| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 9 わが身にたまいし | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | ルカによる福音書 11章 9~10節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | こどもさんびか94 ふしぎなかぜが | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
創世記 11章 1〜9節 (旧約p.13) 使徒言行録 2章 1〜4節 |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 사도행전 2장 1〜4절 | ||
| New Testament | The Acts of the Apostles 2:1-4 | ||
| 圣 经 | 使徒行传 2章 1〜4段 | ||
| 讃 美 歌 | 406 聖霊ゆたかに | 応答 | 着席 |
| 説 教 |
『響き合い、交わり合い』 沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 564 イェスは委ねられる | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【説 教】 沖村 裕史 牧師
■バベルの物語
創世記の「原初物語」の中に出てくるバベルは、有名な古代都市の一つ、バビロンを指しています。
物語によれば、当時、まだ人々の使う言葉は一つであった、そしてある時、人間たちは神に対抗しようという不遜な思いを抱き、神のおられる「天」に向かって高い塔を築き始めたとあります。
メソポタミア地方には、古代の遺跡としてジクラートと呼ばれる高い塔がいくつも残されていますが、おそらくバベルの塔というのもそうした建造物を念頭に置いて生み出された物語だったと考えられます。このジクラート、仕事量においても技術の質と複雑さにおいても、数ある塔の中でも、ずば抜けた完成度をもっていたといわれます。
紀元前六世紀の新バビロニア帝国時代では、「エテメンアンキ」(天と地の礎の家)という名称で親しまれました。それはバビロンの主神マルドゥクを祭儀するエサギラ神殿に付属していましたが、この塔と神殿、各種の施設を擁した神域全体は、縦横四五六メートルと四一二メートルの長方形で、京都御所が東西二四〇メートル、南北四六〇メートルで敷地総面積が一一万平方ですから、その京都御所の二倍にもあたります。さて、そんな広い神域にひときわ目立ったのが七層で九〇メートル、外壁を焼レンガで覆った大きなジクラートでした。
完成すれば壮麗な姿になったはずで、バビロンの町の人々は塔が次第に形をあらわしていくのを、畏怖と誇りの思いで毎日眺めたことでしょう。ところが、どうしたわけか塔はいっこう完成せず、工事途中で打ち捨てられてしまいました。ユダ王国の人々がバビロンに補囚された紀元前六世紀頃、旧約聖書を綴った人々は、工事がストップしたままのこの塔を目撃していたと思われます。
そうした巨大建築物を造り出すためには、それに必要な経済力や技術力はもちろん、多くの人間の力を統制できる、共通の言語と圧倒的な暴力を伴った組織や制度の存在が前提となります。こうした人間的能力をすべて結集して「東の方から移動してきた人々」―当時のニムロド王は、人間以上のもの、神の領域にまで達しようと企てたというのが、このバベルの物語です。
しばしば指摘されるように、このような人間的能力の濫用と無制限の高慢さは、むしろ今日においてこそより切実な問題で、バベルの物語は過去のいかなる時代にもまして、現代のわたしたちに向かって警告を発しているといえるかもしれません。巨大なエネルギーを生み出す原子力技術(原爆や原発)、瞬時に世界の隅々を網羅するコンピューター・ネットワークやAIと呼ばれる人工知能、同一の生命の複製さえ可能にする生命科学といった現代の最先端技術などなど、これらはすべて「両刃(もろは)の剣(つるぎ)」というべきもので、今日のわたしたちに大きな問いを投げかけています。
技術の発達は必ずしも、それ自体が自動的に人間を幸福にするとは限りません。問題はつねに、そのような技術や能力をどのように使うのか、そもそもそれが人間と世界にどんな意味を持ち、最後に何をもたらすのかを見極めることにあります。しかし多くの場合、わたしたちがそういうことを考える間もなく、技術は先へ先へと進んでいき、わたしたちはその現実をあたふたと後から追っかけていくというのが実態です。そうして今もなお、人間の限りない欲望や好奇心を無批判に肯定し、またそれを推進力として「高い塔を建てる営み」があちらこちらで続けられています。
創世記の物語とわたしたちが生きている現代の状況との間に違いがあるとすれば、それは、少なくともバベルの町の人々は「神」の存在を意識しており、「神」を一つの目的としていたのに対して、今日ではもはや、人々は「神」という概念さえ知らず、すなわち自分たちが達すべき目的さえ知らないまま、ただひたすら欲望のままに「高い塔」を建てるという行為に狂奔していることでしょう。それはバベルの物語以上に、わたしたちが混沌とした恐ろしい状況のもとにあることを示しているのではないでしょうか。
■二つの交わりの回復
こうした人間の思い上がりを憤(いきどお)った神が、この塔の建造を阻止するために、それまでひとつであった人間の言葉を混乱させ、この世にさまざまな言語が生まれた結果、人間は互いの言葉を理解できなくなり、コミュニケーションがとれなくなって、ついにこの企ては挫折した、と記されています。
この物語は、人間の世界にどうして多くの言語が存在するかを説明する「原因物語」でもあるのですが、今、読んできた物語の展開からみれば、たくさんの言語が存在するのは人間の高慢の結果であり、神の罰であって、聖書的にはマイナスのことがらであるかのようにも読めます。
