小倉日明教会

『踏みとどまる所で』

コリントの信徒への手紙二 6章 1〜13節

午後3時00分〜

2026年1月4日 降誕節第2主日礼拝

コリントの信徒への手紙二 6章 1〜13節<br />

『踏みとどまる所で』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 10 今こそ人みな 応答 起立
招   詞 マルコによる福音書 9章 23節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 367 偉大なみ神の 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

コリントの信徒への手紙二 6章 1〜13節

                                                (新約p.331)

啓示 着席
성  경 고린도후서 6장 1〜13절
New Testament The second letter of Paul to the Corinthians 6:1-13
圣  经 哥林多後書 6章 1〜13節
讃 美 歌 523 神を畏れつつ 応答 着席
説   教

『踏みとどまる所で』

       沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 91 神の恵みゆたかに受け 応答 起立
祝   祷

       沖村 裕史 牧師

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■神と共に働く

 「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」

 パウロは今、神を信じる自分たちのことを「神の協力者」と言います。口語訳聖書では「神と共に働く者」と訳しています。神を信じる者は神の働きをしている者だということです。神を信じる者は、神の御心を自分なりの仕方で行っている者、そういう意味で「神と共に働く者」と言われているのです。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ五・四四)と御子イエスが教えられた神の御心を行うことは、むろん楽なことではありません。自分がしたいと思うことをするのは、さほど苦しくはないでしょう。自分が欲する方に歩いて行くことも、それほど辛いことではないはずです。しかし、神の御心を行うというのは、自分に逆らうようなことです。自分のしたいことに逆らう、自分の望むことに逆らうという形でなければ、わたしたちは神の御心を行うことはできません。ですから、もしわたしたちが神の御心を行おうとするのなら、闘わなければなりません。

 しかし、「神の協力者」「神と共に働く」という言葉には、別の意味も込められています。人が神と共に働く、人が神の業に協力するという意味だけでなく、その働く人と共に神が働いてくださるのだという意味です。人が神と働くというだけでなく、働く人と共に神が働いてくださるのです。だとすれば、神を信じる者が働くというのは、一人で頑張って働くということではありません。神が共にいて働いてくださるのです。神を信じて生きるということは、そういうことです。

 わたしたちはただ、神が与えてくださるいのちを生き、神が働いてくださる、そこで働く者にすぎません。だからと言って、わたしたちが何もしないで働かないでもよいのではありません。まさに「神と共に働く者」です。どんな小さな者でも、あるいは愚かな者でも「神と共に働く」ことができます。

 コリントの信徒への第一の手紙三章九節にも、「神のために力を合わせて働く者」、「神の同労者」という言葉が出てきて、その直前五節には、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」とあります。

 「神の同労者」は植えたり、水をやったりします。しかし尊いのは、育ててくださる神です。その意味で、わたしたちの働きはすべて、神との共働にすぎません。農夫のことを例にとって考えると分かり安いでしょう。農夫は、実際には何ひとつ作り出しません。農夫が、米でも麦でも、自分の力で芽をつくり、実を稔らせ、作物をこしらえることができるでしょうか。できません。すべての作物を育てるのは神です。だからと言って、農夫が怠けて何もしないのではありません。農夫は、神が与えてくださる稔りを得るために、種をまき、水をまき、刈り入れます。それと同じように、わたしたちもまた何もできませんが、「神と共に働く」ことができます。

 そう、神が働いてくださるから、何も心配はいりません。わたしたちにできることは、ただ「神と共に働く」だけのことです。

■踏みとどまる所で

 だから、神は言われます。

 「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」

 「あなたの願い」とは、言うまでもなく神に嘆願することを指しています。神を信じる者は神に嘆願し、神に助けを求めるのです。自分一人が頑張って何かをするというのではなく、いつも神に嘆願し、助けを求めるのです。

