小倉日明教会

『力ではなく平和を!』

マタイによる福音書 5章 1〜10節

2026年8月9日 聖霊降臨節第12主日礼拝

マタイによる福音書 5章 1〜10節

『力ではなく平和を!』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                  沖村 裕史 牧師

■平和を求める叫び

 一三年前まで、広島、ヒロシマに暮らしていました。当時仕えていた教会には、礼拝堂の正面に真っ黒に焦げた十字架が掲げられていました。

 今から八一年前の八月六日、月曜日朝八時一五分、一発の爆弾が広島の上に投下されました。リトルボーイと名付けられた原子爆弾でした。リトルボーイは投下からわずか四三秒後、地上六〇〇メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏一〇〇万度を超え、一秒後には半径二〇〇メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は三〇〇〇から四〇〇〇度にも達しました。

 爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら三つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。爆心地から数百メートルの距離にあった教会も、外壁の一部を残して崩れ去りました。その瓦礫(がれき)の中から屋根を支えていた梁(はり)の一部が見つかりました。焼き焦げていました。その梁を使って作られたのが、真っ黒に焦げた十字架でした。

 原爆による被害の特徴は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、それも無差別に引き起こされたこと、放射線による障がいがその後も長期間にわたって人々を苦しめたことにあります。写真誌『教会八〇年の歩み』に掲載されている年表の一九四五年にこう記されています。

 「原爆降下。悉(ことごと)く灰となる。会員中死亡せる者七五名。他は悉く罹災、他地方に四散、残される者三五名。牧師一家の避難先を仮教会とし、クリスマスから日曜礼拝再開。」

 当時の教会員たちは、被爆の記憶が呼び起こされる真っ黒に焼け焦げた、その十字架を掲げることを嫌いました。それでもなお、いえ、だからこそ、被爆から五〇年が経った一九九五年、被爆の教会は平和を祈り求める切なる願いから、真っ黒に焼け焦げたこの十字架を礼拝堂に掲げることにしたのでした。

 被爆当時の牧師、谷本清先生の著書にこんな言葉が綴られています。

 「一日、私は友人達の安否を尋ねて、一望千里の焼野原を歩き廻った。タ方、灰と汗にまみれた足をひきづりつつ、饒津(にぎつ)神社の境内を迂回して避難先に帰る途中、バッタリ弁護士高橋武夫氏に出会った。家族の安否を尋ねると、氏は口数少なく語り始めた。氏夫妻と老人は山中の家に疎開していたので無事だったが、三人の娘は鉄砲町の本宅にいたため尊い犠牲となった。今、高橋氏は自宅の燃跡(やけあと)から、一年前結婚して妊娠中だった長女ルリ子と、女学校を出て家事の手伝いをしていた次子ベニ子の二人のお骨を拾って帰る途中である。女学生だったネム子は、朝早く勤労奉仕に出たきり行方不明である。『今だに帰らぬ処を見れば到底だめだろう。』と父は暗澹たる口調で言った。一挙にして三人の美しい娘を失った高橋氏は、しみじみと次のような言葉を残した。

 『人間は、何という恐ろしい武器を発明したのであろう!こんなものを発明しうる人間にして、どうしてこんな馬鹿らしい「戦争」を未然に防止することが出来なかったのであろうか。』」

 最愛の娘を三人とも一度に失った悲しみに、胸が張り裂け、血が噴き出しそうです。そのとき、思わず叫ぶようにした口から洩れ出た、「人間は、何という恐ろしい武器を発明したのであろう!こんなものを発明しうる人間にして、どうしてこんな馬鹿らしい『戦争』を未然に防止することが出来なかったのであろうか」という言葉が、黒焦げの十字架を掲げた教会の切なる祈り、そして何よりも、今日の聖書の言葉と重なるようにして、わたしたちの心に強く迫ってきます。

