小倉日明教会

『もう泣かなくともよい』

ルカによる福音書 7章 11〜17節

2022年6月19日 聖霊降臨節第3主日礼拝

ルカによる福音書 7章 11〜17節

『もう泣かなくともよい』

【奨励】 川辺 正直 役員

■井上やすしの語る父の死

 おはようございます。井上やすしという作家がこんなことを書いています。

 自分は父親が亡くなるまでは、死についてほとんど考えたことがなかった。しかし、父が亡くなってみて、はっきりわかったことは、父が自分と死を遮る役目を果たしていてくれたということだ。父がなくなった時、ちょうど屏風がパタッと倒れるように、死という暗い海が突然目の前に迫って来るようになった。自分と死との間の風通しが妙に良くなって、寒々とする。死が実際のものとして迫って来るようになった。とこのように書いています。

 私たちは死ということを、日頃、ほとんど考えずに生きています。しかし、同じ年頃の友やまだまだ死なないと思っていた肉親や、あるいは深い絆で結ばれた人が亡くなる時、今更のように私たち人間というのは、生きている存在などではなくて、死につつある存在なのだと気づくのではないでしょうか。

 本日の聖書の箇所では、一人のやもめが登場します。やもめと書いていることから、この女性が夫に先立たれた女性であることがわかります。聖書の時代において、やもめが生きていくのはとても困難なことでした。私たちの生きる現代の日本社会では、夫に先立たれた女性が働くことも珍しくありませんし、そもそも共働きの夫婦が多くなってきています。しかし、聖書の時代では、やもめが働く道は閉ざされていましたから、一人息子を抱えたこの女性が生きることは容易なことではなかったでしょう。しかし、この女性は夫の死に耐え、死と息子の間に立ちはだかって頑張って生きてきたのです。もちろん、息子が成長して、この女性の生活を支えてくれるという希望もあったことでしょう。だからこそ、死が目の前に迫ってきても、息子との間に立ちはだかって生きてきたのです。

 しかし、その女性が守ってきた息子が死んでしまったのです。目の前の死と向き合ってきたのに、自分の後ろにいた息子が死んでしまったのです。どれほどの衝撃であったことでしょうか。恐らく、自分が立っていた床が抜け落ちるような衝撃であったと思います。

 本日の聖書の箇所は、深い喪失と絶望に打ちひしがれる一人の女性と主イエスの出会いを伝えています。本日は聖書が最も大切なこととして私たちに伝えているメッセージを皆さんと一緒に学びたいと思います。

■ナインの町の門にて

 本日の聖書箇所の冒頭には「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた」とあります。「それから間もなく」とは7章1節から10節で語られていた百人隊長の僕が癒された出来事から「間もなく」ということです。前回お話しました、百人隊長の僕のいやしの出来事は7章の1節を見ると分かるようにカファルナウムという町で起こりました。カファルナウムとナインの位置関係は、聖書の後ろにある付録の聖書地図6「新約時代のパレスチナ」を見ると分かります。カファルナウムはガリラヤ湖畔の町で、そこから40キロほど南西にナインがあります。旧約聖書にナインという名前は出ていません。歴史家のヨセフスはナインという町は、ガリラヤからエルサレムに上るルートにある町だと言っています。ナザレからナインまでは約10キロです。ナザレは山の中腹にあり、下り坂を下って行くと、イズレエルの谷、イズレエル平原があり、その先にナインの町があるのです。そして、それらの地域の西の地中海の近くには有名なカルメル山があります。聖書地図3「カナンへの定住」を見ると、カルメル山とナインの町の周辺には、有名なタボル山、イズレエル平野、イズレエルの町、ナザレ、メギドの町があります。そして、これらの地名が出てくる一帯は、旧約聖書でエリアとエリシャが奉仕した地域なのです。福音記者ルカは、ナインの町の出来事を記しながら、旧約聖書のエリアとエリシャの出来事を思い起こしているのです。

 さて、主イエスは11節にありますように、カファルナウムからナインまで40キロほどの旅をしたことになります。その旅が主イエスの一人旅ではなかったことが「弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」と11節の後半で語られていることから分かります。主イエスと一緒にいたのがどれくらいの人数だったのか正確には分かりませんが、大勢の群衆とあるように、なかなかにぎやかな一団だったのではないでしょうか。主イエスと主イエスに従うにぎやかな一団がナインに近づいてきたのです。

