小倉日明教会

『正しい者はいない。一人もいない』

ローマの信徒への手紙 3章 9〜12節

午前10時30分〜

2026年9月6日 聖霊降臨節第16主日礼拝

ローマの信徒への手紙 3章 9〜12節

『正しい者はいない。一人もいない』

【奨励】 川辺 正直 役員

黙   祷 【前奏】 啓示  着席
讃 美 歌 3 扉を開きて 応答 起立
招   詞 詩編 14篇 1〜3節 啓示 起立
信 仰 告 白 使徒信条 (カードケース、93−4B) 応答 起立
讃 美 歌 529 主よ、わが身を 応答 起立
祈   祷  【各自でお祈りください】       応答 着席
聖   書

ローマの信徒への手紙 3章 9〜12節

                                           (新約p.276)

啓示 着席
성  경 로마서 3장 9절〜12절
New Testament The Letter of Paul to the Romans 3:9-12
圣  经 罗马书 3章 9〜12段
讃 美 歌 409 すくいの道を 応答 着席
奨   励

『正しい者はいない。一人もいない』

        川辺 正直 役員

啓示 着席
祈   祷 応答 着席
奉   献 応答 着席
主の祈り (カードケース、93−5B)  応答 着席
報   告 【ご報告欄参照】 応答 着席
讃 美 歌 117 神を知らぬ者 応答 起立
祝   祷

平和の挨拶

司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。

会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。

啓示 起立
後   奏 啓示 着席

【奨 励】                  川辺 正直 役員

■『怪物はささやく』 (原題:A Monster Calls

 おはようございます。47歳でこの世を去ったイギリスの作家シヴォーン・ダウドさんの原案をパトリック・ネスさんという作家が引き継いで完成させた小説に、『怪物はささやく』という作品があります。英国史上、初めて、カーネギー賞とケイト・グリナーウェイ賞のダブル受賞を果たし、世界的にも大ベストセラーになった作品です。この作品は、映画化もされているので、ご覧になられた方もいるかもしれません。この作品の原案を考案したシヴォーン・ダウドさんは、オックスフォード大学卒業後の1984年から国際ペンクラブに所属し、主にアジアや中南米の作家たちの人権擁護活動に長く携わっています。2006年に作家デビューを果たしますが、翌年8月乳癌のために、47歳で亡くなってしまうのです。生前出版された作品は2つの作品だけでしたが、死後に発表された『ボグ・チャイルド』は、2009年のカーネギー賞を受賞するのです。死去した作家にこの賞が贈られるのは初めてのことでした。さらに、シヴォーン・ダウドさんが遺した構想をもとに、パトリック・ネスさんが執筆したのが『怪物はささやく』という作品なのです。この作品に登場する不治の病のお母さんは、シヴォーン・ダウドさん自身であったとも思いますので、彼女が夢見ていたモンスターを創造する前に亡くなってしまったことは、彼女にとっては心残りのことであったと思います。

 物語の中心となるのは、イングランドの田舎に住んでいる13歳の孤独な少年、コナー・オマリーです。コナーはお母さんが大好きで、お母さんのために食事や洗濯も自分でする、とてもいい子なのです。13歳の子にとって、家事と看病、そして学校の両立は大変だったはずです。しかし、彼は文句も言わず、ひたすら辛い日々に身を置いているのです。お母さんは定期的な化学療法の後は、お祖母さんに助けを求めるのですが、コナーは厳格なお祖母さんが好きではないのです。お父さんはお母さんと離婚して、アメリカに住んでおり、コナーを心配してやって来るのですが、新しい家族がいるので、コナーを引き取ることは出来ないと告げるのです。それで、コナーは、お母さんが亡くなった場合に、自分がお祖母さんと暮らすことになるという計画に不安を感じているのです。

