小倉日明教会

「もう、与えられてる」

ルカによる福音書 20章 9〜19節

2023年3月26日 受難節第5主日礼拝

ルカによる福音書 20章 9〜19節

「もう、与えられてる」

【奨励】 沖村裕史牧師

■最後のたとえ話

 今日、お読みいただいた「ぶどう園と農夫」は、イエスさま、最後のたとえ話です。この三日後、イエスさまは十字架につけられます。

 イエスさまは実に、多くのたとえを語られました。人々にとって身近な出来事にたとえて語りかけられるイエスさまの言葉は、とても具体的で分かりやすいものでした。ただ分かりやすいというだけでなく、そのことによって、人々はイエスさまの語られていることを、他でもない、このわたしに、自分に向けて語られている、そう感じました。イエスさまがたとえによって語られていたことは、神様が与えてくださる限りない愛と、その愛に包まれ、促され、押し出されるようにして喜びをもって生きるようにとの教え、励ましでした。しかし、そんな神様の愛とは無縁に、神様の愛を無視し、神様の愛を拒んで生きる人たちにとって、イエスさまのたとえはしばしば、厳しい裁きの言葉、厳しい警告の言葉に聞こえました。今日のたとえを聞いていた人々も、この最後の厳しい言葉に驚き、恐れました。一五節から一六節、

 「『…そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。』彼らはこれを聞いて、『そんなことがあってはなりません』と言った」

 人々は、「なんということだろう、そんなことがあってはならない、わたしたちは決してそんなことをいたしません」と誓います。しかしそのとき、「律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとし」ましたが、イエスさまの言葉に耳を傾けるたくさんの人々がいたので、それを思いとどまったとあります(二〇・一九)。しかしこの三日後、まさに「家を建てる者の捨てた石」となられたイエスさまは、律法学者や祭司長たちによってだけでなく、イエスさまの言葉に耳を傾けていたはずの人々の手によって、十字架につけられることになりました。

 レントの季節、暗澹たる思いにさせられるこの事実を心に刻みつつ、わたしたちは今日のたとえを聞かなければなりません。

■限りない愛をもって、与え備えてくださる

 イエスさまのたとえはこう始まっています。

 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」

 ここに出てくる農夫たちはわたしたちのこと、ぶどう園の主人は神様です。そして、ぶどう園はわたしたちの生きる場所、働く所、置かれている場です。つまりこのたとえ話は、神様を信じるわたしたちが神様の備えてくださったぶどう園で、どのように生きるのか、そのことを教えようとするものです。

 初めに、ぶどう園の主人のお話をいたしましょう。

 大金持ちや地主は、雇った農夫たちに土地を貸し、賃貸料で豊かな生活をしていました。しかしそのぶどう園を貸す前に、所有者である主人は十二分な準備をしなければなりません。ルカ福音書には、ただ「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し」とあるだけですが、同じたとえを記すマルコ福音書には、「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」(一二・一)と丁寧に書かれています。

 ぶどう園造りは簡単な仕事ではありません。

 パレスチナはチグリス・ユーフラテス川の上流にあたります。その辺りは肥沃な三角地帯と言われ、水さえあれば豊かな土地ですが、畑にすることもできないほど、たくさんの石があるところです。根を張るのに邪魔になる大きな石だけを取り除くのですが、それだけでもたいへんです。次に取り除いた石を利用して壁をつくり、隣地との境にします。作られた垣根は境になるだけでなく、野生動物による被害を防ぐ柵にもなります。さらに、人がその柵の上から入って来ないよう、茨のような棘のある植物を垣の上にはわせます。機械のない時代に、これだけでも重労働です。さらに続いて、見張りのための「やぐらを立て」、ぶどうを搾るための「酒ぶねの穴」をつくります。やぐらのすぐ傍に穴を掘るのですが、ただ土を掘るというのではなく、大きな硬い花崗岩をくり貫いてつくらなければなれません。そんな準備をしてからぶどうの苗を植えるのですが、収穫できるようになるまでには、三年も四年もかかります。ぶどう園の主人はそのすべてを整え、苗まで植え終えた後、ようやくのこと農夫たちに任せて旅に出たのでした。

