黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
讃 美 歌 | 2 聖なるみ神は | 応答 | 起立 |
招 詞 | 出エジプト記 3章 6節 | 啓示 | 起立 |
信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
讃 美 歌 | 120 主はわがかいぬし | 応答 | 起立 |
祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
聖 書 |
ルカによる福音書 20章 27〜40節 (新約p.150) |
啓示 | 着席 |
성 경 | 누가 복음 20장 27〜40절 | ||
New Testament | The Gospel According to Luke 20:27-40 | ||
圣 经 | 路加福音 20章 27〜40段 | ||
讃 美 歌 | 391 キリストよ、救いの神 | 応答 | 着席 |
奨 励 |
『復活についての問答―生きている者の神―』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
祈 祷 | 応答 | 着席 | |
奉 献 | 応答 | 着席 | |
主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
讃 美 歌 | 579 主を仰ぎ見れば | 応答 | 起立 |
祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■最高の待遇
おはようございます。さて、2016年のことです。ジェスパー・ブラックというアメリカ人の青年が友人に会うためにジョージア(旧国名グルジア)という国に行きました。首都のトビリシ空港に到着して、入国審査を受けていると、なぜかジョージアワインのボトルがプレゼントされたのです。空港のターミナルビルから出ようとすると、自分の名前を書いた紙を持っている運転手がスタンバイしており、どこかに連れて行ってくれるようなのです。『ああ、きっと友人が手配してくれたんだろう』と思い、その運転手付きの豪華なリムジンに乗り込んだのです。すると、運転手は無言で一枚のメッセージカードを手渡すのです。見ると、『親愛なるジェスパー様、あなたはとても特別なゲストです。素敵なサプライズを用意しているので、楽しみにしていてください。 ジョージアより』と書いてあるのです。しばらく車を走らせていると、道路には他に車が走ってないことに気がつきます。そればかりか、自分の乗っているリムジンの周りを何台もの白バイが囲んで、ガードしているのです。そして窓の外を見ると、大型のビジョンに自分の顔が大写しになっており、『彼がやってきた!』という文字が表示されているのです。いったい何が起きているのかと、だんだん不安になってきます。やがて車は高級ホテルの前に停車すると、ファンファーレと共に1人の男性が迎えにやってきます。この男性の名前は、ギオルギ・クヴィリカシヴィリ、ジョージアの首相なのです。そして、彼にはそこでジョージア伝統舞踊と、ジョージア名産の食材を使ったディナーが振る舞われ、首相自らが、ジェスパーさんのディナーの接待をしてくれたのです。
いったい、何が起きていたのでしょうか。ジョージアには毎年600万人の観光客が訪れるそうです。そこで、ジョージアでは、2016年の600万人目の観光客に、最上級のおもてなしをして驚かせると、政府で決定をしていたのです。ジェスパーさんは賞賛されるようなことはなにもしていません。しかし、ジョージア政府のトップの決定のゆえに、最高最上の待遇を受けたのです。
現在、私たちはルカによる福音書の20章を読み進めていますが、本日は27~40節のサドカイ派の人びとと主イエスが復活について議論した箇所を読みます。復活と聞きますと、現代に生きる私たちは、サドカイ派の人びとと同様に、神様がそこまでしてくれるのかな、なかなかありそうにないよねと考える方も多いかと思います。サドカイ派の人びとの質問に、主イエスは、何とお答えになられたのか、ということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■サドカイ派の人々
