| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 8 心の底より | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | イザヤ書 57章 17〜21節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 141 主よ、わが助けよ | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
ローマの信徒への手紙 1章 18〜23節 (新約p.274) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 로마서 1장 18절〜23절 | ||
| New Testament | The Letter of Paul to the Romans 1:18-23 | ||
| 圣 经 | 罗马书 1章 18〜23段 | ||
| 讃 美 歌 | 454 愛する神にのみ | 応答 | 着席 |
| 奨 励 |
『天から啓示される神の怒り』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 516 主の招く声が | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■アタナシウス・キルヒャーと天球儀
おはようございます。17世紀のドイツが生んだ偉大な科学者にアタナシウス・キルヒャーという人がいました。キルヒャーは数学、考古学、哲学、神学を修めた優れた学者でありながら、創造主なる神様を信じるイエズス会の司祭でもあったのでした。彼の友人に無神論を信じている科学者がいました。彼はキルヒャーを非難してこう言ったのです。
『君は科学者なのに、神が天地を創造したという聖書の神話を信じているのはおかしいよ。』
キルヒャーは何とかしてこの友人に創造主を知らせたいと願いました。彼は科学的な方法で導くことはできないだろうかと考えて、天球儀を造ることにしました。彼は時間をかけて、地球が太陽を中心に公転と自転をしながら回っている精巧な模型を作りました。
友人がキルヒャーを訪ねて来たとき、机の上に置かれた天球儀を見てこう言いました。『キルヒャー君、これはすばらしい天球儀ではないか。いったい誰が造ったのだろうか?』
キルヒャーは答えました。『うん。ある日突然、偶然にそれはできたのだよ。』キルヒャーがそう答えると、友人は怒ってこう言い返して来ました。『バカなことを言うんじゃないよ。こんな見事な天球儀が、偶然にできるわけがない。』
そのときキルヒャーは次のように答えたそうです。『君は、この太陽系の模型が誰かによって作られたと分かっていながら、どうして、これよりもはるかに大きくて精密にできて動いている宇宙が、いつも偶然に出来たと考えているのだい?』。
このようにキルヒャーは語ったそうです。天地万物、全てを精巧に造られた神様は、この地上に生きている私たちをどのように見ておられるのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■一転して神の怒り
さて、前回、このローマの信徒への手紙1章16〜17節についてお話しましたときに、『神の義』と言ったときの助詞の『の』は、『行為者の属格』という文法的用法が使われていて、例えば『お父さんの贈り物』というフレーズを考えてみたときに、このお父さんが子供に贈った贈り物は、ひとたび贈るという行為をすると、贈られた品物は、お父さんの手を離れ、贈られた人の手に渡り、その人の所有物となりますが、ここでの助詞の『の』は、行為する主体を指すと同時に、行為の後には、行為する主体に所属していた事柄が行為を向けられた相手に及ぶという意味を持っているということをお話しました。従って、『神の義』の意味するところは、『神は義しい』お方であるけれども、神様はその『義しさ』を、救い主の犠牲(主イエス・キリストの十字架と復活)という形で、罪深い私たち人間への『贈り物』として与えて下さることから、その神様の『義しさ』は贈られた人間に所属するものとなり、神様の前に『義しい』者とされることによって、人間は救われるということをお話しました。
従って、義人というのは、その人が良い人になったという意味よりも、無罪だと言ってくださるということなのだと思います。なぜかと言いますと、主イエス・キリストに私たちの罪が転化されて、主イエス・キリストの義が私たちに転化されたからだと、聖書は伝えているのです。
このローマの信徒への手紙では、今日の聖書の箇所の1章の18節から5章の21節まで、かなりのボリュームを割いて義人について論じられています。しかし、これから数回にわたってローマの信徒への手紙を取り上げるときには、お話をする者にとっては、非常に苦しい時が続くことになります。それはなぜかと言いますと、あなたは徹底的な罪人だということを確認させられる箇所なのです。ところが聖書を理解するうえでは、このことが非常に大切なのです。私たちは、罪人としての自覚がないのなら、救いを求めて神様のもとに来ることはないからです。自分が霊的に病人であることを知らなければ、霊的な医者である主イエスのもとに行こうとは思わないのです。ですから、パウロは、義人の話をする前に、まず全ての人が有罪であることを論証しようとしているのです。この全ての人に対する有罪宣言が、今日の1章18節から3章20節まで続くのです。パウロはなぜ私たち人間に対する有罪宣言をこのようにボリュームを割いて書いているのでしょうか?
