【奨 励】 役員 川辺 正直
■「手を当てる」
おはようございます。さて、新型コロナはしばらく落ち着いていたと思っていたら、また新しいオミクロン株の感染の急拡大によって、不安の内に過ごされている方も多いかと思います。昨年の7月に厚生労働省が発表した2020年の日本人の平均寿命は、男性の平均寿命は81.64年、女性の平均寿命は87.74年となり、前年と比較して男性は0.22年、女性は0.30年延びているのです。コロナ禍の只中にあって、欧米の国々の平均寿命が2020年は低下する中で、日本人の平均寿命が延びています。これは考えてみますと、すごいことですね。ですので、あまり心配しすぎず、でも、気をつけながら、新しい一年を過ごして頂きたいと思います。
平均寿命の諸外国との比較は、国によって作成基礎期間や作成方法に違いがあるため、厳密な比較は困難とされていますが、現在入手されている資料を用いて比較すると、世界の主要国で、日本に次ぐ2020年の平均寿命を発表している国は、男性では、シンガポールが81.5年、ノルウェーの81.48年、そして、女性では、シンガポールの86.1年、フランスの85.12年となっています。日本人の平均寿命は世界の中で、文字通りトップクラスにあると言うことができます。小倉日明教会に連なる方々には、是非、長生きをして頂きたいと思います。
さて、お腹が痛いときに手で腹部をなでたり、不安や緊張を感じるときに手で頬に触れて気持ちを落ち着かせたりする経験は、誰もが持っているのではないでしょうか。ケガや病気などの処置をする医療行為を「手当て」といいます。言葉の由来は諸説ありますが、私たちが普段から自然に行っている「手を当てる」ことによって得られる癒しの効果が原点という説もあります。なぜ手で肌や体に触れると痛みが和らいだり、心が穏やかになったりするのでしょうか。その理由の一つとして挙げられるのが「絆ホルモン」「幸せホルモン」と呼ばれるオキシトシンの存在です。オキシトシンは人間の脳で合成され、分泌される物質で、主にホルモンや神経伝達物質としての働きがあります。脳から分泌されるオキシトシンの量は、親しい人と触れ合うなどのスキンシップによって増大することがさまざまな研究から知られています。愛情がこもった「触れる」という最も根源的な行為は、安らぎを与え、ストレスを緩和し、人との絆を深めるなど、さまざまな癒しの効果を持っていることが知られています。
今日の聖書の箇所には、病気や汚れた霊に悩まされている人々が押し寄せてきて、主イエスに触れようとしたという記事が記されています。本日は、福音記者ルカがなぜこの記事を書き記したのかを皆さんと共に学びたいと思います。
■山の上と山の下
まず、今日の聖書の箇所の出来事が、福音書のどのような文脈の中で語られているのかを見てみたいと思います。ルカによる福音書の5章の12節から6章の11節にかけて、主イエスと律法学者たちやファリサイ派の人々は、安息日を始めとする律法の規定について、論争を繰り返しています。そして、本日の聖書の箇所の直前の11節には、次のように書かれています。「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」。つまり、律法学者たちやファリサイ派の人々は、「イエスを何とかしよう」、即ち、主イエスを殺してしまおう、と考えたのです。そのことは、主イエスと彼らとの対立がもはや抜き差しならないところまで行ったということです。
前回、お話した聖書の箇所は、主イエスが弟子たちの中から12人の使徒たちを選ばれた物語でした。律法学者たちやファリサイ派の人々との対立が明らかになり、彼らの殺意がはっきりしたことを受けて、「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」のです。主イエスはここで大きな方向転換をする必要に直面して、神様に真剣に祈っていることが分かります。そして、主イエスは夜を明かして祈りを捧げて、12使徒を選んだのです。
