小倉日明教会

『みなしごにはしておかない』

ヨハネによる福音書 14章 15〜18節

2023年5月28日 ペンテコステ・聖霊降臨節第1主日礼拝

ヨハネによる福音書 14章 15〜18節

『みなしごにはしておかない』

【説教】 沖村裕史牧師

■みなしご

 イエスさまは言われます。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(一八節)

 「孤児(こじ、みなしご)とは、両親・親戚等の保護者のいない未成年者のこと。狭義では生みの両親が死別、または行方不明となった未成年者を指す」と辞書にあります。「みなしご」と訳されているギリシア語には、片親がいないこどもや師たる指導者を失った弟子も含まれているようです。いずれであれ、「みなしご」とは「支え手となる者がいない、あるいは失った人」のことを指します。「みなしご」と聞いて、わたしたちがすぐに思い浮かべるのは、映画「火垂るの墓」の兄と妹のように戦闘や空襲によって孤児となった、いわゆる戦災孤児のことかもしれません。ある人がこんな一文を記しています。

 「私は、学生の頃、ある冬の夜、一緒に火鉢にあたっていた母の手をじっと見つめたことがある。それは、かわいそうなくらい小さい荒れた手であった。母はこの手で戦中戦後の物資のとぼしかった時代に、いつも工夫をこらして食事をつくり、衣服をつくろって、私たち三人の子どもを養い育ててくれた。そのことを思うと、思わず目がしらが熱くなったことを、今もありありと想い起す。しかも当時、実は母自身の方がよほど重い病気であったにもかかわらず、体調をこわして一時帰郷していた私のことを心配し、そのために自分のいのちをすりへらして世話をしてくれた母の愛を思うと、胸が痛むのである。

 私の一人の友は少年の頃、戦災で家を焼け出された。彼はたった一人でとぼとぼと道を歩いていた時、見知らぬおじさんから声をかけられた。おじさんが『ボク、おなかすいてるやろ、これ食べなさい』と言って、当時としては大変貴重なお握りを下さったことは、今もなお忘れられない、という。彼は、現在、牧師となって活躍している。このような経験は、きっと、皆様もお持ちになっておられることであろう」

 これは過去の話ではありません。今年四月、ロシアの軍事侵攻によって占領された地域にいたウクライナの孤児四三九六人がロシアに不法に連れ去られた、というニュースに心が震えました。あるいは「ストリートチィルドレン」と呼ばれるこどもたちのことも「孤児」と呼んでよいでしょう。帰るべき家を失って路上で生活しているストリートチィルドレンの数は世界中に数千万、あるいは一億人以上もいると言われます。貧しい国ばかりでなく、アメリカやヨーロッパ、そして日本でも、貧富の格差が広がる中、生活の困窮から親がこどもの養育を放棄し、またわが子を虐待して、家に帰ることができず街頭にずっといる、そんなこどもたちが今も増えています。新宿・歌舞伎町の一角、通称「トー横」に「自分の居場所がない」一〇代のこどもたちが多い時には一〇〇人以上も集まり、「トー横キッズ」と呼ばれています。G7と呼ばれる豊かな国で、多くのこどもたちが飢えと渇きに苦しみ、暴力と性的被害に怯え、窃盗や売春といった犯罪に手を染めています。これが現実です。

 そしてイエスさまの時代、そうしたこどもたちの姿はごく日常の風景でした。イエスさまは、深刻なその姿を心痛めながら見ておられたことでしょう。ある聖書の注解書の中に「子供」というタイトルでこう記されていました。

 「子供たちはいつも真っ先に飢饉や、戦争や、病気や、混乱の犠牲になったし、地域によっては成人したときに両方の親が揃っている者はほとんどいなかった。…孤児は社会の最も弱く、最も危害を加えられ易い構成員の典型であった」。そして「古代では大家族は一切を意味した」と記されています。

 家族を失うことは生きるための基盤の一切を失うことでした。面倒を見て、育ててくれる人がいなくなってしまったこどもには、食べるものも、着るものも、住むところもありません。もちろん、夜、眠れないときにも一緒に寝てくれる人がいるはずもありません。どんなに悲しくても、そばにいてそっと抱き締めてくれる人など一人もいません。みなしごは、ひとりぼっちです。だからとても不安で、とても寂しいのです。かのマザー・テレサが、人間として最も悲惨なことは孤独であると言っています。

 「人間にとって最大の悲惨は、あなたはだれからも、もはや必要とされていないと感じることです。それこそが人間にとって最もむごい、寂しい、つらいことです。『あなたはもう必要ではない』。その時、人は倒れます」

