黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
讃 美 歌 | 6 つくりぬしを賛美します | 応答 | 起立 |
招 詞 | 使徒言行録 2章 17節 | 啓示 | 起立 |
信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
讃 美 歌 | こどもさんびか115 | 応答 | 起立 |
祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
聖 書 |
エゼキエル書 37章 1〜10節(旧約p.1357) 使徒言行録 2章 1〜4節(新約p.214) |
啓示 | 着席 |
성 경 | 사도행전 2장 1〜4절 | ||
New Testament | The Acts of the Apostles 2:1-4 | ||
圣 经 | 使徒行传 2章 1〜4段 | ||
讃 美 歌 | 348 神の息よ | 応答 | 着席 |
説 教 |
『主の霊によって』 沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 着席 |
祈 祷 | 応答 | 着席 | |
奉 献 | 応答 | 着席 | |
主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
讃 美 歌 | 382 力に満ちたる | 応答 | 起立 |
祝 祷 |
沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 起立 |
後 奏 | 啓示 | 着席 |
【説 教】 牧師 沖村 裕史
■神の霊
神は果たして存在するのか。わたしたち人類は長い間、そのことについて検討してきました。存在するのか、それとも存在しないのか、それは二本のレールのような議論でした。ただいずれの場合も、神を「存在」という枠の中で論じていたことに変わりはありません。
しかし今日のみ言葉が語る神は、その枠を超えるものでした。
「神は霊である」。聖書はそう告げます。「霊」とはヘブライ語のルッアッハ、息のことです。聖書の第一ページ、創世記冒頭にこんな言葉が記されています。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」(一・一~三)
神が、すべての始まりの時に「神の霊」を通して働きかけてくださり、そして何よりも、その最初の一言が「光あれ」であることに、深い感動と安らぎを覚えずにはおれません。
創世記はさらに、神が空と海と大地を形づくり、草木と動物をつくり、そして神の霊を吹き込んで人間を創られた様子を描きます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(二・七)。神の息、霊によって、わたしたちはいのち与えられ、生きる者とされました。
すべての存在、あらゆるいのちで、自分の意志、自分の力で、自分が望んで存在したものなど、何一つとしてありません。すべてのいのちにとって、最も尊く、ありがたいのは、「あれ」と命じてくださった意志、御心です。神がそう命じられたのですから、わたしたちはもう、何も悩む必要はありません。ただここに「あれ」ばいい。わたしもあなたも、すべてのものが神に「あれ」と願われ、「あれ」と命じられて今ここにある、生きているのだということです。誰からも、何者からも拒まれ、否定されることのない神の意志、神の御心よって、わたしたちはいのちを与えられ、今ここに生かされているのだという真理が示されています。
わたしたちにはときに、わたしは何のため生きているのか、わたしの人生に何の意味があるのか、と思い悩むことがあります。わたしになんか、何の価値もない、わたしみたいな、つまらない何もできない、人から蔑まれるばかりの人間など生きていても何の意味もないではないか、そう思って、深く苦しむことがあります。その苦しさに耐え切れず、いっときの満足だけを追い求め、自分の業績ばかりを誇り、人に認められることばかりを願って、結局のところ、さらに傷ついてしまいます。
そんなわたしたちに、神は今も神の霊によって、ただ「あれ」と言ってくださいます。わたしのいのちも、あなたの人生も、神の意志によって与えられた。ただそれだけが、そしてそれこそが、わたしたちの存在理由、わたしたちが生きていることの意味、決して揺るぐことのない真理です。
■風のように
神は、その存在をはっきりと捉えることのできない神です。しかし、霊として自らの「時」と「場」を携えてわたしたちに触れてくる神です。
