小倉日明教会

『へりくだった心』

フィリピの信徒への手紙 2章 1〜11節

午後3時00分〜

2026年1月25日 降誕節第5主日礼拝

フィリピの信徒への手紙 2章 1〜11節<br />

『へりくだった心』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 13 みつかいとともに 応答 起立
招   詞 詩編 98篇 1節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 280 馬槽のなかに 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

フィリピの信徒への手紙 2章 1〜11節

                                         (新約p.362)

啓示 着席
성  경 빌립보서 2장 1〜11절
New Testament The Letter of Paul to the Philippians 2:1-11
圣  经 腓立比書 2章 1〜11段
讃 美 歌 513 主は命を 応答 着席
説   教

『へりくだった心』

       沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 543 キリストの前に 応答 起立
祝   祷       沖村 裕史 牧師 啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■謙遜の受けとり方

 今日の手紙の箇所を読んで、すぐに思い浮かべたのは「謙遜」という言葉です。「謙遜」という言葉の受けとり方は、たとえば世代によってかなり違うのではないでしょうか。

 年輩の世代にとっては、謙遜は美徳そのものでしょう。人から尊ばれる十分な資格があるのにそれをおくびにも出さず、ひたすらただの人であるかのようにふるまう生き方は、その世代の人から見れば、日本に暮らす人々に代々受け継がれてきた、奥ゆかしい理想の生き方です。ところが今の世の中は、人も国も、誰もが背伸びをして自分を実際以上に見せようとし、自分を実力以上に高く売りこもうとしている、そこに人々の和が、調和や平和が生まれないのは当然だ、と年輩の人は考えるかもしれません。

 若い世代にとってはしかし、そうした言い方は何か疑わしいもののように見えるかもしれません。年輩者は謙遜を押しつけることによって、若い者の口を封じようとしているのではないか、謙遜の美徳は権力者の支配を容易にするための道具立ての一つに過ぎないのではないか、謙遜は個人的な道徳のレベルでは美徳であるかもしれないが、社会的には抑圧的な役割しか果たしえないのではないか。こういう若い世代にとっては、他人に臆せずに自分の主張を率直に語り、他人に気がねしないで自分の正しいと思う道を勇敢に歩むことこそが、真に人間的な生き方であって、たとえそこに一時的な混乱が引きおこされることがあったとしても、そのことを許容できる関係、社会を作ることこそが大切なことだ、ということになります。

 こうした「謙遜」に対する考え方の違いは、何も世代だけでなく、都市と地方の違い、またそれぞれの価値観や性格による違いなのかもしれませんが、そのいずれであれ、人によって異なっている以上、この「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさいというパウロの勧告の受けとり方も、人それぞれに違うのだろうと思います。

 謙遜を積極的に評価する人は、自分たちが大切と考えている生き方をパウロもまた重要視していると受けとるでしょう。謙遜の美徳は東洋に古くからある考えですが、その東洋古来の美風はキリスト教の生き方とも一致していると意を強くするかもしれません。他方、謙遜を積極的には評価しない人にとっては、この勧告は古い道徳訓としか映らないかもしれません。そしてパウロは、この点、その時代のものの考え方の制約を打ち破ることができなかった、自由の福音を語りながら、それを実際の社会生活の場で展開する指針を示すことに失敗した、彼は古い価値観に縛られた俗物に過ぎない、とみなすかもしれません。

■キリストのへりくだり

 しかし、パウロを味方とするとしても、批判の対象とするにしても、あまりに性急に結論を出すことは、適切ではありません。パウロは今、わたしたちが普段考えるような、美徳としての謙遜を勧めようとしているのでしょうか。

 わたしたちが普段、謙遜を口にし、実際に謙遜に振舞おうとするとき、そこに信仰は必ずしも必要ではありません。事実、世の中には平均的なクリスチャンよりもはるかに謙遜な人がいますし、逆にクリスチャンの中に、謙遜という言葉で形容するのにどうも適当と思えない生き方をしている人がいないでもありません。

 しかし、パウロが今ここで勧めている「へりくだった心」は、そのような謙遜と無関係ではないかもしれませんが、しかしそれと全く同じというのでもありません。彼がここで文脈を突然破って、「キリスト賛歌」と呼ばれる、イエス・キリストがどのような道を歩まれたのかを詳しく語っていることに注意してください。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

