小倉日明教会

『神に愛され、召された人たち』

ローマの信徒への手紙 1章 1〜7節

午前10時30分〜

2026年2月15日 降誕節第8主日礼拝

ローマの信徒への手紙 1章 1〜7節

『神に愛され、召された人たち』

【奨励】 川辺 正直 役員

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 16 われらの主こそは 応答 起立
招   詞 イザヤ書 9章 5〜6節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 317(1〜4) 主はわが罪ゆえ 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

ローマの信徒への手紙 1章 1〜7節

                                       (新約p.273)

啓示 着席
성  경 로마서 1장 1절〜7절
New Testament The Letter of Paul to the Romans 1:1-7
圣  经 罗马书 1章 1〜7段
讃 美 歌 317(5〜7) 主はわが罪ゆえ 応答 着席
奨   励

『神に愛され、召された人たち』

         川辺 正直 役員

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 469 善き力にわれかこまれ 応答 起立
祝   祷

平和の挨拶

司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。

会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【奨 励】                       役員 川辺 正直

■作家 安部譲二

 おはようございます。『塀の中の懲りない面々』、『塀の中のプレイボール』、『母さん、ごめんなさい』などの数々の作品で有名な安部譲二さんという作家がおられます。

 安部さんには名門の麻布中学時代、クラスメートに元首相の橋本龍太郎さんがいたそうです。実は麻布中学の入学試験当日、頭のいい受験生の後席に座ればカンニングできると目論んだ安部は、他の受験生を品定めしたところ、橋本龍太郎さんが、一番頭がよさそうに感じて、後ろの席に座ることに成功したというのです。安部さんは少年時代からかなりはみ出した人であったと思います。中学校在学中から暴力団の事務所に出入りしていたため、麻布高校への内部進学が認められなかったそうです。その後、慶應義塾高校に入学し、ボクシング部の主将となりましたが、16歳で本格的に暴力団構成員となった上、早稲田大学の学生16人に喧嘩を挑まれて、3人で叩きのめしたことが問題となり、退学させられてしまうのです。それから安部さんは、6つの高校を転々として定時制高校を卒業し、国際ホテル学校に入学するのです。転校が極めて多かったものの、親の身元がしっかりした帰国子女の上に、英語が堪能だったこともあり、日本航空に入社し、客室乗務員として国内線や国際線に乗務するようになるのです。

 日本航空での勤務態度は真面目で、スチュワードからパーサーまで出世しますが、理不尽な要求をする乗客とのトラブルで、相手を殴ってしまったことをきっかけに、当時前科3犯で執行猶予中であることや暴力団組員であったことが露見し、退社に追い込まれてしまうのです。結局、安部さんは、暴行、傷害、賭博、麻薬、青少年保護条例違反などで、日本国内だけで合計14犯、また国外での前科は3犯で、複数回の服役を経験し、国内と国外での刑務所生活は通算8年間に及ぶのです。しかし、何事にも終わりの時は、来るのです。1981年、44歳の時に、刑務所の中にいた安部さんのところに、暴力団の親分が面会に来て、『出所する前に身の振り方を考えろ』と言われたのです。安部さんが、『指(詰め)1本ですか』と聞きますと、『足りない』と言われたそうです。実は、ヤクザの世界では自分のために詰める指はないと言うのです。例えば、人からカネを借りる。返せなくて追い込みがかかる。それで、よく指を詰めるヤクザがいるけれど、そういうのは本当のヤクザではないと言うのです。指は、兄貴分や親分が、子分の不始末について『これで堪忍してやっておくんなさい』と言って差し出すためにあるのだと言うのです。

