小倉日明教会

『畏れることは知恵の初め』

箴言 1章 7節
マタイによる福音書 26章 52節

午後3時00分〜

2026年8月30日 聖霊降臨節第15主日礼拝

箴言 1章 7節<br /> マタイによる福音書 26章 52節<br /> <br />

『畏れることは知恵の初め』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 2 聖なるみ神は 応答 起立
招   詞 詩編 30篇 5節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 348 神の息よ 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

箴言 1章 7節

マタイによる福音書 26章 52節

                                       (新約p.54)

啓示 着席
성  경 마태복음 26장 52절
New Testament The Gospel According to Matthew 26:52
圣  经 马太福音 26章 52段
讃 美 歌 551 朝の光 闇をはらい 応答 着席
説   教

『畏れることは知恵の初め』

     沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 424 美しい大地は 応答 起立
祝   祷

     沖村 裕史 牧師

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                  沖村 裕史 牧師

■平和公園の慰霊碑「E=MC2

 皆さんの中には、ヒロシマの平和公園や資料館、原爆ドームなどをご覧になった方が少なからずおられることだろうと思います。わたしの場合は、広島大学に入学した春四月のことでした。研究室の助教授が新入生九人を千田町のキャンパスから連れ出し、平和公園、そして原爆資料館を案内してくれました。九人の内、地元の学生は一人だけ。見学の後、その一人を除く全員の顔が青ざめていました。その後、原爆ドームのすぐ近くにあった広島市民球場に移動し、広島カープの試合を楽しみました。そこで助教授曰く、「カープは日本のプロ野球の中でも一番の貧乏チーム。なぜなら、大きな企業がスポンサーとなってできた球団ではなく、市民によって作られた球団だからだ。原爆によって廃墟と化した広島市民にとって、このチームは復興と希望のしるしそのもの。だから、市民みんながこの球団を愛し、酒樽に募金を入れて支えてきたんだ」。誇らしげに語った…その年の秋、広島カープが初のセリーグ優勝を果たし、わたしも市民挙げての歓喜の渦の中にいました。この助教授もまた被爆者でした。

 それから、八月六日だけでなく何度も、平和公園と原爆ドームを訪れるようになりました。しばらくして、平和式典のメイン会場となる「原爆死没者慰霊碑」や折り鶴が飾られている「原爆の子の像」だけでなく、他にも数多くの記念碑や供養塔があることに気づきました。公園となっている広い敷地には、今なお原爆の犠牲となった人々の骨がここかしこに埋まっているといいます。毎年八月六日早朝、市内の宗教団体が一堂に会して祈りの時を持つ「原爆供養塔」、当初、平和公園内に設置することを許されなかった「韓国人原爆犠牲者慰霊塔」、被爆したアオギリやハマユウ等々、その数なんと、七一にもなります。

 今日ご紹介したいのは、その中のひとつ。原爆資料館から平和公園の南側に出て、平和大通りを渡って、元安川に架かる東平和大橋の方向に歩くと、その歩道の右側に設置されている「広島市高等女学校原爆慰霊碑」です(最終頁「現在の平和記念公園周辺」の三四番)。その慰霊碑に、「E=MC2」と刻まれた箱を手にする三人の女生徒の姿が描かれたレリーフがあります。

 「E=MC2

 「エネルギー(E)」は、「質量(M)」×「光速(C)」の2乗に等しいことを示す数式です。この式を導き出したのは、現代物理学の父、アインシュタイン博士です。博士はこの簡潔な式について「とても小さな質量が、とても大きな量のエネルギーに変換されるかもしれないことを示している」と語ったといいます。事実、この数式がひとつの基礎となって、やがて原爆が生み出されました。そしてそれは、史上かつてない破壊力を持った武器として、広島と長崎の上空で炸裂し、悲惨な結果をもたらすに至ったのでした。

