| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 242(1) 主を待ち望むアドヴェント | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | エゼキエル書 34章 23〜24節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 326 地よ、声たかく | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
ルカによる福音書 24章 36〜43節 (新約p.161) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 누가 복음 24장 36〜43절 | ||
| New Testament | The Gospel According to Luke 24:36-43 | ||
| 圣 经 | 路加福音 24章 36〜43段 | ||
| 讃 美 歌 | 152 めぐみふかき主に | 応答 | 着席 |
| 説 教 |
『あなたがたに平和があるように』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 532 やすかれ、わがこころよ | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■正確に伝えられてきた聖書
おはようございます。私たちが何気に手にしている聖書は、驚くほどのすごさを持っている書物だと言うことができます。何がすごいかと言いますと、その一つがその古さと正確さと言うことができると思います。日本で最も古い書物は何かと言いますと、『古事記』ですね。712年に書かれました。古事記の中で、たくさん登場する島根県では、それに因んだ博覧会まで行っています。では、聖書はどうでしょうか。聖書の最も古い部分が書かれたのは、何と今から3500年ほど前です。古事記の2倍を遥かに超える古さです。一番新しい新約聖書の部分でも、1900年前には完成していました。すなわち新約聖書が書き終えられて、600年後にできたのが、古事記なのです。
古事記の原本は残っていません。古代の本は、ほとんどがそうなのです。人の手によって書き写された写本によって、後世に伝えられて行くのです。原本から写本までの間隔が、短かければ短いほど、また写本の数が多ければ多いほど、原本の確かさが証明できるのです。古事記の写本で一番古いものは、南北朝時代に書かれました。ということは原本が書かれてから、650年以上たっています。数も約40冊くらいしかありません。(1371年で659年)途中でどのように中身が、変えられたかどうか、確かめようがないのです。
では、聖書はどうでしょう?新約聖書の最も古い写本は、原本が書かれてから約30〜50年後のものが残されているのです。そして、現存する写本の数は5838に上るのです。一方、旧約聖書には39冊もの作成年の異なる書物が収められているため、『原本作成年』と『最古の現存写本作成年』の特定は行いませんが、39冊全てが完全な形で現存する旧約聖書の最古の写本は紀元1008年に作成されていて、断片的なものでは紀元前7世紀ごろのものが最も古いものです。写本の数は、約17000点(19世紀より前の写本の数)を越えているのです。しかも、1947年に死海のほとりで、2000年前の写本が見つかり『20世紀最大の考古学発見』と言われました。このように、聖書は他の古文書に比べて、原本と最古の写本の年代の間隔が狭く、原本を写し取った写本(および写本の写本)の数が圧倒的に多いのです。写本の数が多いということは、写本同士の様々な比較検討が可能になります。それによって、他の古文書に比べて、オリジナルの文章(原文)をより忠実に再現できる可能性が高まります。
つまり、聖書は他の古典に比べると原本の内容をはるかに正確に後世に伝えていると言うことができるでしょう。そして、その内容は、原本に忠実という意味において、十分に信頼に足るものであり信憑性は非常に高いといえます。聖書が世界最古の本であると同時に、確実に正確に伝えられてきたということが現在判明しているのです。