 そこで、安部さんはヤクザの世界から完全に足を洗い、どこの事務所にも顔を出さないことを誓ったのだそうです。こうして安部さんは、30年間も身を置いていた世界から飛び出したのですが、仕事がなくて大変であったそうです。競馬の予想屋や仏壇やキャベツやレタスを運ぶ仕事で糊口をしのいでいたそうです。そのような中で、刑務所時代、木工作業工場で働いていたときに読んでいた、インテリアの専門誌『室内』の編集長をしていた作家の山本夏彦さんにファンレターを書いていたことが縁で、1984年、山本夏彦さんから雑誌『室内』に刑務所服役中の体験記(『府中木工場の面々』)を書いてみないかと声がかかったのです。1986年には、この連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版され、ベストセラーとなるのです。また、山本夏彦さんは、『面白いものを書く奴がいる』と言って講談社にも話をしてくれて、講談社から安部さんに小説の依頼が入ったそうです。安部さんが文筆家として立つことができた大きなきっかけは、師と仰ぐ山本夏彦さんの『私は安部の文章を見るが、前科は見ない。』という一言であったそうです。恩師と仰ぐ山本さんのこの言葉で、筆一本でやっていこうと、安部さんは決意できたのです。

 さて、現在、読み進めておりますローマの信徒への手紙は、今回で3回目となりますが、本日は、約束を守る神様の愛とはどのようなものなのか、そして、神様と人間との仲介者となるキリストはどのようなお方なのかということを考えながら、本日の聖書の箇所の5〜7節を読んでゆきたいと思います。

■神の福音のために

 さて、ローマの信徒への手紙1章1〜7節という冒頭の挨拶の部分は、今回で3回目となります。最初の1節でパウロは自分が何者であるかと言いますと、自分はキリスト・イエスの僕であり、身も心も全てキリストのものとされている、そしてそのことのゆえに、召されて使徒となっているのだと言っているのです。

 彼が召されて使徒となったのは、『神の福音のために』ということです。福音とは、良い知らせ、救いの知らせという言葉です。しかし、人間の感覚における良い知らせではなくて、これは『神の』福音ということです。そして、この『福音』は、神様が既に旧約聖書の中で、預言者を通して救いを約束しておられたものなのだというのです。さらに神様が預言者を通して約束しておられた福音は、神の子であるイエス・キリストにおいて実現したというのです。主イエスは、十字架の死を経て、3日目に復活されることによって、主イエスは『力ある神の子』、『救い主』と定められたというのです。パウロはこの『神の福音』のために選ばれ、召されて使徒となったというのです。

 ここまでが、これまでに2回にわたってお話してきた、1〜4節に於いて、語られていたことなのです。。

■この方により、恵みを受けて

 本日の聖書の箇所の5節を見ますと、『わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。』とあります。この5節の文章は原文であるギリシア語聖書においては、『わたしたちはこの方により、恵みを受けて使徒とされました』ということが冒頭に語られています。『この方』とは、もちろん主イエス・キリストのことです。それでは、この文章の主語である『わたしたちは』と書かれている『わたしたち』というのは、誰のことを指して、言っているのでしょうか。ローマの信徒への手紙にある『わたしたち』という言葉は、何と37回も使われています。使徒の務めを受けたのはパウロであることには違いありませんが、複数形の『わたしたち』と表現しているのはなぜなのでしょうか。

 普通、私たちも、自分と自分に関係する者たちを含んでいる場合、ある種の仲間として一般的に『わたしたち』という表現を用います。そのように考えるならば、ここでの『わたしたち』とは、『あなたがたも』と結びついて、『主に召された』ところの『わたしたち』であれば、共通項を持つことになります。しかし、そうではないと思うのです。これはパウロの個人のこと、パウロ一人のことだと思うのです。実は、ギリシャ語ではよくこういう使い方するのです。複数形を使いながら、自分のことを言っているのです。このような単数(私)を指すために複数形(私たち)の代名詞や動詞語尾を使用する表現をギリシア語における『編集的複数形』とか、『尊厳の複数』とかという専門用語で表される修辞技法なのです。なぜこういう言い方をするのかと言いますと、僭越な印象を与えないためです。つまりへりくだっているのです。日本語でも、自分一人のことを『私ども』と呼ぶのは、ビジネスやフォーマルな場で自分をへりくだって指す謙譲の言葉で、このときの『ども』が謙譲を表す接尾語なのです。従って、『わたしたち』と言いながら、パウロは自分のことを言っているのはなぜかと言いますと、次の内容を見ていくと、パウロ自身に特に啓示された話が出て来るからだと思います。ですから、パウロは自分の言っていることが傲慢に聞こえないように非常に注意しながら言葉を選んでいるということがわかります。