今日の聖書の箇所の話は、前回の、12人の使徒を選んだ話と、特に関係のない別の話であるように思われます。しかし、この二つの箇所を結びつけている言葉があるのです。それは「山」という言葉です。12節には「山に行き」とあります。それは山の上で、ということです。それに対して、17節には「山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあります。山の上と下という場面の転換が語られているのです。しかも、ただ山を下りたというだけでなく、わざわざ「平らな所に立った」とあります。なぜでしょうか。それは、福音記者ルカは、「山の上」での12人の使徒たちの選びと、山の下での、おびただしい民衆に対する教えと癒しとを意識させようとしているのです。それはどんな関係なのでしょうか。
主イエスを囲んだ人々の中には、大きく分けて3種類の人々がいました。まず、主イエスと一緒に山を降りてきた12人の使徒たちです。2番目は、12人の使徒たち以外の大勢の弟子たちです。さらに、3番目は、各地から集まってきたおびただしい数の民衆たちなのです。
このおびただしい数の民衆は、主イエスを追っかけてやってきた人々です。これらの人々はどこからやってきたのでしょうか。17節には、「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、」と書かれています。「ユダヤ全土とエルサレム」というのは、この小倉日明教会で例えて言えば、「日本全土と東京都から、」ということになるでしょうか。即ち、国中からということになります。しかし、その中には、ユダヤ教以外の宗教を持つ、異教の国から来た人たちもいたようなのです。「ティルスやシドンの海岸地方から、」と書かれているのは、そのことを指しています。シドンやティルスは現在のレバノンになります。海沿いの地で、異邦人の地なのです。シドンの国の女神アシュトレトは異教の神で、男性の神バアルと並んでユダヤの人々をいつもまことの神を信じる信仰からそらせ、誘惑し、悩ませ続けてきた神です。そのような異教の地からも、はるばる主イエスに会いにやって来ていたのです。シドンやティルスはエルサレムから見れば、150キロほども離れた土地です。当時は歩くか、ラクダに乗ってくるか、ロバに乗ってくるかしかなかったでしょう。誰もが、現代の私たちから見れば、考えられないくらい危険な思いをし、大変な苦労をして主イエスの下までやってきたのです。このことは18節、19節を通してもっとはっきりしてきます。18節に、「イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。」とあります。この平地に集まってきた人々の中にはいやしを求めてきていた人々が少なからずいたのです。病を抱え、痛み、苦しみに耐えて、困難な道を踏み越えて、この日、主イエスの下までやってきたのです。
こうして見てみますと、この日主イエスを取り囲んだ人々の中には、実にいろいろな種類の人たちがいたことが分かります。主イエスは、徹夜の祈りをもって選ばれた12使徒たちにも、大勢の弟子たちにも、そして、今始めて会いにやってきたユダヤ人や異教の民にも、同じように言葉を語り、同じようにいやしを与え、同じように出会ってくださるのです。もし、主イエスが山の上に留まり続けていたとしたら、そこには自力でその山を登って来ることができる人たちしか集まることができなかったでしょう。ユダヤ全土とエルサレムから、またティルスやシドンの海岸地方からはるばるやってきた、おびただしい民衆たちの中には、病気の人や汚れた霊に悩まされていた人たちがたくさんいたのです。旧約聖書の時代から、山は神様との出会いの場所です。しかし、主イエスが山の上に留まり続けていたなら、せっかく山の麓の平らな所に集まった多くの人々は、主イエスにお会いできないまま、倒れることになってしまったかもしれないのです。主イエスが使徒たちと共に山を降りて、主イエスに会いに来た人々のもとへ赴いて来られたことに、大きな恵みが示されていると思うのです。
■主イエスの活動
主イエスの活動は大きく分けて3つであると言うことができます。その1つ目は、「教える」ということです。この「教える」という言葉は、ヘブライ語で「ディダスコー」と言いますが、マタイによる福音書の「⼭上の説教」や、ルカによる福音書の本日の聖書の箇所のすぐ後、次回、お話する「平地の説教」に見られるように、モーセの律法の正しい解釈を伝えることを指しています。また、主イエスの活動の2つ目は、御国の福音を「宣べ伝える」(「ケーリュッソー」)ということです。それは、今日に言うところの、「宣教」とか「伝道」という働きです。それは、旧約の預⾔者たちが前もって預⾔していたことであり、メシアの到来による良いおとずれ伝えるということです。そして、主イエスの活動の3つ目は、「癒やす」ということです。現代のように、医学が発達していない主イエスの時代には、病気にかかると大変で、身代がとぶと言われました。従って、どのような病気であっても死に直結する不安が強かったのです。しかし、やがて主イエスの臨在によって、御国が実現する時には、どんな病気であってもいやされるという終末論的な希望を主イエスは奇跡によって、人々に分かりやすく示しているのです。