また、もう一つの聖書のすごい点は、その広まりのすごさです。現在、国際連合に加盟している国は193か国です。では新約聖書、旧約聖書の全部が訳されている言葉の数はいくつあると思いますでしょうか。答えは、518です。新約聖書だけになると、さらに1275の言葉で訳されています。そして、現在でも1500以上の言葉に翻訳が試みられているのです。毎年5億冊以上発行され、世界中の人々の手に渡り、大きな希望と喜びをもたらしているのです。多くの人に求められているからこそ、このように時代を越えて広まって行っているのです。
さらに、聖書のもう一つのすごい点は、今も生きて働く力を持っているということです。聖書の生きて働く力は、主イエスの十字架での死と3日目の復活にあると思います。本日は、前回まで2回に渡ってお話しました『エマオ途上』の場面の続きの箇所を読みたいと思います。エマオへの道で、主イエスと出会ったこの2人の弟子たちの報告を聞いていた使徒たちの前に、復活した主イエスが現れたという記事を通して、復活の主イエスと共に生きる意味を考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■あなたがたに平和があるように
本日の聖書の箇所のルカによる福音書24章36〜37節を見ますと、『こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。』とあります。これは、霊的な盲目状態の状態でこういうことが起こりましたということです。『こういうことを話していると、』とありますが、誰が誰と話しているかと言いますと、エマオへの道で、復活の主イエスと話をして、無理に家の中に来て頂いて、共に食事をしようとした主イエスがパンを裂いた時に、それが主イエスだと分かった、あの2人の弟子たちが使徒たちに話をしているわけです。彼らは復活の主イエスと出会った直後、エルサレムに戻ってきて、今、エルサレムの部屋で使徒たちと話をしているわけです。『こういうことを話していると、』とありますので、2人の弟子の興奮状態が伝わって来ます。彼らは興奮しながら、主イエスが復活されたことを伝えたのです。あのエマオへの道で姿を現した主イエスは最後どうなったかと言いますと、突如、姿を消したのです。ルカによる福音書24章31節を確認してみますと、『すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。』とあります。つまり、弟子たちが主イエスだと認識した瞬間に、主イエスは、いなくなったのです。突如いなくなったのです。それでは、本日の聖書の箇所に戻りますと、今、エルサレムの部屋に来ているわけですが、『こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、』、話されたわけです。
主イエスは、エルサレムの部屋では、突如姿を現されました。エマオでは突如姿を消し、エルサルムの部屋では突如姿を現しているのです。それを見た時に、使徒たちはどういう反応をしたかと言いますと、喜んだのではないのです。主イエスは、『あなたがたに平和があるように(エイレィネィ・ユミン)』と言われたのです。これをヘブライ語で言い換えると、『シャロームラーカム』となります。あなた方の上に、『シャローム』、『平和』、『平安』があるようにという挨拶の言葉です。ところが、使徒たちは、喜んで主イエスを拝したのではないのです。怯えて、震え上がったのです。霊的な目が、閉ざされているということです。なぜ怯えたのでしょうか。『亡霊を見ているのだと思った。』と書かれています。ここで、『亡霊』と訳されている言葉は、『プニューマ』というギリシャ語です。風、息、霊などとも訳せる言葉です。つまり彼らは肉体のない、霊体だけの存在を見ていると思ったのです。
他の福音書には書かれてはいませんが、ここでヨハネによる福音書20章19節を見ますと、『’その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。』とあります。このヨハネによる福音書を見ますと、主イエスは現れたのですが、戸に鍵がかけられていた部屋に、主イエスは現れたというのです。ということは、主イエスはエマオでは突如姿を消した。エルサレムの部屋では、突如姿を現した。しかも、その部屋には、本当に鍵がかけられていた部屋で、それにもかかわらず、扉を開けることなく、主イエスはそこに現れることができた。つまり、主イエスの栄光の身体、復活した身体というのは、3次元あるいは4次元の物理的な制約を受けない多次元の体であって、そういう栄光の身体をもって現れたということがわかります。
