小倉日明教会

『神は人を別け隔てなさいません』

ローマの信徒への手紙 2章 1〜11節

午前10時30分〜

2026年6月21日 聖霊降臨節第5主日礼拝

ローマの信徒への手紙 2章 1〜11節

『神は人を別け隔てなさいません』

【奨励】 川辺 正直 役員

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 13 みつかいとともに 応答 起立
招   詞 詩編 1篇 1〜3節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 227 主の真理は 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

ローマの信徒への手紙 2章 1〜11節

                               (新約p.274)

啓示 着席
성  경 로마서 2장 1절〜11절
New Testament The Letter of Paul to the Romans 2:1-11
圣  经 罗马书 2章 1〜11段
讃 美 歌 357 力に満ちたる 応答 着席
奨   励

『神は人を別け隔てなさいません』

     川辺 正直 役員

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 503 ひかりにいます主 応答 起立
祝   祷

平和の挨拶

司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。

会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【奨 励】                  役員 川辺 正直

■心を癒した外科医 マクスウェル・マルツ

 おはようございます。20世紀初頭のニューヨークで、一人の青年が医学を志ざし、1923年のある日、インターンとして初めて赤ちゃんを取り上げ、その子が口唇裂であることに気づいたことから患者の身体を癒す外科医としての道を歩み始めました。彼の名前はマクスウェル・マルツといいます。貧しい家庭に育ちながらも、努力と探求心を持って医学の道を進み、やがて整形外科の分野で名を馳せるようになりました。当時も今も流行と見なされることが多いこの新しい専門分野で信頼を築くという地道な作業に取り組んだのです。ニューヨークのある病院の外科部長は、形成外科は『見栄のための仕事』だという理由で、マルツ医師がスタッフに加わることを拒否したのです。しかし、マルツ医師は幼い少女の顔からひどい火傷の傷跡を取り除くことで、形成外科の真の機能を示したのです。

 あるとき、マルツ医師の病院にひとりの女性が助けを求めてやって来たのです。

彼女の夫は、顔にひどいやけどを負っていました。彼は、火事のあった家の中に取り残された自分の両親を助け出そうとして、大やけどを負ってしまったのです。

 しかし、彼は両親を救い出すことはできませんでした。そのため彼は、二重に傷を負うことになったのです。顔の傷と、心の傷です。彼は神様に罰を受けているような考えに取りつかれてしまい、部屋に閉じこもって出て来ることが出来なくなってしまったのです。

 マルツ医師は『何とかできると思いますよ』と伝えました。何しろ腕の良い、世界的な形成外科医なのです。ご主人のやけどの跡を消すことができる、と言ったのです。

 ところが、この女性は思いがけないことを言いました。

 『先生、違うのです。夫のやけどを直すのではなく、私の顔に夫と同じ傷をつけていただきたいのです。夫の心は堅く閉じています。顔も心も傷だらけで、自分はどうしょうもないと思い込んでいるのです。しかし私が同じ傷を負ったら、彼は心を開いてくれるかもしれません。』

 マルツ医師はこの女性の申し出を断りました。しかし、何とか彼女に協力し、彼女の夫を救いたいと思い、家にまで行ったそうです。

 ノックをしました。『こんにちは。医者のマルツです』。しかし、返事はありません。

 『ご主人、いらっしゃることはわかっています。私は皮膚移植を専門とする医者です。お力になれると思いますよ。どうぞ出てきてください。』

 しかし、物音一つしなかったそうです。そこでドクターが言いました。

 『奥さんは私のところに来て、あなたの傷と同じものを自分の顔につけて欲しいと言いました。そうしたら夫は部屋から出て私を受け入れてくれるに違いない、と言って。』

 しばらくすると、とうとう扉が開き、彼が出てきたのです。この女性の夫は、マルツ医師の手術を受け、新しい人生に入ることができたのです。

 長い間閉じこもっていた彼に、何がこの変化を起こしたのでしょうか。一人の女性の自己犠牲の愛が、彼の心を溶かしたのです。私たち人間を愛してやまない神様は、私たち人間をどのようにして救おうと考えておられるのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■人を裁いてはならない?