 「彼らは剣を打ち直して鋤とし

             槍を打ち直して鎌とする。

 国は国に向かって剣を上げず、

             もはや戦うことを学ばない」

                        (イザヤ二・四)

■「剣を打ち直して鋤とする」

 「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。

 国は国に向かって剣を上げず、/もはや戦うことを学ばない」

 これは終わりの時、神の国が完成の時に、神がもたらしてくださる「世界の平和」を言い表した有名な言葉です。その時には、もはや剣とか槍という武器は打ち捨てられる。そして、そうした武器から鋤や鎌といった農作業のための道具が生産されると言います。

 言い換えれば、神の国、神の支配は、人間同士が相争う状態の終わりを意味し、それに代わって、人間が汗を流して働き、労苦と喜びを共にしながら、豊かな収穫にあずかる世界が実現するのだ、ということです。

 イザヤ書はこうした終わりの時への期待を、今から二七〇〇年も前に語りましたが、二七〇〇年が経った現代でも、この「剣と鋤」をめぐる問題には、さほど大きな変化があったようには見えません。

 いえそれどころか、よく知られているように第二次世界大戦の末期、物資の不足に悩んでいた日本では、武器を製造するために一般家庭の鍋や釜といったものまで集められ、お寺からはゴーンとつくあの鐘を、キリスト教会でも屋根の十字架の塔の中にある鐘を差し出すよう求められました。イザヤの預言とは正反対のことが、つい八〇年ほど前の日本では現実に起こっていたわけです。

 それどころか、わたしたちが属する日本基督教団は、一九四三年に「軍用機の献納」を決議し、教団を挙げて大運動を繰り広げたという記録が残されています。結局、陸海軍にそれぞれ二機ずつ飛行機を献げたわけですが、「祈りを武器に打ちかえる」ような現実が実際にあったことを、わたしたちは、わたしたち自身の過去の事実として覚えていなければなりません。

 人間はこのように、いざとなれば「鋤を剣に打ちかえる」ことを平気でする生き物ですが、反対に、たとえ余裕があっても「剣を鋤に打ちかえる」ということには、なかなか思い至らない面を持っているように思います。

 それは見方を変えれば、弱肉強食という動物の「本能」に身を委ねるのは簡単だけれども、「理性」に信頼するのは難しいということを意味しているのかもしれません。世界の現実として、日々わたしたちの耳や目に飛び込んでくる戦争、紛争、巨大な暴力の数々というのは、人間が今もってなお「動物の本能」を克服していない事実を証明しています。暴力と理性、戦争と平和をめぐる問題に関して、人間は今なお、完全な「進化」を遂げるに至っていないのです。

 イザヤの語った「剣を鋤に打ちかえる」という預言はまだ実現していません。それどころか、「剣によって生きることができる」という「力の信仰」のほうが、イザヤの時代においても現代においても、主流とさえいえる世界が続いています。しかし、そのようなものは「動物でも持ちうる信仰」なのだということに、わたしたちは気づかなければなりません。

■「剣を取る者は皆、剣で滅びる」

 イエス・キリストは「山上の説教」で、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ五・九)と言われました。また、あの十字架の出来事の直前、オリーヴ山にあるゲッセマネの園で、自分を捕らえに来た人々からの暴力にさらされながら、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(二六・五二)と諭し、ペトロたち、弟子が武器を使うことをやめさせました。

 イエスさまの生きていた時代も、イザヤの時代や現代と同じく、力が優先される時代でした。古代、東方の大帝国の脅威にさらされていたイザヤの時代、また地中海世界を制圧した大ローマ帝国の支配下にあったイエス・キリストの時代、そして大国のアメリカや中国、ロシアなどの突出した軍事力のもとに置かれている現代の世界。これらは皆、「力の信仰」のもとにある世界という点で共通しているのです。

