| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 20 主に向かってよろこび歌おう | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | イザヤ書 49章 6節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 300 十字架のもとに | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
ローマの信徒への手紙 1章 8〜15節 (新約p.273) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 로마서 1장 8절〜15절 | ||
| New Testament | The Letter of Paul to the Romans 1:8-15 | ||
| 圣 经 | 罗马书 1章 8〜15段 | ||
| 讃 美 歌 | 416 神の民は | 応答 | 着席 |
| 奨 励 |
『キリストの福音への信頼のゆえに』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 500 神よ、みまえに | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■ヘレン・ケラーとジョージナ・クリーグ、そして、日本
さて、視覚障害を持つ作家であり、カリフォルニア大学バークレー校の英語講師でもあるジョージナ・クリーグ先生という女性がいらっしゃいます。作家としての活動の他に、大学では、英語学科におけるクリエイティヴ・ライティングのクラスに加え、障害者をめぐる文学表現および障害者自身による文献を研究するコースで教鞭をとられています。この経歴を聞くだけで、この先生が、大変な努力を重ねて、視覚障がいを乗り越えてキャリアを築いて来られたことが想像できます。このクリーグ先生が書かれた著書に、『目の見えない私がヘレン・ケラーに宛ててつづった一方的な手紙』という本があります。原題を『Blind Rage: Letters to Helen Keller』といいます。直訳すると、『視覚障がい者の怒り、ヘレン・ケラーに宛てた手紙』となります。クリーグ先生は、何に怒っているのでしょうか。
クリーグ先生は、子どもの頃から、『なぜ、もっとちゃんとヘレン・ケラーのようにできないの?』と、周りの人から言われていたのです。周りの人は皆、『自分は幸運だと思いなさいな。ええ、確かにあなたは目が見えませんよ。でも可哀想な小さなヘレン・ケラーは、目も見えなければ、耳も聞こえなかったのですよ。なのに、彼女は決して不平などは言ったりしませんでした』と言っていたというのです。
クリーグ先生は、こと細かにその日、ヘレンが何をしたのか、どういう状況の中にいたのかを調べ上げて、『この状況でヘレンがこう反応するのは、たしかに無理しているな』と思うようなシーンがよくあることに気がつくのです。クリーグ先生は、触ったり、匂いを嗅いだり、自分の体の動悸を感じたりというような、目が見えない人に特有の体験から、『どうしてヘレンがいい子ちゃんになったのか』という疑問を投げかけているのです。この本の冒頭で、クリーグ先生は、ヘレンが11歳のときに、ヘレンが書いた物語について、学校内で、教師たちに呼び出されて、行われた盗作疑惑裁判について細かく言及しています。この裁判は、『まずはあなたが知っていることをどのように知り、記憶していることをどのように記憶しているのですか?』という問いかけから始まったと記されているのです。目が見えないことに由来する質問です。しかし、クリーグ先生はその価値観は健常者たちがヘレンのような人たちを見た時に、自分たち自身から強く押しのけているのだ、とバッサリ切りつけています。障がいを持つ人たちの脳は刺激を欠いているので、発育が足りておらず欠陥だらけだ、と決めつけているのです。見たことがないものを想像できないと決めつけているのだ、と言うのです。この裁判が行われた頃、既にヘレンは学校の寄付の広告塔になるほどの有名人でした。この裁判は、本質的には、ヘレンへ向けての裁判ではなかったのです。本当は、他の教師たちが傲慢な態度のサリバン先生を追い出すためのものだったのです。
ヘレンはこのとき、『サリバン先生が追い出されると自分も困るし、先生も困る』と思って、ウソをつき通すのです。しかし、この事件はとても象徴的で、その後結婚にも、仕事にも、この共依存の状態が一生つきまとうことになるのです。つまり、先生に依存したい気持ちと、その先生が足手まといになるという状態が続くのです。
ヘレンは、その後ラドクリフ・カレッジ(現在のハーバード大学)を卒業し、出版した本もベストセラーとなり、あちこちで行われる講演会で引っ張りだこになります。大人になったヘレンは、知性も高く、いろいろなことに興味津々があり、人間が好きで、何でも経験したいヘレンと、厳格で上品さを大事にし、上流階級の人と交わりたいサリバン先生は、どんどん合わなくなって行くのです。そして、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、身体は強靭なヘレンと違って、サリバン先生は虚弱体質で、ヘレンより歳も上だし、激しい移動には耐え難かったことから、講演旅行先には制約があったのです。