 学校では、皆が不幸なコナーを腫れ物扱いで、誰も彼に近寄ろうともしないのです。寄ってくるのは、いじめっ子だけで、クラスメートのハリーとその仲間のアントンとサリーの暴力に、毎日ひたすら耐えているのです。しかし、これらすべてに加えて、もっとひどい、はるかにひどいことがあるのです。それは、コナー自身、誰にも話さないと誓っている、彼を悩ませている悪夢なのです。どういう夢なのかと言いますと、家の近くにある古い教会が穴に崩れ落ち、お母さんが落下死するのを必死で食い止めようとしているという悪夢なのです。こうして見てみると、コナーは私たちが容易に想像できないほどのストレスを一人で背負いながら生きているということが分かるかと思います。コナーは、自分の周りの世界が崩壊していく中で、どう対処すればいいのか分からずに苦しみながら生きているのです。

 ある夜、午前0時7分、怪物が電話を掛けてくるのです。そして、コナーは教会の隣の墓地にある大きなイチイの木が、節くれだった怪物に変身し、自分の家に近づいてくるのを目撃するのです。怪物はコナーに選択を迫るのです。怪物はコナーに、『3つの物語を聞かせるから、その後お前が真実の物語を話せ』と言うのです。怪物の3つの話を聞き、その後、コナーが4つ目の話で、真実を語らなければ、食べられてしまうというのです。怪物の要求に応えられなければ木に食い尽くされてしまうことを恐れるコナーは、夢と現実の狭間で混乱に陥り、悪化していくお母さんの病状への対処能力や人間関係が極限まで追い詰められて行くのです。なぜ怪物は電話をかけてきたのか?怪物は何を望んでいるのか?そして、怪物は何をするつもりなのか?ということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■皆等しく罪の下にある

 さて、現在、連続して取り上げておりますローマの信徒への手紙の中の大きな部分を占めている1章18節〜5章21節で、義人について述べているのです。その義人について述べている部分の中で、1章18節から3章20節までが一つの区切りとなっていて、この部分で語られていることは、人間に対する有罪宣言と、それに対する神様の怒りなのだということをお話してきました。そして、今回と次回の2回をかけてお話しするのが、人間の中の一部の者が罪を犯しており、そういう一部の者たちに対して神様が怒っておられるということではなくて、私たち人間は皆、一人残らず、罪を犯しており、神様の怒りの下にある、その点において、自分たちだけは特別だと主張できる者はいない、という結論についてなのです。
 とは言いましても、今回と次回の2回をかけてお話しするこの結論の箇所を理解するのは簡単なことではありません。パウロが語るこの結論が腑に落ちるためには、当時のユダヤ教のラビがどういう教え方をしたかという背景を知っていることが助けになると思います。ラビというのはユダヤ教の教師のことです。あるいは律法学者のことです。パウロは主イエス・キリストを信じるようになる前は、ファリサイ派の神学を学んだラビでした。ですから、パウロの教え方の中には、ラビ的手法というものが出て来るのです。従って、パウロが使っているラビ的教授法を2つ理解しておくと、この結論の箇所が、ものすごく分かりやすくなるのです。ですから、結論の内容に入る前に、まず聖書のミニ知識として2つのラビ的教授法について、お話したいと思います。まず、一つ目のラビ的教授法は、大から小へ、あるいは逆に、小から大への論法という教授法があるのです。この教授法は、福音書の中でも主イエスご自身がよく使っている教授法でもあるのです。
 例えば、マルコによる福音書の2章1〜13節を見ますと、中風の人の癒しの記事が記されています。主イエスがカファルナウムのある家、これはおそらくペトロの家だと思います。その家で話をしていた時に、戸口の辺りまで人がいっぱいだったのです。主イエスが熱心に話をされておられる時に、屋根が剥がされる音がしたのです。見上げると、天井が開いて、誰かがつり降ろされてくるのです。友人4人に担がれて連れてくられた中風の人がつり降ろされて来たのです。その時に主イエスは彼らの信仰を見て、その中風の人に何と言ったかと言いますと、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われたのです。その様子を意地悪く検証している律法学者たちがいて、つまりラビたちがいたわけです。主イエスもラビですね。このエピソードはラビとラビの対決となっているのです。それで、律法学者たちはこの段階では、まだ主イエスを観察している段階なのです。だから、彼らは発言しないのです。心の中で論じているのです。なんであんなこと言うのだ、これは冒涜だ。罪を許す権威をもっているのは神様しかいない。だからイエスは神を汚す言葉を言ったと心の中で考えていたのです。主イエスは、彼らが何を考えているのか、全部分かっているのです。全部わかっていて、次のように言われたのです。『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。』。そして、2つのことを言われたのです。『中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』と言われたのです。これが、大から小への議論という教授法なのです。皆さんは、罪許されたよと言うのと、起きて床を担いで歩けと言うのと、どちらが難しいと思われますでしょうか。人間的には、それは目で見て、検証可能な物理的に証明する方が難しいと考えられるのではないでしょうか。『あなたの罪は赦される』と言うだけでしたら、いくらでも言えるのではないでしょうか。『起きて、床を担いで歩け』というのは、実際にはそのことが起こらないと、嘘を言っていると直ぐに分かってしまうと思います。
 ところが、神様の論点からすると、身体の癒しよりは、罪の赦しの方がよほど難しいのです。ですから、主イエスは、大を言っていますが、小まで含めて語っているのです。しかし、律法学者たちは主イエスの言葉を信じないのです。ですから、主イエスは彼らにとって大だと思えることをされたのです。つまり、主イエスは床を担いで歩けと言い、そうしたらその中風の人は歩いたのです。ほら見てごらん。だから、私が言った罪の赦しというのは確実だよという議論に、主イエスは導いているのです。中風の人の癒しの記事を理解するのが難しいところは、神様の大から小への議論と、人間の大から小への議論とがひっくり返っているところなのです。しかし、この中風の人の癒しの記事で行われている議論は、ラビ的教授法で、大から小への議論なのです。
 このラビ的教授法がわかると、今日の聖書の箇所で語られていることが分かるのです。少しだけ前置きとして、本日の聖書の箇所のヒントを言っておきますと、大というのはユダヤ人です。小というのは異邦人です。つまり、ユダヤ人でさえも罪の下にいるのだから、異邦人が罪の下にいるのは当然でしょうという議論になっているのです。つまり、神様からこれだけ啓示を受けているユダヤ人は、それでも失敗したのだ。ということは、異邦人はもう言うまでもないでしょうという。こういうラビ的教授法の議論がまず前提にあるということこれを覚えておきたいと思います。本日の聖書にも関わるもう一つのラビ的教授法については、次回の聖書の箇所がメインとなりますので、次回、お話したいと思います。

