黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
讃 美 歌 | 20 主に向かってよろこび歌おう | 応答 | 起立 |
招 詞 | 詩編 16篇 10〜11節 | 啓示 | 起立 |
信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
讃 美 歌 | 51 愛するイェスよ | 応答 | 起立 |
祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
聖 書 |
ヨハネによる福音書 20章 1~10節 (新約p.208) |
啓示 | 着席 |
성 경 | 요한복음 20장 1〜10절 | ||
New Testament | The Gospel According to John 20:1-10 | ||
圣 经 | 约翰福音 20章 1〜10段 | ||
讃 美 歌 | 316 復活の主は | 応答 | 着席 |
奨 励 |
『空の墓から始まる物語』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
祈 祷 | 応答 | 着席 | |
奉 献 | 応答 | 着席 | |
主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
讃 美 歌 | 318 勝利の声を | 応答 | 起立 |
祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■作家 C.S.ルイス、『悪魔の手紙』
おはようございます。そして、イースターおめでとうございます。著名なイギリスの作家にC.S.ルイスという人がいます。全7巻からなるファンタジー小説『ナルニア国ものがたり』の著者として有名な人です。また、C.S.ルイスには、悪魔の気持ちになって書いた31通の『悪魔の手紙』という著作があります。一部を紹介しますと、このような手紙なのです。
『第8信 (前略) 先ず始めにはっきりしておかなければならないことは、われわれにとって人間どもは、われわれの食い物だということなのだ。食い物という意味は、人間の意志をわれわれの意志の中に吸収し、人間を犠牲にすることによってわれわれ自身の存在の幅を広げることである。ところが、敵が人間に求める従順は全く違う。人間に対する敵の愛についての物語や、彼に仕えることこそ完全な自由であるというような話は皆、単なる宜伝ではなくて、われわれがぞっとするような本当のことで、われわれはこの事実に直面しなければならないのだ。
以上を総括すると、われわれが欲しいものは、最後には食い物となりうる家畜であるが、敵が欲しいものは、最後には子となりうる下僕なのだ。われわれは吸収したいが、敵は与えたいと願っている。われわれは空っぽであるから満たされたいと思っているが、敵は満ち足りているから溢れ出てくるのだ。要するに、われわれの戦争の目的は、地獄のわれらの父が他者を全部彼自身の中に引きいれてしまう世界を得ることであるが、敵が望むのは、敵と交わりの世界を保ちつつ、しかもその独自性を保つことなのだ。(後略)』。
この手紙に現れる『敵』とは、神様のことです。そして、悪魔の国には、『地獄にいるわれらの父』と呼ばれる魔王が登場するのです。要するに、ここには神の国と悪魔の国との戦争が描かれていますが、何が何を言い表しているかを、しっかり頭の中に収めておかないと、読み間違いそうですね。この本のあとがきで、彼は、『あまりにも悪魔の気持ちになって書いたので、精神がこむら返りを起こした』と書いています。このC.S.ルイスが、『なぜイギリス人は素晴らしい福音を中々受け入れようとしないのか。なぜ大英帝国の国民は福音に応えようとしないのか。多分こうだろう』と語っている文章があります。
『「ビーチに行って一緒にバカンスを過ごさない?」と言われた時、ビーチがどんな所か1回も見た事がない人は、「ビーチ?なんで、そんな聞いた事もない得体の知れない所に、わざわざ出かけて行かなければならないのか。面倒くさい。バカンスだ?」』
このような内容の文章です。本当のバカンスで、自分の心の弦(つる)を緩めるということを経験したら『あぁ、リフレッシュできた!』と思うと思います。しかし、そのようなバカンスの良い面や素晴らしさを味わったことがない人には、無理やり休むバカンスはなにか仕事をするように見えて来て、素晴らしく美しいバカンスへの招きの言葉は、『得体の知れない所に行って、拘束されてしまうのだろうか?それだったら、いつものように、裏の公園で泥ダンゴを作っている方がいい』と言っている子供たちみたいになってしまうと言うのです。
主イエスの十字架の死と復活の出来事も、忙しく、決して豊かとは言えない日常生活に追われている私たちにとっては、地上の楽園ようにも思える、素晴らしいビーチでのバカンスと同じように、素晴らし過ぎて、想像することもできなければ、なかなか受け容れることも難しいのではないかということを考えながら、読んで行きたいと思います。
