黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
讃 美 歌 | 242(1) 主を待ち望むアドヴェント | 応答 | 起立 |
招 詞 | 詩編 110篇 1〜7節 | 啓示 | 起立 |
信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
讃 美 歌 | 309 あがないの主に | 応答 | 起立 |
祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
聖 書 |
ルカによる福音書 20章 41〜44節 (新約p.150) |
啓示 | 着席 |
성 경 | 누가 복음 20장 41〜44절 | ||
New Testament | The Gospel According to Luke 20:41-44 | ||
圣 经 | 路加福音 20章 41〜44段 | ||
讃 美 歌 | 506 すべては主のため | 応答 | 着席 |
奨 励 |
『メシアはダビデの子なのか』 川辺 正直 役員 |
啓示 | 着席 |
祈 祷 | 応答 | 着席 | |
奉 献 | 応答 | 着席 | |
主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
讃 美 歌 | 509 光の子になるため | 応答 | 起立 |
祝 祷 |
平和の挨拶 司式者:人の思いと願いを超えたキリストの平和が、あなたがたと共にありますように。 会衆:また、あなたと共にありますように。アーメン。 |
啓示 | 起立 |
後 奏 | 啓示 | 着席 |
【奨 励】 役員 川辺 正直
■コップの中の水
おはようございます。さて、ある学校で一人の講師が講演をしたそうです。その講師は、『皆さん、ここに水の入ったコップがあります』と言ったのです。その瞬間、聞いていた学生の一人は、『あぁ、この話は知っている。このコップの中の水が半分しかないと思うか、半分もあると思うか、そのような自分の心次第で、人生は豊かにもなるし、貧しくもなるという、あの例のたとえ話だ』と、思いました。ところが、講師はそれを見透かすようにこのように言ったのです。『このコップの水の量が多いか、少ないか、それはそれぞれの見方によるものですが、コップをずっと持ち続けるのはどちらにしてもキツイです。たとえ今は少ない量でも、ずっと持ち続けるなら疲れ果ててしまいます。ではどうすれば良いでしょう。コップを置ける場所を持つことが大切なのです』
悩みも同じです。自分一人でずっと背負い続けていると、小さな悩みがどんどんどんどん大きくなっていきます。そして、悩みでとうとう押し潰されてしまうかもしれません。私たちは誰もが悩みを置く場所が必要なのです。
では悩みを置く場所ってどこなのでしょうか。人間としてどうにもならない罪と死の苦悩の悩み、このような大きな悩みを委ねるような場所、悩みを手放せるような場所というのはあるのでしょうか。それは、主イエス・キリストであると思います。主イエス・キリストは、私たちの罪の重荷、死の重荷、虚無の重荷、心配事の重荷、人生そのものの重荷を、私たちの代わりに背負ってくださる方だと思います。そして、人間の罪の重荷を、主イエスは十字架で死なれることによって、粉砕した上で、3日目によみがえって下さった方なのです。この主イエスの語る言葉に、今日も耳を傾けたいと思います。
現在、私たちはルカによる福音書の20章を読み進めていますが、本日は41~44節を読みます。短い箇所なので、この後のやもめの献金までをまとめてお話しようかとも考えましたが、そのようにすると長くなりますので、今日の今日はこの箇所だけを取り上げることにしました。本日の箇所ですが、この箇所を礼拝の説教の中で、お聞きになられたことのある方は少ないのではないかと思います。何気なく読むと、主イエスの問いに答える者がおらず、短いこともあって、なにやら印象の薄い、何を言いたいのかが、私たちには分かり難い箇所です。しかし、福音記者ルカは、主イエスが祭司長やファリサイ派の人々やサドカイ派の人々の質問を受けることによって、過ぎ越しの子羊として吟味を受けて、傷もシミもないことが証明されてゆくプロセスの最後に、主イエスと彼らとの問答の最後に、今日の聖書の箇所の主イエスからの質問を収めているのです。ルカは主イエスの問いに、並々ならぬ重さを見ているのだと思います。クリスマスの準備の期間に入ったこのときに、主イエスは、メシアはどのような性質のお方なのかということを、人々に教えようとされたのか、ということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■攻守所を替えて
