| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 9 わが身にたまいし | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | 詩編 130篇 7〜8節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 127 重荷を負う者 | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
ローマの信徒への手紙 3章 21〜26節 (新約p.277) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 로마서 3장 21절〜26절 | ||
| New Testament | The Letter of Paul to the Romans 3:21-26 | ||
| 圣 经 | 罗马书 3章 21〜26段 | ||
| 讃 美 歌 | 377 神はわが砦 | 応答 | 着席 |
| 奨 励 |
『信じる者すべてに与えられる神の義(1)』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 433 あるがままわれを | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■山田洋次監督の原点
おはようございます。みなさんは、フーテンの寅さんの映画をご覧になったことがあるかと思います。1969年、松竹映画で山田洋次監督によって映画化されることになった『男はつらいよ』で描かれている寅さんの価値観は、地位でも名誉でもお金でもなく、ただ、『ありがとう、寅さんのおかげで、私元気になれたわ』と言ってもらえることです。それが、寅さんの最大の生きがいであり、幸せであって、そう言ってもらえるのが喜びなのです。もちろん、その人が美しい女性であれば、寅さんにとっては申し分ないわけです。国民的映画となったフーテンの寅さんの映画監督である山田洋次監督は、映画作りの原点についてこんな話をされています。山田監督は満州で家族と共に、終戦を迎えます。そして、終戦からほぼ1年半後の47年3月、親戚の家があった山口県宇部市に一家で引き揚げることになるのです。しかし、引き揚げて来た日本でも、食料事情は同じであったのです。満州のときと同じように『飢餓状態』が続いたそうなのです。
『日本がこんなに食料難で、ひどいことになっているなんて想像もできないわけよ。だから驚いたね、日本に来て。1日お米が2合何勺(しゃく)とか決まっていて、全部配給でね。お米が配給になれば、まだ良い方で、代わりに麦だとかサツマイモだとか』と山田監督は語っておられます。終戦直後の混乱で、お父さんに安定した収入はなく、山田監督はさまざまアルバイトをしたそうです。焼け跡のがれきの片付け、米軍の病院の清掃、石炭の運搬、そして闇屋をやったそうです。
『闇物資を買わないと食っていけない。とても値段も高いけど。その闇物資を運搬するアルバイトがあったわけだ。遠くまで汽車で運びに行った。これも闇の一種だけど、僕のいた山口県宇部というまちでは、海岸に小さな掘っ立て小屋みたいな工場をつくって、ちくわをつくるんだ。まともな肉じゃない。サメとかエイとか、そういう安い、質の悪い肉を使って、ちくわをつくる。サメの肉なんてアンモニアの臭いがして、とても普通は食べられない物だけど、当時はそれでも貴重だった。それで、その海岸の工場に行って、それを仕入れる。ミカン箱を持っていって。50本、60本と買って、自転車に乗ってまちのいろいろなお店に卸して歩くの。『おばさん、ちくわ要りませんか?』と言って、』と語っておられます。
ある日、そのちくわが何十本も売れ残ってしまったそうです。家にそのまま持ち帰ると、大損になってしまうのです。思い悩んだ末、当時の西宇部駅近くに競馬場があることを思い出し、周辺にある屋台なら売れるかもしれないと考えたそうです。何時間も自転車をこいで、ようやくたどり着き、1軒のおでん店を見つけたのです。その粗末な屋台では、1人の中年の女性が働いていたのです。
『あのー、ちくわ要りませんか』。
山田監督は、すがる思いで声を掛けたそうです。
『そのおばさんが俺に『あんた中学生かい?』なんて聞いて、『はい、そうです』と言うと、『中学生なのに働いているのかい?』なんて言うから、『引き揚げ者だから父親の仕事がなくて学費稼ぐために働いています』と言ったら、『みんな置いていきなさい。おばさん、引き取ってあげるから』。『みんな、いいんですか?』。『いいわよ』と言って、『坊や。あすからね、もし残ったら、いつでも来なさい。いつでもおばさん、引き取ってあげるよ』と言ってくれたのね』、このように語っているのです。