さて、現在、私たちは主イエスの公生涯の最後の1週間を読み進めていますが、前回に続いて、。主イエスは、今、エルサレムに来られていますが、過ぎ越しの祭りの季節なのです。ですから、主イエス・キリストの最後の1週間を見ると、過ぎ越しの子羊が選ばれ、吟味され、屠られてゆく、その型とそっくりそのままを写したものになっているのです。従って、今日の聖書の箇所でも、主イエスが質問を受けることによって、過ぎ越しの子羊として吟味を受けて、傷もシミもないことが証明されてゆくプロセスなのだということが、今日の聖書の箇所の大きなモチーフとなっているのです。そして、主イエスは過越の祭りの時に死ぬ神の子羊として、4つのグループの指導者たちから挑戦を受けるのです。主イエスに挑戦した最初のグループは祭司長とファリサイ派の人たちです。2つ目が前回お話ししましたファリサイ派の人たちとヘロデ党の者たちです。彼らが質問した内容は、政治的な内容でした。彼らは、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているか、適っていないかということを質問しました。そして、今日取り上げる第3のグループで、サドカイ派の人々で、神学的な質問をしてくるのです。彼らは、主イエスを試そうとしてこの質問をしているのです。私たちは、今日の聖書の箇所で、私たちにとってなかなかありそうにないような、理解することが困難な復活について、主イエスご自身の言葉として、復活についての教えを聞くことができるのです。
本日の聖書の箇所の27節には、『さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。』とあります。神の子羊を吟味する第3のグループは、27節にありますように、サドカイ派の人々です。福音書には、ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が、頻繁に登場します。しかし、旧約聖書には、その名前が出てこないので、突如出てきたような印象を受けます。彼らは、旧約聖書と新約聖書の間の時代、それを中間時代と言いますが、中間時代に登場したグループの人たちです。主イエスの時代には、共にイスラエルの指導的地位についていました。ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々とを比較すると、どちらがより知られているかと言いますと、ファリサイ派の人々の方ですね。ファリサイ派の人々の方が、新約聖書には頻繁に登場しています。この2つのグループはとてもよく似ている点があったのですが、重要な点でも違いも大きかったのです。その違いの一つは、27節にも記載があるように、サドカイ派の人々は復活があることを否定していたのです。それが、サドカイ派の人々の立場であったのです。ルカによる福音書は、読者として異邦人を想定していますので、わざわざサドカイ派の人々が、『復活があることを否定する』という言葉を入れているのです。しかし、主イエスの時代から、2000年経った現代の日本にすむ私たちには、それでも情報が不足しているのです。ですから、ファリサイ派の人々よりも知られていない、サドカイ派の人々というのは、どういう人たちかということをもう少しお話したいと思います。
まず、サドカイ派の人々というのは、裕福な貴族階級の人々で、お金持ちでした。職業は、大祭司や祭司長たち、あるいは、レビ人たち、これらの人たちがサドカイ派の人々であったのです。彼らは、紀元1世紀のユダヤ社会では大きな権力を持っていました。サンヘドリンと呼ばれる組織があり、日本語ではユダヤ議会と訳すことができます。このサンヘドリンには、議席が70席あったのです。議席が70席で、それに加えて議長がいたのです。議長というのは、大祭司がなるのです。ということは、サンヘドリンを構成するメンバーは、議員が70名で、議長が1名で、全部で71人なのです。71人の構成メンバーの中で、多数派はサドカイ派の人々であったのです。ですから、サドカイ派の人々がいわば与党であったのです。それに対して、ファリサイ派の人々は少数派ですので、野党であったのです。ところが、実際の議会運営に関しては、多くの場合、ファリサイ派の人々の意見が通ったのです。サドカイ派の人々は、少数派のファリサイ派の人々の意見に従うことが多かったのです。それはなぜかと言いますと、当時のユダヤの政治において、民衆は一般的には、自分たちを苦しめて、信仰をビジネスにして、お金を儲けているサドカイ派の人々が大嫌いであったのです。一方、ファリサイ派の人々はラビとして、民衆に律法を教えてくれていることから、民衆は圧倒的にファリサイ派の人々を支持していたのです。ですから、サドカイ派の人々は、議会運営に関しては、背後に民意があるファリサイ派の人々を無視できなかったのです。
