小倉日明教会

『神が預言者を通して約束された福音』

ローマの信徒への手紙 1章 1〜7節

午前10時30分〜

2026年2月1日 降誕節第6主日礼拝

ローマの信徒への手紙 1章 1〜7節<br />

『神が預言者を通して約束された福音』

【奨励】 川辺 正直 役員

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 14 たたえよ、王なるわれらの神を 応答 起立
招   詞 詩編 89篇 20〜30節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 314 神の国の命の木よ 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

ローマの信徒への手紙 1章 1〜7節

                                        (新約p.273)

啓示 着席
성  경 로마서 1장 1절〜7절
New Testament The Letter of Paul to the Romans 1:1-7
圣  经 罗马书 1章 1〜7段
讃 美 歌 356 インマヌエルの主イェスこそ 応答 着席
奨   励

『神が預言者を通して約束された福音』

         川辺 正直 役員

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 481 救いの主イェスの 応答 起立
祝   祷

平和の挨拶

司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。

会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。
啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【奨 励】                       役員 川辺 正直

■ニューヨーク市長 フィオレロ・ラガーディア

 おはようございます。アメリカ合衆国の大恐慌(1929年から1930年代後半まで続いた)の真っ只中の1935年1月の寒い夜、ニューヨーク市長のフィオレロ・ラガーディアは、市内で最も貧しい地区の夜間裁判に出廷していました。ラガーディア市長は、その日の裁判官を解任し、自ら裁判官席に就いていたのです。しばらくすると、ボロボロの服を着た老婦人が彼の前に連れ出され、50セントのパン一斤を盗んだ罪で起訴されました。判事となったラガーディア市長は、『パンを盗んだというのは本当ですか?』と尋ねました。

 老婦人は頭を下げて、『そうです!裁判官、私は本当にパンを盗みました!』と答えました。

 判事ラガーディアは再び尋ねました。『パンを盗んだ動機は何ですか?空腹だったからですか?』

 老婦人は頭を上げ、判事を見て言いました。『ええ、お腹が空いています。婿は家族を捨て、娘は病気で、2人の幼い子供たちは飢えています。彼らはもう何日も何も食べていません。飢えている子供たちの姿を見るのが辛いのです。まだ小さすぎるのに!』。

 女性が話し終えると、周囲の人々はため息をつき始めました。しかし、パンを盗まれた食料品店の店主は告訴を取り下げようとしなかったのです。『裁判長、ここは本当にひどい地域なのです』と彼は言いました。『この辺りの人々に教訓を与えるために、彼女は罰せられなければなりません』。

 ラガーディア判事はため息をつきました。そして女性を見つめて言いました。『被告人、私は正義に従って働き、法律を守らなければなりません。あなたには2つの選択肢があります。10ドルを支払うか、10日間の懲役を受け入れるかです。』

 しかし、判決を言い渡している間に、ラガーディア判事はすでにポケットに手を伸ばしていました。彼は紙幣を取り出して帽子に放り込み、『これが10ドルの罰金です。これで免除します。さらに、孫に食べさせるためにパンを盗まなければならないような町に住んでいるという理由で、この法廷にいる全員に50セントの罰金を科します。執行官さん、罰金を集めて被告に渡してください』と言ったのです。

 翌日、ニューヨーク市の新聞は、飢えた孫たちに食べさせるためにパンを一斤盗んだ当惑した老婦人に47ドル50セントが渡され、そのうちの50セントは顔を赤らめた食料品店の店主が寄付したと報じたのです。そして、さらにこの日裁判を待っていた軽犯罪者、交通違反者などの他の被告たち、そしてニューヨーク市警の警官たち、合わせて約70人が50セントずつを支払うと、ラガーディア市長にスタンディングオベーションを送ったと伝えています。

 ラガーディア市長は、このときのことを尋ねられた時、次のように答えています。『人と人の間には必ず縁があります。人はこの世に生まれ、社会の一員として契約を結んでいます。物質的な利益関係が法的契約であるように、人生における命の交換もまた精神的な契約なのです。『善』とは、冷淡さ、欺瞞、残酷さ、利己主義に対抗する性質であるだけではなく、精神的な契約でもあるのです』。

