小倉日明教会

『わたしは福音を恥としない』

ローマの信徒への手紙 1章 16〜17節

午前10時30分〜

2026年4月19日 復活節第3主日礼拝

ローマの信徒への手紙 1章 16〜17節

『わたしは福音を恥としない』

【奨励】 川辺 正直 役員

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 4 世にあるかぎりの 応答 起立
招   詞 詩編 71篇 1〜3節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 336 主の昇天こそ 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

ローマの信徒への手紙 1章 16〜17節

                                               (新約p.273)

啓示 着席
성  경 로마서 1장 16절〜17절
New Testament The Letter of Paul to the Romans 1:16-17
圣  经 罗马书 1章 16〜17段
讃 美 歌 356 インマヌエルの主イェスこそ 応答 着席
奨   励

『わたしは福音を恥としない』

         川辺 正直 役員

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 447 神のみこころは 応答 起立
祝   祷

平和の挨拶

司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。

会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【奨 励】                       役員 川辺 正直

■『毎日かあさん』 西原理恵子(さいばら・りえこ)

 おはようございます。『毎日かあさん』という人気漫画で知られる西原理恵子さんのその生い立ちはどん底だったそうです。実のお父さんはアルコール依存症で、西原さんがお腹にいる時に、お母さんは暴力から逃れるために離婚しました。西原さんが6歳のときに、お母さんは再婚しますが、その相手は根っからのギャンブル依存症だったのです。西原さんは高校在学中にディスコと煙草で1週間の停学処分を受けていましたが、高校3年生の時、友人とスナックでの集団未成年飲酒がばれて退学になってしまうのです。西原さんの地元ではどこの家を見ても、お父さんがお母さんを殴っていて、大人が子どもを殴っていました。西原さんは、『ちゃんと勉強して、一流の美大に行きたい』と方向転換し、大検に合格し、ここから逃げ出せば違うところに行ける、東京に行けば違う人生を送れると考えたそうです。『このままここにいたら自分が殴られるようになってしまう』とも考えたそうです。当時、お母さんが働き者でお金を稼いでいたのですが、お父さんが全部取りあげてしまっていました。西原さんが上京して美術大学を受験する前日に、ギャンブルと借金で、お父さんが首を吊って死んでしまうのです。西原さんがあわてて葬儀に駆けつけると、お母さんの顔はボコボコに腫れ上がっていたそうです。西原さんのために用意してくれたお金を、お父さんに『出せ』と迫られて殴られたのです。それでもお母さんは、死守した全財産140万円のうち、100万円を、西原さんの上京費用として渡したのです。西原さんはお母さんが死守してくれた100万円を持って上京するのです。

 当時の美大は競争率が高くて、専門の予備校で徹底的に勉強する必要がありました。インターネットがない時代でしたから、上京して予備校に入って、初めて東京のレベルを目の当たりにしたときは、足がすくんだそうです。予備校でデッサンを練習しても、西原さんはずっと最下位であったそうです。美術というのは、最初は描いた本人も何点なのか見当がつかないのです。それが本格的な勉強をしたら、なぜ自分が最下位なのかを理解できるようになったそうです。理解すると、もっと深い絶望がやってくるのだと言うのです。都会の女の子のキレイさにもびっくりしたそうです。西原さんは、バイトに行くために、都心の銀座線とか丸ノ内線に乗ると、歳も近そうなのに、映画から出てきたような綺麗な服を着て、垢抜けた子や知的な女性たちがいるのだそうです。自分はボロボロの服を着て、のり弁ひとつを1日3食に分けて食べていたのに、『どうやれば、ああなるのだろう?』と、また絶望していたのだそうです。

 予備校入学の1年後、絶対に無理だと思っていた武蔵野美術大学(ムサビ)造形学部視覚伝達デザイン学科に合格し、入学することができたのです。なんとか大学には受かったけれど、最初の共通デッサン会で、課題を仕上げて顔を上げた瞬間、一目で『やべ、ダメだ』って分かったそうです。ぜんぜんレベルが違う。勝負できないとこに来たということが分かったそうです。しかも、上には院生もいるし、更にレベルの高い大学もあるのです。

