小倉日明教会

『創造主と被造物の関係は』

ローマの信徒への手紙 1章 18〜23節

午前10時30分〜

2026年5月31日 聖霊降臨節第2主日礼拝

ローマの信徒への手紙 1章 18〜23節<br />

『創造主と被造物の関係は』

【奨励】 川辺 正直 役員

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 10 今こそ人みな 応答 起立
招   詞 詩編 19篇 8〜15節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 117 神を知らぬ者 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

ローマの信徒への手紙 1章 18〜23節(2)

                                                        (新約p.274)

啓示 着席
성  경 로마서 1장 18절〜23절
New Testament The Letter of Paul to the Romans 1:18-23
圣  经 罗马书 1章 18〜23段
讃 美 歌 223(1〜3) 造られたものは 応答 着席
奨   励

『創造主と被造物の関係は』

         川辺 正直 役員

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 223(4〜7) 造られたものは 応答 起立
祝   祷

平和の挨拶

司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。

会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【奨 励】                  役員 川辺 正直

■『石ころ』、金子みすゞ作

 おはようございます。山口県の仙崎に生まれて、大正時代末期から昭和時代初期にかけて、下関市で約500編の詩を遺した日本の童謡詩人に金子みすゞさんという女性がいます。この金子みすゞさんが書いた詩に、『石ころ』という作品があります。短い作品なので、ご紹介致します。

『石ころ』          金子みすゞ

きのうは子供を

ころばせて

きょうはお馬を

つまずかす。

あしたは誰が

とおるやら。

 

田舎のみちの

石ころは

赤い夕日に

けろりかん。

 このような詩なのです。何とも、ユーモラスな詩で、思わず笑みがこぼれてしまうのではないでしょうか。私たち現代人は、石ころでつまずくような、こういう田舎道は、最近はなかなか忘れてしまっているかもしれません。山登りをする人を除けば、舗装された道しか歩いたことがない、そういう人もいるかもしれません。でも、すぐに、よくわかる、よく伝わる詩だと思います。

 最後の行に出てくる『けろりかん』という言葉ですが、この言葉は私たちの普段の生活の中では使われない言葉かと思います。少なくとも私は一度も使ったことがありません。『けろりかん』について、辞書には『平然としたさま』、『全く無関心なさま』などと書かれています。『石ころ』は昔からそこにあって、人がころぼうと馬がつまずこうと、あっけらかんと開き直っているのです。そもそも、開き直るという意識すらなく、ずーっとそこに居続けているのだと思います。

 さて、この金子みすゞさんの『石ころ』という詩が、どうして魅力的なのでしょうか。『石ころ』という、社会的に見たら邪魔者、厄介者であるはずの存在が、詩人金子みすゞさんの手にかかると、生き生きとした存在となるのです。命も感情もあり、それだけではなく、『石ころ』の視点や発想から、この世界を見直してみると、今まで気づかなかったことを発見できたりするのではないでしょうか。

 私たちにとって、私たちをつまずかせる『石ころ』とは、どんな存在なのでしょうか。例えば、自分に嫌な思いをさせた人について、『単なる石ころにつまずいただけ』と、私たちが言ったとします。そうだとした時、私たちは『石ころ』を悪者として、私たちは語っていることになると思います。ところが、金子みすゞさんの詩では、『石ころ』を邪魔者、厄介者、悪者とは決めつけていないのです。私たちが生きている社会の中で、私たち自身が、ネガティブな存在となってしまうことは誰もが経験することではないかと思います。そのネガティブな存在を、ポジティブな存在に転換してくれるところに、金子みすゞさんの詩が持っている魅力だと思うのです。金子みすゞさんの『石ころ』を読むと、『生きてゆく中では、良いことも悪いこともあるけれど、自分は自分らしく生きていいのだ。今日もまあまあの日だったし、明日もまんざら悪い日でもないような気がする。とにかく、笑顔で楽しもう』というふうに感じられるのではないでしょうか。

 神さまからの贈り物のような、人の魂を揺さぶり、深い癒しを与える詩でありながら、それでいてとても可愛らしい詩であるのは、金子みすゞさんが、とびっきり苦しみ、とびっきり愛した人だからこそ生まれたのだと思います。愛と苦悩の人、それが金子みすゞさんだと思うのです。

 天地万物造られた全知全能の創造主でありながら、私たち人間を愛してやまない神様は、この地上に生きている私たちをどのように見ておられるのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■神の義さと神の怒り

