小倉日明教会

『復活の朝』

マタイによる福音書 28章 1〜10節

午前10時30分〜

2026年4月5日 復活節第1主日イースター礼拝

マタイによる福音書 28章 1〜10節

『復活の朝』

【奨励】 川辺 正直 役員

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 2 聖なるみ神は 応答 起立
招   詞 詩編 16篇 7〜11節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 324 主イェスはすすみて 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

マタイによる福音書 28章 1〜10節

                                          (新約p.59)

啓示 着席
성  경 마태복음 28장 1절〜10절
New Testament The Gospel According to Matthew 28:1-10
圣  经 马太福音 28章 1〜10段
讃 美 歌 327 すべての民よ、よろこべ 応答 着席
奨   励

『復活の朝』

         川辺 正直 役員

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 467 われらを導く 応答 起立
祝   祷

平和の挨拶

司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。

会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【奨 励】                       役員 川辺 正直

■『しなう心』 細川宏

 おはようございます。イースターおめでとうございます。東京大学医学部の学生の頃から稀代の秀才と謳われ、将来を嘱望された細川宏先生という方がおられます。昭和28年に30歳で東京大学の助教授になります。昭和37年、著名な解剖学者・医学史学者であった小川鼎三教授が定年退官したのち、39歳の若さで東京大学医学部の解剖学教室の教授となるのです。しかし、わずか5年後、44歳の若さで胃がんのためにこの世を去るのです。細川宏先生は2年間にわたる大学病院での闘病中に、数多くの詩を遺して亡くなられました。細川先生の遺稿の詩は、直接の師と同僚が編集し、遺稿詩集『病者・花』と題して出版されました。遺稿詩集の冒頭の詩は『病者(ペイシェント)』と題され、『病者とは耐え忍ぶ者の謂(いい)である』という副題が添えられています。この『病者(ペイシェント)』という詩には、長い病との戦いに身をまかせひたすら医学の要塞陣地からの援護射撃によって救われるのを待ちつづけ、見舞う人のいたわりと励ましによってやすらぎと勇気を与えられつつ、じっと耐え忍ぶさまが如実にうたわれています。この細川先生の詩に『しなう心』という題の詩があります。短い詩ですので、お読みしたいと思います。

 

『しなう心』         細川宏

 

苦痛のはげしい時こそ

しなやかな心を失うまい

やわらかにしなう心である

ふりつむ雪の重さを静かに受けとり

軟らかく身を撓めつつ

春を待つ細い竹のしなやかさを思い浮かべて

じっと苦しみに耐えてみよう

 

 細川先生はこの詩で、病人とは忍耐強く春を待つ人間であると、雪でたわんでいるしなやかな竹をイメージして、そこに自分の心を重ね合わせようとしていると思います。春を待つしなやかな竹のような心をもって、今の時を耐え忍び、春を迎えようとしているのだと思います。病のうちにある人は、雪解けの春を待つような忍耐が確かに必要となるのだと思います。

 私たち人間の問題として、病のうちにある人も、健康な人も、やがて死は必ず訪れるという現実があると思います。作家のサマセット・モームは、『絶対に間違いのない統計・・・それは人間の死亡率が100パーセントだということだ』と語っています。このような現実を心に留めるときに、私たちは、本当の春の希望に心を向けたいと思うのではないでしょうか。それは死に打ち勝つ希望、永遠のいのちの希望であると思うのです。

 本日の聖書の箇所は、主イエス・キリストが十字架で亡くなり、墓に葬られ、3日目に復活する場面です。本日の聖書の箇所が語っている、十字架に架けられて死んで、墓に葬られていた主イエスが復活されたという空前絶後の事件が、私たちの人生に於いて、どのような意味を持つのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■週の初めの日の明け方に

 さて、本日の聖書の箇所であるマタイによる福音書28章1節を見ますと、『さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。』とあります。主イエスが墓に埋葬されたのは、ユダヤ暦のニサンの月の15日の金曜日の午後3時頃から日没までの約3時間の間に行われているのです。ローマのユダヤ総督のピラトと交渉して、主イエスの遺体を引き取って、埋葬したのは、アリマタヤのヨセフです(27章57〜60節)。この人が主イエスの遺体を葬るのですが、安息日に、ユダヤ人たちは死体を放置したままにしておくことは考えられないのです。特に安息日の中でも大いなる安息日というのがあります。それは何かと言いますと、ユダヤの特別な祭りと安息日が重なっていますと、これを大いなる安息日と言うのです。主イエスが十字架で亡くなられたときは、過越しの祭りと安息日とが重なっていたわけですから、大いなる安息日であったのです。それゆえ、ニサンの月の15日の金曜日の日没後には、大いなる安息日が始まってしまいますので、アリマタヤのヨセフとニコデモ(ヨハネによる福音書19章39節)は、主イエスの埋葬を短い時間で、バタバタと行ったのです。