サドカイ派の人々は、宗教的な関心は低く、はっきり言って、宗教よりも政治に関心を持っていた人たちであったのです。しかも、サドカイ派の人々はローマの支配を受け入れていたのです。それはなぜかと言いますと、サドカイ派の人々の権益は、ローマに認められた上で、与えられていたからです。ですから、常にローマから良い目で見てもらうということが、彼らの関心の中心であったので、始めのうちは、サドカイ派の人々は、主イエスの活動にさほどの関心を示さなかったのです。なぜかと言いますと、律法解釈に関して、ファリサイ派の人々と意見が異なることを教えているからといって、サドカイ派の人々にとっては痛くも痒くもないのです。そのため、福音書のあるところまでは、ファリサイ派の人々しか出てこないのです。サドカイ派の人々が動き始めるのは、ローマが介入してくるような政治問題化する危険性があると考えた時に、初めてサドカイ派の人々は、主イエスに関心を示すようになるのです。つまり、群衆が主イエスに煽動されて、暴動でも起こしたら大変なことになるので、そうなる前に主イエスを始末した方がいいというのが、サドカイ派の人々が動き始めた動機なのです。ファリサイ派の人々と異なっているのは、サドカイ派の人々は宗教よりも政治に関心が深かったということなのです。
■復活を否定するサドカイ派
さて、神学的に見ると、ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々とで決定的に異なっているところがありました。ファリサイ派の人々は、モーセの律法、聖書に書かれた律法よりは、口伝律法を重視していました。それで、主イエスは人の言い伝えはダメだと、何度も教えているのです。ところが、サドカイ派の人々は、口伝律法を認めていないのです。書かれた書だけが、権威あるものだとしたのです。従って、この点についてだけは、ファリサイ派の人々よりも聖書的だと言うことができると思います。しかし、サドカイ派の人々は、教理を導き出すためには、モーセの5書だけが信頼できるという立場を取っていたのです。モーセの5書ですので、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、この5つの書物がモーセの5書なのです。このモーセの5書からは、教理を導き出すことができる。しかし、それ以外の書は、教理を導き出すために使用してはならない。それでは、何をやるのかと言いますと、教訓を学ぶことはできると言うのです。教訓を学ぶことはできる、しかし、教理を導き出してはいけないというのが、ファリサイ派の人々と決定的に違うところなのです。さらに、サドカイ派の人々は、神様は人間の日常生活には介入しないと考えていたのです。私たちは、神様は日々、摂理的に働いておられると信じています。しかし、サドカイ派の人々は、神様は天地を作られたお方であるけれども、日常生活には介入しない、そのような細かいことにまで、神様はいちいち関わるようなことはしないと考えていたのです。なぜ彼らはそのように考えるようになるのかと言うと、自己満足と自惚れなのです。サドカイ派の人々は、貴族階級なので、金持ちで、地位もあったのです。自分たちは、自分たちの才覚と努力で、何でもできると考えていたのです。
ですから、サドカイ派の人々は、神様は人間の日常生活に介入しないと教えていたのです。それと同時に、27節にありますように、彼らは死者の復活を認めていなかったのです。死者の復活を認めないというのはどういうことなのかと言いますと、肉体が死ぬと命が終わり、そして、肉体と共に魂も滅びると考えていたのです。死んだら、肉体も魂も終わりということは、死後の裁きや神の国での宴会にも招かれることもないと考えていたのです。私たちは、人は一度死ぬことと、死んでから神様の裁きを受けることは定まっているということを信じて、神様の前で正しく生きたいと願っています。しかし、サドカイ派の人々は、死んだらお終いで、死後の裁きや招きはない、つまり、死後の世界はない、それだけではなくて、霊の存在を認めないから、天使や悪魔の存在も否定していたのです。ですから、祭司、大祭司として、神殿での儀式は行うのですが、信仰の実態としては物質主義者とあまり変わらない、政治的な興味を持っている団体が、サドカイ派の人々であったのです。少し先のことになりますが、サドカイ派の人々は、紀元70年のエルサレム崩壊によって消滅します。神殿が無くなったことから、彼らの職場も無くなり、サドカイ派の人々の存在意義もなくなったのです。ファリサイ派の人々は律法を教えていますので、教えるということを通じて、続いて行くのです。現代の正統派ユダヤ人というのは、ファリサイ派の人々の流れを汲む人たちなのです。
■モーセの律法と復活は矛盾する?
