小倉日明教会

『あなたがたを思い起こす』

フィリピの信徒への手紙 1章 3〜11節

午後3時00分〜

2025年7月27日(日)聖霊降臨節第8主日礼拝

フィリピの信徒への手紙 1章 3〜11節

『あなたがたを思い起こす』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌  13 みつかいとともに 応答 起立
招   詞 詩編 104篇 1〜2a節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 351 聖なる聖なる 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】 応答 着席
聖   書

フィリピの信徒への手紙 1章 3〜11節

                                              (新約p.361)

啓示 着席
성  경 빌립보서 1장 3절〜11절
New Testament The Letter of Paul to the Philippians 1:3-11
圣  经 腓立比書 1章 3〜11段
讃 美 歌 455 神は私の強い味方 応答 着席
説   教

 『あなたがたを思い起こす』

          沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 475 あめなるよろこび 応答 起立
祝   祷

          沖村 裕史 牧師

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■獄中のパウロの祈り

 この手紙が書かれたとき、パウロは牢獄にいました。

 それがいつの時期であったのか、またその場所がローマであったのか、カイサリアであったのか、あるいはエフェソであったのか、はっきりしません。ともあれ、彼は拘束され、自由を奪われ、場合によっては、いのちの危険さえありうるような状況下に置かれていました。今日、お読みいただいたのは、そんな獄中から書き送られた手紙の書出しの部分、パウロがフィリピの教会の信徒たちのことを覚え、神に祈りをささげていることを記した部分です。

 冒頭三節から四節に、「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に」という言葉に続いて、「あなたがた一同のために祈る度に」という言葉が出てきます。その内容は同じ、一つのことです。ここでパウロは、「わたしはあなたがたのことを思い起こす度に喜びをもって祈り、祈る度にあなたがた一同を感謝をもって思い出します」と告げています。

 一口に「祈り」といっても、実際にはいろいろな祈りがあることを、わたしたちは知っています。まず「祈り方」についていえば、礼拝の場などで信仰を同じくする者が共に祈る共同の祈り方があり、個人的に一人ひとりで祈る祈り方もあります。また「祈りの内容」ということについても、神への感謝の祈り、罪を告白するざんげの祈り、必要な助けや支えを求める祈願の祈り、ほかの人々のための執り成しの祈りなど、いくつもの種類に分けることができます。

 この手紙の中に記されている祈りについていえば、それは牢獄の中でパウロが一人で祈った祈りであり、またその内容からいえば、フィリピの兄弟姉妹のためにささげられた感謝と執り成しの祈りです。

 ここで、パウロが祈っていることの内容をもう少し具体的に見ていくと、祈りのポイントとして二つのことが浮かび上がってきます。

 第一のポイントは、お読みいただいた聖書箇所の前半部分に言い表されていることですが、フィリピの教会の信徒たちが「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」(一・五)ことへの感謝です。

 神の国が、神の救いの御手が今ここに、何の条件もなく、すべての人にもたらされている、という「福音」の宣教にあずかってからずっと、フィリピの教会の人々がその信仰をしっかりと守り通してきたことは、パウロの目から見てもすばらしいこと、ほめたたえるべきことでした。しかし、パウロはそれをフィリピの信徒たち自身の手柄として賞賛するのでなく、むしろ彼ら、彼女らをそのように守り導いてくださった神の恵み、神の働きに感謝することによって、その思いを表明しています。人間への賞賛ではなく、神への賛美こそ、パウロの第一の祈りのポイントでした。

 さらにもう一つの祈りのポイントとして、パウロは九節以下にこう記しています。

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(一・九~一一)

 パウロの祈りの第一のポイントが、信仰に入った日からこれまでのフィリピの人々に対する神の導きへの感謝であったとすれば、第二のポイントは、これから後もその信仰がますます豊かに成長し、信仰者としての完成を目指して彼ら、彼女らが成長し続けることを願い求める、執り成しという点にあったといえるでしょう。

