小倉日明教会

『仕える者のようになりなさい』

ルカによる福音書 22章 24〜30節

午前10時30分〜

2025年3月30日(日)受難節第4主日礼拝

ルカによる福音書 22章 24〜30節

『仕える者のようになりなさい』

【奨励】 川辺 正直 役員

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌  17 聖なる主の美しさと 応答 起立
招   詞 詩編 122篇 8〜9節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 54 聖霊みちびく神のことばは 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】 応答 着席
聖   書

ルカによる福音書 22章 24〜30節

                                           (新約p.154)

啓示 着席
성  경 누가 복음 22장 24〜30절
New Testament The Gospel According to Luke 22:24-30
圣  经 路加福音 22章 24〜30段
讃 美 歌 120 主はわがかいぬし 応答 着席
奨   励

 『仕える者のようになりなさい』

          川辺 正直 役員

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 513 主は命を 応答 起立
祝   祷

平和の挨拶

司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。

会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【奨 励】                       役員 川辺 正直

ミイラ取りは何をした

 おはようございます。ある方の中学時代の思い出に次のようなものがありました。クラスに1人、不登校の生徒がいたのです。ある時、担任の先生が、その方を含む3人組に、『おい。明日の朝、あの不登校の子の家まで行って、声かけをしてやってくれないか』と頼んだのです。それで、次の日の朝、3人で彼の家に行くと、その不登校の生徒は、なんと嬉しそうに釣りをしに行こうとしていたのです。彼を訪ねて行った3人の生徒はどうしたでしょうか。何とその不登校の生徒と一緒に釣りに行ってしまったのです。驚いたのは担任の先生です。何の連絡もなく、不登校の生徒だけではなく、彼を訪ねた3人の生徒たちも来ていないのです。夕方になって、ようやく事情を知った先生は、3人の生徒たちをこっぴどく叱りつけたのです。『ミイラ取りが、ミイラになってどうするんだ』と言って、先生は3人の生徒たちを怒鳴りつけたのです。ところが、次の朝、何ヶ月も不登校だったその生徒は、何事もなかったかのように、自分で登校していたのです。そして、それ以来、1度も学校を休むことがなかったというのです。授業をさぼって、一緒に釣りに行ってしまうというのは、確かに褒められたことではないかと思います。しかし、不登校になっていた生徒は、釣りに付き合ってくれる友人が3人もいたのだということを知って、そのことに励ましを受けて、心が癒されて行く、大きなきっかけとなったというのです。

 愛を伝えるのに1番良い方法というのは、何でしょうか。一緒に時間を過ごすということなのです。寄り添うことだと言うのです。神様はなぜ人となって、この世界に来られたのでしょうか。それは、全ての人々に寄り添う神様であることを、主イエス・キリストの生涯を通して、人々に示すためであったと思うのです。

 前回の聖書の箇所で、自分自身が裏切る者かもしれないとは少しも考えず、自分以外の誰かが裏切ると決めつけて、あいつが裏切るのではないか、こいつが裏切るのではないかと使徒たちは議論したということをお話しました。本日の聖書の箇所では、前回の議論がどのように展開して行くのかということを考えながら、読んで行きたいと思います。

誰がいちばん偉いか議論する

 本日の聖書の箇所の24節を見ますと、『また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。』とあります。ここで、私たちは、『議論も起こった』と記されていることを見過ごしてはならないと思います。誰が主イエスを裏切るのかという議論に続いて、誰がいちばん偉いのかという議論『も』起こったのです。この2つの議論は、別々に起こったのではなくて、たて続けに起こった議論なのだということです。これらの議論が立て続けに起きたのは、決して不思議なことでも、おかしなことでもないと思います。誰が主イエスを裏切るのかという議論が、なぜ誰がいちばん偉いのかという議論へ向かったのだろうかと思うからです。きっと誰が裏切るのか、誰がいちばん悪いのか、あるいは誰がいちばん劣っているのかと言い争っている内に、それなら誰がいちばん偉いのか、誰がいちばん優れているのかと言い争うようになった。議論がすり替わった。そのようなことが起こったのではないでしょうか。弟子たちは、誰が裏切るのかを議論するだけでは飽き足らず、それとは反対の誰がいちばん偉いのかを議論し始めたのです。最後の晩餐の席です。主イエスが聖餐をお定めになって、第3の杯によって、新しい契約を結ばれた直後にこの議論をしているのです。夜が明けて、数時間後には、主イエスは十字架に架けられて、死なれようとしているという時に、この議論なのです。そのような時に弟子たちは自分たちの中でいちばん偉いのは誰かと言い争いました。しかも、この言い争いは弟子たちの中で、つまり仲間内で起こりました。これまで一緒に主イエスに従い、寝食を共にしてきた仲間の中で、誰が裏切るのか、誰がいちばん偉いのか、と言い争ったのです。