■福音記者ヨハネの視点
本日の聖書の箇所の1〜2節を見ますと、『週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」』とあります。2節に、『イエスが愛しておられたもう一人の弟子』と記されている福音記者ヨハネは、主イエスの受難と復活について、戦場の現場を駆け巡りながら記事をレポートする従軍ジャーナリストのように、最も近くで見聞きした事実を詳細に報告しています。主イエスの受難と復活の記事を、ヨハネによる福音書を通して読む時に、私たちは聖書を新しい視点で読み直すことが求められます。それは、ヨハネによる福音書よりも先に書かれた共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカによる福音書の記述とは多くの点で異なっているからです。福音記者ヨハネは、先に書かれた共観福音書を知りつつも、事実はこうだったでしょと、他の福音書に記載されていない事実と批判的な視点を提供しているからです。
例えば、2節にマグダラのマリアが、シモン・ペトロとヨハネのところに行って、『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。』と語ったことが記されています。ヨハネの福音書の1節と2節の記述を見ますと、マグダラのマリアは1人で墓に行ったように思ってしまいますが、2節の最後の『わたしたちには分かりません。』というマグダラのマリアの言葉から、マグダラのマリアは複数名の女性と共に、墓に行ったということが分かります。そして、ヨハネはマグダラのマリアたちから第1報をもたらされた証人の立場でこの記事を書いているということが分かります。
それでは、共観福音書であるマルコによる福音書16章5〜8節には、何と書かれているかというと、『墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。』と記されています。多くの学者によれば、マルコによる福音書はもともとこの16章8節で終わっていたと考えられています。
そうだとすると、このヨハネによる福音書のマグダラのマリアたちによって第1報がもたらされたという記述は、誰かが復活の証言をする者でなくては理屈に合わないし、歴史的事実とも異なっていますよねという、マルコによる福音書に対する批判となっていると思います。福音記者ヨハネは、当時のユダヤの社会では、証人として信頼できないとみなされていた女性たちをも含めて、さまざまな人々が主イエスの十字架と復活に関与していることを示し、神の計画が進んで行く様を描いているのです。
■先に墓に着いた
次に、本日の聖書の箇所の3〜4節を見ると、『そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。』とあります。復活の現場の証人でもある福音記者ヨハネは、自分自身とシモン・ペトロが墓までかけっこをしたという細かい事実を記しています。どちらが先に着こうが、どちらが先に墓に入ろうが、私たちとしてはどうでも良いことのように思ってしまいます。しかし、ヨハネにとっては重要なことなのです。なぜかと言いますと、この記事は、ペトロに対する批判を含んでいるからです。ここに福音記者ヨハネの立ち位置があると思います。つまり、この記事はマルコの知らない歴史的事実であると同時に、ヨハネが書いた時点での初代教会の状況や、初代教会の指導者としてのペトロとヨハネとの関係も反映されていると思うのです。このような視点で、2人の弟子が空の墓を見に行った出来事を考えてみたいと思います。
ヨハネによる福音書18章15〜16節を見ますと、『シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。』とあります。ペトロとヨハネの二人組は、大祭司カイアファの屋敷の中まで入ったわけですが、ペトロが屋敷の中に入ることができたのは、ヨハネの手引きがあったからだということが分かります。そして、大祭司カイアファの屋敷でヨハネは、ペトロが3度主イエスを知らないと言ったスキャンダルを目撃するのです。そして、夜が白み始める頃に二人ですごすごと仲間たちのもとに帰ってきました。ヨハネはその後、4人の女性たちと共に、十字架刑が行われる刑場にまで立会い、主イエスの母を引き取る約束も交わします。また、ヨセフやニコデモと共に埋葬まで行います。それに対して、ペトロは、死刑場にも行っていないし、埋葬にも参画していないのです。
私たちは、ヨハネが先についたと聞くと、ヨハネの方が若いので、ペトロよりも走るのが早かったのかなと思ってしまいますが、そうではないと思います。マリアやヨハネは主イエスのご遺体が収められたお墓の位置を知っていますが、ペトロはどのお墓に収められたか知らないということだと思います。ということは、ペトロはどれだけ気持ちがあせっても、ヨハネの後ろをついて行く他になかったのだと思います、だからヨハネが先に着くというのは、当然のことなのだと思います。従って、『もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。』という、ヨハネによる福音書だけに記されている記述は、ペトロ、あなたは私の後ろを走って、ついて来ましたよねという批判ともなっていると思います。