 12節の冒頭に「イエスが町の門に近づかれると」とあります。当時の多くの町は城壁で囲まれていましたので、町に入るときも、町から出るときも門を通りました。しかし、ナインという町は小さな町ですので、家並みが城壁の役割をし、家と家の間に簡単な門を作っていたのです。主イエスはナインの町に入るためにその門の近くまで来ていたのです。すると、その門から町の外へと出てきた人たちがいました。12節にはこのようにあります。「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。」当時、遺体は町の外に葬られました。ですから、やもめの一人息子が死んで、その遺体を町の外へと運んでいたのです。先頭が母親、その息子を納めた棺、そして町の人たちと列をなしていたと思います。主イエスが町の門に近づいたとき、ちょうどその葬列と鉢合わせしたのです。

■やもめの母親の絶望

 この母親は、夫に先立たれた後、一人息子にも先立たれたのです。最初にもお話しましたように、目の前の死と向き合ってきたのに、自分の後ろにいた息子が死んでしまったのです。自分が立っていた床が抜け落ちて、どこまでも落ちてゆくような衝撃であったと思います。14節で、主イエスは「若者よ」と呼びかけていますから、亡くなった息子は若かったことが分かります。母親は若い息子に期待し、その将来を思い描いていたでしょう。それだけでなく、息子と共に生きていく自分の将来も思い描いていたに違いありません。しかし、人生はこれからという若さで息子の命とその将来は断たれてしまったのです。13節で主イエスはこの母親に「もう泣かなくともよい」と言われていますから、彼女は泣いていたに違いありません。彼女は泣きながら息子の遺体を葬るために町の外へと出てきたのです。聖書の時代では、やもめが働く道は閉ざされていましたので、共同体の慈善にすがるしかないのです。従って、当時のユダヤの人々の理解では、やもめは本当に気の毒な生活をするしかないのです。ですから、聖書はやもめの保護について、大変な関心を払っています。やもめを保護しなさいということが、申命記に見られますように、神様との契約条項の中に出てくるのです。また、テモテへの手紙一、5章3〜16節にも見られるように、やもめの保護はキリスト教会の奉仕の重要なテーマになっていたことがわかります。

 この母親は、息子の死によって、愛する者を失うという精神的な喪失と、これから生きていくための支えを失うという経済的な喪失を味わい、そのことによって精神的にも経済的にも生きる希望が断たれてしまったのです。12節には、「町の人が大勢そばに付き添っていた」と語られています。当時の習慣では、葬送の列が来ると、畑仕事をしている人も、仕事の手を休めて、葬送の列に参加する事になっていたのです。泣いている母親が先頭を歩いている、次に棺が続きます。その後に町の人々が続いていたのです。一方、町の外からは、主イエスが先頭で、弟子たちが続き、その後に群衆が続いていたのです。町の中からは、悲しみの葬送、町の外からは、喜びの行列。この2つが、町の門のところで、鉢合わせをしたのです。悲しみと喜びが門のところでぶつかったのです。見方を変えれば、汚れと清さがぶつかったのです。

■もう泣かなくともよい

 そこで何が起ったのでしょうか。13節には、「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」とあります。ここで重要な記述があります。ルカはここで『主』という言葉を使っています。ルカによる福音書では、この箇所までは、『イエス』なのです。『主』というのは、ギリシア語で「キュリオス」と言います。「キュリオス」という言葉が、ルカの福音書で、ここで初めて登場するのです。なぜなのでしょうか。初代教会の信者たちは、主イエスに「キュリオス」という称号を与えたのです。イエスは主なり。イエスは「キュリオス」なり。「キュリオス」というのは、イエスが旧約聖書のヤハウェというお方であるという告白なのです。ですからこの箇所の奇跡が起こった当時は、主イエスはまだ「キュリオス」とは呼ばれていませんでしたが、ルカはここで初代教会が主イエスに与えた称号を使うことで、今日の聖書の箇所を語るルカの鼓動が聞こえてくるようです。ルカはここで興奮して、私たちに「皆さん、これから起こる大いなることを見て下さい、主イエスこそ『キュリオス』、ヤハウェなのです」と熱く語っているかのようです。

 そして、「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」とあります。なぜか、主は憐れみ深い方、主イエスには答えがあるからです。母親が主イエスに助けを願ったとは語られていません。母親が立派な信仰を持っていたとも書かれていません。彼女が主イエスに訴え願ったから、彼女が立派な信仰を持っていたから、主イエスがお応えになったのではないのです。