 ここで、24節の『議論』と訳されている言葉の直訳は『争いを好むこと』です。そして、『偉い』と訳されている言葉の直訳は、『大きい』となります。従って、この議論では、1番が誰かということが問題と言うよりは、比較級が用いられているので、『より大きいかどうか』ということが問題であったのです。さらに言えば、実際にその人が本当に器の大きな者かどうかということが問題ではなくて、より大きい者に見えるか/思えるか、ということが争いの焦点であったのです。

 なぜ、使徒たちはこの段階で、誰がいちばん偉いのかという議論をしているのでしょうか。それは、使徒たちはメシア的王国がすぐにでも来ると思い込んでいるのです。主イエスの十字架ではなくて、主イエスは王として、神の国を来たらせるのだということなのです。ですから、使徒たちの議論では、誰が1番偉いかということが問題となるのです。従って、ここでは抽象的に誰が1番偉い人間かということを議論しているのではなくて、誰が神の国で高い地位に就くのだろうかという議論をここでしているわけなのです。24節の使徒たちの議論というのは、人間の罪の特徴が余すことなく凝縮されていると思います。すべての人は、『より大きな者に見られたい』と思っています。そして、隣人を、自分よりも小さな者に見えるように貶めるべく、お互いに争いを起こすことを好むのです。器の小さい者同士の争いごとを、わたしたち人間は本能的に好んでいると言うことができると思います。普通であれば、最も親しい交わりの中にいる使徒たちのこのような議論を聞いていると、ちゃぶ台をひっくり返して、ブチ切れそうになるかと思いますが、主イエスの次の言葉は本当に優しいものであったのです。

あなたがたはそれではいけない

 本日の聖書の箇所の25〜26節見ると、『そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。』とあります。ここで、主イエスはこの世の価値観、この世の基準と信仰者の共同体、これから誕生する教会の価値観とは、本質的に異なっているのだよとおっしゃられたのです。この世の社会では、より大きな者が、より小さな者を支配します。主イエスと使徒たちが生きていた、当時の社会全体というのは、ローマ帝国の支配体制のことです。25節の主イエスの言葉の最初に、『異邦人の間では、』とありますが、ここでの『異邦人』という訳は、あまり良い訳とは言えないと思います。それは、ここでの『異邦人』というのは、『非ユダヤ人』の意味ではなく、諸国の王(バシレイス)に支配されている諸国の民が指し示されているからです。その諸国の王の中の王として、ローマ皇帝が君臨しているのです。ローマ皇帝は『より大きい王』として、当時の人々が知ることができる全世界の頂点にいたのです。そのローマ皇帝の姿は、ルカによる福音書14章7節以下に登場する宴席で上座に座って料理だけを食べている人と似ています。そして、宴席に参加することができる者たちは、お互いの位置を確かめ、宴会では、より皇帝の近くの席に着こうと狙って、競争するのです。

 ところが、皇帝の食卓は、宴席に着くことができない多くの奴隷たちによって支えられています。彼ら彼女たち奴隷は食卓の給仕をする時だけ登場しますが、決して共に食事をすることは許されません。とても、不平等な扱いです。しかし、だからといって不満が爆発するわけでもありません。それどころか、奴隷たちは皇帝を『守護者』(25節)と呼ぶのです。『守護者』というのは、日本語での日常会話で出てくることはありませんが、直訳すれば、『(自分たちに)善を施す者』なのです。英語訳聖書では、Benefit(利益)をもたらす者という意味の『Benefactors』という言葉が使われています。これは、貧しい人に良くして、その子たちを支えてくれる人のことを言うのです。しかし、当時のパレスチナの状況を見ると、王とか権威ある者とかは、ほとんど場合、人格が優れている訳ではないのです。むしろ、残酷な者たちがほとんどであったのです。ですから、そのような人格破壊者たちを『守護者』と呼んだとしても、それはどこまでも称号だけの話で、実質は伴っていないのです。それが、より大きな者が、より小さな者を支配するという、この世の価値観なのです。

