| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 242(1〜2) 主を待ち望むアドヴェント | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | イザヤ書 7章 14節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 90 主よ、来たり、祝したまえ | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
マタイによる福音書 1章 18〜25節 (新約p.1) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 마태복음 1장 18절〜25절 | ||
| New Testament | The Gospel According to Matthew 1:18-25 | ||
| 圣 经 | 马太福音 1章 18〜25段 | ||
| 讃 美 歌 | 229(1〜3) いま来たりませ | 応答 | 着席 |
| 説 教 |
『主は私たちと共に』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 229(4〜6) いま来たりませ | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■『ブスの25箇条』、宝塚歌劇団
おはようございます。宝塚歌劇団に『ブスの25箇条』という、タカラジェンヌ達が自分を見直すために役立てている教訓のようなものがあるそうです。ある時期から劇団生なら誰もが目にする場所に貼り出され、現在に引き継がれているもので、誰が貼ったのかは不明だそうですが、自分と向き合い、振る舞いを見直すうえで参考になるものだと言うのです。
『ブスの25箇条』によると、ブスとは何かと言いますと、『1.笑顔がない』、『2.御礼を言わない』、『3.おいしいと言わない』、『4.目が輝いていない』、『5.精気がない』、『6.いつも口がへの字の形をしている』、『7.自身がない』、『8.希望や信念がない』、『9.自分がブスであることを知らない』、『10.声が小さくイジケている』、『11.自分が正しいと信じこんでいる』、『12.愚痴をこぼす』、『13.他人をうらむ』、『14.責任転嫁がうまい』、『15.いつも周囲が悪いと思っている』、『16.他人に嫉妬する』、『17.他人につくさない』、『18.他人を信じない』、『19.謙虚さがなく傲慢である』、『20.人のアドバイスや忠告を受け入れない』、『21.何でもないことにキズつく』、『22.悲観的に物事を考える』、『23.問題意識をもてない』、『24.存在自体が周囲を暗くする』、『25.人生においても、仕事においても、意欲がない』、というのです。読んで分かるのは、顔の問題ではなく、心と態度の問題だということです。従って、筆頭に来ているのは『1.笑顔がない』なのです。劇場に足を運ぶお客さんは、みんな笑顔になりたくてやって来るのに、出演者自身がブスっとしていたら、歌声がどんなに素晴らしくても、ダンスがどんなに美しくても、白けてしまうのではないでしょうか。笑顔こそが、成長の第一歩なのだと言っているのだと思います。
努力して笑顔を作るということも大切なことだと思いますが、自然と笑顔になれたら、もっと良いと思います。そのためには、笑顔の理由を、私たちの心の内側に持つことが大切だと思います。笑顔になれる理由とは何かと言いますと、私たちは愛されているという事実を知ることなのではないでしょうか。そして、そのことは、主イエス・キリストは一体何のために、この世に来られたのかということを知ることから始まるのだと思います。本日は、ヨセフに啓示されたキリスト誕生の知らせから、共にクリスマスの恵みの意味は何かということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■深刻な出来事
本日の聖書の箇所のマタイによる福音書1章18節を見ますと、『イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。』とあります。ここで、主イエス・キリストの誕生の次第は次のようであったという様にマタイは記していますが、マタイによる福音書の1章1節には、主イエス・キリストの系図が記されています。系図の始まりの言葉は何かと言いますと、『アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図』というのが、マタイによる福音書の1章1節の言葉です。ここにイエス・キリストという言葉が出て来ています。ですから、1節と同じ言葉を福音記者マタイは使って、系図で示されたカクカク・シカジカの経緯で出てこられたイエス・キリストという方は、このように誕生されたのだよと、マタイはこれから説明しようとしているのです。マタイによる福音書は、ユダヤ人の読者を想定して書かれていますから、1〜18節の記述は、ユダヤ人に対する情報なのです。イエス・キリストという言葉ですが、イエスというのは、これは人間として生まれたイエスの名前です。キリストというのは、タイトル、称号なのです。ヘブライ語では、メシアとなります。当時は、苗字というのはありません。ですから、主イエスの場合、一般的にはヨセフの子イエスという呼び方となります。あるいはマリアの子イエスとなります。ですから、ここでのイエス・キリストという呼び方は、メシアという称号を持ったイエスというお方という意味となるのです。この福音書の冒頭で、マタイは、この方は、メシアとして到来されたのです。イエスという名前が与えられたのです。そして、その方はダビデの家系なのです。とマタイは言っているのです。そして、これから主イエスの誕生が、超自然的なものであることを、マタイは説明して行くのです。
