| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 22 深き悩みより | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | イザヤ書 62章 6〜7節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 83 聖なるかな | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
マタイによる福音書 21章 1〜11節 (新約p.39) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 마태복음 21장 1절〜11절 | ||
| New Testament | The Gospel According to Matthew 21:1-11 | ||
| 圣 经 | 马太福音 21章 1〜11段 | ||
| 讃 美 歌 | 309 あがないの主に | 応答 | 着席 |
| 奨 励 |
『主の名によって来られる方』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 464 ほめたたえよう | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■ジョルディ・カザルスとラッサ熱
おはようございます。さて、1969年1月中旬、ナイジェリア東北部の奥地、人口1,000人のラッサ村の伝道所病院の看護師のローラ・ワインさんは医師の診察を受けたが、喉に潰瘍ができ、発熱していた。3日目に急に症状が悪化し、首が腫れ、皮下に点状出血が現れ、急性腎不全の症状も出て来たために、ローラさんは、人口10万人の町ジョスの病院へ飛行機で移送されました。しかし、ローラは移送された翌日、発病後6日目に亡くなってしまうのです。このときローラさんの受け持ちであった看護師シャーロット・ショウさんは、ローラさんが亡くなってから8日目に発病します。症状は点状の出血斑、喉と口腔内の潰瘍、首のむくみ、チアノーゼ(皮膚、粘膜が青紫色になった状態)などで、ローラさんとシャーロットさんの症状はよく似ていたのです。発病後11日目にシャーロットさんは亡くなるのです。解剖が行われ、看護師長であったペニー・ピンネオさんが解剖を手伝いましたが、その1週間後にペニーさんは気分がすぐれないことに気がついたのです。数日の間に症状が進行し、ペニーさんは入院するのです。こうして、3人の看護師が同じような症状で発病し、そのうち2人が亡くなったのです。
ペニーさんは米国で治療を受けることになります。未知の非常に危険なウイルス感染症が疑われたため、パンアメリカン航空のファーストクラスを借り切り、座席の代わりにカンバス製の担架に彼女は寝かされ、その周囲はカーテンが張りめぐらされました。発病後12日目にペニーさんは、ナイジェリアのラゴス空港からニューヨークのケネディ空港に到着し、エール大学病院に収容されます。体温は41.6℃まで上がってしまうのです。この体温は成人では生死の境となります。治療に当たった医師は、ペニーさんの全身を氷で冷やし、点滴で栄養を補給しました。ようやくのことで熱が下がり、隔離病棟で9週間過ごした後、5月3日、ペニーさんは退院することができました。しかし、まだ疲れやすく、息切れの発作は続いていました。眼球は絶えず左右に動きつづけ、耳鳴りも続いていたのです。
この頃、エール大学のジョルディ・カザルスさんの研究室では原因ウイルスの探索が行われていました。黄熱、デング熱、およびマールブルグ病が最初に疑われましたが、いずれも該当しませんでした。3人の看護師すべてのサンプルで同じウイルスが分離され、患者が発生した村の名前をとってラッサウイルスと名付けられ、病名はラッサ熱となったのです。
ペニーさんが回復に向かっていた6月初め、ラッサウイルスの研究を行っていたカザルスさんが発病します。発病後7日目、高熱で喉の状態も悪化してきたため、ほぼ回復していたペニーさんの血清を投与することが検討されました。医師団はまず、米国疾病制圧予防センター(CDC)の特殊病原室長のカール・ジョンソンさんに電話で相談をします。彼は1960年代初めに、ボリビア出血熱の対策に従事していた時、彼自身と同僚が感染し危篤状態から助かったことがありました。その後、別の軍人が感染して危篤となった際、回復していた同僚の血清を500ミリリットル投与したところ、翌日から熱が下がったことを見ていた。その経験から、彼はカザルスさんにペニーさんの血清を投与するように勧めたのです。
医師団による議論が行われます。カザルスさんが本当にラッサウイルスに感染しているのか分からないのです。ペニーさんの体内にラッサウイルスがどれくらいの期間存続するのかも分からないのです。もしもカザルスさんがラッサ熱でない場合には、血清の投与でラッサウイルスを感染させるかもしれないという意見も出されました。しかし、死に瀕しているカザルスさんに対する治療法はほかにはなく、血清を投与することが最終的に全員一致で決定されました。ペニーさんから提供された血清が500ミリリットル注射されたところ、奇跡的にカザルスさんの容態は回復しはじめ、30日後に退院することができたのです。