帰り道、自転車をこぎながら、山田監督は涙を流したそうです。『おばさん』の生活だって苦しかったに違いない。それにもかかわらず、生きるために必死に働く少年を思いやる心、苦しいときはお互いさまだという助け合いの心がそこにあったというのです。
すさみ切った敗戦国の片隅で、名も知れぬ『おばさん』が優しく、温かい心の火をともしていてくれたことが、山田監督にはうれしかったそうです。そして、その幸福感は生涯を貫くものであったそうです。
『とてもうれしくてね。少年の僕は頑張って生きていれば、良いこともあるという勇気かなあ。そんなものを与えられた気がしたね。だから僕にとっては、本当の『マドンナ』みたいな人だね。あのおばさんはね』
それから時が流れ、山田は映画監督となり、貧しくとも懸命に生きる人々の姿を数々の映画の中で、描き続けることになるわけですが、どんな映画をつくっても根っこのところに中学生の時に感じたそういう思いが、山田洋次監督にはあったのだそうです。
それでは、クリスチャンの原点はどこにあるのか、罪人である人間が神の義を纏うことができるというのは、どういうことなのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■神の義
さて、現在、連続して取り上げておりますローマの信徒への手紙の中の大きな部分を占めている1章18節〜5章21節で、パウロは義人について述べているのです。その義人について述べている部分の中で、1章18節〜3章20節までが一つの区切りとなっているのです。そして、何回もかけて扱って来た、この部分で語られていることは、人間に対する有罪宣言と、それに対する神様の怒りなのだということをお話してきました。この有罪宣言の箇所はいわゆる挿入句になっているのです。それでは、1章18節〜3章20節までの挿入句の前後では、何が語られているのかと言いますと、直前の1章17節では、ローマの信徒への手紙のテーマについて語られていたのです。1章17節を見ますと、『福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』とあります。これが、このローマの信徒への手紙のテーマであった訳です。そして、その次に今日の聖書の箇所の神の義が示されるということが、3章21節から始まるのです。本来は、神の義の提供は、1章17節のこの手紙のテーマが語られた後、直ぐに3章21節からの神の義の啓示に行っても良かったように思われるかと思います。
しかし、パウロは1章18節〜3章20節という長い挿入句を入れたのです。それはなぜかと言いますと、全ての人は罪人であるということを証明しなければ、次に義とすることの意味がわからないからなのです。人間は自分がどうしようもない罪人であるということが、真底わからなかったら、神様の赦しということを有り難く受け止めることができない存在なのだと思います。ですから、神の義の啓示の前に、全ての人間の有罪宣言が来なかったら、福音の理解が進まないということなのです。そういう訳で、私たちは何回かをかけて、1章18節〜3章20節を学んで来ましたので、本日はそのことを踏まえて、神の義の啓示について学びたいと思います。
それでは、本日の聖書の箇所の3章21節を見ますと、『ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。』とあります。この3章21節から始まる聖書の箇所は、パウロが、主イエスによって新しい救いの時代が始まったことを語り始める箇所なのです。21節冒頭の『ところが今や』という言葉がそれを示しています。1章18節〜3章20節という長い挿入句に於いて、パウロは、ユダヤ人も異邦人も皆同じように罪の支配下に置かれており、神様の怒りの下にある、ということでした。律法を与えられているからといって、ユダヤ人が自分たちは異邦人とは違って正しく生きており、神の救いを得ることができるということはない、ユダヤ人も異邦人も皆罪を犯しており、そのままでは神様の怒りを受けるしかないのだ、ということを、パウロは3章20節までにおいて繰り返し語ってきたのです。そのパウロが、『ところが今や』という言葉で、『神の義が示されました。』という新しい救いの時代が始まったことを語り始めるのです。
