小倉日明教会

『今や恵みの時、今こそ救いの日』

コリントの信徒への手紙二 5章 16節〜6章 2節

午後3時00分〜

2025年12月28日 降誕節第1主日礼拝

コリントの信徒への手紙二 5章 16節〜6章 2節<br />

『今や恵みの時、今こそ救いの日』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 9 わが身にたまいし 応答 起立
招   詞 詩編 130篇 6節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 366 悔い改めつつ 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

コリントの信徒への手紙二 5章 16節〜6章 2節

                                                (新約p.331)

啓示 着席
성  경 고린도후서 15장 16절〜16장 2절
New Testament The second letter of Paul to the Corinthians 5:16-6:2
圣  经 哥林多後書 5章 16段〜6章 2節
讃 美 歌 514 美しい天と地の造り主 応答 着席
説   教

『今や恵みの時、今こそ救いの日』

       沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 475 あめなるよろこび 応答 起立
祝   祷

       沖村 裕史 牧師

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■生かされて生きる

 冒頭一六節は「それで」と書き始められます。直前を受けての言葉です。直前一五節にこう書かれていました。

 「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」

 キリストが驚くほどの愛をもって、わたしたちのために死んでくださった。今も、わたしたちはその愛に包まれているのだから、自分のために生きなくてもよい。自分が自分が、と生きなくてもよい。人は、自分で生きているのではなく、生かされて生きているのだ、ということです。キリストの愛に抱かれ、ただ神の愛によって生かされているのです。

 この言葉は「救い」「罪からの解放」の宣言そのものです。

 一六節、「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」

 キリストによって肉に死んだ「今」は、あの人はどこそこの学校の出身だとか、金持ちだとか、頭がよい、スタイルがいいといった類いのことは一切、肉の事柄として消え去っていきました。キリストの十字架に示された神の愛を知った時、それらはすべて「塵あくた」になりました。

 肉の基準で測っているうちは、わたしたちの中に優劣があり、争いがあり、上下があります。しかし肉ではなく、 わたしたちにいのちを与えてくださる神の愛に目を注ぐとき、それらはすべて消えてしまいます。肉とは、それを一言で言えば、自分中心の、自己にとらわれた物の見方にほかなりません。一方、霊とは、自己を離れ、神を、神の愛を中心にものを見る見方です。

 この変化は大きな変化です。パウロはそれを新しい創造と表現しています。一七節、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じ」ました。人間がその昔、神によって土の塵から、無から創造されたように、今やイエス・キリストによって、わたしたちが無から有に、無価値な者でありながら価値ある者へと創造される。それこそ、かつての創造に対して、新しい創造と呼ばれるものです。

 「救い」とは、「罪からの解放」とは実に、そうした「新しい、無からの創造」にほかなりません。それはちょっとした変化というのではありません。家で言えば、ペンキを塗り替えたり、壁やふすまを張り替えたり、屋根を葺き変えるといった改造、リフォームというのではなく、全部根本から新しくする、イエス・キリストを土台とする新築のことなのです。

■よし、よし

 そうして二一節、「わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」

 無にすぎない罪人を義とし、「よし」と言ってくださって、わたしたちをそのままに受け入れ、抱きしめてくださることこそ、キリストによる新しい創造です。「義とすること」「義をつくり出すこと」にほかなりません。

 それは、法的には本当は悪いのだけれど、罪一等を免じて無罪放免にする、恩赦のようなことではありません。十字架のキリストにあって、新しい創造が起こったのです。死の経験がそうです。わたしたちは、ただ死ぬほかない人間です。また罪の経験がそうです。罪にすぎない、よいことは行なわず、悪いことをしてしまう、矛盾だらけのわたしたちです。 そんな罪深いこのわたしたちを、そのままに「よし」と、「よし、よし」と言ってくださるのです。

 以前、こんなお話をしたことがあります。覚えておられるでしょうか。

 赤ちゃんが泣くと、母親は赤ちゃんを抱き上げ、軽く揺すりながらあやして言います。「おお、よし、よし」。いい言葉です。人が生きるうえでの原点となる、尊い言葉だと思えます。

 この「よし」はもちろん、「良い」という意味の「よし」ですから、母親は「おお、良い、良い」と言っているわけで、このとき赤ちゃんは、「良い存在」として、そのすべてを肯定されているわけです。赤ちゃんにしてみれば、お腹が空いたのか、眠いのか、いずれにしろ理由があって泣いているのですから、ちっとも「良く」はないのですが、母親はにっこりと笑って言います。