ぺ二ーさんの血がカザルスさんの命を救ったのです。血が人を救うのに有効なものとなるため、ペニーさんは死ぬほどの苦しみを経なければなりませんでしたが、彼女の抗体によって死の病は克服されたのです。すべての人は、神様に背を向けた結果、罪という病気にかかっています。この罪を洗い流すために、主イエス・キリストは十字架にかかって血を流して下さったのです。私たちが神様の裁きから救われるために、主イエス・キリストは完全な犠牲を払って、身代わりとなってくださったのです。
本日の聖書の箇所は、主イエス・キリストが生涯の最後に、エルサレムに来られた場面です。主イエスが子ろばに乗って、エルサレムへ入城された場面です。いよいよ主イエスの地上のご生涯の最後の1週間が始まるのです。主イエスがエルサレムへ入城されたのは日曜日で、その週の木曜の晩に捕えられ、金曜日には十字架につけられて殺されます。主イエスの十字架の死から3日目の次の日曜の朝に、復活をされました。マタイによる福音書は、その最後の1週間の出来事を21章から27章までかけて語っているのです。そして、主イエスがエルサレムに入城された出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書すべてに記されているのです。それは、この主イエスのエルサレム入城がとても重要な意味をもったということを示しているのだと思います。主イエスは『子ろば』に乗ってエルサレムに入場されるのですが、なぜ『子ろば』なのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■『主がお入り用なのです』
さて、本日の聖書の箇所のマタイによる福音書21章1〜3節を見ますと、『一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」』とあります。
主イエスの一行がオリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、主イエスは『向こうの村』に2人の弟子を使いに出されました。週報に掲載したエルサレム周辺の地図を見て下さい。オリーブ山が中心にあって、東の方にベタニアという村があります。ここは、マルタとマリアの家がある村です。ベタニアから、オリーブ山に向かって行くと、途中にベテパゲと書かれているベトファゲという村があります。そこから西の方に行くとオリーブ山の頂上があり、さらに1kmほど西の方にはエルサレムが広がっていることが分かります。主イエスはベタニアに泊まっておられて、エルサレムに向かう途中のベトファゲでロバの子を手に入れて、それに乗ってオリーブ山の頂上に立ち、それからエルサレムに入場されるわけです。ベタニアからエルサレムまでは徒歩で、毎日通うことができる距離なのです。オリーブ山の東側にある『ベトファゲ』は、ヘブライ語で『家』を意味する『ベート』という言葉と、『熟していないいちじくの実』を意味する『パグ』という言葉の合成語で、『熟していないいちじくの家』という意味になります。ヨハネの黙示録6章13節を見ますと、『天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。』とありますように、熟していない青い実は、不安定な状況の象徴として描かれることがあります。本日の聖書の箇所には、『オリーブの木』と『いちじくの木』とが暗に示されていると言うことができます。『オリーブの木』と『いちじくの木』は、イスラエルを代表する『木』です。イスラエルを代表する『木』を、暗に示すことによって、これから、主イエスの弟子たち、そして、ユダヤ人たちとその指導者たちに起きることが予表されていると思います。これから一体何が起こるのか。そのことは、本日の聖書の箇所の後に出てくる『いちじくの木を呪う』(マタイによる福音書21章18〜22節)というエピソードでより明確に予表されています。エルサレムで、主イエスに起きる出来事を悟っていたのは、主イエスの足もとに座って、主イエスの語る言葉に聞き入っていたベタニアのマリアだけであったからです(ルカによる福音書10章38〜42節)。なぜなら、ベタニアのマリアは主イエスの葬りのために、ナルドの香油を注いで、塗ったからです(ヨハネによる福音書12章1~8節)。葬りとは、主イエスが亡くなることを意味します。今まで、主イエスと共に過ごして来た弟子たちとは極めて対照的であったのです。。
■子ろばに乗って