そのようなサドカイ派の人々が主イエスのもとにやってきたのです。おそらく、ニヤニヤしながら、近づいて来たのだと思います。それは、なぜかと言いますと、彼らは主イエスに、復活に関する神学的な質問を投げかけるのですが、これは彼らが初めて投げかける質問ではないのです。サドカイ派の人々は、それまでファリサイ派の人々と議論するときに、いつもファリサイ派の人々を困らせるために投げていた質問なのです。そして、この質問を受けると、ファリサイ派の人々は答えられなかったり、答えてもバカげたことを言っているように見えたりして、困っていた質問なのです。ですから、サドカイ派の人々は、同じ復活についての質問を主イエスに投げかけて、主イエスを困らせ、主イエスが愚か者に見えるようにしようとしたのです。本日の聖書の箇所の28〜33節を見ると、『「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」』とあります。
28節に、モーセの律法に書いてあると言っていますが、それがどこにあるのかと言いますと、申命記25章5〜6節に『兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。』とあります。この申命記の規定は、基本的には寡婦、未亡人のことですが、寡婦の社会的、経済的地位を守るためのものです。現代の日本でも、子どもを抱えた寡婦が、職業を見つけ、女手一つで、暮らしてゆくことは、決して易しいことではありません。しかし、主イエスの時代のユダヤでは、女性が職業を見つけ、自活するということは不可能であったのです。ですから、この規定は、そのような女性を保護するための規定なのです。もう一つは、死んだ人の名と家を残し、そして、土地の所有の安定性を図るための規定でもあったのです。このような規定がモーセの律法にあったのです。
そこで、サドカイ派の人々は、この規定を元に、主イエスに質問をするのですが、その質問内容はあり得ないことを想定したものであったのです。これは、議論のための議論で、主イエスが愚か者に見えるように仕組んでいるのです。ある女性が、1人の人と結婚した。その人は7人兄弟の長男であったというのです。そして、そのお兄さんが死にました。当然、この規定に従って、2番目の弟と結婚します。ところが、この2番目の弟も死にました。当然、3番目の弟と結婚しますが、3番目の弟も子を残さずに死にました。次は、4番目、5番目、6番目と来て、最後に7番目と結婚して、7番目も子を残さずに死んでしまうのです。そして、最後まで来て、女性も死んでしまうのです。変ですよね。現代であれば、事件性を疑って当然の、警察が介入してくるような事案ですよね。このサドカイ派の人々の質問は、あり得ないことを想定した神学的質問で、復活の際に、この女性は誰の妻になるのかということを尋ねているのです。つまり、復活を信じていると、こんなにおかしなことが起こるのだという、意地悪な質問なのです。サドカイ派の人々は、回答不可能な質問をして、主イエスを辱めようとしたのです。
サドカイ派の人々は、これまでにファリサイ派の人々に、この質問をして、いつも勝っていたのです。それで、主イエスに対しても、得意げにこの質問をしていたことと思います。主イエスは、サドカイ派の人々のこの回答不可能と思われるあり得ない質問に対して、どのように答えられたのでしょうか。
■めとることも嫁ぐこともない
本日の聖書の箇所の34〜36節を見ると、『イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』とあります。この主イエスの回答について見てゆく前に、今日の聖書の箇所の並行記事であるマタイによる福音書22章29節を見てみたいと思います。マタイによる福音書では、『イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。』ということが記されているのです。これが、サドカイ派の人々の質問に対する主イエスの結論なのです。
主イエスは、あなた方は思い違いをしているね。なぜかと言うと、聖書を知らないし、神の力も知らないのだね。それで、主イエスの回答は、最初の答えが神様の力に関する答えになるのだと思うのです。神様が何をすることができるお方かということをしっかり学びなさいね、ということで、復活の身体に関する教えについてお語りになるのです。復活の身体、つまり死後に復活する身体というのは、栄化された身体だというのです。栄化された身体というのは、地上の身体の延長線上にあるものではないのです。それは、質的に新しくされた身体だというのです。どういう身体なのかは分からないのです。今、分かるのであれば、質的に新しい身体だとは言わないのです。それは、朽ちない身体だと言うのです。それは、永遠に存続する身体だと言うのです。そのことを、主イエスはどのように表現されたのかと言いますと、『天使に等しい者であり、』と言われたのです。そして、復活の身体を持つと、もはや死ぬことがないのです。あるいは、死ぬことができないのです。死ぬことがない、死ぬことができないというのは、結婚する必要がなくなるのだと、主イエスは言われたのです。
結婚するというのは、朽ちてゆく私たち人間が、結婚することによって、子孫を残すことによって、人類という種が続いて行くわけですが、そもそも死ぬことがないのであれば、子を残す必要がなく、結婚は必要でなくなると言うのです。とは言うものの、死んだ夫婦が天国で会った時に、お互いの顔を認識できないということではないのです。お互いの存在は確認できるけれども、両者の関係は全く新しい関係になるのだと言うのです。どのような関係になるのかは、行ってみなければ分かりませんが、全く新しい身体になると言うのです。そして、主イエスは、『次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、』と語っておられます。ここで、『ふさわしいとされた』とありますが、誤解しないように気をつけなくてはいけないのですが、『ふさわしいとされた』のは、自分が一生懸命励んで、認められるようになったということではないのです。『ふさわしいとされた』のは、主イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって。義とされた人たちが、神様の恵みによって『ふさわしいとされた』人たちなのです。すなわち、私たち、主イエス・キリストを信じる者たちが復活に与るのだということなのです。そして、『復活にあずかる者として、神の子だからである。』とあります。主イエス・キリストを信じるキリスト者は、すでに神様の子であると言うのですですが、復活の身体を与えられた時に、神様の子どもという意味が、今度は違った次元の実質を持った言葉になると言うのです。それが、『天使に等しい者であり、』という言葉で表されているのです。
