小倉日明教会

『新しく生きるために』

ヨハネによる福音書 20章 11〜18節

午後3時00分〜

2026年4月26日 復活節第4主日礼拝

ヨハネによる福音書 20章 11〜18節

『新しく生きるために』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 5 わたしたちは神の民 応答 起立
招   詞 詩編 149篇 4〜5節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 290 おどり出る姿で 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

ヨハネによる福音書 20章 11〜18節

                                                (新約p.209)

啓示 着席
성  경 요한복음 20장 11〜18절
New Testament The Gospel According to John 20:11-18
圣  经 约翰福音 20章 11〜18段
讃 美 歌 322 天の座にいます 応答 着席
説   教

『新しく生きるために』

         沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 432 重荷を負う者 応答 起立
祝   祷

         沖村 裕史 牧師

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                       沖村 裕史 牧師

■マグダラのマリア

 二〇章冒頭、一節に「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」とあります。
イエスさまに従った人々は大勢いて、その中で特に選ばれたのが十二人の弟子たちでした。その人たちはみんな男性ですが、でも実は、とても大切な働きをした女性の弟子たちがいたことを見逃すわけにはいきません。
その筆頭格ともいうべき女性が、マグダラのマリアでした。
 マグダラのマリアがどのような女性だったのか、どうしてイエスさまの弟子のひとりになったのか、福音書は詳しくは描いてはいません。それでもルカによる福音書には、イエスさまによって「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」として、その最初に「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカ八・二)が出てきます。おそらく彼女はイエスさまによっていやされ、そのことに感謝してイエスさまと行動を共にするようになったのでしょう。
 また、このマグダラのマリア、ルカによる福音書七章三六節から五〇節に描かれる「罪深い女」のことではないか、とも考えられてきました。この女性は罪深い仕事(おそらく売春)をしていました。そんな女性が、イエスさまのそばにやってきて、イエスさまの足を涙でぬらし、それから自分の長い髮の毛でその足を拭い、接吻をしてから香油を塗ったといいます。罪人と接触するなどあってはならないと教え、また固く信じていたファリサイ派の人たちは、「そんな女がイエスに…」と騒ぎ立てましたが、イエスさまは彼女を受け入れ、「あなたの罪は赦された」と彼女を解放されました。
いずれにせよ、このマリアこそ、イエスさまの母マリアと一緒に、十字架の処刑、埋葬、復活と、イエスさまに最後まで付き添った女性でした。
 ノーマン・ジュイソン監督の『ジーザス・クライスト・スーバースター』(一九七三年)という映画では、このマグダラのマリア、荒涼としたゴルゴタの丘の上でイエスさまの死を見取って、崩れ落ちるようにひざを屈めます。イエスさまが十字架につけられた時、男の弟子たちは逃げ出してしまったのですが、彼女と他の何人かの女性たちだけが最後まで、その場を離れずイエスさまを見守りました。またイエスさまが十字架から降ろされ、アリマタヤのヨセフという人物の墓に埋葬された時にも、マリアは墓に行って、その様子を最後まで見届けています。
 いえ、それだけではありません。先ほど読んでいただいた今日の聖書の箇所には、イエス・キリスト復活の最初の目撃者となった彼女の姿が描かれています。イエスさまの復活の証人の筆頭格に、マグダラのマリアが挙げられているということはとても重要で、それだけ、彼女の存在が弟子たちの中でも大きかったということでしょう。
そのマグダラのマリアがひとり、イエスさまの亡骸が納めてある墓へと出かけていきます。十字架処刑から三日目の早朝のことでした。

■過去の墓標

 突然ですがここで、ひとりの女性作家のことをご紹介させていただきます。

 柳(ゆう)美里(みり)という人です。『フルハウス』『家族シネマ』といった小説を発表している女流作家ですが、彼女の作品の中に『水辺のほとり』というまるで小説のような自伝的エッセイがあります。その最後の章に、こんな印象的な言葉が綴られています。

 「私はなぜこんな早すぎる自伝めいたエッセイを書いたのだろう。過去を埋葬したいという動機は確かにある。私が書いた戯曲の主題は〈家族〉であり、その後書きはじめた小説もやはり〈家族〉の物語から逃れることはできなかった。つまり私はこのエッセイを書くことによって、私自身から遠く離れようとしたのだ。それこそがこのロングエッセイを書いた理由だと思う。私は過去の墓標を立てたかったのだ。それがどんなに早過ぎるとしても―。」

