| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 21 主をほめたたえよ | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | 詩編 64篇 11節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 305 イェスの担った十字架は | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
詩編 115篇 4〜8節 コロサイの信徒への手紙 2章 6〜8節 (新約p.370) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 골로새서 2장 6〜8절 | ||
| New Testament | The Letter of Paul to the Colossians 2:6-8 | ||
| 圣 经 | 歌羅西書 2章 6〜8段 | ||
| 讃 美 歌 | 442 はかりも知れない | 応答 | 着席 |
| 説 教 |
『死からいのちへ』 沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 456 わが魂を愛するイェスよ | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【説 教】 牧師 沖村 裕史
■偶像に依り頼む者は
金を万能のもの、最高のものとして崇拝することを「拝金主義」と言います。それは「金を拝むこと」、さらに言えば「金を神として礼拝すること」です。こうした神以外のものを「神」として礼拝することを、聖書は「偶像崇拝」として戒めますが、現代における典型的な偶像崇拝のひとつが、まさにこの「拝金主義」であることは否定できません。
わたしたちがふだん使っている紙幣のことを思い浮かべてみましょう。紙幣にはそれぞれに人間の顔が刷り込まれています。一九八〇年代以降でいえば、夏目漱石、福澤諭吉、新渡戸稲造、紫式部、野口英世、樋口一葉、北里柴三郎、津田梅子、渋沢栄一。かつては聖徳太子や伊藤博文などの顔もありました。外国の紙幣にも、やはり過去の有名人の顔が刷り込まれている例がいくつもあります。そうした紙幣を念頭に置いて、先ほどお読みいただいた詩編一一五篇を少し現代風に訳し直してみました。
「国々の偶像である紙幣は紙切れにすぎず/人間の手が造ったもの。
口があっても話せず/目があっても見えない。
耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。
手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。
偶像の紙幣を造り、金に依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる」
表現は少し異なるにしても、本質的には同じことを繰り返し告げています。「偶像」というものが、神々の姿に似せた像や絵画であろうと、紙幣やコインというかたちをとろうと、それらはみな、共通して「人間が造ったもの」にすぎません。そして、どんなに精巧で、どんなに魅力的に見えようと、それらは、人間に本当に必要なものを教えたり、真に人間らしい生き方へと導いてくれたりするものではありません。それはむしろ、わたしたち人間の欲望を肥大化させ、わたしたちをよりいっそう利己的で、傲慢な方向へと追いやりかねないことがあります。
この詩編の作者は最後に、「偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる」と断言しています。非常に意味深い言葉です。「偶像に依り頼む者」は、その「偶像」のようになる。「偶像」のとりことなる。「偶像」と同じレベルに留まることになる。「偶像」を自分のために利用しているつもりが、いつの間にか、その「偶像」と同じレベルにまで自分が墜ちていく。ついには、自分が造り出した「偶像」を自分で拝むことになる。
何という恐ろしい、そして何と愚かしいことでしょう。
ある意味、「偶像」とは「その人自身の姿を映し出す鏡」に過ぎません。その人が何を拝んでいるかということが、その人自身の本当の姿を映し出すことになるのです。「偶像」とは必ずしも、特定の宗教や信仰の神々を指すわけではありません。「偶像」とは詰まる所、自分自身の願いや自分の欲望を映し出してくれる「もの」や「イメージ」や「シンボル」のことであり、人はみな、そこに映し出された「自分自身」を拝んでいるのです。わたしたち人間はこうした「偶像」を礼拝することを通して、自分自身を絶対化し、隣人の必要ではなく、ただ自分が欲するもの、自分が願うことだけを必死に求めているとも言えるのです。
もっとも現実問題として、わたしたちが願い求めているものは実にさまざまです。そうした無数の願望、無数の「偶像」をいちいち、そのすべてを崇(あが)めたてまつるのは不可能、不合理なことなので、ふつう、わたしたちはそうした願望を最大公約数的にまとめた「神」を拝むということになります。。