さて、現在、私たちは主イエスの公生涯の最後の1週間を読み進めていますが、前回までの箇所では、ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々が主イエスに質問をしていたのです。この箇所から、逆に主イエスが彼らに質問するようになるのです。
本日の聖書の箇所の41節を見ますと、『イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。』とあります。20章の前回までの箇所で語られていたのは、ユダヤ人の宗教指導者である祭司長や律法学者、長老たち、あるいは、サドカイ派の人々が、主イエスを何とかして陥れ、破滅させよう、あるいは民衆の人気を失墜させようとして悪意ある質問を投げかけてきたということであったのです。しかし、誰も主イエスに勝つことができず、皆黙ってしまったというのが40節までの所なのです。本日の41節以下では、今度は主イエスの方から彼らに問いかけておられるのです。それは、ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々が質問しなくなったからなのです。そこで、今度は主イエスの方から、彼らに質問を始めたのです。この質問ですが、これは神学的な質問です。これは、メシアの本質を理解させるための神学的な質問なのです。
主イエスは、かつて弟子たちに、あなた方は私を誰と言うかと質問されました。それに対して、ペトロがあなたは生ける神の御子キリストと答えました。しかし、本日の聖書の箇所では、主イエスは、私は誰か、私を誰だと言うかという質問をしているのではないのです。今日の聖書の箇所では、一般論的な質問をしているのです。メシアの本質を問う質問をしているのです。それが、『どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。』という質問なのです。
ここで、『メシア』という言葉が出てきますが、これは原文においては『クリストス』です。つまり、日本語では、『キリスト』と表記される言葉です。新共同訳聖書はその『キリスト』を『メシア』と訳しましています。メシアというのは、『油を注がれた者』という意味の、旧約聖書に出てくるヘブライ語の言葉です。油を注ぐというのは、香油を頭に注ぐことであり、神様によってある大事な務め、任務を与えられることを示す儀式です。例えば、王として立てられる時に油が注がれたのです。その『油を注がれた者』という意味のメシアという言葉が、次第に、神様が遣わして下さる救い主を意味するようになっていきました。主イエスの当時、人々はメシアと呼ばれる救い主を待ち望んでいたのです。その『メシア』という言葉が、ギリシャ語に置き換えられたのが『クリストス』、つまり『キリスト』です。ですから新共同訳が『クリストス』を『メシア』と訳し変えたのは、単純な翻訳ではなくて、元のヘブライ語の言葉を持ってきた、ということです。以前の口語訳聖書では、『キリストはダビデの子だ』となっていました。『キリスト』と訳すと、旧約聖書が伝える救い主とのつながりが見え難くなってしまうという点で、これは必ずしも適切な訳とは言えないかと思います。しかし、新共同訳では、『メシア』と訳してくれたおかげで、『キリスト』というのが単なる名前ではなくて、旧約聖書における『メシア』、油を注がれた者、つまり救い主を意味する称号だということが理解しやすくなったと言うことができるかと思います。いずれにしても、主イエスはここで、メシアあるいはキリスト、つまり旧約聖書で予言されている救い主とはどのような性質を備えたお方であるか、という問題を取り上げておられるのです。