 人生において、誰もが悲惨な苦難に直面し、弱り果ててしまう可能性があると思います。危険にさらされている人を助けなければ、『苦い果実を独りで飲み込む』ことなく済むと、誰も保証することはできないと思うのです。善意だけが太陽に照らされ、『良い取引』だけがこの世に存在できるのです。こうした契約の重要性を考えながら、聖書を読む時に、聖書の言葉はもっと異なる輝きをもって、私たちに迫って来るのだと思います。

 さて、前回から読み始めたローマの信徒への手紙は、前回、1章の1節だけを読むことができました。この調子で読むと、いったいいつまでかかるのかと心配になってしまいますが、本日は、神様は私たち人間と何を約束されたのかということを考えながら、本日の聖書の箇所の2〜4節を読んでゆきたいと思います。

■福音の要点

 さて、前回お話しましたローマの信徒への手紙1章1節の文章を読んで原文では言葉の順番がどうなっていると言ったかと言いますと、最初にパウロという言葉が出てくるということをお話しました。そして、そのパウロを説明している言葉が3つあって、原文の順序に従って読みますと、『パウロは、①僕(しもべ)キリスト・イエスの、②召し出された使徒、③選び出された神の福音のため』となっているということをお話しました。つまりパウロという人は、僕であり、召された人であり、選び出された人であると、パウロはそのように自分を紹介したということなのです。その理由は何かと言いますと、まだ訪問していないローマのキリスト者との間に心の絆、愛の絆を結ぶ必要があると考えていたということだと思います。

 ですから、パウロは、神様と自分の関係はどういう関係か、また、手紙の受取人であるローマのキリスト者と自分が同じ真理を共有しているのだということを確認しながら、本論へと入って行きたいと考えているのだと思います。それ故、この玄関口での挨拶が非常に重要になってくるのだと思います。普通であれば、1節のこのパウロから、7節前半の『神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。』に飛ぶのが自然なのです。ところが、2〜6節がその間に挿入句のようにして入って来ているのです。

 パウロはなぜすんなりと、7節のローマのキリスト者への挨拶へと進むことができなかったのでしょうか。1節に書かれた内容から伺うことができるのは、パウロは、自分が神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信を持っていたということです。パウロには、明確な目的意識があったのです。それが彼の生きる原動力だったのです。パウロはそのような召命感を持っていたので、すべてのことを犠牲にしても、福音のために献身して行きたいと思っていたのです。そして、1節の文章が、ギリシア語の原文では書かれている順序が異なっているということをお話しましたが、1節の最後の言葉が原文では何になっているのかと言いますと、『神の福音』なのです。つまり、『福音』という言葉が、最後に来ているのです。従って、その『福音』という言葉を書いたところで、パウロの心にスイッチが入ったのだと思います。パウロの手紙の特徴の一つは、しばしば脱線してしまうことです。ですから、ここでもパウロは『福音』の説明を始めてしまうのです。

 このことから、本日お話しようとしている2節以下というのは、1節と7節の間に差し込まれた挿入句なのです。パウロは『福音』という言葉に反応して、脇道に逸れながら、これからローマのキリスト者たちにこの手紙で書き送りたいと考えている『福音』の内容について書き記しているのです。そのことが、2節の『この福音は』以下で語られています。現在、読んでおります1〜7節は、この手紙の冒頭の挨拶の部分ですから、この挿入句で福音の全てを語ることはできません。それはこの手紙全体を通して語られていくわけですが、しかし、パウロはこの冒頭の挨拶において、自分がそのために召されて使徒となった福音とはどのようなものかを簡潔にまとめているのです。2〜6節は、パウロがこれから語っていこうとしている福音の要約、まとめであると言うことができると思います。

■福音はイエス・キリスト

 本日の聖書の箇所の2節を見ますと、『この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、』とあります。この2節で、パウロが伝えている福音は、神様が既に聖書の中で、預言者によって、約束として語っておられたものだと言っているのです。この2節の『聖書の中で預言者を通して』とありますが、ここでいう『預言者』とは、旧約時代に登場するイザヤやエレミヤといったある特定の預言者のことではありません。旧約聖書に登場した預言者たち全体を指しています。従って、ここでの『聖書』とは旧約聖書全体のことなのです。新約聖書はまだ存在していない時代なのです。新約聖書に入れられることになる大事な手紙の一つが、今、パウロによって書かれているのです。

