小倉日明教会

『たった一人のために』

ルカによる福音書 8章 26〜39節

2022年10月30日 降誕前第8主日礼拝

ルカによる福音書 8章 26〜39節

『たった一人のために』

【奨励】 川辺 正直 役員

ドストエフスキー、『悪霊』

 本日の聖書の箇所は、現代を生きる私たちにとっては、素直にそのまま受け止めることが難しい箇所だと思います。なぜなら、私たちは学校で、悪魔や幽霊は人間の迷信や妄想が生み出した想像上の存在であって、そんなものに惑わされてはいけないと教えられているからです。私たちは、普通の生活の中で、悪魔や悪霊を目に見えるかたちで見ることはまずないかと思います。それでは、本当に悪霊はいないのでしょうか。

 ロシアの著名な作家であるドストエフスキーの代表作の一つに「悪霊」という作品があります。この小説(1871-72)はロシアの革命家ネチャーエフが起こしたリンチ殺人事件を下敷きに作られています。「悪霊」というこの小説のタイトルは本日の聖書ので、悪霊にとりつかれた豚が湖に入って溺れ死ぬという記述から取られているのです。その冒頭の部分に、本日の聖書の箇所の記事が引用されているのです。

 ドストエフスキーの小説「悪霊」は、19世紀のロシアが舞台です。農奴解放令が出され、無神論や社会主義を始め、新しい思想が急速に広まっていた時代が描かれています。主人公の一人である熱狂的な革命家のピョートル(ネチャーエフがモデル)が「五人組」の革命的秘密結社を作って革命思想を広めますが、転向した仲間の青年、シャトーフを密告の恐れのある者として、射殺してその手足に石の重しをつけて池に沈めてしまうのです。ピョートルはその他にも、次々と人々を煽動します。すると聞いていた人々は、みんな異様な行動を取って、人を殺して行くのです。

 何が悪霊なのでしょうか。ドストエフスキーは、1870年10月のマイコフという人宛の手紙の中で、次のように語っている、「ルカによる福音書とそっくり同じことが、わがロシアでも起こりました。悪霊たちはロシアから出て行って、豚の群れの中に、つまりネチャーエフやセルノ・ソロヴィヨヴィチといった連中の中に入ったのです。彼らは溺れてしまったし、でなくても確実に溺れ死ぬでしょう。(中略)友よ、銘記してくださいー自身の国民と国民性を失う者は、祖国の信仰と神をも失うことになるのです。さて、言ってみれば、これが私の長編のテーマにほかなりません。」(江川卓著『ドストエフスキー』岩波新書)。

 ドストエフスキーは、主人公のピョートルのような、神様を恐れない無神論者たちは、豚の群の中に乗り移って、湖の中になだれ込んだ悪霊たちのようだと言っているのです。今年に入って、起こるはずがないと考えられていた戦争が起こり、多くの市民が虐殺された事実が毎日のように報道されています。現代では、人々を異常な行動に駆り立てる悪霊はより巧妙な手段で、人々を神様から背を向かせているように思います。

 前回の主イエスが湖上で嵐をお静めになったという奇跡物語に続いて、本日はゲラサ人の地での悪霊に取り憑かれた人の解放という奇跡物語が示されています。本日の記事は、悪霊の力という、人間の力ではどうすることもできない目に見えない力に対する主イエスの神様としての権威が示されています。福音記者ルカは、主イエスに於いて間近に迫って来ている神の国の支配の終末的な出来事の前触れとして、主イエスの神としての権威を注意深く描いているのです。

