小倉日明教会

『死からいのちへ』

ヨハネによる福音書 4章 1〜15節

午後3時00分〜

2026年3月8日 受難節第3主日礼拝

ヨハネによる福音書 4章 1〜15節

『死からいのちへ』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 19 み栄え告げる歌は 応答 起立
招   詞 詩編 84篇 6〜7節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 315 茨の冠かぶせられ 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

ヨハネによる福音書 4章 1〜15節

                                      (新約p.168)

啓示 着席
성  경 요한복음 4장 1〜15절
New Testament The Gospel According to John 4:1-15
圣  经 约翰福音 4章 1〜15段
讃 美 歌 287 ナザレの村里 応答 着席
説   教

『死からいのちへ』

         沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 452 神は私を救い出された 応答 起立
祝   祷

         沖村 裕史 牧師

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■「鎧(よろい)」を脱いで

 ここに一人のサマリアの女が登場します。もちろんイエスさまはここで、こんな女に出会えるなど考えておられなかったでしょう。女もまた、イエスさまに出会うなど予想もしていなかったはずです。たまたまの出会いです。ユダヤ人とサマリア人、しかも全く見知らぬ、それも男と女、そしてこの女は後に記されているように人目を避けて暮らしていた女でした。ですからこの出会いは、それ以上に深まらないで、それっきりになって当たり前のような出会いでした。

 しかし、イエスさまはこの女に「水を飲ませてください」と声をかけられます。水汲みの仕事は、暑さを避けて朝夕に行われるのが常でした。ですから、正午ごろに一人水汲みに来たこの女に、イエスさまは普通でないものを感じられたはずです。何か影のある女とイエスさまは見て取られたのでしょう。そして、この女を救ってやりたいと思われたようです。

 それで、警戒する女の心をほぐすかのように「水を飲ませてください」と声をかけられたのです。真正面から魂の問題を取り上げれば、相手は逃げてしまうでしょう。しかし何かをしてくれないかと言えば、相手は心を開くでしょう。人の心を良く知る、巧みな、そして熱心な魂を求める接近の仕方です。

 それでもやはり、思いがけない言葉に女はためらったようです。いつも虐げられているサマリア人の自分に、虐げる側のユダヤ人が水を乞うてきたことにまず驚き、不審を抱きます。何か裏があるに違いない。彼女は水を出す前に、イエスさまからの接触を強くはね返します。痛い目にあわないように、厚い「鎧」を着て突っぱねます。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。でも、イエスさまも負けてはいません。突飛な返答で、女の「鎧」を一枚一枚はがしにかかります。

 「イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう』」

 水をくれという話だったのに、いつのまにか神の賜物の話になっています。最初はイエスさまが女に水を求めたはずです。それなのに、女が突っぱねたら「実は僕が生きた水、もっとおいしい水を持ってるんだよ、欲しいでしょ?」と言い出します。この言葉は、女を苛(いら)つかせるには十分すぎたようです。女はよそいきの自分を捨て、初対面にもかかわらず、腹立たしく叫びます。

 水を汲むバケツもコップもないくせに、いったいどこからそんなおいしい水、生きた水とやらをくださるの?祖先のヤコブが与えてくれた井戸の前で、水を欲しがってた哀れな男が「おいしい水」ですって?あなた、ヤコブより偉いつもり?わたしたち全部を支えてくれたこの井戸よりもすごい水を、どこから汲んでくる気?