 さて、前回、本日と同じローマの信徒への手紙1章18〜23節を取り上げ、この聖書の箇所の18節のみを取り上げて、お話しました。ここで、前回、お話しましたことを振り返ってみたいと思います。18節を見ますと、『不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。』とあります。この新共同訳聖書の翻訳には訳し出されていませんが、16節及び17節にも書かれていますように、18節の頭にも同じく、英語の『For』にあたる、『なぜなら』という意味の『ガル』という言葉がついているのです。従って、この『ガル』という言葉が繰り返しついていることで、15節と16節、16節と17節、そして、17節と18節が繋がっているのです。翻訳では15節と16節の間に段落があり、新しい小見出しが付けられています。17節と18節の間もそうです。しかし、そういう段落や小見出しは後から付けられたものですので、書いているパウロはここで文章を区切ることなく一気に書いているのです。15節で彼は、ローマへ行って福音を告げ知らせたい、という願いを語りました。そして、16節ではその願いの根拠を、『なぜなら、私は福音を恥としないからだ、福音は、信じる者全てに救いをもたらす神の力なのだ』と語ったのです。そして、17節では、その16節で語ったことを受けて、福音が神様の力であるのは、福音に神様の義が啓示されているからだ、と語っているのです。その話の流れが、今日の18節にも続いているのです。17節の、神は福音においてご自身の義を啓示して下さっているということを受けて、18節は、神は同じように人間の罪に対するご自身の怒りを現わしておられる、と語っているのです。つまり18節は『なぜなら』という接続詞によって17節と繋がっていて、『神の義』が啓示されることと、『神の怒り』が現されることが、一つに繋がっていることを示しているのです。17節と18節が一つに繋がっており、そして、いずれも現在形で語られていることから、17節と18節でパウロは、『神の義』が、今、福音において啓示されつつある、それと同時に、人間の罪に対する『神の怒り』も、今、示されつつある、その両者は矛盾することではなく、一つのこと、表と裏のような関係なのだ、ということをお話しました。

 このローマの信徒への手紙では、今日の聖書の箇所の1章の18節から5章の21節まで、かなりのボリュームを割いて義人について論じられています。しかし、前回を含めてこれから何回かにわたってローマの信徒への手紙を取り上げるのは、お話をする者にとっては、かなり負荷のかかる箇所が続くことになります。それはなぜかと言いますと、あなたは徹底的な罪人だということを確認させられる箇所なのです。ところが聖書を理解するうえでは、このことが非常に大切なのです。私たちは、罪人としての自覚がないのなら、救いを求めて神様のもとに来ることはないからです。ですから、パウロは、義人の話をする前に、まず全ての人が有罪であることを論証しようとしているのです。

■神について知りうる事柄は

 さて、本日の聖書の箇所の1章19節を見ますと、『なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。』とあります。さて、19節は『なぜなら、』という言葉で始まっており、18節と19節がつながっているということが分かります。18節では『神の怒り』が、今、示されつつある、その理由は斯々然々(かくかくしかじか)と、19節が受けているのです。なぜなら『神の義』が神様から主イエスの十字架での死と復活という贈り物として与えられていることは、人間には明らかなのに、私たち人間が主イエス・キリストを自分の心の中の牢獄に閉じ込めてしまい、働けなくしてしまう、主イエスのみ言葉を封じ込めて、あくまでも思うがままに、生きようとしていることから、神様は怒っておられるのだというのが、19節でパウロが語っていることなのです。この19節で『なぜなら、』と訳された接続詞は、16〜18節で用いられていた英語の『For』に相当する『ガル』という言葉ではなくて、英語の『Because』にあたる『ディオティ』という非常に強いギリシャ語の言葉が用いられています。ですから、パウロは強い調子で『なぜなら、』と言って、これから『神の怒り』の原因を明らかにしようとしているのです。聖書を読んでいる人にも、聖書を読んでいない人にも、すべての人に神様の啓示が与えられていますよ、いよいよ本論に入りますよ、核心に近づきますよとパウロは強い調子で語りかけているのです。『なぜなら、』神様が造られた被造世界を通して、全ての人々に神様の啓示が与えられているからだと言うのです。

 神様の啓示は自然界を通して、あるいは、人間が神様の形に創造されていることから、神様の福音を認識する能力が全ての人のうちに備わっていると、パウロは語っています。だから、私たち人間には弁解の余地はないのだと言っているのです。それが、次の20節なのです。

■世界が造られたときから

 本日の聖書の箇所の20節を見ますと、『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。』とあります。このように、『弁解の余地がありません。』と語られているのです。この世の中で、福音の内容を理解していないという人は多いかと思います。なぜなら、直接聖書を読んだり、聞いたりしていないからです。しかし、福音の内容は聞いてはいないのだけれど、神様に関する知識について、神様についての啓示は、すべての人に与えられているというのです。そのことを神学的には、特別啓示というものと、一般啓示というものに分けるのです。特別啓示は聖書を読まなければ、あるいは教会に来なければ、あるいはクリスチャンの友人から教えてもらわなければ分からないというものです。そのような特別啓示を聞いてない人であっても、一般啓示というものは与えられているのです。それが、ここに書かれている被造世界を通して与えられる一般啓示なのです。自然の素晴らしさを見て、あるいは自分の良心の動きを見て、神様はいるとなんとなく感じたり、神様を恐れなくてはいけないなと感じたりするのが、一般啓示なのです。

