| 黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 17 聖なる主の美しさと | 応答 | 起立 |
| 招 詞 | 詩編 64篇 11節 | 啓示 | 起立 |
| 信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
| 讃 美 歌 | 297 栄えの主イェスの | 応答 | 起立 |
| 祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
| 聖 書 |
創世記 22章 1〜14節 (旧約p.31) |
啓示 | 着席 |
| 성 경 | 창세기 22장 1〜14절 | ||
| Old Testament | Genesis 22:1-14 | ||
| 圣 经 | 创世纪 22章 1〜14段 | ||
| 讃 美 歌 | 440 備えて祈れ | 応答 | 着席 |
| 説 教 |
『神が備えてくださる』 沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 着席 |
| 祈 祷 | 応答 | 着席 | |
| 奉 献 | 応答 | 着席 | |
| 主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
| 報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
| 讃 美 歌 | 528 あなたの道を | 応答 | 起立 |
| 祝 祷 |
沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 起立 |
| 後 奏 | 啓示 | 着席 |
【説 教】 牧師 沖村 裕史
■試みは恵みの扉
最初に、神はアブラハムを「試された」と書かれています。
試すとは「テストする」ということです。「信仰を問う」と言ってよいかも知れません。そういう意味のテストですから、それは人間を痛めつけたり、弱らせたりすることが目的ではありません。もちろん、その試みを受ける人間は苦しんだり、悩んだりするわけですが、しかし、人を追いつめることが神の目的ではないということを、わたしたちは見失ってはなりません。
ヨハネによる福音書九章二節から三節に記された、イエスさまの言葉が思い出されます。
「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。…』」
視覚障がい者が書いた、こんな一文があります。
「そもそもわたしたちは地上の物差しによって生きている。たとえば、健康ならば、もういうことなし、最高。受験生にとって、成績がよければ、もう最高。でも、この地上の物差し、実はゆがんだ物差しではないか。地上のそれではなく、天に通じる物差しがあるのではないか。それはいったい、どんなものだろう?
たとえば、わたしは目が見えません。ですから、家までの通いなれた道でも、ときどき迷子になるときがあるのです。そんなときには、もう一歩も前に進めません。進めば進むほど、分からなくなってくるからです。そういうときは、ただ一点にとどまっているしかない。そして通りかかった人に声をかける。「すみません。駅はどちらでしょうか?」
多くの人は、黙って通り過ぎていく。しかし、ときどき立ち止まって親切に教えてくださる人がいる。ときには、手をとって駅までいっしょに行ってくださる人もいる。そんなとき、わたしはその人に深ーいおじぎをするのです。
こうした今までの経験から次のことがわかりました。目が見えない、耳が聞こえないなどという障害のあるなしにかかわらず、元来人間というものは絶対的に無力である。ということは、人間は何かに依存していなければ生きていけないということです。
だからこそ、わたしは助けてくださったその人に心から深々とおじぎをするのです。心からへりくだってささげる、深い深い感謝。わたしは、こういう感謝、謙遜こそが天に通じるための不可欠な物差しだと思います。目が見えないという障害、実際に迷子になるという出来事をとおして、わたしは人間としてもっとも大切なことを学びました。」
神は試みることによって、新しい道をひとりの人間に与える、新たな道を開かれるのです。その意味で「試み」というのは、そこを通って新たな恵みの世界を見る、見いだす、その「扉」であると言えるでしょう。
■自分一人で行く