聖書が語っている福音、グッド・ニュースというのは、これは人間が考え出したものではない、これは超自然的な神様の介入によって行われたことだと言っているのです。ですから、逆説的に言いますと、人間の常識の延長線上にないが故に、信頼できるという言い方こそが、実は非常に聖書的なのだと言うことができると思います。もし、私たちの常識の延長線上で理解できることが、福音、グッドニュースであったら、それは福音、グッドニュースではないと思います。なぜなら、常識の延長線上で理解できることというのは、どこにでもある、当たり前の話だからです。しかし、それが人間の常識の延長線上にはなく、神様が人間の歴史に介入されたという、超自然的な要因を持っているが故に、語る価値があり、信じる価値があるのだと思います。ですから、今日の聖書の箇所の話も、マタイが起きた通りの事実に即して記しているのだと考えて、受け止めていく必要があると思います。
今日の聖書の箇所の話を理解するためには、ユダヤでの結婚の習慣を知っておく必要があると思います。ユダヤでの結婚の習慣に於いて、この時のマリアとヨセフの関係は、今日、日本にいる私たちが婚約しましたと言っているときの婚約とは、その意味は異なっています。そのことを理解しておかないと、今日の聖書の箇所の流れがわからないと思います。現在、私たちが使用している新共同訳聖書が、18節で、『母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、』と訳しているこの訳は、日本的な考え方での誤解が入り込む余地があると思います。ユダヤでの結婚の手順というのは、両方の両親の合意で話が済むということが、まず基本です。多くの場合、子供がまだ小さい時に決まってしまうのです。その段階で、許婚(いいなづけ)が決まる訳ですが、その際に、本人の意見というのはほとんど考慮されないのです。男性側、花婿の側の意見は、多少は考慮されるということもあります。しかし、花嫁の側の意見は、考慮されないのです。花嫁のお父さんが決めた人がその人の夫になるわけです。そして、花婿の父親あるいは花婿が、花嫁の父親に、花嫁料というのを払った段階で、正式な準結婚関係が成立するのです。ここで、あえて準結婚関係という言い方をしました。それは、現代の日本人が考える『婚約』という言葉では、本日の聖書の箇所のヨセフとマリアの関係は表現できないからです。先程、言いました花嫁料というのは、花嫁のお父さんに、今まで、お嬢さんをこんなに立派に育ってくださってありがとうというお礼料として渡す金品なのです。
そのような手順を経て、結婚関係が成立するのですが、2人が同居するようになるのは、1年ほど先のことになるのです。但し、同居していなくても、ユダヤの法律的には、この2人は結婚していると見なされるのです。それが、日本人が考える婚約と違っているところなのです。1年間、なぜ別居するのか。あるいは、結婚関係に入っていかないのかと言いますと、2つの理由からなのです。1つは、その期間は花嫁が最後の1年間、お父さんに仕える期間だということです。もう一つは、1年間かけて、花嫁が妊娠していない、花嫁の純潔が証明される期間でもあるということです。
しかし、その1年間の間に、もし花嫁が他の男と関係を持ったとしたら、それは姦淫の罪を犯したことになるのです。そして、婚約関係の破棄、即ち準結婚関係の破棄ということになるのです。この準結婚関係の破棄というのは、離婚することによってのみ、可能になります。婚約関係を解消しようとしたら、それはもう離婚という手続きを踏むことになるのです。そのように、実質的な結婚関係がまだ始まっていないときに、マリアはどうなったのかと言いますと、『聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。』のです。聖書は、ヨセフとマリアの関係がぐちゃぐちゃに壊れてしまうような出来事を実に簡潔に、そして、明快に記しているのです。
マリアは聖霊によって身ごもったのですが、この事実を知っているのは、マリアの側で、ヨセフは知らないのです。ですから、これはヨセフの側の情報ではないのです。ヨセフは、マリアの純潔を証明する1年間の間に、マリアが身ごもったということを聞いて、夫である者として、当然、出す結論はどのようなものかと言いますと、マリアは、他の男と関係を持ち、身ごもったということです。ヨセフはマリアを愛していればいるほど、その状況で心は痛むのです。苦しむのです。これらが、ヨセフが葛藤を感じている状況なのです。
■正しい人ヨセフ
