小倉日明教会

「善いサマリア人 ー 隣人との関係」

ルカによる福音書 10章 25〜37節

2023年4月30日 復活節第4主日

ルカによる福音書 10章 25〜37節

「善いサマリア人 ー 隣人との関係」

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨   励】        川辺 正直 役員

■「善きサマリア人の法」
 おはようございます。本日の聖書の箇所は、主イエスがお語りになったいくつかのたとえ話の中でも最もよく知られている、「善いサマリア人」の話が語られている箇所です。米国、カナダなど多くの国で定められている法律に、「善きサマリア人の法」と呼ばれる法があります。英米法体系の国おいて、災害、災難や急病により窮地となっている患者を救うため、医師が無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実な行動をとっていれば、たとえ結果として失敗しても、故意あるいは重過失と認められるものでない限り、その結果につき責任を問われないという趣旨の内容の法律です。
 例えば、飛行機内で急病にかかった人に救急医療を施した医師がいて、その方が亡くなった場合、遺族によって、その医師の責任を問う訴訟が起こされることがありますが、英米法のもとでは、医師は「善きサマリア人の法」によって守られています。残念ながら日本では、民法第698条の緊急事務管理に関する規定や、刑法第37条の緊急避難に関する規定があるものの、「善きサマリア人の法」の概念のもとに定められたものはないのです。そのため、日本の医療現場で現実に問題になっているのは、大規模災害や大事故で、多数の傷病者が出て、救命の順序を決めるトリアージの必要が生じた場合に、人材・資材が相対的に著しく不足する状況でのミスが裁かれる可能性があり、医療現場が萎縮してしまうことが挙げられるかと思います。医療行為は、人の生命を預かることから、それだけ責任の重い職務なのですが、トリアージの必要とされるような災害時や緊急時には厳しすぎる基準とも言えるかと思います。そう考えますと、「善きサマリア人の法」は、結果に恐れを持たせ、善意を委縮させ、救護や援助という活動を差し止めようとする「意思」に抵抗する法と言えるかと思います。ある日本の麻酔科医の先生が、日系航空会社の飛行機を利用して、国際学会に出かけたそうです。出発して3時間ほど経過した頃、「申し訳ありませんが…」とその飛行機のチーフパーサーが訪ねて来たそうです。機内で急病人が発生したので、診てもらえないかとのことだったそうです。麻酔科の先生は、ほどよく酔っていたそうですが、またむげに断ることもできないので、患者となった乗客のところへ向かったそうです。患者は60歳代の白人男性で、主訴は悪寒と呼吸困難だったそうです。ごく寒そうで息苦しそうで、質問するのも気の毒な感じだったそうです。しかも、息苦しい中、発せられる弱々しい英語が飛行機の騒音でかき消されて、聞き取ることは一層困難だったそうです。それでも、一通りの診察と処置を終えて、この男性をファーストクラスに移して、この先生は自分の席に戻ったそうです。しばらくして、この飛行機のチーフパーサーがお礼かたがた一枚の紙を持ってやって来たそうです。そして、そこには、「当該医療行為に起因して、賠償請求が発生した場合には、原則として当社が賠償金と関連する訴訟費用を負担いたします」と書かれていたそうです。
 さて、今日は、英米法体系の国々の法律や民間航空会社のリスク管理に大きな影響を及ぼした善きサマリア人のたとえが語られている箇所を、皆さんと共に学びたいと思います。

