黙 祷 | 【前奏】 | 啓示 | 着席 |
讃 美 歌 | 11 感謝にみちて | 応答 | 起立 |
招 詞 | ヤコブの手紙 2章 12〜13節 | 啓示 | 起立 |
信 仰 告 白 | 使徒信条 (カードケース、93−4B) | 応答 | 起立 |
讃 美 歌 | 353 父・子・聖霊の | 応答 | 起立 |
祈 祷 | 【各自でお祈りください】 | 応答 | 着席 |
聖 書 |
マタイによる福音書 18章 21〜35節 (新約p.35) |
啓示 | 着席 |
성 경 | 마태복음 18장 21절〜35절 | ||
New Testament | The Gospel According to Matthew 18:21-35 | ||
圣 经 | 马太福音 18章 21〜35段 | ||
讃 美 歌 | 445 ゆるしてください | 応答 | 着席 |
説 教 |
『心から赦す』 沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 着席 |
祈 祷 | 応答 | 着席 | |
奉 献 | 応答 | 着席 | |
主の祈り | (カードケース、93−5B) | 応答 | 着席 |
報 告 | 【ご報告欄参照】 | 応答 | 着席 |
讃 美 歌 | 533 どんなときでも | 応答 | 起立 |
祝 祷 |
沖村 裕史 牧師 |
啓示 | 起立 |
後 奏 | 啓示 | 着席 |
【説 教】 牧師 沖村 裕史
■赦されるべきは?
西宮に住んでいた頃のことです。今は広島大学の教授をされているT先生から中古のバイクをいただき、早速そのバイクに乗って、教会に向かって走っていました。と、右側後方から追いついてきたワゴン車が、ウィンカーもつけずに急に目の前で左折しました。危ない!なんてひどい運転をする人だろう。 腹を立てて、追いかけて行って注意をしました。
「危ないでしょう。あんな曲がりかたして」
すると、「うるさい。バカヤロー!」。なんて無礼な。
それでわたしはどうしたか。スゴスゴとひき返しました。クヤシイ!でも、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ五・三九)と言われたイエスさまの教えを思えば、こぶしを突き出してケンカをするわけにもいきません。
またある日、教会の駐車場に無断で駐車していた車の後ろに、教会の青年が駐車したまま、礼拝後、どこかに行ってしまいました。さて、前に駐車した人は出ようにも出られません。「カギを教会に預けずにどこかに行くなんて、非常識な!」と怒っていましたが、どちらが非常識なのか、よくわかりません。
結局のところ、わたしたち人間はみんな自分勝手だということです。自分中心で、自分のしていることは正しくて、他人(ひと)のしていることは間違いだらけ。しかし、本当にいちばんひどいのは自分自身だ、とは気がつきません。
旧約聖書にも、ダビデ王が預言者ナタンから、「それは、あなただ」と罪を指摘されるところがあります。サムエル記下一二章の場面です。自分の部下ウリヤの妻に横恋慕し、その妻を横取りするために、ダビデはウリヤを戦場の最前線に向かわせ、殺しました。ところが、その罪をナタンから告げられるまで、偉大な王と言われたダビデでさえ、自分の過ちに気づきませんでした。
つまり、他人を裁いている間は、自分こそ赦されなければならない者だということに気づいていないのです。今、イエスさまが「七の七十倍するまでも赦しなさい」と言われる時、それは、赦すための「忍耐」をわたしたちに求めておられるのではなく、実に自分こそ、裁く資格のない人間であることに気づきなさい、と言われているのではないでしょうか。
■我慢くらべじゃない
とは言え、「七の七十倍するまでも赦しなさい」と言われると、わたしたちはどうしたらいいのかと考え込んでしまいます。
「我慢をしなさい。お互い人間なのだから過ちもあるだろう。赦してやりなさい」。イエスさまに教えられなくても、誰もが知っている知恵です。当時のユダヤ教の教師、ラビたちも民衆に意見を求められ、我慢して、耐えて、赦してやらなければいけない、と教えていたようです。
しかし、どこまで我慢したらよいのか。そのことが問題となりました。そこでラビたちは、「三回までは赦してやりなさい」と教えました。「仏の顔も三度まで」ということわざと同じです。三という数字は、完全数―聖なる数の一つです。三度までは神も勘弁してくださるだろう。神が赦してくださるなら、わたしたちもそこまでは赦さなければならない。とはいえ限度があります。四度目になれば、もう赦す必要はない。そこまで寛容になる必要はありません。