 そのような世界に生きながら、力や武器に頼って生きる、そんな生き方には限界があること、そしてそれはついには真の平和をもたらすことはないのだ、とイエスさまは教えられました。それは、イザヤの伝統を受け継ぐ教えであり、人間の歴史にあっては「変わり者」の考え方であった、と言えるかもしれません。あるいは、先ほど使った「進化」の比喩でいえば、「突然変異」のようなものだったと言えるのかもしれません。

 しかし科学や歴史の研究は時として、こうした「変わり者」「突然変異」から生まれたものによって、新たな展望や進歩が切り開かれてきた、という多くの事実を示唆しています。そして聖書をよく見ていくと、このような「変わり者」や「突然変異」の中には、イザヤだけでなく、アモスやホセア、ミカといった人々も含まれていたことが分かります。イエス・キリストもまた、こうした一連の系譜の中から登場してきた存在だったとも言えるでしょう。

 残念ながら、その後の歴史に見るキリスト教の歩みは、必ずしもこうした「変わり者」や「突然変異」の系譜を引き継いで、平和を創り出すために進んできたと言えるものではありませんでした。かえって、信仰の名によって戦争を引き起こしたり、キリストの名によって暴力を正当化したりすることが何度も起こったことを、教会の歴史は教えています。

 教会の中でさえ、「剣によって生きることができる」という「力の信仰」が深く浸透していたと言えるでしょう。建前としては「剣を鋤に打ちかえる」という教えや「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という教えを語り継ぎながら、しかし実際には、実現する可能性の低い、危なげな理想としてそれを受け止めてきたような面があったように思います。

 しかし、今日のように「剣」の機能が極限まで「進化」してしまった時代、核兵器をはじめとする、この地球全体を何度も繰り返し破壊しうる膨大な量の武器に囲まれている時代、わたしたちすべての者が滅びの淵にまで達してしまっているかのようなこの時代であればこそ、むしろイザヤの預言、イエス・キリストの言葉は、祈りは、もっとも現実的な指針として、わたしたちが進むべき方向を指し示しているのではないでしょうか。

■平和への進化

 「力の信仰」ではない新しい信仰が必要です。

 力と力の均衡や、恐怖による平和といったものではなく、そうしたものを抜け出た新しい平和、新しい世界の枠組みへと、本当の意味で「進化」しなければならない時代に、わたしたちは直面しています。

 それは決して、一部の宗教家や思想家の理想・夢想といったようなものではなく、もはやそれが実現しないなら、わたしたち人間の未来そのものが失われてしまいかねないような、わたしたちみんなの生き残りを賭けた、この上もなく現実的な課題なのです。

 パウロは問題を抱えていたガラテヤの教会に対して、こんな言葉を書き送りました。

 「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」(ガラテヤ五・一五)

 確かに、ここでパウロが問題にしているのは、一つの教会の交わりにかかわる問題であって、国家や世界といった次元の問題ではありません。しかし、たとえそうであっても、ここで彼が言っていることは、わたしたちが今まで見てきた問題に通じる、大切な示唆であると言えるでしょう。

 自分たちの子どもでさえも噛み殺してしまうワニのような動物のあり方をしていれば、わたしたちは遅かれ早かれ滅びてしまうことでしょう。わたしたちの中から「弱肉強食の本能」、「力の信仰」が完全に消えてしまうということはないでしょう。今日も、また明日も、自分の中にそうしたおぞましい部分、恐ろしい部分を抱えて生きていることを、わたしたちはつねに覚えていなければなりません。

 人間が動物と異なるのは、自分がそのようなおぞましさや恐ろしさを抱え持っていることを、わたしたち自身が知っているという、その一点にあるのです。そのような弱さや愚かさを自覚しながら、しかしわたしたちは、イザヤの預言、イエス・キリストの言葉を受け継ぐ者として、それを信じ、証しし、この世界に告げる宣教のみ業を委ねられているのです。

 これらのことを覚えながら、わたしたちは日々自らを顧みつつ、共に平和を創り出す主のみ業に参与するものでありたいと願う次第です。