ファリサイ派の人々は、メシアはダビデの家系から誕生すると信じ、教えていました。ファリサイ派の人々がそのように教える背景は、詩編132篇の預言があります。詩編132篇の11〜12節には、『主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。「あなたのもうけた子らの中から/王座を継ぐ者を定める。//あなたの子らがわたしの契約と/わたしが教える定めを守るなら/彼らの子らも、永遠に/あなたの王座につく者となる。」』とあります。これは、もともとは、ダビデの子孫が主なる神様の教えを守るならその王朝は永遠に栄える、という約束の言葉ですが、イスラエルの人々はここに、ダビデが王であった頃の栄光と繁栄をイスラエルに回復してくれるまことの王、救い主の誕生の約束を見て、救い主はダビデの子孫として生まれるという期待をふくらませていたのです。そのため、救い主キリストはダビデの子、ダビデの子孫として生まれる、というのは、当時のユダヤ人たちの常識となっていたのです。それ故、メシアのことを、彼らはダビデの子と呼んだのです。ダビデの子孫として登場することから、ダビデの子なのです。さらに、彼らが描くメシア像というのは、これはダビデの姿にとても似ていたのです。ダビデのような解放者として来られるメシア、これが、彼らが描くメシア像であったのです。そして、主イエスの時代、ユダヤはローマの支配下にありました。メシアは、ローマの圧政から自分たちを救ってくれるという期待がユダヤ人にはあったのです。そのような文脈の中で、主イエスはそのことを取り上げて、それに疑問を呈するような問いかけをなさったのです。主イエスの質問が、何を問うているのかと言いますと、メシアはどういう意味でダビデの子なのかと聞いているのです。あなたがたは、メシアはダビデの子と言っているけれども、それはどういう意味なのですかと聞いているわけなのです。
■メシアとは誰か
さらに主イエスの言葉が続きます。42〜43節を見ますと、『ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』』とあります。これは、詩編からの引用です。どの詩編から引用しているのかと言いますと、詩編110篇の1節です。詩編110篇の1節を見てみますと、『【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」』とあります。この詩編110篇の前書きには、【ダビデの詩。賛歌。】という言葉が入っているのです。【ダビデの詩。賛歌。】という言葉が入っているダビデによる賛歌ですので、主イエスはこの詩編がダビデの作であることを認めているのです。それで、主イエスは、ダビデ自身が詩編の中で、こう言っていますと言っているのです。ということは、詩編110篇はダビデの作であることを、主イエスは認めたということなのです。そして、詩編110篇が大事である理由は何かと言いますと、これは新約聖書に最も多く引用されている詩編なのだからです。詩編110篇は、メシア的詩編とも言います。メシアのことを予言している詩編で、新約聖書が最もたくさん引用している詩編なのです。
ダビデはこの詩編で何をしているのかと言いますと、彼は神様から啓示を受けた預言者として、メシア予言を語っているのです。ダビデがここでは預言者となっているのです。ダビデはこう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。』とあります。ここで、最初の『主』という言葉は、ヘブライ語の『ヤハウェ』という言葉です。最初の『主』は、『ヤハウェ』なのです。これは、父なる神を表しています。次の『わたしの主』という言葉ですが、『アドナイ』という言葉使われています。『ヤハウェ』は、『アドナイ』にこう言われた、と言うときの、この『アドナイ』というのが子なる神を示しているのです。ということは、これは父なる神から子なる神への宣言なのです。その宣言の内容が、括弧の中に入っているのです。今、主イエスは、十字架につき、墓に葬られ、3日目に甦り、そして、天に昇られました。昇天されたメシアは、今、どこにおられるのかと言いますと、父なる神様の右の座についておられるのです。右の座というのは、権威ある地位のことを言います。この詩編110篇の『わたしの右の座に着きなさい。』というのは、そのことを語っているわけです。現在は、そのことが成就しているわけですが、その状態がいつまで続くのかと言いますと、『わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで』、この状態が続くというわけです。つまり、神様の敵が、完全に征服されるまで、この状態が続くということです。
■メシアはダビデの主
