【奨 励】 役員 川辺 正直
■井伏鱒二作、『山椒魚』
おはようございます。井伏鱒二さんという広島県出身の作家がいます。井伏鱒二さんは、1912年、旧制広島県立福山中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)に進学するのです。県立福山中学校の庭には池があり、当時、2匹の山椒魚が飼われていて、これがのちにデビュー作として発表され、井伏鱒二さんが世に知られることとなる『山椒魚』に結びつくこととなるのです。井伏鱒二の『山椒魚』は、教科書にも載っておりましたので、ご存じの方も多いかと思います。次のようなストーリーなのです。
ある時一匹の山椒魚が、川の洞穴である岩屋を見つけて、そこでしばらく暮らしているうちに、体が成長して穴から出られなくなってしまいます。その岩屋の中で動こうにも、体を前後左右に動かせるくらいの空間しかありませんでした。山椒魚は涙を流し、自身の境遇を神様に訴えました。
そんな時に岩屋の外で、勢いよく動き回るカエルがいました。山椒魚はそのカエルを感動の瞳で眺めますが、むしろ目を背けた方が良い事に気がつき、目を閉じます。活発なカエルに対して、自分は岩屋から出ることが出来ない。自分が悲しく、ブリキの切屑にも思えてきました。しかしふと、目を閉じればそこに際限のない暗闇が広がる事に気づいたのです。とはいえ、現実は岩屋のままなのです。山椒魚は悲嘆にくれました。
ある日、カエルが岩屋にまぎれこんで来ました。山椒魚は出口を塞ぎ、カエルを閉じ込めます。カエルは慌てふためきます。山椒魚は相手の動物を、自分と同じ状態に置くことのできるのが痛快であったのです。『一生涯ここに閉じ込めてやる!』カエルは岩屋の凹みに入り、山椒魚との口論が始まるのです。それは1年もの間続き、さらに1年が経つと、お互いに黙り続けてしまいました。お互いに自分の嘆息が相手に聞こえない様に注意していましたが、ある時カエルの嘆息が山椒魚に聞こえてしまいます。
山椒魚がこれを聞きのがす通りはなかったのです。山椒魚は上の方を見上げ、かつ友情を瞳にこめて尋ねるのです。
『お前は、さっき大きな息をしたろう?』
相手は自分を鞭撻して答えます。
『それがどうした?』
『そんな返辞をするな。もう、そこから降りて来てもよろしい』
『空腹で動けない』
『それでは、もう駄目なようか?』
相手は答えた。
『もう駄目なようだ」
よほど暫くしてから山椒魚はたずねた。
『お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?』
相手は極めて遠慮がちに答えた。
『今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ』
この作品は、ここで終わるのです。自分のせいで死んでいこうとしている蛙が、実は少しも恨みを抱いていないということを知ったとき、山椒魚はつくづく自分の罪深さにおののくのですが、いまさら後悔しても取り返しがつかない。何の解決もつかないままに、突然終わる小説なのです。
私たちは人生の中で、自分の罪に震えるとき、神様は私たちのことをどのように見ておられるのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■パウロとユダヤ人との論争
さて、現在、連続して取り上げておりますローマの信徒への手紙は、今日から3章に入ります。と言いましても、今日の聖書の箇所から新しい話が始まるのではありません。以前もお話しましたが、聖書の章とか節は、後から便宜的に付けられたものです。この手紙を書いたパウロ自身が、『ここから3章』と記したわけではないのです。本日の聖書の箇所も、これまで読んできた2章と連続しているのです。前回までの2章でパウロは、神様の前では、ユダヤ人とギリシア人の区別はない、ということをしつこい程に語ってきました。
この手紙の中でギリシア人というのは、ユダヤ人以外の全ての人々、つまり異邦人の代表のことです。ユダヤ人たちは、世界中の人々を、自分たちユダヤ人とそれ以外の異邦人とに分けて考えていました。そして、自分たちユダヤ人だけが、神様に選ばれた民、神様の特別な恵みを受けている民だと考えていたのです。その神様の選びのしるしが、ユダヤ人たちに与えられている神様の言葉である律法であり、ユダヤ人たちの身体に受けている割礼であったのです。ユダヤ人たちは、自分たちにこれらのものが与えられていることを誇りとし、そのことによって自分たちには神様のみ心が知らされており、本当の知識と真理をわきまえていると考え、律法と割礼が与えられていない異邦人のことを、闇の中にいる者、無知な者として軽蔑し、神様のみ心をわきまえない罪人として裁いていたのです。