 世の中には、明らかに自分より才能のある人たちがひしめいているのです。この大学で、東京で、イラストレーターとか、デザイナーとか、ましてや芸術家にはなれないなというのが、西原さんが大学に入って、最初に感じたことだったのです。でも、自分の立ち位置が分かると、冷静にこれからどうするかを、西原さんは考え始めたのだそうです。下手くそでも、西原さんは絵で仕事がしたかったのだそうです。それじゃあ、美術大学の周囲の人たち、芸術家たちが行かない場所に、西原さんは行こうと考えたのだそうです。そこで、西原さんが考えたのが、成人向けの雑誌であったそうです。成人向けの雑誌は、急に漫画家が消えたりして、ページが余りがちなのだそうです。西原さんがそこへ売り込んだら、カット描きの仕事がもらえた。それをずっと続けたのだそうです。そのうち、ちょっとしたお話を描いたら、『面白いねえ』って褒められて。今まで何かで褒められたことなどなくて、西原さんはびっくりしたそうです。

 そして、初めて『連載する?』と言われた帰りは、西原さんは嬉しくて、嬉しくて、電車に乗っている間ずっとニコニコ笑っていたそうです。絵を描いてお金をもらうのが西原さんの目標でしたから、冴えなくて、文無しで、田舎から出てきた才能のない女の子ではなくて、東京で名前の知れた成人向けの雑誌の連載を持っている、ちょっと変わった女の子になれた瞬間であったそうです。その時の喜びや嬉しさは、やっぱり、格別であったと、西原さんは語っています。そんな仕事を続けるうちに、青年誌の編集者から声がかかって、それからは漫画人生であったそうです。仕事に関しては、西原さんはずっと恵まれていて、素晴らしい方々に可愛がってもらったし、守ってもらいましたと語っておられます。

 この世ではどんな人が価値ある人だと言われるのでしょうか。勉強ができる人、成績が良い人、能力の高い人、美しい人、役に立つ人。そのようなこの世の物差しでの評価は、確かにある面での実力を測る物差しにはなっているとは思いますが、全部この世の限界のある人間の見方だと思うのです。しかし、神様は私たちをそのままで価値ある存在だと見て下さっているのです。なぜかと言いますと、天地万物をお造りになった神様が、私たちをお造りになったからです。全てをご存知で、絶対に間違ったり、しくじったりしない神様がお造りになった私たちという存在が、生まれて来ない方が良かった、恥ずかしい存在なんかであるはずがないことだと思うのです。

 本日の聖書の箇所の16節で、パウロは、『わたしは福音を恥としない。』と語っています。このパウロの言葉は、パウロが恥としていないということを非常に強調している言葉だと思います。恥と思わないとか、恥と思うとかいうのはどういう意味を持つのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■わたしは福音を恥としない

 さて、本日の聖書の箇所であるローマの信徒への手紙1章16節を見ますと、『わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。』とあります。本日の聖書の箇所の16〜17節には、ローマの信徒への手紙の主題あるいは結論が語られていると言うことができます。この後、この手紙で語られていく全てのことは、この16〜17節の説明であると言うことができると思います。今日は、この16節だけを取り上げて、お話したいと思います。16節は、先程お話しましたように、『わたしは福音を恥としない。』と書いてあります。現在、私たちが読んでいます新共同訳聖書では、15節と16節の間に段落を設けて、『福音の力』などという小見出しまで付けてしまうと、16節からは全く新しいことが語られているように感じられるかと思います。しかし、実際にはギリシア語の原文を見ますと、16節には『ガル』という、英語の『For』という言葉にあたる『なぜなら』という接続詞があるのです。従って、15節と16節とは『なぜなら』という接続詞によって、つながっていることが分かります。つまり16節は、新しいことを語り出しているのではなくて、15節までに語られたことの根拠、理由を語っているのです。15節までのところでパウロが語ってきたのは、ローマの教会を訪れ、そこでも福音を告げ知らせたいと願っているということです。それは1節にあったように、パウロが『神の福音のために選び出され、召されて使徒となった』からです。神様の福音を告げ知らせるという使徒としての務めをローマでも果したいとパウロは願っているのです。その願いを15節までに語ったパウロは16節で、『なぜなら、わたしは福音を恥としないからだ』と、その願いの根拠を語っているのです。ここで15節と16節がつながるのです。