 パウロは、この5節で今度は、『わたしたちは』に続いて、『この方により、恵みを受けて使徒とされました』と語っています。『この方により、』というのは、『このキリストにより、』ということです。そして、『により、』と訳されたギリシア語は『ディ』という言葉ですが、この『ディ』という言葉の第一義的な意味は、『を通して』となります。従って、『この方により、』というのは、『このキリストを通して、』ということなのです。つまり、父なる神様の恵みが届くためには、神様と人間をつなぐ主イエス・キリストが必要であったと言っているのです。主イエス・キリストが仲介者だと言っているのです。旧約聖書では、神様と民をつなぐ仲介者が大祭司です。ですからユダヤ人たちは、大祭司なしに神様とつながるということは考えられないことであったと思います。

 一方、日本人はそうではありません。神様と人間をつなぐ仲介者の必要性を感じている日本人はほとんどいないのではないでしょうか。日本人は、天の父なる神様は信じるけれど、主イエス・キリストを神様として信じなくてはいけないのかと考えている人は多いのではないでしょうか。そのように考えるのは、仲介者がいなくても聖なる場所に近づけると、誤解しているのだと思います。私たちは、神様を神様として聖書に啓示されている通りに受け取ったならば、そのままでは神に近づくことができないと思います。私たちは仲介者の必要性を感じないわけにはゆかないと思います。聖書の啓示において、キリストを通してという言葉は私たちにとって、欠かすことのできない真理であると思います。そして、私たちが受ける全ての良きものは、主イエス・キリストを通して与えられるのだと思います。

 それでは、パウロはそのキリストを通して何を受けたと言っているのかと言いますと、恵みと使徒の務めを受けたと、パウロは言っているのです。恵みというのはギリシャ語で『カリス』と言います。『カリスマ』とう言葉をご存知かと思います。あの言葉と同じなのです。『カリスマ』というのは恵みのことなのです。5節で、『恵みを受けて』とパウロは語っていますが、『恵み』というのは、罪人に与えられる神様の憐れみ、一方的な愛のことです。そして、私たちのような罪人が、神様の清さに触れて影響を受け、信仰による救いにまで導かれる。これが、キリスト者が受ける神様の『恵み』、『カリス』なのです。パウロも他のキリスト者と同様に、一般的な意味での『恵み』、『カリス』を受けています。しかし、ここでパウロが語っているパウロの『恵み』、『カリス』はそれ以上のものだと言うのです。。

■『使徒とされる』という『恵み』

 パウロが受けたそれ以上の『恵み』、『カリス』は何かと言いますと、パウロは、『使徒とされる』という『恵み』、『カリス』を受けたということです。パウロにとっては、主イエス・キリストを通して『恵み』、『カリス』を受けたということがなかったら、使徒としての働きは到底務まらなかったのです。新約聖書における『使徒』、ギリシア語で『アポストロス』の概念は、紀元1世紀のユダヤ教の『神の代理人』、ヘブライ語の言葉で『シャリアハ』に由来すると考えられています。この『シャリアハ』という言葉は、ユダヤ教では、『派遣した者(神または主)の全権をもって行動し、行動において派遣者と同一視される』ほどの存在という意味を持っていました。従って、『使徒』、『アポストロス』も神様の代理人なのです。パウロは神様の代理人として語るのです。神様ご自身が語っておられるかのように語ることが、使徒職の内容なのです。その使徒としての務めをパウロは神様から受けたのです。これは容易な務めではありません。神の恵みがなければ、務まる務めではありません。ですから恵みと、使徒の使命とが表裏一体の関係になっているのです。『恵み』と『使徒』という2つの言葉は、切り離すことのできない1つの意味の言葉になっているのだと思うのです。