■先生、何をしたら、
 まず、本日の聖書の箇所を含むルカによる福音書10章25節〜11章13節は1つの弟子訓練についてのブロックになっています。このブロックの特徴を表すキーワードは「関係」と言うことができます。まず、ルカによる福音書10章25〜37節では、「善いサマリア人」のたとえによって、「隣人との関係」について記されています。その次に、次回取り上げます「マルタとマリア」のエピソードを通して「主イエスとの関係」が示されています。さらに、11章1〜13節で、「主の祈り」によって、「父なる神様との関係」が示されているのです。弟子たちが祈る祈りは、父なる神様との関係に於いて理解する必要があるのです。「隣人との関係」、「主イエスとの関係」及び「父なる神様との関係」がこのブロックの3つのポイントとなるのです。
 さて、「善いサマリア人」のたとえは、律法の専門家と主イエスとの対話の中で生まれてきたものです。本日の聖書の箇所のルカによる福音書の10章25節には、『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」』と記されています。「立ち上がった」という表現のなかに、この律法の専門家の鼻息の荒さを感じます。律法の専門家と書かれていますので、いわゆる律法学者であることが分かります。彼は、モーセの律法について、そして、ユダヤ教の口伝律法について学問的に学んでいる専門家なのです。彼は主イエスにこう質問をしました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」。この質問の動機は、主イエスを試みることにありました。可能であれば、罠に掛けたいと、彼は考えているのです。彼は、専門教育を受けていない主イエスがどれだけ律法について試そうとしているのです。この律法の専門家は、知識はあるのですが、傲慢で、霊的な真理が見えていないのです。神様の前に、謙遜であれば、霊的な真理が見えてくるのです。
 この律法の専門家が、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と質問をしたのです。この質問が、「善いサマリア人」のたとえが語られるきっかけとなったのです。この律法の専門家が始めに何と言っているのかと言いますと、「先生」と言っているのです。主イエスのことを教師と見たわけです。従って、彼は主イエスを預言者以下の存在、当然、メシア以下の存在と見ていることが分かります。そして、彼の質問の内容を見ると、当時のユダヤ教の考え方が分かります。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と質問しているのです。英語訳聖書を見ると、「What must I do」と、「何をしたら」が強調されていることが分かります。「何をしたら、救われますか」と尋ねているのです。「永遠の命」というのは、ユダヤ人にとって、メシア的王国、神の国へ入ることを含む霊的な救いのことです。何をしたら、神の国に入れますかと、彼は質問しているのです。私たちは、信仰と恵みによって、救いは与えられるということを理解している私たちにとって、この律法の専門家の質問は、前提そのものが間違っていることが分かるかと思います。「何をしたら、救われるのか」というのは、「行いによる救い」を想定しているのです。その上で、主イエスに「何をしたら、」と質問をしているのです。
 それでは、この質問に対して、主イエスは何と答えられたのでしょうか?26節を見ますと、『イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、』と、主イエスは逆に律法の専門家に質問していることが分かります。律法の専門家はモーセの律法には権威があることを認めていますが、主イエスもモーセの律法の権威を認めています。従って、主イエスがこの質問をしたのは、共に権威がある律法に関心を向けさせたということが分かります。律法学者は専門家として、答えないわけには行かないのです。ここでの律法は、モーセの律法です。律法を知り、律法を正しく解釈することは、律法の専門家の仕事です。従って、主イエスは、「あなたの仕事として律法の解釈を行い、人々に教えているでしょう。あなたはどういう解釈をしているのですか?」とお尋ねになったのです。この質問によって、主イエスと律法の専門家との立場が逆転しているのです。この質問によって、主イエスはこの律法学者を試す立場に立ったのです。
   