とはいえ、神がアブラハムに与えられたその試みは、わたしたちもよく知っている通り、とても厳しいものでした。神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子を連れて、焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と言われます。神は、その試みがアブラハムにとってどんなに理不尽で厳しいものであるかを、よくご存じでした。だからこそ、「あなたの息子」「あなたの愛する独り子」と繰り返されたのでしょう。
その子を、動物の代わりにささげなさいと言われます。これはアブラハムにとっては、理解することのできない求めでした。アブラハムの中にどんな感情があったのか、分かりません。しかし怒りがあり、戸惑いがあり、嘆きや悲しみがあったに違いありません。
それでも彼は、黙って言われた通りに行動したとあります。この後を見ると、朝早く彼は出発したと書いてあります。あれこれ考えることをせず、朝祈ったらすぐに出発したのでしょう。山の麓(ふもと)に到着すると、アブラハムはいっしょに連れて来た若者たちをそこに留(とど)めます。
「ここで待っていなさい。ここから先は自分と息子とで行くから」
アブラハムの呻き声が聞こえてきそうな場面です。そして、誰もがそうですが、一番苦しい時には誰かにいっしょにいてもらいたいと願うものです。親しい人が苦しい場にいてくれる、何も言わずにただ傍に座っていてくれるだけで、それはとても有り難いことです。
がしかし、そういう人がいっしょにいたら、どうしても自分の決断ができないということもあり得ることです。神に対する大事な決断ができない。人間の一生を左右するような決断は、自分でする以外にないのです。自分で神の前に立って一歩踏みこむしかないのです。
確かに、人がいてくれたら心強いようにも思います。だからと言って、いつまでも人といっしょにいるなら、自分の決断ができなくなってしまいます。人間は人に相談ばかりしていたら、結局、一番大事な最後の決断ができなくなってしまうのです。どんな親しい人でも、いや親しければ親しいほどそうです。
そういう意味では、いっしょに行ってもらうということには限界があります。ここから先は自分一人で行く。おそらく、そういう場所が誰にもあるはずです。
■手放して、受け取り直す
アブラハムは若者たちに、「あそこに行って礼拝をして、また戻って来る」と言いました。
とてもつらく、悲しいことです。ところが、彼は「あそこで礼拝したならば、もう一回戻って来る」と言います。彼は、あそこでおしまいだとは言いませんでした。あるいは、そこで子どもといっしょに自分も死のうとは考えませんでした。「もう一回戻って来る」と言います。
なぜなら、これが神の試みだということを知っていたからです。神が試みられるのは、人を倒すためのものではないからです。神の試みはそこを通って、もう一度自分を生かすためのものだということを、彼は信じていたからです。それで、とてもつらいけれど、「ここにもう一回戻って来る」と彼は言ったのです。あそこは、自分の人生の終りの場所ではない、そう言ったのです。
途中、山に登っている間に、イサクはアブラハムに、「お父さん、薪もあるし、いろんな道具は揃っているけれども、献げ物はどこにあるの」と聞きました。そこでアブラハムは、「焼き尽くす子羊の献げ物はきっと神が備えてくださるよ」と言います。
これは苦しまぎれの答えでした。答えようがないのです。そして、アブラハムがこのイサクを礼拝の場所に行って、まさに祭壇でささげようとしたその時、神のみ使いがそれを留めます。
「その子どもに手を触れてはならない。何もしてはならない。あなたは、自分の独り子である息子をこのわたしにささげることを惜しまなかった」
み使いはこう声をかけました。アブラハムにとって、イサクはかけがえのない存在です。宝物でした。しかし神は、アブラハムがイサクという自分の子どもをずっと握りしめていることを許されなかったのです。一旦、この子どもを手離してしまうことを、アブラハムに求めたのです。
聖公会のある司祭の体験です。
「玄関のベルが鳴った。出てみると、若い二人が立っている。『人生の相談がある』というので、応接間にお通しした。まず女性のほうが『実は、この子はわたしの一人息子です』といわれたので驚いた。ずいぶん若造りのお母さんで、わたしは、てっきり二人は恋人同士だと思ってしまったのだ。
