小倉日明教会

『主イエス・キリストの最期』

マタイによる福音書 27章 45〜56節

2026年4月3日 受難日夕礼拝

マタイによる福音書 27章 45〜56節

『主イエス・キリストの最期』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                       役員 川辺 正直

詩 『カルバリーへの足跡』 河野進作

 岡山県の倉敷市にある玉島教会の牧師で、岡山県にある国立ハンセン病療養所である長島愛生園(ながしまあいせいえん)、邑久光明園(おくこうみょうえん)での慰問伝道を、50年以上の間携わるかたわら、多くの心温まる、珠玉のような詩を残された河野進先生(1904~1990年)という方がおられます。同じ倉敷市にあるノートルダム清心学園理事長を務めた修道女であり、教育者であった渡辺和子先生とも親交があり、パンやおまんじゅうなどのお土産を持って、何の前触れもなく、訪れることが度々あったそうで、渡辺和子先生の著書『置かれた場所で咲きなさい』でも、河野進先生の詩やエピソードが紹介されています。その河野進先生が書かれた詩に、『カルバリーへの足跡』という詩があります。ここで、カルバリーとは何かについてお話しますと、主イエス・キリストが十字架にかけられたエルサレムの丘をアラム語で『ゴルゴタ(髑髏・頭蓋骨の丘)』と言いますが、この『ゴルゴタ』をラテン語に翻訳したのが『カルバリオ』なのです。『カルバリーへの足跡』という詩は、短い詩ですので、お読みしたいと思います。

 

『カルバリーへの足跡』         河野進

 

見渡す限り 大海原がつづき

船は木の葉のやうに揺れやうとも

遙かの孤島に燈臺を認めた時

曾て其處に来た人があることを思つて

私は最早海を怖れなかつた

 

踏迷ひ行悩んだ深山の中に

ふとキャラメルの蠟紙(ろうがみ)を見付けた時も

曾て此處を通つた人のあることを知つて

私はその小さい紙切にさえ感謝した

 

困難・苦痛・悲哀のどん底に陥つた時

其處にも既に誰かの足跡がある

而も一歩は一歩より力強く印せられてゐる

私は心を躍らせながらその後をたどつて

最後に足跡の消えた處で上を仰いだ時

基督の十字架があつた。

 

 本日の聖書の箇所は、主イエス・キリストが十字架に架けられて、亡くなる場面です。本日の聖書の箇所で、主イエスは、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれたことが、記されています。主イエスはなぜこのように叫ばれたのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

聖書の預言

 さて、本日の聖書の箇所であるマタイによる福音書の特徴は、主イエス・キリストにおいて、旧約聖書のメシア預言が成就したことを、特に強調している点にあります。つまり、マタイによる福音書1章22節には、『このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。』とあります。そして、2章15節には、『ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。』と記されており。13章35節には、『それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いて、たとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」』とあり、さらに21章4節には、『それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。』とあることから、よく分かるかと思います。聖書の預言は、旧約聖書の『預言書』だけにあるのではなく、聖書全体が預言書と言うことができます。創世記1章1節は聖書全体の表題ですが、実はこの表題も預言なのです。招詞では詩編69篇20〜23節を取り上げましたが、詩篇にも多くの預言が含まれています。ちなみに、詩篇の作者の1人であったダビデのことを、使徒ペトロは、『ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。』(使徒言行録2章30節)と語っています。人が知ろうが知るまいが、神様である主は、預言者たちを通して語られたことが、主イエス・キリストにおいて必ず成就するということを、この福音書の記者であるマタイは強調しようとしているのです。

 ヘブライ人への手紙の1章2節の前半には、『この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。』とあります。その意味は、神様が世界の基が据えられたときから隠されているご計画を、御子主イエスの語る言葉を通して、またすべての業(わざ)を通して成就し、そして主イエスを取り巻くすべての状況さえもがあらかじめ語られたことの成就であるということなのです。神様のご計画は極めて緻密であり、用意周到であり、その知恵と知識は計り知れないほどに奥深いと思います。本日は、『さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。』ことと、主イエスが十字架上で語られた言葉、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』を中心に見て行きたいと思います。主イエスが十字架上で語った7つの言葉のうちの1つだけを、福音記者マタイは記しているのです。