ここで、「癒やす」という言葉は、ヘブライ語で「セラペウオー」と言いますが、この言葉には、医療的⾏為を⾏って病⼈に仕える、サービスするという意味があります。従って、主イエスに癒やされるということは、サービスする人生が開かれるということでもあるのです。ルカによる福音書4章38〜39節には、次のように書かれています。「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」 高熱で苦しんでいたシモンのしゅうとめが、主イエスに癒やされたとき、彼らをもてなしたのです。病気は人を不自由にし、仕えることを不可能にします。しかし、主イエスの臨在によって癒やされた者は、仕え人として、新しいサービスの人生が開かれるのです。
■主イエスの教えを聞く
さて、この平地に集まってきた人々の目的の第一は、「イエスの教えを聞くため、」とあります。人々は、主イエスの他には、語ることができない生命のメッセージを聞くために集まってきているのです。人々は、主イエスの言葉に飢えているのです。アモス書8章11〜12節には、次のように書いてあります。
「見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。/わたしは大地に飢えを送る。/それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。/人々は海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見いだすことはできない。」
主の恵みの言葉を拒む者に下される主の審判は、飢饉です。それは、普通の飢饉よりも酷く、水の渇きよりももっと我慢の出来ない神様の言葉への飢えであり、渇きなのです。「海から海」は、地中海からペルシャ湾を指します。「北から東」は、地の果てから日の出るところまでを指します。言い換えれば、人々が古代近東の世界をあまねく行き巡って主の言葉を捜し求めても、主の言葉はどこにも見出せなくなるという悲惨がここには語られています。そして、生きていることを赦されている今が、御言葉を聞くことのできる最初で最後のチャンスであることを覚え、御言葉を御言葉としてひれ伏して聞き従うことの大切さを、主はアモスを通して語っておられるのです。
集まってきたおびただしい数の人々は、主イエスの言葉に飢え、魂の糧に飢え、生命の水に渇いています。ここに教会の使命があります。「荒野の誘惑」に於いて、サタンは主イエスに石をパンに変えて飢えをしのぐようにと誘惑しましたが、主イエスは神様の口から出るみことばによって生きるという戦いにおいて勝利されました。「主の祈り」の中で、私たちは「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ります。この「主の祈り」にある「日用の糧」とは、神様と人とが共に生きる永遠の生命を意味しています。「今日一日、一回限りの命の糧」を切実に祈ることによって、その時が来るように祈りなさいと主イエスは弟子たちにも、私たちにも、教えられているのです。
■主イエスに触れる
さて、先程、この平地に集まってきた人々の中にはいやしを求めてきていた人々が少なからずいたということをお話ししました。もちろん彼らは主イエスの「教えを聞くため」に来ていました。けれどもそれと結びついたものとして病気をいやしていただくこと、汚れた霊からいやしていただくことも求めて集まってきていたのです。
