| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 14 たたえよ、王なるわれらの神を | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | 詩編 23篇 1~3節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 490 かみさまに感謝 | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
テモテへの手紙一 2章 1〜7節 (新約p.374) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 디모데전서 2장 1〜7절 | ||
| New Testament | The First Letter of Paul to Timothy 2:1-7 | ||
| 圣 经 | 提摩太前書 2章 1〜7段 | ||
| 讃 美 歌 | 501 主よ、私たちは祈ります | 応答 | 着席 |
| 説 教 |
『感謝―すべてを委ねて』 沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 436 十字架の血に | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【説 教】 沖村 裕史 牧師
■求めなさい、そうすれば与えられる
祈りとは、わたしたちの心からの願いや求めを神に告げて、今ここにいるわたしたちへの神の御心を示されることです。ですから、わたしたちはどんなことででも、飾らずにありのままを祈り求めてよいのです。
わたしたちが正しく立派だから祈るのではありません。神が恵み深い方だからです。自分一人で考え込んでいると、ますますふさぎ込み、迷ってばかりになります。人に言えば、愚痴(ぐち)や悪口、不平や不満ばかりになって、ついには友だちを失うことにもなりかねません。でも神に告げれば、それが祈りになります。
わたしたちは祈ったことがその通りになることを経験することがありますが、どんなに祈っても聞いていただけなかったということも経験するでしょう。それでも後になって、聞かれなかったことに意味があることが分かって、そこに神の深い御心があることに気づかされます。そのときにこそ、本当の慰めと励まし、勇気と希望が与えられるはずです。
そんなお母さんの祈りの言葉をご紹介しましょう。
「『求めなさい、そうすれば与えられるであろう』という聖書の言葉の、何と温かいことでしょう(マタイによる福音書七章七節)。
…小さな息子たちと私を残して夫が急死した時、私は『これからもまだまだ、いくつもの困難があるだろう。でもそのときに、必ずそれを乗り越える力が与えられるに違いない』と、心の底で語りかける声を聞いていました。
あれから二十年近くたったある日のこと、長男がスポーツ事故に遭い、九死に一生を得たのですが、脊髄損傷(せきずいそんしょう)で、胸から下が一切動かない重度の障害を持つことになってしまいました。周りはどれほど嘆いたことでしょう。しかし、本人は悲しい顔しながらも、じっと耐えて、過酷なリハビリに励みました。そして、両手が動くのを幸いに、いまではパソコンで世界中と交信し、自分なりの生活を送っています。
私はそんな息子を見ながら、彼の姿に深い尊敬を覚えます。そして、そのような息子を見ることができる幸せを感じています。これは、あの時の苦しみと悲しみの果てにたどりついたもので、いまになって、求めたものはすべて与えられていたと思うのです。
あの聖書の言葉が裏切られることはなかったのだと思っています」
(末盛千枝子『ことばのともしび』一四~一五頁)。
■丸ごと訴える
先ほどのお母さんの言葉、末盛千枝子さんの言葉で、あえて省略した言葉があります。「『求めなさい、そうすれば与えられるであろう』という聖書の言葉の、何と温かいことでしょう」に続いて、こう書かれていました。
「しかし悲しいかな、私たちはつい、自分の目の前にある困難や苦しみを取り除いてもらうことばかりを考えてしまいます。でもそれでは、ただ単にご利益(りやく)を求めることになってしまうし、だいたい、神様を自分に都合よく利用するようなことになりはしないでしょうか」
末盛さんのように、「祈る」と聞けば、わたしたちはすぐに居住まいを正し、両手を合わせて祈る姿を思い浮かべ、神に求めることではなく、まず神の言葉を聞くことが祈りであるという、正解を持ち出したくなります。もちろんその通りなのですがしかし、神は、そのような人生や信仰の優等生だけを愛しておられるのではありません。
いのちを与え、生きよと命じられた神は、わたしたちが生き生きと輝いて生きることを何より喜んでくださり、わたしたちが困った時には、「助けて!」と助けを求めることを期待しておられるのです。試験の前になると「神様、助けて」と祈り、自分の商売のことで行き詰まると「助けてください」と祈り、子どもが病気になると「癒してください」と祈り、遠足の前には「明日はお天気にしてください」と祈る…。そんな身勝手なわたしたちですが、神は黙って聞いていてくださるのです。誰かのように、「何、言ってるんだ。世の中、そんなに甘いもんじゃない!」とは決して言われません。
だれにとっても「祈り」はむつかしいと思います。しばらく教会に通い、洗礼を受けても、祈りは苦手という人はいるものです。わたしも祈りは苦手です。それでもある時、祈りのとば口があることに気が付きました。単純なことです。自分の中に祈りたいことはないかということ、祈らないではいられないことはないかということです。
