| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 6 つくりぬしを賛美します | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | ハバクク書 2章 4節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 55 人となりたる神のことば | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
ローマの信徒への手紙 1章 16〜17節 (新約p.273) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 로마서 1장 16절〜17절 | ||
| New Testament | The Letter of Paul to the Romans 1:16-17 | ||
| 圣 经 | 罗马书 1章 16〜17段 | ||
| 讃 美 歌 | 444 気づかせてください | 応答 | 着席 |
| 奨 励 |
『正しい者は信仰によって生きる』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 467 われらを導く | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■マルティン・ルターと神の義
おはようございます。ドイツの宗教改革を始めた中心人物であり、現在のプロテスタント教会が誕生するきっかけを作ったマルティン・ルターという人がいます。マルティン・ルターは1483年に現在のドイツにある小さな村アイスレーベンで生まれました。お父さんは農夫の出身でしたが、農民として生きる以外の道を求めて、鉱山で鉱夫として働いた後、自営で溶鉱炉を持ち、市会議員にまでなった人でした。上昇志向の強かったお父さんは子どもたちにも厳しく対し、向上心を持つように育てました。ルターもそんなお父さんの期待に応えて、18歳で名門エルフルト大学(『大学に行くならばエルフルトに行け』という言葉が残っているくらい当時は有名な大学の1つでした)に入学するのです。当時、大学はまずは教養学部に入る。ルターは、1502年に教養学士、1504年には教養学修士となり教養学部を卒業します。簡単に卒業と言っていますが、入学する時に200名いた学生は、このときには17名しか残っていなかったのです。この17名の中で、ルターは2番の成績でした。赤茶の修士のフードを着けて、修士の指輪をはめ、教養学部の初級講義も担当することになったのです。そして、いよいよ本格的に専門の勉強が始まるのです。
専門学部は医学部、法学部、神学部の3つでした。当時の欧州の大学では、一番ランクが高いのは神学部であったのです。しかし、ルターは父の希望に従って法学部に進んだのです。法学部の卒業生には、将来、社会に出て、例えば各地の領主たちの宮廷の法律顧問か、自由都市の市長になる道が開けるのです。まさにルターは前途洋々の学生であったのです。万事はルターが考える通りに進んでいたのです。しかし、この半年後、ルターは突如、大学をやめてしまうのです。一体、ルターに何が起こったのでしょうか?
1505年7月2日、一時親元に帰省したルターは、1人の友人と共に、再びエルフルト大学に戻る途中、シュトッテルンハイム村の近郊の野原で突然、雷雨に見舞われるのです。ルターたちのすぐそばに落雷し、地面になぎ倒されてしまうのです。ルターは思わず命乞いをし、そして叫んだのです。
『聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります!』
中世の人々にとって、父なる神様や主イエス・キリストは恐ろしい存在でしたから、それぞれ自分の守護聖人を持っていて、その聖人を通して神様に祈っていました。現代の日本に生きている私たちから見ますと、学業が優秀で、前途有望な青年が『修道士になります』と請願するとは、なんとも唐突で奇妙なことに見えるかと思いますが、当時はそうではなかったのです。『修道士になります』と請願するのは、衝撃的な経験をしたときの、中世の人々の典型的な反応であったのです。例えば、友人が突然死んだとか、大けがをして死にそうになったとか、書物を読んで身も震えるばかりに感動したとか、そういうことをきっかけに修道院に入るのは、決して特別なことではなかったのです。この落雷の日から2週間後、ルターは本当に大学をやめてしまい、エルフルトの町にあったアウグスティヌス修道会に入ってしまうのです。このルターの突然の大学退学と修道院入りに、激怒したお父さんが、力づくでもわが子を奪い返そうとしましたが、友人たちの執り成しでようやく思い留まったと伝えられています。