 その手紙において、語られている『福音』とは、既に旧約聖書において、預言者たちを通して、神様が与えておられた約束が主イエス・キリストに於いて、実現したということなのだ、とパウロは語っているのです。ここで、パウロは『福音』とは、単なる教えや理論ではなく、主イエス・キリストの事実であると端的に述べているのです。コリントの信徒への手紙一、15章1〜5節を見ますと、『兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。』とあります。ユダヤ人たちは主イエスを、神様を冒涜する者として、十字架につけて殺しました。しかし、この十字架の主イエスこそ、神の子キリストであり、旧約聖書に於いて予言されたメシアであると、パウロは宣言するのです。

 主イエス・キリストに於いて実現された神様の福音がどのようなものであるかということについて、主イエス・キリストを信じる信仰者が互いにそのベースを揃えることのできる新約聖書がない中で、パウロの宣教の働きは特別なものであったと思います。

 それ故、パウロは1節で、『神の福音のために選び出され、』と語り、さらに『召されて使徒となった』と付け加え、さらに2節で、『この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、』と、旧約聖書に既に語られていた、神様による救いの約束が主イエス・キリストによって実現した、それが福音なのだと言っているのです。彼がこのことを真っ先に語って強調しているのは、一つには、旧約聖書の信仰に生きているユダヤ人、イスラエルの民に、キリストの福音を伝えるためです。ユダヤ人たちは、パウロ自身もその一人ですが、神が旧約聖書において預言者を通してお語りになった救いの約束を固く信じており、いつかその約束が実現することに希望を置いていたのです。しかし、パウロ自身が以前そうだたように、多くのユダヤ人たちは今、主イエス・キリストを信じようとしません。パウロは、復活なさった主イエスとの直接の出会いによって、主イエスこそキリスト、つまり救い主であられることを知らされ、神の救いの約束は主イエスによってこそ実現したという福音を知らされました。しかし、パウロがその福音を熱心に伝道しても、同胞であるユダヤ人たちは、以前の彼がそうであったように、主イエス・キリストを受け入れようとしない、そのことはパウロにとって深い悲しみであったと思います。旧約聖書における神様の救いの約束は、主イエスの十字架の死と復活において実現した、主イエスこそ神が約束して下さっていた救い主キリストなのだ、という福音を何とかしてユダヤ人たちに伝えたい、そういう彼の願いがこの2節には込められていると思います。

■御子は、肉によれば

 本日の聖書の箇所の3〜4節を見ますと、『御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。』とあります。3節の前半には、『御子に関するものです。』とありますが、旧約聖書において神様が既にお与えになっていた救いの約束が、主イエス・キリストによって実現した、とパウロは語っていますが、その主イエス・キリストは『御子』、つまり『神の子』なのだ、福音は御子イエス・キリストによって実現した救いの知らせなのだ、と言っているのです。

 3〜4節で、『肉によれば』と『聖なる霊によれば』という言い方がなされています。3節の『肉によれば』という言葉の意味は、御子が人間性をもって生まれたことを意味しています。これは、外見上はこう見えた、ということではなくて、『私たちと同じ人間としては』ということです。つまり、このことは、神の子、つまり本質において神様である主イエスが、私たちと同じ人間となり、肉体をもってこの世に生まれて下さった、ということを言っているのです。神様が人となったという神様の奇蹟です。この奇蹟なしには、神様の福音はないと思います。『肉』と訳された『サルクス』というギリシア語の言葉をヘブライ語にすると『バーサール』となり、この言葉は『良い知らせを伝える』という意味の動詞『バーサル』を語源としています。ここに、御子が肉体を持たれたことによって、人間の罪の贖い、罪の赦しが可能となったということが表されていると思います。

 また、主イエスがダビデの子孫から生まれたことによって、イスラエルの民に与えられた神様のご計画における約束を成就する者として公に示されました。つまり、旧約聖書において、預言者たちが全イスラエルに対して語った約束が、主イエスによって実現する道が開かれたことを意味していると思います。ダビデの子孫として救い主を遣わす、という約束を神様は旧約聖書の中で預言者によって与えて下さっているのです。今日、招詞でお読みしました、詩編第89編も、そのような神様の約束を背景として歌われたものです。この詩編にも歌われている約束の実現として、神の子イエス・キリストはお生まれになったのだと思います。