■入って来て、見て、信じた。
さて、本日の聖書の箇所の5〜10節には、『身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。』と記されています。
ヨハネは墓の中を外からのぞき、亜麻布を見ます。ヨハネは主イエスの埋葬に立ち会っているので、その亜麻布が主イエスのものであることはすぐに分かりました。一方、ペトロは墓の中に入ります。彼は近くまで行って、初めて亜麻布が置いてあるのを見ます。ヨハネは、ペトロの後に墓の中に入り、亜麻布だけではなく、すべての状況を見渡します。主イエスの頭を包んでいた覆いが別のところに置いてあることも確認します。マグダラのマリアたちによってもたらされた第1報は、ローマ兵たちによってご遺体が持ち去られたというものでした(2節)。英語訳聖書を見ますと、『They have taken the Lord out of the tomb, and we do not know where they have laid him.』となっています。直訳すると、『彼らは主を墓から取り去りました。彼らがどこに置いたのか分かりません。』となります。『彼ら』とは、墓の警備を行っていた、ローマ兵たちです。ローマ兵たちが主イエスのご遺体を他の場所に移すのであれば、わざわざ亜麻布を剥ぎ取ることを行うことはありません。
主イエスが墓に収められた状況をよく知るヨハネは、墓の中の状況を見て、信じました。主イエスの姿のないままの状況でも、主イエス・キリストの復活を信じたということです。ペトロは、ヨハネと同じ状況を見ながら、キリストの復活を信じることができませんでした。ヨハネだけが信じたのです。ヨハネによる福音書20章29節には、『イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』という主イエスの言葉が記されています。福音記者ヨハネが伝えたいことは、主イエスの『見ないのに信じる人は、幸いである。』という言葉に凝縮されていると思います。復活の主イエス・キリストの姿を目で見るのではなく、目で確認できない状況の中で、つまり見ないままに信じることが幸いだというのです。そういう意味で、ペトロに対してヨハネは一歩先を歩んでいると思います。
9節には、『イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。』とありますように、ペトロもヨハネも主イエスの復活がどのようなものなのかを知らないのです。しかし、それでもなおヨハネは主イエスが復活されたことを信じたのです。目で見えるのか、耳で聞くことができるのか、それともただ感じることができるだけなのか、そのいずれでもないのか、一切、分からないままに、ヨハネは信じたのです。なぜ、ヨハネは信じることができたのでしょうか。それは、ヨハネにとって、どのような形であるかは分かりませんが、再び神の子である主イエスに会うことができるという、とてつもなく素晴らしい出来事が与えられるということを理解したということだと思います。もうないと思っていた出会いが、どれほど素晴らしいことなのかということを次に考えてみたいと思います。
■介護施設の清掃係、メアリー・ダニエル
少し前に、国会で高額医療費の件が議論になっていました。日本では高額医療保険制度があって、高額な手術を受けても、収入にもよりますが、多くは保険でカバーされる仕組みになっているのです。一方、アメリカの医療保険制度は、公的医療保険と民間医療保険の2つに大きく分けられます。公的医療保険に加入できる人は限られており、国民の多くが雇用主の提供する団体保険に加入しています。団体保険は通常、個人契約より保険料が低く、補償内容も手厚くなっています。しかし、雇用主が保険を提供しない場合や失業した場合も含め、医療保険に加入していない国民も多く、保険の未加入者にとって医療費負担は過酷なものとなっています。たとえば、救急外来を利用するだけでも数千ドルの請求を受けることがあり、入院や手術を必要とする場合、その金額はさらに跳ね上がります。医療保険の未加入者がこのような状況に直面すると、医療を受けることを諦めてしまい、病気が悪化してから治療を受けざるを得ない状況に陥ってしまうのです。
メアリー・ダニエルさんという女性が、思いがけない高額医療請求が来て、支払いに困っている人を助ける会社を立ち上げました。メアリー・ダニエルさんはこの会社の最高経営責任者で、収入もあり、生活には困っていないのです。しかし、彼女は老人介護施設に入り、清掃係として週2回、朝から夕方までモップ掛けの重労働を行っているのです。そのようなパートタイムをやらなくても、十分生活することのできる収入があるのに、なぜ彼女はこのようなことをやっているのでしょうか?