それでは次に、本日の聖書の箇所の44節を見ると、『このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」』と、主イエスは質問されたとあります。主イエスが投げかけた質問は、こういうことです。なぜ、ダビデは自分の子孫になる人物を、私の主と呼ぶのか。それは、自分の子供や孫やひ孫を見て、私の主と呼ぶのと同じで、矛盾ではないか。どうしてだと思うのか、という質問を投げかけたのです。それに対して、彼らはどう答えたのかと言いますと、マタイによる福音書の22章46節を見ますと、『これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。』とあります。彼らは、主イエスの問いに答えることができなかったのです。なぜかと言いますと、その答えはメシアが神性と人性という2性を持っているということにあるからなのです。メシアは神であると同時に人である、この2つの性質を持っているというところが、正解を答える鍵なのですが、ユダヤ人たちはその理解を持っていないので、答えることができなかったのです。『その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。』とありますように、これで主イエスを吟味する質問が出て来なくなったのです。
■メシアの2性
主イエスの『どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。』と言う、この質問は、何を教えているのでしょうか。この質問は、メシアの2性を教えるためのものです。先程、お話しました詩編110篇の1節は、メシアが神であり、同時に人であることを教えているのです。『ダビデの子』という言葉は、ダビデから生まれる人間だという意味で、メシアの人間性、人性を表しています。それに対して、ダビデが『私の主』と言っています。『私の主』という言葉は、メシアの神性を表しています。メシアは神だから、ダビデはメシアのことを『私の主』と言っているのです。しかし、人間性はダビデを通して、マリアから与えられます。ですから、ダビデの子という言い方になるのです。主イエスは、神様であり、同時に、人でもあるお方なのです。これは、神秘であると言うことができます。三位一体が神秘であるのと同じように、メシアの2性も神秘なのです。人間の頭で考えた説明では、到底理解することができないような真理、それがメシアの本質なのだと思います。聖書が神様の言葉だと信じる私たちは、メシアが神様であり、人であるということを受け入れて、信じているのです。
しかし、ユダヤ人にとっては、このことは非常に難しいことなのです。特に、三位一体がユダヤ人には難しいのです。神様は唯一であると、ユダヤ人は主イエスを信じる前から教えられて来ていて、そのように信じているのです。神様は唯一であるということを信じるのは易しいのですが、その神様が父、子、聖霊として、3つの位格を持って存在しておられるということが、ユダヤ人には非常に難しいのです。メシアの2性に関しても、主イエスは人として来られたというところは受け入れるのです。しかし、その方が神様であって、神様が受肉されたのだというところが、ユダヤ人には難しいのです。現代でも、主イエスをメシアと信じたユダヤ人は少数ですがおられます。しかし、全員がメシアの2性を信じている訳ではないのです。公には表さなくても、メシアは人である、しかし、神ではない。メシアは神様の子ではあるが、神の子の定義はしなくても良いではないか、主イエスは神の子だ、それで良いではないかという言い方をする方もおられるのです。現代のメシアを信じるユダヤ人の中にも、まだ主イエスの2性に関して、目が開かれていない方もおられるのです。これが、信仰の現実なのです。
主イエスの2性が理解できないというのは、例えば、キリスト教の世界の中の異端とか、カルトとかと言われている団体も同じような問題を抱えているかと思います。主イエスは被造物と考え、主イエスを神様であるとは、受け入れることができないのです。しかし、私たちは頭で考えて理解することができなくても、主イエスが神様であり、人であることを信じています。主イエスが神様であり、人であることを信じていなければ、詩編110篇1節を説明することができないのです。『ダビデの子』という言葉は、メシアである主イエスの人性を表しており、『私の主』という言葉はメシアである主イエスの神性を表しているのです。もし、柔軟で、開かれた心を持って、あるいは、教えられやすい心をもって、詩編110篇や今日の聖書の箇所を読むならば、主イエスを信じることができると思います。主イエスは、神様の子が人となられたお方であるということを信じることができると思います。