■何が必要なのか
新聞を読んでいて、そこに載っていた「生活実感」についての世論調査の結果に目が留まりました。二千二百人あまりの人へのアンケートの結果でした。その中に、こんな質問がありました。
「もし、お金で買えるとすれば、あなたは何を買いたいと思いますか」
この問いこそ、現代人の「偶像崇拝」の核心にかかわる問いです。誰であれ、単なる紙や金属にすぎない「お金」そのものに最終的な価値があると信じているわけではないでしょう。問題の本質は、「お金」という「偶像」によってその人が最終的に欲しいと思っているものは何なのか、ということです。
この質問に対する答えの第一位は、五四パーセントの人が支持した「健康」でした。第二位は一五パーセントの「時間」。第三位はふたつあって、一一パーセントで「若さ」と「才能」でした。年代によって多少の違いはあるものの、これらはそれなりに現代人の願いを反映した答えであると言えるでしょう。
しかしこうした答えを前にして、さらに問うべきことがあります。「健康」を「お金」で「買いたい」と思う人にとって、「では、なぜ健康が必要なのか」ということです。同じく「時間」を「買いたい」という人に対しては、「なぜ時間なのか、時間があったらどうしたいのか」。「若さ」や「才能」についても、なぜそうしたものを「買いたいのか」ということです。
すべての「偶像崇拝」の曖昧さとその危険性が、この「なぜ」という問いにかかっているように思います。「なぜ、あなたはそれを手に入れたいのか」「なぜ、それがあなたに必要なのか」。そうした問いを問わないままに、豊かな実りを約束し、子孫繁栄を約束し、また健康や時間や若さや才能を約束する「偶像」の正体とは、結局のところ、人間の利己的な、曖昧な欲望の投影にすぎないのではないでしょうか。それは、たとえ一度は満たされたとしても、遅かれ早かれ、尽きることのない無限の欲望にわたしたちを誘(いざな)うものであり、どこまでもわたしたちを貪欲な存在へと追いやり、堕落させていくような力なのではないでしょうか。
「偶像」そのものには、そのような人間の傲慢さを批判したり、人間の抱(いだ)いている利己的な願いや欲望を正したりする力、働きはありません。「偶像崇拝」というのは一種の機械操作のようなもので、一定の「儀式」をしてやりさえすれば、自分の思い通りの現実を引き出すことができるシステムのようなものです。現代のわたしたちが各種カードを使って、思い通りの品物やサービスを手に入れたり、パソコンを使ってさまざまな情報を手に入れたりするような、からくり仕掛けのようなものだとも言えます。
しかし、まことの神とは、人間に利用されるような神、人間が利用すべき神のことではありません。わたしたちは、まことの神を自分の思い通りに操作することなどできません。それこそが、神です。
まことの神とは、その御前に立つ時、わたしたちが「新たにされる」ような経験を与えてくださるお方のことです。まことの神とは、わたしたちに圧倒的な力で迫り来るお方であり、わたしたちの傲慢を打ち砕き、わたしたちに悔い改めを要求し、それと同時に、わたしたちを愛し、わたしたちを支えて、わたしたちを本当に「人間らしい人間」にまで立ち帰らせてくださるお方のことである、と聖書は教えています。
■委ねる信仰
偶像礼拝についての最も重要な聖書の教えといえば、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と語り始められる出エジプト記二〇章三節から五節前半ですが、その前文にこんな言葉が置かれています。二節、
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」
十の戒めの大前提として、神とイスラエルの民との関係について語る言葉が、冒頭に告げられています。奴隷の地エジプトからイスラエルの民が脱出し、ここシナイ山の地に至るまでに、実にさまざまな困難が、危機がありました。繰り返し前言を翻すエジプト王ファラオの頑なな態度、葦の海にまで迫ってきたエジプト軍、荒野での渇きと飢え、それらに耐えて、ついにここに至りました。逃亡奴隷の一団がある秩序を保ちつつ、荒野を旅してカナンの地にまで至る、その苦労は並大抵のものではなかったでしょう。しかしそれらを乗り越え、今ここにまで至ってしみじみ思うことは、出エジプトの歩みは自分たちの力でできたことではなかった、ということです。
「『わが足すべりぬ』と思いし時、主よ、汝は我を救いたまえり」(詩編九四・一八、文語訳)という言葉がありますが、これは、神の支えなくして、とてもここまで来ることはできなかった、という心からの告白です。信仰の人生は、受け身の人生です。神に支えられている自分を発見することです。
しかし、神に支えられている自分を驚きと感謝をもって発見することはまた、「神の導きに自分を委ねる」決意をすることでもあります。それは、神の御心にのみ従って生きようとする決意です。神の御心に逆らって生きようとする自分に戦いを宣言することです。