 「おお、よし、よし。すぐに良くなる、ぜんぶ良くなる。ほら、お母さんはここにいるよ、今良くしてあげるよ。何も心配しなくていいよ、おまえは良い子、おお、よし、よし」

 大人になったわたしたちは、そんなことをもうすっかり忘れてしまって、あたりまえのように生きていますが、だれもが赤ちゃんのときにそうしてあやされたからこそ、自分を肯定し、世界を肯定して、今日まで生きてこられたのではないでしょうか。

 自分は親の愛に恵まれなかった、という人は少なくないかもしれません。親から十分に愛されなかった、その孤独と恐れの闇の深さは経験したものにしかわかりません。しかしどんな事情であれ、その愛がゼロだったということはないはずです。少なくともまだ物心つく以前に、だれかから「よし、よし」とあやされてミルクを与えられなければ、一日たりとも生きてこられなかったはずです。

 その「よし、よし」が、わたしたちのもっとも深いところで、いつまでも響き続けています。その意味で、生まれて最初の「よし、よし」は、生きるうえでの原点とも言えるでしょう。なにしろ生まれたばかりの赤ちゃんには、すべてが恐怖です。それまでの母の胎内という天国から突然ほうり出され、赤ちゃんは痛みと恐れの中で究極の泣き声を上げます。「産声」というこの世で最初の悲鳴です。ところが、それを見守る大人たちは、なんとニコニコ笑っています。そして母親はわが子を抱き上げ、微笑(ほほえ)んで語りかけます。

 「おお、よし、よし」

 わが子が泣いているのに、なぜ母親は微笑むのでしょうか。親は知っているからです。今泣いていても、すぐに泣きやむことを。今つらくてもすぐに幸せが訪れることを。今は知らなくとも、やがてこの子が生きる喜びを知り、生まれてきてよかったと思える日がくることを。

 親は泣き叫ぶ子にこう言いたいのでしょう。

 「おお、よし、よし。だいじょうぶ、心配ないよ。恐れずに生きていきなさい。自分の足で歩き、自分の口で語り、自分の手で愛する人を抱き締めなさい。これからも痛いこと、怖いことがたくさんあるけれど、生きることは本当にすばらしい。だいじょうぶ、心配ない。このわたしがおまえを愛しているから。おお、よし、よし」

 自分の弱さ、取り返しのつかない罪、存在の孤独に胸を締めつけられるような夜、生みの親の愛を信じてそっと耳を澄ませば、きっとわが子に微笑んで呼びかける人生最初の「よし、よし」が聞こえてくることでしょう。

 そしてそれこそが、わたしたちの全存在に微笑んで呼びかける、神の「よし、よし」なのです。。

■和解

 パウロは、キリストの十字架に示された、そんな神の「よし」、神の愛を「和解」という言葉で表現します。「和解」とは元々は「転換」、移し換えるという意味の言葉です。わたしたちの上にあった拭い難い罪がイエス・キリストの上に、そしてイエス・キリストのものであった「よし」がわたしたちのものになる、この「転換」のことです。

 19節、「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」

 この場合、和解とはすべてのものとの和解です。「世」とは、全世界のこと、この地上に生きるすべてのもののことです。フィリピの信徒への手紙に「天上のもの、地上のもの、地下のもの、すべてがイエスの御名にひざまずき」(二・一〇)とあり、コロサイの信徒への手紙に「神は、御子の十字架に血によって平和を打ち立て、天にあるもの、地にあるもの、すべてのものを御子によって、ご自身と和解させました」(一・二〇)とある通りです。

 「世」とは、人間の世界のことだけではありません。わたしたちの兄弟姉妹も、悩んでいる人々も、小さな虫たちも、燕(つばめ)のひなも、木の葉一枚も、大切な「いのち」です。それらすべての「いのち」との和解が問題なのです。わたしたちが一つひとつのものを大切にするのは、ただ資源に限りがあるからではありません。地球の温暖化で住めなくなるからだけではありません。今、地にあるすべてのものは、神が「よし」と言われながら造られたものだからです。神の国は、神の愛は、今ここにもたらされているのです。「神の造られたものはみなよいものであって、感謝して受ける時、捨てるべきものはありません」とは、テモテへの第一の手紙(四・四)にあるパウロの言葉です。