■律法の教え
 次に、27〜28節には、『彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」』とあります。ここで、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』とあるのは、第一の戒めと呼ばれるものです。神様への愛のことです。そして、『また、隣人を自分のように愛しなさい』とあるのが隣人への愛、第二の戒めのことなのです。従って、律法学者は正しく答えたことが分かります。それに対して、主イエスは、『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』とお答えになっています。
 律法の専門家が答えた神様への愛と隣人への愛というのは、旧約聖書の2つの聖句から出ています。最初が、申命記11章13で、『もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、』神様の祝福が来るよという約束なのです。ここが、第一の命令、神様を愛することの基本となっている聖句なのです。2つ目が、隣人愛で、レビ記19章18節で、『復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。』と記されおり、非常に重要な聖句が登場していることが分かります。律法学者はこの2つの聖句を引用して、答えているのです。そして、主イエスは律法学者の答えが正しいことを認めたのです。それから、主イエスは『それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』ということを付け加えています。この主イエスの言葉には、一つ問題があると思います。それが何かと言いますと、『それを実行しなさい。』という訳ですが、人類の歴史上、律法を完璧に守った人間は一人もいないということなのです。つまり、主イエスは、『それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』ということを付け加えていますが、この言葉が主イエスの皮肉であることが分からないと、どうなるのでしょうか。そうすると、主イエスが行いによる救いを教えていると考えると、主イエスの教えについて、全く的を外して、誤解してしまうということになってしまうのです。この主イエスの言葉は、行いによる救いはないでしょ、ということを言っている言葉なのです。
 従って、この主イエスの言葉に対する正しい応答というのは、『主よ、私にはとてもそうすることはできません。どうか主よ、私を憐れんで下さい。私は主を信頼して、主を信じます』というのが、正しい応答なのだと思います。一つでも従うことができなければ、律法全体に違反したことになるのです。それは、不可能なことです。しかも、継続して律法を守り続ける必要があります。これも、人間には不可能なことです。従って、この律法学者は身体を低くして、主の憐れみと許しを請うべきであったのです。この律法学者は主イエスの皮肉を理解しましたが、主イエスの言葉が胸に刺さったのでしょう、カチンときた彼は、主イエスに対して、屁理屈をこね始めるのです。29節には、『しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。』とあります。律法学者は、律法を正しく理解しているならば、私にはとてもできませんと、自分の無力を認めるべきであったと思います。そして、主イエスに対して、へりくだって、何をするべきかを尋ねるべきであったのです。どれほど善い行いを重ねても、救いにはたどり着かないのです。自分の行いを積み上げても、神様の救いには至らない。そのときに、初めて主イエス・キリストの福音に耳を傾けることができるようになるのです。主イエス・キリストが、私の罪のために死に、墓に葬られ、3日目に甦られた。これが福音なのです。このことを信じて、主イエス・キリストに信頼して、信仰を告白する時に、私たちは神様の恵みによって救われるのです。神の国に入ることができるのです。
 この律法の専門家は、自分の無力を認める代わりに、自分を正当化しようとして、質問をするのです。彼の質問の内容を見ますと、この律法学者は「隣人」の範囲を狭くして、限定して定義しようとしていることが分かります。29節には、『「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。』とあります。主イエスが生きておられた当時、ユダヤ人たちは隣人の定義を狭くしていました。「隣人」というのは、本来、自分の傍にいる人を言っているわけですが、この時代、ユダヤ人たちは隣人の定義を狭くして、同胞のユダヤ人や、あるいは、同じ宗教共同体に所属している人を「隣人」と言っていたのです。特に、異邦人やサマリア人は隣人の定義からは外れていると考えて、排除していたのです。しかし、本来の隣人の聖書的な定義に従えば、今日、世界中の多くの国々で見られる、人種間や民族間の諸問題は直ぐにでも解決するのだろうと思います。
 この律法学者の問いに、主イエスはこの律法学者の誤解を正すために、「善いサマリア人」のたとえを語られたのです。このたとえは隣人愛について、教えているのです。

■主イエスが語る「善いサマリア人のたとえ」
 本日の聖書の箇所の30節には、『イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。』とあります。最初に登場するのは、「ある人」ですが、この「ある人」がユダヤ人であることは、前提とされています。その人が、エルサレムからエリコに旅をしているわけですが、「下って行く」という動詞が使われています。エルサレムからエリコまでの道は、約30kmの下り道です。エルサレムは海抜800mの高地にあります。エリコは海抜ー200mの低地にあります。従って、エルサレムからエリコまでは、海抜差1000mほどの下り道を下って行くことになるのです。この道は、主イエスの時代、徒歩で移動する道は、曲がりくねった道で、強盗たちが出没するエリアが沢山あって、危険地帯となっていたのです。そのことは、主イエスも律法学者も弟子たちも、日常常識として、よく理解していたことだったのです。そして、誰もが理解している通り、この「ある人」は強盗に襲われたのです。強盗は何をしたのかと言いますと、『その人の服をはぎ取り』と書かれています。当時は、現代のように服の量販店がある訳ではありません。着ているものは、1着、1着、手作りで作成されるため、高価な品物であったのです。ですから、人々はとっかえひっかえ、おしゃれができていたわけではないのです。着物は高価な品物であったので、剥ぎ取られてしまったのです。おそらく、旅人はかなり抵抗したことが想像されます。そのため、『殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。』ということが起きたのです。「半殺しにしたまま」とありますので、このまま放置されれば、命の危険があったという状態であったと思います。