■和解の子
今から60年ほど前、カナダの宣教師ドン・リチャードソン夫妻がパプアニューギニアのイリアンジャワというところに入りました。そこで、サウイ族の村に入り、キリストの福音を伝えたのです。ところが、いくら聖書の話をしても、全く通じないのです。それどころか、金に目がくらんでイエス・キリストを裏切ったイスカリオテ・ユダの話をした時、何と彼らは興奮状態になり、立ち上がって手を打ちながら、ユダを褒め称えたというのです。実はこの部族のモラルは、現代の日本社会で生きる私たちとは、正反対のものであったのです。人生で一番優れたことは、いかにして相手を鮮やかに欺いて裏切るか、という価値観で生きていたのです。そのような人生観の人々にとって、他人の身代わりになって、十字架で死んだキリストは、単なるおバカさんでしかなかったのです。
さて、裏切りを最高の美徳として生きていたら、結局どんなことになるのでしょうか。裏切りの競い合いが始まると言うのです。しかも、裏切られた方は、裏切り返すことによって、裏切りの報復をするのです。こうして、この部族では、村同士が抗争を始め、それが何年間も、何年間も続いたのです。やがて双方の村とも被害が大きくなり、このままでは別の部族の襲撃を心配しなければならないほど、人口が減ってしまったのです。戦いに疲れ果てた彼らは、とうとう和解することにするのです。しかし、その和解が罠ではないという証拠はどこにあるのでしょう。実は例外的に、正真正銘の契約の結び方が、この部族にはあるのです。それは、タロップティムという習慣です。訳すと、和解の子という意味です。争っている2つの部族の中から、生まれたばかりの赤ちゃんを双方の族長に渡して交換するのです。その子どもが生きている間は、争いはしないという契約なのです。もし裏切れば、相手方に預けられている自分たちの赤ちゃんは殺されてしまいます。それ故、この儀式をもって取り交わす和解だけは、裏も表もない本物の和解となるというのです。
宣教師ドン・リチャードソンは、サウイ族のこの習慣に目を留めたのです。そして、この習慣を用いて、神様がしてくださったことを伝えたのです。すなわち、神様は、私たち人間と和解するために、ご自分のひとり子主イエス・キリストをこの世に渡され、そして、十字架の上で人間の罪を裁いて下さったと伝えたのです。
サウイ族のタロップティムという儀式では、戦いが終わることをみんなで喜ぶのです。一種の興奮状態、パーティーのようなことをするのですが、そのみんなが大喜びの宴会の中で、ポツンと涙が止まらない人がいます。それはその和解のためにわが子を手放す、お母さんです。お腹を痛めて産んだ子、大事に育ててきた、愛してやまない我が子を、自分たちを攻撃していた人々の手に、和解の証しとして、渡さなくてはならないのです。別れの時には、和解の子のお母さんは胸が張り裂けんばかりになっているのです。
サウイ族のタロップティムという儀式の和解の子のように、神様は、ご自分のひとり子主イエス・キリストをこの世に送って、十字架の上で、私たち人間の罪を贖うために、裁いて下さったのです。そして、神様のひとり子、主イエス・キリストは死後三日目に、復活されたのです。主イエスは、神様の子が人となられたお方であるという、主イエスの2性というのは、理解し難い神秘であるかもしれません。しかし、主イエスが人としての性質を備えていなければ、十字架に架かって死ぬことはできません。また、主イエスが神様としての性質を備えていなければ、人間の罪を贖うことも、私たちの救いのために復活することもできなかったと思います。従って、私たちが赦され、救われるということは、主イエスが神であり、人であるという主イエスの2性にかかっているのです。主イエスの2性というのは、理解し難い神秘であるかもしれませんが、主イエスの2性を信じるところから、私たちの救いの物語が始まるのだと思います。
クリスマスは、神様が私たちの救いのために、主イエス・キリストをこの世に送られたことを思い起こす機会です。私たちの救いのために神様はこの困難なことを、成し遂げて下さったのだと思います。私たちは、私たちの理解を超えて、神様との和解の子である主イエス・キリストを世に送って下さった神様の恵みを受け入れて、主の言葉に従ってゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。