 さて、本日の聖書の箇所のローマの信徒への手紙2章1節を見ますと、『だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。』とあります。このようにパウロは書いているのです。1節で『すべて人を裁く者』というのは、誰を指しているのでしょうか。1節の冒頭は、『だから』と訳されたギリシャ語の言葉は『それ故』という意味の『ディオ』という強い意味の接続詞です。従って、2章1節は、パウロが1章18〜32節でローマ世界の人々の罪を語ってきた内容を受けて、『だから』○○○と勢い込んで語っているのです。前回及び前々回と2回に渡ってお話しました、1章18〜32節で、パウロが語ってきたローマ世界の人々の罪としてあげられていたのは 、神を神としてあがめることも感謝することもせず、神でないものを 拝む偶像礼拝であり、さらには男女の自然の関係を自然にもとるものに変えてしまう同性愛などでした。そして、パウロはさらに21もの人間の罪を列記していました。これらの罪が人間の罪として記されていたのです。パウロはこれらの人間の罪を書き記した上で、『だから、すべて人を裁く者よ、』と、語りかけているのです。パウロが『だから、すべて人を裁く者よ、』と、語りかけている『すべて人を裁く者』とは誰のことなのでしょうか。

 パウロがここで『すべて人を裁く者』として考えているのは、偶像礼拝や同性愛を罪と考えるユダヤ人たちであり、もう少し広く考えれば、ユダヤ的に見たときに道徳的に自分は正しいと考える異邦人であると思います。これらを今日の話では、広くユダヤ人と言うことに致します。これらの広い意味でのユダヤ人たちは、パウロの意見に同意したのです。彼らは、パウロさんその通りだ。彼らは裁かれても当然だと考えた訳です。でも、彼らは、自分たちは別だよと言いたいのです。だから、パウロは、あなた方に弁解の余地はありませんと言っているのです。なぜ弁解の余地がないかと言いますと、ユダヤ人と道徳的に自分は正しいと考える異邦人も、また、神様に関する知識を持っています。これが一般啓示であるということはお話しました。彼らは、その自分たちが持っている知識を自分たち以外の他の人に適用しているのです。けれども、自分では神様に関する知識を実行していないのです。他の人に厳しく、しかし、自分には甘いという状態だというのです。ですからパウロは、あなたに、弁解の余地はないと言うのです。なぜなら、他の人を裁いているあなた自身が、同じことを行っているからだと言っているのです。

 弁解の余地はないという言葉は、1章の20節にも出てきました。神様の目に見えないご性質、すなわち神様の永遠の力と神性は、世界が造られたときから、被造物に現れており、これを通して神様を知ることができるので、彼らには弁解の余地がありませんとありました。つまり、他の異邦人と同じようにユダヤ人と自分は道徳的に正しいと考える異邦人もまた、神様の栄光を偶像と取り替えたのです。それ故、彼らもまた弁解の余地がないと言っているのです。

 そして、本日の聖書の箇所の2章の2節以降で、パウロは神様の裁きの原則を3つ挙げているのです。この原則に従って、あなた方に弁解の余地はないのだよということを、語っているのです。そこで、今日のお話しのポイントですが、今日は、神様の裁きについての3つのポイントについてお話し致します。ポイントの1つ目は、神様の裁きは、正義に基づいて行われるということです(2〜5節)。2つ目のポイントは、神様の裁きは、行いに従って行われるということです(6〜10節)。そして、3つ目のポイントが、神様の裁きは、分け隔てなく行われるということです(11〜16節)。従って、本日の聖書の箇所で、パウロはあなたに弁解の余地はないと言い、その理由を正義と行いと別け隔てなしという、3つのポイントで語っているのです。それでは、1つ目のポイントである神様の裁きは、正義に基づいて行われる。あるいは真理に基づいて行われるということについて見てゆきたいと思います。

■神の裁きは正しい

 次に、本日の聖書の箇所の2章2節を見ますと、『神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。』とあります。神様の裁きが正しいというのはなぜなのでしょうか。それは、神様は見かけによってではなく、その人の実質を見て裁かれるということなのです。他の人のことを裁いている人も、自分が裁いている人と同じように神様によって裁かれるというのです。あの人は神様に裁かれて当然だと、言っているあなたが神様によって裁かれるのだと、パウロは語っているのです。なぜならば、神様は正義に基づき、真理に基づいて、あなたの内側にある本質に従って裁くから、あなたも当然裁かれるのだと、パウロは言っているのです。