 なぜなら、「敵を愛しなさい」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と命じられた神を信じて生きて行く時、だれもが困難に直面し、たびたび行きづまりを経験するからです。自分との闘いがあり、世間の常識、世間の風潮と一致できないことがあるからです。みんなといっしょに流されて行くのなら、それは楽なことでしょう。人の後をついて行くだけなら、闘う必要もないでしょう。しかし、信じる者は神を信じるために、人々について行けないということがあります。神を信じるために、踏みとどまらなければならないということもあるでしょう。正しいと信じるために、流されてしまえないことがあるのです。

 高市総理が、台湾有事に関わる存立危機事態について踏み込んだ発言をし、琉球弧の軍事基地化を含めた防衛費の大幅増額を決定し、それに反発する中国の対応が報道されればされるほど、高市政権に対する支持率は上昇し、七〇%にまで達しています。力による平和ではなく、愛による平和こそが、神の御心であると信じるわたしたちにとって、この現実は受け入れがたいものですが、それを口にすれば、時に鼻で笑われ、時に馬鹿にされるかもしれません。

 だからつらい。だから闘いを避けられない。だからわたしたちは、神に祈らざるをえないのです。嘆願するのです。あるいは神に助けを求めざるをえないのです。たくさんの人がいる方につくというわけにはいかない、少数でもそこに、たとえ一人でもそこに踏みとどまらなければならない時が、信仰生活にはあります。そういう厳しい場所から神に願いを捧げ、助けを求めるのです。

 そんな時にこそ、神は応えてくださると書かれています。

 「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」

 そうした困難な場所で、神はわたしたちの願いに応えてくださるのです。それが恵みだ、そういう危機の中から繰り返し、繰り返し助けてくださるのが神の助け、神の救いだ、と言われるのです。そうやって、信仰者は神の恵みを知るのです。

 厳しい場所に踏みとどまる中で、神の救いを知ることができる。いつも流されて、人の後ばかりついていて、闘わないで神の恵みを知ることなどできません。信じて踏みとどまる、そこでわたしたちは、神の恵みというものを知るのです。神の愛が何であるかを知らされるのです。

 踏みとどまって、闘って、祈って行く、そこに神の恵みは示されるのだとすれば、神の恵みはどこか、わたしたちから離れたところにあるわけではありません。神の救いはどこか、はるか遠くにあるというのではありません。わたしたちが信じて、祈って、立っているところにあるのです。だからこそ、

 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」

 今わたしたちが立っている、そこが救いの時であり、恵みの場所なのです。

■圧倒されながら与える

 そう宣言したパウロが、こう続けます。四節から七節、

 「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています」

 パウロはここで自分の経験したことを語っています。経験したこと、あるいは自分たちが今、経験していることを数え上げます。苦難や欠乏や行きづまり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓、そのすべてを彼は経験したのでしょう。

 多くの人は、何としてでも「苦難」を避けて、安らぎのある生活を送りたいと願っています。そのためには、他人事などには関わらず、むしろ、人を押しのけ、人を傷つけることさえ厭わない、そんな「強さ」を身に着けたいとさえ願います。所詮、この世は弱肉強食の社会、わたしたち人間はみな自分勝手なエゴイズムの塊のような存在なのだから、そうしなければ生きていけないと考えるからです。

 しかし、そんな苦難の中でパウロは、わたしは、純真や知識や寛容や親切や聖霊や偽りのない愛、そういうものをもって、そうした困難の中を生きてきたと言うのです。神の力によって、そうすることができたと言います。

 信じるゆえに、あえて労苦を担って行く時に、神はその時々に必要な力を与えてくださる、ということです。信仰生活というものは、決して頑張ってできるものではありません。意志が強いから信仰生活をまっとうできるなんてことはありません。踏みとどまるところで、神が支えてくださるから、信仰の生活をまっとうすることができるのです。踏みとどまる時に、そこで神がいっしょに働いてくださる。神が力を添えてくださるから、わたしたちは信じることができるのです。続く八節から一〇節、

