督ピラトのもとに主イエスを連れて行きます(ルカによる福音書23章1〜5節)。②の段階は、ガリラヤからヘロデ・アンティパスがエルサレムに来ていましたので、ピラトはヘロデのもとに主イエスを送ります。ヘロデの前での裁判が第2段階の裁判です(ルカによる福音書23章6〜12節)。ヘロデは、主イエスを送り返して来ます。ですから、主イエスは再度、ピラトの前に立つことになるのです。これが、③の段階のピラトの裁判なのです(ルカによる福音書23章13〜25節)。これが、政治裁判の3段階なのです。このように、宗教裁判が3段階、政治裁判が3段階で、主イエスの裁判は行われたのです。

 そして、本日の聖書の箇所に入って行く前に、もう1つ私たちが覚えておきたいのは、主イエスを裁くということが、いかに愚かなことであるかということです。キリスト者になって初めて、主イエスが救い主であり、神の子であり、神様ご自身であるということが分かってくると、主イエスの前に跪き、主イエスに信頼を告白し、主イエスを礼拝することが、私たちの人生の中心になって来るのです。しかし、主イエスを信じない人たちは、平気で主イエスを裁くのです。本日の聖書の箇所もそうです。ですから、主イエスが裁かれてゆくプロセスの中に、人間の愚かさ、罪の深さ、醜さ、ありとあらゆる汚れが含まれているのだということを、私たちは覚えておく必要があると思います。そして、残念ながら、今も、多くの人々が当たり前のように、神様を裁いていると思います。何か、この世の生活の中で問題があると、神様のせいにするということがあると思います。神様がいるのなら、どうしてこのようなことが起こるのかという言葉で、今も人々は神様のことを批判し、裁こうとします。しかし、それは本当に愚かで、恐ろしいことをしているのだと思います。しかし、そのような中でも、主イエスは罪人である私たちを愛しておられるということを、今日の聖書の箇所を通して、学んで行きたいと思います。

主イエスへの侮辱

 次に、本日の聖書の箇所の63〜65節を見ますと、『さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。』とあります。この部分は、次の裁判の記事に入るための導入の部分となっています。ここには、前回取り上げましたペトロが自分を守るために主イエスを拒否したペトロの自己愛と、主イエスの犠牲的愛の対比があると思います。そういうペトロを許すために、そして、そういう私たちを許すために、主イエスはどのような苦難と辱めを通過して下さったかということが、ここでよく表現されていると思います。ルカ、マタイ及びマルコなどの3つの共観福音書の中では、ルカによる福音書は最も詳しく主イエスの苦しみを記録しているのです。なぜかと言いますと、福音記者ルカは主イエスの人間性を強調して福音書を書いているのです。主イエスは、人間として訴える者たちの手によって苦しめられたのです。そして、神様との断絶という最大の苦しみも経験されるのです。

 誰が主イエスを苦しめているのかと言いますと、『見張りをしていた者たち』が主イエスを侮辱したり殴ったりして、苦しめているのです。この『見張りをしていた者たち』というのは、神殿の警備に携わる者たちです。神殿の警備に携わる護衛たちで、主イエスを逮捕しに来たのも、彼らであったのです。その彼らが主イエスを侮辱したり殴ったりしたのです。神殿を守るという役割に就いている者たちが主イエスを苦しめたのです。彼らは、旧約聖書の預言の意味を誤解しているのです。主イエスが王である、主イエスが救い主である、主イエスが預言者である、だから、主イエスに目隠しをして、『お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と罵って、主イエスの預言を引き出そうとしているのです。65節に、『そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。』とありますように、ひどいことを行っているのです。このような嘲りを受け、人間としての苦しみを受けた後、宗教裁判へと引かれてゆくことになるのです。

最高法院で

 本日の聖書の箇所の66節を見ると、『夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、』とあります。66節の冒頭に、『夜が明けると、』と記されていることから、明るくなっていることが分かります。先程、宗教裁判の3段階の話をしました。まず、大祭司カイアファの舅のアンナスの前での裁判、これは予備審問にあたることをお話しました。次は、大祭司カイアファの前での裁判で、これは夜明け前に行われた私的な裁判であるということをお話しました。66節以下で行われているのは、最高法院の前での裁判で、夜が開けてから行われているのです。これが、宗教裁判の第3段階で、公式な、オフィシャルな裁判なのです。主イエスを夜が明けるまで最高法院へ連れ出されなかったのは、正式な裁判を夜中に行うことが禁じられていたからだと伝えられています。『最高法院』は、原文のギリシア語では『スネドリオン』という言葉ですが、それが英語では『サンヘドリン』となりました。『最高法院』より『サンヘドリン』という言葉のほうがよく知られているかもしれません。この『最高法院』、サンヘドリンは、大祭司が議長となり、祭司と律法学者と長老の中から選ばれた70人の議員(議長を含めると71人)で構成されるユダヤ教の最高議会でした。分かりやすく言えば、ユダヤの最高裁判所と考えればよいかと思います。当時のユダヤ社会では、政治と宗教が分離されていませんでしたが、政治に関わる事柄についての決定権は最高法院にはなく、ユダヤを支配していたローマ帝国にありました。そのため、最高法院で決めることができたのは、宗教的な事柄についてだけであったのです。