さて、本日の聖書の箇所に戻りますと、『彼らは恐れおののき、』とありますが、主イエスが突如現れたわけですから、恐れおののいたのです。使徒集団が、この部屋にいますが、使徒集団の数は11人です。ユダがいませんから、11人なのです。厳密には、この部屋には、トマスもいなかったのです。人数でいうと、この部屋にいた使徒たちは10人なのですが、使徒集団ということで言いますと11人となるのです。ここで、11人が主イエスの復活の目撃者となります。そのことが、今、ここで起こっているのです。
■どうして心に疑いを起こすのか
次に、本日の聖書の箇所の38〜40節を見ますと、『そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。』とあります。『そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」』(38節)という言葉は、主イエスの励ましの言葉ですね。弟子たちは、彼らがいた部屋に、主イエスが現れた時に、それが主イエスだと、気づくべきだったのです。でも気づかなかったのです。なぜかと言いますと、考えられる理由は、彼らは主イエスが復活するはずだとは、これっぽちも考えていなかった。主イエスの復活を期待していなかったのです。
しかし、この箇所を読む人の中には、よく『弟子たちは、主イエスの復活を期待していたので、幻を見たのだ』というように解釈して語る人がいるのです。しかし、この説明は説得力がないと思います。弟子たちは、主イエスの復活について、期待などは、全くしていません。ですから、幻を見る可能性もないわけです。実際に主イエスがそこに現れても、彼らは取り乱して、心が閉ざされた、恐れた、怯えたという、そういう状態にあったということです。彼らの霊的な目が閉ざされていたということが分かります。
そして、主イエスは、『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』とおっしゃって、主イエスは弟子たちに手と足をお見せになるのです。主イエスは、今、私は生きているよということを示すために、弟子たちに手と足を見せて自分に触ってごらんと、彼らに促したのです。肉や骨があるのは、幽霊ではなく、肉体を持った人であることの証拠です。従って、この時に弟子たちがもしイエスに触っていたら、手に感触を感じることができたはずです。このとき、主イエスは肉体を持った人として、弟子たちの前に現れています。その一方で、主イエスのこの肉体は栄光の体です。そして、主イエスは彼らに手と足をお見せになります。この時は、ヨハネによる福音書20章27節に、『それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』とありますように、手と足には十字架についた時の釘の跡が残っていたと思います。ですから、その跡を見たら、直ぐに主イエスだと分かるように、復活の主イエスは、人間性をそのまま保持されており、そして、十字架の釘の跡もそこについたままの復活の体を持っておられたということだと思います。そこまで主イエスが語って下さったことに対して、弟子たちの反応はどのようなものであったのでしょうか。
■ここに何か食べ物があるか
そして、本日の聖書の箇所の41〜43節を見ますと、『彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。』とあります。主イエスは、何か食べ物がありますかと言われたのです。この箇所で、弟子たちの状態を見ていますと、弟子たちは、『喜びのあまりまだ信じられず』と書かれています。弟子たちは、まだ信じられず、不思議がっていたのです。なぜかと言いますと、『喜びのあまり』と書かれていますので、わかりやすい言葉で言うと、話がうますぎるのです。話がうますぎて、信じられないのです。しかし、このようなことは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。福音を聞き、主イエス・キリストはあなたの罪の身代わりとして死んでくださった。墓に葬られた。3日目に復活された。それらのことを信じて、主イエス・キリストに信頼するだけで、あなたの罪は赦されますと聞きますと、信じられないと考える人が多いのではないでしょうか。厳しい修行を経ることもなく、大変な信仰を問われるような体験を経ることもなく、誰もが認める立派な人格者になることもなく、罪が赦されると聞きますと、話がうますぎる、そんなうまい話が世の中にあるものか、と考えてしまう。そのように考える方は多いのではないでしょうか。このように福音を素直に受け止めることができないのは、私たちの中の罪人の習性に由来しているのだと思います、弟子たちもそうです。喜びのあまり信じられないのです。
