小倉日明教会

『イメージしてみてください!』

マルコによる福音書 4章 10〜12節

2022年1月23日 降誕節第5主日礼拝

マルコによる福音書 4章 10〜12節

『イメージしてみてください!』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■イメージしてみてください

 昨年開催された東京オリンピック招致のための最後のプレゼンテーションに備えて、「お・も・て・な・し」とスピーチした滝川クリステルを始め、アスリートたちや総理大臣、東京都知事にスピーチを指導した、有名なアメリカ人コンサルタントがテレビ番組の中で、「最も聞き手の関心を引きつける言葉は何でしょうか」と尋ねられ、「それは、『イメージしてみてください』という言葉です」と答えていました。実際、フェンシングのメダリスト太田雄貴はそのプレゼンテーションでこうスピーチを始めました。「この都市の中心のことをイメージしてください。部屋からとても、美しいウォーターフロントが見えます。日本の首都である東京は一番クールな場所です。ここで皆さん楽しいゲームが観戦出来ます。若者たちが参加して、選手村はオリンピックゲームの中心になります」と。イメージを膨らませることは、人々の注意を喚起し、引き込むのにとても有効な方法の一つです。

 そしてイエスさまの「たとえ」もまた、わたしたちに豊かなイメージを与えてくれます。この四章にも、いくつもの「たとえ」が綴られています。一節から九節は「『種まく人』のたとえ」、一三節から二〇節はその「『種まく人』のたとえの説明」、二一節以下にも様々な「たとえ」が続いています。そして、そのたとえのすべてが「神の国」のたとえです。

 それほどまでにイエスさまが示してくださった神の国とは、いったい何だったのか。ひと言で言うならば、「神の愛」そのものです。神様の愛が今ここにもたらされている、神様の愛の御手がわたしたちの前に差し出されている。わたしたちがどんなものであっても、何の条件もなしに、いえ、むしろ悩み苦しむわたしたちであればこそ、「深い慈しみ」をもって全存在をかけてわたしたちを救いたいと願ってくださる神様の愛が、今もここでわたしたちを包んでいる。なんという幸いでしょうか。これこそが福音、これこそが神の国です。

 そんな神の国を、イエスさまは今もここで、いくつものたとえを用いて語ってくださっています。イエスさまのたとえは、大地に生きる人々には、とても馴染み深く、わかりやすいものだったに違いありません。それは、冷たい抽象的な言葉ではなく、まさにイメージを喚起する柔らかな言葉でした。

■外の人々

 ところが、ユダヤ教の会堂で律法の教育を受けて育った人々には、イエスさまが語られた神の国のたとえは、あまりにも異質で、イメージしにくく、理解することができませんでした。と言うよりも、イエスさまがたとえで語られたのは、わかりやすくするためのものではなかったようです。一一節から一二節、

 「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」

 「彼ら」とは、「外の人々」と書かれる人々のことです。直前の三章に、この「外にいた人々」のことがはっきりと描かれています。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた」と、外に立っている人とイエスさまの周りに座っている人とが対照的に描かれています。

 外に立っていたのは、「あの男は気が変になっている」と聞いてイエスさまのことを取り押さえに来た母マリアと兄弟たちであり、「ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」ファリサイ派の人々であり、「あの男はベルゼベル、汚れた霊に取り付かれている」と言っていた律法学者たちでした。弟子たちや群集の外にいた「彼ら」は、イエスさまのことを理解せず、信頼もせず、近づくこともせず、その言葉を聞こうともせず、その姿を目の当たりに見ることも、ましてや触れていただくこともなく、ただ遠巻きに見ているだけの人々でした。

 彼らの心の内にあるものは、ただ敵意と猜疑と殺意だけでした。

 そんな「外の人々」に、たとえによって神の国の秘密を語る、とイエスさまは言われます。神の国の秘密、真実を直接解き明かすことをせず、たとえによって語られるのは、なぜか。それは、心頑ななその人々が、イエスさまのみ言葉やみ業によって示される神の国を見てもそのことを悟らず、聞いてもそのことを理解できず、結果として、悔い改め、罪赦されて、救いにあずかることのないようになるためである、というのです。

