| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 11 感謝にみちて | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | ヨシュア記 1章 8〜9節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 327 すべての民よ、よろこべ | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
ルカによる福音書 24章 44〜53節 (新約p.161) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 누가 복음 24장 44〜53절 | ||
| New Testament | The Gospel According to Luke 24:44-53 | ||
| 圣 经 | 路加福音 24章 44〜53段 | ||
| 讃 美 歌 | 183 イェスのみ名に | 応答 | 着席 |
| 奨 励 |
『キリストの証人として』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 337 たたえよ、この日 | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■歴史を変えた100冊の本
おはようございます。スコット・クリスチャンソンとコリン・ソルターというジャーナリストが『歴史を変えた100冊の本』という本で、歴史上人類に大きな影響を与えた本を100冊紹介しています。古い順に並べていますが、3番目に登場するのが旧約聖書の最初の部分、モーセ5書と呼ばれているものです。ちなみに1番に登場するのは、中国の四書五経の中の一つの『易経』ですが、本文の成立は聖書よりも後になります。2番目の『ギルガメッシュ叙事詩』は、実在していた可能性のある古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメシュを巡る物語ですが、粘土板に記されているものが、200年ほど前に発見されました。しかし、これも見方によれば、また内容から見れば聖書より古いと必ずしも言えません。いずれにしても、客観的に見て、聖書は世界最古の書物の一つであると言うことができます。聖書は書き始められて、新約聖書の1番最後のヨハネの黙示録まで、1600年もかかって完成しているにも関わらず、内容は一貫しており、驚くべき調和があると思います。これは創造主なる神が多くの人間を通してご自分のメッセージを伝えたからです。不思議と知恵に満ち、世界を創造された神であれば、奇跡的な書物を造らせることも可能ではないでしょうか。
さて、長らく読み続けてきたルカによる福音書は、本日で読み終えることになります。読み始めたのは、私が2020年の11月ですから、大体5年と少しをかけて読み終えたことになります。本日は、主イエスの昇天について、記されている箇所をお読みします。『天に昇る』と書く、『昇天』です。それは死んだという意味ではありません。体をもって復活した主イエスが、その体において地上を離れて天に上げられたということなのです。復活からその『昇天』までの間、主イエスは繰り返し、目に見える仕方で弟子たちの前に姿を現されました。しかし、『昇天』以後はもう、この地上で、目に見える仕方で主イエスとお会いすることはなくなったのです。本日は、主イエスの『昇天』を通して、私たちに何が与えられたのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■必ずすべて実現する
本日の聖書の箇所のルカによる福音書24章44節を見ますと、『イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」』とあります。エマオへの道での物語と同じように、主イエスは聖書の解き明かしを行われたのです。ここで、『モーセの律法と預言者の書と詩編』というように語られていますが、これは旧約聖書全体のことです。ユダヤ人たちは旧約聖書をモーセ5書と呼ばれるトーラー、預言書、そして、詩篇あるいは諸書諸物の書、というように3つに区分します。44節で、ユダヤ人たちが当時使っていた言葉を用いて、旧約聖書に書いてあることは『必ずすべて実現する。』と、主イエスは言われたのです。旧約聖書には、メシア予言と言われる言葉がたくさん出てきます。主イエスは、『必ずすべて実現する。』と、おっしゃられたのです。『[それは]必ず~する』で用いられているギリシャ語の言葉は、『デイ』という言葉です。英語では、mustという言葉です。まだ起きていない事実について、『必ずすべて実現する。』というのは、神様の視点から見た必然性であると思います。
神様の視点から見て、旧約聖書の予言は『必ずすべて実現し』なければならないと言うのです。そうでなければ、神様の計画が途中で挫折してしまうからです。神様の計画は『必ずすべて実現する。』、『デイ』なのだ、それが神様の目から見た必然性なのです。メシア予言のあるものはすでに成就しました。100%その通りに成就しました。しかし、まだ成就していない予言があります。それは、終末に関する予言ですが、これも『必ずすべて実現し』ます。それは、なぜかと言いますと、『必ずすべて実現する』という、神様の視点から見ますと、mustなのです。『デイ』なのです。『必ずすべて実現する』必然性があるからです。ですから、私たちも、メシア予言を受け、終末予言を読みながら、『必ずすべて実現する』と信じることができるのです。既に起こったことは、全てメシア予言の成就でした。そして、これから起こることもメシア予言の成就として起こるのです。私たちは、その信仰の上に立って行きたいと思います。このことを語った後、さらに主イエスは言葉を続けます。
■これらのことの証人となる