 「みなしご」とイエスさまが呼んでいるのは、現実の困窮やいのちの危険だけでなく、人間としての危機に晒されている、そんな人たちのことでした。

■聖霊なる弁護者

 イエスさまは、天の父、神様のたった一人のこどもでした。イエスさまは、その天の父によって遣わされ、わたしたちの所にやって来てくださり、神様のみ言葉を伝え、神様の大いなるみ業を示して、虐げられ、蔑まれ、除け者にされて悲しんでいる人や、病気や貧しさのために苦しんでいるたくさんの人たちを助け、励まし、元気づけてくださいました。たとえお金や肩書、友人や家族があっても、誰からも愛されない「みなしご」のような悲しみの中に生きている人が、昔も今も大勢いました。イエスさまはそんな人の友、慰め手、助け手となって、こう語りかけられました。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ一一・二八~二九)

 イエスさまは文字通り、生きる苦しみ、空しさを負ってくださり、共にいて、助けてくださる方でした。弟子たちはそんなイエスさまのことを信頼し、イエスさまがいないと生きていけない、とまで思っていました。

 ところが、その大切なイエスさまが天の父のところに帰られる、と言います。十字架の死からよみがえられたイエスさまと、いつまでも一緒に食事をし、もっとたくさんの神様のお話を聞かせていただけるものと思っていました。それなのに、別れのときがやってこようとしている、とイエスさまは言われます。弟子たちは不安で、寂しくて、つらくてたまりません。イエスさまは、そんな悲しんでいる弟子たちを見つめながら、やさしくこう言われました。

 「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」

 「寂しがることはない。わたしは天の父のもとに帰っていくけれど、天からあなたたちのところに聖霊を注いで、いつも、どんなときも、あなたたちと共にいて見守っている。だから元気を出しなさい」ということです。イエスさまは、自分が去っても、もう一人の「弁護者」「助け主」が来てくださると約束してくださいました。弁護者と訳されるパラクレートスというギリシア語は、「傍(かたわら)に招く者、共にいて励ます者、とりなす者」という意味です。イエスさまは、その姿は見えなくなっても、もう一人の弁護者、助け主が必ずやって来る、「真理の霊」である聖霊が注がれる、と言われたのです。天の父は、わたしたちから離れて、みなしごにするようなことは絶対にない、と言われます。そう言われた後、イエスさまは弟子たちに見送られ、オリーヴ山から天にのぼって行かれました。弟子たちはイエスさまの姿が雲のむこうに見えなくなって行くまで手を振り、別れを告げました。

 こうしてイエスさまは、わたしたちの目では見えなくなってしまいましたけれども、約束通り、弟子たちに聖霊を与えてくださいました。そして今ここいるわたしたちにも、その聖霊が注がれています。それは、風のように、小さな声のように、目には見えないけれど、いつもわたしたちに注がれていて、いつもわたしたちを招き、見守り、励ましています。イエスさまが「みなしごにはしておかない」と言われているは、そのことでした。

■残された言葉

 聖霊とは、まるで目には見えない愛の手紙のようだと思いながら、わたしは以前聞いた、ある話を思い出しています。ご紹介して今日のメッセージを閉じさせていただきます。

 一九八九年一〇月、東京の教会に出席したときのことです。ミッションスクールの落ち着いた校舎玄関の前を通って、一人の少女が教会にやってきました。その少女は礼拝堂の一番後ろの長いすの、彼の横に控え目に座りました。まだ早すぎる時間を、所在なげに外の街路樹の葉が風に揺れるのを目で追っていました。

 突然、一枚の葉が風にもぎ取られて散っていこうとしたとき、「ここに来られたのは初めてですか」、その少女は親しい友だちに自然に話しかけるように尋ねました。前置きのない言葉に、彼はただうなずき返していました。

 「おじさんにはこどもがいますか」と、その中学生らしい少女は言葉を続けます。「ひとり、小学生の女の子が一人」、そう答えると少しの間、考え込んでいて、「ふうん、女の子が一人ね。じゃあ、わたしと同じだ」。

 そしてさらに唐突に、「飛行機に乗ったことがあるでしょう」と畳み掛けてきました。そして返事を待たずに、「もし、その飛行機が落ちるとわかった時、何をこどもに言い残しますか」。大きな目が今度は返事を待っていました。

 どうして、こんなことを聞いてくるのかと不思議な気もしながら、「『どんなことがあっても、強く生きなさい。神様とパパがいつも空から見ているからね。辛くなったら祈りなさい。ママを頼んだよ』と…」。なぜ、そんな言葉が浮かんできたのか。