 さて、ユダヤの口伝律法では、死刑判決を出すための裁判は、明るい時間帯の日中に行う必要がありました。ですから、66節にありますように、夜が明けてからオフィシャルに裁判が行われているのです。しかし、裁判を開催する場所が問題であったのです。裁判を開くのは、本来、神殿の中なのです。本日の聖書の箇所では、大祭司の家で裁判を開いていますので、これは律法違反になるのです。律法違反になっても、最高法院のメンバーは構わずに裁判を開催しています。さらに死刑判決を1日で出すというのも、律法違反です。本来、死刑判決を出すというのは、慎重に行わなければいけないというのが、律法の規定による命令なのです。しかし、彼らはこのことにも違反しているのです。なぜ、大祭司の家で、しかも1日で、死刑判決を出すのでしょうか。それは、彼らが急いでいたからだと言うことができるかと思います。彼らは、主イエスを有罪にして、急いで主イエスをユダヤ総督のピラトのもとに連れて行こうとしているのです。次の政治裁判の段階にまで行こうとしているのです。ここでの彼らのキーワードは、『急いでいた』ということなのです。ですから、形だけ整えて、とにかく有罪にすれば、それでいいと考えて主イエスの裁判が行われるのです。

『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』

 次に、本日の聖書の箇所の67〜68節を見てみますと、『「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。』とあります。今、最高法院の議員たちは、何を目標としているのかと言いますと、ピラトの前に主イエスを連れて行って、政治裁判にかけるということなのです。その政治裁判のときに、主イエスの罪状をどうするのかという点に問題があるのです。政治裁判では、主イエスを神様に対する冒涜罪で訴えることはできないのです。ですから、反逆罪で訴えるというようなものでなければ、訴因、つまり裁判を起こす対象となる犯罪の具体的事実とはならないのです。彼らは必死で、起訴できる罪状を探しているのです。ですから、彼らが最初に質問したのは、『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』ということだったのです。これは、変な質問だと思います。それはなぜかと言いますと、主イエスはこれまでに何度も自分がメシアだと言って来られたのです。従って、主イエスが答えられたとしても、彼らの心は変わらないのです。ですから、主イエスは答えないのです。主イエスは、『わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。』と言っているのです。主イエスが答えても、彼らの心が変わることはないのです。そもそも彼らのメシア観と主イエスのメシア観とは、別物なのです。彼らのメシア観は、口伝律法を守るメシア、王として君臨するメシアなのです。それに対して、主イエスのメシア観は受難の僕としてのメシアです。今、まさに十字架に向かおうとしている受難の僕としてのメシアなのです。ですから、答えても意味がないから、答えないというのです。しかし、主イエスは補足の説明を付け加えるのです。

『では、お前は神の子か』

 本日の聖書の箇所の69〜70節を見ますと、『しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」』とあります。主イエスはここでご自身のことを『人の子』と呼んでいます。『人の子』という称号は、これまでに何度か出てきています。例えば、ルカによる福音書20章41〜44節では、『人の子』はなぜダビデの子なのかという議論がありました。『人の子』がダビデの子であるならば、ダビデはなぜ彼を主と呼んでいるのかという議論がありました。この議論は、聖書の流れから言いますと、2日ほど前に行われた議論です。2日前までは、あなた方とこのような議論をしていたではないかということなのです。主イエスは『人の子』という称号を使うことによって、自分がメシアであること、さらに『人の子』は、力ある神様の右の座に着きますという言葉によって、父なる神様と自分が密接な関係を持っているのだということを主張されたのです。『人の子』という称号は、終末的なメシアを表す称号です。そして、その『人の子』が神様の右の座に就くのだというのです。神様の右の座に『人の子』が座るというのは、終末的な約束なのです。旧約聖書では、ダニエル書7章13〜14節を見ますと、『夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み//権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。』とあります。従って、『人の子は全能の神の右に座る。』という言葉の背後には、何が示唆されているのかと言いますと、主イエスが復活し、天に上り、父なる神様の右の座に座り、そして、やがて地上に再臨される、こういった終末出来事がこの言葉の中に示唆されているのです。