 主イエスは、一人息子を失い絶望の中で泣いている母親を見ました。「主はこの母親を見て」とありますが、これはなんとなく「見た」ということではありません。「見つめた」ということです。この出来事は母親からの訴えや願いによって起こったのではなく、主イエスがこの母親を「見つめた」ことによって起こったのです。そして主イエスはこの母親を見つめて憐れに思いました。この「憐れに思う」という言葉は、ギリシャ語で「スプランクニゾマイ」という動詞です。この言葉は元々「はらわた」、「内蔵」を意味する言葉であり、主イエスが彼女を憐れに思ったとは、彼女の絶望に「はらわたを引き裂く」ほどの憐れみを持たれたということです。脇腹を槍で刺されるような痛み。十字架のイエスに示される共感し、共に苦しむという神様のご性質が、スプランクニゾマイという言葉に示されています。そのことが起こったのは、母親が熱心に願ったからでも、あるいは母親が信仰を持っていたからでもなく、ただ一方的に主イエスがこの母親を見つめてくださり、憐れに思ってくださったのです。 

 ルカ福音書において、この「憐れに思う」という言葉は、この箇所を除いて2回しか使われていません。一つは、追いはぎに襲われ半殺しにされた被害者をサマリア人が「憐れに思い」介抱したときに使われ、もう一つは、放蕩息子がすべてを失って帰って来たとき、父親が「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」ときに使われています。このことから分かるようにこの言葉が示す憐れみは限りのないもの、法外なものであり、まさに主イエスの憐れみは、そのような憐れみであり、相手のために自分を引き渡す憐れみなのです。そして、主イエスは泣いている母親に「もう泣かなくともよい」と言われました。「もう泣かなくともよい」とは、元々の文章の意味するところを分かりやすく訳すならば、「泣き続けてはならない」となります。主イエスは母親に「泣いてはならない」と言ったのではありません。一人息子を失い、生きる希望を失った母親は泣かずにはいられないのです。主イエスは、この母親の悲しみや絶望を否定されたのではありません。むしろ受けとめてくださったのです。主イエスはその絶望の涙を受けとめてくださり、憐れんでくださり、「泣き続けてはならない」と言われるのです。絶望のために今までは泣いていたとしても、これからは「もう泣かなくともよい」と言われるのです。それは、今まで十分泣いたのだから、そろそろ泣き止みなさいということではありません。あるいは人は泣くことによって悲しみを落ち着かせていくものだから、もう泣くときは過ぎ去ったなどということでもないのです。そのようなことで死の力に打ちのめされた絶望は取り除かれることはないからです。  

 そこで主イエスは葬列に近づき「棺に手を触れられ」ます。律法によれば死体に触れれば汚れるとされていました。しかし、主イエスはその律法を越えて汚れるとされている棺に手を触れられたのです。それは主イエスが律法をないがしろにしたからではありません。そうではなく律法を踏み越えてまで、一人息子の死とその母親の絶望に近づこうとされる主イエスの真剣さによるのです。「はらわたを引き裂くような」憐れみによって、主イエスは律法を越えて棺に手を触れたのです。主イエスが棺に手を触れると、その棺を担いでいる人たちは立ち止まりました。町の門から外へ出て、埋葬の場へと向かっていた葬列はその歩みを止めたのです。棺に手を触れたイエスは「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」のです。イエスのお言葉によってこの若者は、新しい命を与えられ死人のうちから甦らされたのです。そしてイエスは、その息子を母親にお返しになりました。「お返しになった」を直訳すれば「与えた」です。イエスは、新しい命を与えられた息子を母親に与えたのです。

■神の訪れ

 この出来事を見て、「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」と16節にあります。「大預言者が我々の間に現れた」とは、エリヤのような大預言者が現れたということです。なぜなら旧約聖書列王記上第17章10節から24節で語られている、エリヤがサレプタのやもめの息子を生き返らせた出来事がここで思い起こされています。エリヤはサレプタの「町の入り口」まで来ると「やもめ」に出会います。このやもめの家でエリヤは共に生活しますが、やがてやもめの「息子」が死にます。エリヤはその息子を生き返らせて「母親に渡し」たのです。すると母親は、「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と告白しました。ですから、イエスがやもめの一人息子を生き返らせ、母親にお返しになったのを見た人々は、エリヤを思い浮かべたに違いありません。そして、エリヤこそイスラエルの民が待ち続けていた預言者にほかならないのです。旧約聖書の最後マラキ書第3章23節に「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。エリヤの出現を彷彿とさせる主イエスのみ業によって、この「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」という預言が成就したと人々は信じたのです。けれどもこの出来事が、エリヤがサレプタでやもめの息子を生き返らせた出来事と似ていて、エリヤに似た大預言者が現れたと思えたとしても、だからといって、それだけで人々が神の訪れを自分たち一人ひとりのこととして受けとめたわけではないでしょう。やもめの一人息子の甦りは、彼自身にとって、また彼の母親にとって、そして付き添っていた人たちにとってどのような意味を持っているのでしょうか。

