小倉日明教会

教会の歴史

1.日本キリスト教団 小倉日明教会の創立の概要

 小倉日明教会は、1930年に北九州小倉の地で日本組合教会小倉日明教会として伝道を開始し、1941年の教会合同によりに設立されました。

 小倉日明教会は、1928年から、数名の有志により、福岡より当時の日本組合教会福岡教会(注1)の中村正路牧師の応援を得て、小集会を営んでおりましたが、1930年1月1日日本組合教会小倉伝道所を小倉市鋳物師町に開始し、小山寅之助牧師を迎えました。1932年12月現在の会堂建築完成し、ここに移転しました。

*注1:現:日本キリスト教団警固教会

 日本キリスト教団警固教会は、1879年(明治12年)に始まり、福岡では、最も古いプロテスタント教会です。当時、熊本洋学校(藩校)の二期生で、同志社英学校で新島襄の教えを受けた不破唯次郎は、当時の早良郡原村(現在早良区原)にて伝道を開始しました。それがこの教会のはじまりです。その6年後の1885年(明治18年)6月7日に、幾多の困難を乗り越え、新島襄らの援助などにもより、福岡市呉服町(現在の昭和通り沿いの大名2丁目)に、「福岡基督教会」の名においてこの教会が誕生しました。

⇒会衆派教会

http://ja.wikipedia.org/wiki/会衆派教会

⇒新島襄

http://ja.wikipedia.org/wiki/新島襄

2.小倉日明教会沿革史

1948年7月5日付「日本基督教団小倉日明教会 教会設立承認申請書」より

設立ニ至ル経過ノ概要

「昭和三年有志数名ノ志ニヨリ、福岡ヨリ当時ノ日本組合教会福岡教会牧師中村正路氏ノ応援ヲ得テ毎月一回小集会ヲ催シ居リシガ、昭和五年一月一日日本組合教会小倉伝道所ヲ小倉市鋳物師町ニ開始シ小山寅之助牧師ヲ迎フ。昭和七年十二月現在ノ会堂建築完成シ、ココニ移転ス。昭和十一年末、小山牧師辞任。松井文彌牧師之ニ代ル。昭和十三年六月川村泰二郎牧師、松井牧師ニ代リ現在ニ至ル。本伝道所ハ日本基督教団設立ト同時ニ之ニ加盟ス。昭和廿三年六月六日総会ニ於テ教会設立ヲ決議ス。」

※ 日本組合教会福岡教会・・・現在の日本基督教団福岡警固教会

※ 中村正路牧師・・・日本組合教会福岡教会に1906年~1939年在任

※ 上記設立時(1948年)の信徒数31名

中村正路牧師出張伝道時代
 小倉は、昭和5年頃は人口未だ8万有余に過ぎざりしも、北九州五市の地理的中枢に位置し、地方一帯の工業的発展に伴い、全市の全般的発展は必然招来せらるるものと期待せられ、文化的方面に於いても、将来に備えるため各般の計画を見るに至る。此の情勢に着目して日本組合基督教会九州部会は当地に教会設立の意図を有せり。当時、存在せる新教は日基、聖公会、メソヂスト、ホーリネス、浸礼(バプテスト)の各派にして、旧教はローマン カトリック、ギリシア カトリックの二教会あり。人口に比して、その数多きに過ぐるとの感もないではなかったが、当時小倉市に在住の本郷教会員本多忠治氏は永年苦心せるところの事業漸く其の緒に着き、財政的にも感謝すべき状態にありたるため、同氏は教会の設立を企て、種々計画さるるところありたり。慈に於いてか九州部会は同氏に計り、教会設立のため九州部会も極力之を後援することとなり、直ちに福岡教会牧師中村正路氏毎月一二度出張して、本多氏を中心にしたる有志数名に伝道することに決し、昭和4年秋より翌5年秋迄約1ヶ年大阪曹達会社社員倶楽部清交舎に於いて略毎月一回程の予定にて集会を持続せり。

小山寅之助氏の赴任と教会結成
 中村正路氏出張伝道に依り、本多氏のみならず、小倉バプテスト教会客員として同教会に奉仕して居られたる原田恭介氏(明治専門学校教授)、石居三郎氏(小倉中学校教諭)等も組合教会設立に参加して、熱心奔走さるるに至り、遂に専任伝道者を迎えることに決せり。而して其の人選の斡旋を専ら中村正路氏に委嘱せられ、同氏の推薦に依り小山寅之助氏の赴任を見るに至れり。
 同氏は昭和5年11月15日に到着。直ちに日明町の一借家に住居し伝道集会の準備に着手せられたり。
(1)最初の礼拝並びに祈祷会
 小山寅之助氏赴任後第一回の礼拝は11月23日工場長矢野寛氏の好意に依り、大阪曹達工場倶楽部に於いて守られ、当日、数名の兄姉の集会あり、礼拝後、種々に懇談して、散会せり。
 同月26日(水曜)夜、第一回の祈祷会を開催し、数名の者と熱祷を捧げたり。
(2)移転と仮教会発会式
 日明町の住居は狭隘にして、集会上不便を感じ居りたる矢先、鋳物師町に適当なる借家ありたるを以て、12月1日、同所に移転し、12月7日、仮教会の発会式を挙行せり。
 当日のプログラム下記の如し、