 最高法院の議員たちは尋ねます。『では、お前は神の子か』と尋ねるのです。なぜかと言いますと、『人の子は全能の神の右に座る。』という言葉を主イエスが語ったから、彼らは『では、お前は神の子か』と尋ねたのです。これに対して、主イエスは『わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。』と答えられたのです。この主イエスの言葉は、昔の口語訳聖書では、『あなたがたの言うとおりである』と訳されています。原文に忠実なのは新共同訳で、口語訳のように訳すのは難しいと思います。その一方で、新共同訳の訳では、『お前は神の子か』という問いかけに対して、主イエスが肯定されているのか、否定されているのかはっきりしません。しかし、この主イエスのお言葉は、否定ではなく、肯定として受け取るべきだと思います。その意味では、口語訳聖書の『あなたがたの言うとおりである』という訳も正しいと言うことができると思います。なぜならご自分が十字架で死なれ、復活され、天に昇られて、全能の神様の右にお座りになると宣言することは、ご自分が神様と等しい者、すなわち神様の子であると宣言していることにほかならないからです。それにもかかわらず、主イエスが、『わたしがそうだとは、あなたたちが言っている』とお答えになったと訳した新共同訳聖書の訳は豊かなニュアンスを持っていると思います。それはなぜかと言いますのは、ここで主イエスは、主イエスに問いかけることより、主イエスからの問いかけに答えることを重視しておられると思うからです。『あなたは神の子なのか』と主イエスに問いかけるのではなくて、『あなたは私が神の子だと信じるか』という主イエスからの問いかけに答えることの方が大切だと思うからです。先ほどの『しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る』という主イエスの宣言を信じるか、という問いかけに答えることが大切だと思うのです。主イエスは『わたしがそうだとは、あなたたちが言っている』と答えられました。それは、主イエスが神の子であるとは、議員たちが言っている、ということです。しかしそれは、彼らが主イエスは神の子である、と信じていたということではないのです。それでは、『しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る』という主イエスの言葉に対して、議員たちはどのように反応したのでしょうか。

これでもまだ証言が必要だろうか

 今日の聖書の箇所の71節を見ると、『人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。』とあります。これだけ聞いたらもう十分だ。これ以上はもう必要はない。彼自身の口から聞いたのだ。これは神様に対する冒涜罪だ。これでもう裁判は終わりだと言うのです。即ち、これで主イエスが神様を冒涜しているということが、最高法院での裁判で確定したのです。これは、ユダヤの裁判所における有罪判決です。最高法院は、これから主イエスをローマの法廷に訴えるのです。そして、死刑を求刑するのです。その準備ができたのです。しかし、彼らにとって不都合なことは何かと言いますと、神様に対する冒涜罪では、ローマの法廷には訴えることができないのです。ですから、ユダヤの裁判所で、神様に対する冒涜罪で有罪を宣言したからといって、今度はローマの法廷で、ピラトが行う裁判で、政治的に死刑に相当する罪を犯しているということを証明する必要があるのです。それが、大変難しく次回取り上げる聖書の箇所での政治裁判では、混沌とした状態になってしまうのです。いずれにしましても、彼らはいかなる手段を使ってでも、主イエスを裁こうとしているのです。主イエスを死刑にしょうとしているのです。ここに神様を裁こうとしている人間の愚かさを見ることができると思います。そして、次回は、政治裁判の3つのステップの内、最初の2つのステップについて、取り上げようと思います。

 私たちの信仰の歩みは何かと考えます時に、それは、私たちが主イエスに、そして主イエスを遣わされた父なる神様に問いかけ、そして主イエスと父なる神様から問いかけられる歩みではないかと思います。私たちは、繰り返し『あなたは救い主ですか』、『あなたは神の子ですか』と問い続け、また、『あなたは主イエスを救い主だと信じるか』、『あなたは主イエスを神の子だと信じるか』と問いかけられ続けるのだと思います。その一つひとつの問いかけにおいて、私たちは真剣に神様に問いかけ、神様からの問いかけに真剣に答えて行くのが、私たちの信仰生活だと思います。最高法院の議員たちのように、自分たちが神様をも裁く、至高の存在であろうとするのではなく、自分の思い通りに全てのものを従わせて生きようとするのでもない生き方を、本日の聖書の箇所は、私たちに問うているのではないでしょうか。主イエスを私たちの救い主として信じ、主イエスの言葉に従い、父なる神様のみ心に従って生きて行くことが求められていると思うのです。しかも、これらのことは、私たちの力や頑張りによるのではないと思うのです。むしろ最高法院の議員たちの姿に私たち自身の姿を見ることによって、私たちこそ都合が悪くなると、主イエスを裁き、殺そうとする者であることに気づかされるのではないでしょうか。そして、主イエスを裁き、殺そうとする私たちのために、主イエスが十字架に架かって死んでくださったことを私たちが受け入れるとき、私たちは主イエスの執り成しの祈りによって支えられているということを知るのだと思います。私たちは、この主イエスの愛に応えて、歩んで行きたいと思います。

  それでは、お祈り致します。