 「栄誉をうけるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」

 わたしたちは悲しんでいるようであるけれども喜んでいる、物乞いのようだけれども人に与えている、無一物のようだけれども人を富ませているのだ、と言います。

 これは、信じる者の有様(ありさま)を描いていると言ってよいでしょう。彼らは、世の力に対抗する何物も持っていません。だからいつも押されているように、圧倒されているように見えるのです。世に対抗するための力も富も、武器も何も持っていない姿で、彼らはこの世で生きています。まるで弱者のように、貧しい者のように、自分たちは生きているのだ、とパウロは言います。しかし同時に、その貧しさや弱さのゆえに、何かを与えていると言います。物乞いのようだけれど富んでいる、無一物だけれど人々に与えていると言います。

 世と世の力に対して、力をもって闘って勝つことによって、何かを与えるというのではありません。世に圧倒されている者であるかのように生きることによって、信仰者は世に何かを与えている、そんな人間なのです。そういう形で人々に、神の愛を、神の恵みを、神の救いを伝えて行くのだ、と彼は言うのです。

■恵みを無駄にしない

 ここまで、自分たちが受けている苦難の意味をコリントの人たちに語りかけてきたパウロは、最後一一節から一三節で「和解」を呼びかけます。自分の心はいつもあなたたちに開かれている、だからあなたたちも心を開いてほしい、そう切々と訴えます。

 パウロの愛、何よりも謙虚さが伝わってくるようです。思えば、冒頭一節からパウロは、おのれを低くして、コリントの信徒たちに勧め、お願いをしていました。上から、命令し、指図などしません。福音を伝えるパウロは低い姿勢で懇願します。水は高い所から低い所へと流れますが、福音の恵みはむしろ、低い所から高い所へと流れるのだと申しあげることができるのかもしれません。なぜなら、信仰の恵みがまさに、最も低く、最も小さく、最も弱い者のための福音だからです。パウロが、そのように低くなるのは、神の恵みが無駄にならないためです。そこで謙遜が生きて働かなければ、だれも恵みに与ることができないからです。

 それでパウロもまた、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と勧めました。わたしたちは恵みというと、「お恵み頂戴」と、いつも神におねだりして、自分がいただくことばかりを考えてしまいます。しかし、神の恵みの最大のものは「十字架の愛」にほかなりません。愛する我が子を、罪深いわたしたちの罪をあがなうために、死へと投げ捨てるという、驚くほどの愛にほかなりません。ですから、十字架の愛を共にいただく時、恵みはただいただくばかりでなく、他の人と共に与かる愛となるはずです。その愛は尽きることがありません。それは光のように、わたしたちを、すべての人を輝かします。

 末盛千枝子さんの「謙虚な心」という一文を思い起こします。

 「…美しいものを目にしたときに、人は、自分を本当に小さなもののように感じます。

 もうずいぶん前ですが、信州の山奥で、あまりに美しい月夜だったので、そこにあった双眼鏡でいたずら半分に月をのぞいてみました。期待もしていなかったし予想していなかったのですが、青白く光り輝く月が目の前いっぱいにひろがり、本で見たとおりの、いえそれ以上に美しい月が見えたのです。こんなすばらしいものを、私などがこんなに手軽に見てしまってよかったのだろうかと、とても申し訳ない気がしたのを憶えています。

 同じように、何か人に喜んでもらえるようなことに関わったときに、それは自分の手柄などではなくて、ただそこに居合わせただけだったとしか思えないことがあります。謙虚な心とはこのようなことを言うのではないかと思います」

 わたしたちはそのような愛を見失い、目に見える物にばかり目を留めてはいないでしょうか。神の愛に目を留めなければなりません。その時、わたしたちは愛される者として、謙虚に生きることができるでしょう。そうして初めて、神の恵みを無駄にしない者として、愛に生きることを赦されるのではないでしょうか。

 「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」

 わたしたちの新しい一年が、「無一物のようで、すべてのものを所有している」ことを確信し、感謝して、そして謙虚に日一日を歩むことのできる年となりますように、ご一緒に祈り願います。