そんなヘレンにとって、行きたくても、なかなか行けなかった国がありました。どこだと思いますでしょうか。日本なのです。実際に、ヘレンが遠い日本に初めてやってきたのは、サリバン先生が亡くなった後だったのです。なぜ、ヘレン・ケラーが日本に行きたかったのかと言いますと、それは江戸時代に活躍した国学者、塙保己一(はなわ ほきいち)がいたからなのです。塙保己一は、7歳で失明し、按摩・鍼・音曲などの修業を始めたが、不器用で上達せず、絶望して自殺しようとしますが、直前で助けられます。しかし、保己一は耳にしたことは全て記憶してしまうほど抜群の記憶力の持ち主で、その学才を見出されて、国学者となり、点字もない時代に、日本古来の貴重な古典文学や雑多な史料を全国から膨大に集め、後世に伝えていこうと666冊からなる国史国文の一大文献集『群書類従』を編纂・出版したのです。
昭和12年(1937年)に初来日した際、ヘレンは渋谷の温故学会を訪れ、お母さんから『日本の塙保己一先生はあなたの人生の目標となる方ですよ。』と教えられたことに触れ、次のように話しています。
『今日、こうして温故学会を訪問して先生の像に触れることができましたのは、日本の訪問の中で最も意義深いものでした。使い古された質素な机と、優しそうに首をかしげた先生の像に触っていると、先生のお人柄が伝わってきて、心から尊敬の気持ちがいっそう強くなりました。先生のお名前は、水が流れるように、永遠に後世に伝えられていくに違いありません。』
また、埼玉会館で開かれた講演会では、『私は特別の思いをもって、埼玉にやって参りました。それはつらく苦しい時でも、この埼玉ゆかりのハナワ・ホキイチ先生を目標に頑張ることができ、”今の私”があるからです』と話しているのです。
さて、現在、読み進めておりますローマの信徒への手紙は、今回で4回目となります。本日の聖書の箇所で、パウロは、行きたい、行きたいと願いながら、行くことができずにいるローマの教会の人々に、訪問する目的を語っています。パウロの行きたいという思いがどれほど切実で、ローマの教会の人々に福音を伝えることがどのような意味を持っているのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■ぜひ知ってもらいたいこと
前回に続いて本日も、ローマの信徒への手紙1章8〜15節を読んで行きたいと思います。前回はこの聖書の箇所でのローマの教会との関係の中の前半、1章の8〜12節についてお話しました。この8〜12節で、パウロに関して3つのことを学びました。それは、パウロという人は、感謝の人であり、祈りの人であり、使命の人であるということをお話ししました。今日は13〜15節についてお話しますが、その内容は、前回お話しましたことの中の3番目の使命の人ということをさらに拡大して、さらに詳しく見てゆくことになります。従って、今日は13〜15節を扱うことによって、パウロが持っていた使命感というのは、どこから来ているのかということを学びたいと考えています。
さて、それでは本日の聖書の箇所のローマの信徒への手紙1章13節を見ますと、『兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。』とあります。パウロは、13節の冒頭で『兄弟たち、』と呼びかけています。これはとても親しみを込めた呼びかけです。パウロは親しみを込めて『兄弟たち、』と呼びかけているのです。つまり、ローマの教会の人々の関心をもう一度呼び起こそうとして、親しみを込めて呼びかけているのです。例えば、私が『みなさん、』とか、『兄弟姉妹』とか、こうやって改めて呼びかけられると、何だろうと関心が向くのです。『兄弟たち、』に続く言葉ですが、『ぜひ知ってもらいたい。』となっています。この箇所は、原文のギリシア語では、もう少し異なった書き方がされているのです。それでは、原文ではどのように書かれているのかと言いますと、口語訳聖書が原文に近い訳をしているのです。口語訳聖書は、どの様に訳しているかと言いますと、『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。』と、訳しているのです。『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。』。もう一回お読みしますと、『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。』と、このように訳しているのです。少し印象が変わるのではないでしょうか。『兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。』と訳されているのと、『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。』と訳されているのとでは、文法的にどのように異なっているのかと言いますと、口語訳聖書の『このことを知らずにいてもらいたくない。』という訳は二重否定になっているのです。『知らず』と『いてもらいたくない。』という、マイナス☓マイナスでプラスになっているのです。新共同訳聖書では、『ぜひ知ってもらいたい。』という訳になっているのですが、原文では、『知らずにいてほしくない』となっていて、二重否定の文章の方が、はるかに意味が強いのです。二重否定というのは、日本の読み物ではあまり馴染みのない表現方法だと思いますが、英語圏では特有の言い回しなのです。