それゆえに「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」(19節)のです。それは「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたから」です。ここで、「何とかして」という言葉は、「必死に何かをしようとする」という意味の動詞「ゼーテオー」という言葉が用いられています。皆なんとかして主イエスに触れたかったのです。触りたかったのです。それによって、主イエスの内にみなぎる神の力に与かることができたからです。それによって病からも、悪霊からも解放され、苦しみと悩みから解き放たれたからです。このとき、主イエスの周りの現場は、大変な混乱であったと思います。12使徒たちも、多くの弟子たちも、この混乱の中で、きっともみくちゃにされたと思います。
聖書では「触れる」という行為には大切な意味が込められています。人は触れることによって、その相手の力や祝福に与かることができるのです。この「触れる」という言葉にはまた、「光らせる」、「輝かせる」という意味もあります。触れることで主の力に与かる者は、今まで苦しみとらわれ続けていたあらゆる悩みから解き放たれ、これまで心の中を支配してきた暗闇を取り除かれ、光の内を歩む生き方へと招きいれられるのです。それは病気や悪霊の背後にある悪の力が打ち破られて、神様の力強いご支配が始まったことを示しているのです。神の国、神のご支配が始まりつつあるのです。
主の周りに群がり集まった群集は、今はそのことを十分に理解してはいなかったかもしれません。いや、もしかしたら多くの人々は、とにかく主イエスに触れていやされるというご利益だけを求めて来たのかもしれないのです。とにかくこの病気や苦しみ、悪霊がもたらす悩み、てんかん、中風といった病からいやされたい、それだけの理由で来た人たちも多かったかもしれないのです。この日、主イエスのまわりに集まってきた人たちの中には、そのようにご利益に与かるようなつもりで来ていた人もあったかもしれないのです。
けれども大切なことは、主イエスはそうした人々を拒むことをせず、彼らがご自分に触れることを退けたりなさらなかったということです。すべての人の病気をいやす力を出し惜しみしたりなさらなかったということです。迷信まがいの思いでもって触りに来た人々をもまずは受け入れてくださったということです。とにもかくにも主イエスのもとへやって来た人々を主イエスは受け入れてくださったのです。ご自身に触ることをよしとしてくださったのです。
しかも、主イエスは人々が触れるのに、何の条件もつけてはいないのです。そして、今日の聖書の箇所の後で、主イエスの「平地の説教」が行われるのです。主イエスは、人々をいやすのに、モーセの律法を正しく理解してからだとか、モーセの律法をきちんと守ってからだとか、御国の福音をちゃんと理解してからだといった条件は何もつけていないのです。それはなぜでしょうか?それは、神様の意思は、すべての人が救われることにあるからだと思います。神様は、どこまでも全ての人が救われることを望んでおられるのです。
それでは、現代に生きる私たちに、本日の聖書の箇所に登場するおびただしい数の人々に与えられたしるしが、与えられないのはなぜかと疑問に思われる方もおられるかもしれません。次に、そのことを考えてみたいと思います。
■プロテニスプレーヤー、アーサー・アッシュ
昔アメリカに、アーサー・アッシュという黒人のテニスプレイヤーがいました。人種差別がまだ厳しかった1960〜70年代に、テニスを志し、世界のテニスの舞台で活躍した選手です。グランドスラムで3度優勝し、1975年には黒人選手として史上初めて、ウインブルドンの覇者となるのです。コートの外でも、人権擁護運動で活動し、多くの弱い人々に勇気を与え続けてきた人格者です。しかし、彼は、心臓病で2回手術を受けました。そして、人間として最も脂の乗り切った時、手術中の輸血によってHIVウイルスに感染し、エイズを発症してしまうのです。1993年に、49才の若さで亡くなっています。当時はこの病気への偏見がひどく、彼は実に無礼な質問にさらされていくことになります。彼がHIVウイルスに感染したことを真摯に受けとめ、人々に公表した時、ある人から手紙がきました。それにはこう書かれてあったそうです。
「なぜ神様はあなたをエイズ患者に選ばれたのでしょうか・・・」
それに対して、彼は次のような返事を書いたそうです。