闇が全地をおおった

 さて、本日の聖書の箇所のマタイによる福音書27章45節には、『さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。』とあります。『12時から午後3時まで』の3時間、闇が全地を覆ったことが記されています。十字架上の前半の3時間は取り巻く人々によって、主イエスはののしられましたが、後半の3時間は、神様によって闇の中に主イエスは据え置かれたのです。3時間の『3』という数と、『暗くなり、』という言葉、そしてそれが『全地』に及んだという出来事。そのあとに、主イエスの嘆きの極みの叫びが静寂を突き破ったというのです。

 聖書に於いては、『3』という数字は、神様のご計画において、なくてはならない必然的で、確約的な出来事を意味するのです。例えば、主イエスが『3日目によみがえらなければならない』と言っている復活の出来事が必然的な出来事なのだと言うのです。『3』という数字が、神様のご計画の中に於いて、必然的な出来事を物語っているのです。今回の『昼の12時から、午後3時まで』と表現された『3時間』の『3』も神様のご計画にある必然性を示しているのです。そこでは『全地は暗くなり、それが三時まで続いた。』とありますが、それは神様の業(わざ)が現われるためなのだと思います。ホセア書の6章の1〜2節を見ますと、『「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし//我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし//三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。』とあります。このホセア書の箇所が語っているのは、主イエスの再臨の3日前に、イスラエルの民は、主イエスを拒否したことが、艱難の原因であることに気づくのだと言うのです。そして、悔い改めの祈りを献げるようになるのだと言うのです。そして、悔い改めの呼びかけがあってからの2日間は、リバイバルの時なのです。そして、3日目にイスラエルの民族的救いが成就するというのです。

 主イエス・キリストが十字架にかけられた午前9時から正午までは、主イエスに対する嘲りとののしりのことばが浴びせられました。ところが、正午になるとあたりが急に真っ暗になり、全地は3時間にわたって暗くなったのです。新共同訳聖書では、『暗くなり、』と訳されていますが、ギリシア語の原文を見ますと、『暗闇』を意味する『スコトス』という言葉と、『下りた』ということを意味する『エゲネト』という言葉が使われています。新約聖書では、『暗闇』を意味する『スコトス』という言葉は、これは光が不在の物理的に暗くなったこと以上の意味で用いられ、罪や無知、神様の恵みから離れた霊的な状態を指す言葉として用いられる言葉なのです。従って、本日の聖書の箇所の『全地は暗くなり、』と記されているのは、信仰で克服すべき、罪に起因する悲惨な『暗闇』が全地をおおったことを意味しているのだと思います。

 聖書において、『闇』という言葉が最初に出てくるのは、創世記1章2節で、『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。』とあります。『闇』は『光』と対立する概念です。創世記の『光』は光源としての光でなく、『神様のご計画とみこころ、みむねと目的』を意味しています。ヨハネによる福音書9章1節には、『生まれつき目の見えない人』が登場しますが、この『生まれつき目の見えない人』は、まさに『闇』そのものです。しかし、彼がそのように生まれたのは、『神の業がこの人に現わされるためである』と、主イエスは語られました。同様に、全地が『闇』でおおわれたのは、神様の業が全地に及ぶことを啓示する終末的預言なのだと思います。それ故、神様がそのようにされたのだと思います。

 主イエスが『死に向かっている姿』と『闇が全地をおおっている』光景とが重なっています。これは、『終わりの日』、『主の日』における闇の支配を啓示しているのですが、出エジプト記ではその『型』となる出来事が起きています。出エジプト記10章22〜23節には、『モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。』とあります。この出エジプト記の記事は、神の民が救い主メシアによって解放される日が来る前に、必ず闇の支配が地を覆うことが起こるということを預言的に啓示しているのです。多くの人々は、将来に何らかの希望を持っています。希望がなければ、人は生きることができないからです。しかし、聖書によれば、これからの時代がますます明るくなるような時代にはなって行かないことを教えています。むしろその反対で、特に、主イエス・キリストの再臨が近くなればなるほど、未曾有の苦難が起こるということを聖書は告げています。黄昏を越えて、夕から夜中の闇に向かっていく時代になるからだと言うのです。ですから、神様以外に望みを置いているとすれば、その希望は必ず失望に終わるのです。ところが、出エジプト記が伝えているのは、『人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。』とありますように、未曾有の『闇』が支配したとしても、神様を信じる者たちには失われることのない『希望の光』があるのだと思います。