 イエスさまから遠ざかって生きる者には、「神の国が近づいている」こと、「神様の愛が今ここにもたらされている」ことが分からないまま、神様の御許に立ち帰り、罪赦されて、神の国に生きることも許されない、とでも言われているのでしょうか。だとすれば、これは大変厳しい裁きの言葉だということになります。

■巻き込まれる

 果たしてそうなのでしょうか。どうも、ここでイエスさまが言われている「たとえ」は、わたしたちが考える「たとえ」とは、意味合いが異なっているように思われます。

 この時、イエスさまが使っておられた言葉はギリシア語でもなく、ラテン語でもない、ユダヤの人々が日常生活で使っていたヘブライ語の方言、アラム語であったと言われています。そのアラム語の「たとえ」という言葉に「謎」という意味があります。たとえというのは、分かりやすくするために用いられるものというよりも、謎そのものを意味するものであったようです。

 そう考えてみると、なるほどと思えます。何をたとえているか分からなければ、その意味はますます分からなくなってしまいます。たとえの意味が分からなければ、それはまさに「謎」になります。実はたとえとは、自分がそこに巻き込まれることなしには、イメージすることも、理解することもできないものです。だから、そのたとえに巻き込まれて豊かな収穫を得る人と、それを拒むために何も得られない人とに分かれます。イエスさまのたとえは、真実に神様を求める人にとっては、神の国への入口となり、神様よりもこの世のものや自分のことばかり求める人にとっては、侵入を阻む扉となるのだということです。

 たとえが、うそっぽい作り話か何かに過ぎないと考えたり、そのことを他人事としてしか受け止められなかったりする時、たとえは、何の力も持ち得ません。たとえを、現実の出来事として受け止め、その出来事を他ならぬ自分のこととして受け止め、イメージするとき初めて、たとえは、わたしたちを突き動かし、わたしたちの生き方を根本的に転換する、豊かで大きな力を持つものとなるのです。イエスさまのたとえは、まさにそのようなたとえでした。

 もちろんイエスさまは、人々が外に立ち続けることを望んでおられるのでは決してありません。イエスさまはたとえを語られるとき、「よく聞きなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」「何を聞いているかに注意しなさい」と何度も語りかけてくださいます。 イエスさまはむしろ、このたとえによって、神様の御国がわたしたちのところに近づき、神様の愛が、今、現実のものとして、わたしたちのところにもたらされているのだということ、そのことを人々に、わたしたちに教え、示そうとしておられるのです。 イエスさまが求めておられることは、その神様の御心の、神様の愛の「外に立たない」ということです。神様の愛、イエスさまの言葉の内に、生きる者となるということです。神の国についてのたとえを語られることによって、イエスさまは、わたしたちを招いていてくださっているのです。わたしについて来なさいとおっしゃっているのです。外にいないで中に入って来てごらん、そして、今ここにもたらされている神様の愛に気づいてほしい、そう言われるのです。

■福音の力

 ひとりの牧師がこんな話をしてくれました。

 ある時、ある刑務所の見知らぬ三十代の男性から一通の手紙が届けられと言います。そこに「先生に知っていただきたいことがある」と書き始められていました。

 彼の罪名は殺人罪。自分の店で、いいがかりをつけてきたやくざと喧嘩をしてしまいました。事情を聞けば相当に同情すべき点はあっても、殺人は殺人、懲役十五年の判決を受けました。服役八年目を迎えていたとき、捨て鉢になって荒れ、荒み、そのため、「問題囚人」として独房内で生活をしていました。独房の生活は過酷です。一日中、独り言をつぶやいたり、自殺衝動にかられたり。出所したら社会に復讐しようと思っていたそうです。