 通常の埋葬の手順は、まず身体を水で洗います。それから亜麻布で包(くる)んでゆくのですが、その際、乳香とか没薬などの香料や防腐剤を塗り込むのです。当時の、ユダヤ式の埋葬の方法というのは、まず、死んだ遺体を今説明したように亜麻布で包んで、墓の中に1年くらい安置します。そうすると体液が流れて、骨だけになります。そして、骨だけになりましたら、今度は骨壺に入れ直して、2度目の埋葬をするのです。

 マグダラのマリアともう一人のマリアは、アリマタヤのヨセフとニコデモが、主イエスの埋葬を慌ただしく行っている様子を、少し離れた場所から見ていたのです(27章61節)。マグダラのマリアともう一人のマリアは、その様子を見ていて、心を痛めたのだと思います。なぜなら、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、安息日が終わった土曜日の日没後に、主イエスに油を塗るために香料を買っているのです(マルコによる福音書16章1節)。そして、マグダラのマリアたちは日曜日の夜明け前に、墓に行ったのです。そのような一連の流れを見ていますと、マグダラのマリアたちには、主イエスが復活するという予感を全く持っていないということが分かるかと思います。つまり弟子たちも女性たちも、主イエスがあまりにも酷(むご)たらしく殺されるのを間近に見ているので、主イエスが埋葬された時に、主イエスが復活するということは、これっぽっちも考えていなかったと思うのです。これが復活の朝の当時の状況です。

 ここで、主イエスの埋葬の意味について考えてみたいと思います。埋葬にどういう神学的な意味があるのかと言いますと、主イエスの辱め(はずかしめ)の時がこれで終わったというのが、主イエスの埋葬だと思います。主イエスの辱めの時はいつから始まったのかと言いますと、ベツレヘムで赤子として誕生した時に、イエスは、父なる神の右の座に座して持っておられた栄光を全部捨てて私たちの一人のようになってくださった、そしてイエスの恥ずかしめのピークは十字架での死だと思います。それから、墓に埋葬されます。主イエスを慕った弟子たちがみんな逃げ去っている状態、愛する家族も何もできない状態、愛する者が傍にいない状態で、主イエスは葬られています。主イエスの埋葬は辱めの時がこれで終わった、と同時にこのことが、主イエスが栄光を受ける、主イエスの栄光の始まりとなっていると思うのです。今の私たちには直ぐには理解できないことと思いますが、ローマのユダヤ総督のピラトが、主イエスの遺体の下げ渡しを許すというのは、これは実は恩赦なのです。恩赦とは何かわかりますでしょうか。獄中にある囚人について、特別に赦すことを恩赦と言います。特別に刑期を縮めることも恩赦と言います。十字架刑は本来、見せしめの刑ですので、十字架に架けられた犯罪人は、十字架に架けられたままで辱めを受け、そして、空の鳥に身体の肉が食われて悲惨な姿をさらけ出すところまでが刑なのです。ところがピラトは、アリマタヤのヨセフの願いに応じて、主イエスの遺体の下げ渡しを許可したのです。当時のユダヤの人々の感覚から言いますと、辱めが終わった主イエスが、今度は、栄光に変えられていく動きが始まっているということになるのです。

 一方、アリマタヤのヨセフは金持ちでした。彼の墓には、大きな石が転がしてあるというのは、豪華な墓の証拠なのです。イザヤ書53章9節には、『彼は不法を働かず//その口に偽りもなかったのに//その墓は神に逆らう者と共にされ//富める者と共に葬られた。』とあります。主イエスがアリマタヤのヨセフの墓に葬られたというのは、イザヤ書53章9節の予言の成就なのです。イザヤ書の予言通りに、金持ちの墓に葬られた主イエスは栄光の始まる、兆しに立っているということが分かるかと思います。これが主イエスの埋葬の神学的意味なのだと思います。

 さて、前置きが大分と長くなってしまいましたが、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、安息日の終わった日没後に香料を買った、マグダラノマリアと他のマリアは、主イエスが葬られている墓を見に行ったのです。そこで、何が起きたのでしょうか。