この手紙を書いているパウロは、神様の前では、ユダヤ人も異邦人と同じ罪ある人間であり、神様の怒りの下にあると語り、律法を持ち、割礼を受けているからといって、異邦人に対して誇ったり見下したりすることはできない、と語ったのです。
このパウロが語っていることを聞いたユダヤ人のほとんどは腹を立てたことと思います。ユダヤ人たちも罪人だといい、律法と割礼を儀式的に守っていること自体には何の価値がないというというパウロの主張に、ユダヤ人たちは、じゃあユダヤ人と異邦人の間には、何の違いもなくて、ユダヤ人には何の特権もないのかと腹を立てたことと思います。それに対して、本日の聖書の箇所で、パウロは、いやいやちょっと待って、ユダヤ人には特権があるのだよねという話をするのです。ユダヤ人と異邦人は同じ土台の上に立っています。どこが同じ土台なのかと言いますと、共に神様の裁きを受けるということなのです。ユダヤ人も異邦人も、共に救いの方法は同じです。信仰により、神様の恵みによって救われるのです。ここは全く同じなのです。ユダヤ人にはユダヤ人の救われる方法があって、異邦人には異邦人の救われる方法があるというのではないのです。
多くのユダヤ人は、今でも自分たちはユダヤ教で救われると考えています。しかし、聖書はユダヤ人であっても、異邦人であっても、共に神様の裁きを受けるし、共に救われる方法は同じだと語っているのです。救われる方法は、信仰により、恵みによるのだということです。それでも、パウロはユダヤ人には特権が与えられているというのです。本日の聖書の箇所で、パウロは、目の前にユダヤ人の読者を想定して、その人たちが投げかけてくる質問を自分で言って、その質問に答えているのです。つまりパウロはここで、腹話術的対話という表現方法を使っているのです。腹話術的対話というのは、腹話術師が人形と掛け合いを行うように、一人の人間の内面や異なる視点の間で行われる、あるいは二者間で一方が他方を代弁するような特殊な対話の形式や、心理学・文学における『他者を装った自己対話』を指す表現方法のことです。もう少し描写的に説明すれば、パウロがユダヤ人人形を抱えていて、キュッキュッ、キュッキュッって言わせて、ユダヤ人人形にパウロがこれはなって答えているようなものだと考えれば良いかと思います。
本日の聖書の箇所では、3つの対話があるのです。質問が3つ出てきて、それに対してパウロは丁寧に答えています。では、1番目の質問を見てみたいと思います。
■ユダヤ人であることの意味
本日の聖書の箇所の1節を見ますと、『では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。』とあります。これが1番目の質問なのです。つまり、割礼には何の意味もないのか。意味があるとしたら何なのかという質問です。それに対して、パウロは何と答えているのでしょうか。本日の聖書の箇所の2節を見ますと、『それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。』とあります。すごいことをパウロは言っているのです。パウロは、『それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。』と言っているのです。ところが、今日の聖書の箇所では、パウロは詳しく論じてないのです。あらゆる面からいろいろ指摘できるということの内容は、どこに行ったら論じられるかと言いますと、この手紙の9章〜11章で、どっさりと出てくるのです。本日の聖書の箇所では、パウロは『まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。』ということだけを語っています。『神の言葉をゆだねられた』というのは、神様の啓示のことです。これは旧約聖書のことです。旧約聖書がユダヤ人に委ねられている、このような特権があるかと、パウロは言っているのです。昔も今もそうだと思います。