 開会    午後三時              司会 本多愛治氏
 聖歌    184               会衆一同
 聖書    エペソ書 第1章 13〜23節   石居三郎氏
 開会の祈祷                   原田恭介氏
 聖歌    265               会衆一同
 教会設立経過報告     福岡教会牧師     中村正路氏
 同祈祷          組合教会本部  理事 西尾幸太郎氏
 式辞                      小山寅之助氏
 祝辞           小倉基督教連盟 代表 片谷武雄氏
              組合教会本部  理事 西尾幸太郎氏
 頌栄    462
 祝辞           福岡教会牧師     中村正路氏
 挨拶                      本多忠治氏

 式終了後、晩餐を共にして、種々懇談を交えたり。当日の出席者46名、頗る盛会なりき。市内各派の教師並びに山桝工場(現:小倉合成工業株式会社、創業名:山桝硬化油製造所)、大阪曹達工場員多数出席せられたり。
(3)第一回 クリスマス
 12月21日、第一回クリスマス礼拝を守り、役員就任式を挙行せり。本多忠治、原田恭介、石居三郎夫妻、役員として就任せられたり。
 同月25日午後一時より、会員家族相集まり、不準備ながら極めて親密なる祝会を行う。

 昭和6年度 組合教会特別伝道新地開拓教会の指定
 本教会は昭和5年1月より開始せられたる組合教会五ケ年継続特別伝道の新地開拓教会の指定を受け、年間六百円、三ヶ年間援助を受くることとなりたり。

 婦人会
 昭和6年2月12日 かねがね小倉貞子姉を中心にして計画せられつつありたる婦人会の発会を見るに至り、小倉姉宅にて十名の婦人集合し、各自今後の奮闘を誓いたり。
 3月22日、第1回親睦会を開催す。
 当日礼拝後、直ちに婦人会員の手になれる食事を取り、有志数名、卓上演説ををなし、和気に充ち、教会の前途益々多幸なるを思わせられたり。当日の出席者大人小人合せて48名なりき。
 4月12日、朝9時より、日曜学校を開校せり。児玉信太郎氏を校長とし、本多愛治氏、原田恭介氏等を教師として、奮闘せらるることに決せり。当日の出席児童35名、日曜学校を解せざる児童大多数にして、喧騒を極めたり。

 折尾伝道開始
 4月21日夜、折尾在住、東筑中学校教諭三浦義蔵氏宅に於いて、毎金曜日伝道集会を致すこととなれり。全夜、出席者14〜15名にて、頗る盛会なりき。

 5月23日午前10時より、日明丘上に於いて、大人小人合同にて、野外礼拝を行えり。

 第一回バザー (7月14、15両日)
 会堂建築資金を得んがため、婦人会主催にて室町九州法学校(現:九州国際大学)を会場としてバザーを開きたる処、意外の好成績にて四百有余円の純益のあがるを得たり。
 第一回林間学校
 日曜学校主催にて8月9日より15日まで、城内、経理部跡にて、林間学校を開催せり。参加人員は83名にて、1名の病者もなく、頗る盛会なりき。
 第一回女子青年会
 9月13日午後1時より、小倉滋子姉宅に於いて、女子青年会の発会式を挙行す。

3.2014年7月5日付「日本基督教団小倉日明教会 教会総会資料 2013年度教師総括」より

日本基督教団とのつながりの中で歩む当教会は、日本基督教団・九州教区・北九州地区の課題を祈りにおぼえ、その責任を果たして行きたいと思います。その責任は、日本基督教団の成立(1941年)にまでさかのぼります。近代日本に上陸したプロテスタント諸教派教会は、「神社は宗教ではない、国民儀礼である」との欺瞞を受容して、第一戒を破るという主への重大な罪を犯しました。教団はこのことを深く反省し、1967年の復活主日にいわゆる「戦責告白」を内外に表しました。

また、「教務報告」で紹介しています、2013年度関わってきた事柄は、いずれも「戦責告白」に立つべき重要性を確認させられます。聖書は歴史に働く神を語っています。主の前に正しく自己吟味し、キリスト・イエスのみを主と信じ告白する教会を形成することを再確認したいと思います。それは当教会だけの課題に終わらせないで、キリストの名によって建てられているすべての教会と連帯して課題を共有しなければなりません。

歴史に働く神を信じ告白することは、一般の歴史の動きに対しても無関心であることは許されません。当教会が遣わされている地域は、原爆投下目標地とされた歴史を負っています。小倉は近代の初めから陸軍部隊や兵器工場があった軍都でした。ところが第12師団の久留米移転(1925年)で経済的打撃を受けた小倉市は、再生をめざして関東大震災(1923年)後の東京兵器工場の誘致に成功し(1927年)、陸軍造兵廠小倉工廠が開設され(1933年)、その後小倉陸軍造兵廠と改名され(1940年)、現在の市役所から木町までの大軍事工場となり、開設から12年後に原爆投下目標地とされました。

戦争末期には学徒動員により中学生や女学生までも工場で働き、1944年から「風船爆弾」も作られました。当教会は、翌年から15年におよぶ戦争の時代が来る直前(1930年)に創立しています。信仰の先達を思い、今、ふたたびきびしい時代の到来を予感しつつ、「神こそ主である」を宣教の土台にして共に歩んで行きたいと願っています。また神は、寄留の民に対して特別な関心を寄せていることを聖書は語っています(申命記10:17~19)。このことからも在日大韓基督教会との連帯は、きわめて重要な意味を持っています。「在日大韓基督教会小倉教会との交流」が、世界聖餐日合同礼拝をはじめ、さまざまな交流をとおして宣教課題を共有することが与えられていることを感謝したいと思います。