小倉日明教会

『すべては神の御手に』

イザヤ書 10章 1〜2節、10〜13節

午後3時00分〜

2025年11月23日 降誕前第5主日礼拝

イザヤ書 10章 1〜2節、10〜13節

『すべては神の御手に』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 8 心の底より 応答 起立
招   詞 ローマの信徒への手紙 15章 4節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 386 人は畑をよく耕し 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

イザヤ書 55章 1〜2節、10〜13節

           (旧約p.1152)

啓示 着席
성  경 이세야 55장 1〜2절、10〜13절
Old Testament Isaiah 55:1-2, 10-13
圣  经 以赛亚 55章 1〜2段、10〜13段
讃 美 歌 432 重荷を負う者 応答 着席
説   教

『すべては神の御手に』

          沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 457 神はわが力 応答 起立
祝   祷

          沖村 裕史 牧師

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                        沖村 裕史 牧師

■大地と共に生きるために

 今日は収穫感謝の日です。わたしたちが手にする、ここに備えられた野菜や果物のすべては、神が与えてくださったものであることを覚えて感謝し、その恵みを分かち合い、共に生きることを誓い、祈る日です。

 そして今日、与えられた聖書のみ言葉は、この世界と自然、そして、わたしたち人間の営みと救いのすべてが、神によって与えられているものであることをわたしたちに思い起こさせます。

 そこで、今日はこの言葉からメッセージを始めさせていただきます。

 「大地が 生きている

 だから 私たちも 生きられる」

 この言葉は、ある福祉作業所の人たちが手作りでつくられた絵はがきに、小さく印刷されているものです。言葉の背景に、大きくツユクサが描かれ、美しく彩色されています。その向う側には畔道(あぜみち)があり、山並みの麓(ふもと)の集落にまで続いています。畔道の両側には田んぼが広がり、苗の束を持った早乙女(さおとめ)が田んぼに足を入れようとしています。草花を咲かせ、穀物を実らせる大地の生気が感じられます。人がその大地に手をつっこんで稲を植える。それを想像すると感動が深まります。

 ですが、このはがきの表の下に一行意味ありげに、カッコ付きでこう印刷されていました。(このあたりはほとんど稲作農家でしたが…)。この一行は、絵はがきを作っている岩手の小さな村の作業所の周囲には、もはやこういう風景は見られないのだ、ということを暗示しています。

 戦後、この国の田んぼも山々も姿を変えてしまいました。人は経済の要求に抗しては生きられないからです。しかし経済の要求に従っているうちに、自然は金に換算される価値によってしか見られなくなり、大地や獣たちが生きることなどは、自然を見る視野から消え去ってしまいました。

 この国の山々の水量を確保調整する落葉樹は切り倒されて、杉や檜が植えられました。杉や檜では獣たちは生きられません。クマ、シカ、イノシシなどの大型の動物や、リスやムササビなどの小動物は、木の実をつけ、また棲み家になる落葉樹林を必要とします。山を追われたクマは、里に下りてくると当然のように射殺されてしまい、日本の各地でクマは窮地に追い込まれます。「まだ落葉樹林がかなり残っている秋田県でさえ、クマの数は減り、生き残っているクマも痩せ、胃潰瘍を起こすケースが多くなった」と言われるようになってから、早や三〇年以上が経ちました。生きるためにクマは山を下り、街にその姿を見せ、人と出くわし、生活圏を巡るトラブルとなっています。

 落葉樹林の全体が切られない場合でも、選択伐採という名の下に、樹齢の高い木々の伐採が行われます。知床の自然林の伐採地に立ち合った友人からの便りを受け取ったことがあります。伐採した木はヘリコプターで運び出して、森には傷をつけないはずでした。ところが、切って見たら空洞があった木は、倒されたままに放置され、周囲の木々を無残に巻き添えにしていた、と記されていました。この国の経済至上主義への屈服の一例を見る思いでした。以前の山々には動植物や虫たちが比較的豊かに残されていましたが、今では、至る所に自動車のための道路による穴があけられ、荒れ果ててしまいました。

 この国の自然破壊と環境汚染とは限度に達しています。その危機感は誰もが抱いています。自然破壊や環境汚染のこれ以上の進行を食い止め、痛めつけられた自然を回復していくためには、経済と自然のバランスを見なおすという政策の変更以上に、大地に対するわたしたちの姿勢そのものの根本的な変革が必要でしょう。あの村の絵はがきも、そのことを訴えています。