■私たちを支配している罪の力

 本日の聖書の箇所の9節を見ますと、『では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。』とあります。パウロは、『わたしたちには優れた点があるのでしょうか。』と記していますが、ここでパウロが語る『わたしたち』というのは誰のことでしょうか。パウロが、『わたしたち』と言った時は、手紙を読んでいる人も含めて言っている場合と、ユダヤ人と異邦人を区別して言っている場合があって、それがどちらであるかは文脈で理解する必要があると思います。ここでパウロが『わたしたち』と言っているのは、ユダヤ人のことを言っているのだと思います。ユダヤ人は、つまり異邦人のことを他の人たちと言っているのです。基本的には、異邦人という言葉はもろには言わない言葉なのです。これは婉曲的に言わなければいけない言葉なのです。放送禁止用語ではないのですが、婉曲的に、遠く離れたもののような言い方をするのです。他の者というのは異邦人のことですから、パウロが『わたしたち』ユダヤ人に特権が与えられているからといって、ユダヤ人が異邦人よりも優れた点があるのだろうか、と聞いているのです。答えはノーですね。ユダヤ人は異邦人よりも優れているから、神様が特権を与えたのではないのです。なぜかと言いますと、パウロは次に『全くありません。』と言っているのです。つまり、ユダヤ人の選びは、神様の一方的な選びなのだということです。それ故、ユダヤ人が神様に背を向けても、神様のユダヤ人に対する選びというものは変わらないのです。ここでパウロが語っているのは、異邦人に向かって語っているのではないのです。第一義的には、ユダヤ人に向けて語っているのです。そして、パウロは『罪』の話へと展開して行くのです。これは、ユダヤ人の有罪を証明すれば、全人類が有罪であることの証明になるという、大から小への議論で、ラビ的教授法をパウロは用いているのです。