■元NFLスター選手、ウィリアム・ペリー
アメリカで人気のあるスポーツ競技にアメリカンフットボールがあります。1985年にスーパーボウルにも優勝したことのある人気チームにシカゴ・ベアーズというチームがあります。そのシカゴ・ベアーズの巨漢のディフェンスラインマンとして人気を博した選手にウィリアム・ペリーという選手がいました。身長は188cm、体重152kgという巨漢であったことから冷蔵庫(The Refrigerator)と呼ばれて、親しまれた選手です。しかし、このウィリアム・ペリーが恐れているものが一つあったのです。それが何かと言いますと、歯医者に行くのが怖かったというのです。20年間歯が痛むのに、一度も歯医者に行かなかったのです。虫歯と歯周病から、歯茎が痛んで、歯がポロポロ抜け落ちたり、欠けたりして、半分ほどの歯がなくなってしまう事態となってしまうのです。中の何本か自分で抜いたそうです。それで45歳になった時に、残った歯の痛みに耐えかねて、ついに彼は歯医者に行ったのです。
歯医者はそれを見てびっくりして、残っていた歯を全て抜いてしまうのです。そして、インプラントと言いますが、失ってしまった歯のあごの骨にチタンやチタン合金でできた複数の『人工の歯根』を埋め込み、その上にセラミックなどで作った『人工の歯』を被せる大手術を行ったのです。手術の費用が総額で6万ドルであったと言いますから、現在のレートで言えば、約900万円かかったということです。彼の手術を行った歯科医院は、この大手術を無償で行ったのです。おそらく、彼の場合は宣伝効果を考えてそのようにしたのだと思います。
記者のインタビューを受けたウィリアム・ペリーが何と答えているのかと言いますと、『歯医者に行ってよかった。新しい歯が与えられるなんて信じられないね。俺はすごくこの歯が気に入っているよ。歯茎がいつも傷んでいるのはもうごめんだ。』と語っているのです。それは当たり前のことです。そんな当たり前のことに気がつくのに20年もかかったのと考える人は多いのではないでしょうか。
このエピソードの教訓は何かと言いますと、人は痛みを避け続けていると、とんでもない結果になってしまうということです。今日から何回かローマの信徒への手紙を取り上げて行く中で続く、この有罪宣言の話はこの手紙を書いているパウロとしてもできれば避けたい話だろうと思います。むしろ人々の心をくすぐるような励ましの言葉を語りたいという誘惑に駆られる箇所だと思います。私たちは、歯が半分なくなってしまったウィリアム・ペリーのように、霊的に大手術を受けなければいけない存在なのだということが、深底わかることが、神様の救いを理解する前提条件になるのだと思うのです。そこで、私たちは霊的な歯医者である神様から治療を受けてみたいと思うのです。それが、これから数回、このローマの信徒への手紙を取り上げてお話しする際の前提となることだと思います。
■なぜなら神の怒りが
さて、本日の聖書の箇所の1章18節を見ますと、『不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。』とあります。新共同訳聖書の翻訳には現れていませんが、16節及び17節と同様に、18節の頭にも同じく、『なぜなら』にあたる『ガル』という言葉がついているのです。従って、この『ガル』という言葉がついていることで、17節と18節もつながっているということが分かります。そのことから分かるのは、15節から16、17節は話がつがなっており、17節と18節もまた繋がっている、ということです。翻訳では15節と16節の間に段落があり、新しい小見出しが付けられています。17節と18節の間もそうです。しかし、そういう段落や小見出しは後から付けられたものですので、書いているパウロはここで文章を区切ることなく一気に書いているのです。15節で彼は、ローマへ行って福音を告げ知らせたい、という願いを語りました。そして、16節ではその願いの根拠を、『なぜなら、私は福音を恥としないからだ、福音は、信じる者全てに救いをもたらす神の力なのだ』と語ったのです。