小倉日明教会

『信じることは希望の灯』

イザヤ書 55章 11節
ローマの信徒への手紙 15章 13節

午後3時00分〜

2025年12月14日 待降節第3主日礼拝

イザヤ書 55章 11節<br /> ローマの信徒への手紙 15章 13節<br />

『信じることは希望の灯』

【説教】 沖村 裕史 牧師

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 242(1〜3) 主を待ち望むアドヴェント 応答 起立
招   詞 詩編 51篇 18〜19節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 269 飼いばおけにすやすやと 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

イザヤ書 55章 11節    (旧約p.1075)

ローマの信徒への手紙 15章 13節

           (新約p.295)

啓示 着席
성  경 로마서 15장 13절
New Testament The letter of Paul to the Romans 15:13
圣  经 羅馬書 15章 13段
讃 美 歌 151 主をほめたたえよ 応答 着席
説   教

『信じることは希望の灯』

          沖村 裕史 牧師

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 531 主イェスこそわが望み 応答 起立
祝   祷

          沖村 裕史 牧師

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■『三十四丁目の奇跡』

 『三十四丁目の奇跡』という映画をご存じでしょうか。一九四七年にアメリカで公開された、子どもたちの夢と希望を励ます、楽しいクリスマスの映画です。

 「サンタクロースって、嘘でしょ!」

 子どもたちの夢はいつかこわされます。だれもが味わう諦めやシラケ。でも、夢も希望も、何もかもが信じられなくなってしまうそんな社会、世界でいいのでしょうか…。

 舞台はアメリカ、ニューヨーク。マッハッタン西三十四丁目にある大手デパートでは、クリスマス商戦の始まりを告げる感謝祭の仮装パレードの準備に大わらわ。そこに太った白髪の老人が現れて、朝から酒を飲んで酔っぱらっているサンタ役を見つけ、「サンタは子どもの夢を破るようなことをしてはいけない」と叱りつけています。そこに通りかかった男の子が尋ねます。「あんたはサンタクロース?」「うん、そうだよ!」

 パレードの責任者であるドリスは、この老人を代役に採用します。ただドリス、この老人がサンタクロースの別名、クリス・クリングルを名乗ったことに不安を覚えます。しかしこの自称サンタが大受け、パレードは大成功。ドリスは胸をなでおろします。一仕事を終えたドリスは、隣人の弁護士フレッドの家からパレードを見ていた九歳の娘スーザンを迎えに行きます。迎えに来るまでの間、スーザンと話をしていたフレッドは、パレードを見ていたスーザンが「サンタは嘘、あれはママが雇ったのよ」とシラケ気味、しかも彼女が童話やおとぎ話を全く信じていないことに少し驚きます。迎えに来たドリスにフレッドがそのことを口にすると、離婚を経験し、バリバリのキャリア・ウーマンとして娘を育ててきたドリスは超が付く現実主義者で、童話やおとぎ話を嘘だと考え、子どもに教えるわけにはいかないと言います。

 ここで、アッ、そうかと話のスジが見えてきます。

 この自称サンタを、デパートはおもちゃ売り場のクリスマス・サンタのコーナーの担当に雇います。サンタの老人、クリスマスに否定的な人を見ると悲しくなって、熱心に愛と希望を信じるよう語りかけます。これが子どもたちにも大人気。オランダ語しか話せない子どもをひざに乗せ、オランダ語で語りかけ、いっしょに歌を歌っている姿を見て、娘のスーザンも彼は本物のサンタクロースではないかと思い始めます。

 さて、ここからひと騒動。

 「サンタは本当にいるのか。この自称サンタは精神異常者だ。デパートが大嘘つきを利用しているのだ」

 さあ街中、大人も子どもも巻き込んで大騒ぎ。「サンタ逮捕!」「あなたは本物のサンタなのか」と裁判となり、フレッドが弁護を引き受けることになります。これは面白いと新聞も報道合戦。「嘘つき!」「わたしは信ずる!」と喧々諤々(けんけんがくがく)。粋な判決はないものかと判事さんも困惑します。

 そんな中、「わたしの願いをかなえてくれたら本物だと信じるわ」。そう言って、娘スーザンもついにサンタの応援を始めます。一生懸命にサンタに励ましの手紙を書く娘の姿に心を動かされたドリスも、娘の手紙に「わたしもあなたを信じています」と書き添えます。