 しばらく沈黙の後、「ありがとう」、少女はほほえんでいました。

 「その言葉を聞いてうれしい。わたしのパパもきっと、そう言ってくれたに違いない。おじさんは、わたしのパパにそっくりなんだもの」

 一九八五年八月、日本航空のボーイング七四七型機が山中に激突し、多くの犠牲者を出しました。その飛行機が墜落するまで数十分あり、多くの人が恐怖の中で家族や親しい者に最後の言葉を走り書きしました。そしてその幾つかが幸運にも焼けずに残っていました。しかし、当時小学生であったろう少女には、父からの言葉は何一つ残されてはいませんでした。

 愛する人を突然失った者には、その突然の死を受け入れる準備などまったくありません。その死を受け入れるどころか、亡くなったことすら信じられないはずです。しかし、愛する人の死を、やがて時間がその人に受け入れさせていきます。もうその人はいないのだと実感したとき、今度はその人は、愛する人の心に生き続けるようになります。

 その時、しかし同時にその少女の心に浮かんできたのは、どうしてわたしのパパは何も書き残してはくれなかったのだろうという、取り残されたような寂しさだったのです。辛く寂しいとき、パパからの言葉が欲しかったと何度もその少女は思ったのでしょう。心が弱くなったとき、どうしていいかわからなくなったとき、いつも考えてしまうのは、パパがここにいてくれたならということでした。そして、一言、たった一言でいいからママとわたしに言葉を残していてくれたらと思ったのでした。

 『どんなことがあっても、強く生きなさい。神様とパパがいつも空から見ているからね。辛くなったら祈りなさい。ママを頼んだよ』

 このことばを聞くまでもなく、すでに少女の心の中に、このことばはあったはずです。ただそれを確信したかったのでしょう。だからこそ、別れるとき、笑いながらその少女は去っていったのだ、とこの人は書いています。

■愛の手紙

 わたしたちにも、そのような言葉、わたしを支える生きた言葉があるのでしょうか。

 皆さんの中に、様々なしがらみに苦しみ抜いている人がおられますか。皆さんの中に、だれからも顧みられず自分はぽつんと独りぼっちだと思い込んでおられる方をご存じですか。努力しても努力しても報われないと感じている人はおられませんか。豊かさに取り囲まれていながら、自分を見失いそうになっている人はおられませんか。誰にも知られず、わたしの心はくずおれていく。叫び出したい。助けて欲しい。わたしは一人っきり。

 そうであればあるほど、そのあなたのことが気にかかり、心を焼き尽くさんばかりに、あなたへの思いのたけを叫んでおられる方がおられるのです。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」

 墜落していく飛行機の中で、もうしばらく時間が欲しい。もう少しだけこの時を先に延ばして欲しいと、血の汗を流しながら祈ったことでしょう。あの少女の父と同じように、いえ、それ以上の気持ちで、十字架に死に行き、よみがえられて、今、天にのぼられる方、それがイエスさまという方でした。

 少女の父が少女の心の中に生きているように、イエスさまはくずおれた者の心にこそ、共に生きて、招き、励ましてくださっているのです。そして、その血を流すほどの切なる願いと祈りを、後に知った者は、自分がこれほどまでに愛おしく思われていたことを、どのように感じるのでしょうか。

 夜のイメージは、暗さであり、闇です。それは人の心に不安と恐れを呼び起こします。しかしそうでしょうか。それは本当の夜空をご存じないからかも知れません。夜空が澄み切ったとき、その闇すらも暗黒ではなく、藍色に輝き出すのです。藍色に輝く夜空に出会ってください。暗ければ暗いほど藍色は明るく輝き出すのです。その青い輝きこそが、イエスさまからの『愛の手紙』です。

 クリスマスの夜、貧しい羊飼いたちは、寒さの中、焚き火を囲みながらまたたく星を見ていたことでしょう。そして、その星の輝きの中に、天からの『福音』を感じたのでした。いまだかつて「星」を手にとってみた者はいなくとも、星の輝きに願いを託した者は多くいます。星に願いを託すのも、その星に遥かなる永遠の輝きを感じるからです。

 遥かなるものは、無限であり、見えないものです。見えるものは確かなもののように感じがちですが、一時的であり、やがて消えていきます。わたしたちは生きていく上で、何を必要としているのでしょうか。悲しむ者の心には、前に向かって生きる勇気が必要です。夜空に輝く星を見るとき、わたしたちのことを思い、十字架の上で死に、よみがえられて、天にのぼられていったイエスさまの愛、その聖霊によって励まされて、「みなしご」のようなわたしたちは、何度でも新しく生きようと力強く立ち上がることができるのです。感謝です。