 けれども、主イエスは、教会の中では、あるいは、神の国の中では、そうではないとおっしゃられるのです。いちばん偉い者は、身を低くして、仕える者のようになりなさい、それがいちばん偉いのだよと、主イエスは語られたのです。主イエスが語るこの価値観は、ああだったらいいなあというような、空想だけのものではないのです。主イエスの語る、『あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。』という言葉は、私たちの中で実質を伴ったものにならなくてはいけないと思います。主イエスのこの言葉を理解するためには、私たちは中東の文化的な背景を理解する必要があると思います。つまり、中東では、年齢差というのは、決定的な意味を持っているということなのです。ですから、たとえ最高に年を取っていても、1番若い者のように振る舞いなさい、偉くなりたければ、仕える者のようになりなさいということは、当時のユダヤの文脈で言えば、下僕となりなさいということなのです。そして、主イエスはそれが1番偉いのだと言うのです。それが、主イエスの評価だと言うのです。しかし、主イエスはご自身がなさらないことを、他の人に要求することはありません。

食事の席に着く人と給仕する者

 次に、本日の聖書の箇所の27節を見ますと、『食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。』とあります。この27節では、『仕える者』となることは、『食事の席に着く人』ではなく、『給仕する者』となることだと語られています。『食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか、食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である』。『食事の席に着く人』と『給仕する者』では、私たち人間の感覚では、当然、『食事の席に着く人』が偉いのです。給仕する人は食事の席を整え、料理を準備し、適切なタイミングで料理を運びます。心を配って準備し、もてなすのです。当時の異邦人の社会では、いいえ、当時の使徒たちの常識においても、そして、私たちの常識においても、偉くなるとは、『給仕する者』になることではなく、食事の席に着いて給仕される者になることです。椅子にゆったりと腰掛けて、給仕する者の心の込もったサービスを受けるのが偉くなることだと思っています。

 しかし、主イエスは、『それではいけない』(26節)と言われるのです。偉い人になるとは、『食事の席に着く人』になるのではなく、『給仕する者』になることだと言われるのです。食事の席に着いてふんぞり返っているのが偉い人なのではない、指導者なのではない、むしろ心を配り、心を砕いて、ほかの人の食事のために給仕する者になることが、偉い人になること、指導者になることだ、と言われたのです。ちなみに原文では、『仕える者』と『給仕する者』とは、同じ『ディアコノス』という言葉が使われています。食事の席で給仕する奴隷、下僕の姿こそ、仕える者の姿なのだと言うのです。主イエスは、『給仕する者』のようにその公生涯を歩んで来られました。主イエスは仕えられるためではなく、仕えるために来られたのです。主イエスに従う者は、主イエスを模範とする必要があると思います。日本では、主イエスを信じる信仰者のことを殆どの場合、クリスチャンと言います。しかし、主イエスを信じるユダヤ人は、自分たちのことを『Follower of Jesus』、あるいは、『Follower of Yeshua(イェシュア)』と言います。つまり、クリスチャンであるということの実質は、『従う者』だと言うことなのです。クリスチャンは、主イエス・キリストの手本に従っている者こそ、主イエス・キリストの弟子と呼ばれるということなのです。

 従って、この聖書の箇所というのは、主イエスがご自身でクリスチャンの定義を行っていると言うことができると思います。私、主イエスが手本を示したのだから、あなた方もそのようにしなさいと、主イエスは語っていると思います。しかし、使徒たちは、このような決定的な瞬間が訪れていても、誰が1番偉いかという議論をしているのです。それでも、主イエスは十字架で死なれることによって、使徒たちと私たちに仕えて下さったのです。私たちを支配するのでも、私たちに対して力を振るうのでもない。むしろ、私たちのために力を手放し、最も弱くなり、そして、死んでくださったのです。そこまでして、主イエスは私たちに仕えてくださることによって、私たちを救って下さったのです。しかし、使徒たちは、主イエスの十字架という決定的な瞬間が訪れていても、誰が1番偉いかという議論をしているのです。