シュトッテルンハイム近郊のルターが雷に打たれたとされる場所に、現在ぽつんと石碑が立っています。そこには一言、次のように刻まれています。『歴史の転回点』。落雷の一撃がルターの生涯だけでなく、西欧社会の在り方をも根本から変えたことを、その石碑は今に伝えているのです。
こうして、ルターはアウグスティヌス修道会に入り、神学を修め、やがてヴィッテンベルク大学で聖書を教えるようにもなりました。ところが、ルターは『神は義しい』という言葉の前に立ち止まってしまうのです。本日の聖書の箇所の言葉は、ルターにどのように迫ったのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■福音には神の義が啓示されている
さて、前回、このローマの信徒への手紙1章16〜17節についてお話し、この箇所がローマの信徒への手紙の主題あるいは結論について語られているということをお話しました。そして、この手紙で語られていく全てのことは、この16〜17節の説明であるということもお話しました。前回は、16節だけを取り上げて、お話ししましたので、今日は17節についてお話ししたいと思います。それでは、本日の聖書の箇所の1章17節をお読みしますと、『福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』とあります。ローマの信徒への手紙の中で一番重要な聖句は間違いなくこの17節だと思います。従って、私たちは今日、聖書全体の中のいわば至聖所とも言うべきところに近づいていると思います。そして、今日のこの聖句に基づくメッセージが理解できたら、私たちのキリスト者としての生活は、方向性がはっきりすると思います。
前回、ギリシア語の原文には、16節の頭に『ガル』という、英語の『For』という言葉にあたる『なぜなら』という接続詞があり、15節と16節とは『なぜなら』という接続詞によって、つながっているということをお話しました。つまり16節は、15節までのところでパウロが語ってきた、ローマの教会を訪れ、そこでも福音を告げ知らせたいと願っている根拠は、なぜなら私は福音を恥とは思っていないから、ということを語っているということです。そして、本日お話する17節ですが、17節の頭にも同じく、『なぜなら』にあたる『ガル』という言葉がついているのです。従って、この『ガル』という言葉がついていることで、16節と17節とがつながっているということが分かります。パウロは16節で、福音は信じるすべての人にとって救いを得させる神の力ですと言っています。だから17節で、『なぜなら』と語り始めることで、そのことを説明しているということが分かります。なぜ福音が『救いをもたらす神の力』なのかということを説明している、その理由は福音のうちには『神の義』が啓示されているというのが、パウロが『なぜなら』と語っていることのポイントなのです。つまり、福音が信じる者すべてに救いをもたらす神の力であるという16節の理由、根拠をパウロは17節で、その福音に『神の義』が啓示されているからだ、と語っているのです。『神の義』こそがすべての人々に救いをもたらす神の力であり、その『神の義』が啓示されているからこそ、福音は、喜ばしい救いの知らせなのだということです。
そこで、今日はこの1章の17節で、『神の義』が啓示されているという内容がどれほどすごいことなのかということを、これから一緒に学ぼうとしています。今日は3つのことをお話したいと思います。1つ目のポイントは、『神の義』の啓示ということです。2つ目のポイントは信仰の原則についてです。そして、3つ目のポイントは、旧約聖書に見られる原則についてお話したいと思います。
それでは、1つ目のポイントからお話したいと思います。17節の冒頭には、『福音には、神の義が啓示されていますが、』とあります。ここに『神の義』という言葉が初めて出て来ていることが分かります。この言葉はこれからこの手紙の至る所に出て来る、ローマの信徒への手紙の主題と言ってもよい大切な言葉です。『神の義』とは何かを語るために、これだけの分量の手紙が書かれたのです。『神の義』について語るのにこれだけの分量となるのはなぜかと言いますと、『神の義』は福音の内に『啓示』されたものだからです。ここで、『啓示』されたという言葉がなぜ使われているのかと言いますと、人間の頭では考えられないことが神様によって示されたからです。神様ご自身が、私たち人間には知り得ないことを教えてくださったということなのです。『神の義』の『義』と訳されている言葉は、ギリシア語の『ディカイオスネィ』という言葉が使われています。この『ディカイオスネィ』という言葉は、英語では『正しい』と訳されることが多い言葉なのです。しかし、聖書では、この言葉は道徳的に正しいだけでなく、神様との正しい関係にある個人を表すために用いられる言葉なのです。