次に、本日の聖書の箇所の45〜48節を見ますと、『そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。』とあります。主イエスはメシア予言の解説を始めます(45節)。主イエスは以前に、何度も弟子たちに受難の予言を語っていたのですが、弟子たちは理解できなかったし、信じなかったのです。これは弟子たちの問題です。なぜかと言いますと、彼らの心の中の霊の目がまだ閉ざされていたからです。そこで、主イエスは彼らの心の目を開いて、聖書の予言の解説をするのです。『心の目を開いて、』とありますが、その方法は何かと言いますと、メシア予言の解き明かしなのです。メシア予言を解き明かすことによって、彼らの心の目を開き、主イエスこそ約束のメシアであるという信仰に導いたということなのです。主イエスの解説は、次のように5つのポイントについて行われました。主イエスが弟子たちに与えた、1番目の点は、キリストは苦しみを受けるということです。2番目のポイントが、3日目に、死人の中から蘇るということです。そして、ここまでがこの段階で成就したわけです。次の3番目のポイントが、それから全人類に、福音が伝えられるということです。さらに4番目のポイントが、福音の伝達はエルサレムから始まるということです。エルサレムから福音の伝達が始まって、現在、日本に住んでいる私たちのところにまで、福音は届けられてきたのです。そして、最後の5番目のポイントが、弟子たちはこれらのことの証人となるということなのです。つまり、1番目から4番目までのキリストは苦しみを受ける、3日目に死人の中からよみがえる、全人類に福音が伝えられる、それはエルサレムから始まる、この福音を伝えることの証人となって全世界に出ていくのだということが約束されたということなのです。
これらのことは、主イエスがメシア予言を成就したのだ、主イエスが約束のメシアであるということなのです。主イエスというお方は、歴史上突如現れて、自分が救い主だと自己宣言したということなのではないのです。旧約聖書の長い長い歴史の中で、様々なメシア予言があり、主イエスが登場した時に、ユダヤ人たちはこの方がメシアだと分かるように、神様が用意されたそのメシア予言を主イエスは全て成就したということなのです。そのことの証人となっていくということが、ここで弟子たちに約束されたというわけなのです。弟子たちは自分たちが主イエスを信じて救われて喜ぶだけではないのです。全人類に福音が伝えられる。それはエルサレムから始まるのだということです。これはこの後に書かれる使徒言行録への架け橋にもなっています。当時の一般的なユダヤ人たちはこのような考え方、つまり福音が異邦人に伝えられ、異邦人も救われるという考え方に反発していたのです。けれどもそのような偏狭的な福音理解を、主イエスは粉砕して、異邦人伝道がこれから始まるのだという予告を、弟子たちに与えておられるのです。それがこの箇所の内容です。それでは、直ぐに異邦人伝道に出て行っていいのかと言いますと、そうではないのです。
■高い所からの力に覆われる
次の49節を見ますと、『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」』とあります。これは何のことを言っているのかと言いますと、聖霊をあなたがたに与えるという約束なのです。主イエスは弟子たちに聖霊を与えるということなのです。つまり、弟子たちは聖霊の力を受けて、世界宣教に出て行くのだ、それまではエルサレムに留まっていなさいという命令も与えられたということなのです。
この49節で、主イエスは『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、』と、聖霊の降臨についての予言を語っています。この聖霊降臨も旧約聖書に予言されていたことです。メシアが聖霊を送ってくださるという、聖霊降臨についての予言についての聖句としては、イザヤ書32章15節、44章3節、エゼキエル書39章29節などを挙げることができます。ここでは、イザヤ書32章15節のみをお読みしますと、『ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。』とあります。さて、本日の聖書の箇所の49節に戻りますと、聖霊の降臨があるまでは、弟子たちは、宣教に出てはいけないと言うのです。弟子たちは都にとどまっていなさいと言うのです。先程申し上げましたように、この命令は、福音記者ルカが書いた使徒言行録への架け橋となっているのです。弟子たちは復活の主イエスに出会った。福音の内容を理解した。それを携えて異邦人宣教に出ていくのだけれども、まだ時ではないと言うのです。聖霊が降るまでは待機していなければいけないと言うのです。そのことを説明しているのが、使徒言行録の1章8節で、『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」』とあります。今、日本で、私たちがクリスチャンになっているのは、突然、たまたまそうなったわけではないのです。キリスト教会が誕生して以降、約2000年弱の、キリスト教伝道の歴史、人生を犠牲にして福音を伝えてくれた、信仰の先輩たちである宣教師たちの犠牲的な奉仕があってはじめて、私たちのところまで伝わって来ているのです。ですから、今日学んでいます聖書の箇所は、私たちが信仰を持つことの原点になっているということなのです。全ては、主イエスが十字架に架けられ、墓に葬られ、3日目に甦り、弟子たちに現れたというところからスタートしているのです。この事実を否定したら、キリスト教は、根拠のないものになってしまうと思います。主イエスが復活したという事実が本当ならば、このことを信じなければ大変なことになってしまうと思うのです。今、信じるか信じないかの選択を私たち一人一人に、神様は迫っておられると思います。
■主イエスの昇天
