小倉日明教会

『死に値する罪と神による引き渡し』

ローマの信徒への手紙 1章 24〜32節

午前10時30分〜

2026年6月7日 聖霊降臨節第3主日礼拝

ローマの信徒への手紙 1章 24〜32節

『死に値する罪と神による引き渡し』

【奨励】 川辺 正直 役員

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 11 感謝にみちて 応答 起立
招   詞 イザヤ書 44章 20〜22節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 87 罪なき小羊 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

ローマの信徒への手紙 1章 24〜32節

                                                        (新約p.274)

啓示 着席
성  경 로마서 1장 24절〜32절
New Testament The Letter of Paul to the Romans 1:24-32
圣  经 罗马书 1章 24〜32段
讃 美 歌 225 すべてのものらよ 応答 着席
奨   励

『死に値する罪と神による引き渡し』

         川辺 正直 役員

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 361 この世はみな 応答 起立
祝   祷

平和の挨拶

司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。

会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【奨 励】                  役員 川辺 正直

■ソポクレス著 『オイディプス王』

 おはようございます。紀元前5世紀に、ソポクレスという人が書いたギリシャ悲劇の最高傑作と謳われる戯曲に、『オイディプス王』という作品があります。この物語を簡単に紹介しますと、古代ギリシアの都市国家テーバイの王ライオスは、デルファイ神殿で『汝の子が汝を殺し、汝の妻との間に子をなす』とのアポロンの神託を聞いてしまうのです。ライオス王は産まれた子の両のくるぶしを留め金で刺し貫いて(つまり子供が生き延びないよう足を負傷させて)、子供の殺害を家臣に命じるが、家臣はそっと子供を山中に置いてくるように部下に指示したのです。この部下は子供を哀れに思い、羊飼いの夫婦に子供を預けたのです。この羊飼いは、この子をさらに子供のなかったコリント王に献上し、くるぶしに傷があることから子供に『オイディプス(踵に傷がある者)』と名付けたのです。この男の子が、戯曲『オイディプス王』の主人公なのです。オイディプスは、周囲から自分がコリント王の実子ではないとの噂を聞き、コリント王と王妃に尋ねましたが、回答は得られなかったのです。そこで、オイディプスは神託を受けに行きますが、そこで得られたのは、『父親を殺し、母親を娶って子をなすであろう』という神託であったのです。父であるコリント王を敬愛するオイディプスは、神託が実現しないようにと、自らコリントを離れるのです。

 その頃、都市国家テーバイではスフィンクスと呼ばれる怪物が現れるようになっていました。この怪物は旅人を捕らえて、『朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か』という謎を出し、解けない者を殺して食べていたのです。テーバイ国のライオス王は、この怪物に対処せんとしてデルフォイのアポロン神殿へと向かいます。しかし、その道中、彼は三叉路で旅の者とも盗賊とも知れぬ男と出会い、行き違いからその男に殺されてしまいます。一方、コリントを離れたオイディプスは怪物スフィンクスに出会い、謎々を投げかけられます。しかし、オイディプスは『それは人間だ。人間は赤ん坊の時には四足で這い回り、成長すると二足で歩き、老年になると杖をつくから三足になる』と見事に答え、スフィンクスを退治することに成功しました。オイディプスは王を失って混乱するテーバイ国に、怪物を倒した英雄として迎えられ、摂政クレオンによってテーバイ国の王座に就き、ライオス王の妻であったイオカステを娶りました。2人の間には、男女それぞれ2人ずつの子どもが生まれることになります。

 しかし、オイディプスがテーバイの王になると、不作と疫病が続くようになります。苦しむテーバイの民を助けようとしてオイディプスは、デルフォイ神殿に神託を聞きに行くと、『不作と疫病はライオス王殺害の穢れの為である。殺害者を処刑するか追放しなければ、これは収まらない』という神託を神官が告げたのです。オイディプスはその下手人は誰なのかを問うが神官は答えないのです。オイディプスがなおも食い下がると、神官は『羊飼いに聞け』とだけ告げるのです。オイディプスは、真相を独自に調査させ、ついに羊飼いを自らのもとに呼び寄せたのです。そこで、実は自分こそがライオス王を殺害した犯人であると知り、同時に自分がライオス王の息子であることを知るのです。そして、さらには、愛妃イオカステが実は自分の母親であったことを知るのでした。この残酷な真相が明らかになることによって、王妃イオカステは絶望の中で自殺し、オイディプスは自分の目をえぐり出し、罪の償いをしようとして、摂政クレオンに自分をテーバイ国から追放するよう頼み、後娘のアンティゴネーと共に、乞食となって、旅に出るのでした。