それでは、ヨセフはどうしたのでしょうか。次に、本日の聖書の箇所の19節を見ますと、『夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。』とあります。まず、ヨセフという人に目を止めてみたいと思います。夫のヨセフはどのような人であったかと言いますと、正しい人であったと言うのです。この場合の意味は、全く罪がないという意味ではありません。ヨセフは旧約聖書的な意味での義人です。福音書の時代というのは、モーセの律法がまだ生きている時代ですから、時代区分からしますと、旧約聖書の時代が延長して続いている時代だと考えたら良いと思います。従って、旧約聖書的な意味での義人というのはどういう人かと言いますと、ヨセフは、イスラエルの神様を信頼して、モーセの律法に従って生きている人だということです。従って、罪を犯したと認識した時には、生贄の動物を捧げることによって、神様との和解をいつも確認している人であったと思います。ということは、ヨセフもまた、信仰によって救われていた人であったということです。それが、『夫ヨセフは正しい人であった』ということの意味なのです。イスラエルの中の真の信仰者のことを、専門用語でレムネント、あるいは、日本語で言うと、イスラエルの残れる者と言います。ヨセフは、この時代の真の信仰者です。降誕物語に登場するザカリアもエリサベツもマリアもヨセフもみんな真の信仰者です。ですから、神様は真の信仰者を用いて、新しい救いの時代を、この世界に導こうとされているということが分かるかと思います。さて、そういう、義人であったヨセフが、どのように考えたのかと言いますと、『マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。』(19節)というのです。
ヨセフには選択肢が2つあるということが分かります。1つは、『表ざたにする』ということです。もう1つは、『ひそかに縁を切る』ということです。つまり、公にするか、個人的に解決するか、ということです。考えてみますと、第3の選択肢もあるのだと思います。しかし、ヨセフは第3の選択肢は考えていないないのです。第3の選択肢が何かと言いますと、それでも一緒に住むということです。生まれた子供は、誰か他の人の子供だけど自分はいいよ、その子を引き取って、マリアを自分の妻として生活しようというものです。しかし、その選択肢を、ヨセフは考えていなかったのです。ですから、表ざたにするか、個人的に解決するかのどちらかであったのです。
表ざたにした場合、マリアは、石打ちの刑に処せられる可能性があったのです。どういう手続きでそれが行われるかと言いますと、当時は、ナザレのような小さな町でも、裁き人、長老、あるいは裁判官のような人がいたのです。どこにいたかと言いますと、町の門のところに座っていたのです。訴える人、原告となう人は、その町の門のところに行って、訴えるわけです。カクカク・しかじかで、『私の妻マリアは、妊娠しました』と、訴えますと、そこで、裁き人によってモーセの律法が開かれます。今日で言えば、法律の条文が開かれるのです。姦淫の罪ですので、申命記22章23〜24節が開かれるかと思います。申命記には、『ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。』と記されています。この律法が読まれて、マリアは石打ちの刑になるかと思います。但し、この律法の規定を厳密に執行したかどうかは疑問が残ります。従って、刑の執行に関しては、やったり、やらなかったり、というところはあったかと思います。しかし、表沙汰にされて、石打ちの刑にならずに済んだとしても、マリアはユダヤ人共同体で生きることはほぼ不可能になります。社会的に弱い立場に置かれている当時の女性が、共同体から追い出されるということは、まさに死を意味していたのです。
別の解決方法は何かと言いますと、個人的に解決するということです。個人的に解決する場合は、ユダヤの律法に従えば、ヨセフは、マリアを連れて行って、最低2人の証人の前に立って、証人たちの見ている前で、マリアに離縁状を与えるのです。これが、正式な離婚の手続きなのです。
従って、ヨセフは、表沙汰にしてマリアを訴えるか、密(ひそ)かに証人の前で離縁状を与えるのか、この2つの選択肢の間で揺れ動いたのです。愛していれば、愛しているほど、揺れ動いたことと思います。表沙汰にするというのは、『義』が勝っているのです。それは、律法にそうすることが勧められているからです。ところが密かに、個人的に処理しようとするのは、恵みが勝っているのです。ですから、ヨセフがここで抱えている葛藤というのは、正義を優先するか、あるいは、恵みを優先するかという中で、ヨセフは葛藤しているのです。それは、神様が罪人である私たちを見て、裁くのか、赦すのかという葛藤に似ていると思います。
神様の場合は、正義を優先するか、あるいは、恵みを優先するかということの解決は、主イエスの十字架なのです。ところが、ヨセフの場合には、正義と恵みを同時に解決する方法がないのです。それ故、ヨセフはどうしたのかと言いますと、『ひそかに縁を切ろうと決心した』のです。つまり、ヨセフの内面では、正義よりも、恵みが勝ったのです。それでは、物事は、ヨセフの決心の通りに進んで行ったのでしょうか。