 3節を見ますと、『このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。』とあります。ここでは、実は当時ローマ時代によく用いられた『ダイアトライブ(Diatribe)』という文学手法が使われています。『ダイアトライブ』というのはどういう文学手法かと言いますと、目の前に、論敵がいることを想定して、つまりディベートする相手がいると考えて、その論敵が発すると考えられる質問を取り上げて、その質問に答えるような形で討論を進めるという手法なのです。ですから、パウロは目の前に、自分は正しいと考えるユダヤ人がいて、私は神様の裁きを免れることができると反論して来ることを想定して、それに対する答えを返しているのです。この文学手法を用いることによって、この手紙を読む人たちが、パウロが展開する論理の中に、無理なく入り込んで、パウロの語ることに、耳を傾けることができるようになっているのです。パウロのこの手紙を読んで、これまでのパウロの議論に同意し、他の『人を裁く者』、広い意味でのユダヤ人たちは、自分は大丈夫だと思っているのです。自分たちは、異教徒とは違うと自負している人たちなのです。彼らは、異教の神々を信じる人々を裁きながら、自分でも同じ罪を犯している人たちなのです。他の人に厳しく、自分に甘いというのが、罪人の特徴だと思います。人を裁くときはとても厳しく、でも自分のことに関しては甘いというのが、私たち人間のあり様なのだと思います。特に、裁く相手が犯している罪と自分が同じ罪を犯している場合には、特に他の人を厳しく糾弾するようになるというのが、私たち人間なのではないでしょうか。

■神の豊かな慈愛と寛容と忍耐

 本日の聖書の箇所の4節を見ますと、『あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。』とあります。『その豊かな慈愛と寛容と忍耐』とありますが、この豊かなという言葉は、慈愛と寛容と忍耐という全ての言葉にかかっています。その豊かな慈愛と、その豊かな寛容と、その豊かな忍耐とを軽んじるのですかと、パウロは聞いているのです。軽んじるというのは、軽蔑しているということです。広い意味でのユダヤ人たちは、神様の豊かな慈愛を軽蔑していると言うのです。神様の慈愛というのは何なのか、少し立ち止まって考えればよくわかることだと思います。すべての霊的、物質的祝福は神からの贈り物です。私たちが持っているもので、神様から受けていないものは、一つもありません。そのことが分かると、人は悔い改めに導かれ、神様の慈愛に感謝するようになるのだと思います。しかし、ユダヤ人たちはその神様の豊かな慈愛を軽蔑しているのです。あるいは無視しているのです。それだけではありません。次に、彼らは、神様の豊かな寛容を軽んじているのです。神様は寛容なお方であることを、無視しているのがユダヤ人の状態だと言うのです。さらに、彼らは神様の豊かな忍耐も軽んじているという神様の忍耐とは何なのかと言いますと、神様は裁きを遅らしておられるのです。つまり罪に対する怒りを、神様は我慢しておられるのです。その理由は、罪人が一人でも多く悔い改めることができるように、待っておられるという理由からなのです。しかし、その神様の豊かな忍耐を軽蔑した人は、神様が無力な神であるかのように誤解してしまうというのです。

 次に、本日の聖書の箇所の5節を見ますと、『あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。』とあります。ところがユダヤ人は、かたくなで心を改めようとしないが故に、神様の怒りを、神様が正しい裁きを行われる日に、神様の怒りを自分のために積み上げているというのです。5節には、『かたくなで心を改めようとせず、』という言葉があります。これは、アダムの子孫の性質です。アダムの子孫である私たちは、『かたくなで心を改めようとせず、』という性質を持っています。習慣的に積み重ねられる罪によって、神様の怒りがより深刻な状態になっているというのです。そして、前回お話しましたように、神様によって放置されることによって、さらに深刻な状態になっているのです。アダムの罪の性質を引き継ぎ、習慣的罪によってよりそれが深刻になり、そして、神様が放置することによって、さらに深刻な状態になっているというのです。ユダヤ人たちは、自分自身のために裁きを重くしているのです、怒りの日が来たならば、神様の正義に照らせば、ユダヤ人が神様の裁きを免れるということはあり得ないということが分かるかと思います。つまり、パウロは、ユダヤ人も異邦人も、神様の同じ裁きを受けることになると言っているのです。次に、2つ目のポイントの神様の裁きは、行いに従って行われるということについて見てみたいと思います。