 ここでまず、お話しをしておきたいことは、生きる場や生活の場を与えくださる神様とはどのようなお方なのか、ということです。聖書は繰返し、神様はいのち与えてくださったわたしたちを愛し、必要なものすべてを与えてくださるお方である、と語ります。

■信頼し、自由を与え、忍耐してくださる

 それだけではありません。「任せて旅に出た」とあるように、農夫たちを信頼しています。主人は収穫の時まで、何も言ってきませんでした。

 神様はわたしたちに導きを与える方です。モーセに十戒を与え、人殺しや姦淫をしてはいけない、嘘をついてはいけない、両親を敬いなさいとお命じになられました。そうすることで本当に幸せになれるよ、と十戒を与えてくださったのです。火の柱や雲の柱をもって導きを与えてくださったこともあります。しかもそのようなときには必ず、自由をも与えてくださいました。

 不思議に思われるかもしれません。戒めと導きを与えながら、一方で自由を与えてくださるのです。エデンの園においても、木の実は食べてもよいが、一つだけは食べてはいけないと言われました。自由を与え、信頼し、多くのものを託してくださいます。その上で、それを用いるのは、あなた自身だと言われるのです。神様はわたしたちを操り人形にはなさいません。

 そして何よりも、このぶどう園の主人である神様は、忍耐の神でした。

 収穫時になったので約束の賃貸料を納めてほしいと、僕(しもべ)を遣わしました。ところが、農夫たちはその僕を袋叩きにします。二人目も袋叩きにし、侮辱を与えました。三番目の僕には傷まで負わせています。やむなく主人は、四度目、自分の息子を派遣しました。ところが、農夫たちはその息子まで殺してしまいます。普通でしたら、最後の僕が傷を負わされたところで、それなりの準備もし、大きな権力、武力をもって農夫に迫ったに違いありません。しかし、そうはされませんでした。まさに忍耐の方です。

 十戒を授ける前、神様は、イスラエルの人々に「宝の民」「祭司の国民」「きよい民」と呼びかけ、イスラエルの民を通して、すべての人々に救いが、神の祝福が及ぶように、と願われました。ところが、その宝の民は傲慢な独りよがりの民になりました。神様はきよい民になるようにと期待されましたが、イスラエルの民は何度も何度も、裏切り、罪を犯しました。それでもなお、神様はこの民を愛し続けられ、導かれました。

 神様が、愛の神であり、すべてを与え備えてくださる神であり、わたしたちを信頼して任せてくださる自由の神であり、豊かな稔りをもたらすよう辛抱強く待ち続ける忍耐の神であることを、このたとえは教えてくれています。

 これほどの神様の愛と恵みの中で生きることをゆるされている人生は、幸いです。たとえどんな困難にあったとしても、「生きていてよかった」と言える人生を送ることができることでしょう。

■愛を忘れて、殺す

 ところが、農夫たちは主人の言葉を無視し、拒み続けました。耳を傾けようとさえしません。たとえ、あなたから与えられたものではあっても、その後、苦労をしてぶどうの木を育て、ぶどうの実を稔らせたのは、わたしたち。あなたではありません。それを今さら、というわけです。

 「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』」

 わたしたち人間は「自分のもの」という意識を、何歳ごろから持ち始めるのでしょうか。赤ちゃんのときは「自分」という意識も「自分の」という所有感覚もないのですから、「自分のもの」という思いもなかったはずです。何も持たず、しかしすべてがある世界。もはや記憶にはありませんが、それは間違いなく幸福な楽園だったはずです。ベッドもタオルも、ミルクもおもちゃも、すべてちゃんと用意してあって、独占欲もなければ、失う恐れもありません。両親から、いのち―自分という存在を与えられ、必要な環境を整えられて、根源的な充足感を味わっていたのです。

 ところが、赤ちゃんであってもいつしか所有ということを覚え、あれも欲しいこれも欲しい、もっと欲しいという所有欲がふくらんできます。当然それは、奪われたくない、失いたくないという恐れを生み出し、手にしたものを取り上げられれば、火が付いたように泣きだします。幼稚園に入るころには自分のものに自分の名前を書くように教えられ、小学校に上がるころには他人のものをうらやみだし、中学生や高校生になって、自分は何のとりえもない、何も持っていないなどと思い始めるころ、悪魔がやって来て、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、耳元でささやきます、「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と。