神の霊は風のようです。風が直接、その姿を見せることはありません。吹く前にはそれこそ、どこにも存在しない風ですが、ひとたび吹き過ぎる時、木々の葉をそよがせ、枝を揺るがします。それで、人は風の在り処を目で捉えます。すべては風の通り過ぎた後のことです。同じ風でありながら、吹き抜ける対象によってその現われ方はさまざまです。そもそも、どこから来て、どこへ行くのかもわかりません。風の思いのままです。それが風です。帆を操る船乗りたちはすべてを風にまかせます。人間の都合でどうこうできるものではありません。風は自ずから吹くのです。
神は風そのものです。自らの「時」と「場」に応じて吹き過ぎます。ちょうど、ペンテコステのときのように…。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒二・一~二)
イースターから数えてちょうど五〇日目の今日、天の父のもとへと帰られたイエスさまは、この世に残された弟子たちのために、激しく吹く風のような霊を注いでくださいました。イエスさまはその霊について、弟子たちに繰り返し告げておられました。
「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハネ一四・一六~一七)
イエス・キリストの死と復活、そして昇天の後、ペンテコステの出来事を通して、神の霊が弟子たちに注がれ、弟子たちは教会としての歩みを歩み始めました。教会は、御心のままに吹く風のような神の霊に導かれて、今も、ここに集うわたしたちに受け継がれています。
■幻は現実
その神の霊がエゼキエルを幻の中、ある谷へと導きます。そこには多くの枯れた骨がありました。エゼキエルはその時の衝撃を描きます。
「主の手が私の上に臨んだ。私は主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主は私に、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」(三七・一~二)
新バビロニア帝国によって攻め込まれた時のエルサレム攻防戦で殺され、あるいは餓死した人々の遺体を葬った谷に案内されたのでしょう。エルサレム攻防戦では多くのいのちが奪われました。当時の人々の嘆きを記した哀歌からその状況が窺い知れます。「街では老人も子供も地に倒れ伏し、おとめも若者も剣にかかって死にました」(哀歌二・二一)、「剣に貫かれて死んだ者は、飢えに貫かれた者より幸いだ。刺し貫かれて血を流す方が、畑の実りを失うよりも幸いだ。憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした」(同四・九~一〇)。
そのような悲劇は今も繰り返されています。パレスチナ・ガザ地区の死亡者数について、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院が医学誌ランセットに論文を発表しました。それによると、二〇二三年一〇月七日から二四年六月三〇日の間にガザで外傷を負って死亡した人数は、六万四二六〇人と推定されています。ガザのパレスチナ保健省はこの期間の死者を三万七八七七人としていますが、実際の死亡者数はその一・七倍に達し、紛争勃発から一年が経った二四年一〇月には七万人を超えるとあります。しかもその内の六〇パーセントが子どもや女性、そして高齢者です。ガザ地区の広さは三六五平方キロメートル、種子島とほぼ同じです。その狭い地域でわずか一年の間に、種子島の人口の倍以上の七万人のいのちが失われ、食べる物もない過酷な状況が今も続いています。
この「枯れた骨」に埋め尽くされた谷のイメージは、当時のユダヤの人々にとっての現実でした。彼らはバビロニア軍による二度にわたる侵攻を受け、故国を徹底的に破壊され、遠くバビロンへと強制的に連行されていた捕囚の民でした。今日の個所の続き一一節にこうあります。
「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と」
谷間に散らばる干からびた骨は「イスラエルの全家」、つまりイスラエルすべての民の姿である、と神は言われます。イスラエルの民は「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と互いに言い合い、将来に何の希望も見出せないままに、もはやこの地上から消え失せてしまうのではないかという恐れさえ感じ、言い知れぬ絶望と悲しみの中にいたのでした。
■裁きから希望へ
第一次捕囚が起こったのは紀元前五九七年、新バビロニア帝国のネブカドネザル王によるエルサレム占領のときでした。ユダ王国の指導者たち、また将来指導者になりうる人たちが、首都バビロンに連行されます。連行された人々の中に、エゼキエルがいました。