それはあるのです。生きていれば必ずあります。毎日生活しておれば必ずあります。仕事のこと。人間関係。家族の問題。自分自身の問題。うらみ、つらみ。そういうものが渦巻いています。燃えたぎっています。そのことを祈る。その思いを丸ごと訴えるのです。
■喜びが与えられる
冬山の遭難事故で、大学生の息子を亡くされた女性がいました。それから十数年経ったあるとき、彼女は牧師にこう告白しました。
「この頃やっと、あの子が召された事実を受け入れることができるようになりました」
不慮の事故で亡くなった息子のことを、彼女は神に問い続けたに違いありません。「なぜですか」「どうしてですか」と。十数年間祈り続け、問い続けて、彼女はようやく神からの答えを得たのです。
なぜ、我が子は死ななければならなかったのか。だれがどう説明しても、どんなに信仰深い人が説明しても、彼女は納得できなかったでしょう。ただ、納得できない、受け入れられない事実を神に問い続けました。そして、神から答えを受け取ることができました。祈ったから、受け取ることができたのです。祈り続けて、受け取ることができたのです。
ただ、嘆いたり、溜息(ためいき)ついたり、悔やんだり…。もし、それだけなら、あきらめるしかありません。運命だった、と。宿命だ、と。
しかし、信仰とは祈ることです。祈ることができる、ということです。そのとき、祈りという美しい文章を作ろうとしないことです。自らの中にある切実な求めを、ただ神に投げかけるのです。そうすると、人間の目には隠されていた、神の創造の現実が立ち現れてきます。
イエスさまは言われました。
「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ一六・二三~二四)
救われたわたしたちの喜びは、子として神と交わるということであり、あらゆる事柄について、神から答えをいただきながら、喜びの内に生きることができるということです。
祈りは、求め―わたしたちの飢え渇きから始まります。それでいいのでしょうか。感謝や讃美はなくていいのでしょうか。いいのです。求めた人は答えていただけるのです。父となってくださった神は、子としてくださった者の祈りに必ず答えてくださいます。そうして、思いがけない答えをいただきながら、人の思いをはるかに超える答えをいただきながら、おのずから感謝は生まれるのです。賛美しないではいられない、喜びが与えられるのです。。
■委ねて、変えられる
祈りは義務ではありません。祈らなければならないから祈るのではありません。祈らないではいられないから祈るのです。
昔、鉄人と呼ばれたプロ野球選手がいました。広島カープの衣笠祥雄選手です。彼は一七年間にわたり、一試合も休まずグランドに出続けました。デッドボールを受けて指の骨を折っても、打席に立ちました。その彼もスランプに陥ることがありました。日頃人一倍練習する選手でしたが、スランプに陥るとさらに激しく練習しました。ある人がアドバイスしました、「衣笠よ、たまには練習を休んだらどうだ。気分転換をしたら調子が戻るかもしれないぞ」。衣笠は答えました。
「ぼくには練習を休む勇気はありません!」
祈りもそうだと思います。
生きていれば、毎日迫ってくるいろいろな問題があります。人とのトラブル。家族のこと。政治の心配。自分の引き起こす出来事のあれこれ。傷つけられたり傷つけたり。祈らないではいられないのです。父なる神の導きと癒しを求めないではいられないのです。
そう、「わたしには祈りを止める勇気はありません!」
旧約聖書の中の「詩編」は祈りの書です。多様な祈りが集められています。讃美があり、感謝があり、嘆きがあり、悔い改めがあります。懇願があり、訴えがあります。敵を打ち倒して欲しい、という祈りも少なくありませんし、敵の子どもたち、幼な子にまで審きが及ぶように、という祈りさえあります。
そういう祈りはしてはならない、ということはありません。祈りは祈っていく中で、変えられるのです。祈っていく中で、高められるのです。神に向き合い、神からの答えを受け取りながら、人は変えられるのです。祈りの中で自分が打ち砕かれ、神の聞いてくださる恵みの世界を見せていただき、いつかどこかで感謝し、讃美するように導かれます。
八木重吉の詩が思い出されます。
「わたしは/かわったとはおもわない
ひとが わたしをかわったとおもふならむりもない
わたしは太陽をみつめてあるいてゐるんだもの
よろめいてゐるのであっても/
じぶんはいつも太陽ばかりをみてゐるんだから」
(「み名を呼ぶ」より)
詩編二三編は、詩編の中で最もよく知られ愛唱されている詩です。招きの言葉で読んでいただいた、こんな言葉で始まっていました。
「主は羊飼い、
わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる」(二三・一~三)
羊は羊飼いに導かれ、青草の原に解放されたのです。襲い来る何ものからも守られて、安らぎ跳びはねることもできます。渇けば水のほとりに憩うこともできます。
救われたということは、解放されたということです。解放されたものは目を上げます。歌います。満腔(まんこう)の喜びと信頼をもって、天にいます父なる神に自分を投げ出し、委ねます。
祈らなければならないのではありません。祈ることができるのです。それが羊である、わたしたちの力と慰めのすべてです。それ以外、何もありません。すべてを委ねて、変えられるのです。それが祈りです。
感謝して祈りましょう。