■人間の罪に連座する自然

 ここで聖書の世界に目を向けましょう。

 旧約聖書は自然の問題は人間の問題であると語り、今日のわたしたちに強く訴えかける内容を含んでいます。

 旧約聖書の時代は、今日のようなひどい自然破壊や環境汚染はありませんでした。しかし、人々はすでに自然破壊の問題に直面して、その恐ろしさは十分に味わっていました。パレスチナは古代にも慢性的な戦争状態に置かれ、戦争のたびに生活環境は破壊されました。また人口の増加により、山地は開かれて林を失い、大型の獣は追われ、獅子は死に絶えました。裸の山々が出現したのです。旧約聖書は至る所で自然に言及していますが、その発言はそうした現実を踏まえてのことです。

 創世記一章によれば、人間は神のかたちに造られて、他の被造物を治める権限を持つと宣言されています。このため、自然破壊をもたらす自然征服の考えの根源には旧約聖書がある、と非難する人が絶えません。しかしそれは誤解です。被造世界を統治するということは、自然界の秩序を維持する責任を負うことと切り離せないからです。自然破壊は神からの委任に正面から逆らうことです。

 それに加えてもう一つ、人間は世界の統治を委任されていますが、人間もまた被造世界の一員に過ぎません。ですから、自然に対して人間が優位に立ってはいても、他の被造物、とりわけ動物たちと人間とは仲間、友人です。それも、単なるつき合い程度の友人関係ではありません。自然界の秩序が維持されるか否かは、完全に人間のあり方にかかっているのです。両者は一つの運命共同体を形づくっているのです。

 ところが、人間は人類最初の夫婦以来、神の期待に応えず、神と人間との、また人間どうしの信頼関係を損ない、自然に対して無慈悲に振る舞ってきました。環境省のホームページに「ecojinエコジン」という情報誌が掲載されています。その中にこんな一節があります。

 「ミツバチが受粉の働きをすることはよく知られていますね。その働きは、イチゴ、りんご、メロン、玉ねぎ、キャベツなど多くの農作物に欠かせないものとなっています。世界の主要農作物の四分の三以上は、昆虫や鳥などによって花粉が運ばれることに依存しているという調査結果もあります。つまりミツバチなどの昆虫や鳥がいなくなると、食卓にも大きな影響が出てしまうのです。このように自然界ではさまざまな生物がつながり合い、直接的・間接的に支え合って生きています。このことを「生物多様性」といいます」

 「動物や植物、目に見えない微生物など、地球には三〇〇〇万種もの生物がいるとされています。私たちの毎日の食事や医療、文化、産業のどれをとっても、生物多様性からの恩恵がなければ成り立ちません。生物多様性は社会経済を支える重要な資本であり、空気や水、鉱物などと合わせて「自然資本」と呼ばれています。世界経済フォーラム(二〇二〇年)によると、世界のGDPの半分(約四四兆米ドル)以上の経済的価値の創出が自然資本に依存しているといわれています」

 ところが、

 「人間活動の影響により、過去五〇年刊の地球上の種の絶滅は、過去一〇〇〇万年平均の数十倍、あるいは数百倍の速度で進んでいるといわれています。そして、生物多様性の損失は貧困問題にもつながっています。もともと発展途上国では自然環境と直接的につながる生活を営んでおり、先住民を含む一六億人が森林に生計を依存しているというデータがあります。森林伐採などの開発や気候変動の影響などによって生物多様性が損なわれると、そうした人たちの暮らしそのものが脅かされてしまうのです。貧困はさらなる生物多様性の破壊につながり、悪循環が生じています」

 自然破壊の問題ばかりではありません。弱者を犠牲にする強者の論理は、人間の社会関係においても力を振るい、強者の経済的利益のためには弱小者の人権が踏みにしられました。

 王国時代後半のイスラエルでは、このような事態が日常化していました。神はこの反逆の民に対して、ついに預言者たちを通して厳しいさばきを通告したのです。イスラエルに神のさばきが下るとは、国が荒らされ、亡国に至るということです。 そしてそれは現実のものとなりました。バビロニア帝国に侵略され、エルサレム神殿は徹底的に破壊され、遠く主都バビロンにまで連行され、五十年の長きにわたって、奴隷として苦難を強いられることになりました。