 ここで、被造世界を通した啓示には少なくとも2つの要素があると思います。1つは何かと言いますと、1つは神様が存在するということです。つまり、目に見えるものは、目に見えないものによって創造されたということです。神様の存在を排除して、生物の成り立ちを説明したのが、ダーウィンの進化論です。今日、私たちは進化論が科学的で、合理的に現在の生物世界を説明できているかのように教わっています。しかし、ある事柄が科学的に正しいと証明されるためには、3つの条件をクリアすることが必要です。その3つの条件が何かと言いますと、1つ目が、推測や主観ではなく、観察や実験といった現実のデータ・証拠に基づいて仮説を検証することができること【実証性】です。2つ目が、誰が、いつ、何度同じ条件で実験や調査を行っても、同じ結果が得られること【再現性】です。そして、3つ目が、思い込みを排除し、筋道の通った客観的な推論によって結論が導き出されていること【論理性】です。この3つの条件に照らして進化論を見ますと、ある生物からある生物に進化する過程をそれらの中間種の存在を観察することはできておらず、実証されていないものだと言うことができます。ましてや再現性も確認はなされていないものだと言うことができます。また、進化の存在と過程を合理的、かつ、客観的に説明することもできていません。従って、進化論は未だ仮説であって、神様がいないと合理的に証明できるものではないということが分かるかと思います。

 聖書の論理は明白です。聖書が語っているのは、1つ目が、目に見えているものは、目に見えないものによって作られた、その第一原因者がいるのだということです。2つ目は、神様は力あるお方であるということです。そのことは、被造世界を見ていれば、あるいは宇宙を見ていれば、これらを作られたお方は並みのお方ではないということはわかるのではないでしょうか。神様が存在することと、神様は力あるお方であることが、明確だというのです。そして、神様はこれらのことを、一般啓示を通して、誰に対しても示されていることから、弁解の余地はないのだとパウロは語っているのです。それでは、神様の存在を啓示された人間は、どうしたのでしょうか。

■人間の不信心と不義

 本日の聖書の箇所の21〜23節を見ますと、『なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。』とあります。21節の冒頭の『なぜなら、』も、19節の冒頭と同じように、英語の『Because』にあたる『ディオティ』という強い意味を持つギリシャ語の言葉が用いられています。パウロは21〜23節で、神様は被造物を通して、神様が啓示して下さったのにもかかわらず、人間は弁解の余地もない状態に置かれているのだと語っているのです。私たち人間は、神様を知っていながら、意図的に堕落へのステップを踏んでいるのだと語っているのです。堕落のステップの1つ目が、神様を神様として崇めないということです。むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった、と言われています。

 そして、22〜23節に、『自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。』とありますように、自分では知恵があると吹聴しながら愚かになっているというのです。哲学者のことを英語で『philosopher』と言います。『philosopher』という言葉は知識を愛する人という意味なのです。知識を愛すると言いながら、彼らは愚かなものとなっているというのです。聖書では、神様を恐れない者を愚か者と言っているのです。知識が愚かになると、行動も愚かになります。永遠の力と神性を持った、目に見えない神様を、人間や獣などの目に見える像にしてしまい、偶像礼拝に陥った、それが『むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった』ことの具体的な内容なのです。つまり人間の不信心と不義との根本にあるのは偶像礼拝なのです。これが、19〜23節において語られている人間の罪であり、それに対して神様は怒りを現されているというのです。では、偶像崇拝というものはどのようなものまで言うのかということを、次に考えてみたいと思います。

■裁判官ダニエル・パウル・シュレーバー

 精神分析の創始者であるフロイトは、ドイツの裁判官ダニエル・パウル・シュレーバーという人が出版した妄想体験の記録『ある神経病者の回想録』を分析し、他人が常に自分を監視している、あるいは悪意を持って攻撃してくるといった『不合理な疑い』や『強い恐怖心』を抱くパラノイア(偏執病)の発生メカニズムと無意識の構造に関する著名な論文を発表しました。しかし、このフロイトの分析に不満を覚えたアメリカの精神分析医モートン・シャッツマンは、フロイトの精神分析の症例として知られる、著名な統合失調症(当時はパラノイア/分裂病)患者シュレーバーの幼少期と、その原因を探った『魂の殺害者――教育における愛という名の迫害』(原題:Soul Murder、1973年)という本を著すのです。この本の中で、シャッツマンはこれをただの病理とせず、シュレーバーの父親が彼に行った過酷な幼児体験こそが『魂の殺害』の根源であると告発したのです。

