| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 15 みことばにより | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | ローマの信徒への手紙 3章 22節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 113 いかに幸いな人 | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
ローマの信徒への手紙 2章 11〜16節 (新約p.275) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 로마서 2장 11절〜16절 | ||
| New Testament | The Letter of Paul to the Romans 2:11-16 | ||
| 圣 经 | 罗马书 2章 11〜16段 | ||
| 讃 美 歌 | 440 備えて祈れ | 応答 | 着席 |
| 奨 励 |
『心の思いが証しすること』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 509 光の子になるため | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■『自分ひとりの部屋』 ヴァージニア・ウルフ
おはようございます。前回、このローマの信徒への手紙についてお話した時、『神は人を分け隔てなさいません。』ということをお話しました。つまり神様の裁きは、ユダヤ人にも異邦人にも、同じように下るのであって、神は裁きにおいてユダヤ人をえこひいきするようなことはないということをお話しました。
しかし、私たちのように欠点の多い人間が寄り集まった社会では、人間が下す判断、判定は、えこひいきがあるということを私たちは知っているのではないでしょうか。人間の下す価値評価の最高峰は、ノーベル賞かと思います。しかし、そのノーベル賞の選定にもえこひいきはあるのではないでしょうか。週報に、ノーベル文学賞の受賞者の男女比の表を示しています。この男女比の表を見ますと、1900年〜1989年は、およそ男性:女性比は9:1位です。1990年〜2019年になって、ようやく男性:女性比は7:3です。そして、2020年〜2025年が3:3となっているのです。この数字を見るときに、特に1900年代の前半では、女性が作家として働くことは困難であったことが思わされます。1882年に生まれ、1941年に亡くなった女性の作家にヴァージニア・ウルフという人がいます。彼女の男性の兄弟は正規の教育を受け、ケンブリッジ大学で学びますが、ヴァージニア・ウルフと彼女の姉妹は、正規の教育を受けることができず、家の書斎にある膨大な蔵書により、古典や英文学を書物から学んだのです。ヴァージニア・ウルフの小説としては、『灯台へ』、『オーランドー』、『波』などが有名かと思います。そのヴァージニア・ウルフが、法的、経済的な力が男性に不当に配分されており、女性の教育や社会における女性の将来が、男性に握られていることによって、女性作家や女性の知識人が直面する困難を考察した作品に、『自分ひとりの部屋』という評論があります。この評論は、ケンブリッジ大学のニューナム・カレッジおよびガートン・カレッジで行われた二度の講演を元にしたもので、『女性と小説』をテーマにしたものなのです。この『自分ひとりの部屋』の冒頭の部分を紹介したいと思います。
『自分ひとりの部屋』 ヴァージニア・ウルフ
第一章
しかし、皆さんはこうおっしゃるかもしれません。「私たちはあなたに『女性と小説』について話してほしいと頼んだのです。それが『自分ひとりの部屋』と一体何の関係があるというのですか?」と。説明してみることにしましょう。皆さんに「女性と小説」について話してほしいと頼まれたとき、私は川の堤に腰を下ろし、その言葉が何を意味しているのかを考え始めました。それは単に、ファニー・バーニーについていくつかの私見を述べ、ジェーン・オースティンについてもう少し語り、ブロンテ姉妹に賛辞を贈り、雪に覆われたハワースの牧師館のスケッチを描き、できればミス・ミットフォードについて機知に富んだ冗談をいくつか飛ばし、ジョージ・エリオットに敬意を込めて言及し、ギャスケル夫人について触れれば、それで事足りるということだったのかもしれません。