 本日は、この悪霊に取り憑かれた男の人に対して、主イエスは何をして下さったのかということを皆さんと一緒に学んで行きたいと思います。

ゲラサ人の地方

 本日の聖書の箇所、ルカによる福音書8章26節には、「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」と書かれています。前回お話ししましたように、主イエスは弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう」と声を掛け、主イエスと弟子たちは一緒に舟に乗って船出しました。向こう岸に向かう途中で、突風が吹き降ろして来て舟が沈没しそうになります。しかし主イエスがみ業を行ってくださり、風がやみ波も穏やかになって凪になりました。沈没の危機を免れた主イエスと弟子たちは「ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に」着いたのです。 週報に掲載した地図1を見て頂きたいのですが、主イエスが福音伝道の拠点としておられたのは、ガリラヤ湖の北の岸にあるカファルナウムです。舟に乗って漕ぎ出したのもその近くからだと思われます。そして、湖を渡って到着した「ゲラサ人の地方」は、どこなのでしょうか。地図1には、ゲラサという町は、ガリラヤ湖からは、はるか南東に外れたヨルダン川の東側にあります。ゲラサという町は、ガリラヤ湖から随分と離れているので、マタイはこの点を考慮して、マタイによる福音書では、この出来事が起きた地は「ガダラ人の地方」となっています。ガダラという町は湖のもっと近くにあります。しかし、今日の聖書の箇所を見ますと、「イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。」(27節)とありますように、主イエスは舟から上がると直ぐに、悪霊に取りつかれている男と出会っています。また、「悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。」(33節)にありますように、豚がなだれ込んだ湖はガリラヤ湖です。そう考えると、ゲラサという町も、ガダラという町も、ガリラヤ湖からは遠すぎるかと思います。そこで、週報の地図2を見て頂きますと、ガリラヤ湖の東岸に、現在はクルシ、昔はケルサという名前でも呼ばれていたゲルゲサという町があります。この地の山の上には、ローマ軍の駐屯地があり、ローマの偶像の神殿がある巨大な都市があったことが知られています。このゲルゲサの町のガリラヤ湖側が断崖絶壁になっていて、この崖の下が、ガリラヤ湖に面したゲルゲサの港であったのです。さて、主イエスと弟子たちがやって来たこのゲルゲサの町は、ユダヤ教以外の信仰を持つ人々、異邦人と呼ばれる人たちがたくさん住んでいた場所です。ガリラヤ湖の向こう岸に横たわっている世界、どんな土地かもよく分からない場所です。その土地に入ることさえ、弟子たちにとっては初めての体験だったかもしれません。恐れがあったでしょう。不安があったはずです。しかし、主イエスは文化的にも宗教的にもがらりと異なるこの地に、弟子たちを連れて、悪霊に取りつかれたこの男の人を解放するためにやって来たのです。

悪霊に取りつかれた人

 次に、ルカによる福音書8章27節を見ますと、「イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。」と記されています。衣服を身に着けていないということは、正気ではないということです。正気ではないということは、神様が望む生き方をすることはできないということです。そして、そうさせているのは、悪魔であり、悪霊であるのです。そして、正気ではないということは、社会で生活することはできませんし、ほかの人と関わりを持って生きることもできないのです。そのために彼は「家に住まないで墓場を住まいとして」いました。墓場は生きている人間の居場所ではなく、死んだ人間が葬られているところです。ですからそこに住んでいるとは、彼が生きている人間ではなく死んだ人間同然だということです。人との関わりの中でこそ、私たちは人間として本当に生きていくことができるのです。

 29節には、「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた」とあります。ゲラサの人たちは、放っておくと何をするか分からないから、彼を鎖でつなぎ足枷をはめて監視していました。そうしなければ社会の安全を保つことができないし、安心して過ごすことができないからです。それでも、「悪霊に取りつかれている男」は、その鎖や足枷を引きちぎっては荒れ野へと駆り立てられたのです。「荒れ野」も人が住む場所ではありません。この人は都会から荒れ野へ、人が生活している場から人のいない場へと駆り立てられたのです。「何回も汚れた霊に取りつかれた」とあるように、そのようなことが何度も繰り返されたのだと思います。ゲラサの人たちは鎖でつなぎ足枷をはめてでも、なんとか彼を共同体の中で監視しようとしたのかもしれません。しかし、彼はそこから逃れ、共同体の外で、生きている人間の居場所ではない墓場や荒れ野で暮らしていたのです。

墓場にて

 この人が社会生活を送れず、ほかの人と関わりを持って生きられず、墓場に住み、荒れ野へと駆り立てられるのは、「悪霊に取りつかれている」からだ、と語られています。では「悪霊に取りつかれている」とは、どういう状態なのでしょうか。それは、本当に自分が思っていることとは違うことを行っている、という状態だと思います。たとえば本当は人と関わりを持ちたいのに、その関わりを絶とうとしてしまったり、本当は思っていないことを言ってしまったりするのです。必ずしも自分自身に、本当に思っていることと違うことをしている、という自覚があるとは限りません。「悪霊に取りつかれている」とは、本当に自分が思っていることと違うことを行っているだけでなく、本当に自分が思っていることそのものが分からなくなっている状態でもあるのです。28節には、「悪霊に取りつかれている男」が「イエスを見ると、わめきならがらひれ伏し」て、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と大声で言った、と語られています。この叫びは悪霊に取りつかれた人の叫びでしょうか。むしろ、悪霊そのものの叫びです。悪霊が人の口を通して語っているのです。悪霊に取りつかれた人は、悪霊の言葉を語ってしまうのです。自分の言葉を、自分の意志を語ることが出来なくなってしまうのです。そのことによって、関わり、交わりが失われてしまうのです。本当は、「悪霊を追い出して、救って下さい」と言う思いがあるのです。しかし、口から出る言葉は「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」という反対の言葉です。主イエスは、口から出る悪霊らの思いではなく、この男の人の心の底にある声にならない、救いを求める叫びを聞き取られました。主イエスは、彼らを支配している悪霊と向き合われるのです。彼らを支配し、その言葉を支配する悪霊と戦われるのです。