もう一度、本日の聖書の箇所の1節に戻りたいと思いますが、ベトファゲで主イエスは『向こうの村』に2人の弟子を使いに出されました。そこに『ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいる』からです。そして、『それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。』というのが、主イエスが2人の弟子を遣わされた目的であったのです。『ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいる』という状況を整理すると、つながれている『ろば』は単数で、雌であっても雄であっても構わないのですが、子ろばが一緒にいるという文脈を考えると雌であったと思います。そして、繋がれていたろばが単数であったことを考えると、子ろばはつながれずに、雌ろばのそばにいたことがわかるかと思います。そして、2人の弟子たちが連れて戻って来たのは、『子ろば』だけでしょうか。それとも雌ろばと一緒でしょうか。答えは、主イエスが語った『『主がお入り用なのです』と言いなさい。』という言葉の中にあります。新共同訳聖書の訳文には表わされていませんが、原文では『主がそれらを必要としています』となっています。従って、2人の弟子たちが連れて戻って来たのは、雌ろばとその子ろばであったことが分かります。
主イエスはここで随分無理な、独断的な言い方をされているような印象を受けるかと思います。この箇所について、雌ろばとその子ろばの持ち主と主イエスとは、予め話がついていたのだと説明する人たちもいれば、一切のものは本当の持ち主が主イエスなのであって、主イエスのものを弟子たちが調達したのだと説明する人たちもいますが、はっきりとした根拠はありません。しかし、そのような無理な説明をする必要もないかと思います。この無理な出来事というのは、もっと大きな不条理、即ち神様の救いの出来事のために、神様の独り子である主イエスが十字架にかかるという、最も不条理なことが遂行されるための無理であったと思うのです。本日の聖書の箇所の、4〜7節を見ますと、『それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。』とあります。主イエスが弟子たちにお命じになり、向こうの村へ行って、そこでいきなり、ろばと子ろばを『主がお入りようなのです。』と言って調達するような無理は、この預言者の預言の言葉が成就、実現するためであったと思います。
この預言者の預言とは、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に、『娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者//高ぶることなく、ろばに乗って来る//雌ろばの子であるろばに乗って。』と記されています。『娘シオン』とは、都エルサレムの住民ことを指しています。そこに『あなたの王が来る。』とはエルサレムの王の到来、ダビデの子である救い主の到来を示しています。しかし、その王とは、『雌ろばの子であるろばに乗って』来る王なのだと言うのです。ここで重要なのは、雌ろばの子である『アイル』、つまり『子ろば』に乗って来ることが、救い主メシアのしるしだというのです。『見よ』と訳されている『ヒンネー』という言葉は、『終わりの日』に起こることに対して、注目させる呼びかけの言葉です。因みに、主イエスが白い馬に乗って来られるのは、再臨の時です。しかし、初臨に於いては、主イエスは『子ろば』に乗ってと預言されています。いずれも救い主メシアであることのしるしです。メシアのしるし、それは御国の柔和な王としてのメシアです。主イエスはその預言の成就を示すために、子ろばに乗ってエルサレムに入城なさったのです。主イエスは、まことに柔和で謙遜な王として来られたのです。マタイによる福音書は主イエスのエルサレム入城がこの預言の成就、実現であることをはっきりと述べています。主イエスが命じられたろばと子ろばの調達は、この預言が実現するためであったのだと思います。
■柔和な方で、子ろばに乗って
さて、ゼカリヤ書9章9節に記されている預言では、メシアはろばに乗って、それもまだだれも乗ったことのない、雌ろばの子の、子ろばに乗ってエルサレムに入場されることが語られています。当時は、高貴な者、身分の高い者、祭司たちもろばに乗っていました。馬に乗るのは戦士だけです。民衆は主イエスがこれまで多くの奇跡をもたらしたお方として、そして、『力あるメシア』として主イエスを歓迎したのです。しかし、本日の聖書の箇所で引用された預言によれば、彼は『柔和な方』だと記されています。それでは、『柔和な方』とはどんなお方でしょうか。ヘブライ語本文では『アーニー』という言葉が使われています。これは形容詞で、『貧しい、哀れな、悩み多い、へりくだった、柔和な』という意味の言葉です。そうした意味の象徴として『雌ろばの子である、ろばに乗って』と表現されています。つまり『アーニー』としてのメシアは、エルサレムにおいてユダヤの宗教指導者たちの拒絶に会い、受難を受けることを暗示していると思います。
■人々は目を覚ましたのか