受け身の人生というと、いかにも主体性のない生き方のように人は誤解するかも知れませんが、信仰の人生は極めて主体的な生き方です。今までの神の恵みと導きを何かあたり前のものとするのではなく、自覚的に感謝をもって受けとめ、これから後は御心に従って生きていこうと主体的に決断することです。
旧約では、信仰とは神を恐れることであると言われます。神を恐れるとは、神以外の一切のものを恐れない。人を恐れない、世間を恐れない、災難や不幸を恐れない、死すらも恐れない、神のみを恐れるということです。このように御心に従って生きていくということは、神を恐れるということがそうであるように、極めて自律的な、また戦いを強いられる生き方です。しかしその戦いは、もちろん他を打ち倒すためではなく、隣人を生かすためであり、そのことによって、真に自分も生かされ生きるためなのです。
■キリストに結ばれて
わたしたちと神との関係は「取り引き」したり、機械を「操作」したりするような関係ではありません。わたしたちと神との関係は「人格的な交わり」です。それは、信じること、誠実であること、受け入れること、赦すこと、そして何よりも愛すること―人が「人として」生きるために欠かすことのできない、もっとも大切で、もっとも基本的なすべてのことの上に成り立つ関係である、と言えるでしょう。
このことについて、わたしたちは多くの信仰の先達たちの生き方や行動を、その証しとして挙げることができます。病気や障がいを負った兄弟や姉妹が「健康」な者たちにも勝って、澄んだ信仰と深い感謝の姿をもって神の愛を証しした、いくつもの例をわたしたちは知っています。また年老いた姉妹や兄弟の中にも、長い信仰生活の中から知り得た神の祝福を証しした、多くの方々がいたことをわたしたちは知っています。そして、人目を引くような才能を発揮し、卓越した業績を残したとも思えない兄弟や姉妹たちの中に、日ごとの生活を通して神の恵みを証しした、多くの人々がいたことをわたしたちは知っています。あえて言えば、「健康」が失われた時も、人生の「時間」の残りわずかな時も、「若く」ない年老いた時にも、そして「才能」もなければ、たとえ何もできなくなった時にも、それでもなお、わたしたちは神を賛美することができるのです。そして神を賛美することによってわたしたちは、自分が信じる者として神に感謝し、生かされ生きていることを証しすることができるのです。
このことは何よりも、わたしたちのイエス・キリストご自身がその身をもって示されたことでした。十字架において、「健康」も「時間」も、人生のすべてが失われようとする時にも、主は神に向かって「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ二三・四六)と祈られました。この姿こそ、キリストの証人たちの原型であると言えるのでしょう。
コロサイの信徒への手紙は、こう教えています。「あなたがたは、主イエス・キリストを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。…人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」(二・六、八)
「キリストに結ばれて歩みなさい」。「偶像に結ばれて」でもなければ、「自分自身の願望や欲求に結ばれて」でもありません。神からの祝福をわたしたちに伝え、わたしたちの賛美を神へと取り次いでくださるイエス・キリストに「結ばれて」、すなわち「まことの神であり、まことの人」として歩まれたこの方に「結ばれて」、わたしたちが最後のその時まで、与えられたこの人生の日々を歩む時にこそ、わたしたちは、自分を取り巻くさまざまな「偶像」に惑わされることなく、神によって創造されたかけがえのない、あるがままの、本当の自分自身へと立ち帰り、「新たないのち」に生きる者となるのです。
旧約学者・浅野順一による「教会」と題する一文があります。
「問題はエゴイズムと闘っているかどうかということです。それでいいとすましているか、それではいかんと戦っているか、どっちかだと思います。…サタンのようにエゴイズムがいろいろなもっともらしい、美しい姿に変えてわたし共に近ずき迫ってきますからわからない。そこでわたし共はひっくり返されてしまう。そういう点で、わたし共は神経質になるということはいいことではないと思いますけれど、神経質と敏感とどうちがうかわかりませんが、やはり敏感にならなければだめです。信仰ということは、わたしの理解ではサタンに対して敏感にならせることだと思います。世の中があたりまえだと考えていることでも、わたし共から言えばあたりまえでないというふうに考えさせるのが、わたしは信仰の一つの働きではないかと思うのです。キリストという幹にわたし共がしっかりつながっていると、世の中があたりまえと思っていることが、あたりまえでなくなる」
クリスチャンは、自分の罪や世の中の悪に対して敏感でなければなりません。では、どうすれば敏感になるのか。偶像礼拝の戒めがその道をわたしたちに示しています。レントの季節、この真実を、わたしたちは心に刻みつけなければなりません。