 これが、『オイディプス王』という作品のあらすじですが、このギリシアの悲劇には、解決はないのです。それでは、天地万物造られた全知全能の創造主でありながら、私たち人間を愛してやまない神様は、私たち人間の罪の解決をどのように考えておられるのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■罪に陥っている人間

 さて、本日の聖書の箇所のローマの信徒への手紙1章24節を見ますと、『そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。』とあります。24節の冒頭で、『そこで』という言葉があるのが分かります。これはギリシャ語の『ディオ』という、非常に強い意味の接続詞が用いられています。ですから、新共同訳聖書の『そこで』という訳は弱く、『それ故』と訳す方が、この原文の強い意味をよく表現したものになると思います。つまり、先週お話しましたように、目に見えない神様のご性質に関する知識は、神様が造られた被造世界を通して、全ての人々に啓示されているのに、人間は神様のご性質に関する知識を拒否したというのです。ですから、24節の冒頭で、パウロは、『それ故』結果があるのだと語っているのです。従って、24節の冒頭の『それ故』という言葉は、そういう因果関係を表している言葉なのです。次に、着目したいのは、神様の沈黙ということです。24節の前半には、神様は彼らが何々『するにまかせられ、』という言葉が出て来ていることが分かります。この表現は、この後、何度も出て来るのです。神様は彼らが何々『するにまかせられ、』という表現は、英語訳の聖書ではGod gave them upと記されています。神様は、ギブ・アップしたとパウロは言っているのです。これは、神様は諦めたから、人間は何をやってもいいよというような単なる許可とか、あるいは単に神様は恵みを撤去したということではないのです。26節の前半でも、『それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました』、さらに28節の前半で、『彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、』とありますように、本日の聖書の箇所で、3回も『まかせられた』あるいは『渡され、』と訳された言葉は、『引き渡しました』という意味のギリシャ語の『パレドゥケン』という言葉が用いられているのです。つまり、神様が人間を引き渡したというこの記述は、法律的な意味での裁きを示しているのです。

 これは有罪宣言を受けて、〇〇に引き渡されたということなのです。そのときの〇〇が何かということを、これから見て行くことになります。この手紙を書いているパウロは、ファリサイ派のラビでした。ですから、パウロが、このローマの信徒への手紙で、真理を語るときには、その後ろで、膨大な旧約聖書の聖句が参照されていると考える必要があると思います。従って、パウロはここで、神様は彼らを〇〇に引き渡されたと語った時に、パウロはイザヤ書の64章の5節〜6節を思い浮かべていたと思います。イザヤ書の64章の5節〜6節は、有名な聖句ですので、お読みしたいと思います。『わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。/わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。//あなたの御名を呼ぶ者はなくなり/奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。/あなたはわたしたちから御顔を隠し/わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。』と記されています。ここでのキーワードは、『あなたはわたしたちから御顔を隠し』ということだと思います。イスラエルの罪があまりにも深くなって、神様が御顔を隠されたというのです。神様は罪人から御顔を隠された。それ故、神様を求めても、神様を見出すことができないので、やがて神様を求めることさえ諦めるというのです。

 神様は、あまりにも人間の罪が深いために、人間を〇〇に引き渡された。つまり、御顔を隠されたというのです。その結果、人間の罪はますます重くなっていくというのです。神様の怒りの絶頂は、罪を犯した人間をその心の欲望のままに汚れに引き渡すことだというのです。そして、心の欲望のままに汚れに引き渡された人間は、どうなったかと言いますと、『そのため、彼らは互いにその体を辱めました。』(24節)とありますように、神様との関係における霊的な混乱は、人間関係における性的混乱を引き起こすようになったとパウロは語っているのです。