■通りがかりの祭司とレビ人
 次に何が起きたのかと言うと、31節には、『ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。』と書かれています。祭司であれば、助けてくれるだろうと聞いていた人々は考えたと思います。この祭司は、おそらくエリコの住民であったと考えられます。なぜかと言うと、主イエスの時代、エリコの町は祭司階級の人が住むことが一般的で、祭司とレビ人の町と呼ばれていたのです。『ある祭司がたまたまその道を下って来たが、』とありますが、この祭司は恐らくエルサレムの神殿の奉仕を終えて、帰ってきている状態であったと思います。この祭司は、神様に仕えた直ぐ後で、この瀕死の人を見かけて、どうしたのでしょうか?『その人を見ると、道の向こう側を通って行った。』と書かれています。福音記者ルカは、この祭司がなぜそのようにしたのか理由は書き記していません。とにかく、この祭司は隣人愛を実践することはしなかったのです。祭司は人を助けるのが仕事です。日々、聖書に親しみ、律法の要求を良く理解しているのです。しかも、この傷ついた人の所に来る少し前まで、エルサレムで礼拝の奉仕をしていたのです。しかし、この祭司の信仰は、行動につながらなかったのです。律法の専門家は、ここまで主イエスの話を聞きながら、この話の結論はどこに行くのだろうかと考えたことと思います。
 次に、32節には、『同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。』とあります。レビ人も、祭司と同じように聖なる職についているので、その人を助けてくれるだろうと、聞いていた人たちは考えたことと思います。レビ人も向こう側を通り過ぎていったのです。このレビ人も、祭司と同じように、隣人愛の実践をしなかったのです。レビ人は、祭司を援助する役割を担っていました。従って、祭司よりも責任は軽いかもしれません。しかし、レビ人も聖なる仕事に就いていた人だったのです。彼も祭司と同じように、道の向こう側を通って行ったのです。レビ人の信仰も行動につながらなかったのです。
 この祭司とレビ人の信仰について、ヤコブの手紙2章14節で、『わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。』と書かれています。ヤコブは、信仰が本物であるかどうかということは、行いが伴っているかどうかで、確認することができると言っているのです。ヤコブは、行いによる救いを教えているのではないのです。ヤコブも、信仰と恵みによって救われるということを教えているのですが、その場合の信仰は行いの伴った信仰でなければならないと言っているのです。
 さて、祭司とレビ人はなぜ、瀕死の人を避けたのでしょうか?その理由は、恐れであったと思います。瀕死の人が倒れています。もしかしたら、強盗が近くに潜んでいるかもしれません。ここに留まるよりも、早く立ち去った方がよいという、恐れがあったことと思います。もう一つの恐れとしては、祭司もレビ人も、聖職者ですので、儀式的な汚れがあるかもしれないという恐れがあったことと思います。これは、血を流している人を助けると、自分自身が儀式的な汚れを受けてしまうかもしれないという恐れです。さらに、3つ目の恐れは、ここに立ち止まると、面倒なことに巻き込まれるかもしれないという恐れです。そのような時間も、気持ちの余裕もない、面倒なことからは身を引きたいという恐れです。こうして、祭司とレビ人は道の向こう側を通って、逃げてしまったのです。それでは、次に何が起きたのでしょうか。

■善いサマリア人
 本日の箇所の33〜35節を見ますと、「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。して、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」とあります。英語訳聖書を見ますと、「But a Samaritan」と、サマリア人という言葉が、文章の初めに出てきます。文章の冒頭で、サマリア人という言葉を聞いた途端に、主イエスの話を聞いている人たちが考えるのは、祭司、レビ人、サマリア人の3人の中で、最も救助の手を差し伸べる可能性が低いのは、サマリア人だということです。当時、サマリア人とユダヤ人は敵対していましたので、よりによってサマリア人かよ、ということを聞いていた人たちは考えたことと思います。それにも関わらず、このサマリア人は傷ついた旅人を助けたのです。このサマリア人を表す言葉で重要な言葉は、「憐れに思い」ということです。「憐れみの心」がこのエピソードでは、人種的偏見に打ち勝っているのです。サマリア人の哀れみの心が、祭司とレビ人の同胞愛の欠如と対比されているのです。福音記者ルカの職業は、医者でした。ルカは医者の観点から、主イエスのたとえ話を書き記しています。『近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、』とあります。オリーブ油は、痛みを和らげる薬効があります。また、ぶどう酒は傷口を消毒する効果があるのです。そして、包帯は傷が治るためのカバーをする働きがあります。当時の医学的な救急処置を、サマリア人が行ったのです。そのことを、ルカは具体的に記録しているのです。そして、サマリア人は救急処置をして、「自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」とあります。エルサレムの東に、ベタニアという村がありますが、ベタニアからエリコに下って行くと、ベタニアとエリコの間に、2つの宿屋の遺跡が発見されています。ということは、エリコに着く前に、宿屋があったと推測することができると思います。このサマリア人は、「翌日」とありますので、一泊したことが分かります。一泊して、翌日、宿屋の主人に支払いを行っています。『デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して』、傷ついた人の看護を依頼したのです。デナリオン銀貨二枚というのは、当時の貨幣価値からは、かなりの額のお金です。当時、一日の生活費は、最低のクラスの労働者で、12分の1デナリです。すなわち、1デナリあれば、一番貧しい人たちは、何とか一週間から10日間、生活することができたのです。そのぐらいの価値のあるデナリオン銀貨を2枚、宿屋の主人に渡したのです。そして、『費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』という約束もしたのです。祭司、レビ人の後で、誰もがありえないと考えるサマリア人が隣人愛を実践したのです。主イエスの話を聞いていた人たちは驚いたことと思います。
 この善いサマリア人のたとえでは、主イエスと善いサマリア人との対比は、鮮明であると言うことができます。善いサマリア人の行動を見ていますと、主イエスご自身の奉仕の姿を表している言うことができます。しかし、このたとえ話の中心は、主イエスと善いサマリア人との対比ではないのです。このたとえ話の中心は、主イエスが隣人愛とはどのようなものであるかを教えたことにポイントがあるのです。そして、主イエスが教えたことの中心は、愛は感情ではなく、行動であるということだと思います。