 コリントの信徒への手紙一の15章7〜10節を見ますと、『次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。』とあります。パウロは、自分が使徒と呼ばれるに価しない者と言いながらも、他のすべての使徒たちよりも多く働きました。それは、『神の恵み、・・神の恵み、・・・神の恵み、』と、『神の恵み』が3度も繰り返し、強調されています。『神の恵み』と『使徒の務め』は2つの言葉にして、切り離すことのできない1つの意味を持っているのだと思います。

■『召された者』としての務め

 パウロが神様の恵みと使徒の務めを与えられたのには、明確な目的があったのです。それは『その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、』ということであったのです。簡潔に記しますと、異邦人に『すべての異邦人を信仰による従順へと導くために、』ということだと言うのです。これが、パウロが神様の恵みと使徒の務めを与えられた目的であると言っているのです。『信仰による従順』という言葉は、私たちにとって、あまり聞き馴染みのない言葉かと思います。『従順』と訳されたギリシア語は『ヒュパコエー』で、新約聖書では15回使われています。ローマの信徒への手紙では7回使われていて、パウロが特に好んで用いた言葉なのです。この『ヒュパコエー』という言葉をへブライ語にすると、『ミシュマアット』で、この『ミシュマアット』の語尾の変化する部分である『活用語尾』を除いた、言葉の意味を表す主体となる『語幹』は『シャーマ』です。ヘブライ語の『シャーマ』には、神様の言葉を『信じる』ことと、『それに聞き従う』という2つの意味が含まれています。旧約聖書に於いて、この『シャーマ』の最も有名な使用例は、申命記6章4節にある『シェマ・イスラエル』という祈りの言葉です。申命記の6章の4〜5節をお読みしますと、『聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』とあります。従って、パウロが本日の聖書の箇所で、『信仰による従順』と語っているのは、ヘブライ語の『シャーマ』という言葉を、『信仰(ピステオゥス)』と『従順(ヒュパコエー)』という2つの言葉で表しているのだと思うのです。つまり、パウロの言う『信仰による従順』とは、単に神様の言葉に耳を傾けるだけでなく、神様の言葉を心に留め、日常生活の中で愛と行動によって信仰を示すことを求めているのだと思います。

 フィリピの信徒への手紙の2章6〜8節で、パウロは『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。』と語っています。

 主イエス・キリストがへりくだって人間となり、十字架の死を引き受けて下さった、そこにこそ神様への真実の従順があると思います。従順であることができない私たちに代って、神の子である主イエス・キリストが神様への従順を貫いて下さり、それによって私たちに救いを与えて下さったのです。私たちに求められている『信仰による従順』とは、十字架の死に至る主イエスの父なる神様への従順が、この私たちのための従順だったと認め、その主イエスの従順によって与えられた救いの恵みを信じて受け入れ、主イエスに従う者となることだと思うのです。私たちの側には、救いを得ることができる相応しさなど何一つないのに、神様がただ恵みによって独り子主イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって私たちにも、死の力からの解放と永遠の命を与えると約束して下さった、その神様の福音を信じて受け入れ、愛と服従(行動)によってそれを示すことだと思います。そのことが、パウロが今日の聖書の箇所で、全ての異邦人を導こうとしている『信仰による従順』なのだと思います。

■『信仰による従順』への招き

 パウロはその『信仰による従順』へと、この手紙を読む全ての人々を招いています。それが6節の言葉で、『この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。』とあります。この6節で、パウロは異邦人が『信仰による従順』に至るために、神様によって召されたことを強調しています。1〜7節の中で、『召された』という言葉がどのように使われて来たかと言いますと、まず1節で、『キリスト・イエスの僕、(中略)、召されて使徒となったパウロ』、次に、この6節で、『イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。』とあり、さらに7節では、『神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ』と、パウロは『召された』という言葉を繰り返し使っており、強調して語っていることが分かります。