 女はまくしたてます。その怒りは、イエスさまの言葉への反応だけではありません。サマリア人として虐げられてきた長年の怒りが含まれています。深い痛みが、ユダヤ人のイエスさまを前にして爆発しているようにも見えます。でもこの爆発を通し、女は「鎧」をほぼ脱ぎ終わったとも言えます。イエスさまを突っぱねていた気持ちも消えたに違いありません。なぜなら、人は怒る時に図らずも鎧を取り、心を開くものです。本当に信頼できる人にしか、人は怒れないものです。

 目の前の男がどうやら信頼できることを、怒りを通して女は直感しているようです。自分の怒りを真正面から受けとめるユダヤ人がいることに、ちょっぴり嬉しがっている気配さえあります。ことここに至り、イエスさまは迷うことなく、女の核心にズカズカ迫り、 女の魂の深い部分に囁きかけます。「このヤコブの井戸の水は、必ずまた渇く。しかしわたしが与える水は、決して渇かない。なぜなら、わたしの与えるおいしい水はあなたの中で泉となり、永遠にあなたを潤すからだ」。怒りを吐き出したからでしょうか、女は素直にこの言葉を受け入れ、逆に願い出ます。「渇かないように、何度も何度も井戸に水を汲みに来なくていいように、主よ、一度飲めば内側から泉があふれてくる、そんな水をください」。

 井戸の前で、水を求める人物が主客を入れ代わります。そして二人は、「飲んでも渇く水」から、「飲めば泉となる新しい水」へと視点を移し始めます。

■自らの密かな部分を見つめて

 とはいえ、このイエスさまとのやりとりは、この女の理解に余ったことでしょう。 意味を計りかねているその女に、イエスさまは「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(一六節)と言われました。

 今、問題になっているのは「永遠に至る水」です。それなのに、それに全く関係のない彼女の私生活の問題が突然、ここで取り上げられるのです。どうしてなのでしょう。わたしたちは、「永遠の命に至る水」といった深遠な宗教的真理は思いを高く天に上げるところで初めて分かると考えがちですが、そうではないのです。それは、夫を呼んでくるという、まさに文字どおりの私生活に目を注ぐところで分かるのです。そのことを、この「あなたの夫をここに呼んで来なさい」というイエスさまの言葉は物語っています。

 それにしてもこの女は虚を突かれる思いで、このイエスさまの言葉を聞いたに違いありません。彼女の一番触れてほしくないのは、夫のことであったからです。彼女の結婚生活は幸せなものではありませんでした。それは、世間の目からは白い目で見られるようなものでした。だから、彼女はできるだけ人目を避けて暮らしていました。今も人目を避けて、真っ昼間の「正午ごろ」に、水を汲みに来ているのです。彼女は咄嗟(とっさ)に「夫はいません」と答えます。それに対してイエスさまは「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(一八節)と言われました。

 どういう事情があったのか分かりません。そして事実、わたしたちは思いがけない運命に弄(もてあそ)ばれるものですから、一概に彼女を不道徳であったとは言い切れません。ともかくも、彼女には五人の夫を過去に持ち、今も夫とは言えない男と暮らしている、そういう陰の部分があったのでしょう。

 人は誰でも、こういう私的な部分を持っています。人には言えない、見られたくもない、そういうものを密かに生活の一番底のところに隠し持って、生きるものです。そしてイエスさまはそこを問題にされたのです。そこを問題にすることが、いま取り上げている「永遠の命に至る水」が分かる手がかりとなるからです。

 イエスさまは何も意地悪く、この女の弱点を暴こうとしておられるのではありません。イエスさまがこの女の密かな部分、私的な部分を明るみに出そうとされたのは、「永遠の命に至る水」が分かるためには、人は自分の一番隠していたいところを素直に見つめなければならないからです。それを隠して、自分を棚上げにして、きれいごとで済まそうとしていては「救い」はないからです。なぜなら「永遠の命に至る水」は、それを飮みたいという渇き、霊的な渇きなしには分からないでしょうし、その霊的渇きは、自分の密かな私的部分、罪の姿に素直になることなしには、自覚されないからです。イエスさまが与えようとされる「永遠の命に至る水」を感謝をもって飲むためには、わたしたちは私的に、内面的に自分の在り方を問うて、自らの密かな部分を見つめることが求められるのです。