■主の天使が天から降って

 本日の聖書の箇所の28章2〜4節には、『すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。』とあります。ここでのポイントは墓石がわきへ転がって、墓が開いたということです。女性たちは、あの大きな墓石をどうやって転がしたらいいのか心配しながらやって来たのです。ところが、女性たちがどうにかしようとする前に、主の天使が天から降って近寄って、石をわきへ転がし、その上に座ったのです。このことは、墓の警備に当たっていたローマ兵たちから見ると、墓の封印が不当に破られたということになるのです。当時、墓の番をするのに、番兵たちは墓石に封印をするわけですが、どのようにしたかと言いますと、横穴式の墓の入り口に墓石を転がします。そして、ロープをたすき掛けにX型に掛けるのです。そして、岩盤とロープがつながっているところに粘土や蝋を押し付けて、ローマの判子をポンと押して封印するのです。もし、墓石を転がせば、ロープが剥がれてしまいます。それが封印破りなのです。

 もし封印を破ると、破った者は捕まれば死刑になります。それと同時に、封印が破られると、番をしていた兵士たちも、職務に失敗したということで死刑になるのです。ですから、兵士たちにとっては、封印された墓の警護は命がけの任務なのです。従って、本日の聖書の箇所で、主の天使が墓石をわきへ転がして、封印破りをしたのですから、番兵たちは直ちに行動を起こして、封印破りをした者を拘束するべきなのです。しかし、封印破りをしたのは誰かと言うと、雪のように白い衣を身に着け、稲妻のように輝く姿の主の天使であったのです。それを見て、番兵たちは恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになってしまったのです。そして、そこにはマグダラのマリアなどの女性たちもいたのです。そして、天使は女性たちに告げるのです。

■あの方は、ここにはおられない

 次に、本日の聖書の箇所の28章5〜7節を見ますと、『天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」』とあります。主の天使は、女性たちが十字架につけられたイエスを捜しているのを知っているのです。しかし、主イエスはここにはおられないと言うのです。主イエスが以前から言っておられたように甦られたと言うのです。私たちの主イエスは墓の中に閉じ込められておかれるようなお方ではありませんという宣言が、ここで天使によってなされるのです。私たちの人生を100%変える、私たちの信仰は、この天使によって宣言された、主イエスの復活という厳粛な事実の上に成り立っているのです。天使が墓石を転がしたのは、死んで遺体となった主イエス・キリストと出会わせるためではなかったのです。主イエスがよみがえったという証拠を見せるためであったのです。すなわち、空の墓を見せるためであったのです。天使が墓石を転がすまでは、墓石は封印されたままであったのです。つまり、主イエスの弟子たちが、主イエスの遺体を盗み出して、どこかに隠して、主イエスが復活されたとデマを拡散することは到底できなかったのです。封印されていた墓が開かれると、墓は空になっていたのです。

 この5〜7節で天使は女性たちに3つのことを告げています。天使が、『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、』と女性たちに告げた第1のメッセージは、女性たちが、そして、私たちが主イエスを探しているということを、主イエスはよくご存知だということだと思います。

 墓が空になっていた、さらに、天使は『あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。』と女性たちに告げた第2のメッセージは、私たちが主イエスと出会うために、どこの墓を掘り返せばいいのだろうか?などという考えを巡らすことは無用だということだと思います。主イエス・キリストはどこの墓の中にもいないのです。主イエス・キリストは、今、生きておられ、私たちの傍に立って、私たちと共に歩むことを願っておられるのだと思います。

 そして、天使が女性たちに告げた第3のメッセージは、『それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」』(7節)ということです。天使は、キリストの復活を弟子たちに告げるように、婦人たちに伝えたのです。このとき、男性の弟子たちはエルサレムの某所の部屋に隠れていました。死刑囚の弟子たちということで、罪の追求が自分たちの身に及ぶことを恐れていたのです。また、主イエスが死んでしまって、弟子たちはこれからどうしたらいいのだろうかと、悲しみと混乱のうちに途方にくれていたのです。女性たちは、このような弟子たちに対して、まさしく喜びの知らせ、グッドニュースを伝えるように、天使から託されたのです。主イエスの復活というグッドニュース、福音を最初に託されたのは、なんとこの女性たちだったのです。

