小倉日明教会

『赦しの中に生きる』

創世記 4章 1〜16節

午後3時00分〜

2026年2月8日 降誕節第7主日礼拝

創世記 4章 1〜16節<br />

『赦しの中に生きる』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 15 みことばにより 応答 起立
招   詞 詩編 51篇 10〜11節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 60 どんなにちいさいことりでも 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

創世記    4章 1〜16節

       (新約p.362)

啓示 着席
성  경 창세기           4장 1〜16절
Old Testament Genesis 4:1-16
圣  经 创世纪           4章 1〜16段
讃 美 歌 445 ゆるしてください 応答 着席
説   教

『赦しの中に生きる』

         沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 481 救いの主イェスの 応答 起立
祝   祷

         沖村 裕史 牧師

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■愛しているから

 牧師館の居間には、大きな食器棚があります。その中に、わたしが特に大切にしている、ふたつの食器があります。

 ひとつは、桐の箱に入れられた萩焼の茶器です。有名な陶芸家の手による、白い釉薬(ゆうやく)が透明感のある土の肌を美しく彩る、お気に入りの器です。買えば五万円はすると言われ、知り合いからいただいたものです。実に美しいのです。でも、壊れたり欠けたりすれば、きっと処分してしまうでしょう。わたしが求める美しさを保っている限りは、大切にします。愛します。でも、それが失われれば捨てます。ということは、この器をわたしは愛していますが、「美しさという価値、必要があるから愛している」のだと言えるでしょう。

 もうひとつの食器は、二組の手作りのご飯茶碗です。縁(ふち)がぐにゃぐにゃで、少し傾いています。ひびも入っています。色合いも暗い黄土色で、美しくもなければ、格好もよくありません。でも、決して捨てることはないでしょう。なぜならこれは、家族みんなで地元の陶芸家のところに行ったときに、小学生の息子と娘が初めて作った思い出の作品だからです。美しくなくても、ご飯をよそおうことができなくても、大事にします。「大切な思い出がいっぱいの大切なものだから、愛しているから必要」なのです。

 さて、みなさんはご自分のことを、どちらの食器だと思われますか。必要だから愛されてきた自分でしょうか。勉強ができるから、かわいいから愛される。そうだったかもしれません。けれど、それだといつか勉強ができなくなった時、かわいくなくなった時、捨てられてしまうかもしれません。それを思うと、とても悲しく、とても不安になります。だから、わたしたちは必死に美しくあろう、かっこよくしよう、勉強ができるようになろうとします。たとえ、そうできなくなっても一生懸命、そうだというフリをします。

 でも、聖書の神は、わたしたちのことをそんなふうには見ません。神様は、わたしたちが美しいから、勉強が良くできるから愛しているのではありません。神様は、わたしたちを「愛しているから必要」としているのです。かわいくなくても、学校に行かなくなっても、仕事をやめても、壊れても、ひびが入っても、不格好でも、決して捨てません。神様は「わたしのやったこと」ではなく、「わたし自身」を愛しているからです。

 今日の聖書に書かれていることも、同じです。

■兄弟姉妹

 冒頭、アダムとエバの子どもとしてカインとアベルが産まれた、と書き始められます。

 人間は、多くの隣人、多くの他者の中で生きていますが、その最も近い他者、隣人というのは、親子という縦の関係を別にすれば、兄弟です。兄弟姉妹が、最も身近な他者です。人は、だれも一人で生きていけるものではありません。他者と生きるように定められている、もっと強い言葉で言えば、他者と生きるように運命づけられていると言ってよいでしょう。ですから、どんなにわたしたちが人間嫌いで、強がっているとしても、だれも一人で生きることはできません。人は他者と一緒に、他者との関わりの中で生きるほかありません。その最も身近な他者、それが兄弟であり姉妹です。