しかし、もう一度よく考えてみると、その言葉はそれほど単純ではないように思われました。「女性と小説」という題名は、皆さんもそういう意図だったのかもしれませんが、「女性、および彼女たちがどのような存在であるか」を意味しているのかもしれません。あるいは「女性、および彼女たちが執筆する小説」を意味しているのかもしれません。あるいは「女性、および彼女たちについて書かれた小説」を意味しているのかもしれません。はたまた、これら3つのすべてがどうしようもなく複雑に絡み合っており、私にそのような観点から考察してほしいということだったのかもしれません。しかし、最も興味深いと思われたこの最後の方法でこの主題を考え始めると、すぐに1つの致命的な欠点があることに気がつきました。私は決して結論に達することができないだろう、ということです。1時間の講義の後に、ノートのページの間に挟んでマントルピース(暖炉の上の飾り棚)の上に一生しまっておけるような、純粋な真実の塊を皆さんに手渡すという、私が理解するところの講師の第一の義務を、私は決して果たすことができないでしょう。私にできることと言えば、1つの小さな視点についての意見を提示することだけでした。それは、「女性が小説を書こうとするなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」ということです。そして皆さんもお分かりのように、これでは「女性の真の本質」と「小説の真の本質」という大きな問題は未解決のまま残されてしまいます。私はこれら2つの問いに対して結論を出すという義務を放棄してしまいました。私に関する限り、「女性」と「小説」は未解決の問いのままなのです。
しかし、その罪滅ぼしとして、私がどのようにしてこの「部屋とお金」に関する意見にたどり着いたのかを、できる限りお示ししようと思います。私がこのように考えるに至った思考のプロセスを、皆さんの前でありのままに、そしてできる限り自由に展開していくつもりです。もし私が、この主張の背後にある考えや偏見をすべてさらけ出したなら、おそらく皆さんは、それらが女性や小説と何らかの関わりを持っていることに気づかれるでしょう。いずれにせよ、主題が非常に議論を呼ぶものであるとき―そして性(ジェンダー)に関するあらゆる問いがまさにそうなのですが―人は純粋な真実を語ることを望むわけにはいかないのです。(後略)
このようにヴァージニア・ウルフは語っているのです。人間の社会には、様々なえこひいきが存在していますが、パウロはなぜ、『神は人を分け隔てなさいません』(2章11節)と語ることが出来たのだろうかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■神は人を分け隔てなさいません
さて、前回、ローマの信徒への手紙についてお話しましたときに、2章1〜16節は神様の裁きについての3つのポイントで語られているということをお話しました。そして、ポイントの1つ目は、神様の裁きは、正義に基づいて行われるということです(2〜5節)。2つ目のポイントは、神様の裁きは、行いに従って行われるということです(6〜10節)。そして、3つ目のポイントが、神様の裁きは、分け隔てなく行われるということです(11〜16節)。従って、2章1〜16節で、パウロは私たちに弁解の余地はないと言い、その理由を正義と行いと別け隔てなしという、3つのポイントで語っているのだということについてお話しました。そして、前回の聖書の最後の箇所の11節を見ますと、『神は人を分け隔てなさいません。』とあり、最後の審判に於ける神様の正しい裁きのポイントは、『ユダヤ人はもとよりギリシア人にも』(9節、10節)という言葉に表されているということをお話しました。ギリシア人は異邦人の代表です。つまり神様の裁きは、ユダヤ人にも異邦人にも、同じように下るのであって、神は裁きにおいてユダヤ人をえこひいきするようなことはないということなのです。それが3つ目のポイントである、『神様の裁きは、分け隔てなく行われる』ということであり、11節の『神は人を分け隔てなさいません』ということの意味なのだと思います。
宗教改革者マルティン・ルターは、この11節の解説として、『神は誰ひとりとして軽蔑され、非難され、捨てられることを望まない』と語りました。ルターはパウロの文章をそう読み取ったのです。『誰ひとり』なのです。ルターは、ここに神様のみ心があると考えたということをお話しました。神様には、えこひいきはないということなのです。
■律法の下にあって罪を犯した者は
次に、本日の聖書の箇所の2章12〜14節を見ますと、『律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。』とあります。12節でパウロが語っているのは、神様は、ダブルスタンダードのお方ではない、すなわち神様はえこひいきするお方ではないということです。ここで言うえこひいきがないというのは、義なる裁き主である神様が行う裁きは公平だということです。それはどういうことなのかと言いますと、異邦人に対する裁きの基準と、ユダヤ人に対する裁きの基準が公平だということです。異邦人に対する裁きの基準は何かというと、彼らは、律法を知らないで罪を犯した者だということです。律法を知らないでというのはどういうことかと言いますと、モーセの律法を知らないで罪を犯したということです。