 ザクセン州の控訴院長を務めていた法律家ダニエル・パウル・シュレーバーは、とても頭脳明晰な人物であったのです。しかし、42才の時に、帝国議会に立候補してビスマルクに惨敗したことをきっかけに精神的に不安定となり、パラノイアという精神病を発症してしまうのです。このときの主治医がフレクシッヒ博士という人であり、彼によって重度の心気症(身体のささいな不調や違和感を「自分は重い病気にかかっているのではないか」と強く思い込み、検査で異常がないと診断されてもその不安や恐怖が長期間解消されない精神状態)と診断されます。しかし、シュレーバーの精神病の本当の原因は、幼少期に厳格な父親から受けた教育にあったのです。

 シャッツマンが著した『魂の殺害者』という本によると、シュレーバーの奇妙な告白には一つ一つ根拠があるというのです。例えば、シュレーバーの回想録の中で、彼は自分の目を小人が開け閉めすると記しているのです。なぜ、彼はそのような幻覚を記しているのでしょうか。それはシュレーバーが少年時代、彼の父親であり、19世紀ドイツで体操や幼児教育を提唱した著名な社会活動家であったダニエル・ゴートリープ・モーリツ・シュレーバーが行った、『子どもの意志を折る』ことを目的とし、機械的な拘束具や矯正具を用いて子どもを支配するという過酷な教育の結果によるものなのです。父親は息子が勉強中居眠りしたりしないように、まぶたを引っ張り上げる機械を作って、彼に装着させていたのです。それだけではありません。いすに座っている時、きちんと座らせるために、背筋を伸ばす機械を作り出しました。また、眠っているときには、棺桶に収納されたときのように、まっすぐな姿勢で眠らせるために、特別な装具をつけさせたのです。このように、シュレーバーの精神と肉体は、彼の父親によって、がんじがらめに縛り付けられていたのです。

 父親は、なぜそのような異様な拘束具を息子に装着させたのでしょうか。それは、息子が憎かったのではなくて、愛していたのです。著名な幼児教育者であったお父さんは、自分が発明した拘束具を使って、自分の息子には、世界一立派な大人になってほしいと心の底から願っていたのです。この父親にとって、息子は人生で一番大切な存在でした。ですから、決して手を抜くことはなかったのです。しかし、このことは尊敬する父親に、素直に従ったシュレーバーにとっては、不幸以外のなにものでもありませんでした。

 このように人間は、自分が一番大事にしているものによって、支配されてしまうのです。そして、この神様を脇に置いたままにして、一番大事にしているもののことを、聖書は偶像と呼んでいるのです。そして、この偶像に支配されている状態を偶像礼拝の状態と語っているのです。そして、この偶像礼拝の状態を生み出したのが、人間の罪であり、それに対して神様は怒りを現されていると、パウロは語っているのです。それでは、私たちは神様の怒りに対して、どのように応えて行ったら良いのでしょうか。

■創造主と被造物の関係は

 本日のお話しの初めで、前回と前々回にお話した16〜18節の内容を簡単に振り返って、パウロは、『神の義』の啓示も、『神の怒り』の啓示も、どちらも今起りつつある、進行していることであると語っているということをお話しました。そして、前回、『神の義』の意味するところは、『神は義しい』お方であるけれども、神様はその『義しさ』を、救い主の犠牲(主イエス・キリストの十字架と復活)という形で、罪深い私たち人間への『贈り物』として与えて下さることによって、罪人である私たちを救って下さる、ということをお話しました。神様の救いの恵みが啓示されたことと同時に、『神の怒り』も現されたのです。『神の怒り』は、私たち人間が主イエス・キリストの犠牲と復活を受け入れないが故に、主イエス・キリストによる救いの恵みの福音の中で、同時に現されたのです。私たちは創造者である神様との正しい関係を損なってしまっているのです。『石ころ』という、社会的に見たら邪魔者、厄介者であるはずの存在を優しい眼差しで見つめる金子みすゞさんのように、私たち人間を愛して止まない主なる神様はその罪人である私たちのために、神様と人間との隔たりを埋めるために、独り子である主イエス・キリストを、人間としてこの世に遣わして下さったのです。創造主である神様と被造物である人間の間の越えることのできない隔たりを、神の子である主イエスが人間となることによって乗り越えて下さったのです。

 私たちの不信心と不義も、それに対する神様の怒りと裁きを主イエスが私たちに代って引き受けて下さり、罪の赦しを与えて新しく生かして下さることが、今、私たちに啓示された福音として示されているのだと思います。私たちは、主イエスの十字架と復活によってのみ与えられる神様の救いの恵みを、信仰をもって受け止め、主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。