 聖書は、カインとアベルというそんな兄弟を通して、人と他者、人と隣人の典型的な姿を描こうとしているのではないでしょうか。そして、そのカインとアベルが神に献げ物をした、と続けます。これが事の発端です。

 「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた」(二~五節)

 二人揃って、神に献げ物をします。神を軸として、カインとアベルはつながっているということです。神のもとで、カインとアベルは兄弟なのです。よく耳にする「人間みな兄弟」「人類はみんな兄弟である」ということです。

 しかしこの兄弟、利害が対立をすれば敵になり、ときには絶対に赦すことのできない、絶対に排除しなければならない存在になります。それが、わたしたちの周りにある現実、わたしたちが今、生きている現実です。

 それでも、人間がみな兄弟だと言えるとすれば、それは「神のもとにあって」ということではないでしょうか。どんなに利害が対立していても、神のもとにあっては、互いに兄弟。他者との間に、隣人との間に、解くことのできない問題があり、憎しみや対立があるとしても、互いに神のもとにある存在として、人間はみな兄弟と言える、そう思います。分裂や対立を越えて、神のもとで、わたしたちは神によって結ばれているから、だからこそ兄弟姉妹なのです。

■愛され、赦された人は喜び、応える

 そんな兄弟、カインとアベルが献げ物をしました。カインは土を耕す人で、そこからの実り、産物を神に献げ、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を神に献げた、とあります。

 ところが、そこで不思議なことが起こります。主なる神はアベルとその献げ物には目を留められましたが、カインとその献げ物には目も留められません。カインは激しく怒って、顔を伏せます。主はカインに言われます。

 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(四~七節)

 なぜ、神はアベルの献げ物に目を留められ、カインの献げ物には目も留められなかったのか。その理由はここには記されていません。ただ一つ、示唆を与える言葉があります。アベルの献げ物には説明が加えられています。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を献げたと書かれています。そう、アベルは神への献げ物として、自分の持っている羊の中から肥えた小羊を選んで神に献げたのです。神に自分にとって一番大切なものを献げたのだということです。

 しかしこれは、単に良い物を献げたということではありません。献げ物というのは、神の恵みをどう受け取っているかを示すしるしです。自分に向けられている神の恵みに応えるという形で、人は献げ物をします。アベルは自分にとって一番良い物を選んで献げました。神の自分に対する恵みの大きさに、自分なりに精一杯応えた、ということです。これがアベルの供え物でした。

 神は、アベルの供え物に対して、いえ、そんなアベルに対して、目を留められたのだと言えないでしょうか。多く神の恵みを、その愛を知る人は、そうやって神に応えることによって、いよいよ多く神の恵みを、その愛をさらに知ることができるのだということが、ここに記されているのではないでしょうか。

 ルカによる福音書七章に、こんな出来事が記されています。罪深い一人の女が高価なナルドの壺を持って来て、その家の食事に招かれたイエスさまの汚れた足を涙で濡らし、自分の髪で拭い、足にその香油を振りかけました。それを見ていた家の主人が、なぜ罪汚れた女にこんなことを赦すのか、と心の中に思うのですが、その時、イエスさまはその主人にこう言われた、といいます。

 「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(七・四七)

 これは何を意味しているでしょうか。神はある人を多く愛し、ある人を少なく愛する、ということでしょうか。そんなことはありえません。ただ、多く愛されたと思う人は、多く愛し、そして多く応えるのです。しかし自分はわずかしか愛されていない、赦されていない、神の恵みなんて大したことはないと思っている人は、どうしても多く愛することはできないのです。

 それが信仰の真実です。こう言うことができるかもしれません。神に向けて献げた人には、神の自分に対する恵みもまたよく見えるのです。神に向けて献げた人には、自分に向かっている神の恵みがよく見えます。自分に対する神の祝福がわかる人は喜びます。神の恵みの中に自分がいる、そのことを知って心から喜ぶことができるのです。