次に、本日の聖書の箇所の50〜51節を見ますと、『イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。』とあります。ルカが書き記したこの記事を読みますと、主イエスが昇天した場所は、ペタニアの辺りであって、オリーブ山ではないということが分かります。標高815mのオリーブ山の山頂には、2つの昇天教会があり、目立つのはロシア正教会の昇天教会の尖塔で、このため多くの人は、オリーブ山の山頂から主イエスは昇天したと思っておられますが、そうではないのです。オリーブ山の東山麓、オリーブ山の頂上から少し東側に下るとベタニアという村があるのですが、ベタニア村の近くで主イエスは天に昇られたのです。
ルカによる福音書が、主イエスが昇天された場所は、『ベタニアの辺り』と伝えているのはなぜでしょうか。ルカによる福音書の10章38〜42節には、マルタとマリアという姉妹が主イエスを迎え入れた出来事が記されています。聖書は、ベタニヤのマリヤについて特別な注意を払っています。マリヤは主イエスの語るみことばに聞き入ることで、使徒たちが悟り得なかったことを悟りました。ですから、彼女はやがて死んで葬られることになる主イエスに、予め、葬りのための高価な香油を主イエスの足に塗り、しかも彼女の髪の毛で拭うことをしているのです。
また、ヨハネによる福音書11章1〜44節には、主イエスがなさった最大のしるし、奇跡であるマルタとマリアの兄弟である『ラザロの死と復活』が記されています。そして、『ラザロの死と復活』の出来事の中で、マルタの信仰告白が語られているのです。神様への悔い改めのあるところに、神様の命はよみがえります。ラザロが死から蘇ったように、『ベタニアの辺り』というのは、命を回復する象徴的な場所なのだと思います。
さて、主イエスは弟子たちを『ベタニアの辺りまで』連れて行かれました。このことは、主イエスが復活されてから、40日後に起きています。つまり40日間、様々な形で弟子たちに現れ、弟子たちに教えられたということです。主イエスは、『手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。』とあります。ここには、主イエスの3つの役割が記されています。主イエスの3つの役割の中の1つ目の役割は、祭司としての役割です。『手を上げて祝福された。』とありますが、ここで手を上げるというのは、天にある祝福を地上に住む人たちにもたらす行為なのです。これは天にある祝福が、皆さんの上に降るようにという、神様の代理人としての役割を果たしているということなのです。主イエスが手を上げて弟子たちを祝福されたことは、主イエスは祭司としての最終的役割を果たしているということだと思います。
次に、主イエスには、預言者としての役割があるということなのです。これが、主イエスの昇天の姿です。ユダヤ人であればこの箇所を読むと、思い出す預言者がいるのです。それは預言者エリアです。エリアの昇天の描写に非常に似ているのです。列王記下2章11節を見ますと、『彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。』とあります。主イエスの昇天は、預言者エリアの昇天に似ていると思います。
そして、主イエスには王なるイエスとして役割があると思います。昇天された主イエスは、やがて王として地上に再臨されるのです。このように、主イエスの役割は、祭司であり、預言者であり、王であるのです。このことが、本日の聖書の箇所の50〜51節から読み取れる内容なのです。
■絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた
次に、本日の聖書の箇所の52〜53節を見ますと、『彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。』とあります。52節の前半で、『彼らはイエスを伏し拝んだ後、』とあります。このことは、ユダヤの文脈では、弟子たちは、主イエスを礼拝しました、ということなのです。ルカはここで初めて弟子たちが主イエスを礼拝したと記しているのです。ユダヤ人にとっては、礼拝するという行為は、神様に対してのみ行う行為なのです。ですから、弟子たちが主イエスを礼拝したと記されているのは、非常に重要なポイントなのです。弟子たちは主イエスを礼拝したと、ルカが記しているのは、弟子たちは主イエスが神様であることを確信したということなのです。主イエスの死、復活そして昇天まで目撃した弟子たちは、今や完全に主イエスが神様であることを確信したのです。私たちキリスト者も、その確信を持っているのです。主イエスを礼拝して、次にどうしたのかと言いますと、大きな喜びとともにエルサレムに帰ったのです。大きな喜びが弟子たちに与えられたのです。ついに彼らは、メシアの役割を理解したのです。さらには、神様の人類救済計画を理解したのです。弟子たちの喜びは、神様の意図を理解した喜びなのです。ルカによる福音書の最後は、喜びで終わっているのです。ルカによる福音書の特徴は『喜び』だと言うことができると思います。そして、彼らは『絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。』とあります。ここでの神殿ですが、祈りの家だと言うことができます。祈りの家でいつも神様を褒めたたえていた理由は何でしょうか。弟子たちはようやく主イエス・キリストの福音を理解したのです。神様の意図を理解したのです。主イエスが神様であることを理解したのです。真理を理解した者は、喜びに満たされるのです。真理を行うものは、自由を獲得することができると思います。主イエス・キリストの言葉に留まるならば、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にすると思います。これは喜びから来る自由なのです。自由を得ようとしてもがくのではなくて、御言葉の理解によって与えられる喜びによって、私たちは自由な者とされて行くのです。
私たちは主イエス・キリストの『昇天』によって、本当の真理と自由が与えられ、主イエス・キリストの死と復活と昇天、そして、その後に与えられた聖霊降臨を証言する者として歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