 そんな欲望という名の悪魔を拝んで苦しんでいるのが、現代社会の実態ではないでしょうか。蜃気楼のような繁栄の幻影に目をくらまされて欲望の悪魔を拝み、すべてを得ているようでいて、何ひとつ満ち足りていない社会。あらゆる情報、あらゆる刺激、あらゆる快楽に満ちあふれているようでいて、苦しみばかりが増していく社会。それこそ、自分のものにしたいという欲望と、自分のものにできないという不満に満ち満ちた、失楽園の姿そのものです。

 イエスさまの語るぶどう園は、すべて主人がつくったものです。垣を巡らし搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てたのは主人です。すべては主人のものであり、その収穫も主人のものです。農夫たちはぶどう園を貸し与えられているにすぎません。そもそも、雇ってもらい、すべてを貸し与えられ、収穫の一部を分けてもらえる喜びは、すべて主人の温情によるのであって、ひたすらその主人に仕えていれば、何の不足もないはずです。

 そんなあたりまえのことが分からなくなるほどに、人の目をくらませる所有欲。だれの心にもひそむ魔物です。この世界も、自分の体も才能も、家族や友人やさまざまな出会いも、実はすべて神様から貸し与えられているに過ぎないにもかかわらず、いつしか返すことを忘れて、自分のものにしようとします。魔物にとりつかれた農夫は言います。

 「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」

 なんという貪欲でしょう。「たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得」もないのに(ルカ九・二五)。イエスさまの語られた別のたとえによれば、これだけ所有すれば安泰だと自らに言い聞かせる金持ちに向かって、神様はこう言われました、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ一二・二〇)と。

■それでもなお、与えられる

 その農夫にくだされたのは、裁きと救いでした。

 裁きとは、「戻って来て、この農夫たちを殺し」ということです。滅びです。それは、神様から与えられたいのちを損なうこと、神様から与えられた自由を失うこと、神様から与えられた恵みを無にすることでした。

 しかし、たとえイスラエルの人々に与えられていた救いの恵みが無にされてもなお、神様のあふれる恵みは、すべての人々に与えられるのだ、そうイエスさまは言われます。

 「『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった』」

 詩編のことばです。人は家を造る時、土台となる石を置きます。それが「隅の親石」です。神様は、捨てられることになる石であるイエスさまを土台として、新しい家を建てる、と約束してくださるのです。

 神様が、あふれるほどの愛のお方、必要なものをすべて備え与えてくださるお方である、ということを踏まえれば、この「捨てられた石」―自分を誇ることも、自分こそとうぬぼれることもできない、抑圧され、苦しみにあえぎ、悲しみに沈み、自分を愛することもできないでいる、いわば捨てられたような人をこそ、神様は、隅の親石―最も大切なものとしてくださるのだ、と言われるのです。

 わたしたちは自分たちの苦しみや悲しみから、欲望や罪から、どうすれば自由になれるのでしょうか。

 そのためには、イエスさまが教え示してくださった楽園に帰るほかに手立てはないでしょう。親がすべてを整えて、すべてを与えてくれた、あの故郷の楽園へ、です。そこには、真の満足、永遠の安らぎがあったはずです。その楽園にすべての人を帰還させるためにこそ、神様は独り子を与えてくださったのでした。愚かなわたしたちをそれでもなお、深く愛し、ついに最愛の息子のいのちまでも与えてくださったのです。そこまでされて、わたしたちはようやく気づきます。すべてはもう、与えられている、と。

 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ六・八)

 「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(ルカ一五・三一) 神様の愛によって、わたしたちは、どれほどの困難、どれほどの試練、どれほどの悲しみの中にあっても、たとえ「捨てられた石」のようであっても、恵みの中に生きることをゆるされています。このかけがえのない日々を感謝しつつ、生涯を全うすることができるのです。心からの感謝をもって神様の愛に信頼しつつ、受難から復活への日々を皆様とご一緒に歩んで行きたい、そう祈り願わずにはおれません。