■主のみ言葉
本日の聖書の箇所の20〜21節を見ますと、『このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」』とあります。20〜21節に記されている天使の言葉は、ヨセフの夢を通した、神様の啓示なのです。あるいは、ヨセフの夢の中に幻が現れたわけなのです。夢を通した啓示、または、天使を通した啓示、これは旧約聖書の時代には、よく起こる神様の啓示方法です。旧約聖書の時代と比べますと、新約聖書の時代というのは、もう神様の啓示が完結していますので、神様が夢や天使を通して私たちに何かを教えるということは、極めて稀だと考えておいた方が良いと思います。ですから、夢や天使を通した啓示は、現代に於いても、否定はしませんが、それよりも聖書に於いて、啓示された御言葉によって、私たちは信仰を立てて行くことが良いと思います。
さて、本日の聖書の箇所に戻りますと、天使は、まず何て呼びかけていますでしょうか。『ダビデの子ヨセフ、』と呼びかけているのです。ヨセフは、主イエスの義理のお父さんになります。そして、ヨセフは、ダビデの家系なのです。ですから、メシアを輩出する家系に属しているのです。ですから、ユダヤの法律的には、主イエスもまた、ダビデの子孫だということになるのです。それから、天使のメッセージの内容は命令が2つ、それぞれに理由がついています。最初の命令が何かといいますと、『恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。』、これが最初の命令なのです。
本日の聖書の箇所は、クリスマス・シーズンでは、よく取り上げられる、有名な箇所ですが、皆さんの中には、神様は、どうして最初にヨセフに言ってくれなかったのだろうと不思議に思われた方がおられるのではないかと思います。マリアには、予め天使が受胎告知を行っているのです。マリアは、ある日突然お腹が大きくなって、私はどうしてしまったのだろうかしらと、マリアは大いに悩んだという記述は聖書の中にはないのです。最初に、天使が来て、マリア、あなたはこうなるよ、それから次にこうなるよと語っているのです。そして、マリアは天使の言葉を受け容れたのです。ところが、天使はヨセフのところに現れて、『ヨセフ、マリアに今告げてきたばかりだけれど、お前もこういうことを知っていた方がいいよ』とは、語っていないのです。なぜ、天使はヨセフに対して、何も言わなかったのでしょうか。
ヨセフは、このときまさに神様からの訓練を受けているのだと思うのです。旧約聖書を振り返って見ますと、やはり神様から訓練を受けた人が何人もいるのです。神様から訓練を受けた人たちの中に、ホセアという預言者がいます。ホセアはあるとき、『行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。』(ホセア書1章2節)ということを、神様から命じられるのです。ホセアにとっては、ショッキングな命令であったと思います。そして、ホセアの愛をもってしても、ゴメルは夫を捨て、子どもたちを捨て、恋人たちの後を追いかけるのです(ホセア書2章7節)。ホセア書における神様のメッセージは何かと言いますと、神様は背心の妻イスラエル、つまり自分に背を向けて偶像に走っていく、つまり霊的に姦淫を犯すその妻イスラエルをなおも変わらない愛を持って愛し続けたということなのです。神様の変わらない愛というのは、契約に基づく愛で、ヘブライ語では、『愛』、『慈しみ』、『誠実』、『恵み』などを意味するヘセドという言葉です。従って、ヘセドという言葉は、契約に基づく普遍の愛で、神様の妻としてのイスラエルが背を向けてあっている、その状況の中でも、なおも愛し続けている神様の痛みを表しています。その神様の痛み、それを預言者ホセアが自らの家庭生活で体験するのです。
旧約聖書に登場する預言者というのは、言葉だけを語る、概念だけを語る人ではなくて、神様と同じ体験、同じ感情を持ちながらメッセージを体現する人のことなのです。ですから、ヨセフもまた、本日の聖書の箇所で、メシアをお迎えするために、預言者ホセアが通過したり、旧約聖書の預言者たちが経験したりしたような体験をすることを通して、ヨセフは義ではなく、恵みを優先させるという結論を出したのです。そういう意味で、ヨセフはこの体験を通して、神様のみ心に近づき、人格が完成されていく過程を、数段登ったということが言えると思います。
さて、本日の聖書の箇所に戻りますと、天使の2つ目の命令は何であったかと言いますと、『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。』というのが2つ目の命令です。そして、その命令の理由が、『この子は自分の民を罪から救うからである。』というものです。ここで、イエスという名前は、ヤハウェは救い、あるいは主は救いという意味なのです。
■主は私たちと共に