 二〇節、「ですから、…キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」

 「神と和解しなさい」ではありません。敵意を抱いているのは、神ではありません。わたしたち自身です。神は決して誰にも敵意を抱かれません。わたしたちが神の和解を受け入れるのを待っておられます。わたしたちは受け身です。イエスさまは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。罪を赦してやろう、勘弁してやろう、という高見からの態度はこれっぽっちもありません。神はすべての争いを、反逆者をさばくことによって終らせようとはなさらずに、背き、刃向かう者との間に、ただ新しい愛の交わりを打ち立てることによって、終わらせようとなさいます。

 それは、ただ神の愛ゆえです。それほどまでに、神は、わたしたちを愛してくださいました。わたしたちは、この罪のないお方の罪人としての死の中に、神の無限の愛を見ます。これこそ生ける神の業、キリストの愛にほかなりません。

■今や、今こそ

 だからこそ、六章一節以下、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」

 ここにパウロが引用しているのは、イザヤ書四九章八節の言葉です。新バビロニア帝国に故国を滅ぼされ、主都バビロンに奴隷として連れていかれた、イスラエルの民の歴史の中でも最も困難な時代に与えられた神の言葉です。預言者のうめきと共に生まれたこの希望の言葉をパウロはここに宣言します、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と。

 「今や…今こそ」です。わたしひとりが、わたしたちだけが働いて、今を生きているのではありません。神がその愛ゆえに、わたしたちに先立って、救いを、恵みを生み出すために、今もわたしたちと共に生き、働いてくださっているのです。

 このパウロの言葉に励まされつつ、それぞれにこの一年の歩みを振り返り、そして今、始まろうとしている新しい年を、いえ、これから後もずっと、神の愛によって生かされ生きることを感謝して、みなさんと心を一つに歩んでいきたいと願う次第です。そう願いつつ、最後にカトリックの信徒・末盛千枝子さんの一文をご紹介して、今年最後のメッセージを閉じさせていただきます。

 「わたしの台所の壁に、小さな額に入った『友情のためのレシピ』というカードが飾ってあります。

 それはもうずいぶん前、まだ子どもたちは小さくて、しかも甘えっ子と言ってもいいようなおばあちゃんもいて、わたしがてんてこ舞いしていたときに、カナダ人の神父様が下さったものです。いまでもその額がそこにあるというだけで安心しています。なんていうことはないカードなのですが、わたしにはとても大切なものになっています。

 こんなことが書いてあります。

■友情のためのレシピ

 用意するもの

 コップになみなみ二杯の忍耐心と、心からの愛。

 両手いっぱいの寛大さと笑い声。頭をいっぱいに使って人を理解する心。

 そこに親切心と信頼とを気前よく、いっぱいふりかけ、これをよく混ぜる。

 そして、一生の間、出会うすべての人にそれを振る舞い続けなさい。

 

 きっと愛とか友情とかは、何気なく見えることの積み重ねなのでしょう。

 昨年「紙屋悦子の青春」という映画を観ました。冒頭のシーンは、老夫婦が病院の屋上で延々と話をしているところなのです。どうやら夫が入院しているようです。あの日の雲がどうだったとか、海がどうだったとか、ほかの人からは本当に他愛ないことに聞こえるぽつりぽつりとしたお喋りなのですが、長い人生をともにしてきた者にだけ許される静かな心の交流が、そこに目に見える形で表現されていると思いました。

 この二人のまわりには懐かしい人たちも加わって一緒に話をしているような気がしました」

 家族のためにせわしくなく立ち働く末盛さんにとって、また夫が入院した老夫婦にとって、その日々の生活は、またそれまでの人生の歩みは、決して順風満帆といえるものでなかったはずです。しかし「恵みの時は、今です。救いの日は、今日すでにここに来ています」と信じることのできる人にとっては、よいこともわるいことも、嬉しいことも悲しいことも、そのすべてのことが、あふれるほどの神の愛と恵みの中に置かれているのです。だからこそ、その神の愛にすべてを委ねて、互いへの配慮と忍耐、愛と和らぎをもって共に歩むことができるのでしょう。その秘訣をもう一度お読みします。

 

 用意するもの

 コップになみなみ二杯の忍耐心と、心からの愛。

 両手いっぱいの寛大さと笑い声。頭をいっぱいに使って人を理解する心。

 そこに親切心と信頼とを気前よく、いっぱいふりかけ、これをよく混ぜる。

 そして、一生の間、出会うすべての人にそれを振る舞い続けなさい。