与えられ続ける約束の言葉

 主イエスは使徒たちを教えながらも、同時に涙が出るような嬉しい言葉で、優しく導いて下さるのです。それが、次の28〜30節です。『あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。』と、主イエスの言葉が記されています。どのような点が、嬉しい言葉なのかと言いますと、主イエスはそれでもなお、そのような弟子たちの献身を高く評価されたのです。福音記者ルカは、主イエスが色々な試練に遭われたとき、弟子たちが絶えず主イエスと一緒に踏みとどまってくれたから、将来、世の終わりに、弟子たちは主イエスから神の国の支配を委ねられ、主イエスと共に神の国を支配し、また主イエスと共に食卓を囲んで飲み食いするようになる、という主イエスの約束の言葉を伝えています。ルカが伝える『あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。』という主イエスの褒め言葉は、不思議な褒め言葉です。今までの物語でも、これからの物語でも、使徒たちは主イエスと共に踏みとどまるということは全くできていません。誘惑に負けて主イエスを引渡そうと画策し、低次元の争いを続け、不誠実にもこれから主イエスを引渡し、否定する者たちの集まりです。数時間後には、全員が主イエスを見捨てて、逃げてしまうのです。それにもかかわらず絶対的な肯定・大いなる然りを、主イエスは語るのです。否定より肯定、叱るのではなく、褒めているのです。できていない子どもに対して、主イエスは、『頑張ったね!』と大げさに褒めているのです。主イエスは使徒たちの心を知っておられて、よくついて来てくれたね、とおっしゃったのです。この主イエスの言葉に、私たちは慰められるのではないでしょうか。

 それでは、この主イエスの約束の言葉は、実現しないのでしょうか。そうではないと思います。主イエスの十字架の死を前にして逃げ出した弟子たちは、しかし、主イエスの十字架での死と復活の後に、使徒として福音を宣べ伝え、教会の指導者となって行きます。その使徒たちに、そして、使徒たちの働きに連なっている私たちに、この主イエスの約束の言葉は与えられ続けています。弱さと欠けだらけの罪人である弟子たちを、そして、私たちを、主イエスは十字架の死と復活によって救ってくださり、新しく生かしてくださり、遣わしてくださるのです。主イエスは、弱さと欠けだらけの罪人である私たちに、主イエスを見捨ててしまう私たちに、十字架の死と復活を通して、なお世の終わりの救いの完成の約束を与えて下さっているのです。

仕える者として遣わされる

 主イエスの約束の言葉が完全に実現するのは世の終わりです。しかしそれはすでにこの地上において実現し始めています。『王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。』とは、世の終わりに先立って、この地上において、新しいイスラエルである教会を治めることでもあります。また、『だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。』とは、世の終わりに先立って、すでに主イエスが地上の教会に、私たちに支配権を委ねてくださっていることでもあるのです。しかし、私たちがそのように治めたり、支配したりする仕方は、この世とはまったく異なります。まさに食事の席で給仕するように、仕えることによって、私たちは治め、支配することになるのだと言うのです。私たちは、世の終わりの救いの完成に至るまで、主イエスが私たちに仕えてくださったように、仕える者として生かされています。そして、主イエスの十字架の死は、私たちが生きている日常の生活に入り込んでいます。ですから、私たちは人の目を気にするのではなく、主イエスの十字架を見つめることが勧められているのです。それ故、私たちは『より大きな者に見られたい』と考えて、自分と隣人を比べるのではなく、隣人に仕えて行くことが勧められているのです。隣人の重荷を共に担い、隣人と共に生き、祈って行くことによって、隣人に仕えていくのです。

 『仕える者のようになりなさい』と、私たちのために十字架で死なれた主イエスが、私たちにとことん仕えてくださった主イエスが、私たちに命じておられるのです。今も生きて働かれる主イエスが、私たちを『仕える者』として、新しい週の歩みへと遣わされるのです。私たちは、この主イエスの勧めに応えて行きたいと思います。

  それでは、お祈り致します。