 パウロはローマに行って、命がけで伝道したいと言っているのです。その理由は何かというと、彼は福音を恥としないからです。新共同訳聖書では、『わたしは福音を恥としない。』と訳されています。しかし、ギリシア語の原文では、最初に出てくる言葉は、『ウー』という『〜ことはない』という否定形の言葉なのです。私は何々と思わない、福音を恥とは思わないという構造になるのです。ですから、パウロが恥としていないという意識が、非常に強調されている文章なのです。例えば、恥と思うというのは逆に言うとどういうことでしょうか。恥と思わないとか、恥と思うとかいうのはどういうことなのでしょうか。パウロは、恥と思う、あるいは、恥と思わないという言葉をどういう意味で使っているのでしょうか。

 パウロが愛弟子テモテに送っている手紙があります。テモテへの手紙二の1章11〜12節を見ますと、『この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。』とあります。パウロは、主イエス・キリストを信じたことから、逆に苦しみに遭っています。それは信仰のない人から見れば愚かなことです。パウロは主イエス・キリストを信じ、異邦人の使徒となったために、そうでなかったら、会わなくてもいい苦しみにあっているのです。しかし、パウロはそれを恥とは思わないと言っているのです。むしろそのことを誇っているのです。なぜかと言いますと、パウロはこう言っているのです。『というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。』と語っているのです。『自分が信頼している方』が必ず私に最善をしてくださるからだと言っているのです。恥としないというのは完璧な信頼を置いている、誇りとしているということです。ですからパウロは、私は福音を恥としないと言った時には、そこに完璧な信頼を置き、それを誇りとしている、という強い確信のもとに、その言葉を語っているのです。

 そこには、パウロがそう言わざるを得なかった理由があるのです。コリントの信徒への手紙一、1章22〜23節を見ますと、『ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、』と書かれています。パウロが出て行った、当時の世界というのはローマ世界です。つまりギリシャ人、あるいはローマ人の世界です。また、パウロが真っ先に福音を伝えようとしたのは、同胞のユダヤ人です。ユダヤ人は、何を要求するのかと言いますと、印を見せてくれと言うのです。パウロは、ユダヤ人からは軽蔑されているのです。ユダヤ人は、あれだけ奇跡を目にしながら、主イエス・キリストに対しても印を要求したのです。ですから、ユダヤ人にとっては、主イエスの十字架での死は、呪いの死であり、つまずきなのです。それ故、パウロはユダヤ人から迫害されたのです。

一方、ギリシア人はどうでしょうか。この中にはローマ人も含まれている異邦人のことです。ギリシア人とローマ人は知恵を追求します。そして、ローマ人は、知恵に加えて力も追求したのです。知恵と力を追求する。現代の覇権国家のあり様に似ていると思います。現代人は一般的に何を追求しているかと言いますと、最近の若い人は必ずしもそうとも言えない人もいるかと思いますが、高い地位につくこと、人々を指導する地位につくこと、お金をたくさん儲けること、そう考える人が多いのではないでしょうか。そういう人から見ると、十字架の死は愚かそのものです。ですから、パウロがアテネで伝道した時に、基本的には反発されることもなく、完全に無視されたのです。私たちは、いつもこの社会から無視されていますと、そのうちに自分が虫のようにつまらないものに思えてくるのだと思います。そのような文脈の中で、パウロは、『わたしは福音を恥としない。』と言ったのです。パウロがこのような言い方をしているということは、パウロの中にも、福音を恥とする思いが自分の中にあることを意識し、その思いと戦っていたということだと思います。特にローマという、この世の権力と支配の中心であるような文明都市の只中で、伝道しようとした時に、ともすれば福音を恥じる思いに捉えられてしまいそうになることを、パウロ自身感じていたのだと思います。私たちが置かれているのも、パウロが生きたローマと同じような状況だと思います。そういう恐れや不安に打ち勝って、『わたしは福音を恥としない。』と言えなければ、信仰を持って生きることも、伝道することもできないのだと思います。

■福音の力

 本日の聖書の箇所の16節の後半には、『福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。』とあります。パウロはここで福音の定義をしていません。それはどこにあるかと言いますと、コリントの信徒への手紙一15章の3〜8節にあります。最初の3〜4節を見ますと、『最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、』とあります。これが福音のエッセンスです。このことを受け入れて、そのようなお方として主イエス・キリストを信じることが、福音の3つの要素なのです。