それは、彼女の最愛のご主人がアルツハイマー病に罹って、この老人施設に入っているからなのです。ご主人が施設に入ってからも、彼女は毎日のように、ご主人の側で添い寝をして、休むまで一緒に時間を過ごしていたのです。ご主人はありとあらゆる事を忘れてしまうのですが、メアリーさんの事はとてもよく覚えていて、メアリーさんと過ごす時間は、ご主人にとって命綱とも言うべき、特別な時間だったのです。ところが2020年新型コロナによるパンデミックが起こります。フロリダ州は、2020年の3月10日から、『いかなる事情があっても、部外者は老人介護施設にお見舞いに入ってはならない』という州法を作ったのです。ご主人の状態は、日に日に悪くなって行きます。
メアリーさんは持てる限りの伝手を使って、州知事にまで談判し、議会に掛け合い、ありとあらゆる手を回して、『何とか特例措置として、会えるようにして欲しい。』と願い出ますが、『あなたのためだけではなく、感染が拡大すれば、他の人にも迷惑かかるでしょ。』と、却下されてしまうのです。
しかし、彼女はくじけないのです。フェイスブックで、『私と同じように、面会したいのに、コロナウィルスに対する過剰防衛のために、面会出来ない人もたくさんいる事と思います。それに対して、感染防止処置をした上で、なんとか面会出来るように声を挙げましょう』と大々的なキャンペーンを行ったのです。
メアリーさんのキャンペーンが、ご主人が入っている介護施設の管理会社のCEOの目に留まったのです。その管理会社のCEOから、メアリーさんに電話がかかって来て、『ご主人が入っている施設に、清掃係の空きが1つありますが、受けてみますか?』と言うのです。メアリーさんは、2つ返事で、面接を受け、無事、面接に合格し、掃除についての様々なトレーニングを受けた上で、週2回モップ掛けなどを朝から夕方までこなしたのです。そして、就業時間の後は、ご主人の所に行って共に過ごすのです。メアリーさんが面会を巡る運動を始めて114日目に、ご主人の部屋に入った時、ご主人は感激のあまり固まってしまったそうです。なぜ、そんなことが可能になったかと言うと、部外者ではないからなのです。部外者はウィルスを持ち込むかもしれないので入ってはいけないのですが、関係者は施設を運営するために必要な人員なので、OKなのです。ご主人に面会するため、施設の内部の人間になる。そのためには、CEOの仕事を脇に置いて、仕える者の仕事である清掃係の仕事を取ったのです。
清掃係となったメアリーさんと再会したご主人の喜びは、主イエスの復活を信じた福音記者ヨハネの喜びにも通じると思います。なぜ、主イエスは神様であるのに、この世に来て下さったのでしょうか?人間に寄り添うためなのです。主イエス・キリストは、弱っている人を励まし、片隅に追いやられ、苦しんでいる人を慰め、死に怯えている人に望みを与え、罪におののいている人の罪を贖う者となるために、この世に来てくださったのです。
■福音記者ヨハネが歩んだ空の墓の物語
さて、本日の聖書の箇所で、空の墓を見て信じたヨハネと、空の墓を見て信じなかったペトロとは、その後、少しずつ異なる方向へと歩んでゆくようになります。ペトロは生前のイエスを最初に見て、最初に弟子になり、復活のキリストを最初に見て、最初にキリスト者になったということを誇りに思っています。それがペトロの初代教会における権威の源です。そして、権威を身にまとった人の周りには、追従する人々が集まって来ます。実際にありがたみのある体験をした者が一番偉いという集団がそこに生まれるのです。ペトロとその仲間たちの教会形成は、そのような権威に裏打ちされたものであったと言うこともできるかと思います。『わかりやすい権威を見て、信じる信仰共同体』です。エルサレム教会はそのような群れであったと言うことができるかと思います。エルサレム教会は、次第にペトロから、イエスの実の弟である『主の兄弟ヤコブ』へと、権威の中心は動いて行きますが、考え方は同じです。ペトロの経験主義による権威から、ヤコブの血縁主義や民族主義という権威に移って行ったということなのです。
このような経験主義、血縁主義や民族主義といった権威主義の考え方は、ユダヤ人以外の人々に伝道していたパウロと強烈な葛藤を生みました。パウロは、ガラテヤ信徒への手紙の2章にありますように、ペトロや主の兄弟ヤコブを厳しく批判します。生前のイエスを見ていない人に向かって、生前のイエスを見たことがないパウロが伝道をしています。そこには、権威主義は通用しません。
主イエスと出会った人の権威にすがることは、ユダヤ人と非ユダヤ人の差別を生み出します。主イエスと生活を共にしたという権威とつながっていると言い張らない、見えないという共通の地平に立つ教会づくりは、強い者も弱い者もない、男性と女性を分けることがない、奴隷も自由人もないという伝道であると思います。ヨハネは、エルサレム教会の柱の一人でしたが、エルサレム教会とパウロとの論争を体験して、次第に信仰に対する視点を変えて行ったのだと思います。ですから、共観福音書とは視点の異なるヨハネによる福音書を書いたのではないかと思います。ヨハネによる福音書では、サマリア人やギリシャ人といった異邦人や、女性たちが重要な役割を果たしているのです。
空の墓を見て信じた信仰は、ヨハネの原点であると思います。エルサレム教会の権威に対して、批判的な内容を含むヨハネによる福音書が新約聖書に収められているのは、キリスト教の豊かさであるとも思います。主イエスと生活を共にしたという権威に依らない、見ないで信じる信仰がヨハネによる福音書が提案する小さな生き方であると思います。空の墓から始まる物語を生きたヨハネの信仰は、私たちに、主イエスと生活を共にしなくても、主イエスの前に立つことができ、そのままで神の子とされ、愛されていたと知ることができるということを教えてくれていると思います。主イエスの姿を見ていない、私たちのためにも、主イエス・キリストは苦い杯を飲まれ、復活の喜びを知らせてくれたのだと思います。私たちは、この主イエスの招きに、応えて行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。