 7節を見ますと、天使は『急いで行って』と、女性たちに急ぐようにと語っています。私たちが生きている現代では、早く知らせる通信手段として、電話、E-メールやLineメール等があるかと思います。私たちはこれらの通信手段を使って、瞬時に遠くにいる人に情報を伝達することができます。しかし、主イエスの時代、遠隔地への平均の情報伝達速度は時速4km位であったと言われています。大体、大人の男性の歩く位の早さです。それでは、そのような情報伝達についての環境の中で、天使からメッセージを託された女性たちはどうしたのでしょうか。

■婦人たちは走って行った

 本日の聖書の箇所の8節を見ますと、『婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。』とあります。女性たちは喜びのメッセージを伝えるために、走って行ったのです。おそらく当時の平均情報伝達速度である時速4kmを越える速度で、走って行ったのだと思います。それは、女性たちが通常のスピードを越えて弟子たちに伝えようとしたということです。女性たちが弟子たちに急いで伝えようとしたのは、とにかく早く伝える価値のあるメッセージだと信じたということだと思います。そして、主イエスの復活を信じて、先を急いで、弟子たちに知らせるために走って行く女性たちに驚くべき出来事が起きるのです。

■おはよう

 本日の聖書の箇所の9〜10節を見ますと、『すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」』とあります。主イエスの復活を信じ、重要なメッセージを伝えるために弟子たちの元へと急ぐ女性たちは、その途中で、復活の主イエスと出会うという驚きに与るのです。復活の主イエスのあいさつは驚くほど自然なものでした。『おはよう』。十字架で無残な死を遂げたことなど、嘘のようなあいさつだと思います。これは一般の庶民が交わす、ごく普通のあいさつの言葉です。また、行き交う旅人が、道で交わすごく普通のあいさつ言葉です。新共同訳聖書で『おはよう』と訳されたギリシア語の『カイレテ』という言葉は、『幸あれ』、『喜びなさい』とも訳すことのできる言葉ですが、ありふれた、形式ばらないあいさつ言葉です。このあいさつが、主イエスの人格を良く表していると思います。温かみがあって、形式ばらない優しさを感じることができると思います。主イエスは貧しい人や疎外されている人や、罪人として嫌われている人に近づき、慕われ、愛され、肩の凝らない付き合いをされました。主イエスは、何事もなかったかのように、『おはよう』とあいさつをされたのです。

 女性たちは驚き、動転して、まともにあいさつを返せなかったと思います。福音記者マタイが伝えていることは、『婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。』という事実です。『イエスの足を抱き、』とありますので、女性たちは幽霊や幻を見た、というようなことではないことが分かります。そして女性たちが『その前にひれ伏した。』というのは、神様に対して礼拝したということですが、主イエスはこれを拒まなかったのです。『ひれ伏した。』と訳されたギリシア語の『プロセクネィサン』という言葉は、『礼拝した』とも訳すことのできる言葉です。現在、多くのキリスト教会は、主イエス・キリストが復活した日曜日に礼拝を行っていますが、世界最初に、日曜日に、主イエス・キリストを礼拝したのは女性たちであったのです。

■わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる

 主イエスはこの時、女性たちに指示を出しています(10節)。それは、本日の聖書の箇所の7節で天使から受けた内容と同じもので、ガリラヤで待っている、ガリラヤで会おうと弟子たちに伝えてほしいというものでした。これは、弟子たちにとって容易な課題とはならなかったのです。本当に主イエスは復活したのだろうか?本当にガリラヤで会えるのだろうか?なかなか主イエスの復活を信じることのできない弟子たちは、ガリラヤ、ガリラヤ、ガリラヤと繰り返し聞いても、なかなか最初の一歩を踏み出すことができなかったのです。そのため、復活した主イエスが現れて下さっても、なおも疑う弟子がいたことから、何度も弟子たちのところへと来て下さったおかげで、ようやく弟子たちはガリラヤへと向かうことができたのです。そして、ようやくガリラヤで弟子たちに再会した主イエスの次の言葉で、マタイによる福音書は終わるのです。その主イエスの最後の言葉とは、『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』という言葉なのです。なかなか主イエスの復活を信じることのできない弟子たちの姿と、主イエスの『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』という言葉に、聖書の真実と豊かさが現れていると思います。

 私たちは、主イエス・キリストの『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』という言葉に、主イエスの真実を信じ、様々な苦難や不幸に見舞われたときも、主イエスが共にいて下さることを信じて、歩んで行きたいと思います。

  それでは、お祈り致します