しかし、それにしてもゼカリヤ書9章9節に記されている預言では、なにゆえメシアは子ろばに乗ってエルサレムに入場されると預言されているのでしょうか。『子ろば』と訳されたヘブライ語の言葉は『アイル』です。そして、この『アイル』の動詞『ウール』には『目を覚ます』という意味があります。一方、同じく『アイル』の動詞である『アヴァール』にはその反対の『盲目にする』という意味があります。このように、『子ろば』という言葉には、人を『盲目にし』、同時に『目を覚まさせる』という真逆の意味があるのです。ゼカリヤ書9章9節が引用された本日の聖書の箇所の前には、主イエスがエルサレムの町に入場する前に、2人の盲人の目を開かれるという話があり、そこには同時に、霊的に盲目にされている人々もいるのです。この現実を表わすために、『子ろば』が登場しているのです。それでは、人々は何に対して『盲目』にされ、逆に何に対して『目が覚まされる』のかと言いますと、それは主イエスこそ預言されていたメシアだということに対してということなのです。
■ダビデの子にホサナ
さて、本日の聖書の箇所の8〜11節を見ますと、『大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。』とあります。主イエスがエルサレム入城の際に、『大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。』とあります。いろいろなところから祭りのために集まった人々は、王が通るのにふさわしいように自分たちの上着を、ある者たちは木の枝を切って道に敷きました。ここで、『敷いた』と訳された言葉は、『ストローンニューミ』という言葉は未完了形で、それらを『次々にその道に敷いていった』ことを意味しています。そして、『ホサナ』と叫び続けながら、主イエスをダビデの子として、つまり王なるメシアとして、賛美しつつ、迎え入れたのです。
人々はロバの子に乗る主イエスを見て、主イエスをメシアとして歓迎したのです。ユダヤ人たちは、旧約聖書をよく知っていて、メシア予言を知っていて、ロバの子に乗ってあなたの王が来られるという言葉を理解して、その期待があったので、直ぐに応答したのです。ですから、本日の聖書の箇所で民衆が主イエスをメシアとして歓迎したというのは、人々はゼカリア書9章9節のメシア予言をよく知っていて、その予言の成就を見ていたということだと思います。しかも、主イエスは王として来られるというイメージを持っていたということです。人々は、自分の服を道に敷き、木の枝を切って道に敷きながら、『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』と叫んだのです。この箇所で、人々は好き勝手に叫んでいるのではないのです。旧約聖書の詩編の中には、ハレルヤ詩編、あるいは讃美の詩編とよばれる詩編があります。それが詩編113篇から118篇で、人々が唱えているのはそのクライマックスになる最後の118篇の25〜26節なのです。118篇の25〜26節には、『どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。』とあります。25節の『わたしたちに救いを』と訳された言葉が、アラム語で『ホサーナー』、ヘブライ語で『ホシャーナー』、あるいは『ホザーナー』なのです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書は、このヘブライ語の音をそのままギリシャ語で書き写しているのです。
『ホサナ』、『ホサナ』、『わたしたちに救いを』と叫ぶ、この人々の叫びは神様に届かなかったのでしょうか。いいえ、届かなかったのではなく、神様の定めた時ではなかったのです。
主イエスを迎えた多くの群衆は、旧約聖書が啓示している正しいメシアを知っているわけではありません。自分たちの国を再建してくれる王的な存在としてしか見ていませんでした。つまり、彼らは自己本位なメシア像しか持っていなかったということです。ですから、ましてや数日後、主イエスに失望することになるとは、この時点では全く思いもよらなかったに違いありません。彼らの失望は怒りに変わりました。エルサレムに入場された主イエスは拒絶されるのです。ですから、神様はもう一度、『主の御名によって来る方に祝福があるように』という預言を実現しなければならないのです。
主イエスを『ホサナ』、『ホサナ』と出迎えた群衆は、主イエスを、この世の王として、民族の独立や自分たちの生活の向上を信じて歓呼の声を挙げました。しかし、主イエスのまなざしは、都エルサレムの王宮やローマ総督の官邸ではないところに向かっています。それは死の征服であり、十字架、そしてその先の復活という最後の霊的な戦いに向かって、主イエスは進んでゆかれるのです。
この先の一週間の間に、主イエスは、弟子たちの足を洗って下さり、最後の晩餐を共になさり、ゲッセマネで祈り、そして捕らえられて、十字架に架けられて死ぬのです。神様の御子である主イエスの犠牲によって、信じる者の全ての罪が赦されて、永遠の命が与えられるためなのです。現在のキリスト教会は、主イエスの犠牲によって贖われた命に与っている者たちの共同体だと思います。私たちは、主イエス・キリストの十字架での死と復活によって、大きな恵みを受けたのですから、主イエスの言葉に従って、生きて行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