 先ほどの慰霊碑が建てられたのは、被爆から三年後の一九四八年八月六日。現在の平和記念公園から平和大通り一帯の建物疎開作業に来ていた広島市立高等女学校の一・二年生五四四人、職員八人全員が亡くなりました。この学校では他の動員先を含め、六七九人が被爆死し、市内の学校では最も多くの犠牲者を出しました。その慰霊碑に、アインシュタインの相対性理論からとられた原子力エネルギーの公式「E=MC2」が刻まれているは、当時、連合軍の占領下にあって「原爆」という文字が使用できなかったためだと言われます。

 原爆の製造に際しては多くの学者・研究者が動員され、また協力しました。アインシュタインも、当時のアメリカ大統領ルーズペルトに対し、原爆の製造を促す文章に署名した一人でした。後に彼は、このときの署名を「人生で最も大きな間違いを犯した」と言って、悔やんだといいます。博士の外にも、原爆の製造に関わった学者・研究者の中に、後にそれが過ちであったと告白する人々が出てきました。

 平和聖日の礼拝でご紹介した、谷本清先生が被爆後に出会った弁護士・高橋武夫の言葉が思い出されます。最愛の娘を三人とも一度に失った悲しみに、思わず叫ぶようにした口から洩れ出た言葉。

 「人間は、何という恐ろしい武器を発明したのであろう!こんなものを発明しうる人間にして、どうしてこんな馬鹿らしい『戦争』を未然に防止することが出来なかったのであろうか」。

■知恵・知識・研究・技術…

 原爆。核兵器。核のエネルギー。それは、人間の知恵が生み出したものです。これほどの力が人間のものとなったのです。これほどの力は、かつてはただ神にのみ許されたもの、神の領域に属するものと考えられていたものだったはずです。今や、人間は神の領域にまで到達し、神の力を手に入れたと言ってもいいかも知れません。その象徴が原爆、核兵器であり、そのキイワード、魔法の呪文が「E=MC2」であったと言えるのかも知れません。

 旧約聖書の創世記には、人間が高い塔を作って、神がおられる「天」にまで達しようとして失敗した「バベルの塔」の物語が伝えられています。しかし今や、人間は宇宙という領域にまで乗りだす存在となりました。またコンピュータやインターネット、特に人工知能・AIと呼ばれるシステムの発達・普及は、知識、情報、コミュニケーションの領域において、つい五〇年前までは想像もできなかったような劇的な変化をもたらしつつあります。さらにまた、かつては生命の神秘と言われた領域においてすら、人間はその仕組みを解明し、そこに介入し操作する技術を獲得しつつあります。

 これらはすべて、かつて神の領域と考えられていたところにまで、わたしたち人間が足を踏み入れていることを示すしるしであるとは言えないでしょうか。人類が営々として積み重ねてきた知恵・知識・研究・技術…。それらの結果が実を結び、今日ここにまで到達するに至ったのです。

 しかし、しかし大きな問題は、神のような力を獲得したとは言え、わたしたち人間には、必ずしもその力の用い方を正しく判断できるとは限らないということです。あらゆる知恵・知識・研究・技術は、用い方によってはまったく相反する結果を生かことがあります。そうした結果の中には、二〇一一年の東京電力・福島原発事故のように、もはや二度と取り返しのつかないものや、人間自身の首を絞めることになるようなものもありうるのです。

 「知恵を問う知恵」というのは、たとえば原爆―原子力エネルギーに象徴されるような神の力を手に入れた後、それをどのように用いるか、あるいは用いないかを問う知恵のことです。原爆―原子力エネルギーを作り出す知恵を第一の知恵とするなら、それを作り出すことの意味、それを使用することの是非、さらにはそれを今後どのようにしていくべきなのかを決断する第二の知恵のことです。

 それは、哲学的な知恵と言うことができるかも知れませんし、倫理的な知恵、道徳的な知恵、人間やこの世界に関わる根本的な価値判断に関わる知恵と言えるかも知れません。何も難しいことを言っているわけではありません。それは、「いのちを守る」「いのちを大切にしたい」という、ごく素朴な願いから出てくるものです。聖書は「いのちを選べ」「生を選べ」と勧めています。