ペトロが「七回までですか」という問いは、この「三回まで」という世間の常識の超えるものでした。イエスさまは、世間の常識よりももっと深い愛を説くお方だ、ペトロはそういうことを計算に入れて少し先回りをし、先生に褒めてもらいたいと思ったのかもしれません。世間の人は三回までと言っているけれど、もっと増やして七回まで赦してやればよいでしょうか。七も完全数の一つです。七回も赦せば、完璧な赦しになると思ったのでしょう。
ところが、イエスさまは「七の七十倍するまでも赦しなさい」とお答えになります。そしてその意味を説明するかのように、一万タラントンを赦した王の譬えをお話しになります。
ただ、この譬え話、七の七十倍するまでも赦すのはなぜか、ということの直接の説明になっていません。この譬え話の中に、たとえば、ある人がペトロの言うように自分の仲間の罪を七回までは赦してやった。ところが、八回目の罪を重ねた時に、もう我慢ができなくて殴り倒してしまったか、牢獄に放り込んでしまったかした。そういう姿が描かれて、それに対してもっと忍耐深く、もっと愛の大きな人が、七の七十倍するまでも赦してやった。そういう話ではありません。
もともと赦しは、道徳の問題―自分の徳の高さや寛容さの問題ではありません。一度しか赦せない人間よりも、三度まで赦せる人間の方が偉い。三度しか赦せない人間よりも、七回赦せる人間の方が偉い。七回しか赦せない人間よりも七回を七十倍するまで赦せる人間は偉い。そういう話ではありません。偉さの問題ではないのです。
七の七十倍する、それだけの忍耐力を持っている人間が四百九十回は赦せたが、四百九十一回目の罪を重ねられた時には、どうするのか。七回我慢した人間が八回目にやり返すよりも、四百九十回我慢したときの報復の方がはるかに激しいかもしれません。わたしたち人間のすることは、せいぜいそういうことでしかありません。こんなに我慢しているのに、まだ分からないのか。イエスさまはここで、そんな我慢くらべをさせようとしておられるのではありません。
■赦しが分からない
もちろん、赦し合うことの大切さはだれもがよく知っています。そして不愉快な仕打ちを受けても、恨んだり、仕返しをしたりしてはいけないと、それなりの努力をしていると思います。そのための心の葛藤を経験したことがないという人はいないでしょう。
そんなわたしたちに向けて、イエスさまはこう言われます。
「心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」
「心から」というイエスさまの言葉の前にして、心からではないものが自分の心の中にあることを、だれも否定できないでしょう。赦しというよりは、むしろ我慢が、あるいは表面だけの取り繕いが、そこにはあります。「心からの赦し」が、もし泉のように内から湧き上がる赦しを意味するのなら、とてもわたしたちにはできそうもありません。
それにしても、王から一万タラントンの借金を帳消しにしてもらった、この家来の見事な忘れっぷりは、どうでしょう!赦してもらったすぐあとに、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、「待ってくれ、返すから」と懇願するのに耳もかさず、牢に入れたというのですから、あきれてしまいます。
そもそも一万タラントンというのはとてつもない額です。一タラントンは六千デナリオンですから、六千万デナリオンということになります。一デナリオンが、当時の労働者一日分の賃金とされていましたから、仮にそれを一万円として換算してみると、六千億円という想像もつかないほどの金額です。
つまり、これは無限の負債、無限の借金でした。現実にはこれを借りることも、返済することも、とてもできないほどの負債でした。それで主人は家来に、妻も子も財産も、すべてを売り払って返済するよう命じたのでしょう。すると、
「家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」
「どうか待ってください」に続けて、「きっと全部お返しします」と言っているのを見ると、家来は、それでも何とかして借金を返そう、負債を償おうとしています。それほどの大金を免除される、赦してもらえるなどとは、考えもしなかったのでしょう。
ところが、ここで思いもかけず、主人はこの返済を無条件に免除してくれた、といいます。えっ、そんな馬鹿な、ありえないとだれもが驚き、そして、きっと「感動する」ことでしょう。
であればこそ、それほどの巨額の借金を帳消しにしてもらったのに、なぜこんなにもすぐに、しかもきれいさっぱり忘れることができたのかと呆れてしまいます。
彼は王から返済を迫られた時、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と願いました。その場限りの言葉を使うことはよくあるとしても、「きっと全部返します」とは、よくも言えたものです。