 また、このローマの信徒への手紙1章2〜4節を見ますと、『この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 01:04聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。』とあります。神様の独り子である主イエスが、ダビデの子孫としてこの世に、人間となって来て下さり、十字架の死と復活によって、私たちのための救いのみ業を実現して下さったということです。つまり福音の中心は神の独り子主イエスの十字架の死と復活です。そこに、信じる者すべてに救いをもたらす神様の力が働いているのです。

 福音には、力があるのです。パウロは福音の中に神様の力が内在していることを確信していました。福音は、主イエスに関することです。福音は、主イエスを通して成し遂げられたことです。幾多の困難を乗り越えて、伝道を行ったパウロは、この福音に全幅の信頼を置いていたことと思います。それでは、現代を生きる私たちにとって、福音はどのようなものとして迫ってくるのかということを次に考えたいと思います。

■伊沢記念男(いざわ きねお)牧師

 茨城県の水海道市に、先天性の小児麻痺であられる伊沢記念男という先生がおられました。伊沢先生が少年の頃、周囲の者たちからあざけられ、非常に絶望されたのです。両親を非難し、両親を悲しませ、痛ませる発言をし、自暴自棄になって、何回も自殺しようとされました。ある時、お坊さんの所へ行き、どうしてこんなことになったのですかと尋ねますと、先祖が悪いから、先祖供養をしなさい、諦めなさい、と言われ、何の解決にもならなかったそうです。

 18歳の時、他の人が秋祭りで騒いでいる夜、絶望のあまり、鉄道自殺をするために、線路に横たわっていると、その時遠くの方から歌が聞こえてきました。『彷徨(さまよ)う人々立ち返りて天つ故郷の父を見よや、罪とがを悔やむ心こそは、父より与うる賜物なれ』という歌詞の歌でした。誰が歌っているのだろうと不思議に思って、這うように歌の方に近づいたところ、それは教会の路傍伝道のグループでした。伊沢先生は、その晩教会に導かれ、牧師の説教を聞きました。その説教が、『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』とのお話しであったのです。伊沢先生は、主イエスを信じるようになりました。そして、ホーリネス教団の東京聖書学院で学ぼうとされたのですが、障がい者なので何回も拒まれたそうです。ある日、ある山の上で修養会が行われているということを聞かれて、手足を血まみれにしながら階段を上って、修養会に出席されたのです。そして、その熱意に打たれて聖書学院での学びが許されたそうです。ところが、いざ卒業という時に、どこも招聘してくれないのです。どこにも牧師としての行き場がないのです。それで、自分の郷里で郷里伝道をすることを決意されたのです。しかし、そのことが知れ渡ると、新聞などで悪口を書かれ、非常に迫害があったそうです。しかし、伊沢先生はそこで伝道されて、教会を設立されました。主イエスを信じて救われた人たちの中で、障がいがあるために、仕事が出来ない、仕事が無いという人々のために、段ボール会社を設立し、その地域で豊かに用いられていったのです。重い障がいを負いながらも、伝道を続けられて行った伊沢先生の姿に、私たちは福音の持つ力強さを見ることができるのではないでしょうか。

■信じる者すべてに救いをもたらす神の力

 パウロは、主イエスの十字架での死と3日目の復活は、神様を信じるユダヤ人にとっては、躓きの出来事であるとよく分かっていました。この世的には、神様に最後まで従い続ける者の姿として、木の十字架に架けられて殺された姿は、呪われた者の姿です。愚かな敗北者の姿にしか見えなかったのです。パウロはそのことをよく理解した上で、コリントの信徒への手紙一の1章18節で、『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。』と語っているのです。主イエス・キリストに於いて示された神様の福音の出来事は、知識や教養では理解することのできないものであると思います。神様の福音の出来事を実体験した人でなければ、味わい知ることのできないものであるとパウロは承知していたと思います。ですから、パウロは、『わたしは福音を恥としない。』(16a節)と語るのです。一度や二度の体験ではなく、日々新たに新しくつくり変えられていく恵みの体験であることから、パウロは『福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。』(16b節)と断言するのです。私たちは、パウロが語る主イエス・キリストの福音の持つ力を信じて、主イエスが今もなお、私たちが様々な苦難や不幸に見舞われたときも、共に傍にいて、働き続けて下さることを信じて、歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。