もう少し説明しますと、神様の啓示には、一般啓示と特別啓示という2種類があるということをお話したかと思います。その神様の啓示の中で、モーセの律法というのは、特別啓示となります。そういう神様からの特別啓示を与えられないままで、罪を犯しているのが異邦人となります。ですから、裁かれるときも、異邦人はモーセの律法によって裁かれるのではないということなのです。モーセの律法を知らないで罪を犯したのだから、モーセの律法によって裁かれるわけではないというのです。それでは、何によって裁かれるかと言いますと、全ての人間の内側に神様によって記されている、良心とも言うべき『神様の業』によって裁かれ、滅びるのだと語られているのです。このことが本日の聖書の箇所の15節に出てくるのです。それが異邦人に対する裁きの基準だと言うのです。ここで、先に15節を少しだけ見てみたいと思います。15節を見ますと、『こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。』とあります。パウロは彼らの良心が証しているのだと、語っているのです。
しかし、パウロはユダヤ人に対する裁きの基準というのはそれとは別なのだと言っているのです。ユダヤ人に対する裁きの基準は何かと言いますと、彼らは律法の下にあって、罪を犯したのです。モーセの律法を知っていながら、ユダヤ人たちは罪を犯したのです。それが12節の『律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。』という言葉なのです。従って、彼らはモーセの律法によって裁かれる。これがユダヤ人の裁きの基準です。つまり、異邦人とユダヤ人は裁きの基準が異なっているということです。実は、ユダヤ人の方が裁きの基準より厳しいのです。なぜかと言いますと、神様から特別啓示が与えられているからなのです。しかし、異邦人とユダヤ人のいずれの基準を適用したとしても、全ての人間には滅びが待っているということなのです。
律法を知らない人たち、つまり異邦人で罪を犯した者は、神様がその人の内に記した良心とも言うべき『神様の業』によって、その犯した罪を裁かれ滅びるのだし、律法の下にある者、つまりユダヤ人で罪を犯した者は、律法違反によって裁かれるというのです。律法を与えられていようといまいと、つまりユダヤ人であろうと異邦人であろうと、罪を犯せばその罪によって裁かれ滅びるのだと言うのです。それが神様の正しい裁きであって、そこには何の分け隔てもないというのです。神様の裁きの前で、その裁きを免除されたり、大目に見てもらえたりするような人はいない、それが11節の『神は人を分け隔てなさいません』という言葉の意味なのだと思います。
神様の裁きにおいて、全ての人間は平等なのだとパウロは語っているのです。ユダヤ人たちが陥った勘違いは、神様から律法を直接与えられたことで、自分たちが神様によって特別なボジションを与えられ、神様の裁きにおいて他の人々とは違う、特別な扱いを受けることができると考え、そのことを誇るあまり、異邦人を裁くようになったことです。神様は、確かにユダヤ人をご自分の民として選んで下さり、彼らをエジプトでの奴隷状態から解放した上で、ユダヤ人たちと契約を結び、十戒を始めとする律法を与えて、彼らが神の民として生きるための指針を示し、さらにはユダヤ人たちを約束の地に導き入れて下さったのです。ユダヤ人たちは確かに神様の特別な顧み、恵みを与えられたのです。しかし、それはパウロがこの手紙の2章の4節で語っているように、彼らを悔い改めに導くために与えられた神様の憐れみだったのです。悔改めるとは、心と生活の全体が神の方に向き変わることです。神が創造者であり自分は被造物であることを認めて神を礼拝し、感謝し、神に従って生きる者となることです。ユダヤ人が神の民とされ、律法を与えられたのは、彼らを悔い改めへと導こうという神のみ心によってだったのです。その律法を与えられた者たちが悔い改めることをせず、まして自分は神の特別な恵みを与えられていると誇るようになり、他の人を裁くようなことはとんでもない間違いなのです。
■神の裁きの厳粛さ
本日の聖書の箇所の15〜16節を見ますと、『こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。』とあります。ここで、パウロが語っているのは、終わりの日の裁きであることが分かります。神様は全ての人間の隠れた事柄を裁かれるのです。神様の裁きにおいては、全ての人間の隠されている事柄が全て明るみに出されるのです。人間の目には隠しおおせたと考えられても、神様の裁きにおいては、全ての人間の思いや行いが、白日の下に晒されるのです。裁きの日は確実に来ます。そして、裁きの日は、主イエス・キリストが裁き主として父なる神様から任命される日でもあるのです。その時、全ての人間が隠していたことが明らかになります。全ての人々の隠れたことが明らかになる。これが『神は人を分け隔てなさいません』という言葉の意味なのです。神様は、異邦人もユダヤ人もそれぞれ責任を問うことのできる基準の下で、裁きを行われるのです。そういう意味で、パウロは『神は人を分け隔てなさいません』と語っているのです。
ここで、パウロが語っているのは終わりの日の裁きです。その終わりの日を、私たちは大変恐ろしい、厳しい、そして、どこにも救いのない出来事のように思っているのではないかと思います。ところがパウロは16節で、『神が、わたしの福音の告げるとおり、』と語っているのです。神様の裁きを告げるこの言葉は『わたしの福音』だと語っているのです。福音と訳されたギリシア語の言葉は『ユーアンゲリオン』であり、『喜びのおとずれ』という意味の言葉です。しかも、『わたしの』福音と、『わたしの』という言葉をつけて、パウロは語っているのです。それは、私(パウロ)が宣べ伝えている福音というだけの意味ではなくて、私がそれによって生かされ、喜びを与えられ、支えられている福音ということだと思います。神様が、人を分け隔てすることなく、隠れた事柄をも晒して、お裁きになることが、『わたしの福音』だとパウロは語っているのです。どうして、そのように語ることができるのでしょうか。そのことを次に考えてみたいと思います。
