小倉日明教会

『ほっとかへん』

ヨハネによる福音書 20章 24〜29節

午後3時00分〜

2026年4月12日 復活節第2主日礼拝

ヨハネによる福音書 20章 24〜29節

『ほっとかへん』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 3 扉を開きて 応答 起立
招   詞 詩編 145篇 10〜11節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 325 キリスト・イェスは 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

ヨハネによる福音書 20章 24〜29節

                                          (新約p.210)

啓示 着席
성  경 요한복음 20장 24〜29절
New Testament The Gospel According to John 20:24-29
圣  经 约翰福音 20章 24〜29段
讃 美 歌 197 ああ主のひとみ 応答 着席
奨   励

『ほっとかへん』

         沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 575 球根の中には 応答 起立
祝   祷

         沖村 裕史 牧師

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                       沖村 裕史 牧師

■「あなたの指を…」

 イエスさまが十字架の上で殺されてから三日目の夜のこと、よみがえられたイエスさまが、「恐れて」「鍵をかけ」、家の中でじっと静まっていた弟子たちの前に、その姿を現わされ、弟子たちの平安を祈ってくださいました。しかしそのとき、弟子のひとりであったトマスだけが、そこにいませんでした。

 そこに居合わせなかったトマスは、仲間たちの言うことを聞いても、すぐには信じられません。当然のことでした。トマスは言います。

 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」

 このトマスの言葉に応えるように、「八日の後」、つまり一週間後、再びキリストが弟子たちのもとに現れ、トマスに向かって言われました。

 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」

 十字架の上で釘打たれた手のひらの穴、十字架の上で槍で刺し貫かれたわき腹。そこに触ってみなさい、そこに手を入れてみなさい、とイエスさまが言われたといいます。

 トマスのことを、「疑いの人」だと言われることがあります。

 トマスはここで何を「疑った」のでしょうか。

 単純に考えれば、「キリストの復活」を疑ったということでしょう。十字架の上でキリストの体につけられた傷跡を見るまでは「決して信じない」という強い言い方は、悪く言えば、そんな疑う心の強さを表しているように思えますし、よく言えば、事実を確認しようとするまじめさを示しているようにも思えます。

 でもわたしは、ここでトマスが口走った言葉の真意は、復活そのものについての疑いとは少し違うのではないか、と感じています。そうではなくて、自分だけそこに居合わさなかったということ、結果的にであれ何であれ、「仲間外れ」の立場に置かれたということが、トマスにとってのいちばんの衝撃であり、痛みだったのではないか、と思えるのです。

 福音書は、このときの様子をこう記しています。

 「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手口釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」

 この対話の中に、復活のイエス・キリストと再会した弟子たちが驚きを隠せず、喜びをもって報告しているのと対照的に、ひとりだけその場に居合わせなかったトマスの心境が反映されているように感じ取れるのです。

 イエス・キリストに会えなかった。自分だけが会えなかった。

 自分の存在だけが無視されてしまったような、自分だけ仲間から取り残されてしまったような、そんな思い、そんな感情がトマスを襲い、思わず口をついて出てきたのではないでしょうか。

 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」

 このトマスの言葉の中に、何か子どもがすねているような響きを感じるのは、わたしだけでしょうか。

■「ぼくだけほっとかれたんや」

 仲間外れにされること。

 とくに自分にとっていちばん大切な人から見捨てられ、いちばん大切な出来事から取り残されてしまう。この場面のトマスとは状況が異なりますが、そういった仲間外れにされるという体験を六歳の少年が味わい、書き記した詩があります。

 「がっこうからうちへかえったら

 だれもおれへんねん

 あたらしいおとうちゃんも

 ぼくのおかあちゃんもにいちゃんも

 それにあかちゃんも

 みんなでていってしもうたんや

 

 あかちゃんのおしめやら

 おかあちゃんのふくやら

 うちのにもつがなんにもあらへん

 ぼくだけほってひっこししてしもうたんや

 ぼくだけほっとかれたんや

 

 ばんにおばあちゃんかえってきた

 おじいちゃんもかえってきた

 おかあちゃんが

 「たかしだけおいとく」

 とおばあちゃんにいうてでていったんやって」

(灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』新潮文庫、八九~九〇頁)

 これは「あおやまたかし」という少年が書いた詩の最初の部分です。六歳とありますから、小学校一年生だったのでしょう。どういう事情があったのか分かりません。分かっていることは、この子だけが家族の中で取り残されたということです。親も兄弟もみんないなくなってしまった中で、自分だけが置いていかれたのです。

 トマスが経験したことと、この子の経験したことは、もちろんいろいろな面で違っています。しかし、いちばん親しい人々の間で、思いも寄らぬ時に、もっとも大事な場面で、自分だけが取り残された、仲間外れにされたという点では、まったく同じ。