 主イエスが⼗字架に架けられている、その日の正午から3時間『闇』が全地を覆ったことは、キリストの再臨の前に必ず起こらなければならない必然的かつ確約的な出来事なのだと思います。それが『3』という数に表されているのです。

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

 次に、本日の聖書の箇所の27章46節を見ますと、『三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』とあります。現代の日本に生きる私たちは、主イエスが十字架上で、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と叫んだと聞きますと、どういうことと思われる方が多いかと思います。しかし、主イエスの十字架に、間近なところで目撃したユダヤ人は、主イエスのこの叫びは、詩編22篇の言葉が語られていると、直ぐに分かったかと思います。詩編22篇の2節は、新共同訳聖書では『わたしの神よ、わたしの神よ//なぜわたしをお見捨てになるのか。』という言葉に続いて、『なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず//呻きも言葉も聞いてくださらないのか。』と訳されています。原文では、『私の救いから遠く』、『私の叫びのことば』という構文になっています。動詞は一つだけで、『あなたは私を見捨てた』を意味する『アザヴターニー』しかないので、後の名詞の部分の意味が通じるように意訳されています。ここで重要なのは『なぜ、どうして』を意味する『ラーマー』という言葉があることです。この言葉がある限り、神様に対する信頼の糸は切れてはいないことが示されています。信頼の糸が切れる時には、この言葉は出て来ないのです。とはいえ、ここには神様から見捨てられた救い主メシアが示されています。

 詩編の中には、苦難の詩編と呼ばれるものが4つあります。詩編16篇、22篇、40篇、69篇です。その中でも、この詩編22篇は、新約聖書に最も多く引用されている詩編で、メシアの全体像を知る上できわめて重要な詩篇であると思います。ここに詠まれた苦難の体験は、ダビデ自身のものですが、同時に、メシアの苦難の預言ともなっています。それゆえ、『十字架の詩篇』と呼ばれており、時間をかけて学ぶべき価値のある詩編だと言うことができます。この詩編の中には、主イエスの生涯、そして十字架による受難(身代わりの死)と復活、および主イエスが王として再臨して実現される千年王国(メシア王国)における数々のことが預言され、啓示されているからです。

 この詩編22篇全体において、神様に見捨てられた主イエスと、神様のみこころを完成される主イエスを同時に見ることができるのです。主イエスがこの詩編の冒頭の言葉を叫んだということは、この詩編の全体を知って叫び、そして祈っているということなのです。これほどはっきりと二つに分かれている詩篇はないと思います。2節~21節の前半の内容は嘆きであり、22節~32節の後半の内容は讃美と感謝となっているのです。この連結部分は22節の後半で、『アニーターニー』という言葉が新共同訳聖書(1991年)では、『わたしに答えてください。』と訳していますが、新しい共同訳聖書(2018年)では、『あなたは私に答えてくださった』と訳しているのです。そして、英語訳聖書(NKJ)でも、この個所を『You have answered Me=あなたは答えて下さった』と訳しているのです。2節では、『なぜわたしをお見捨てになるのか。』と訳された、『アザヴターニー』という言葉となっているのに、22節では、『あなたは私に答えてくださった』という意味の『アニーターニー』という言葉となっているのです。この言葉を契機に暗闇に光が差し込み、嘆きから賛美に転換するのです。まさに『夕があり、朝があった』ということなのです。

 『暁の雌鹿(めじか)』の調べに合わせて歌われる『わたしの神よ、わたしの神よ//なぜわたしをお見捨てになるのか。』という言葉で始まる詩編22篇は、主イエスの十字架の姿を想起させます。それは『美しい子鹿』を産むための『雌鹿の苦しみの叫び』なのです。『暁』と訳された定冠詞付きの『ハッシャハル』は、『メシアにある希望の夜明け』を意味しています。黄昏ではなく、夜明けをもたらすためにメシアである神様のひとり子が私たちの身代わりとして神様に捨てられたのです。その理由は、罪をもたらせた『最初のアダム』を終結させ、主イエス・キリストという『最後のアダム』(第二の人)による新しい人としての創造がもたらされるためなのだと思います。主イエスはゲツセマネの園において、『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』と三度、祈られて、それから敢然と十字架に向かわれました。その最大の苦しみがこの『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という叫びであったと思います。

