| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 7 ほめたたえよ、力強き主を | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | 詩編 102篇 20〜21節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 171 かみさまのあいは | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
創世記 21章 9〜21節 (旧約p.29) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 창세기 21장 9〜21절 | ||
| Old Testament | Genesis 21:9-21 | ||
| 圣 经 | 创世纪 21章 9〜21段 | ||
| 讃 美 歌 | 454 愛する神にのみ | 応答 | 着席 |
| 説 教 |
『母よ、子よ』 沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 546 世界中の父や母を | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【説 教】 沖村 裕史 牧師
■追い出してください―母の愛
「母の愛は海よりも深し」という言葉をお聞きになったことがおありでしょう。また、「母親の子どもに対する無償の愛は、神の人間に対する愛にもっとも近いものだ」と言われることもあります。
確かに、生まれたばかりの赤ちゃんは小さく、弱く、ひとりでは何もできません。そんな無力な赤ん坊を生まれた時からその腕に抱いて養い育て、慈しむ母親の姿は、そんな何の見返りも求めない、純粋な愛情は、限りない神様の愛に近いものだ、と言えるのかもしれません。
しかし、そうしたわが子への無条件の愛がひとつ間違えると、とてつもなくグロテスクな形で現れることがあります。サラの場合がそうでした。一〇節、
「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」
凍(こお)りつくようなこの言葉からは、ひとかけらの愛情も感じられません。いったい何があったというのでしょうか。
ここに二人の母親が登場します。ひとりはアブラハムの妻である、サラ。もうひとりはサラの奴隷だった、ハガルです。創世記一六章に詳しく記されていますが、年老いて子どもに恵まれなかったサラは自分の代わりに、このハガルによって子どもを得ようと考えました。神様はアブラハムとサラの間に子どもを与えると約束しておられたのですが、サラは自分の年齢からみて、もはやそんなことは不可能だと考えたのです。
当時の夫婦にとって、子ども、とくに男の子が生まれないということは二重の意味で大きな問題でした。ひとつは、その家を引き継ぐ跡継ぎがいないという現実的な問題。もうひとつは、そのことはその家に神の祝福が与えられていない、呪いのしるしであったということです。それだけではありません。子どもを産まない、産めないということは、当時の女性にとって大きな恥、罪とされていました。
そこでサラは、自分の奴隷であったハガルを「利用する」ことを思いつき、アブラハムもこの考えに同意します。アブラハムもずいぶんの高齢でしたが幸いにも、ハガルはやがて妊娠し、ひとりの男の子を産みます。その子の名はイシュマエル(「主は聞き入れられた」)。ところが皮肉なことに、この後しばらくしてから、もはや子どもを産めるはずもない年齢になっていたサラが、ひとりの子どもを出産します。イサク(「彼は笑う」)の誕生です。
それはまさに神様の奇跡、驚くべき恵みで、サラは思いもよらない大きな喜びに包まれることになりました。
わたしたちはこの物語から、神様は決して約束を忘れられるような方ではなく、また神様にはできないことなどないということと共に、その神様の愛を心から信じることができずに、小賢(こざか)しい企(くわだ)てに頼ろうとする、人間の愚かさを知らされることになります。そして悲しいかな、そうした最初の愚かさが引き金となって、さらに第二、第三の愚かさが積み重ねられていきます。
ハガルとその子イシュマエルの存在は、サラの悩みの種となっていきました。そこには、相続にまつわる問題があり、また奴隷だった女と自分がアブラハムの子の「母」として対等の立場となったことも、サラのプライドを深く傷つけることになったのでしょう。ある日、イシュマエルがイサクをからかうのを見たサラは、その怒りをアブラハムにぶつけます。それが一〇節の言葉でした。
サラは純粋に、徹底してわが子イサクを愛していました。彼女はイサクの将来まで含めて、わが子のことを思いやっていました。そうしたわが子への愛が、「あの女とあの子を追い出してください」という無慈悲な言葉を生んだのです。
もともと奴隷で、女性で、しかも子どもを抱えているハガルにとって、アブラハムのもとを「追い出される」ということは、死を意味します。そう、サラはハガルとその子イシュマエルの死を望んだのです。サラはこのとき、ふたりをその名前で呼ぼうとさえしていません。サラにとって、ふたりは奴隷とその子どもにすぎません。彼女にとって、わが子イサクにとって、そしてアブラハムを加えた一家にとって、この二人は危険な存在であり、否定すべき対象でしかなかったのです。
それもこれも、彼女の母親としての愛のなせるわざでした。
サラの「母の愛」は、ハガルとイシュマエルに死をもたらす「母の愛」となったのです。「母の愛は神の愛に近い」ということが間違いだとは思いません。けれども、自分だけに、自分に近いものだけに向けられる愛、つまり「神なき愛」はときに、悪魔のような恐ろしいものとなることのあることを、わたしたちも自分のこととして、知っておかなければなりません。
■逃げるハガル
さて、もう一人の母であるハガルを見てみましょう。
彼女は何重にも抑圧されていた人です。まず奴隷として、彼女は基本的な人間性、人権を認められていません。彼女の価値は、日々の労働やその能力によって量られる「道具」としての価値でした。そうした人間性否定の上に立って、サラはハガルの持つ妊娠、そして出産という女性特有の機能を自分の身代わりとして利用することを思いついたのです。そのように道具扱いされたあげく、ハガルは主人から見捨てられ、追い出されることになります。文字どおり「使い捨て」にされた人間の姿がこのハガル、もう一人の母親の姿なのです。