ところが、この21節には、『律法』という言葉が2回出て来るのですが、『律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、』と訳されているのを見ますと、『律法』という言葉の意味が矛盾しているようで、どういうことと思ってしまうかと思います。『律法とは関係なく、』と言いながら、関係のない『律法と預言者によって立証されて、』というのは、どういうことと思われるかと思います。ここに日本語に翻訳することの難しさあると思います。ギリシア語の原文を見ますと、最初に出て来る『律法』は、『律法の』という意味の名詞である『ノムー』という言葉で記されているのですが、2番目に出て来る『律法』には、英語の『The』に当たる『その』という意味の『トゥー』という定冠詞がついているのです。この2つの『律法』についてお話しする前に、もう一度、21節の冒頭の『ところが今や』という言葉について触れておきたいと思います。パウロは21節の冒頭で、『しかし』という意味の『デ』というギリシア語の接続詞を使っているのです。この『しかし』という接続詞は、その前の20節の内容を受けているのです。20節では何と書かれているのかと言いますと、『なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』とあります。パウロは20節で、『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』と語ったことを受けて、『しかし』と語っているのです。そして、最初の『律法とは関係なく、』の『律法』には定冠詞がついていないのです。この『律法』には定冠詞がついていない理由は何かと言いますと、これは『律法の原理』のことを言っているのです。
普通、『律法』と言いますと、モーセの律法のこと、あるいはモーセ5書のことを言うのです。ところが定冠詞がついていないから、ここでは、律法そのもののことを言っているのではなくて、律法の原理のことを言っているのです。律法の原理というのは何かと言いますと、神の義は律法を行うことによって得られる『義』ではないということを、パウロは語っているのです。従って、『律法とは関係なく、』と記されているのは、律法を行うことによって得られると考えられていた『義』とは関係なしに、神の義は啓示されたのだよと、パウロは言っているのです。難しい箇所なので、もう一度言います。最初の『律法』というのは、『律法とは関係なく、』というのは、律法を行うことによって得られると考えられていた『義』とは関係なしにと、パウロは言っているのです。律法を行うことによって神の義を得るという原則とは関係なしにというのです。そのような原則とは関係なしに、神の義が示されたと言うのです。その神の義の内容が、この後から出て来ると言うのです。しかし、その律法を行うという原則とは関係なしに、神の義が啓示されていたというのは、パウロが最初に言ったのかと言いますと、そうではないと言うのです。神の義は律法と預言者によって立証されていたというのです。この2番目に出て来る『律法』というのは、『トゥー』という定冠詞がついている『律法』ですので、モーセの律法とモーセ5書と預言者も、この聖書が啓示している神の義について、証言していたとパウロは語っているのです。
それでは、これからパウロが論じようとしている神の義というのは、律法を行うことによって義とされるという原理のことではなくて、定冠詞のついている『律法』と預言者が旧約聖書で証言していた神の義であるのだということを、これからパウロは語ると言っているのです。それでは、定冠詞のついている『律法』と預言者が旧約聖書で証言していた神の義というのはどうやって得られるのか、ということを次に見てみたいと思います。
■神の義の発見
本日の聖書の箇所の22節を見ますと、『すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。』とあります。これが、モーセの律法と預言者が旧約聖書で預言していた内容なのです。律法を行うことによる義ではないのです。この22節で語られていることが神の義なのです。これは信仰による義なのです。人は信仰によって救われるとパウロはこの箇所で言っているのです。この信仰によって救われることを、信仰義認というのです。このことを、再発見したのが、マルティン・ルターに始まる宗教改革なのです。私たちはマルティン・ルターに始まる宗教改革の大きな流れの上にいるのです。ですから、私たちは、何の違和感を感じることなく、この言葉を受け止めて、本当にその通りです、アーメンと言えるのだと思います。人間は信仰によって義とされると、パウロは語っているのです。主イエス・キリストを信じる信仰により、神の義を頂きました、と言うことができるのだよとパウロは語っているのです。そのことをマルティン・ルターは再発見したのです。ところが、宗教改革が起こる前の、カトリック教会が人々の信仰生活を支配していた時代のヨーロッパでは、信仰によって、神の義が与えられて、救われるのだという真理が、多くの人々には教えられていなかったのです。