そう、ここが肝心なところです。
きっと彼は、一万タラントンの借金の大きさ、その意味するところが分かっていなかったのではないでしょうか。分かっていたら、そんな言い逃れはとてもできなかったでしょう。そして、それが分かっていないから、その帳消しが意味するところも、これまた分からなかったのでしょう。
彼は忘れたというよりは、そもそも借金とその帳消しの意味することが、分かっていなかったのです。
それが分かっていたのは、ただ一人、王だけでした。
王は、家来の借金が彼の返済能力をはるかに越えていること、そして、これを解決する道は、自分が赦すより他にはないことが、よく分かっていました。
だからこそ、赦したのです。
借金の帳消し―罪の赦し―は、王にしかできないこと、そう、神のなさることでした。
■愛されているから
こどもは、叱ったり、厳しく躾(しつ)けようなんてしなくても、こどものことを愛してさえいれば、愛されていることを感じて、してはいけないことを自然に学ぶものです。たとえ悪いことをしたときでも、素直に「ごめんなさい」と言うことができるようなります。なぜか。愛されていることを知っているからです。必ず赦されることが分かっているからです。
大人のわたしたちも同じはずです。ところが、わたしたちは他人のことを非難ばかりしています。決して赦そうとしません。口では、「ごめんなさい」と言えば赦してやる、まず自分の罪を認めて悔い改めろ、そうすれば赦してやろう。わたしたちはいつもそう言います。でも本当にそうでしょうか。「ごめんなさい」と言えば、「そうだ、おまえが悪いんだ」とか、「本当にごめんなさいと思っているのか、口先だけじゃないのか」と言って、さらに責め立てます。最近の裁判を巡る様々な発言や社会の風潮は、謝罪があって初めて赦される、悔い改めがあって赦しがある、そんな風です。でも、そこに本当の赦しはあるのでしょうか。決してありません。
この譬えには、人が自分の罪を認めて、悔い改めることが赦しの条件であるなどとは、どこにも書かれていません。ここでは、無条件の赦しが問題とされています。イエスさまが言われていることは明らかです。
神は、わたしたち一人ひとりに無限の愛と赦しを与えてくださっている。一人ひとりに今日というかけがえのない一日を、生きている喜び、出会い、恵みのすべてを無償で与えてくださっている。今ここにも、小さく、弱く、過ちばかりを繰り返しているわたしたちに、神の恵みが与えられている。それなのに、その恵みに、愛と赦しをもって応えず、逆に怒って、仲間の、友の首を絞めているような、わたしたちの毎日です。
しかし、それでも大丈夫。そんなわたしたちたちをこそ、神はどこまでも赦してくださっている、とイエスさまは言われます。それは、いのち与えられた者、わたしたちへの神の限りない愛ゆえです。それは、神からの一方的な贈り物、恵みです。だから、わたしたちも神の愛に応えて、人を裁かずどこまでも赦しなさい。そう言われるのです。
■赦されて今ある
しかしそれは、わたしたち人間にできることではありません。
罪とか赦しとかを、わたしたちはよく口にします。しかしその割には、そのことがよく分かっていない。それが、わたしたちの本当の姿ではないでしょうか。
そして、そういうわたしたちのために、そのことがよく分かるように導かれる機会が、だれにも必ずやって来ます。その機会とは、自分が赦さなければならない、自分が赦すほかどうしようもない、そんな場面に出くわす時です。
傷つけられた人が、傷つけた相手を赦そうとすることは簡単なことではありません。それは、とても苦しく辛いことです。しかしそのような時こそ、他人に酷いことをしていることに気づかずにいるこのわたしたちが、自分自身が赦されて、今ここに生かされている、という真実に気づかされる、とても大切な時です。
ですから、そういう時が来たら、心からでなくても、とにかく赦そうと努力しましょう。罪とその赦しが、もともとよく分かっていないわたしたちに、心から赦すことなど、無理な話です。心からでないから、だめだと嘆かずに、心からでなくても、とにかく赦そうと努めましょう。
時には、怒りに押し流されることもあるでしょう。仕方ありません。
しかし、その度に心を立て直して、赦そうと努めましょう。
大切なことは、「心から赦す」ことではなくて、「心からでなくても赦し続ける」ことです。そしてそれが、実は「心から赦す」ということなのです。
「心から赦す」とは、泉のように赦しが内から湧き上がって来る、という意味ではありません。そのようなことは、人間のできることではありません。
そうではなくて、たとえ心からでなくても、赦そうと心を立て直し続けること、そして、その葛藤の中で、他のだれでもない、この自分自身が赦されて今あることに、立ち返り続けることなのです。感謝して祈ります。