ですから、パウロはローマの教会の人びとに、『兄弟たち、』という親しみを込めた呼びかけを伴って、二重否定による強い調子で、これから言うことは、聞き漏らしてほしくないということを、これから言おうとしているわけなのです。この表現方法は、パウロの手紙に繰り返し見られる特徴的なもので、本日の聖書の箇所だけではなくて、度々出て来るのです。例えば、ローマの信徒への手紙では、11章25節、コリントの信徒への手紙一の10章1節、12章1節、それからコリントの信徒への手紙二の1章8節、テサロニケの信徒への手紙一の4章13節などがあるのです。パウロは、中心的な言葉、概念が出てくると、『知らずにいてもらいたくない。』という二重否定で、次から言うことを強調していくということを行うのです。パウロが強調して、伝えたいことは何かと言いますと、ギリシア語の原文での言葉の順番から言いますと、『何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。』というところに飛ぶのです。
私(パウロ)は何度もあなた方(ローマの教会の方々)のところに、行こうとしていたということを知っていて下さい、ということをパウロはローマの教会の人々に伝えようとしているのです。実際に、パウロは、何度もローマに行こうとしましたが、なかなかそれを果たすことができませんでした。なお妨げられていたのです。パウロがこの手紙を書いたのは、第3次伝道旅行でエフェソに3年間滞在したのち、マケドニヤ、アカヤを訪れ、コリントに3ヶ月間滞在していた時でした。コリントと言いますと、アドリア海を渡ると、ローマまで直ぐにたどり着けるのです。パウロは、もう少しでローマに行けるというところまで来ていましたが、マケドニヤからの献金を携えてエルサレムに行かなければならなかったのです。今なお妨げられているのです。仕方がないので、パウロはコリントでこの手紙を書いて、隣町のケンクレアイ教会の女執事フェべに託して、この手紙をローマの教会に送り届けたのです。ローマの信徒への手紙の16章1〜2節を見ますと、『ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。』とあるのです。
信仰者として成長して行くということは、自分の願い通りに何でもかんでもやってしまうということではないのです。特に、忍耐心が身についてくることは、霊的に成長することの一つの印だと言うことができると思います。すぐに結果が出ることが当然のような時代にあって、実は本物というのは、育つのに時間がかかるということだと思います。私たちは、そのことを理解する必要があるのだと思います。パウロの気持ちは、すぐにでもローマの教会を訪問したいのです。しかし、先程、お話しましたように、そうはできない理由があるのです。当時、パウロは異邦人教会からの献金を集めて、教会の一致のためにエルサレム教会に届けようとしていたのです。それ故、パウロは神様の前で、なすべき義務を優先させなければならないと言っているのです。パウロの気持ちが伝わって来るかと思います。
■ローマ教会訪問の目的
次に、本日の聖書の箇所の13節に戻りたいと思いますが、日本語訳とギリシア語原文とでは、語順が逆になっていますので、13節の後ろからお話する形になっています。パウロはローマ教会に何度も行こうとしたのですが、しかし、妨げられているので行けなかったのです。しかし、それでもなおパウロがローマ教会に行こうとしている理由は、『ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、』と思ったと言うのです。これが行こうとした理由です。パウロは、異邦人の使徒として召されました。パウロはどの段階で異邦人の使徒として召されたのかと言いますと、使徒言行録の9章の10〜19a節を見ますと、『ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。』とあります。
パウロは救われたのと同時に、復活の主イエスからこの使命をもらっているのです。パウロは異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に福音を伝える、神様の選びの器なのです。このことが、アナニアが主イエス・キリストから聞いた言葉なのです。さらにパウロは、自分がどのような召命を受けて、どのように活動してきたかについて、ローマの信徒への手紙の15章の19〜24a節で、『また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。』と、語っているのです。この箇所を読みますと、パウロが伝道する地は、イスパニア、今のスペインしか残されてないということが分かります。それ程、パウロは異邦人世界、当時のローマ世界を縦横無尽に渡り歩いて、異邦人伝道の責任を果たしてきたのです。ですから、パウロはローマにも行きたいのです。これが、パウロが異邦人の使徒として、神様から受けた使命に生きた内容なのです。
■果たすべき責任
次に、本日の聖書の箇所の14〜15節を見ますと、『わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。』とあります。新共同訳聖書で、『果たすべき責任があります。』(14節)と訳された箇所は、実は言葉数が多すぎるのです。これは原文では、名詞で『オフェイレテェィス』という単語一つなのです。日本語に直訳しますと、『債務者』という言葉なのです。従って、14節を直訳しますと、『わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、債務者なのです。』となるのです。