 「ぼくだけほっとかれたんや」という点では同じなのです。

 「ぼくだけほっとかれた」という体験は、「交わり」にかかわる問題です。

 一人だけで生きていける人はどこにもいません。着ているものも、寝る場所も、食べる物も、自分一人で、そのすべてを一から整えることなどだれにもできません。神様は人間を、「交わり」の中で生きる者としてお造りになったのです。

 だから、「交わり」が失われた時、あるいは「交わり」が歪んだ時、「人間の本質」が歪められてしまったり、「人間そのもの」が失われたりすることがあります。そして今、わたしたちが生きている社会では、この「交わり」がひどく歪められ、とても脆(もろ)いものとなっている、そう思わざるを得ない場面に出くわすことがあります。

 例えば、教会にはいろいろな人たちが様々な問題を抱えて訪ねてきます。その中に、「ホームレス」と呼ばれる人々がいます。話をしてみると、その人たちに共通しているのは「帰る場所がない」ということです。故郷がないわけではありません。家族もいないわけではありません。でも、帰れないし、帰らない、あるいは帰りたくない、と言います。都会にいて何か希望や見通しがあるのかというと、そういうわけでもありません。どこかに知人や支えになる人がいるのかというと、そういうわけでもない人たちがほとんどです。

 「ホームレス」という言葉の本質は、物理的に「家がない」とか「職がない」ということととどまらない、それ以上に「心のホームレス」―「交わりがない」「所属すべきものがない」「居場所がない」ということを意味しているのではないかと思うことがあります。

 そういう意味での「ホームレス」の状態というものは、決して一握りの人たちだけの問題ではありません。むしろ、それと似た状況は、多かれ少なかれ、わたしたちの身近なところで、わたしたちを取り巻いています。今日、小さな子どもたちから青少年や壮年、高齢者も含めて、また夫婦、親子、兄弟姉妹、友人、職場の仲間などを含めて、わたしたちの周囲にこのような「交わり」をめぐる深刻な問題が横たわっているように思われるのです。

 現代は、誰もが「ぼくだけほっとかれたんや」という状況に追い込まれかねない時代です。誰もがそういうことに脅え、恐れているように感じられる時代です。そして、誰もが「ほっとかれない」ようにするために、SNSなどによっていろいろ情報を集めたり、絶えず仲間と連絡を取り合ったり、あくせくしているように感じられる時代です。

 「ぼくだけほっとかれたんや」という体験は、人間を歪めてしまう可能性を秘めています。そして、「ぼくだけほっとかれたんや」という体験が頻繁に繰り返されたり、それがあたりまえのことになってしまうなら、それはその人の人間性を破壊する結果をもたらさないとも限らないのです。

■「ほっとかない人」

 聖書は、イエス・キリストを「ほっとかない人」として描いています。イエス・キリストは、家族から放り出された人、村や町から放り出された人、その社会の中で放り出された人、「ぼくだけほっとかれた」ことを体験した人たちのもとに歩み寄って、そうした人々との間に「交わり」を作り、その人たちに生きる勇気と希望を与える方として描かれています。

 今日の福音書は、そのイエス・キリストが十字架につけられ、死んで、よみがえらされた後にも、やはり「ほっとかない人」であり続けたことを描き出しています。いえ、もっと言えば、イエス・キリストが十字架につけられ、殺されただけで終わりだったら、イエスさまの人間性や愛や神の教えがどんなにすぐれていても、それはそれだけのこと、立派な人格者がいたというだけのことでしかなかったでしょう。しかしイエスさまは、十字架の上に死んで、よみがえらされたのです。そうして弟子たちを、そしてトマスを、どこまでも「ほっとかれなかった」のです。

 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」

 どうしようもない困惑と不安の中に取り残された子どものように、大人げない言葉を発したトマスに応えて、復活されたイエスさまはそこにわざわざやって来て、そう言われたのです。

 イエスさまは今、「わたしは決してあなたを忘れているわけではない」と言われるのです。ほかの弟子たちを差し置いて、ここでイエスさまは、ただひとり、トマスに向かって、「わたしはあなたをほっておきはしない」「ほっとかへん」と言われるのです。

 トマスはどんな顔をしたでしょうか。笑ったでしょうか。それとも泣いたでしょうか。

 本当の問題は、イエスさまの傷跡を確認することにあったのではありません。

 イエスさまがトマスを忘れたのではないこと。「ぼくだけほっとかれた」のではないこと。トマスもまた「わたしの仲間」だと確認してくれること。それがいちばん大事なことだったのです。

 わたくしたちが生きていけるのは、誰かに愛されているからです。誰かがわたしたちのことを覚えていてくれるからです。ぎりぎりのところで、この世の誰もがわたしのことを忘れ、わたしを見捨ててしまうような時でさえ、神様だけ、イエス・キリストだけは「わたしは決してあなたを忘れない」と言ってくださるのです。

 その事実が、生きている今も、死んだ後も、わたしたちを生かしてくださるのです。それこそが、復活の意味でした。