 『召された』と訳されたギリシア語の言葉は、形容詞の『カレートス』ですが、この言葉の基になっているのは、『名を呼ぶ、呼び出す、召す、召し出す』という意味の『カレオー』という動詞なのです。ただし、『召された』と言った時に、その『召し』には、内面的な意味合いと外面的な意味合いとがあるのではないかと思います。マタイによる福音書22章14節を見ますと、『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。』と、『婚宴のたとえ』の中で主イエスが語ったことが記されています。ここでの『招かれる人』とは、『呼びかけられる者』で、『選ばれる人』とは『その呼びかけに従う者』のことです。本日の聖書の箇所で、パウロは『召された』という言葉を、1節でも、6節でも、そして、7節でも、後者の『その呼びかけに従う者』の意味で使っていると思います。パウロは、ローマの教会の人々に対し、自分と同じように神様の呼びかけに従った者として、親しみと深い共感を込めて語っているということ分かるかと思います。ローマの教会の大多数は異邦人キリスト者でした。彼らは主イエス・キリストによって召されて、異邦人の中で、キリスト者となりました。彼らは異教世界から神様の恵みの中へと召し出された、同じ主に属する者、聖なる家族の一員であって、主にあって一つに結ばれたキリスト者なのだということです。

■恵みと平安があなたがたに

 本日の聖書の箇所の7節を見ますと、『神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。』とあります。この7節に記されている『神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同』の中には、パウロが第2次伝道旅行のコリントで出会ったプリスカとアキラの夫婦も含まれていました(ローマの信徒への手紙16章3節)。パウロはアテネでの伝道説教が不発に終わり、少なからず心に痛手を受けてコリントへやって来たときのことでした。プリスカとアキラの夫婦も、ローマ皇帝の勅令によってローマから追放されてコリントへやってきたのです。パウロにとっては『アテネ・ショック』、プリスカとアキラにとっては『ローマ・ショック』、この2つのショックがコリントで出会ったというわけなのです。この夫婦はパウロの語る福音のすばらしさに感動してパウロを支えただけでなく、パウロの語る福音を自らも教える同労者となりましたパウロがコリントからエフェソに移動する際、この夫婦はパウロに同行し、エフェソで彼らの家を解放して、福音を伝えていたようです。当時の伝道者アポロに対しても、この夫婦は福音を正確に教えたのです。ローマの信徒への手紙16章3〜4節を見ますと、『キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。』とありますように、この夫婦はパウロの命の恩人でもあったのです。

 さて、7節のパウロの挨拶は、神様の福音から来るパウロが独自につくり出した挨拶だと言うことができると思います。『挨拶を申し上げる』とか、『よろしく』といった挨拶が当時においては普通の挨拶でした。しかし、『恵みと平安があなたがたにありますように』というのは、パウロをはじめとする初期キリスト教の指導者たちが、手紙の冒頭で用いた定型的な挨拶です。

 『恵み』と『平安』は、ギリシア語では『カリス』と『エイレーネー』という言葉になりますが、ヘブライ語に訳すと『ヘセド』と『シャーローム』という言葉になります。この2つの言葉は神様から与えられる『原因』と『結果』を表わしています。『ヘセド』は、旧約聖書の中で248回も使われている言葉で、単なる感情的な『愛』ではなく、『契約(約束)への愛』という意味が含まれています。神様と民との間の契約に基づく『誠実さ』や『忠実な愛』を指し、相手がたとえ不誠実であっても、神様がその約束を守り続けるという不変の愛を象徴しています。従って、『恵み』、『ヘセド』の中心は、人間側の過ち(罪)に関わらず、約束したことに対する神様のゆるぎない行動的で忠実な愛を意味しています。そして、『平安』、『シャーローム』は、『恵み』、『ヘセド』によってもたらされるあらゆる祝福の総称を表わします。ですから、この『恵み』と『平安』は2つで1つの挨拶なのです。一方だけを切り離すということができないのです。

 パウロが生きた時代、ローマでは『平安』が脅かされるような時代でした。実際、プリスカとアキラは皇帝ネロの治世に殉教したと言われています。いつ、捕らえられて、殺されるかも知れないという時代に、パウロがこのような挨拶をすることができたのは、御国の福音に対するゆるぎない確信によるものだと思うのです。私たちもまた、神様の言葉を心に留め、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって示された、神様のゆるぎない愛を信じて、『信仰による従順』によって主イエス・キリストに従う者とされたいと思います。

  それでは、お祈り致します。