「世界には5,000万人の子供がテニスをします。そのうち、500万人が正式にテニスを習います。そのうち、50万人がリーグに参加します。そのうち、5,000人程がグランドスラムに参加する資格を手にします。そのうち、50人程がウィンブルドン大会に参加する資格を手にします。そして、そのうちの1人が優勝します。私がウィンブルドン大会で優勝カップを手にした時、「なんで私が?」とは問いませんでした。もし、私が心臓病とエイズの時だけ「なんで私が?」と問うならば、私は自分がこれまで受けてきた祝福にも「なんで私が?」と問うべきでしょう。なんで、私の少年時代、あんなにも善意にあふれた大人たちが回りにいたのか。なんで私がテニスを志した時、超一流のコーチが手弁当で現れて助けてくれたのか。なんで、こんなにも賢くて美しい妻と結婚することができたのか。なんでウインブルドンで、優勝することができたのか。いくつか降りかかった残念なことになぜと問いかける資格があるとするなら、その何倍もあった良きことにも、なぜと問うべきです。私は他の人の人生と比べるつもりはありません。私は私の人生を生きるのです。」
このアーサー・アッシュの言葉に触れるとき、現代を生きる私たちにも、神様は確かに「しるし」を与えて下さっているのだと思います。
■主イエスは共に
かつてイスラエルの民は、生ける神様と相見えた者は、即死ぬことになると考えていました。イスラエルの人々がシナイ山のふもとで神様がそこに臨んでおられるのを感じた時、大いなる畏れに打たれました。雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有り様を見て、神様がすぐそこにおられるのを感じ、激しい畏れに打たれたのです。彼らは神様のおられる山から遠く離れて立ち、指導者であるモーセに、神様が民に伝えようとしていることを取り次ぐようにと願い出るのです、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます」(出エジプト記20章19節)。神様とまともに向かい合わせになり、その言葉を受けとめることのできる力は人間にはないのです。神様と鉢合わせになる時、人間は全能の神様に背く、反逆の心に支配された救いようのない者であることがはっきりとするのです。そして、神様の裁きと怒りの前に焼き殺されてしまうのです。
しかし、本日の聖書の箇所で、今、主イエスにおいて起こっている出来事は、そのような神様が今、見える形をとって、人の姿になって、しかも平地にまで降って、私たちにご自身を現して下さっているということです。そして、私たちが主イエスと出会い、主イエスに触れることをよしとしてくださっているのです。動機は何であれ、集まってくる者にご自身を触れさせ、御言葉を語って下さるのです。その時、私たちの中に変化が起こりはじめます。ご利益目当てで来ていた者も、そこでまことの生ける神様と出会い、自分が神様の前で滅ぼされる他はない存在であることを知らされるのです。そして、あのシナイ山のふもとに立ったイスラエルの民が経験したのと同じ畏れに打たれるのです。けれども、それと同時に、その生ける神様が今、自分のそばにまで来てくださり、私たちが神様に触れ、神様の言葉を聴くことができるようにして下さっている恵みを知らされるのです。この「畏れ」と「恵み」の間にあるのが、主イエス・キリストの十字架と復活です。そのままでは、神様を見ることなどできない反逆の罪のかたまりである私たちが、キリストにおいて神様と出会うことができるのは、主イエスが十字架で、私たちの叛きの罪を一身に引き受けてくださり、私たちに代わって死んでくださったからなのです。悪の支配を打ち破り、復活されたからなのです。この福音の前に立たされる時、もはやご利益目当てで来た自分はいません。変えられるのです。主の弟子としていただけるのです。神様をまことに神様として歩む人生の喜びが目の前に広がり始めるのです。自分が求めていたものが予想外の仕方で実現され、もっと大きな恵みの中に招き入れられていることを知るのです。叛きの罪を赦され、神様の御顔の前を、神様に守られ、導かれながら、歩み出すことができるのです。私たちは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」(創世記32章31節)と語ったヤコブのように喜び合うことができるのです。私たちは、私たちを救うために、私たちのもとに来て下さる主イエスと共に歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。