ですから、サドカイ派の人々が、復活の時には、この女は誰の妻になるかという問いそのものが的外れの質問になっているということなのです。なぜかと言うと、結婚という形は、最早ないからなのです。『天使に等しい者』となるからなのです。主イエスは、そんなに神様の力をあなたたちは理解していないのかと言われたということなのです。
■生きている者の神
次の主イエスの回答は、サドカイ派の人々が、聖書を理解していないことの証明となります。本日の聖書の箇所の37〜38節を見ますと、『死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」』とあります。ここで、主イエスは『『柴』の個所』と言っています。これは、ユダヤ人同士の会話ですから、『『柴』の個所』と言っただけで分かるのです。『『柴』の個所』というのは、モーセがエジプトに派遣される時の神様からの呼びかけの言葉を『『柴』の個所』と言っているのです。出エジプト記の3章の6〜7節には、『神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。』と記されています。ここで、神様はご自分のことを『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』と言われました。『〇〇の神である』と、現在形の時制で語っておられるのです。
ここで、サドカイ派の人々は、教理を導き出す書としては、モーセの五書に限定していたということをお話ししました。主イエスはここで、モーセの五書の中の出エジプト記をベースに答えられているのです。主イエスは、もっと有名な復活を直接予言している聖句を引用することもできたのです。しかし、そのような有名な復活を予言している聖句を引用することはしないで、出エジプト記から引用しているのです。なぜかと言いますと、相手がこれは真実だと考えているフィールドの中で回答しているのです。サドカイ派の人々の理解では、モーセの五書の中には、復活の教えはなかったのです。主イエスは、モーセの五書から、復活について書かれていることを、ここで証明しようとしているのです。ということは、サドカイ派の人々がいかに聖書を理解していないかを、主イエスは証明しようとしているのです。
主イエスは、『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。』とおっしゃられました。神様が、モーセに語りかけた時に、アブラハム、イサク、ヤコブは既に死んでいました。もし、彼らが死んで、それっきりで、神様が、死んで、それっきりの者の神様であるとすると、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった。』という言い方になるはずです。ということは、神様は『生きている者の神なのだ。』と言っているのは、アブラハム、イサク、ヤコブが生きているということを示しているということなのです。アブラハム、イサク、ヤコブは死後も存在し続けているということを示しているのです。それ故、わたしは『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』という現在形で記されていることになるわけです。
つまり、主イエスはここで、出エジプト記を引用することで、アブラハム、イサク、ヤコブが死後も存在していることを証明し、死後の世界があることと、アブラハム、イサク、ヤコブが死によって消滅していないということを明らかにされたのです。これは、モーセの五書を否定することのできないサドカイ派の人々にとっては、反論できない決定的な証明なのです。主イエスによって、サドカイ派の人々が論破されて、一番喜んだのは誰でしょうか。
本日の聖書の箇所の39〜40節を見ると、『そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。』とあります。『先生、立派なお答えです』と、ファリサイ派の律法学者が、サドカイ派の人々が黙り込んでしまったのを見て、主イエスを褒めているのです。それは、これまでサドカイ派の人々に、復活についての問答でやり込められていたファリサイ派の人々にとって、この論争に勝利することのできる決定的な論理を、主イエスからもらったからなのです。これ以降、ファリサイ派の人々が、復活についての論争でやり込められるということはなくなったのです。『彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。』とありますように、サドカイ派の人々は、これ以上、何も質問する気力もなくなっていたのです。従って、この問答の直後の次回お話しする箇所では、主イエスが逆に質問をしているのです。
■復活の約束に生きる
さて、当時のユダヤの人たちは、これだけの議論で理解したわけですが、現在の日本に生きる私たちには、死後の復活について、もう少し説明が必要かと思います。旧約聖書に記された復活についての教理には、本日のモーセの五書以外にも、復活を予言している有名な箇所がいくつかあるのです。今日は、その中の3個所について、ご紹介したいと思います。主イエスは、他の例えばファリサイ派の人々との議論であれば、出エジプト記ではない、もっと別の箇所を引用されたのだと思います。