 そして、パウロはユダヤ人の有罪の証拠を示すために、次の10〜18節で、旧約聖書を7箇所引用して、次回お話します、もう一つのラビ的教授法を用いて、語っているのです。本日は、10〜18節の中の最初の引用である10〜12節について、全ての人が罪の束縛の中にあるということについて、パウロが語っていることについてお話したいと思います。本日の聖書の箇所の10〜12節を見ますと、『次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。/悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。/皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。/善を行う者はいない。/ただの一人もいない。』とあります。この箇所で、パウロは全人類が罪人だということを証明しているのです。パウロが引用している箇所を言いますと、詩編14篇1〜3節と詩編53篇1〜3節なのです。これらの詩編の内容はほぼ同じで、この2つの詩編の箇所から引用しているのです。有名な詩編ですので、14篇の1節だけを見てみたいと思います。これはダビデの歌です。1節を見ますと、『神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。』とあります。ポイントは、詩人は心の中で、『神などない』と言っているのです。つまり、内的な確信が間違っているのです。内的確信が歪んでいると、行動まで堕落してくるのです。結果として、だから神などいない、神がいたら困る、あるいは神を無視して自分は生きたいと思っている人は、聖書では愚か者であって、結果として、そのように考える人の行為は堕落してくると語られているのです。しかも、この引用では、『正しい者はいない。一人もいない。』となっているのです。『皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。』というのです。これが詩編の宣言なのです。ですから、パウロはユダヤ人に向かって、ほら見てご覧なさい。あなた方が神様の言葉だと信じている詩編が、全ての人間が罪人だと断じているのだ。私パウロがそれを勝手に発明して語っているのではないのだと、パウロはここで言っているのです。注目すべきことは、パウロはここでモーセの律法を引用しているのではないということです。詩編というのは、旧約聖書の中では文学書と呼ばれる分類の書物で、ユダヤ人たちが諸書、諸々の書と言っている書物なのです。

 それでは、全ての人が罪人であるのならば、神様の裁きというのは、何のためにあるのでしょうか。神様は、何を考えているのでしょうか。神様は、人類を裁くことによって何をしようとしているのでしょうか。そのことを次に考えてみたいと思います。

■コナーが語る4つ目の話

 本日のお話しの初めにシヴォーン・ダウドさんが原案を考案し、パトリック・ネスさんという作家が引き継いで完成させた小説『怪物はささやく』という作品についてお話しました。そして、コナー・オマリーという13歳の孤独な少年はお母さんが大好きで、お母さんのために食事や洗濯も自分でしているということをお話しました。そして、コナーは家の近くにある古い教会が穴に崩れ落ち、お母さんが落下死するのを必死で食い止めようとしているという悪夢に苦しみながら生きているのです。そんな、コナーにある日、ある夜、午前0時7分、怪物が電話を掛けてくるのです。そして、怪物はコナーに選択を迫るのです。怪物はコナーに、『3つの物語を聞かせるから、その後お前が真実の物語を話せ』と言うのです。怪物の3つの話を聞き、その後、コナーが4つ目の話で、真実を語らなければ、食べられてしまうのです。

 この怪物の話す物語というのが、誰もが納得するような教訓めいた話ではないので、なんでこんな話を?と思ってしまうのですが、コナーにとっては、この3つの話が重要となるのです。1つ目の物語は、『物語には二面性がある』という話です。2つ目の物語は、『信念を変えるものは結局罰せられる』という話です。そして、3つ目の物語は、『存在を無視され続けた男が、逆に注目されるようになると、孤独感が増す』という話なのです。これらの物語は全てコナーの心情と繋がっています。

 怪物は、コナーに真実の言葉を吐き出させるために、この3つの物語で彼の心に揺さぶりをかけるのです。コナーには心の奥に何重にも鍵をかけてしまい込んでいるものがあります。その扉を1つずつ開いていく鍵がこの3つの物語なのです。

 コナーはずっと、自責の念に囚われていました。だから、学校でも、いじめっ子を実はワザと挑発していたのです。そして、先生にも何も訴えないのです。困ったことがあるならと手を差し伸べる人の手をワザと振り払っていたのです。自分は罰を受けなくてはならない。誰よりもひどい罰を、痛い目に合わなくてはならない。コナーは真面目だから、自分でそう思い込んでいるのです。