そのお母さんは『この子は今年、高三になりますが、将来、司祭になりたい、神学校に入りたいと申しますので、そのことについていろいろ伺いたいと思いまして』といわれる。司祭になりたいという若者を前にしてわたしはすっかりうれしくなり、できるだけ誡実に、いっしょうけんめいに話をした。…
一時間くらいたって、『今日はほんとうにありがとうございました』と母親が立ち上がろうとされたとき、わたしは、とっさにさえぎった。そして単刀直入に、お母さんにいった。
『高校三年になる息子さんの人生相談に、なぜお母様がついてこられたのです?お子さんが小学三年生なら分かりますが。でも、もう息子さんは高校三年生です。自分の将来は自分で考え、自分で判断する年齢です。それからもう一つ。この小一時間のあいだ、質問はすべてお母様からでした。問題は息子さんご自身のことですから、息子さんご自身の口で質問すべきではなかったのでしょうか?』
母親はびっくりしたような顔をされた。それ以上に息子さんのほうが真っ赤になって立ち上がり、『そうです、神父様。この母はぼくが生まれてから今まで、何事もぼくにさせず、すべてを自分の思いどおりにしてきました』といった。母親は大分、気分を害されたようで、あいさつもそこそこに帰っていかれた。
子離れできない母親。愛しているようでいて、実は息子を自分の幸せの手段にしている。人は皆、神様から一人ひとり創られ、一人ひとりにそれぞれの使命が与えられているのだ。親子といえども、お互いに独立した他者同士である。だから子どもは親の所有物、ましてや幸せの手段ではなく、やがて親から離れて自分の人生を歩んでいく存在なのだ。…」
イサクはアブラハムのものではありません。神から与えられた存在です。ほとんどあきらめきっていたそのとき、神から彼に委ねられた存在です。そのことを、アブラハムはこの出来事を通して徹底的に思い知らされました。
そうやって、アブラハムにもう一度イサクは返されたのです。状況は、考えてみれば前と同じです。もとに返ったと言ってもいいかも知れません。
しかし、前とは決定的に違うことがあります。それは、アブラハムが神からゆだねられたものとして、イサクを新しく受け取り直したということです。もう一度彼は、恵みを恵みとして受け取り直したのです。
■別の道、いのちの道、恵みの道
人間は、神の試練をくぐりながら生きて行くのだと思います。
試練をくぐって、わたしたちは新しい形で神の賜物を受け取るのです。恵みを恵みとして受け取り直して生きて行くのです。あるいは、この世界を恵みとして受け取り直して行く。そのような厳しい試練を通してしか、そのことは、わたしたちには判らないからです。これが恵みであるなんてことは、わたしたちには本当に分からない。試練を通して、改めて受け取り直して行く中で、本当にこれが恵みであることが、一つひとつ、わたしたちに分かってくるのです。
詩編五五篇二三節に、こういう言葉があります。
「あなたの重荷を主に委ねよ
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え
とこしえに動揺しないように計らってくださる」
従う者を支える、とあります。あえて神の困難な試練の中へ踏み込んで行く時に、それが泥沼のようにわたしたちを飲み込んでしまう、なんていうことはありません。わたしたちが、神の試練の内に踏み込んで行く時に、そこに道ができるのです。より確かな世界がそこに現われてくるのだということを、わたしたちに示しています。とこしえに、動揺しないように計らってくださるのです。むしろ試練から逃れようとする時に、わたしたちは泥沼の中に入ってしまうことでしょう。
わたしたちの人生、それはある意味、神の試練の道です。
そして神は、いつも新しくわたしたちの信仰を問われます。その試練の扉を一つひとつ開きながら、わたしたちは神の確かさを知らされて行くのです。揺るがないものを知らされていくのです。
アブラハムはこの時の経験から、その場所の名前を「主の山に備えあり」としました。試練の山、それがどんなに険しい、厳しい試練の山であったとしても、そこに行けば主の備えてくださる「別の道」があるのです。わたしたちのために用意していてくださる神の「いのちの道」が、そこに行けばあるのです。
アブラハムの経験したのは、そのことでした。
「主の山に備えあり」
主の山は、わたしたちにとっても、そこが終わりの場所ではないということを知らなければなりません。主はそこから、思いがけない「恵みの道」をわたしたちに備えていてくださるのです。あのゴルゴダの丘の十字架への道がそうであったようにです。感謝して祈ります。