さて、先程、宗教改革者ルターは『神は義しい』という言葉の前に立ち止まってしまったということをお話しました。ルターはアウグスティヌス修道会の見習い修道士として飛び込み、厳しい修練の生活を送ることになるのです。修道士は沈黙を守らねばならず、割り当てられた狭い個室の中で独り言さえ許されなかったのです。起床は深夜2時です。そこから修道僧は祈りの時を持ち、粗末な食事と厳しい訓練とで、必死になって訓練を受けました、アウグスティヌス修道院は特に、1日7回『旧約聖書』の『詩編』の朗読の祈りの時があり、毎日詩篇を50篇ずつ読み、3日で150篇を読み終えたそうです。托鉢をし、質素な食事を1日に2回、また断食や徹夜の祈りを繰り返す沈黙と禁欲の日々を送るのです。ルターはそれらを完全無欠、模範的に実行するのです。その努力が認められ、1年後には正式な修道士となるのです。しかし、毎日、聖書を読み、祈りを捧げても心に平安は得られることはなく、ルターは人間にとってそもそも『正義』とは何か、『義しい』とはどういうことかということに、悩み続けたのです。
それは、なぜかと言いますと、このときルターは、『神は義しい』ということを次のように考えていたのだと思います。『神は義しい』、するとその義しい神は、当然我々人間にも義しい生き方を要求する。つまり、私たち人間もこの世の中で義しい生き方をしなければならない。しかし、どうでしょうか?本当に毎日、私たちは義しいことのみを心に思い、義しいことを実行できているでしょうか?言うまでもなく、できていないと思います。心の中では、義しくないことを考えていて、本当に義しいことなど、めったに行ってもいない自分を発見するのではないでしょうか。すると、そういう義しくはないこの『私』に対して、神様は怖い顔をして怒っているはずです。そして、怒った神様が、私を裁く、私はもう天国に入れない。これは大変なことです。つまり、神様は義しい。その義しい神様が私を裁くに違いない。そのようにルターは考え、『神は義しい』という言葉の前に行き詰ってしまったのです。
■神の義とは
それでも、1507年、司祭に叙階されたルターは、修道院から特に神学の研究をすることを命じられ、聖書研究を本格的に始めるのです。そして1512年、神学博士になると同時にヴィッテンベルク大学の聖書学の教授となるのです。ルターが最初に行った講義は、『旧約聖書』の『詩編』と『ローマの信徒への手紙』であったのです。講義のために聖書を研究する中で、ルターが行き詰まった『神の義』という聖句が出てくるのです。その一つが、旧約聖書の詩編71篇です。その2節の前半を見ますと、『恵みの御業によって助け、逃れさせてください』とあります。ルターにとっては、これが理解することが難しかったのです。
それが何故かは、この新共同訳聖書の翻訳からは分からないのです。以前の口語訳聖書ではこの2節は、『あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください』となっていたのです。つまり新共同訳聖書で『恵みの御業』と訳されている言葉は、『あなたの義』つまり『神の義』という言葉なのです。この『あなたの義、神の義』という言葉が71篇には5回出て来ます。15節に『わたしの口は恵みの御業を、御救いを絶えることなく語り』とある、この『恵みの御業』も口語訳聖書では『あなたの義』となっているのです。16節の最後の行の『ひたすら恵みの御業を唱えましょう』という箇所も、口語訳聖書では『ただあなたの義のみを、ほめたたえるでしょう』となっているのです。19節の『恵みの御業』も、口語訳聖書では『あなたの義』ですし、最後の24節で、『わたしの舌は絶えることなく恵みの御業を歌います』とあるのも、『あなたの義』なのです。このように詩編71篇には、『あなたの義』、『神の義』が繰り返し出て来ているわけですが、詩人はその言葉を全て喜びと感謝の思いで語っているのです。特に2節では、『あなたの義によって助けてください』となっていて、神の義がこの詩人を救って欲しいと語っているのです。また15節では、『あなたの義』と『御救い』とが並列で置かれているのです。
ルターが理解に苦しんだのはこのことであったと思います。ルターにとって『神の義』というのは、神様がご自分の正しいがゆえに、人を裁かずにはおられない厳しい物差しであり、恐ろしいものであったと思います。従って、『神の義』に『私』が到達することが求められているのであれば、『私』にとって『神の義』は裁きの宣言、自分は救われないという悪い知らせであって、喜ばしいものや救いをもたらすものではないはずなのに、この詩人はそれを喜ばしい救いの言葉として語っているのです。ルターは、それは何故なのかが分からなかったのです。