私たちは、宗教改革の伝統の中にいるということをお話しましたが、宗教改革の三大原理というのがあるのです。1つ目は、『信仰のみ』というものです。そして、2つ目は、『聖書のみ』というものです。さらに、3つ目は、『万人祭司』というものなのです。もう一度繰り返して言います。1つ目は、『信仰のみ』というものです。人間は主イエス・キリストを信じる信仰のみで、神の義が与えられると言うのです。2つ目は、『聖書のみ』ということです。信仰に必要なことは全て聖書に書かれているのだから、何が真理かどうかは聖書においてのみ論じるべきであると言うのです。3つ目が、『万人祭司』というものです。
ルターは、『信仰のみ』、『聖書のみ』、『万人祭司』という3大原理を掲げて宗教改革を起したわけですが、ルターの宗教改革の中心にあったのは、彼が『神の義』の正しい意味を聖書から再発見したことであったのです。その『神の義』の再発見をもたらした箇所の1つが、本日の聖書の箇所のローマの信徒への手紙3章21節以下なのです。パウロは、『すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。』と語っています。『神の義』は、律法を守ることによって、つまり良い行いによって獲得できる義ではないというのです。『神の義』というのは、神様が人間を裁く尺度ではなくて、神様がご自分の『義』を、主イエス・キリストの十字架での死と復活を信じる信仰によって、人間に与えて下さり、罪ある人間を義とみなして下さり、つまり罪の赦しを与え、救って下さる、その神様の救いの恵みを意味しているのだということを、パウロは語っているのです。人間の行いよりも、信仰と神様の恵みが先行しているというのです。しかし、神様の恵み、福音には力があります。それ故、神様の恵み、福音によって、私たちのあり様は変えられて行くのです。それでは、先行する信仰と神様の恵みによって、『神の義』の衣を身に纏った人間の行いは、どのように変えられて行くのでしょうか。そのことを、次に考えてみたいと思います。
■アホ忠(ちゅう)
和歌山県南部(みなべ)という町に、お祈りと畠を耕し、聖書や英語を若い人たちに教える労祷学園(ろうとうがくえん)という枡崎外彦(ますざきそとひこ)さんという牧師が開園されたキリスト教の伝道・研修施設があります。枡崎外彦先生は、賀川豊彦(かがわとよひこ)先生の弟子の牧師であったのです。升崎牧師がこの学園を指導されていた時、山本忠一さんという子がこの学校にやって来ました。やって来たというよりも、拾われて来たと言った方が良いかと思います。
ところが、彼は知恵遅れの少年であったので、この労祷学園に知恵遅れの山本忠一さんという子が加わったのを知った近所の人が、門柱にペンキで『アホ学園』と落書きしたことがきっかけとなって、『アホ学園』が呼び名となり、南部名物とまで言われるようになりました。
この山本忠一少年は、幼い頃、脳膜炎をわずらった孤児でした。大食いと寝小便のゆえに、親類にも愛想をつかされ、捨てられて乞食をしていたのを、升崎牧師が世話をすることにして、連れ帰ってきたのです。その夜から、升崎牧師は少年を自分の寝床に寝かせたのですが、朝になるとこの少年は大きな地図を布団いっぱいに描いていました。
この知恵遅れの少年は升崎牧師から、『忠ヤン』と呼ばれていました。何の取柄もないと思われている『忠ヤン』にも人に真似のできない、ハエをとるという一つの特技がありました。ハエと見るや、知恵遅れ者特有の落ち着かない目が俄然輝きだして、ハエを見つめながら左手左足で調子をとって右手の指先でパッと打ちました。それは百発百中、神技ともいうべきものでした。
しかし、忠ヤンが加わったことにより労祷学園が『アホ学園』と名付けられた事を、他の青年たちが問題にしました。そして升崎牧師に、『忠ヤンが労祷学園に出入りしないようにして欲しい。忠ヤンが加わるのなら自分たちは出て行く』とつめよりました。これにはさすがの升崎牧師も苦しみました。升崎牧師は悩み苦しみましたが、『もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。』(マタイによる福音書18章12節)という聖書箇所を語ります。才能のある7人の青年と1人の知恵遅れの少年どちらを選ぶべきか?主イエスは、1人の保護を必要としている人を見捨てることはないと思います。しかし、7人の青年たちは、労祷学園から去って行ってしまうのです。ところが、それからしばらくして、忠ヤンも外出したまま帰ってこなくなりました。八方手を尽くしましたが、消息はつかめませんでした。