■聖なる霊によれば

 神様の御子は、『聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。』と語られています。福音というのは、御子イエス・キリストに関する情報です。主イエスというお方は人であり、同時に神様でもありますが、主イエスの神聖が何によって証明されたかと言いますと、死者の中からの復活によってです。復活において、主イエスが『力ある』神の子であることが明らかになった、というのです。『力ある』と記されていることが大切なのです。主イエスの神の子としての力、つまり私たちを救って下さる力は、死者の中からの復活によってこそ示され、明らかにされたのです。

 その力とは、死に勝利する力です。ご自分の復活の命に私たちをもあずからせて下さり、私たちにも、死に勝利する復活の命を与えて下さる力です。肉体をもってこの世を生きている私たちは、死の力に常に脅かされています。どんなに充実した実りある人生も、その終わりは死であり、死の支配から逃れることができません。そして、死が私たちを脅かす恐ろしい力であるのは、私たちに罪があるためです。その罪というのは、私たちがあれこれの悪いことをしている、ということであるよりも、もっと根本的に、私たちに命を与え、人生を導き、そして、脅威を取り去ることのできる神様との間の良い関係が失われていることなのです。神様を神様として敬い、感謝し、礼拝するのでなく、自分が自分の人生の主人になって生きている私たちは、神様との正しい関係を失っているのです。

 しかし、死に直面する時私たちは、自分の人生の本当の主人は自分ではなかったことに気づかされます。自分の知らない、良い関係を持っていない、得体の知れない力によって命が奪われ、人生が取り去られることに恐怖を覚えるのです。主イエスが復活によって力ある神の子と定められたというのは、このような死への恐怖から私たちを解放して、新しく生かして下さる力ある救い主となられた、ということです。神の子である主イエス・キリストは、私たちと同じ肉体を持った一人の人間となって下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みを受けた私たちは、主イエスと同じ神の子とされ、神との良い関係を回復されたのです。

 そして、主イエスが復活して下さったことによって、私たちにも、肉体の死を越えた先に与えられる新しい命、復活と永遠の命の約束が与えられたのだと思います。主イエスの十字架の死と復活によって、『力ある』神の子イエス・キリストによる救いが実現したのです。このことが、パウロがこの手紙で語っていく福音の中心であると思います。つまり、パウロが語るその福音は、ダビデの子孫として肉体をもってこの世に生まれ、十字架の死を経て復活して下さった『力ある』神の子イエス・キリストによる救いの知らせなのだと思います。4節の冒頭に、『聖なる霊によれば』とあるのは、私たちがこの福音を信じて救いにあずかることは、聖霊なる神様のお働きによってこそ与えられる、ということだと思います。パウロがどんなに弁舌巧みにこの福音を説いても、多くのユダヤ人たちはそれを受け入れようとせず、むしろ異邦人たちが、ダビデの子孫として生まれた主イエスを『力ある』神の子、救い主と信じてその救いにあずかるということが起きたと伝えられています。それは全て聖なる霊の働きによるのであって、だからこそ今はまだ信じていない人々にも、聖霊の導きによって、主イエス・キリストと出会わされ、救われる希望があるのだと思います。

 このローマの信徒への手紙の8章38〜39節を見ますと、『わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。』とあります。

 力ある神様の子主イエス・キリストと結ばれているなら、私たちは神様の愛の下に、しっかりと捉えられていると思います。この世において降り掛かってくる、どのような苦しみや悲しみも、そして肉体の死において命が失われ、人生が終わっていく時にも、力ある神の子主イエス・キリストの復活によって与えられている神様の愛から、私たちを引き離すことができるものは何もないのだと思います。パウロは、この福音のために選び出され、召されて使徒となりました。パウロが、神様から全権を託されて語っているこの福音を、私たちはこのローマの信徒への手紙において読むことができると思います。

 私たちは、力ある神様の子主イエス・キリストによる神様の愛にしっかりと捉えられて生きる者とされて行きたいと思います。そして、神様が聖書を通して約束された、主イエス・キリストの福音の救いの確かさを見出して行きたいと思います。

  それでは、お祈り致します。