■死からいのちへ

 ある老齢の男性がキリスト教の話を聞きたいと教会にやってきたことがあります。聞くと、いろんな宗教の施設に行って、「ありがたい話」を聞き続けているようです。別にキリスト教に入信する気はないが、話だけ聞きたいとのこと。彼はわたしの「ありがたい話」を聞き、また次のもっと「ありがたい話」を探して、消えていきました。かとおもうと、ある中年の女性が泣きながら電話をかけてきました。「尊敬する牧師が転勤でいなくなる。とても悲しい。」少し心配していたら、しばらくしてその女性はまた別の尊敬する牧師を見つけ、よろしくやっていると言います。ともあれ、心を満たす対象を見つけ出せて、今はほっとしている様子です。

 胸の内が渇いてしようがないとき、水を与えてくれる「井戸」を人は探し求めます。その行為自体は間違いではありません。渇きを癒すありがたい話を求め、尊敬する人物を探すのは自然なことです。真摯な求道の姿勢かもしれません。サマリアの女のように「五人の夫」を渡り歩くことも、癒されるための貴重な道程と言えるでしょう。

 しかし、信仰の対象や尊敬できるものを次々と鞍替えしていくこの行為、結局は自分の中に泉がないということの証明でもあります。自分の中から泉のように湧くものがないから、いつも外から水を供給しなければならないのです。そこで仕方なく、それぞれのヤコブの井戸水を刹那に求めることとなります。西にありがたい話ありと聞けば西に行き、東に尊敬する人物ありと聞けば東に行く。それでいて、いつも猛烈に渇いてて、ギラギラしている。

 大学生のころ、本当に落ち込んで、渇き切った自分を持て余していたことがあります。いろんな本を読み、偉い人の講演会に出席し、旅をし、いろんな人と話して回りました。少しは気分も良くなりました。五人どころか、二十人ほどの夫を巡り歩いた感じでした。少しは自分も知恵が付き、豊かになったかなあと思っていました。 渇きを癒す自分だけの「ヤコブの井戸」を、一つでも多く確保することが大切な毎日でした。わたしは元気なふりを続け、いつも何だかギラギラしていました。

 でも、自分の一番深いところで、本当は疲れきっていました。あのサマリアの女のように祈っていました。主よ、渇くことがないようにあなたの水をください。もう何度もいろんな井戸に水を汲みに行って、疲れました。ですから、井戸に水を汲みに行かなくていいように、わたしの内に泉を作ってください。

 幸い、神はわたしの祈りに応えてくださいました。聖書の言葉を通し、わたしの中に不思議な水があふれ、なぜか今はあまり渇くこともありません。もちろん、今でも不安になって本を読み、旅もし、いろんな人と話もします。フラフラします。けれども、以前ほど強迫的ではありません。このことを、わたしは素直に神に感謝しています。あのまま「ヤコブの井戸」を捜し回っていたら、わたしは間違いなく破滅していた、そう、死んでいたでしょう。

 あなたは今日も井戸に水を汲みに行くことでしょう。一時の渇きを癒すために、仕方なく行きます。でもその井戸端に、イエスさまがポツンとしゃがんでおられます。イエスさまはあなたの「鎧」を取るため、少々挑発的な言葉を投げかけられるでしょう。本音のあなたと向き合うためです。怒って当然です。たぶん、怒るほど正直なあなたに向かって、イエスさまはおいしい水を差し出してくださいます。もう、西に東に井戸を探して歩き回らなくていいと教えてくださいます。聖書の言葉という、素朴ですがあなたの内に溢れる水をくださいます。そのようにして、死からいのちへと導いてくださるのです。

 サマリアの女はその後、イエスさまの言葉、生きた水を受け入れました。すると自分の中から溢れる神の言葉を、多くの人々に思いがけず分け与えることになりました(三九節)。彼女は水を探していたのに、イエスさまと巡り会い、彼女自身が人々を潤す水になってしまったのです。渇いていたはずの彼女が、人々の渇きの癒し手になりました。そう、イエス・キリストが求めておられることは、わたしが深い井戸の探究者になることではなく、わたし自身が溢れる泉になることのようです。あなた自身がろうそくの光の発見者になることではなく、あなた自身がろうそくとなり、燃えることなのでしょう。感謝して祈ります。