しかし、神様が私たちを愛しておられること、主イエス・キリストが私たちの罪のために死なれたこと、主イエス・キリストを信じるだけで罪が許されることは、良き知らせ、グッドニュースなのです。福音なのです。ですから、そのまま信じれば良いのです。話がうますぎると言って、疑ってかかるのは、神様からすれば、余計な心配なのです。主イエスを世に送って下さった神様の愛というのは、それほど深いということなのです。それ以外に私たち人間が救われる方法はないから、神様がそのようにしてくださったのです。ですから、福音をそのまま素直に信じる人が救いを体験するのです。
さて、本日の聖書の箇所に戻りますと、弟子たちは、話が上手すぎて信じられないという状態にあったのです。それで、主イエスは、復活のさらなる証拠を示したのです。ここまでする必要もなかったと思いますが、主イエスはここまでなさったのです。何をされたかと言いますと、何か食べ物があるかと聞かれたのです。焼いた魚が一切れあったのです。主イエスはそれを食べるのです。魚を食べる。食物を食べるというのは、体がある証拠なのです。主イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がったのです。誤解しないように気をつけなくてはいけないのは、これは復活の体が食事によって支えられているということではありません。主イエスは空腹になったから食べて、体にエネルギーを供給したのだということでありません。復活の体は、朽ちることのない栄光の体なのです。ですから、復活の体は食生活の喜び、食べることの喜びを体験することができるけれども、食べなくても体が朽ちていくわけではないのです。ここではイエスは、魚を一切れ食べることによって、体を持っているということを、弟子たちに示されたのです。
■わたしが椎名麟三です
焼いた魚を食べてみせるという主イエスの振る舞いは、信じない弟子たちに対するユーモラスな仕草のようにも受け取ることができると思います。主イエスは自らの復活について、あるいは自分が自分であることについて、一所懸命に説明し、証明しようとしています。見方によっては、実に涙ぐましい努力とも言うことができるのではないかと思います。
このエルサレムの部屋に閉じこもっている使徒たちの前に、復活した主イエスが現れ、焼いた魚をむしゃむしゃと食べて見せるという本日の聖書の箇所は、実は、椎名麟三という作家がキリスト教に入信するきっかけとなった聖句なのです。椎名麟三という作家は、著名な作家ですので、ご存知の方も多いかと思います。
椎名麟三(本名:大坪昇)は1911年に生まれます。椎名麟三の父は、元警察官でした。両親の夫婦仲は悪く、椎名の母は自殺未遂を起こしており、その直後に父親は警察を辞して『鉱業会社の庶務課長』に転じています。やがて父母は別居することとなり、母が子供たち3人を連れて出て、父の援助で生活することになるのです。その後、父親が相場に手を出して破産し、その援助が途絶えてしまうのです。成績優秀だった椎名麟三は、父の約束不履行に対する談判に出かけますが、相手にされず、そのまま14歳で家出をして、果物屋の小僧や見習いコックなどの仕事を転々とする中で、社会主義に接近していくのです。18歳の時に、母の自殺未遂をきっかけに、今の『山陽電車』に入社し、そこで労働運動に参加。2年後には日本共産党に入党している。このように椎名麟三の生い立ちを見てくると、ここまでで既に、彼の作品に登場するもののあらかたを経験して来ていると言えと思います。
そのような椎名麟三の文学作品の主題は、死に対する恐れだと言うことができると思います。彼は、『私の聖書物語』の中で、『死があるかぎり、この世には本当の解決はない。』と述べています。こうした魂の葛藤の中で、椎名麟三が復活の主イエスと出会った時に読んだ聖書の箇所が、本日の聖書の箇所なのです。