 そんなとき、本でキリスト教を知って興味をもち、かつて住んでいた家の近くに教会があったことを思い出して、ダメで元々と手紙を出したのだそうです。

 教会に集まっている人たちは、いったいどういう思いで神などというものを信じているのか、キリスト教はなぜ罪人に慈悲深いのか、と。

 先生は一冊の本を添えて、返事を出しました。手紙には、だれもが祝福されて生まれてきたこと、生かされていることへの感謝、神様がそばにいてくださるのだから、どんな困難にも立ち向かえることなど、福音の数々を書き記しました。以来十か月、週に一回以上のペースで手紙を出されました。さまざまな本やパンフレットも送りました。返事があって、かなり弱っていると思えるときには、「苦しいときはへこたれてもいいから、命だけは大切にしなさい」と書き送りました。

 彼は次第に心を開き、返事の手紙には、「こんな殺人者のために手をかけ、命をかけていただいていること」に涙を流し、「人が人のために生きるとはこういうことか」と気づかされ、「今までなんと薄っぺらな人生を過ごしてしまったか」と後悔して、自分も人のために生きたいと願うようになった、出所に備えて介護福祉士の資格を取る勉強を始めることにした。そんなことが書かれていたそうです。それから数年の月日がたち、模範囚となった刑期が短くなり、出所を控えたある日のこと。福音にどれだけ励まされたか、出所したら是非お会いしてお礼を申しあげたい、その日を心待ちにしていると書かれた手紙が届けられ、その最後はこう結ばれていました。

 あなたのおかげで一人の殺人者は目覚めました。出所したら真っ先に御礼に伺うと心に決め、毎日主の祈りを唱えて心をゴシゴシ磨いています。今はなんのてらいもなく神様の力を信じています、と。

 先生は早速返事を書きました。あなたは幸いだ、神様に選ばれている、と。

 神の国の福音には、力があります。神様の愛が、すべての人に、今ここにもたらされているという御言葉の種が撒かれる時、人はだれもが救われます。そもそも、わたしたちの誰もが御言葉によって造られているのであり、御言葉を受け入れるように造られているからです。大地を考えてみてください。大地は水分を含み、栄養を蓄え、あらゆる条件を整えて種を待っています。種を芽吹かせ、根を伸ばし、草木を育てて実りをもたらすように造られています。あとは、種が撒かれることによってすべてが始まるのです。逆を言えば、種がまかなければ何も始まらないのです。

 なかには、道端の固いところもあれば、石だらけのところもあり、茨の間のような条件の悪いところもあるでしょう。毎週手紙を書けば必ず通じるという保証もありません。それでも、福音は決して無駄にはなりません。大切なことは、種を受け入れること、撒かれた種が芽生え、育ち、実を結ばせてくださるのは神様だ、と確信することです。神の国を告げる福音自体に力があると信じ、福音の御言葉を私たちが心の中にしっかりと受け入れることです。

 全国共通テスト会場で、受験生を切りつけるという事件がありました。若者による凶悪犯罪が続いています。何年前だったか。歩行者天国へ車で突入するという殺傷事件がありました。犯行の前に、容疑者が膨大な量の言葉をネットに書き込んでいました。それは、生きる意味と自分の価値を捜し求め、切ないほどに愛に飢えている、孤独な魂の膨大なつぶやきでした。どう読んでも、彼が言っていることは、たった一つのことだとしか思えませんでした。「わたしを愛してほしい」「わたしに愛の福音を聞かせてくれ!」と。

 イエスさまがたとえによって語り、その秘密を解き明かしてくださっていることは、まさにその福音そのものでした。であればこそ、わたしたちは、いつも神様の方を向いて、柔らかな心にならなければなりません。イメージしてみてください。そうすれば、聞く耳が開かれて、神の国が、神様の愛が、今ここに、わたしたちのところにもたらされていることを悟ることができ、聖霊に満たされて、苦難の中にあってなお、平安の内に歩むことができることでしょう。