 神と等しいキリストが、神と等しい身分を捨てて人間となった、しかも犯罪人として処刑されてその生涯を終えた。その事実を語りながらパウロは、何よりもキリストは「自分を無にして、僕の身分になり」と説明しています。このキリストの生き方こそが、まさに「へりくだった心」の典型だ、と彼は言うのです。

 しかし、控え目に他人を立てて生きている限り、世間でいう意味での「謙遜」な生き方を続けている限り、人は軽蔑されることはあるかもしれませんが、犯罪人として処刑をされるということなど、どんな専制君主の治める国であっても、まず絶対といっていいほど起こり得ません。キリストのへりくだりの生が、世間のいう謙遜とは違うことを最もはっきり示しているのは、キリストが十字架上で処刑されたという事実、この一点にあります。。

■へりくだりを恐れる

 では、この違いはどこからきているのでしょうか。

 キリストが十字架の刑を受けて死んだということは、彼のへりくだりがこの上もなく徹底したものであったことを示す「しるし」ともいえます。しかし、十字架はそれと同時に、むしろそれ以上に徹底して、自分を無にし、おのれをむなしくする生を生きたキリストが、まさにそのことのゆえに自分の身に引き受けなければならなかった「運命」でした。そして何よりも、徹底してへりくだった生き方をしたキリストに対して、わたしたちが下した「処分」でもありました。

 キリストが神の位置を捨てて、おのれをむなしくするとき、それはわたしたち人間に「恐れ」を巻き起こします。それは決して敬虔な気持で、おそれ多いことだという思いから起こる、そのような恐れではありません。むしろ、自分の今、立っている足場が崩されるのではないかと直感的に感じとって、人はキリストのへりくだりを恐れるのです。

 キリストが神に等しいものとして、天上で栄光に輝いて坐していれば、問題は何もありません。しかし、キリストがおのれをむなしくして、神の地位を去ったとき、それも徹底した仕方で、人間の社会の最下層に位置する徴税人や罪人と蔑まれている人たちの理解者となり、友となり、仲間となったとき、わたしたちは、それは困る、と思うのです。遠くから見れば美談であっても、わたしたち自身の生活の場で行なわれては、迷惑だ、と感じるのです。

 適切な例ではないかもしれませんが、誰か奇特な人が財産を投げ出して、どこか遠いところに、たとえば障害を持っている人のための施設を作ったとしましょう。もちろん、そのことに反対をする人はいるはずもありません。余裕のある人たちは経済的な援助を申し出るかもしれません。誰もがそれはよいこと、立派なことだと考えるでしょう。

 しかし、もしその施設が自分の住んでいるすぐ近くにできるということになれば、人はどのような反応をするでしょうか。そういう施設ができては、町の雰囲気が壊れると思う人が出るでしょう。何もこの住宅街の真中に作らなくとも、と考える人が出るでしょう。やがて反対運動が組織され、そういうことを迷惑な、人の常識を欠いた人物、売名を狙う蔑むべき人物として、排斥されるということにもなりかねません。

 このような反応の仕方は、はたから見れば自己中心的ということになるでしょう。しかし、自分自身が当事者になったとき、わたしたち自身もまた、おそらくは同じような反応を示すのではないでしょうか。最後になると結局は、自分の権益、自分の地位身分の安全を優先して考えるようになり、皆、ある程度の教養がありますから、自分の地位や権利を傷つけられたくないなどとむき出しに言ったりはしないでしょうがしかし、いろいろな大義名分を持ち出しては、それらを守るのに懸命になることと思います。建前と本音の区別は、わたしたちの間ではむしろ日常茶飯事です。総論賛成各論反対という態度は、わたしたち自身がしばしばとる態度です。

 わたしたちは決して、神と等しいと呼ばれるような、高い身分のものではありません。せいぜい、世間並みの身分に過ぎません。しかし、そのような者であっても、それを捨てて自分をさらに低くするということは、それも自分の一生を貫いて、それを行うということは、わたしたちには耐え難い損失と映ります。わたしたちは、へくだりの生を本能的に避けます。自分が避けるだけでなく、そういう生き方をする人が近くにいれば、それを何とかして亡き者にしようとします。はたでそのような生き方をされては、自分の足場が不安定にされることは、目に見えているからです。

 キリストのへりくだりはその意味で、わたしたちの本性からすれば、はなはだ迷惑なことでした。そう、わたしたちはそれを自分たちに対する犯罪行為と見なし、彼を十字架につけたのでした。