 それでは、十字架の上で主イエス・キリストが詩編22篇を叫ばれたことを伝える本日の聖書の箇所が私たちに語りかける新しい生き方とはどのようなものかを次に考えてみたいと思います。

すべては恵みの呼吸

 本日のお話しの始めに倉敷市にある玉島教会の牧師であった河野進先生の詩をご紹介しました。『玉島の良寛さま』と呼ばれた河野進牧師が、ノートルダム清心学園で理事長を勤めていた渡辺和子先生に、お菓子箱の裏板に直筆で書いて贈った詩に、『すべては恵みの呼吸』という詩があります。次のような詩です。

 

すべては恵みの呼吸        河野進

 

天の父さま

どんな不幸を吸っても

はくいきは

感謝でありますように

すべては恵みの

呼吸ですから

 

 お菓子箱の裏板に直筆で書かれたこの詩を、渡辺和子先生は巣立って行く学生達への餞の言葉として、ノートルダム清心学園の正面玄関に飾っていたそうです。そして、この詩について、渡辺和子先生は、次のように語っています。

 

 私どもの大学の正面玄関に、プロテスタントの牧師、河野進さんが書いてくださった、一つの小さな詩がかけられております。

 

天の父さま

どんな不幸を吸っても

吐く息は感謝でありますように

すべては恵みの呼吸ですから

 

 学生でいるあいだは不幸の息をあまり吸わせないように、先生たちが配慮をいたします。しかしながら、卒業をして、その正面玄関を背にして出ていけば、その先にある職場、結婚生活、社会には、往々にして思いもかけないような不幸がたくさん漂っている空気が待ち構えています。生きていくためには、その空気を吸わなければなりません。

 思わぬ不幸を吸い込んでしまったとしても、それをそのままで、吐き出す人になってほしくない。さらに増幅して、大きな不幸にしてほかの人に吐きかけるような人になってほしくない。

 それを感謝に変えて吐き出す人、それがある意味で本当に強い人であり、本当に優しい人だと思います。ほかの人が吸う空気を汚さない、その強さと、ほかの人を思いやる優しさを学生たちに身につけて欲しいと願っています。しかしながら、それは決してやさしいことではありません。私たちが生きていくうえで、この不幸の息をどうしても吸い込んでしまうとしたら、人のせいにしないで、むしろその不幸を自分の中で感謝に変えていく。

 そしてそれは、真珠がつくられていくのと同じプロセスだと私は思うのです。真珠貝というものは、自分にとってあまり望ましくない異物が入ってきたときに、それをいやがって吐き出してしまわないで、その異物の刺激により分泌される液で、異物そのものを軟らかく、そして固く包んでいきます。それを繰り返し大きくなったものが、真珠になるのです。同じように、私も自分の生活の中に入り込んでくる異物、不幸を受けとめて、私しかつくれない真珠を自分の一生涯をかけてつくっていきたいと思っています。苦しいこと、いやなこと、私たちにとってマイナスの価値しか持たないもの、それは必ずしも悪いものではありません。それがなかったら真珠がつくれないのです。

 それがなかったら感謝の息が吐き出せないのです。

 そう思うときに、もしかすると、私たちの生活の中にいやなもの、苦しいこと、そういうものがあっても、それを受けとめて自分なりに、自分しかつくれない真珠に変えていける、そのことを、ありがたいと思って生きなければいけないのかもしれないと思います。

 毎日の忙しい生活の中で、私たちが木を切る手を休めて斧を見つめるということは、ふだん気づかない、しかしながら身の回りにたくさん転がっているありがたいものをありがたいと気づくゆとりを持つ、ということかもしれないと思います。

 詩編22篇の作者は、絶望の中でも、『わたしの神よ、わたしの神よ』と叫び、嘆きから賛美の祈りを献げました。主イエス・キリストもまた、十字架に架けられている中で、その詩編22篇の叫びを祈られ、『3日目』に復活されました。主イエスが十字架で捧げられた詩編22篇の祈りは、『世の悲しみ』を、『御心にかなった悲しみ』に変える力を持つのだと思います。沈黙する神に祈り続けた詩人は、『あなたは答えて下さった』と告白しました。私たちは、主イエス・キリストの十字架での死と復活によって与えられる、大きな恵みを信じ、様々な苦難や不幸に見舞われたときも、それをクッと吸って、でも、吐く時には感謝にして吐き出して行きたいと思います。

  それでは、お祈り致します。