 この作品はこんなふうに始まっています。「昭和四十三年六月二十二日。私は夏至の早朝に生まれた」「美里という名を与えてくれたのは母方のハンベ(韓国語で祖父)」と続きます。在日韓国人の家庭に生まれ育った彼女の家庭環境は苛酷なものでした。

 「父は自分の血について何かしらの怯えを感じていたのではないか」。そして、「”悪い血”、父はいつも自分の血流に耳を澄ましていたような気がする。その激しくしぶく濁流に堪えられずに、自分を憎み、私たち家族を憎んだ」と記します。

 彼女は「ひとりのときは、ようじと粘土とティッシュで人形をつくり、空き箱で家をつくった」。そして「仲違いもすれば、殺し合いもする人形の家族」を想定し、「声音を変えてひとりで会話した」。それはこんな風だったと言います。

 「『あんたたち、みんな死ぬのよ!』母親の人形が叫ぶ。のっそりと立ちあがった父親の人形が、ざらざらした耳障りな声でいう。『死ぬのはおまえだ。』

 学校に行けば『カンコク人は自分の国に帰れ!』と砂場の砂を投げつけられることもざら。水泳のリレーになれば、『オエッの大合唱―、耳がキーンとして、顔がほてって、涙で視界が滲』む。そんなとき、一方で自殺を考え、他方で復讐のため、その『いじめを克明に記録』する。その後、『父と母の間柄は日に日に険悪になり、それに比例して父が私たちきょうだいに振るう暴力は激しく』なる。『息を殺し、針のように突き刺さってくる時間に堪えた。』

 ある深夜気配を感じて目を開けると、母が枕もとに立っていた。『おまえを殺して、あたしも死んでやる。』母は出刃包丁を握りしめていた。『死ぬときは自分で死ぬよ。てめえなんかに殺されてたまるか!』」

 この後、家を逃れるようにして出て、東京キッドブラザースのオーディションに合格し劇団員となった彼女は、そこで、「記憶はひとつの物語でしかな」い、という考え方に出会います。「ひとは往々にして自分に都合のいいよう創作しているものだ」と言われ、はっとします。「もしかしたら私の陰惨な記憶も案外自己憐憫によるフィクションかもしれない」。とすれば、過去というものは書き換えることもできる。自分の過去を書き換える気持ちで戯曲の執筆を始めました。彼女が、自伝的エッセイを書くのも、そういう「過去を埋葬」するためであり、早く「過去の墓標を立てたかったのだ」と告白します。

 陰惨な過去から決別するために自伝的エッセイを書く。それは、過去に縛られて、諦め、呻(うめ)き、絶望するためではなく、過去と向き合い、過去を辿り直し、新しいいのちを生きるためでした。わたしたちには、そのようにして、いつでも、何度でも新しいいのちを生きることができます。なぜなら、神から与えられているいのちは、それがどのようないのちであっても、かけがえのない美しいものだからです。

■泣いて、すがりつく

 まさにそのことを、今日のみ言葉がわたしたちに教えてくれています。

 今、マグダラのマリアと呼ばれる一人の女性が、愛するイエスさまの死に心をかきむしられるような深い悲しみに囚われていました。

 マリアは夜の明けるのを待ちかね、あたりがまだ暗闇に包まれている中を、人目をはばかるようにしてイエスさまが葬られた墓へと出かけます。愛する人の死は言葉にならぬほど辛いものです。マリアには、愛する人の傍を離れることがどうしてできません。十字架の上で血を流されたイエスさまの姿が、眠ろうとして目を閉じるマリアのまぶたに焼きつき、一睡もできなかったのでしょう。眠れぬままに身を起こしたマリアは、墓へと向かいます。

 その闇夜の道は、深い悲しみに彩られた絶望の道でした。墓の入り口は大きな石で塞がれていて、女ひとりの手で動かすことなどできません。イエスさまの亡骸にすがりつくことさえできないことを、マリアも分かっていたはずです。

 それでもマリアは、墓へと歩き出さずにはおられませんでした。イエスさまの死から数えて三日目が過ぎようとしていました。無残な十字架の直後の、何も考えられないといったショックから、マリアは我を、自分を取り戻し始めていました。悲しみと絶望が和(やわ)らいできたというのではありません。それでも、愛する人の死という悲しみと絶望から、彼女は何とか立ち直ろうとします。過去の追憶、思い出に生き始める、という仕方で立ち直ろうとしていました。