■神の真理を偽りに替え

 次に、本日の聖書の箇所の1章25〜27節を見ますと、『神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。』とあります。パウロがこの手紙を書いていた時代、たとえばコリントという都市には、愛と美の女神アフロディテの神殿があり、約1,000人の巫女と称する神殿娼婦がいたと、古代の歴史家ストラボンが記録しています。それは、巫女たちと肉体的に交わることによって、女神アフロディテと一体になれると教えられていたからです。また、今、お読みしました聖書の箇所の26〜27節に記されていますように、同性愛が広まりました。当時のローマ世界では、レスビアンとかホモセクチャルなどは普通のことでした。当時、これがいかに一般的に広がっていたかを示す、事例があります。紀元前18年から19年にかけて、時の皇帝アウグストは同性愛禁止令を出しています。しかし、その同性愛禁止令を出した目的は、同性愛は罪だという観点から禁止令を出したのではないのです。皇帝アウグストは国民が同性愛に陥って、子供が生まれずに、人口減少に伴って、国力が低下することを危惧して、同性愛を禁止したのです。この禁止令を見てもいかに、文明が進んでいたと言われているあのローマ世界に於いて、同性愛という罪が蔓延していたかがわかります。

 この乱れは、人間が神様の真理を偽りと取り代え、創造主の代わりに、被造物を拝み、これに仕えたからです。パウロはこれらのことを評して、『その迷った行いの当然の報いを身に受けています。』(27節)と語っています。『その迷った行いの当然の報い』というのは何のことかと言いますと、罪を犯し続けていると、さらに罪が増し加わるということです。これが、神様による『引き渡しました』ということの結果なのです。人は神様の形に作られているのです。罪の中に留まり続けると、さらに罪が増し加わるというのは、さらに神様の形からは遠く離れた生き方になっていくということです。これが『その迷った行いの当然の報い』を受けるということです。一方、信仰によって生きている人には、恵みによって信仰が増し加わるのです。これもまた神様が与える結果であると思います。罪を犯す人にはさらに罪が増し加わり、恵みを求め、信仰によって生きる人には、さらに信仰が増し加わるというのです。このローマの信徒への手紙のこの箇所は、人間に対する有罪宣言ですので、いかに人間がどうしようもない状態になっているかということを、私たちは認識し、その問題に直面する必要があるのだと思います。その認識がなければ、その後の義人とされることに対する有難さというのは出てこないのだと思います。

■罪に引き渡された人間は

 本日の聖書の箇所の28節を見ますと、『彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。』とあります。神様による『引き渡し』が、次の段階に進むことで、『引き渡し』という裁きが、さらに深刻な段階に進むというのです。新共同訳聖書では、『神は彼らを無価値な思いに渡され、』と訳されていますが、ギリシャ語の原文を直訳すると、『神は彼らを堕落した思いに引き渡され』となるかと思います。パウロはここで、一気に、人間の状態がどういうものであるかということを書いています。してはならないことのリストが、29節から31節に記されています。これは罪のリストです。パウロは21もの人間の罪を列記しているのです。パウロはこれらの罪のリストを列挙することによって、人間の状態がどういう状態かということを、暴き出しているのです。これから読み上げる21のパウロが挙げている罪のリストで、1つも自分に当てはまるものがないという人がいたとしたら、それは全くの大嘘つきかと思います。1つでも思い当たる点があるという人は、罪人であると言うことができます。一点でも欠ける点があると、その人は完璧な神様の前では義人であると、自分を主張することはできないと思います。29〜31節を見ますと、『あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。』とあります。これがしてはならないことのリストです。神様は人間を堕落した思いに引き渡された、これが神様による『引き渡し』の状態なのだと思います。

 そして、32節を見ますと、『彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。』とあります。そのようなことを行えば、死に値するという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、他人の同じ行為をも是認しているのというのです。これが堕落の最後のステップだと語っているのです。

■罪の結果を味わっている私たち

 先週の聖書の箇所と本日の聖書の箇所に書かれていることを振り返ってみますと、3つのポイントがあることが分かります。まず、1つ目のポイントは、神様が造られた自然界の中に啓示があるということを認める必要があることだと思います。自然界を見て、天地をお造りになられたお方がいるということを認めることは、一般啓示として全ての人間に与えられていることなのです。ですから、弁解の余地は、無いのです。このことは、聖書が語っている重要なポイントです。一般啓示は、それだけで人間を罪に定める力のある、強力な神様からの啓示なのです。しかし、一般啓示は、神様がおられるということを認識できますが、人を救うことはできません。ですから、2つ目のポイントは、人を救うことができるのは、特別啓示なのだということです。特別啓示というのは、聖書の言葉であり、主イエス・キリストご自身のことなのです。