注意したいのは一一節です。「このことはアブラハムを非常に苦しめた」とあります。しかし、彼が苦しんだのは「その子(イシュマエル)も自分の子であったからである」と記されています。彼が心配したのは彼の息子であって、ハガルのことにはひと言も触れられません。
結局、ハガルはパンと水の袋を渡されて出ていくことになります。彼女にはそれ以外の選択肢はありませんでした。彼女はそれを受け取り、イシュマエルを連れて去っていきます。「ハガル」とはもともと「逃げる」という意味を持っています。確かに、ハガルはアブラハムとサラのもとから逃げ出しました。しかし、彼女には逃げていくべき先がないのです。彼女とその子を受け入れるところは、どこにもありません。
彼女が行き着いたのは「荒れ野」でした。それは人間が生きていく空間、生活の場ではありません。いのちが死に脅かされるところ、人間の限界があらわにされるところ、そのような場に、この母と子は追いやられました。幼い子どもを連れたこの母親は、そんな荒れ野をさまよい、やがて「革袋の水」が尽きた、と聖書は記しています。それは確実な死の予感です。もはや、この母と子のいのちは時間の問題となったということです。
聖書はこの部分を冷淡といってもよいほどに、リアルな文章で綴っています。一五節から一六節、
「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の濯木の下に寝かせ、『わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」
人生に行き詰ってしまった母と子の姿がここに、はっきりと映し出されています。もはや行くべきところもなく、食べ物も飲む物もないまま、死を待つだけの子どもと、その子どもを遠く離れて見つめざるをえない母親の、絶望的な姿がここに描かれています。。
■ある母と子
みなさんは日本キリスト教婦人矯風会という団体をご存じでしょうか。
一四〇年の歴史を持つ団体ですが、この矯風会が運営する「HELP」(ヘルプ)という施設が東京にあります。ここは、アジア諸国などから連れて来られて、風俗産業などで働かされ、ひどい目に遭っている女性や、家庭で夫などの暴力にさらされている女性のための緊急避難施設として開設された施設です。
HELPの二〇二四年度報告によれば、利用者は外国籍女性六名、日本国籍女性六二名、こども五名の七三名となっています。そのうちの三人に二人が、三〇代までの若い女性であったと言います。
ある時、ここに逃げ込んできた東南アジア出身の女性が、滞在中に子どもを産むという出来事がありました。子どもの父親は同じ国の男性ですが、生活能力がなく、彼女ひとりで子どもを育てることは不可能な状態でした。そこで生まれる前から、その子どもは乳児院に預けるということが話し合われました。彼女は表面的には、明るい感じの印象を受ける女性でした。
その後、彼女は男の子を出産しました。数週間、この子は母親と一緒に過ごしました。元気な子どもで体格もひじょうによかったといいます。最初、彼女はずいぶん危なげな子育てをしていましたが、次第に母親らしくなり、自分の母乳で子どもを育てていたそうです。
やがて、その子が乳児院に引き取られる日が来ました。母親はその日もいつもと同じように最後のお乳を与えようとしたのですが、赤ん坊ながらに何かを感じたのでしょう、その日に限って子どもは泣きじゃくってどうしようもなかったといいます。それを見て、母親もまた泣いたそうです。
■いのちの水、いのちの神
そんなハガルの泣き声と子どもの泣き声を聞き届けてくださったのは、神ご自身でした。
誰ひとり人間のいない場所、いのちの絶え果てる場所、泣くこと自体が無意味であるような場所で、神はこの小さな者たちの泣く声を聞き届け、そして御使いを遣わして、こう語りかけます。一七節、
「恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた」
人間は聞かなくても、神がお聞き届けになった。だから、もう恐れる必要はないといいます。一八節、
「立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい」
神には、母としてのハガルの悲しみがよく分かっているのです。なぜなら、神もまたハガルと同じように、ご自身の独り子が十字架にかけられて死んでいく姿をじっと見つめなくてはならない経験をなさる方だからです。無力な母としての経験を、神もまた味わう方だからです。
悲しむ人は同じような悲しみを経験した人によって、より深く慰められることがあるといいます。神もまた、ハガル以上の悲しみを経験することによってハガルを慰め、同じような悲しみを味わうすべての人々を慰めてくださることができるのです。
神の慰めは、ハガルに再び生きる力を与えます。聖書は、「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた」と記しています。
その「井戸」は最初からそこにあったのです。しかし行き詰った時、どうしようもなくなった時、絶望した時、わたしたちにはそれが見えません。見ることができないのです。神がわたしたちのすぐそばに備えていてくださる「いのちの水」を、神は改めてハガルに指し示してくださいます。神は、全く新しい視点、新しい風景、新しい井戸を示してくださる方でした。
生と死の極みで、この母と子はこんこんと湧き出るいのちの水が自分たちのすぐそばに、足もとにあることに気づきます。そしてそれを用意してくださった、まことのいのちの源である神に気づくのです。
「母の日」にわたしたちがなすべきことは、わたしたちの母への感謝ということですが、しかしそれだけでは充分ではありません。
わたしたちが信仰者として、「母の日」にまずなすべきことは、この母を生かし、また子を生かしてくださる神の愛と恵みを想い起こすことです。そしてまた、このような母と子、家族の交わりを支え、守り、導いてくださる神への信頼と感謝です。
わたしたちはハガルとイシュマエルの姿を通して、このことを覚えると共に、またサラの姿を通して母であること、子であること、そして家族であることの難しさと、自らの愚かさ、罪をも忘れることのないようにしたいと願います。
祈りましょう。