しかし第一次捕囚のとき、ユダ王国が完全に滅ぼされたというのではありませんでした。バビロニアに忠誠を示す王が立てられまた。それがユダ王国最後の王となるゼデキヤです。このときはまだ、建物が壊されたり、人が殺されたりするといった状態になっていなかったため、ユダヤの人々、特に偽預言者たちは、この災難は一時的なものに過ぎないと考え、何の根拠もなく「平和」を口にしていました。要するに「ナメて」いました。その様子を見たエゼキエルは黙っていられず、偽預言者たちを激しく非難し、エルサレムの滅亡とイスラエルの破滅を預言します。しかし人々は、エルサレムや王国が滅びることはないと考え、エゼキエルの言葉に耳を貸そうとはしませんでした。
ところが第一次捕囚から一〇年後、第二次捕囚が起こります。それは、バビロンの傀儡として立てられたはずのゼデキヤ王が状況判断を誤って、バビロンに反旗を翻して戦争を仕掛けて行ったことへの報復でした。エルサレムは徹底的に破壊され、ソロモンが建てた第一神殿も破壊され、多くの人々のいのちが奪われました。ゼデキヤ王もまた両眼をつぶされ、青銅の足枷をはめられ、バビロンに連行されました。
そんな状態になって初めて、人々は絶望しました。「ナメて」いた人たちの顔色が変わりました。その絶望するユダヤ人の姿を見たエゼキエルは、「ほら見たことか、ざまあみろ、わたしの言うことを聞かなかったからこうなったのだ」とは言いませんでした。それまで厳しい裁きの言葉を口にしていたエゼキエルはなんと、彼らを励ます希望のメッセージを語り始めました。自分自身も捕囚の苦難の中に巻き込まれている立場にありながら、絶望する人たちを非難して追い打ちをかけるのではなく、全力で希望のメッセージを語りました。それが、今日の「枯れた骨の復活」の幻でした。
神は霊によって、エゼキエルに枯れた骨が無数にある谷をお見せになり、これらの骨が生き返るように、と預言するようにお命じになります。その通りにエゼキエルが預言すると、骨が近づき、筋と肉が生まれ、それを皮膚が覆い、さらに神の霊が入ります。そのようにして、イスラエルの全家が生き返ります。
■尽きない希望
悲劇の頂点にありました。しかし、その絶望的なほどの悲劇が同時に、救いの開始を告げる出来事となる、と神は言われます。 わたしたちは、このエゼキエルの幻と言葉を裁きとしてではなく、最も絶望的な情況の中にこそ示され語られる、救いの預言として聞き取らなければなりません。
一〇節「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った」とあるように、干からびた骨は、神がその息を吹き込まれた時に生き返りました。生きる力も望みもなく、干からびた骨のようなイスラエルの民を生き返らせるのは、神の霊です。神がその霊を吹き込まれる時に、絶望の頂点とも言うべきその時にあっても、希望に満ちた人としてよみがえるのです。神の霊には実にそのような力があるのです。
大地のちりでかたち造られた泥人形に過ぎなかった人間も、神がその鼻にいのちの息を吹き込まれたその時、いのちのある存在となりました(創二・七)。神がその霊を取り去られると、人は死に、ちりに帰りますが、再びその霊を送られると、また新しく造られます(詩一〇四・二九~三〇)。支配と欲望の中だけに生きる、死せるも同然のわたしたちが、神が霊を注がれる時に、新しく生れ変ります(テトス三・三~六)。
このことは、わたしたちに尽きない希望を与えてくれます。
エゼキエルが預言者として召された最初の時に言われたように、イスラエルの民は、反抗的で預言者のことばを聞こうとしない人々でした(三・七)。目があっても見えず、耳があっても聞えない頑なな民です(イザヤ六・九~一〇、エレ五・二一)。しかしこの幻は、エゼキエルが預言をする時に、神がそのような人々の心に御自身の霊を注ぎ、頑なな石の心をやわらかい素直な肉の心に変えてくださることを示しています。 救いは、神からの無償の贈り物です。わたしたち、人の行いが前提とはされません。神が救いを行うのは、神が神であるという、ただそのことのゆえに、救いが無償の贈り物として与えられます。イスラエル自身は、そしてわたしたち自身は、救いを要求できる根拠をどこにももっていません。ただ、神が神であるがゆえに救いがあると、その救いが主の御霊によって今もわたしたちに注がれているのだと、エゼキエルはわたしたちに教えてくれているのです。
このようにエゼキエルの見た幻は、今のわたしたちへとつながっています。それは、わたしたちを含めた全人類の将来、地球の将来を指し示すものでもあるでしょう。今は、経済的な発展がすべてに優先され、二酸化炭素排出による地球温暖化はもはや待ったなしの状況になっています。原子爆弾による惨劇を身をもって体験し、東日本大震災の際の原子力発電所損壊による恐怖と悲劇を目の当たりにしたはずのわたしたち日本が、具体的な日程をもって原発再稼働の道を突き進んでいます。こうした状況に照らし合わせてみれば、それとは真逆の将来像を示すエゼキエル書は、わたしたちへの大きな警告となり、そしてなお希望を告げるメッセージとなっている、そう思えてなりません。感謝して祈りましょう。