 3つ目のポイントとしては、神様の裁きの中には、神様による『引き渡し』という原則があるということです。これは今日の一番のテーマでした。つまり、神様は、あまりにも人間の罪が深いために、人間を罪に引き渡されるというのです。その結果、人間の罪はますます重くなっていくというのです。神様が私たちを罪に引き渡され、神様が私たちから御顔を隠されたときに、人は自分の罪の性質に仕えるようになると言うのです。そして、罪の性質に仕えるようになると、さらに深刻な罪に陥っていくようになるというのが、今日のテーマであったのです。神様が人間を罪に引き渡される。その結果、さらに人間は深い罪に陥ってゆく。だから神様は、さらに人間を罪に引き渡される。こうして、神様との関係がどんどん広がっていくというのです。

■主イエスを引き渡された神

 そして、本日お話したい4つ目のポイントというのは、福音により、罪にまみれた人間であっても、新たに生かされる可能性が残されているということです。神様が私たちを罪に引き渡されることによって、人間の罪に対する怒りを現された、そのことを主イエスを信じる信仰によって受け止めることによって、私たちの罪からの救いを与えて下さる神様の恵みもまた見えて来るのだと思います。24節の『そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、』の『まかせられ、』と、26節の『それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。』の『まかせられました』、さらに、28節の『神は彼らを無価値な思いに渡され、』の『渡され、』と訳された言葉は、いずれも『引き渡しました』という意味のギリシャ語の『パレドゥケン』という言葉が用いられているということをお話しました。

 つまり本日の聖書の箇所には、神様が人間を罪の結果へと『引き渡した』ということが3回に渡って、繰り返し語られ、強調されているのです。この『引き渡しす』という言葉は、このローマの信徒への手紙の8章32節にも出てきます。8章32節を見ますと、『わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。』と語られています。『その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、』という箇所の『渡された』という言葉もまた、ギリシャ語の『パレドゥケン』という言葉が用いられているのです。つまりこのギリシャ語の『パレドゥケン』という言葉は、父なる神様が独り子である主イエスを十字架の死に引き渡して下さり、主イエスの十字架によって私たちに罪の赦しを与え、救いを実現して下さったことを語る言葉でもあるのです。この言葉はまた新約聖書において、ユダがイエスを神殿の守衛たちに『引き渡した(裏切った)』場面や、ピラトが主イエスを群衆の要求に『引き渡した』場面でも用いられている、主イエスの十字架の死を語る重要な言葉でもあるのです。

 神様は人間を罪に引き渡し、無価値な思いに引き渡して、その悲惨さを味わわされましたが、それだけでなく、罪の悲惨さの中に取り残されている私たちのために、主イエス・キリストを死に引き渡し、それによって私たちに罪の赦しを与えて下さったのです。人間を罪に引き渡すことによって、私たちの罪に対する神の怒りが現されましたが、神はその怒りを私たちに代って背負う者として、主イエス・キリストを十字架の死に引き渡して下さったのです。

 本日、最初に、ソポクレスという人が書いたギリシャ悲劇の『オイディプス王』という作品には、父親を殺し、母親を娶って子をなしたオイディプスには、乞食となって、どんなに罪の償いをしようとしても、解決はないということをお話しました。

 しかし、主イエスの福音を信じる私たちは、聖書の福音を信じる信仰により、罪があってなお、神様の前に立つことを許されているのだと思います。私たちは、自分たちの罪の結果である悲惨さを味わい、神の怒りを恐れをもって覚えていますが、同時に、私たちの罪を私たちに代って、全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストを見上げ、主イエスが神の怒りを私たちに代って受けて下さったことを信じる信仰が与えられるという解決が、主イエスによって与えられているのだと思います。私たちは、主イエスの十字架と復活によってのみ与えられる神様の救いの恵みを、信仰をもって受け止め、主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。