旧約聖書に記された復活の教理の1箇所目は、ダニエル書12章2節です。ここには、『多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。』と記されています。『眠り』とか、『目覚める』とか書かれているのは、肉体の死を表現している言葉なのです。そして、『ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。』とあるのは、信者の復活と不信者の復活の予言なのです。
2個所目は、イザヤ書26章19節です。この箇所には、『あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。』と記されています。この箇所も、死者の復活を予言している箇所です。
3個所目は、ヨブ記19章25〜26節で、『わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。//この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。』と記されています。ヨブも苦しみのどん底で、復活の希望を見出して、神様にその祈りを捧げています。ですから、旧約聖書は、モーセの五書以外にも、復活の予言はあるのです。
それから、今日の聖書の箇所の論争で、主イエスの回答の正当性を裏打ちする重要な旧約聖書の記述に、アブラハム契約があります。アブラハム契約は、旧約聖書では何箇所かに、繰り返し出てきますが、創世記の17章8節を示したいと思います。ここには、『わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」』と記されています。この約束は、アブラハムに与えられたものですが、内容は、カナンの地はアブラハムとその子孫に与えられたというものです。神様は、この約束をアブラハムに与え、また、イサクに与え、さらに、ヤコブにも個人的に与えています。アブラハム、イサク、ヤコブに、そして、彼らの子孫たちに、土地が約束されたのです。ところが、聖書を読むと、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、その土地を手に入れることなく、死んでいったのです。ということは、彼らは約束をもらっていましたが、それを手に入れる前に死んだのですから、神様の約束は成就したのか、成就しなかったのかと言えば、まだ成就していないのです。では、神様が約束されたことが、途中で立ち消えになるかどうかということには、神様の名誉がかかっているのです。神様は、一度約束されたことは、決して忘れないということを考えますと、それでは、土地がアブラハム、イサク、ヤコブたちの所有になる前に、彼らが死んだとしたら、神様の側から見れば、復活させた上で土地を与えたら良いということになるのです。ヘブル的考え方の中では、神様の約束が成就していなければ、死んだ人を復活させて、神様は約束を成就するという考え方があるのです。それが、アブラハム契約に基づく、復活の証明なのです。そのことを見出して、大変な決断をしたのが、アブラハムなのです。アブラハムは、イサクを犠牲として捧げる決心をしています。アブラハムがこの困難な決心をしたのは、イサクが死んでも、神様の約束はそこでは途絶えない、神様は必ずイサクから子孫が広がって来るという約束を成就する、つまり、その約束を成就するためには、神様はイサクを復活させると、信じたからなのです。それは、単なるアブラハムの希望ではないのです。それは、神様のご性質と、神様の契約の性質から、アブラハムが神学的に導き出した結論であったのです。そして、神様がイスラエルに与えた約束は、今も有効で生きているのです。その約束は成就するのです。その約束がいつ成就するのかと言いますと、アブラハム、イサク、ヤコブが復活した時に、成就するのです。それが、具体的にいつのことかと言いますと、主イエス・キリストが地上に再臨され、その後、地上に千年王国が成就した時に、アブラハム、イサク、ヤコブは復活して、その時に、神様から土地を頂くようになるのです。ですから、このことは千年王国の約束にもつながって行くのです。
マタイによる福音書の8章11節を見ると、『言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。』とあります。これは、メシア的王国での祝福を描いたものです。そして、この中の東からの大勢の人の中に、日本に住んでいる私たちも含まれているのです。その宴会の席についているアブラハム、イサク、ヤコブが死体ということはないのです。共に宴会の席に着くというのは、彼らは復活して、その宴会の席にいるということなのです。従って、復活の議論の中で、とても重たいのは、主イエスの直々の言葉の中に、死後の復活の約束が満ち溢れているということなのです。
そして、究極の事柄というのは、主イエス・キリストの復活なのです。主イエスの復活は、信者の復活の最初ですので、初穂の復活と言います。初穂としての復活ということは、その後にたくさん続くのです。ヨハネの手紙3章2節には、『愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。』とあります。また、コロサイの信徒への手紙3章4節には、『あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。』と記されています。
私たちは、主イエス・キリストが私たちの罪のために死なれたこと、死んで墓に葬られ、そして、3日目に甦られたこと、これらを信じて、主イエス・キリストに信頼を置きたいと思います。私たちは、復活まで信じることによって、私たちもそれに続く者となるという、神様の約束を受け入れて、確信を持って、主の言葉に従う者となりたいと思います。
それでは、お祈り致します。