椎名は、ある時、電報為替を受け取るために、郵便局へ行きました。ところが、窓口で、本人確認の証拠となる米穀通帳を見せて下さいと言われました。しかし、そのことがあったのは、旅先でのことであったのです。カバンの中をひっくり返して、印鑑や名刺などを出すのですが、免許証その他、身分証明書になりそうなものは、その時まったく持ち合わせていなかったのだそうです。そこで、自分の鼻を指差して、一所懸命に『わたしが椎名麟三です』と力説したのです。しかし、相手は信じないのです。『とにかく椎名さんであることを証明するものを見せなさい』との一点張りなのです。押し問答です。椎名は、ふと自分の仕草を客観視して、自分の姿に吹き出して、笑い出してしまったのだそうです。『この鼻が自分であるわけはないのにね。そんなことで証明できるはずがないのにね』と、思ったというわけです。そうして自分の、必死だけれどもユーモラスな仕草と、復活した主イエスが焼いた魚をむしゃむしゃと食べた仕草を、重ね合わせたと言うのです。
自分の顔を見ても、寝食を共にした使徒たちでさえ、本当には信じない。つい最近復活した自分に出会って大喜びだった3人の弟子たちでさえも、亡霊だと思い込んで、信じることができないのです。そこで主イエスは、十字架に釘付けされた手足の傷跡を見せます。『どうだ、これが証拠だ』という訳です。しかし、それでもまだ使徒たちは本当には信じることができないのです。『ほら、まさしくわたし、わたしだ』と、マイナンバー・カード無しに、繰り返し語る主イエス。これだけでも十分ユーモアに満ちているのではないでしょうか。
さらに、主イエスは驚きの提案をします。『ここに何か食べ物があるか』(41節)というのです。不意を突かれた弟子たちは焼いた魚を差し出すのです(42節)。何をするのだろうと、みなが思ったことと思います。ルカによる福音書の読者は、ここで魚を主イエスが弟子たちに裂いて配って、みんなで満腹する場面を思い起こしたことと思います(9章10〜17節)。きっと主イエスは何か奇跡を行って、自分が生けるメシアである主イエスであることを証明しようとしているのかと、思わせる書き振りです。同じ魚が用いられているからです。
ところが、復活した主イエスは、出された焼いた魚をただむしゃむしゃと食べただけなのです(43節)。これは何ともおかしみのある場面だと思います。亡霊ではないよということを証明するだけのために、主イエスは焼いた魚を食べたのだと思います。椎名麟三は、その時の主イエスの必死な食べっぷりを想像して、笑いがこみ上げてきたというのです。そして、ユーモラスな主イエスを再発見した時、主イエスが復活したということを信じることができたと述懐しています。椎名麟三の人生は復活の主イエスに出会って、一変します。苦渋に満ちた顔が柔和な顔に変わり、ユーモアが出て来るのです。死の恐れから解放され、死を超えた希望と真の自由を得るのです。
キリスト教作家である佐古純一郎は、椎名麟三について以下のように語っています。
『椎名麟三がさし示してくれたことは、聖書におけるキリストのこの世に対する勝利であり、同時にそのことは、この世に対する人間の勝利であるということであった。——-復活のキリストが、椎名麟三にいきいきと生きよという言葉として、やってきたのである。キリストとの邂逅、それは椎名麟三の文学にとって、決定的な意味をもたらした。』
このように語っているのです。弟子たちもまた、焼いた魚をむしゃむしゃと食べた主イエスの姿を見て、その場で笑い出したかもしれません。ここまでして、一所懸命に、『まさしくわたしだ。よみがえったのだ』ということを、全身で証明しようとして、焼いた魚を食べている姿に、主イエスのそれまでの振る舞いを思い出したのです。主イエスはユーモラスな方だったということなのです。きっと、焼いた魚をむしゃむしゃと食べる主イエスの仕草に、使徒たちの中の誰かがにやりと笑い、主イエスもニコッと笑い、一同が大笑いに包まれたのではないかと思います。このような明るい笑いとそしてちょっぴりの涙の中に、主イエスの復活が確認され、そして復活の主イエスと共に再び立ち上がる力が、使徒たちに与えられたことと思います。
焼いた魚を食べるような、ごくありふれた日常生活の中で、私たちは復活の主イエスと交わりを持って生きていると思います。そのように、復活の主イエスとの交わりに生きる中で、私たちは繰り返し世の終わりの復活と永遠の命の希望を示され、その希望を確かにされ、なお苦しみや悲しみに溢れている地上の生涯を、絶望することなく歩んで行くことができるのです。復活の主イエスとの交わりに生きる中で、私たちは主イエス・キリストのために、ユーモアと笑いと涙を持って、命をかけて生き、神様に自分をお献げして生きて行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