 果たして、彼らが弱肉強食の論理から完全に解放され、自然もまた祝福にあずかるような日が来るでしょうか。

 イザヤは今日の箇所で、そのような日が到来することを約束しています。神が直接に行動を起こし、人間を苦しみや罪から解放してくださるのです。

■すべては神の御手の内に

 全部で六六章あるイザヤ書は、イザヤという預言者の名が冠せられているものの、一人が書きあげた書物ではありません。実在したイザヤは紀元前八世紀後半にユダ王国で活躍した人でしたが、その預言は三九章まで。四〇章から五五章までは、ユダ王国が滅んだ後の紀元前六世紀半ば、バビロンに現れた無名の預言者の言葉で、第二イザヤと呼ばれています。さらに五六章から六六章は前六世紀後半以後に、復興されたユダで活躍した複数の預言者たちが書いたもので、第三イザヤと呼ばれています。

 その中でも、特に深い洞察に満ちているのは今日の箇所を書いた、第二イザヤです。以前ご覧いただいたことがある『わが谷は緑なりき』という映画で、父親ギルムが息子たちに読んで聞かせたのも、この第二イザヤの五五章でした。

 イザヤの実在した時代から約一世紀後の紀元前五八六年、ユダ王国は新バビロニア帝国によって滅ぼされ、住民の多くがバビロンに連行されていったことは、すでにお話をした通りです。人々は異国で、辛い目にあって労苦したのですが、やがて紀元前五三九年、今度はバビロニアが、キュロス王が率いる新興勢力ペルシア帝国によって滅ぼされました。キュロスは、囚われていたイスラエルの民に祖国へ帰還を許したので、人々は大喜び。キュロスを預言された神の救い主とさえ考えるようになりました。

 さて、このバビロニア滅亡という、歴史的な大事件をはさんで活躍したのが第二イザヤです。この預言者は当初、捕囚されたことは神の罰であって、苦しむことでイスラエルの罪は赦されると考えていました。そしてキュロスの手でバビロンが崩壊し、とうとう捕囚から解放されたことで罰は終わり、ヤハウェの救いが始まった、そう考えました。第二イザヤも他の人たちと同じように、キュロス王が神から遣わされた救世主だと信じたのです。しかしその喜びも束の間、人々を失望させたことには、キュロスはバビロンに入城するや、神殿でバビロンの神の前にぬかずいたのです。彼は第二イザヤが期待したような救い主、ヤハウェの「油を注がれた人」(四五・一)ではありませんでした。

 そこでこの第二イザヤは、神の救いの成就をさらに先に延ばして、それは人々が共に祖国に帰って、ユダ王国を再び興すことである、としました。しかしそんなイザヤの言葉は、バビロンでの生活に慣れて帰還をいやがる人々の猛反発をくらい、彼は深い挫折を味わうことになります。しかし人々に嫌われようとも、彼は志を曲げず、将来になおメシア(救い主)の苦しみを通して、本当の救済が完成されるという、独自の神学を人々に語ったのでした。そして実に、この苦しむメシア観こそ、その後に新約聖書に引き継がれて、神の子イエス・キリストの十字架上の苦しみで、世界の救いが実現するという、新約の神学へと結実していくことになるのです。

 鉱山夫の貧しい父親ギルムにできることは、まさしくそのように、苦しみを通して豊かさを約束する神の姿を示して、人員整理の対象となった息子たちを送り出すことだけでした。渇きを覚えてアメリカへと渡る息子たちを、神は見捨てず、必ずや良い物を備えてくださるにちがいない。こうして彼は、イザヤの希望の言葉を添えて、息子らを次々と旅立たせていったのでした。

 神は語った言葉を必ず現実にする。神が解放すると言えば解放が実現し、神が赦すと言えば赦しが起こるのだ。ここに本当の希望がある。だから勇気を出しなさいと、イザヤは語ります。そのことをわかりやすく示すために、イザヤはここで、自然現象を例に挙げています。

 「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える」(五五・一〇)

 その通りです。これは、わたしたちが毎日のように見て体験していることです。雨は降り過ぎたら災害となりますが、適度な雨は作物の生育に欠かせない天の恵みです。必ず良い実りをもたらすのです。そのように、神の言葉も空しく天に帰ることはない、そう断言します。これが、イスラエルの人々が伝えた神の言葉への信頼でした。わたしたちも今、どれほどの苦しみや悲しみの中にあっても、こういう神の言葉に希望を抱き、それにより頼んで生きていきたいと願います。