しかしここで本当に問題とされているのは、言語の多様性ではありません。それはむしろ、ひとつの言語によって統制され、過酷な労働を強いられていた人々が、独裁的な権力から解放された、自由とされたことのしるしです。本当の問題は、神にまで達しようとする人間の高慢さが、かえって人間同士のコミュニケーションを破壊し、互いに理解し合えない結果を生み出したという点にあります。
事実、わたしたちがたとえ同じ言葉を使っていても、お互いに理解し合えなかったり、交わりが形作れなかったりということがあることを、わたしたちは幾度も味わい、知っているはずです。正確にいえば、多くの言語の存在が問題なのではなく、神と人間の交わりを破壊し、同時に人と人との交わりをも破壊する人間の高慢さこそが、バベルの物語が語り伝えようとする問題の本質です。
創世記を読むと、すでに三章のアダムとエバの物語や四章のカインとアベルの物語に、神との交わりの破綻が同時に、人間同士の交わりの破綻につながっていく有り様が示されています。聖書によれば、これら二種類の交わりは切り離すことのできない内実を持っています。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」がもっとも大切な不可分の戒めであるように、このいずれかの交わりを破る者は同時に、もう一つの交わりを破ることにならざるをえないのです。
さて、バベルの物語がこのように二つの交わりの破綻を伝える物語だったとすれば、聖霊降臨とはそれとは逆に、神と人間のコミュニケーションが回復され、同時に人間と人間のコミュニケーションが回復されていくことを示す物語であるといえるでしょう。
神はこのペンテコステの日に、聖霊を通し、弟子たちの唇を通して、再びご自分の御心を人々に語り伝え、人間と神との交わりを再建し、また神の愛のもとに人と人との交わりを回復するわざに着手されたのです。
このような働きはすでに、イエス・キリストによって開始されていたものですが、このペンテコステの日以来、弟子たちもまたそのようなイエスさまの働きに参加し、それを引き継ぐことになったのです。イエスさまを通して働いていたのと同じ力が、聖霊を通して弟子たちの上にも働くことになります。聖霊を通して、イエスさまと弟子たちはつながり、イエスさまとつながっている弟子たちは、そしてわたしたちもまた、イエスさまと同じ働きを担うことになるのです。
わたしたちが建てようとしているものはもはや、バベルの塔ではありません。人間の技術や能力に依存して神に成り代わること、あるいは無目的・無制限に自分たちの力を振りまわすことが、わたしたちの目指すものではありません。わたしたちが目指すことは、自分のために「高さ」や「大きさ」や「強さ」に達することではなく、イエスさまご自身の生涯がそうであったように、むしろ「低さ」や「小ささ」や「弱さ」に注目し、皆が共に生き、皆が互いに支え合うような「交わり」「集い(エクレーシア)」―教会を建てることです。
■相手を大切にする
使徒言行録にこう記されています。
「すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(二・四)
「そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか』」(二・六~八)
注目いただきたいのは、神と人との交わりの回復、人と人との交わりの回復を実現するために、神がいろいろな言語、それぞれの人の使う日常的な言葉を用いようとされたという事実です。逆をいえば、このとき神は、かつてバベルで起こった言語の混乱、その結果として生じた交わりの破綻を修復し、再建するために、それらの言葉をもう一度ひとつにまとめあげ、統一した言語、統一した手段を用いることによって交わりを実現しようとはされなかったということです。
交わりの回復とは、単なる過去の再現にとどまるものではありません。「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、すべてのものの父である神は唯一」(エフェソ四・五~六)であるとしても、福音が宣べ伝えられる言葉はさまざまであり、その手段もまたさまざまです。そしてそれは、偶然そうなったということではなく、神ご自身がさまざまな言葉を用いることを「良し」とされたことの結果なのです。神は、唯一の統一的な手段を通してではなく、多様なかたちによって、福音がそれぞれの人のもとに届くことをお望みになったのです。
このことは、わたしたちが福音宣教ということ、交わりということ、そして教会形成ということを考える上で、とても大切な示唆を含んでいるように思います。弟子たちがさまざまな言葉を使うのは、相手に分かる言葉で語りかけようとするからです。一人ひとりの心に届く言葉で語りかけようとするからです。そこでは、語り手ではなく聞く人が中心であり、聞く人そのものが大切にされます。
振り返ってみれば、これまでのキリスト教の歴史において福音宣教といえば、いろいろな人々を一つの信仰の基準によって統一すること、洗礼を授けて教会に加入させること、さらには自分たちのやり方に固執したまま、相手にばかり変わることを求めるという面が強かったのではないでしょうか。
しかし、聖書に記されるイエスさまの姿、またペンテコステやその後の弟子たちの姿を見る限り、同じ一人の神の恵みが、さまざまなかたちで現れ、同じ福音のメッセージが、さまざまなかたちで伝えられていった、と言えるのではないでしょうか。さらには、そうした福音宣教は、単に言葉を通してだけでなく、癒しを必要とする人には癒しを、食べ物を必要とする人には食べ物を、そして交わりを必要とする人には交わりを…というかたちで、具体的に、多様なかたちで進められていったのではないでしょうか。
聖霊の力は、こうしたさまざまな場面において、響き合うように相手に対するこまやかな配慮と優しさに満ちた働きとしてその姿を現します。わたしたちもまた、わたしたちの人生の歩み、信仰の働きにおいて、こうした聖霊の働きを祈り求めながら交わり合い、歩みつづけていきたい、そう心から願う次第です。祈ります。