 「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにしなさい」(申命記三〇・一九)

 これは、東西冷戦のさなか、核戦争の脅威を前にして、エキユメニカルなキリスト教の集まりでしばしば取り上げられた言葉です(一九五九年のプラハ・キリスト教平和会議など)。「いのち」などという曖昧な言葉を、科学や技術の議論に持ち込むのは意味がないと言う人がいますが、とんでもありません。知恵や知識、科学や技術の可否の最も具体的な指針こそ、与えられたとしか言う外ない、かけがえのない「いのち」を守れるか、どうかということです。

■神の前で祈る

 古代ギリシアの哲学者であるソクラテスは「無知の知」ということを説いています。彼は、自分は実は何も確かなことを知らない存在なのだ、ということを自覚することから始めて、真の知恵を求めようとしました。自らが「無知」であることを「知る」こと。これもまた、ある意味での「知恵を問う知恵」の働きであると思います。

 キリスト教もまた、生まれながらの人間は無知な存在であり、善悪を知らず、しばしば過ちを犯し、自分と他者を傷つけてしまうような、愚かさの中にある存在と考えます。そしてキリスト教の場合は、真の知恵、真理というものは、ただ神のもとからやって来ると考えます。

 今日取り上げた聖書の言葉は、「主を畏れることは知恵の初め」と語り、「無知な者は知恵をも諭しをも侮る」と語っています。「主を畏れる」とは、言葉を換えて言えば、「神の前に立って誠実に自らを省みる」ということでしょう。神の前に立つことによってわたしたちが知ることは、わたしたちは本当に大切なことは実は何も知らないのだという「無知の知」であり、わたしたち人間は決して完全ではありえないという自覚です。だからこそ真の知恵を与えてくださるようにと、つねに謙虚に神に祈り求めることが大切なのです。

 わたしたちにできることとできないことを正しく見分ける知恵。わたしたちが為すべきことと為すべからざることを正しく見分ける知恵。そして、その真の知恵に従って正しく生きる勇気。そうしたものを、とりわけ現代に生きるわたしたちは祈り求める必要があると思います。

 皆さんは「魔法使いの弟子」という物語をお聞きになったことはないでしょうか。かのゲーテがサモサタのルキアノスの詩『嘘好き』に基づいて書き上げた詩による物語で、師匠である魔法使いから家の掃除を命じられた魔法使いの弟子の話です。この弟子は覚え立ての魔法の呪文を唱え、箒(ほうき)やバケツなど、掃除道具を自分の思い通りに動かします。初めの内はうまくいっていたのに、やがてそれらの道具は彼の思惑(おもわく)をこえて、とんでもない動きをするようになります。魔法使いの弟子は道具を動かす呪文は覚えていましたが、それを止める呪文を知らなかったために、結局、楽をしようとして、かえってひどい目に遭うというおとぎ話です。

 一見ユーモラスでありながら、今日の世界と現実を顧(かえり)みる時、これは笑うに笑えないブラック・ユーモア、また不気味な寓話(ぐうわ)のようにも感じます。魔法使いの弟子が唱えた呪文が「E=MC2」であったのかどうかはともかくも、わたしたちもまた動き出してしまった道具を止めるための呪文を知らないという点では、この魔法使いの弟子と同じなのかも知れません。聖書は言います。

 「主を畏れることは知恵の初め。

 無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴言一・七)

 「そこで、イエスは言われた。

 『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ二六・五二)

 今日、そして未来にわたって、わたしたちが生きていこうとするなら、わたしたちがまずしなければならないことは、神の前に立ち止まること、自らを省みること、そして祈ること、「知恵を問う知恵」「剣をさやに納めること」を願い求めることであると、聖書は教えているのです。