■精神科医ヴィクトール・フランクル

 ナチスの強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』という本で有名なヴィクトール・フランクルという精神科医がいます。彼は、ある深夜、未知の女性から電話があり、絶望し自殺を考えていると言われるのです。フランクルが生きることの大切さを縷々述べても、それは女性が彼の著書を通して知っていることでした。言葉を失った彼は、明日の朝ともあれ面会することを約束してもらうのです。翌朝、その女性はほほえみを浮かべながら、フランクルを訪れたのです。彼女は言うのです。『私が自殺を思い止まったのは、先生の言葉ではなく、深夜1時間余りも未知の女の話に対応してくれた事実のおかげです。世間は捨てたものではないと思いました』。このときの経験を、フランクルは『医師としての自分の生涯の中で最も感動的な瞬間でした』と語っています。フランクルは、ナチスの強制収容所で、父と母と妻を亡くし、自らも苦しんだがゆえに、この女性の苦しみに寄り添うことができたのだと思います。

■憐れみ深い神様のご性質

 カトリックの司祭であり、元ハーバード大学の教授でもあるヘンリー・ナウエンはその著書「傷ついた癒し人」の中で、「自ら傷を負い、主に依って癒された者のみが、傷ついた者に届く癒しの言葉を語りうる」と語っています。また、河野進牧師が作った詩に、「病まなければ」という詩があります。

 「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ、信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聞き得ない御言葉がある 。病まなければ、近づき得ない聖所がある 。病まなければ、仰ぎ得ない御顔がある 。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」。

 この「病む」という言葉を「苦しむ」に置き換えた時、「おお、苦しまなければ、私は人間でさえもあり得ない」と読む時、私たちは、苦しむことを通して私たちは教会に集められたと思わされます。主イエスは、「はらわたを引き裂くような」憐れみによって、私たちの悲しみや絶望や、あるいは、最も汚れた部分に寄り添って来られる方なのです。

 今日の聖書の箇所で、やもめの一人息子を蘇らせた主イエスは、最後には捕らえられて、十字架に架かって、死なれました。死んだ人たちを蘇らせたのに、ご自身は十字架で殺されてしまったのです。しかし、つまずきとしか見えない主イエスの十字架にこそ神様の憐れみがあったのです。主イエスが十字架で死なれたのは、一つには、私たち人間の罪を全て背負って、贖って下さるためです。もう一つは、いつか必ず死に支配され、命を奪われてしまう私たち人間の苦しみと悲しみ、絶望を引き受け、背負って下さるためです。宗教改革者のマルチン・ルターは、「霊的に見るならば、この世のすべては死んでいる。しかし、それが感じ取られていないのである。」と語っています。これは、人間はもともと神様との人格的な関係の中で生きるように造られているのです。ところが、人間は神様に背を向けて、神様と繋がっていない状態になっています。これを神様に対して死んだ状態、霊的な死と呼ぶのです。主イエスは、神様と断絶状態になっている私たち人間を再び神様との関係を取り戻すために来られたのです。そして、父なる神様は、主イエスを三日目に復活させられました。神様は、私たち人間を最終的に支配するのは死の力ではなく、私たち人間を死の支配から解放し、新しい命を与えて下さる恵みの力なのだということを示して下さったのです。主イエスが蘇らせて下さったナインの町の若者は不老不死の力を与えられたのではありません、やがて死すべき存在であることには変わりはありません。

 本日の聖書の箇所は毎日説教に取り上げても良いと考えていたマルチン・ルターは、本日の聖書の箇所に関して、「我々がすでに死んだとしても、この方が、死からの救い手なのだということがここに書かれている。我々は全て死に向かう道を歩いている。その我々自身の前に、まわりにうしろに、この方の御姿を見る。我々すべてと共に死への道を歩まれる方を見る。このことをしっかりと見、捕らえなければならない」と語っています。ルターが語るように、主イエスは、鈍い神ではなく、敏感で鋭い感覚を持って私たち人間の悲惨な現実を受け止めて、激しく心を動かされるお方です。愛する息子を失い、嘆きと悲しみにくれていた母親に自ら近づいて下さったように、主は私たちに向かって来られます。人生におけるさまざまな試練や苦しみや悲しみの中にある時にも、主の愛のまなざしは注がれているのです。そして、主は私たちの魂に寄り添ってくださいます。そして、今日も、「もう泣かなくともよい」と語られるのです。私たちはこの憐れみ深い主イエスを信じて、歩んでゆきたいと思います。

 それでは、お祈り致します。