ユダヤ人は神様の啓示を聞いた唯一の民なのです。聖書の中に、日本人が聞いたと、聖書に記してある箇所はないのです。ユダヤ人に神様の言葉が委ねられたのです。ユダヤ人は神様の啓示を聞いたのです。しかも、聞いた神様の啓示を旧約聖書という形で、丹念に書き記したのです。そして、原本はそのうちなくなっていくのですが、失くなる前に、原本を書き移したのです。それを写本と言うのです。写本というのは、使っているうちに、くたびれてくるのです。使っているうちに、使えなくなくなる前に、また次の写本を作るのです。そういう気の遠くなるような作業を、現在も続けているのです。ですから、イスラエルのユダヤ人の中には、聖書の専門家の書記という人がいるのです。ユダヤ人はまさに聖書の民だと言うことができると思います。神様の啓示が委ねられている。ものすごい特権があるのだと、パウロはここで語っているわけなのです。
■決してそうではない
次に、2つ目の質問を見てみたいと思います。本日の聖書の箇所の3節を見ますと、『それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。』とあります。この質問は、ユダヤ人に対する約束は取り去られるのかという質問なのです。ユダヤ人が罪人だとしたら、ユダヤ人は神様の約束から切り離されるのかという質問です。罪のゆえにユダヤ人は選びの民としての特権を失ったのかという質問です。新約聖書を見ますと、ユダヤ人の大半が主イエス・キリストを拒否したということが分かります。それでは、ユダヤ人はそのために呪われ、今や神様の約束からは見放されてしまったと考えるのは、正しいことでしょうか。ところが、ユダヤ人は罪を犯したために、神様から見放された、つまり神様の約束は取り去られたと考える神学者が多いのです。それを置換神学というのです。つまり、ユダヤ人は主イエス・キリストを拒否したために、彼らに与えられていた約束は取り去られ、教会が霊的なイスラエルとなったというのが、今日、多くの神学校で教えられる置換神学の立場なのです。パウロは何と答えているのでしょうか。
本日の聖書の箇所の4節を見ますと、『決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。』とあります。これがパウロの答えなのです。4節の最初に何と言っているのかと言いますと、『決してそうではない。』と言っているのです。ギリシャ語の原文では、『決して~ことはない』という否定の離接助詞『メイ』と『〇〇はあり得ます』という意味の動詞『ゲノイト』という言葉を合わせた、一番強い否定の『メイ・ゲノイト』という言葉が使われているのです。この『メイ・ゲノイト』という慣用句は、このローマの信徒への手紙やギリシャ語の古典には、よく用いられる『断じてそんなことはない』という意味の表現なのです。パウロが言っていることを、もう少し分かりやすく言いますと、『もし神様の約束が取り去られたって、こんなことありえない。もしこれが真実だったら、逆立ちしてエルサレム神殿の廻りを走ってやるよ』と言っているようなものなのです。ここはそういう勢いなのです。絶対にない。ありえないよとパウロは語っているのです。
なぜかと言いますと、神様は真実な方であるから、神様の約束は変わらないのです。神様は裁かれるけれども、それは正しい裁きなのです。しかも、神様の約束は変わらないのです。そこで、パウロが4節で引用している聖句は、ユダヤ人が目をつぶっていても直ぐに分かる聖句なのです。この聖句は詩編51篇6節なのです。この聖句はダビデが部下であるウリヤの妻バト・シェバとの罪を犯して、神様の前に告白して、罪許された時の言葉なのです。詩編51篇6節を見ますと、『あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。』とあります。神様はユダヤ人の罪を裁きます。しかし、それは神様の清い裁きであり、当然のことなのだというのです。ダビデは自らの罪を告白したときに、神様の裁きをそのように受け取ったのです。だからといって、イスラエルに対する約束が取り去られるわけではないというのです。神様は真実な方なのだから、人がすべて偽り者であったとしても、神様はご自分が約束されたことを違えることはないと、パウロはここで言っているのです。
■人間の不義が神の義を明らかにする?