 人は生きている以上、だれしも何らかの変化を経験しながら人生を送っていくわけですが、クリスチャンというのは、ある意味、意識的にイエス・キリストという方を自分の人生の真正面に据えて、イエス・キリストによって自分自身を「変えていこう/変えていただこう」と願いつつ生きる人間のことである、といえるのでしょう。人生の過去のある時点で出会い、その出会いの中で示されたイエス・キリストの福音を、そして神の恵みのもとにあるわたしたちの存在というものを、今この瞬間においても、そして今から後、将来に至る日々においても、同じくわたしたちの真正面に据えたままに生きていくこと、それがわたしたちの願いであり、またこのフィリピの信徒への手紙の最初に記された、パウロの祈りであったといえるのではないでしょうか。

■最初期の教会の「こだわり」

 最初期の教会の人々は「洗礼」を受けたからといって、それが、必ずしも自分たちが自覚的なクリスチャンとして一生を送るための「保証」になるわけではないことを知っていました。だからこそ、パウロにしても、新約聖書の外の文書の著者にしても、信仰に堅く立ち続けること、礼拝を守り続けること、互いに励まし合い、支え合って歩み続けることの大切さを、兄弟姉妹に繰り返し説き、熱心に勧めの文書を書き送り、また祈り続けたのでした。

 使徒言行録の最初の部分を読むと、最初期の教会の人々は「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(二・四二)と記されています。これらの四つの行為は皆、イエス・キリストに由来するものであり、またイエス・キリストを真正面に据えて生きることであり、まさに教会共同体としての行為そのものでした。

 同志社中学・高等学校の校長であった木村良己牧師によれば、最初期の教会の人々は、こうした四つの行為に対して、「これだけは譲れない」という「こだわり」を持っていたといいます。

 「初代教会の人々は、こうしたこだわりと、ひたすら守り続けるものを持っていました。それは、イエスが指し示し使徒たちが受け止めた教えであり、自発的行為として持ち物を共有する交わりであり、十字架を思い起こすパン裂きであり、他者を覚える祈りでした。これらの底に脈々と流れているものは、『誰が生き残るか』という『排除の理論』とは真っ向から対立する、『みんなで生き残るにはどうしたらいいか』という『共存の理論』でした」(『新約聖書への旅』日本キリスト教団出版局)

 言うならば、教会とはこれら四つの行為に「こだわる」仲間たちの集いであるといえるでしょう。これらのことに「こだわる」ことによって、争いと分裂の絶えることのないこの世にあって、わたしたちは一つとなること、一つの教会を形成することができるのでしょう。

 「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」、そして「祈ること」にこだわる。これら四つのものが、最初期の教会を形作り、最初期の教会の信徒たちの信仰を支えたわけですが、この中の四番目の「祈ること」には、他の三つのものにはない特徴があります。それは、先ほどにも触れたように、「祈ること」は一人でもできるという特徴です。

 もちろん、最初期の教会の信徒たちも共に集まって祈りました。しかしまた分かれているとき、散らされているときにも、一人ひとりで祈ることができました。「使徒の教え」を学び合うこと、互いに「交わり」を持つこと、「パンを裂き」分かち合うことは、原則、一人ではできません。しかし、「祈ること」は共に行うこともできれば、一人で行うこともできます。

 「祈ること」は、自分の家でもできれば、たとえ病院のベッドの上でもできることであり、そしてまた牢獄の中にいるパウロにもできることでした。

 パウロはこの時、面と向かってほかの人々と「教え」や「交わり」や「パン裂き」を分かち合うことはできない、そんな過酷な状態に置かれていました。しかしそのような時にも、パウロは「祈ること」はできました。だから、彼は「あなたがたのことを思い起こしつつ」祈りました。獄中のパウロに残されたクリスチャンとしての、最後の「こだわり」がまさに、この祈りの行為だったともいえるのです。

■祈りの交わり

 祈りは、クリスチャンに残された最後の行為です。しかしまた、それはわたしたちが最初になすべき行為でもあります。

 これまで長く読み継がれてきた、オットー・ハレスビーの『祈りの世界』(日本キリスト教団出版局)という本の中に、「祈りは、本質的には無力な人のためにのみ備えられたものだと思います」という一文が記されています。また続いて、「祈りと無力さとは切り離すことができません。無力な人だけが本当に祈ることができるのです」とも記されています。