 スーザンの手紙を見た郵便局員は、他にも同じようにサンタを信じる子どもたちからの手紙が数万通も局に届いているのを目の当たりにし、それを裁判所に送り届けることを思いつきます。この手紙の存在を知ったフレッドは、これこそがサンタが実在する証拠だと訴えます。政府機関である郵便公社が手紙を認めたことは政府が公式にサンタの存在を認めたこととなり、裁判はサンタを自称するクリスが正常であること、そして本物のサンタであることを認めて閉廷しました。

 クリスことサンタはドリスにスーザンの手紙に勇気付けられたことを伝えますが、スーザンはクリスマスの日、念願だった、庭にブランコのある家をプレゼントしてもらえず、再び心を閉ざしてしまいます。そんなスーザンに、それまで目に見える現実だけを頼りにして、目に見えないものを、愛や希望を信じることを拒み続けていた母ドリスがかけた、こんな言葉が心に響きます。

 「プレゼントのことと信じてあげることとは別の話よ。…つまり、最初は自分の思い通りにいかないこともあるけど、それでも信じてあげて欲しいの。ママ、やっとわかったの」

 そして最後に、そんなスーザンの願いもかなえられ、映画は終わります。

 この映画の中で、サンタクロースが言います。

 「信じる心をなくしたら、夢という人生のともし火をなくしてしまう」

 その通りです。わたしたちにとって、信じることで灯(とも)し続ける「希望」の灯(ひかり)は、生きる力そのものです。

■キリスト教の「希望」

 キリスト教は希望の宗教です。混沌と絶望の闇の中でなお、希望を語り続ける宗教です。もちろん、およそ宗教というものは希望を語るもので、その意味では希望はキリスト教の専売特許ではありません。しかしキリスト教の語る希望には、それこそがキリスト教の真のユニークさであると言ってもいいような、ひとつの重要な特徴があります。

 それは、普遍的な希望である、という点です。

 排他的なセクトが語る特殊な希望ではなく、いつでもどこでも誰にでも、どのような状況でも通用して、人を癒し、魂を生かし、世界を救う希望です。もし、キリスト教の伝える希望がそのようなものでないなら、多様性の共生を目指す現代社会にあって、何の意味も持たないばかりか、かえって害を及ぼすだけでしょう。毒ガスをまいたあのオーム真理教だって、教祖の唱える地上天国に「希望」を置いていたのですから。

 アメリカやヨーロッパで作られた映画の多くはある意味、どれもキリスト教的な深い精神性に根ざした希望の映画であると言えるでしょう。そして、そうした映画が見るものに等しく深い感動と希望を呼び覚ます事実は、まさにキリスト教の語る、希望の普遍性を物語っています。

 『三十四丁目の奇跡』では、人間不信の母親に育てられた少女が純粋にサンタクロースを信じることで、周囲の人々に希望の灯をともすのですが、彼女が信じたのは、特定の宗教の特定の教義ではありません。彼女を救い、周囲の憎しみや対立を和らげ、平和をもたらす、サンタという存在とその愛の力を、無邪気に信じたのです。少女のサンタクロースへのメルヘンな信仰の向こうに、いつでもどこでも誰にでも、希望を説き続けたイエスさまのほほえみが透けて見えてくるようです。

 そしてパウロもまた、そんな愛と恵みにあふれる御子イエス・キリストの誕生の出来事と、御子のほほえみをそのままに受け入れ、信じるようにと、ローマの信徒への手紙一五章一三節の言葉を書き記しています。ここでは一二節からお読みします。

 「また、イザヤはこう言っています。『エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。』希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」。

■神と人との距離

 最初期の教会の人々は旧約聖書をたいへん重んじていました。彼らの多くがユダヤ人だったからですが、より本質的なことは、御子イエス・キリストが「神の独り子」であり、「神から与えられたもっとも大きな恵み」であるとすれば、そのような賜物について、神はあらかじめ、人々に何らかのメッセージや予告を与えてくださっていたに違いない、御子を指し示す言葉が旧約聖書の中にすでに示されているはずだ、という信仰によるものであったと思われます。

 最初期の教会の人々がとりわけ重要と見なしたもののひとつが、ここでパウロが引用しているイザヤ書でした。今日のイザヤ書五五章一一節の少し前、八節から九節にはこう記されています。

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている」

 ここでは、神と人の間に横たわる無限の距離が強調されます。神と人とが異質な存在であること、神と人との隔たり、その相違が強調されています。こうした神と人との無限の距離という感覚こそ、言い換えるなら、聖なる神と罪人たる人間の大いなる隔たりを示すものであり、わたしたちが神に対して感じる畏れとおののきの源泉である、と言えるでしょう。