忠ヤンがいなくなってから数年経った、昭和14年のある日、1人の紳士が升崎牧師を訪ねて来ました。
『あなたは何年か前に山本忠一君をお世話して下さった牧師さんですか?』
『おお、あなたは忠ヤンの消息をご存じですか?彼は、元気にしていますか?』
『実はその忠一君は、立派な働きをして死にました。』
『これが彼の形見です。』
その紳士はそう言って、船の舵輪を差し出しました。
紳士は話し始めました。
『ある日、海辺に1人で立っている忠ヤンを見つけ、あれこれ訪ねたが、何も判らない、行くとこもないようなので、私の船で働くか?と聞くと、うん。と言うので、船に乗せ、働いてもらっていました。
ある日、荷物を満載して紀州尾鷲港を出航しましたが、出航後間もなく海がしけ、新宮沖にさしかかるころには、思う方向に船を進めることも出来なくなり、ついに暗礁に船底をぶつけてしまいました。船底に穴が開き、水が激しく浸水してきて、いくら排水しても間に合わなくなり、一同観念した時、船底から、『親方!親方!船を!船を!』と手を振り叫んでいる者がいます。忠ヤンでした。忠ヤンは、自分の足を穴に突っ込み浸水を止めていたのです。船員一同必死に排水と操船をし、陸に近づけ、助かったのです。忠ヤン助かったよ!と彼のもとに行った時には、忠ヤンの右太ももはもぎ取られ、出血多量ですでに息を引き取っていました。この舵輪はその時の幸十丸のものです。』
その紳士は、そのように語ったのです。
升崎牧師は労祷学園で、オランダ堤防の決壊を救ったハンス少年の事を話した事がありました。その話を聞いた時、忠ヤンは、『俺はハンスだ!ハンスだ!』と叫んでいたそうですが、その通りのことを彼はやってのけたのです。人から“アホ忠”、“アホ忠”と呼ばれ、“アホ忠”が自分の名前と思っていた山本忠一君でしたが、水が噴き込んでくる船底の穴に、布切れや板切れの代わりに自分の体の一部をつめこみ、数名の同僚を救ったのです。
彼は升崎牧師を通して、主イエスの愛と教えを受け、自分の身を持って、愛を実践したのです。主イエスの福音を信じ、『神の義』の衣を身に纏った人は、このように変えられて行くのだと思います。
■主イエス・キリストによる贖い
本日は、21節と22節の2節しかお話できませんでしたが、ルターの宗教改革の信仰の原点ともなる大切な箇所ですので、じっくりと読んで行きたいと思います。先程、お話しました神様が私たちに『神の義』を啓示し、『神の義』の衣を身に纏わせて下さるというのは、主イエス・キリストが、負債を全部支払って下さるという前提の中でのことなのです。もしも主イエスの十字架による赦しがなかったら、『神の義』はどうやって立てることができるのでしょうか。ですから、パウロが語る『神の義』は、弱々しい、軟弱な、フニャフニャの『義』ではないということです。あるいは、ユダヤ人だから赦されるとか、異邦人だから赦されるというような、別け隔てのある、偏った『義』でもないということなのです。私たちが、主イエス・キリストを信じた時に、主イエス・キリストが支払って下さった犠牲が、全部、私たちが身に纏うことのできる『義』になっているのです。ですから、物質的にいくら財産を持っているか、倫理的にどれだけ善行を積んだのかということなど、全く関係なしに、実は私たちは、霊的に、もの凄くお金持ちとされることが可能なのです。それはどうやってそうなるのかと言いますと、例えて言えば、主イエス・キリストの十字架による贖いと復活を信じるということは、主イエス・キリストの銀行口座に積み上げられている『神の義』が、私たちの銀行口座に振り込まれるということなのです。
私たちを義とする『主イエス・キリストによる贖い』とはどういうことでしょうか。『贖い』とは、代金を支払って、買い取ることです。身代金を支払って、捕虜や奴隷を解放するという意味もある言葉なのです。『贖い』とは、ある人や力の支配下に置かれている者を、その支配から解放するために代償を払うことでもあるのです。私たちは、『神の義』を私たちの身に纏わせるために、惜しむことなく与えられた、主イエスの十字架による罪の赦しを信じて、主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