次に、本日の聖書の箇所の3つ目の質問です。3章5節を見ますと、『しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。』とあります。これだけを読んだら、理解するのは難しいのですが、何を言っているかといいますと、ここまでは罪を犯すことによって、神様の計画が前進するという論理です。それでは、神様は自分の計画が進むのだから、どうして罪を裁くことができるのでしょうかと言っているのです。
この3つ目の質問に対するパウロの答えはどのようなものなのでしょうか。6〜8節を見ますと、『決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。』とあります。パウロは再び『決してそうではない。』という強い否定の言葉で、絶対にそんなことはありませんと語っているのです。もしそうだとしたら、神様は一体どのようにして世を裁かれるのでしょうか。私の偽りによって、神様の真理がますます明らかにされて、神様の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人として裁かれるのでしょうかということになると、パウロは語っているのです。『善が生じるために悪をしよう』と言っていると、私たちは中傷されているとパウロは語っているのです。ある人たちはそれがパウロたちの言葉だと言っていますが、このように論じる者たちが罰を受けるのは、当然なのだとパウロは言っているのです。
この3番目の質問は何かと言いますと、人間が罪を犯すことによって神様の義が現れるのならば、あるいは、神様の計画が前進するならば、神様はどうして罪を裁けるのだろう。それどころか罪を犯した方が、神の計画が前進するからいいじゃないか。だから神の計画が前進するために、みんなで罪を犯そうよという話になってしまうではないのかということを問うているのです。実はパウロの教えに関して、当時、ユダヤ人たちからそのような批判が広がっていたのです。善を表すために、悪をしようではないかと、パウロが言っているという批判です。パウロはとんでもないと言っているのです。パウロは、そのようなことは教えていないのです。キリストにある自由というのは、何をしてもいいという自由ではないのです。キリストにある自由というのは、愛を実践する自由なのです。ですから許され、自由にされたという言葉の意味を誤解してはいけないということを、パウロは語っているのです。
それでは、人間が犯す罪によっても揺らぐことのない、神様の約束と愛を実践する自由はなぜ存在しえるのかということを次に考えてみたいと思います。
■変えられた結末
本日のお話しの最初に、井伏鱒二さんの『山椒魚』という作品についてお話しました。井伏鱒二さんは、晩年の90歳近くになって、ご自分の全集を出すのです。その第一巻に、この『山椒魚』が掲載されているのです。ところがこの全集に収められた『山椒魚』では、ラストシーンが、何と書き換えられているのです。井伏鱒二さんは、この作品の末尾の蛙の死の直前の山椒魚と蛙の会話部分を全て削除したのです。この大幅な改稿は、多くの作家や評論家によって解釈が試みられると共に、愛読者から様々な批判を受け、作品とは一体だれのものなのかという論争を呼び起こしました。
『山椒魚』という作品で文壇デビューし、絶賛された井伏鱒二さんが、どうして晩年にこの作品の内容を大幅に書き換えてしまったのでしょうか。分野は異なりますが、同じように創作活動に携わるさだまさしさんは、どうしてもこのことを聞いておきたいと考えたのです。さだまさしさんの質問に対して、井伏鱒二さんの答えは単純なものでした。『だって、あれじゃ出れないじゃないか』というものだったのです。
さだまさしさんが、『いや出れないからこそ、山椒魚という作品に意味があるのじゃありませんか』と訊くと、井伏鱒二さんは、『え、君、出れなくていいのか、出れないなんてかわいそうじゃないか』と答えたというのです。なんと井伏鱒二さんは、70年前に自分が作った架空の主人公が、未解決のまま死んでいくのを忍びなく、とうとう岩屋から逃れ出ることも可能なストーリーに変えてしまったというのです。
私たち人間のことをよくご存知で、しかも、私たち人間を愛して止まない神様は、人間が犯した罪によって裁かれ、滅びてゆくことに忍びないのです。人間の罪に対する神様の怒りと、神様がご自分の約束にどこまでも揺らぐことがないという神様の真実とは、主イエス・キリストの十字架において結びつけられているのだと思います。私たちの不誠実、罪が、神様の救いの約束を無にしてしまわないために、主イエスは私たちの罪を全て背負って、十字架の死を遂げて下さったのです。私たちが受けるべき神様の怒り、裁きを、主イエスが代って受けて下さることによって、私たち人間に罪の赦しが与えられたのです。罪の赦しは抽象的な概念ではありません。そのことによって、神様の独り子が十字架に釘づけられ、血を流して死んで下さるという事実を伴っているのです。私たちのための主イエスが苦しみと死において、神様の真実が明らかにされているのです。主イエスの十字架における神様の真実を考えるとき、パウロが語るように、罪の赦しが救いなら罪を犯した方がよいなどというおかしな理屈が入り込む余地はないのだと思います。
私たちは、揺らぐことのない神様の約束と罪の赦しを信じて、主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