そして、17節では、その16節で語ったことを受けて、福音が神様の力であるのは、福音に神様の義が啓示されているからだ、と語っているのです。その話の流れが、今日の18節にも続いているのです。17節の、神は福音においてご自身の義を啓示して下さっているということを受けて、18節は、神は同じように人間の罪に対するご自身の怒りを現わしておられる、と語っているのです。つまり18節は『なぜなら』という接続詞によって17節と繋がっていて、『神の義』が啓示されることと、『神の怒り』が現されることが、一つに繋がっていることを示しているのです。17節と18節が一つに繋がっていることは、17節の『福音には神の義が啓示されている』の『啓示されている』と、18節の『神は天から怒りを現される』の『現される』は、ギリシア語の原文では、『アポカルプテタイ』という同じ言葉が使われているということからも分かります。この『アポカルプテタイ』という言葉は、『覆いが取り除かれる』、『啓示される』、『表される』を意味する言葉です。そして、いずれも現在形で語られています。現在形は、ある事柄が今起りつつある、進行していることを表しています。つまり17節と18節でパウロは、『神の義』が、今、福音において啓示されつつある、それと同時に、人間の罪に対する『神の怒り』も、今、示されつつある、その両者は矛盾することではなく、一つのこと、表と裏のような関係なのだ、ということを語っているのです。『神の義』と『神の怒り』とが、同時に啓示されているということはどういうことか、そして、神様は人間をどのように見ておられるのかということを次に考えてみたいと思います。
■不信心と不義
皆さんが犬を飼っていて、散歩をさせていて、公園で皆さんを振り切って、公衆トイレに駆け込んで、公衆トイレの便器から水を飲んでいるとしたらどうでしょうか。そして、便器から飲み終わって、顔を上げて、その口の周りの髭の部分から水が滴り落ちていて、そして、飼い犬を見ている主人に向かって、『こんなにうまい水はないよね』と言ったとしたら、皆さんはどうしますでしょうか?皆さんは、よしよしとは言わずに、やめさせることと思います。公衆トイレの便器から水を飲んでいる飼い犬を見るときに、私たちが感じる不快感が、神様が私たちの罪をご覧になるときにお持ちになる不快感なのだと思います。神様が私たち人間をご覧になった時に、なぜお怒りになるのかと言いますと、それは清らかな御霊(みたま)の水があるのに、泥水のところに行って、泥水の方が美味しいと言っているからです。神様の不快感、神様のご立腹というのは、愛のゆえです。愛があるから、私たちの現状に対して黙って見ているわけにはいかない。それが神様の怒りの内容なのです。神様の怒りは何に対して、向けられているのでしょうか。それは不信心と不義だというのです。不信心というのは宗教的な意味での罪だと言うことができると思います。神様を無視すること、あたかも神様がいないかのような生活を続けていること。これが不信心です。不義というのは文字通り正しくないこと、悪だと言うことができると思います。私たちが罪という言葉によって普通に思い浮かべるのは、この不義のことです。不義は目に見える形で私たちの生活の中に現れ、様々な問題を引き起こします。私たちはそういう不義、罪が自分にあることを知っています。しかし、ここで注目すべきなのは、その不義という言葉が18節で2回使われていることです。18節の前半で、『不義によって真理の働きを妨げる』とあります。不義は真理の働きを妨げるものだと言うのです。私たちは、自分や他の人の不義・悪によって様々な問題が起り、それによって嫌な思いをしたり、自己嫌悪に悩まされたりすることはしばしば体験するわけですが、不義が真理の働きを妨げるということについてはあまり考えていないのではないでしょうか。しかし、パウロはこれこそが不義のもたらす最大の問題であり、人間の罪の根本がそこにあると言っているのです。