 コナーはお母さんのために、家事と看病、そして学校を両立させていたのです。しかし、彼は文句も言わず、ひたすら辛い日々に身を置いているのです。しかし、お母さんがどんどん衰弱し、もう薬が効かないと聞かされて、コナーの心は壊れていくのです。自分で歯止めが効かないほどの破壊行動に、怪物と向かっていくのです。自分で自分の感情を押さえつけていたのに、それを解き放すのです。

 お母さんはコナーに、『怒っていい』と言うのです。『全部分かっているから』と言うのです。

 怪物はコナーに言います。『お前の母親を助けるために来たんじゃない。お前を癒すために来た』と。そして、怪物はまたコナーにあの悪夢を見せるのです。地面が割れ、そこにお母さんが落ちて行きます。慌ててコナーは、お母さんの手をつかみますが、引っ張りあげる事が出来ず、お母さんは落ちて行ってしまうのです。

 怪物は容赦ない言葉を浴びせかけます。『お前が手を放したのだ』と。『違う!』と泣き叫ぶコナー。しかし、怪物は全てを分かっているのです。とうとうコナーは、自分の真実を話すのです。『早く終わらせたかった』と。コナーにとって辛いのは、お母さんが死んでしまうことではなくて、お母さんが死ぬのを待っていることなのです。しかも、大好きなお母さんにそんな事を思ってしまう自分が、絶対に許せなかったのです。だから自分は罰せられるべきだと考えていたのです。辛い生活の中で、友達もいなくて、いじめられていて、当然だと考えていたのです。怪物は、コナーが背負っている重い荷物を降ろさせるために、『人というのは良いことも悪いこともする、そういう矛盾したものだし、それでいいのだ』ということを、コナーに伝えようとしたのです。

 コナーのお母さんは、子供の頃に自分の父親を亡くしています。その時の自分の気持ちの変化を、お母さんはコナーの中に見ていたのだと思います。コナーがずっと我慢を続けていることに、お母さんは気づいていて、このままでは彼が本心を言えずに、自分が死んだ後も苦しむ事になると、心配でたまらなかったのだと思います。

 怪物は最後に、『僕はどうしたら?』と問うコナーに、お母さんに本当の事を言えばいいと答えるのです。そして、コナーが瀕死の状態のお母さんに、涙とともに語った言葉は、『行かないで』だったのです。何もかもを早く終わらせたかったはずのコナーなのに、この言葉は矛盾しているように思えるかもしれません。でも、コナーの本当の素直な気持ちは、一周回って、やはり『行かないで』だったのです。コナーは、お母さんに、『治るよね?』と言い続けていました。でも、本当はもうお母さんの病気は治らないと知っていたのです。認めたくないが、どうすることもできない現実。そしてもう一つ、お母さんの快復を願いながら、この辛い気持ちから一刻も早く解放されたいという矛盾。その全てを受け入れた上での『行かないで』は、彼の心の底からの本心だったと思います。病気のお母さんに弱い自分を見せたくなくて、無理に背伸びをしてきた彼が、初めて子供らしく、お母さんに甘えて抱きついた瞬間だったと思います。子どもとしてお母さんを見送れたし、お母さんもその一言で安心して旅立てたのではないかと思います。怪物は、見事に彼を呪縛から解き放し、ただの子供に戻してやったのだと思います。

 コナーは、お母さんを亡くしましたが、ひとりぼっちではないのです。お祖母さんがずっと鍵を掛けていたお母さんの部屋には、お母さんが描いた一冊のスケッチブックがありました。そこには、イチイの木の怪物と一人の少女の、真実の物語が、まだあとひとつ残されていたのです。

 コナーとお母さんを描いた、この『怪物はささやく』という物語を考えますと、神様が詩編で、『正しい者はいない。一人もいない。』と、全ての人間が罪人だと宣言しているのは、神様の裁きの前で、全ての人間をその罪の故に滅ぼすためではなく、全ての人間が自らの罪を悔い改め、主イエスの十字架での死による罪の贖いを信じることによって、救われるためであったことが分かるかと思います。

 私たちは、揺らぐことのない神様の愛と、主イエスの十字架による罪の赦しを信じて、主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。