■違うからこそ、補い合う

 アベルにはそういう喜びがあり、カインにはそういう喜びはありませんでした。身近で喜んでいるアベルを見たカインは、自分は外されている、脱落しているように感じたのです。あいつは恵まれていて、自分は恵まれていないのではないか、と彼は感じます。神は自分を顧みてくれない、そう感じたのです。そう思って見ると、ますますそういうふうに見えてきます。あちら側には陽が当たっているのに、こっちには陽は当たっていない。あっちは恵まれているのに、こっちは恵まれていない。彼は表側で、自分は裏だと考えます。そして、赦せない存在になります。

 彼にとって解決の道は、ただ一つです。アベルさえいなければ…、彼が邪魔だ、彼を排除しなければならない、それしか解決の道はない、彼が自分の壁だ。カインはアベルを抹殺します。それがカインの考えていたことでした。

 だれかが気に入らない。しかし、その気に入らない人間を排除したら、人は幸福になれるのでしょうか。だれかの利害と自分の利害が決定的に対立しているときに、その人を倒したら、自分は幸福になれるのでしょうか。彼のために自分の人生は本当につまらないものになってしまっている、本当にそうなのでしょうか。その人さえいなければ、わたしは幸せになれるのでしょうか。

 そんなわたしたちに、神はこう問いかけられます。

 「お前の弟アベルは、どこにいるのか」(九節)

 神のもとで、カインとアベルは兄弟です。神のもとで、共に生きるべき存在です。だから神は問います。互いに補い、助け合う者として、カインとアベルは生かされ、生きているのです。

 兄のカインは土を耕す者、農耕です。弟のアベルは羊を飼う者、牧畜です。二人は違います。違っているからこそ、補い合う関係になるのです。兄弟という関係、ここに他者の存在の意味があります。隣人という存在の意味があるのです。他者とわたしは違うというだけではなく、であればこそ互いを補い合う関係として、他者というものは存在するのです。神のもとで、他者は、わたしのためのかけがえのない存在として与えられているのです。

■赦されて生きる

 そういう意味で、何があっても他者の存在を否定してはなりません。否定する権利は、わたしたちにはありません。カインは、この兄弟を抹殺することで、地上をさまよう人間になりました。

 「主は言われた。『何ということをしたのか。…今、お前は呪われる者となった。…お前は地上をさまよい、さすらう者となる』」(一〇節)

 カインは自分の兄弟を排除することで、地上をさまよう存在になりました。兄弟を憎み、兄弟を排除し、これを否定することによって、つまり兄弟を自ら失うことによって、彼は安らぎを失います。さまよっている人間の原型がここにあります。このカインこそ、わたしたちです。しかし神はこう言われます。

 「カインは主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。…さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わかしを殺すでしょう』。…主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」(13-16節)

 カインは、兄弟を失うことによって、安らぎを失い、さまよいます。しかし神はそのカインに、ご自分のものであるというしるしを付けて守られるのです。

 他者を受け入れない。排除する罪です。わたしたちの罪の実体というのは、そういうものです。しかし罪人であるこのカインに、神はご自分のものだというしるしを付けられます。つまり、神に赦されながらカインは生きることになります。神に受け入れていただきながらカインは生きるのです。そうやって、カインという人間は変えられるのです。

 それ以外にありません。わたしたちがこの世界を変えていく力は、それ以外にありません。憎しみと対立の世界。利害の世界。わたしたちはそういう世界を生きるほかありません。ただ赦された者として、わたしたちはそのような世界に遣わされ、生きるのです。イエス・キリストの贖いによって赦された罪人として、わたしたちはこの世に出て行くのです。

 この赦しの中に生きながら、この赦しを受け取りながら、自分も赦せる人間に変えられていきます。生かされ生きていくこの世界の隅々、それぞれの一隅から、赦しという神の恵みを証ししていくのです。この罪人が、人を赦せないこの人間が、赦されている恵みを知る者として、この世に遣わされ、生かされ生きているのです。感謝して祈ります。