いと高き神の子イエス

 この悪霊に取りつかれた人の言葉の28節の言葉をもう一度お読みしたいと思います。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」主イエスを「いと高き神の子」と呼んでいます。主イエスを「いと高き神の子」と呼んだのは、信仰を持った人間ではなく、また悪霊に取りつかれた人間でもないのです。悪霊こそが主イエスを「いと高き神の子」と叫んだのです。悪霊の方が、主イエスがどういうお方であるかということをよく知っていたのです。主イエスは、一人の人間ではなく、神様の子、神様の独り子、つまりまことの神様であられるということです。彼らはそのことをよく知っていたのです。「かまわないでくれ」と言うのは、その神様の子の力にとても太刀打ち出来ないということなのです。それ故、主イエスと関わり、交わりを持ちたくないということです。悪霊だけが、主イエスが神の子であり、自分を滅ぼすことができる方だと知っていたからです。

名は「レギオン」

 主イエスは「悪霊に取りつかれている男」に「名は何というか」とお尋ねになっています。すると彼は「レギオン」と答えました。ここでも彼が答えたのではなく、悪霊たちがこの男に「レギオン」と言わせたのです。「レギオン」というのは、ローマ帝国の軍隊における「軍団」を意味する言葉です。一つの軍団には通常5,000~6,000人の兵隊がいたと言われます。「レギオン」という名前は、彼にたくさんの悪霊が取りついていることを意味しているのです。「レギオン」という名も、この人がもともとそういう名前だったのではなくて、彼に取りついた悪霊たちが、「我々は軍団と言えるほど大勢なのだ」と言っているのです。

 ところでこの人は、主イエスがこの地方に上陸するとすぐにそこへやって来ました。主イエスの救いを求めてやって来たのではありません。彼は言葉も行動も悪霊に支配されているのですから、これは悪霊の行動です。悪霊の方から、主イエスのもとにやって来たのです。悪霊たちは、主イエスが何者であるかを知っています。この人は主イエスに「いと高き神の子イエス」と呼びかけています。悪霊たちは、主イエスが神様の独り子であられることを知っているのです。そして「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言っています。29節には、それは「イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである」とあります。悪霊たちは、主イエスが神の子であり、自分たちを追い出して人々を解放する救い主として来られたことを知っているのです。そして自分たちが主イエスにとうていかなわないこと、主イエスが自分たちを滅ぼす力を持っておられることを知っているのです。それを知っていながらどうしてノコノコとやって来るのか。それは、そうせざるを得ないからです。それが主イエスの力です。主イエスが来られる時、悪霊たちは主イエスを無視していることはできないのです。

新しくされる

 主イエスは悪霊に、この「男から出るように命じられ」ました。悪霊たちは、「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように」と主イエスに願います。そして、「その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた」ので、悪霊たちは「底なしの淵」へ行くのではなく、その豚の中に入ることを主イエスに願い、主イエスはお許しになりました。33節には「悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ」とあります。私たちはこの凄まじい出来事に衝撃を受けます。しかし、私たちは、「悪霊に取りつかれている男」がその悪霊から解放され、救われたことにこそ目を向けなくてはなりません。

 主イエスによって悪霊を追い出していただいたこの人はどうなったのでしょうか。35節に、「悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て」とあります。衣服を身に着けずに墓場や荒れ野をさまよっていた彼が、今や、服を着て、正気になって主イエスの足もとに座っているのです。「服を着て」という一言に、彼が正常な人間としての社会生活と人間関係を回復できるようになったことが込められています。しかし、彼が与えられた癒し、救いの中心は、人間関係を回復されたことにあるのではありません。「イエスの足もとに座っている」ということこそが、彼に与えられた救いの最も重要な点です。主イエスの足もとに座る、それは、主イエスのみ言葉に耳を傾けるということです。彼は、主イエスの足もとでそのみ言葉を聞く者となったのです。そのことによって彼は「正気になった」のです。すなわち、正気になるとは、主イエスの足もとに座る者となることなのです。