『ギリシア人にも未開の人にも、』とか、『知恵のある人にもない人にも、』というのは、 世界中のあらゆる人々にという意味です。パウロは世界中の人々に対して、負債を負った債務者だと言っているのです。パウロが、『わたしは、債務者なのです。』と語った、その意識がどこから来ているのかということについて考えてみたいと思います。パウロはユダヤ人であったわけですが、神様はユダヤ人全体に対して、異邦人に対する使命を与えられていたのです。使徒言行録の13章の47節を見ますと、『主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」』とあります。この聖書の箇所は、パウロが伝道のために、ピシディアのアンティオキアというところでメッセージを語るのですが、パウロの伝道の仕方は、まずユダヤ人に語るのです。ところが、パウロはユダヤ人たちに語ったのですが、彼らは拒否するのです。そこで、パウロとバルナバは、宣教の方向を異邦人の方に向けるのです。宣教の方向を変えたときに、ユダヤ人たちに語った言葉が、使徒言行録の13章の47節の2重の括弧の中の言葉なのです。
パウルはここで、イザヤ書の49章の6節を引用しています。イザヤ書の49章の6節には、『こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。』とあります。イスラエルは、異邦人の光として、地の果てまでも救いをもたらす使命を与えられていたのです。民族的な使命を与えられていたのです。それはアブラハム以来、イスラエルの民に対する神様の選びは、全人類に救いをもたらすための選びであったということが、聖書の論理であると思います。ですから、パウロが使徒として召されたということは、イスラエルの民に与えられていた召しの延長線上にあるのだと思います。そして、パウロはここでイスラエルの民がその使命を果たすことに失敗したことから、イスラエルの民の失敗を贖おうとしている、というところにパウロの使命意識があるのだと思います。それ故、パウロは使徒としての使命意識について、ローマの信徒への手紙11章の13〜14節で、『では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。』と書いているのです。パウロは異邦人の使徒としての使命を持っていました。そして、それは異邦人が救われたら、次に、異邦人が救われたことを妬んだユダヤ人が救われると、救いの構造を見通していたからです。
パウロは、それ故、『わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、債務者なのです。』という認識を持っていたのです。パウロは全世界の人々にとても大きな負債を負っていると意識しているので、ローマの教会の人々に福音を伝えたいと言っているのです。14節で、『ギリシア人にも未開の人にも、』という言葉は、ローマ人が人類を2分した分類方法です。『知恵のある人』というのは、教育を受けた文化人ということです。そして、それはギリシア人とイコールなのです。『知恵のない人』というのは、未開人のことなのです。ローマ人というのは、自分たちはギリシア人の範囲に入っていると考えていたので、文明人だと考えていたということなのです。人類を2分するこの分類方法は、実に単純で、ギリシア語を話すかどうかなのです。ギリシア語を話す人は文明人なのです。ギリシア語を話さない人は未開人なのです。英語で、野蛮人のことをバーバリアン(barbarian)と言いますが、これはギリシア人がギリシア語以外の言葉を聞くと、バーバ、バーバ、と言っているように聞こえたことから来ているのです。それでバーバリアンという言葉が生まれたのです。当時のローマ世界では、ギリシア語を話さなかったら未開人なのです。ですから、知恵のある人というのはギリシア人のことで、知恵のない人というのは未開の人のことですので、パウロは同じことを並べて書いているのです。
パウロは、ここでローマ的な分類法に従って、全ての人々に負債を負っている、責任を負っていると述べているのです。負債を負っているので、ローマに行きたいと述べているのです。パウロは、自分はユダヤ人であるが故に、神様から使命が与えられてだけではなく、主イエスから特別な啓示が与えられていて、異邦人に伝えなくてはいけないものがあるので、是非、ローマの教会の方々のところへ行って、福音を告げ知らせたいのですと、言っているのです。
そして、主の福音を宣べ伝えることがパウロに与えられた使命であり、どうしてもしなければならない負債だと、パウロは考えたのです。それはパウロだけではありません。私たちも同じです。私たちもパウロと同じ負債を負っているのです。私たちもまた、それほどに大きな神様の恵みを受けているからです。神様の御子をこの世に与え、十字架につけて死なせ、3日目に復活させることによって、主イエス・キリストを信じる者に、その罪から救われるという道を開いて下さったのです。そのおかげで、私たちは主イエスによる罪の贖いを得ることができました。その大きな恵みが、私たちが主イエスにより負った負債なのだと思うのです。私たちはそれほど大きな恵みを受けたのならば、その大きな恵みを何らかの形で、神様が愛して止まないお一人お一人に、何らかの形でお返ししたいと思うのが、自然の思いではないかと思います。パウロは、そのような神様の大きな恵みの故に、この福音宣教を、どうしても返さなければならない負債を神様に負っていると感じていたのだと思います。
パウロと同じように、私たちもまた主イエス・キリストの福音によって、大きな恵みを受けたのですから、主イエスの言葉に従って、神様のみこころに生きることを求めていきたいと思います。
それでは、お祈り致します。