 古代のユダヤ人は、このように限りなく聖である神と、限りなく罪に染まったわたしたち人間が直接、面と向かって出会う時、そこに「危険な状態」が生じることを知っていました。聖書には「神を見た者は死ぬ」という伝承があったことが伝えられています。それはちょうど、電気がスパークするような状態、あるいはガソリンや火薬に火がつくような状態をイメージすればよいでしょう。聖なる神と罪ある人間が触れ合う時、両者の接触は一種の爆発的な反応を引き起こし、人間はその力の前に滅ぼされてしまう、といった印象だったのではないかと思います。

■神の言葉

 しかし、そんなにも距離のある、遠く離れた異質の存在であるにもかかわらず、神はなお罪ある人間のことをお忘れにならず、天地創造以来、どこまでもいつまでも誰にでも、わたしたちのことを心にかけてきてくださった、と聖書は繰り返し証言します。

 イザヤも聖なる神と罪ある人間との距離を語った後に、こう続けます。

 「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」

 雨が降り、雪が降り、大地を潤し、作物を芽生えさせ、成長させ、そして実を結ばせるのは、わたしたちの手柄ではありません。神の計りがたい意志がそれを成し遂げるのです。大地とその産物は、わたしたちの知恵や力に先立つ神の恵みを受けて、それに応答しているだけなのです。

 同じように、神から与えられる言葉にも、わたしたちを目覚めさせ、成熟させ、豊かな実を結ばせる力がある、とイザヤは語ります。神の計りがたい恵みがそれを成し遂げるのです。

 しかし今日、わたしたちの住む町の中を見渡してみてください。それはどこもかしこもコンクリートやアスファルトに覆われ、大地はみなその厚い覆いの下に隠されてしまっています。天から降る雨も雪も大地を潤す暇(いとま)もなく、側溝に流れ込み、下水道を通って「処理」されてしまいます。

 イザヤの時代でも、神の言葉がその本来の力を発揮する前に、無造作に聞き流され、忘れ去られ、捨て去られ、そして神の恵みがいともたやすく「処理」されてしまうという事実があることを、人間の心にアスファルトやコンクリート以上に厚くかたくなな覆いがかぶさっているという現実があることを、イザヤはよく知っていました。

■受ける側の問題

 雨が何度も何度も降るように、そして雪が何度も何度も降るように、神は何度も何度もわたしたち人間に向かって呼びかけてこられたという事実を、聖書は証ししています。

 雨や雪が大地の上にそのまま降りそそぐなら、「大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える」力を秘めているように、神の言葉もわたしたちの心にそのまま達するなら、「神の望むことを成し遂げ、神の与えた使命を必ず果たす」のです。

 雨が何度も何度も降るように、そして雪が何度も何度も降るように、クリスマスもまた何度も何度もやって来ます。その日、神の独り子、人間となった神の言葉がお生まれになりました。二千年前にやって来られた神の御子を、今年もまたわたしたちは待ち望みます。そして、その言葉がわたしたちのもとに「受肉」し、わたしたちを目覚めさせ、成熟させ、豊かに実を結ばせてくださることを願い求めるのです。

 クリスマスは新しい年の始まりであると同時に、一年の最後の時期に迎える出来事でもあります。そしてこの年末の時期は、年中行事のように、町中のあちらこちらで地面が掘り返され、水道工事や道路工事が行われる時期でもあります。そのような時、その工事現場の傍らを通り過ぎると、土が地表に現れているのをわたしたちは目にします。コンクリートやアスファルトに固められていた場所に、何年ぶりか、あるいは何十年ぶりかのことで、その下に隠されていた大地があらわにされます。

 アドヴェントのこの時期、わたしたちもまたこの一年の間にわたしたちの心の上に積み重なってしまった覆いを、力をふるって打ち砕かなければなりません。そして、一つひとつその欠片を取り除かなければなりません。

 招きの言葉、詩編五一篇で詩人はこう呼びかけていました。

 「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(五一・一九)

 クリスマスを迎えて、東方の学者たちは御子イエス・キリストに黄金、乳香、没薬を献げたといいます。わたしたちにとって、御子に献げるべきものがあるとすれば、それはわたしたち自身の「打ち砕かれ悔いる心」、そして神の言葉を信じる、開かれた素直な心にほかなりません。

 アドヴェントの日々、わたしたちはこの日々を、そのようにして自らを省み、神の言葉を信じて、その希望を灯し続けるための準備の時として過ごして参りたいものです。