 世にいう謙遜は、人にほめられはしても、嫌われることはありません。しかし、キリストのへりくだりは、このわたしたち自身にとって、危険で迷惑なことだったのです。。

■祝福された人生

 しかし、わたしたちはキリストに向かって、あのような生き方をされたのでは迷惑だと言おうと思って、今ここに集まっているのではありません。

 私事で恐縮ですが、聖ヨハネ病院の緩和病棟に転院した母の病室をほぼ毎日のように訪ねると、決まって母が、なぜか怒っている夫の夢を見た、今日は義理の妹がゴロゴロと転がっている夢を見た、昨日は弟が餅をついている夢を見たと訴えます。夢に出てくる人は皆、死んだ人ばかりです。どうしようもない不安と恐れにとらわれている様子です。ただ、そうかそうかと頷き返しながら、ふとカトリック信徒の文筆家、若松英輔の「よろこびの花」という一文を思い出していました。

 「ある日、不思議な夢を見た。すでに受容できたと思っていた悲しみも、心の奥ではまだ、受け止められておらず、これからも自分は事あるごとに苦しまねばならない、という夢だった。夢であることは分かっている。しかし、夢なのだが、起き上がるちからをそぐような威力を持っていた。

 不思議だと思ったのは、容易に立ち上がれないほどの衝撃を受けながら同時に、夢のなかの無意識がまったく別な光景を感じ取っていたことだった。胸が苦しくなるような悲しみの襲来を経験しながら私は、同時にそれとはまったく異なるものの存在をはっきりと感じていたのである。

 夢では時折、賢者が言葉を超えたもう一つのコトバを語る。姿の見えない叡知の人はこう語っているようだった。

 『どうしてもお前は、悲しみの底まで来なければならなかった。その奥にこそ、慰めの泉があるのだから。水はけっして涸れない。お前は、ここから汲みとったものを、人々に手渡していかねばならない』

 真のよろこびは、かなしみという扉の奥にある。こうしたことは、どんな辞書を調べても記されていないが本当だ。

 人生においては、かなしみの道の果てに、気高く咲く一輪の花のように『よろこび』が待っていることもある」

 「どうしてもお前は、悲しみの底まで来なければならなかった。その奥にこそ、慰めの泉があるのだから。水はけっして涸れない。お前は、ここから汲みとったものを、人々に手渡していかねばならない」とは、キリストがわたしたちに語りかけてくださっている慰め、励ましの言葉ではないでしょうか。

 わたしたちの世界で通用している常識からすれば、キリストの、あのような生き方は悲劇を通り越してもはや喜劇であると同時に、はた迷惑であることを十分承知した上で、しかしわたしたちは、あの生き方に何か惹かれるものがあって、ここに集まっています。あのような生き方を目の前に突きつけられて、自分のためばかりを思い、自分の地位を高めることにばかりに心を痛めてきた今までの生き方が、何かこの上もなく味気ないもの、むなしいものと見えてくるからです。

 あの生き方の中にこそ、本当の生き甲斐があるのではないか、真に祝福された人生があるのではないか、と思えてくるからです。わたしたちは、あのような生き方に踏みこむには、自分はいかにも勇気に欠けている、無力だと自覚していますが、しかしできることなら、少しでも自分もあの生き方に近づきたいと願って、ここに集まっています。

 あの生き方をすでに完成されたキリストが、たとえどんなにたどたどしくとも、その後について行くことをわたしたちに赦してくださり、可能にしてくださるにちがいない、と確信するからです。へりくだった心を持つようにというパウロの勧告の中に、苛酷な命令ではなく、恵みに満ちた招きを聞きとるからです。

 今、わたしたちは、御子キリストの誕生とその歩みに思いを馳せる「降誕節」の期節を過ごしています。主の降誕とそれ以降のこの世での歩みが、わたしたちにとってなぜ記念すべきものであり、なぜ喜ばしいのでしょうか。それは、それがへりくだりの生の始まり、へりくだりの生そのものだからです。

 主のへりくだりの生がわたしたちを不安にし、反抗へと追いやったこと、そしてわたしたちがついにはその生を生き抜かれたキリストを十字架につけたことを忘れて、この期節を過ごすわけにはいきません。それにもかかわらず、エピファニー、公現節とも呼ばれるこの期節は、わたしたちにとって記念すべき、また実に喜ばしいときです。クリスマスによって始まった、へりくだりの生にこそ、人生の真の祝福、真の喜びがあるからです。

 へりくだった心を持って、へりくだりの人生を生きよ、その道は開かれている、という招きの声をしっかりと耳におさめながら、今年も共に歩み続けたいと心から願う次第です。