■スイカがあったら分けて欲しい
年の瀬も迫った、冬の日の夕暮れ時の果物屋でのことです。その日の営業を終えて、店を閉めて、1日の労働を終えようとしていた時、一人の若いお母さんが果物屋のシャッターを叩いたのです。そして、『スイカがあったら分けて欲しい』とおっしゃったのです。スイカは夏の果物です。時は冬でしたので、その果物屋は『スイカはありません』と断りました。すると、そのお母さんは、どこか、スイカを売っているところを紹介して欲しいと食い下がるのです。そして、そうまでして真冬のスイカを求める理由を話し始めたのでした。実はこのお母さんの幼い子どもが血液の病気で、長い間入退院を繰り返しているというのです。今度もまた、入院が決まって、息子はガッカリしているというのです。お母さんが、『何かして欲しいことはあるか』と息子に尋ねると、息子は苦しそうな息をしながら、『お母さん、スイカが食べたい』と言ったというのです。熱が上がってきて、暑かったからだと思います。しかし、季節は真冬なのです。スイカはどこを探しても見つからないのです。しかし、命の灯が尽き果てそうな中で、そのような苦しみの中で告げられた願いは、たとえどのように難しい願い事であったとしても、また、どのように荒唐無稽な願い事であったとしても、何とか叶えてやりたいと思うのが親心なのだと思います。たったひとりの子どもの力を尽くした願いには、親の心を突き動かす力があると思います。
そう考えますと、終わりの日の裁きにおいて、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、免除されたり、大目に見てもらえたりするような人もいない、神様の正しい裁きの前で、『わたしの福音』だとパウロは語っている理由が少し理解できるのではないでしょうか。
■キリストの執り成しによって
パウロが神様の正しい裁きの前で、『わたしの福音』だと語ることができたその秘密は、今日の聖書の箇所の16節のもう一つの言葉、『キリスト・イエスを通して』という言葉にあるのだと思います。神様が全ての人間のそれまで隠蔽されてきた事柄を裁かれる、その裁きは『キリスト・イエスを通して』なされるというのです。つまり、神様が私たち人間を裁かれるその時に、神様と私たち人間との間に、主イエス・キリストが立って下さるというのです。主イエス・キリストは、私たちの罪を全て背負って、私たちの代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。本当は私たちが受けなければならない神様の正しい裁きに伴う滅びを、代って引き受けて下さったのです。その主イエス・キリストが、裁きの時に、神様と私たちの間に立って下さり、私たちのために罪の執り成しを行って下さると、パウロは語っているのです。
そのことをパウロはこのローマの信徒への手紙の8章33〜34節で、『だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。』と語っているのです。
主イエス・キリストを通して神様の裁きが行なわれるというのは、こういうことだと思います。神の裁きにおいて、私たちがしてきた全ての行い、全ての思いが神様の前に明らかになります。そうなれば、私たちは罪に定められて滅ぼされるしかありません。しかし、その私たちのために、主イエス・キリストが、私たちの全ての罪を背負って、身代わりとなって十字架の死刑を受けて下さった方として、執り成しをして下さるのです。主イエスの十字架の死による罪の贖いを受け入れて、神様は私たちを赦し、義として下さるのです。パウロは、終わりの日の裁きとは、そのようなものだと語っているのです。それ故、パウロは、『わたしの福音』と語っているのです。この福音を信じて生きているのが、クリスチャン、キリスト者だと言うことができると思います。私たちが主イエス・キリストを信じることの意味はここにあるのだと思います。
神様は全ての人を分け隔てなく、一人ひとりの基準に合わせて、一人ひとりの行いによって、裁かれます。しかし、その裁きは主イエス・キリストを通してなされ、主イエス・キリストが私たちのために執り成して下さるというのです。この主イエス・キリストの福音を知らされ、信じているがゆえに、主イエス・キリストを信じる私たちは、神様による裁きの日を、びくびく恐れるのではなくてむしろ待ち望むことができる恵みを与えられているのだと思います。
私たちは、主イエス・キリストにあって、すべての人間が助け出されることを願わずにはいられない、この慈愛に満ちた神様を仰ぎ見つつ、私たちは主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