たった一人のために

 さて、ゲラサの人たちはこの出来事にどのように反応したのでしょうか。34節には「この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた」とあります。豚の群れが崖を下って湖になだれ込みおぼれ死んだのを見た豚飼いたちは逃げ出して、人々にこのことを知らせました。また、36節には「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた」ともあります。ですからゲラサの人たちは、豚の群れがおぼれ死んだことも、悪霊に取りつかれていた人が救われたことも聞いていたのです。彼らは豚の群れの死と一人の人間の救いの両方を知っていました。しかし、彼らは、救いの事実を知りながら、主イエスをゲラサの地から追い出すことにします。「ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った」(37節)とある通りです。彼らがそのように応じたのは、一人の人間の救いより、経済的に大きな損失の方を重んじたからです。豚飼いたちにとっても、町や村の人々にとっても、豚の群れを失うことは自分たちの生活に関わることであり、決して軽い出来事ではありません。しかし、そうであったとしても、主イエスに出て行ってもらいたいと願う、このゲラサの人たちの姿と、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と叫ぶ悪霊たちの様子とは、重なってくるのではないでしょうか。そう考えますと、悪霊はまだまだ全て滅ぼし尽くされてはいないのです。

 しかし、主イエスは、ゲラサの人たちの願いを聞き入れて帰ろうとなさいます。はるばるガリラヤ湖を渡り、前回、お話しした、あの激しい嵐をも乗り越えて、やっとの思いでたどり着いたゲラサ人の地です。それなのに着いたと思ったらもうさようなら、なのです。ここで得られた実りは、今日の悪霊に取りつかれたたった一人の男の人のみでした。私たちはここで労苦の割には、実りの少ない伝道の大変さを思うかもしれません。けれどもどうでしょうか。主イエスは、この男の人一人の救いのためにはるばるガリラヤ湖を渡ってきたのです。主イエスは十分目的を果たしたのです。なぜなら、この地方における主イエスの宣教の働きを担ってくれる人を得たからです。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(39節)。主イエスのお供をすることではなく、この地で主イエスの伝道の業の続きをなすために、この男は召されたのです。その働きを、主はこの一人の男の人に託してくださったのです。今日の聖書の箇所の主イエスのお働きを見ますと、宣教は誠に一人二人のために働くことだということを思わされます。この一人の男の人ために働かれる主イエスは、また、現代に生きる私たち一人ひとりのためにも働かれているのではないでしょうか。

フットプリント

 「あしあと(フットプリント)」という詩は、有名な詩ですので、多くの方が一度は読まれたことがあるのではないでしょうか。次のような詩です。

「あしあと」

 ある夜、わたしは夢を見た。/わたしは、主と共に、なぎさを歩いていた。/暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。/どの光景にも、砂の上に二人分の足跡が残されていた。/一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。/これまでの人生の最後の光景が映し出された時、/わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。/そこには一つの足跡しかなかった。/わたしが人生で一番つらく、悲しい時だった。/このことがいつもわたしの心を乱していたので、/私はその悩みについて、主にお尋ねした。/「主よ。わたしがあなたに従うと決心した時、/あなたは、全ての道で、わたしと共に歩み、/わたしと語り合って下さると約束されました。/それなのに、わたしの人生の一番つらい時、/一人分の足跡しかなかったのは何故ですか。/一番あなたを必要としていた時に、/あなたが、何故、わたしを捨てられたのか、/わたしには分かりません。」/主はささやかれた。/「わたしの大切な子よ。/わたしは、あなたを愛している。/あなたを決して捨てたりはしない。/ましてや、苦しみや試みの時に、/足跡がひとつだったのは、/わたしがあなたを背負っていたからだ。」

 この多くの人々を感動させた「あしあと」という詩は、長い間、作者不詳とされていました。この詩を生んだのは、神を信頼する心でした。父親に虐待された過去と殺人の前科を持つ男性と、育ちの良い女性が結婚を決意するまでにあった戸惑いの心は、神様への信頼によって平安へと導かれたのでした。その信頼の中から、この詩は生まれました。この美しい詩「あしあと」の作者はマーガレット・パワーズさんという女性です。