ヴィッテンベルクのアウグスティヌス修道院の南塔にあるルターの研究室でもあった書斎で、ルターは詩編71篇と本日の聖書の箇所であるローマの信徒への手紙1章17節の聖句とを関連させて黙想する中で、まったく新しい信仰の認識が与えられるという『塔の体験』と呼ばれる体験をするのです。本日の聖書の箇所の17節は、原文であるギリシア語聖書の語順に従って直訳すると、『なぜなら神の義は、その(福音の(16節))中に啓示されている』となります。前回、ローマの信徒への手紙1章16節についてお話しました時に、福音は、主イエスに関することであって、主イエスを通して成し遂げられたことだということをお話しました。そして、福音の中心は神様の独り子である主イエスの十字架の死と復活だということをお話しました。従って、本日の聖書の箇所の17節に於いて、私たちに啓示されている事柄というのは、『神の義』は主イエス・キリストの福音として示されているということなのです。即ち、『神の義』と『私たちの救い』という、二律背反するもののように見えたものが、実は『主イエス・キリスト』を介してひとつに結びついているということに、ルターは気づいたのだと思います。聖書に記されている『神の義』という言葉からルターが再発見したのは、私たち人間の救いは、主イエス・キリストの教えと働き、とりわけ主イエスの十字架での死と3日目の復活に具現されているということです。このことは、数年後にルターの『十字架の神学』としてまとめられることになる重要な解釈なのです。
何が問題であったのかと言いますと、『神の義』と言ったときの助詞の『の』は、『行為者の属格』という文法的用法が使われていたということにあるのです。どういうことかと言いますと、例えば『お父さんの贈り物』というフレーズを考えてみたいと思います。一見シンプルなフレーズですが、助詞『の』が持つ『格助詞』としての多様な機能によって、文脈次第で複数の意味に解釈できるのです。最も一般的な用法は所有格としての『の』で、『贈り物』という物品がお父さんの所有物であることを示しています。つまり、誰かからもらったり、自分で買ったりして、お父さんが持っている贈り物ということです。また、別の用法としては、『贈り物』という名詞の背景にある『贈る』という動作の主体(主語)がお父さんであることを示す、主格という用法があります。あるいは、『贈る』という動作の対象(相手)がお父さんであることを示す、目的格という用法もあるのです。
それでは、聖書で用いられている『行為者の属格』という文法的用法では、助詞の『の』はどのような意味で用いられているのかということを考えてみたいと思います。聖書では、『お父さんの贈り物』と言う場合、このお父さんが子供に贈った贈り物は、ひとたび贈るという行為をすると、贈られた品物は、お父さんの手を離れ、贈られた人の手に渡り、その人の所有物となりますが、ここでの助詞の『の』は、行為する主体を指すと同時に、行為の後には、行為する主体に所属していた事柄が行為を向けられた相手に及ぶという意味を持っているのです。
従って、本日の聖書の箇所でパウロが書いた『神の義』の『の』も、詩編71篇の『神の義』の『の』も、『行為者の属格』で書かれていますので、その『神の義』の意味するところは、『神は義しい』お方であるけれども、神様はその『義しさ』を、救い主の犠牲(主イエス・キリストの十字架と復活)という形で、罪深き私たち人間への『贈り物』として与えて下さることから、その神様の『義しさ』は贈られた人間に所属するものとなり、神様の前に『義しい』者とされることによって、人間は救われるということになるのです。それ故、聖書は『神の義』を、「福音(喜びの知らせ)』と結びつけて語っているのだと思います。
この『行為者の属格』という文法的用法は、ヘブライ語ではこのような用法がよく使われていましたが、西暦405年頃にヒエロニムスによってラテン語に翻訳されたウルガタ訳聖書では、このような用法がほとんどなかったために、言葉の意味を理解するのに困難が生まれていたのです。ルターは、そのことに気づき、聖書は『神の義』を主イエス・キリストを通して成し遂げられた『福音』に於いて啓示されていると語っているのです。
■初めから終わりまで信仰を通して実現される