『不義によって真理の働きを妨げる』という箇所は、直訳しますと、『不義の中に真理を閉じ込める、押さえ込む』となります。つまり不義は、私たちの中で働こうとしている真理を閉じ込め、働けなくしてしまうというのです。その真理とは、主イエス・キリストのことだと言うことができると思います。主なる神様は私たちの中で、真理である主イエス・キリストが力を発揮し、働くことを願っておられるのです。しかし、私たちの不義、罪が、主イエスの働きを妨げ、閉じ込めてしまう、私たちの罪の最大の問題はそのことだというのです。私たちのする一つ一つの行いが、倫理的道徳的に問題があるということよりも、私たちが主イエス・キリストを自分の心の中の牢獄に閉じ込めてしまい、働けなくしてしまう、主イエスのみ言葉を封じ込めて、あくまでも自分の思うがままに生きようとすること、それが不義だと言うのです。
パウロは、私たちのこのような不信心と不義に対して神様が怒りを現される、そのことが、主イエス・キリストによって神の義、救いが啓示されるところに同時に起っている、と語っています。神様は、人間の罪を赦し、救って下さる方であるだけでなく、人間の罪、不信心と不義とに対して激しくお怒りになる方なのです。しかも、その怒りは、今この時に現されているのだということを、18節の『神は天から怒りを現されます。』という箇所の『現されます』と訳された『アポカルプテタイ』という言葉が現在形であることによって示されていると思います。私たちは、この神様の怒りを、今自分に向けられているものとして真剣に受け止めなければなりません。それは救いの福音の有り難さを際立たせるための単なる陰ではありません。さっさと切り上げて救いの恵みを語っているところに進んだ方がいいというものではなくて、私たちが真剣に向き合わなければならない現実なのです。それは、福音において啓示されている『神の義』を受け止め、その救いにあずかることは、『神の怒り』をしっかりと見つめることなくしてはあり得ないからです。主イエス・キリストによる神様の救いの恵みは、私たちの罪に対する『神の怒り』と裏表の関係にあると思います。神様の怒りは、主イエス・キリストによって啓示された福音に背を向けた私たち人間に対する真実な愛の現れなのだと思います。
■噛み癖
罪に滅び行く私たち人間を見ながら、神様が私たち人間をどのように見ておられるのかということを考えますときに、向田邦子さんという作家が書いた、『噛み癖』という題のエッセイが思い出されるのです。少し長くなりますが、全文をご紹介したいと思います。
噛み癖 向田邦子
爪を噛む癖がある。
子供の時分は、爪だけでなく袂(たもと)からセルロイドの下敷きまでかじっていた。三角定規や分度器も歯型通りにデコボコになり、いつも隣の席の友達に借りていた。借りた三角定規を噛んでしまい、泣かれたこともあった。
一番噛み易いのは、鉛筆のお尻である。
消しゴムのついたのは、噛み甲斐(がい)がない上においしくないので敬遠した。塗料を塗ったのは、口の中に薬くさいザラザラが残るので嫌いだった。あれは何という会社のだったのか、白木に近いのがあって、噛むと材木置き場で日向(ひなた)ぼっこをしているような匂いと味のするのがあった。
年頃になって唇の形が悪くなる、と親にも叱られ、努力もしたのだが、不惑を遥かに越えてまだ駄目なのだから、恐らく死ぬまで直らないであろう。この文章も、爪を噛みながら書いている。
二十五年前になるが、犬を飼ったことがあった。
白黒ブチの雑種でボンという名前だった。大型だが甘ったれで飼い主には実に従順なのだが、噛み癖があった。はしゃぐと際限がなくなり、手当たり次第に歯を立ててしまう。凶暴性からくるのではないから甘噛みに近いのだが、図体が大きいので知らない人はびっくりする。叫び声を立てて逃げたりすると、遊んでもらっていると思うのか尻尾を振ってどこまでも追いかけ、スカートやズボンに歯を立てた。