 1964年、ご主人のポールさんにプロポーズされた日「あしあと」は生まれました。その日、カナダのエコー湖のなぎさを歩いていた二人の心は、結婚のことでいっぱいでした。数時間前に、突然プロポーズをされたばかりでした。ポールさんはキリスト教の伝道者で、マーガレットさんは教師でした。二人はともにクリスチャンで結婚生活への夢もふくらんでいましたが、実は、心の奥底には不安があったのです。育ってきた環境があまりにも違う二人が、果たして一つになれるのだろうか。マーガレットさんの両親は、ポールさんのいまわしい過去を知っても賛成してくれるのだろうか。そのことを不安に感じていたのです。マーガレットさんは、安らぎのある家庭環境に育ちました。一方、ポールさんは父親からひどい虐待を受けて育ったのです。ごみ処理場の裏に住み、働かない父親に5歳で万引きを教えられました。7歳の冬、父親の不注意で母親が凍死した朝、父親が母をごみに埋めてしまうのではないかと怖くなり大声で泣くと、泣き声がうるさいと父親から暴力を受け、手首や肋骨、鼻を骨折、歯が何本も折れました。成長しギャングの一員になったポールさんは12歳の時、盗みに入った先で婦人を射殺します。逮捕され、少年院を転々とし、院内で聖書をもらうとその場で破り捨てていたそうです。けれど、ポールさんは、その後、刑務所の職業訓練学校で前向きに学ぶようになり、出所後、老齢のクリスチャン夫婦宅に下宿したことでクリスチャンになりました。主イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかったと知った時、母親が死んだ7歳の朝以来、初めて涙を流しました。

 そして、1964年のあの日、エコー湖のなぎさを歩きながら、将来を真剣に語り合っていた二人がいました。そろそろ戻ろうと砂浜を折り返すと、二人の足跡が波に消されて一人分しか残っていないのです。それを見て、神が祝福してくれないことの暗示かと不安がるマーガレットさんに、ポールさんは「そうじゃない。二人は一つになって人生を歩いて行けるんだ」と励ましたのでした。それでもマーガレットさんは不安です。「二人で処理できないような困難がやってきたらどうなるの」と聞きます。ポールさんは答えました。「その時こそ主が僕たち二人を背負い、抱いてくださる時だ。主に対する信仰と信頼を持ち続ける限りはね」。

 詩を書くのが好きだったマーガレットさんは、その夜、明け方近くまでかけて、なぎさでの出来事を詩に書きました。まるで神様を交えて、三人で歩いていたような麗しい瞬間を、書き留めておきたかったのです。完成した詩をポールさんに見せた時には、なぎさでの出来事と、詩を書きあげた喜びと感謝で、結婚への不安はなくなっていたのです。その後、人前で聖書を語ることの多いポールさんは、機会あるごとに、一人の救いのために働かれる主イエスを描いた「あしあと」の詩を紹介し、それが、この詩が世界中に広がるきっかけとなったのです。

主イエスの勝利

 私たちの歩むこの世は、またそこを生きる私たちの人生は、悪霊の、罪の力の支配を受けています。そのことは、世の終わりまで変わりがありません。私たちは、その現実の中を歩んでいるのです。しかし、悪霊に取りつかれたゲラサの人のいやしの出来事で、「レギオン」と名乗る数多くの悪霊が、主イエスの言葉によって、多くの豚の中に入れられ、湖の中になだれ込んで死んでしまったという本日の聖書の記事は、主イエスは、やがて終わりの日に、ご自身によって建てられる「神の国」のために、この地上から悪を一掃されるという神様のご計画が予表されていると言うことができます。

 そして、悪霊を追い出してもらった男の人が、主イエスがして下さったことを町中にいい広めた出来事は、教会時代の宣教が予表されていると言うことができます。多くの人が、自分がサタンの支配の下にあると思っていない中で、サタンの支配から神様に立ち返らせることだということができます。サタンはこの世の神で、この世の価値観に従って生きているときに、本人は気づいていないけれども、私たちはサタンの支配下に置かれているのです。しかし、こういう生き方は神様から与えられた、本来の自分の生き方ではないと気づくときに、私たちは主イエスに立ち返ることができるのです。そして、主イエスが十字架での贖いの死と復活によって与えられる恵みとそのことを信じる信仰だけが、私たち一人ひとりが救われる道なのだということです。 本日の聖書の記事は、この世の終わりに、主イエスの勝利と支配が完全なものとなり、神様の恵みのご支配が完成する、その恵みの先取りとして与えられました。主イエスは滅びの力、死の力、罪の力に勝利をされるのです。私たちは悪霊の力に翻弄され、どうすることもできないように思えるこの世の暗い現実の中でも、たった一人のためにも働かれる主イエスによる神様の恵みの勝利を信じ、悪霊の力、罪の力の敗北を確信して歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。