次に、本日の聖書の箇所の22〜25節を見ますと、『このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。』とあります。この天使の言葉の後の補足の記述を、福音記者マタイは、特にユダヤ人読者を意識して書いています。そして、マタイは主イエスの誕生というのは、一つの重要なメシア予言の成就なのだということを、ユダヤ人読者に向けて語っているのです。そのメシア予言というのは何かと言いますと、『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』というものなのです。実は、これはイザヤ書7章14節の引用なのです。イザヤ書を見てみますと、『見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。』とあります。
先程、主イエスのイエスという名前は、ヤハウェは救い、あるいは主は救いという意味だということをお話しました。しかし、23節を見ますと、『その名はインマヌエルと呼ばれる。』とあります。しかし、聖書のどこを見ても、主イエスがインマヌエルと呼ばれているところはないのです。イエス様とか、ダビデの子イエスという呼び方はあるのです。しかし、インマヌエル様と言われている箇所はないのです。それはなぜかと言いますと、『インマヌエル』というのは、主イエスがどういう特徴を持ったお方かを表現する呼称なのです。その意味は何かと言いますと、ヘブライ語の『インマヌエル』は、『神様は私たちと共におられる』という意味で、『インマヌ(われらとともにいる)』と『エル(神)』という2つの言葉が合わさった一つの言葉なのです。ですから、『インマヌエル』という呼称をつけているのは、まさに主イエス・キリストにおいて、神様が私たちと共におられるということが、啓示されたのだよと言っているのです。私たちにとっては、主イエスという御名が麗しいのと同時に、この方が『インマヌエル』という実質を持っているということが、いかに麗しいことかが分かるかと思います。
そして、このマタイによる福音書は、この『インマヌエル』という言葉によって、神様がなぜ人になられたのか、主イエスはなぜ私たちの苦悩と弱さを理解しそれを共有してくださる方になったのか、ということを語るところから始まっているのです。そして、このマタイによる福音書は、その最後の箇所である28章の20節の後半に、『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』とありますように、インマニエルという方がいつもいるよと約束してくださった、復活した主イエスの言葉で終わっているのです。
そして、本日の聖書の箇所で、ヨセフは主の天使のメッセージを『夢の中で聞いて』います。不思議なことに、主の天使がヨセフに語る時は、いずれも『夢の中』に現れているのです。マタイによる福音書1章20〜23節、2章13節、2章19〜20節、2章22節の4回に渡って、主の天使はヨセフの『夢の中』に現れています。しかも、ヨセフは夢の中で語られた主の天使の言葉に、何のためらいもなく素直に従っています。この従順さこそが、ヨセフの特質だと言うことができると思います。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』というマリヤの従順が讃えられることが多いと思いますが、ヨセフの従順もマリヤにひけを取らぬほどだと思います。しかし、なぜ主の天使はヨセフに対しては、『夢』の中に現れるのでしょうか。それは、旧約聖書の創世記に登場するヨセフという人物を指し示しているのだと思います。ヤコブの最愛の妻ラケルが産んだ子、それがヨセフでした。そして、彼は実は『夢解きの名人』であったのです。ヨセフという名前は母ラケルが付けた名前です。その名前が意味することは、『主がもうひとりの子を加えてくださるように』という願いを込めてつけられた名前なのです。このラケルの祈りが聞かれて、もうひとりの息子、ヤコブにとっては最後の息子であるベニヤミンが生まれるのです。ヘブライ語で『加える、引き継ぐ』という動詞を『ヤーサフ』と言いますが、その言葉から派生した名前が『ヨセフ』なのです。つまり、ヨセフという名前は、彼の後に加えられる者がいること、彼に続く、引き継ぐ存在がいることを啓示しているのです。このように考えて来ますと、主イエスの父親の名前が『ヨセフ』であったことは、決してたまたまそうであったのではなく、必然性を持っていたのだと思います。それは、『ヨセフ』という名前が主イエスの苦難と栄光の生涯を啓示するにふさわしい名前であったということからです。『苦難の後に栄光を受ける』というのは、ヨセフの物語を象徴していると思います。創世記のヨセフは、兄弟たちから不条理な苦難を受けた後に、エジプトを支配することを王から任されるという栄光を受けた人物だからです。そのように、創世記のヨセフの生涯は、主イエスの生涯を啓示していると思います。
そして、主イエスの誕生に関わる父親として『ヨセフ』が、マタイによる福音書の冒頭に登場し、主イエスの埋葬に関わる人物が、アリマタヤの『ヨセフ』であることも、決してたまたまそうであったのではないと思います。今年のクリスマスは、すべては神様が語られ、神様が啓示し、神様が約束されたことが、主イエスを通して実現されたのだということを覚えたいと思います。そして、遠大な神様のご計画に、従順に従ったヨセフのように、主イエスの言葉に従順に従って、生きて行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