 ただ少しでも、イエスさまの傍近くにいたい。イエスさまと共にあった歓びにあふれた日々が、過ぎ去ってしまった帰らぬ遠い日の出来事ではなく、手を伸ばせば触れることのできる、今ここにいるわたしに親しみをもってよみがえってくるもののように思われたからです。

 ところが驚いたことに、マリアが墓に到着してみると、入口のその大きな石が取り除けられていました。墓泥棒の多い時代です。マリアは墓泥棒がイエスさまの死体を取り去ったのだと早合点したのでしょう。イエスさまとの思い出が、手の届かない地平線の果てにまで遠のいたように感じられ、狼狽し、慌てふためいて、急ぎ弟子たちにこのことを知らせるために引き返しました。ペトロともう一人の弟子は墓に駆けつけ、マリアの言葉通りであることを確認しましたが、そのまま家に帰ってしまいます。

 マリアも二人の弟子の後を追い、もう一度そっとイエスさまの墓に戻ってきました。しかし二人の弟子のように、そこを立ち去ることはできません。イエスさまの体がそこにあったからこそ、イエスさまとの思い出が彼女の身近に感じることができたのです。想い出が、今もそこにあるもののように抱きしめることができ、これから先の時間を生きる支えになりうると感じることができたのです。その想い出にすがることによって立ち上がりかけていたのです。ところがその体がない。マリアはどうしてよいかわからぬまま立ち尽くし、泣き続けていました。。

■新しく生きる

 そこに二人の天使が現れ、マリアはすがりつく亡骸のないことを訴えます。とそのとき、ふと振り返ったマリアはそこに、自分の背後に、先ほどから一人の男が立っていたことに気づきます。茫然とするマリアに、その人は「マリア」と呼びかけます。その時初めて、マリアはそれがイエスさまであることに気づき、驚きと喜びの入り混じった声で「ラボニ」と呼びながら、思わずすがりつこうとします。

 と、「わたしにすがりつくのはよしなさい」。鋭く、厳しい声が飛びます。愛するイエスさまを失い、悲嘆にくれ、絶望の淵にいるマリアに、イエスさまは「すがりつくな」「しがみつくな」と言われたのです。

 冷たい言葉だと思われるかもしれません。

 しかし、そうではありません。一人だけ墓の中にとり残され、悲しみと途方に暮れていたマリアのその後ろ姿をじっと見つめていたのは、二人の弟子たちではなく、イエスさま、その人でした。そう、マリアはイエスさまを求めて、いろいろと努力をしました。しかし実は、そういうマリアの後ろに、イエスさまはすでに立っておられたのです。そうして、後ろから声を掛けられたのです。

 イエスさまはその悲しみと孤独に寄り添いつつ、しかし、マリアがただ懐かしいだけの過去の思い出だけにすがることで、ご自分を、今、ここに生きているマリア自身の人生と何の関係もないものとしてしまう、そんな生き方に抗うよう語りかけてくださっているのです。

 その時マリアは、悲しみにうろたえているままで、実は、イエスさまに包まれていたことに気づかされたに違いありません。自分は生きているのではなくて、イエスさまのいのちに包まれて生かされていたのだと気づいたに違いありません。

 イエスさまはご自分のことを、今もここにいるわたしたち一人ひとりに生きて、働いてくださる方として、受け取るよう求めておられます。そうして初めて、イエスさまが語られたみ言葉は、イエスさまが示してくださったみ業は、今もここでわたしたちに働きかけてくる力となり、マリアは過去にではなく、今を新しく生き始めることができるようになるのです。

 それが、よみがえりのイエスさまであり、それこそが、未来へと開かれる新しいいのちとして生まれ変わるということでした。イエスさまは、今もここに生きていて、愛の力をもって、わたしたちと共にいてくださるのです。

 星野富弘という詩人が、こう歌っています。

 「花がきれいですねえ

 誰かがそういって/うしろを過ぎていった

 気がつくと目の前に/花が咲いていた

 私は何を見ていたのだろう

 この華やかな/春の前で

 いったい何を/考えていたのだろう」

 耳を澄ますべき神の、イエスさまのみ声は、いつも、わたしたちの後ろにあります。