太い杭を地中に埋め、それに繋いで置いたのだが、カランカランと引き抜いた杭を引きずりながら近所を走り回って、噛み癖は直らなかった。その度(たび)にそれこそ裸足(はだし)で飛び出して体ごと犬を抑え込み、こちらの頭も犬の頭も一緒に地面にすりつけて詫び、裂けた衣類を弁償していたが、度重なると詫びだけではすまず、保健所へ送ることになってしまった。
母犬は目黒の魚屋さんの犬で、あとで聞いたところ一胎(ひとはら)三匹の兄弟とも噛み癖があったという。
明日はよいよお別れ、という日、私は勤めの帰りに彼の一番の好物だったウインナ・ソーセージを買った。雨の日で、ハトロン紙の封筒が濡れて底が抜け、吉祥寺駅のプラットホームに中のものをぶちまけてしまった。黒く濡れたホームに毒々しいほど赤いソーセージが散乱した。私はそれを拾い、井の頭線に乗ったのだが、そばの人達がいやに私の顔を見る。
母親らしい人が、連れの女の子に、
「洗って食べるから、大丈夫よ」
と言って聞かせているのを聞いて事情が判った。人間が食べるのではないんです。うちの犬が食べるんです。いい奴なのですが、明日保健所にやらなくてはならないんです。そう叫びたいのをこらえていた。
泥のついたソーセージは、よく洗い掌(てのひら)にのせて一本ずつ食べさせてやった。ボンは私の掌を甘噛みしながら太い尻尾を振っていた。雨に濡れた犬の体は、冷たいおみおつけの匂いがした。
私とボンは同じだ、同じ噛み癖があったのだ、と気がついたのは迂闊(うかつ)なはなしだが、ついこの頃のことである。人間に生まれたおかげで私は保健所に送られることもなく、マニキュアも出来ない短い爪にひけ目を感じながら生きている。ボンも飼い犬になど生まれず、自由に自然の中を走り回っていた狼の昔に生まれていれば幸せだったのだ。
それにしても、私は爪を切るのにほとんど鋏(はさみ)を使ったことがない。お恥ずかしいことだが、子供の時分は足の爪まで歯で噛み千切っていた。
陽当たりのいい縁側で、歯で足の爪を噛んでいたら庭木戸から急に植木屋さんが入ってきて、あわてて引っくり返り、敷居で頭のうしろにコブを作ったこともある。
四十年ぶりに試してみたが、固くなった体は言うことを聞かず、あと三センチというところで無念の涙をのんだ。
このような作品なのです。この『噛み癖』という作品の中で、向田邦子さんは噛み癖の治らなかったボンという飼い犬に愛惜の情を切々と記しています。罪に滅び行く私たち人間を見ながら、神様もまた、怒りと同時に、私たち人間に対する惜しむ思いを明らかにされていると思うのです。その神様は怒りと惜しむ思いを主イエス・キリストの十字架と復活によって啓示された福音によって明らかにされているのだと思います。
■神様は今
パウロは、『神の義』の啓示も、『神の怒り』の啓示も、どちらも今起りつつある、進行していることを表す現在形で語っているということをお話しました。主イエス・キリストの十字架と復活における『神の義』と『神の怒り』の啓示は、私たち人間にとって昔々のお話しではありません。今起りつつあることなのだというのです。私たちがこうして礼拝を守り、そこでみ言葉を聞くことによって、聖霊の働きにより、十字架にかかって死んで復活なさった主イエス・キリストと出会わされることによって、そのことは起きているのだというのです。
私たちは主イエスの十字架と復活によって与えられる『神の義』を新たに啓示され、それを今自分たちが纏うことのできる救いの恵みとして受けることによって、私たちは生かされて行くのです。その時に、私たちの不信心と不義も、それに対する神の怒りと裁きも、今、この滅ぶべき罪人である自分のこととして受け止めることができるのだと思います。そして、それと同時に、その『神の怒り』を主イエスが私たちに代って引き受けて下さり、罪の赦しを与えて新しく生かして下さることもまた、今、この自分のこととして示されているのだと思います。私たちは、主イエスの十字架と復活によって与えられた神様の救いの恵みを、今、自分に起りつつある出来事として受け止め、主イエスの福音に従って歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