■隣人となったのは誰?
 本日の箇所の36節には、『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』とあります。これが、主イエスから律法の専門家に対するこのたとえ話の適用に関する質問です。律法学者は、「私の隣人は誰ですか」と尋ねたのです。それに対して、主イエスは「誰がこの人の隣人になったと思うか」と尋ねられたのです。主イエスは律法の専門家の質問を逆さまにしたのです。答えは単純にして、明快です。「誰が私の隣人か」から、「誰が、この人の隣人になったか」に転換して、答えは第3の登場人物であるサマリア人であることは明確です。
 37節を見ますと、『律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」』と書いてあります。この箇所の記載を見ますと、この律法の専門家には、依然として、民族的な偏見、差別があることが分かります。この人の答えは正しいのです。素直な答えは、「サマリア人です」というものであるべきです。しかし、この律法の専門家は「サマリア人」という言葉を口にしたくないのです。口にすることをも拒絶して、「その人を助けた人です。」と回りくどい言い方をしています。主イエスは、この律法の専門家の偏見は指摘しないで、「行って、あなたも同じようにしなさい。」とだけ言われたのです。困っている人がいたら、愛を実践すること、それが隣人愛の実践だよと、主イエスは語っておられるのです。主イエスがサマリア人のように行動しなさいと言っているのは、この律法の専門家に口先だけで信仰を告白しているだけでは不十分である、行動を起こした時に初めて隣人愛を実践したことになるということなのです。
 「行って、あなたも同じようにしなさい。」と語られていますが、このことを100%実行するのは、誰であっても、実行不可能です。ですから、この律法学者は主イエスの前にひざまずいて、「私にはそれは不可能です。どうぞ私を助けて下さい。何をしたらよいのでしょうか?」と主イエスに尋ねるべきであったと思います。しかし、今日の聖書の記事は、この後、この律法の専門家がどのような反応を示したのかは伝えていないのです。福音記者ルカは、この律法学者が主イエスへの信仰に導かれますようにと、祈りながら書いたことと思います。

■主イエスのみ言葉を聞く
 主イエスのみ言葉を本当に聞き、そのように生きるならば、私たちは、神様を心から愛し、同時に出会う人々の隣人となって生きる者となるはずです。独り子主イエスの十字架の苦しみと死とによって私たちの罪を赦し、復活によって永遠の命の約束を与えて下さった神様の愛に応えて、私たちも神様を愛し、そして、主イエスがあのサマリア人のように、罪の中に倒れ伏している私たちを憐れみ、私たちの隣人となって下さり、救いを与えて下さったのだから、私たちも出会う人々の隣人となって生きることができるはずなのです。しかし、私たちは、この律法の専門家と同じように、主イエスからの問いによって、自分が神様をも隣人をも愛することが出来ておらず、結局は自分自身のみを愛していることに気付かされ、言い訳をしたり、自分を正当化したりしてしまう者です。私たちはどこまでもそのような情けない者であり、神様をも、隣人をも、本当には愛することができない者なのです。しかし、本日の聖書の箇所が伝える大切なことは、主イエスからのこの問いかけを、「あなたは私の言葉をどう聞いているのか、そしてそのように生きているのか」という問いかけを、常に聞き続けることだと思います。この「善いサマリア人」のたとえ話を繰り返し思い起しつつ、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスのお言葉を、自分に対して語られた励まし、勧めのみ言葉として聞き、一人ひとりが出会う人たちとの交わりの中で、自分も行動して、隣人とされて行くことだと思います。私たちは、主イエスの語る一つ一つのみ言葉に真剣に耳を傾け、主イエスのみ言葉に従って生きる者へと変えられて行きたいと思います。
 それでは、お祈り致します。