主イエス・キリストの福音において啓示されている『神の義』は、信じる者すべてに救いをもたらすというのです。神様からの義が、お父さんからの贈り物のように私たちに差し出されているというのです。その『神の義』という贈り物を喜んでいただくことが信じること、信仰ということなのです。私たちが主イエス・キリストの福音において啓示されている『神の義』を受け取るために必要なただ一つのことが、この信じること、信仰なのだということなのです。それが、今日の聖書の箇所の2つ目のポイントである信仰の原則ということなのです。17節の真ん中の『それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです』という文章はその信仰の原則を語っています。この新共同訳聖書の翻訳も、詩編71篇と同様のかなりの意訳となっています。原文のギリシア語を直訳しますと、『信仰から信仰へ』となります。この言葉をどう解釈するかについてはいろいろな捉え方があるかと思いますが、忘れてはならないのは、この『信仰から信仰へ』と語られているのは、『なぜなら神の義は、その(福音の)中に啓示されている』という文章の一部だということです。ですからここで基本的に語られているのは、福音における神の義の啓示は、信仰なしにはあり得ないということだと思います。私たちが主イエスの十字架と復活を中心とする福音において『神の義』を示され与えられて義とされ、罪を赦されて救われる、そのことは、徹頭徹尾信仰において実現するというのです。自分の努力でより正しい者となり、自分で義を積み重ねていくことが必要だ、というのではないのです。私たちは、最初から最後まで、徹底的に、信仰の原則によってのみ、つまり『神の義』を神様からの贈り物として、信仰によって受け取るという仕方によってのみ、『義』とされるというのです。
■正しい者は信仰によって生きる
17節の後半の『正しい者は信仰によって生きる』という、ハバクク書2章4節からの引用は、今日の3つ目のポイントである旧約聖書に見られる原則を言い表していると思います。『正しい者』と訳されている言葉は、17節の前半で出てきた『神の義』の『義』と同じ言葉であるギリシア語の『ディカイオス』という言葉が使われています。『神の義』に生きる人は、ただ信仰によってのみ生きる、ということです。パウロがなぜハバクク書2章4節を引用したのかということを、紀元1世紀のローマの教会の人たちは直ぐに分かったことと思います。
ハバククという人は神様に、祈りの中で疑問を呈した人です。彼は神様に、なぜ神の民と呼ばれる南ユダ王国の中で、こんなに暴虐と不法なことが行われているのですか。支配者による抑圧と争いが起こるのですか。ハバククは神様に繰り返し祈りますが、あなたは答えてくださらない。どうして民の罪をこのままにしておくのですかと、彼は泣き叫んだのです。これが彼の第1の疑問なのです。
それに対して神様は答えを下さったのです。神様は、時が来たらユダを裁く、だから安心しなさいというのです。神様がユダを裁くために起こす器というのは、カルデア人なのです。これはバビロニアのことなのです。ハバククが主に問うた時点では、バビロニアはまだ注目されていない小さな国であったのです。ですから、これはものすごい予言になっているのです。バビロニアが強大な国として登場するということは、驚愕すべきことであると同時に、バビロニアという国はものすごく残虐なのです。だから、ハバククは第2の疑問を持つのです。ハバククは神様がイスラエルの民が滅ぼすことはないということは、神様とイスラエルの民の間に契約関係があるから信じているのですが、彼の2つ目の疑問は、ユダの罪を裁くのに、ユダよりも悪い、残虐なバビロニアをどうして用いるのですかということなのです。これは第1の疑問よりも重大で深刻な疑問なのです。
そのハバククの疑問に対する神様の答えが、『しかし、神に従う人は信仰によって生きる』というものなのです。神様の言葉を信じ、それに従って生きる人は信仰者であり、義人であるというのです。ハバククは神様がなぜカルデア人を用いて、ユダヤを裁くのか理解できないのです。しかし、神様はその理由を説明しようとはしないのです。神様は、最終的には全ての問題が解決する。だから、信じなさいと命じられたのです。そして、罪深く、傲慢なカルデア人は必ず滅ぼされると予言されたのです。それで、ハバククは、この主のみ言葉、『しかし、神に従う人は信仰によって生きる』という言葉を信じるのです。つまり、何がどうなるかは分からなくても、最後は神様が全てを良しと変えてくださるということをそれでもなお信じて行くという原則が示されているのです。ハバクク書の中に既に、たとえ理解はできなくても、神様は必ず最後には全てを解決して下さるという信仰によって生きるという原則が表現されているのです。そして、そのような信仰を持ち、主を喜ぶ人を義人と語っているのです。パウロはそのハバクク書の言葉を引用して、『正しい者は信仰によって生きる』と、ローマのキリスト者に、そして、時代を越えて、現代の私たちに語りかけているのです。
私たちは、『神の義』を神様からの贈り物として、信仰によって受け取るという仕方によってのみ、『義』とされるという信仰の原則に立ち、困難な中にあっても、最後は神様が全てを良しと変えてくださるということをそれでもなお信じて、『正しい者は信仰によって生きる』という信仰に立って、歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