■おのおのの行いに従って

 本日の聖書の箇所の6〜10節を見ますと、『神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。』とあります。ここで注意しておきたいのは、これは技による救いを教えているのではないということです。今、私たちが読んでいるローマの信徒への手紙の箇所は、人間に対する有罪宣言の箇所なのです。まだ、義人についてのテーマには入っていないのです。ですから、いかにすれば救われるかということについて、パウロはまだ語っていないのです。それでは、パウロがここで教えていることは何かと言いますと、単なる信仰告白なのか、あるいは、行動が伴った信仰告白なのかの違いを教えているのです。救われた人は、結果として行いを生みます、救われた人は結果として良い行いを行うようになるのです。義人は信仰によって義とされ、信仰の結果、生み出されてくる行いによって、神様からの報いを頂くのです。それが神様からの報酬だと言うのです。

 7節には、『すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、』と書かれています。これが、信仰によって救われたものの特徴だと言うのです。信仰者には、善き行いが伴い、そして、神様から栄光と誉れと不滅のものが与えられるというのです。それに対して、8節は、『反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。』とありますように、不信仰者の特徴と言うことができると思います。反抗心を持ち、真理に従わないで、不義に従う者には、神様は怒りと憤りを示されるのです。

 神様は最後の審判において、このような正しい裁きを行うのだ、とパウロは語っているのです。それでは、本日の3つ目のポイントの神様の裁きは分け隔てなく行われるということについてお話したいと思います。

■神は人を分け隔てなさいません

 本日の聖書の箇所の11節を見ますと、『神は人を分け隔てなさいません。』とあります。最後の審判に於ける神様の正しい裁きのポイントは、『ユダヤ人はもとよりギリシア人にも』(9節、10節)という言葉に表されています。ギリシア人は異邦人の代表です。つまり神様の裁きは、ユダヤ人にも異邦人にも、同じように下るのであって、神は裁きにおいてユダヤ人をえこひいきするようなことはないのです。それが3つ目のポイントである、『神様の裁きは、分け隔てなく行われる』ということであり、11節の『神は人を分け隔てなさいません』ということの意味です。神様は裁きにおいて、ユダヤ人と異邦人とを分け隔てなさらない。このことこそが、パウロが本日の聖書の箇所で語ろうとしていることの中心だと思います。

 ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫である自分たちは神の民であり、神様の掟である律法を守っているから、神様の前に正しい者だと考えていました。そして、ユダヤ人は、さらに異邦人たちは律法を守っていないことから、罪人であり、神様の怒りを受けるべき者だと考えていたのです。パウロは、そのユダヤ人たちに対して、『あなたがたは異邦人を罪人として裁いているが、あなたがたも同じ罪を犯している。神様と人間との正しい関係をひっくり返してしまい、その結果、人間どうしの正しい関係、交わりをも失っているのは、あなたがたも異邦人も全く同じだ。あなたがたも罪人であり、神様の怒りを蓄えているのだ。神様は最後の審判において、あなたがたをも異邦人をも分け隔てなくお裁きになる。最後の審判において神様が自分たちのことをひいきして下さるなどと考えてはならない』と、本日の聖書の箇所で語っているのです。

 宗教改革者マルティン・ルターは、この11節の解説として、『神は誰ひとりとして軽蔑され、非難され、捨てられることを望まない』と語りました。ルターはパウロの文章をそう読み取ったのです。『誰ひとり』なのです。ルターは、ここに神様のみ心があると考えたのです。

 慈しみ深い神様は、誰ひとりとして、軽んじられ、非難され、捨てられることを望んではおられないというのです。ローマの信徒への手紙の1章18〜32節についてお話したときに、『神の義』の啓示も、『神の怒り』の啓示も、どちらも今起りつつある、同時に進行していることであるということをお話しました。そして、『神の義』の意味するところは、『神は義しい』お方であるけれども、神様はその『義しさ』を、救い主の犠牲(主イエス・キリストの十字架と復活)という形で、罪深い私たち人間への『贈り物』として与えて下さることによって、罪人である私たちを救って下さる、ということをお話しました。神様の救いの恵みが啓示されたことと同時に、『神の怒り』も現されたのです。『神の怒り』は、私たち人間が主イエス・キリストの犠牲と復活を受け入れないが故に、主イエス・キリストによる救いの恵みの福音の中で、同時に現されたのです。主イエス・キリストは、『神の怒り』をご自分の身にお受けになられるために、この世界に来られたお方なのです。慈しみ深い神様は、罪を抱えた私たち人間を、何とか目覚めさせようと、忍耐し、寛容であられて、私たちが、この神様の思いに気づいて、変えられることを、常に慈愛をもって、願っておられるのです。私たちは、この慈愛に満ちた神様を仰ぎ見つつ、私たちは主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。

それでは、お祈り致します。