 わたしたちはなかなか、自分が無力であることを認めようとしません。口先ではそう言ったとしても、結局、どこかで自分に拠り頼もうとしています。だからこそ、わたしたちは祈りというものをなかなか理解できず、真剣に祈ることができない、ということが起こるのでしょう。

 牢獄の中にいたパウロは、まさに無力でした。パウロには、祈りしかなかったのです。しかしだからこそ、彼は本当に祈れたのだ、といえるかもしれません。

 そしてその祈りを通して、彼自身が改めて知らされたことこそ、今日、最初に見たように、フィリピの信徒たちは自分の力によってではなく、パウロの働きや努力によってでもなく、神ご自身の恵みによって守られてきた、そしてこれからも導かれていくであろうという事実であり、またその事実に対する図り知れない驚きと賛美だったのではないでしょうか。

 フィリピの信徒への手紙の中で、繰り返し、繰り返し「喜び」が強調されるのも、パウロが彼自身の無力さの只中で、そのような神の確かな働きをはっきりと、そしてしっかりと思い知らされたからに違いない、そう思わされます。

 こんなふうに考えてみると、そうした神の恵みを思い知り、自分たちの無力を自覚しながら、喜びと感謝をもって祈ることができるようになるためには、わたしたちも、何かとても大きな経験に出会うことが必要なのかもしれません。わたしたちの底深い高慢を打ち砕くような、劇的な経験が必要なのかもしれません。

 しかし、たとえわたしたちがそうした経験を味わうことがなかったとしても、牢獄で死を予期しながら、神の恵みと自らの無力を覚えつつなされたパウロの祈り、そしてまた同じような境遇の中から多くのクリスチャンたちが残した祈りを学ぶことによって、わたしたちもまた、たとえおぼろげではあるとしても、まことの祈りというものを感じとり、祈る人となることへの招きを受けることがあるように思います。

 最後に、そうした祈りの一つの例をご紹介して、このメッセージを閉じさせていただきたいと思います。これは、ナチス・ドイツの時代に反政府運動によって捕らえられ、後に処刑されたエヴァルト・フォン・クライストという人が、死の数カ月前に、獄中から妻に出した手紙の一節です。

 「ここでひとつのことを学びました。それはごく小さな親切に対しても、人に感謝するということです。しかし何よりも神に感謝することです。あらゆる困難にも関わらず、神は多くのよきものとともに、人間にとって最上のものをお与えくださいました」

 「わたしの祈祷に対する態度も変わりました。(中略)

 幼い頃、子供のような信仰をいだいていた祖母が、まことにつまらないささやかなことに対しても、神に祈りまた感謝をささげているのをみて、少々おかしいと思いました。

 今はすっかり気持ちが変りました。神がどの程度までわれらの祈りを許したもうか、わたしには分かりませんし、おそらく分かるはずもありますまい。(中略)

 『しかし、汝のみこころがなされますように』という、内なる願いをこめた祈りは、確かにそれ自身祝福されたものであり、慰めと力を与えるものです。わたしはまた、わたしたちの貧しい理性では思い描くこともできないようなことでも、熱心な祈りによっては聞かれるのではないかと信じています。わたしはたえず多くのことを祈り続けています。ことに愛するものたちのために」

     (『反ナチ抵抗者の獄中書簡』、新教出版社)

 わたしたちは不断に祈ることを学ばなければなりません。祈ることを、一生の課題として取り組まなければなりません。それは、クリスチャンであるわたしたち一人ひとりの課題であると同時に、教会全体に課せられた課題です。なぜなら祈りこそ、わたしたちが神と交わる最も基本的な営みの一つであると共に、神を中心とするわたしたちの交わりを表現する営みであり、またそれこそが最初期の教会以来、わたしたちクリスチャンの「こだわり」続けてきた営みでもあるからです。

 「わたしはあなたがたのことを思い起こす度に喜びをもって祈り、祈る度にあなたがた一同を感謝をもって思い出します」とパウロが告げたように、わたしたちも、祈ることを通して神と出会い、祈ることを通して隣人と出会う、そのような感謝と喜びに溢れる祈りを大切にする教会を、交わりをご一緒に形作っていきたい、そう心から願います。感謝して祈ります。