小倉日明教会

『ベルゼブル論争 - 神の指と悪霊』

ルカによる福音書 11章 14〜26節

2023年6月18日 聖霊降臨節第4主日礼拝

ルカによる福音書 11章 14〜26節

『ベルゼブル論争 - 神の指と悪霊』

【奨励】 川辺 正直 役員

「雨ニモマケズ」のモデル 斉藤宗次郎

 おはようございます。さて、日本の国民的な作家である宮沢賢治の作品に「雨ニモマケズ」という作品があります。この作品は、宮沢賢治が亡くなった後に、彼の革トランクのポケットから見つかった手帳に書き記されていた遺作のメモなのです。一般には詩として、広く知られていて、賢治の代表作のひとつともされるものです。この「雨ニモマケズ」という作品の最後に、「そういうものに、わたしは、なりたい」と書かれていますので、「そういうもの」とは宮沢賢治ではないことは明らかです。この「雨ニモマケズ」という作品には、モデルとなった人がいたのです。その人の名前は斉藤宗次郎と言います。斉藤宗次郎は、岩手県の花巻に1887年に禅宗のお寺の三男として生まれました。彼は、成長して、小学校の教師になりますが、内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになり、洗礼を受けてクリスチャンになりました。花巻市で最初にクリスチャンとなったのが斉藤宗次郎であったので、彼の洗礼式にはクリスチャンとはどのようなものかをひと目見ようとして、多くの人々が教会に詰めかけたと言います。

 しかし、それからが大変だったのです。当時は、キリスト教は、「ヤソ教」「国賊」と呼ばれていました。彼は洗礼を受けた時から迫害を受けるようになります。石を投げられ、親にも勘当され、小学校の教師も辞めさせられてしまうのです。

 宗次郎はそのような苦しみの中で、神様に祈りました。そして、彼は、むしろ、町の人々に神様の愛を持って仕えることを選ぶのです。宗次郎は教師を辞めてから、朝の3時から牛乳配達と新聞配達をして生活し、帰りには病人を見舞うことなど続ける中で肺結核を患い、何度か血を吐きながらもそれでも毎朝3時に起きて働き続けたそうです。神様は、そんな彼を生かし、そのような生活を30年間続けたそうです。新聞は10数種類、重さは20キロ以上あったと言います。一日40キロの配達の道のりを走りながら、嫌がらせをする人々にキリストを宣べ伝えました。10メートル走っては神様に祈り、10メートル歩いては神様に感謝をささげた話しはあまりにも有名です。しかし、嫌がらせは、家族にまで及んできます。近所で火事が起きたとき、全然、関係がないのに、嫌がらせで、放水され、家を壊されたことがありました。何度も家のガラスを割られることがあったそうです。そして、さらにひどい事件が起こります。9歳になる長女の愛子ちゃんが、「ヤソの子供」と言われてお腹を蹴られ、腹膜炎を起こして亡くなってしまうのです。亡くなる時、愛子ちゃんは、讃美歌を歌って欲しいと言い、讃美歌を歌ってあげると、「神は愛なり」と書いて天に召されたそうです。

 それでも、宗次郎は、常に菓子や小銭をポケットに用意して、行く行く子供たちに与え、また乞食や貧困者に恵み、病床にある者を訪れて、慰めることに努めるのです。彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく町の人達のために祈り、働き続けるのです。彼は「でくのぼう」と言われながらも、最後まで愛を貫き通したのです。

 宗次郎の日記には、次のように記されています。

 「かくの如き労働は死に至るまで連続するも、倦(う)むことを知らぬであろう。一歩、一歩は、それだけ天国に近づく確信と希望となって、はじめて真の勇気と歓喜とはあるのである。」

 そうした宗次郎の生き方ばかりではなく、1909年の長女・愛子、1912年の妻・スエの相次ぐ死を通して、地域の人たちのキリスト教への偏見は、次第に尊敬へと変わっていきます。町の人たちはやがて「斎藤先生」と挨拶するようになり、子供は「ヤソ、はげ頭、ハリツケ」などとはやしたてていたのが、のちには「名物買うなら花巻きおこし、新聞とるなら斎藤先生」と歌うようになっていきました。そして、1926年に彼は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越すことを決心します。花巻の地を離れる日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたというのです。実はその群衆の中に若き日の宮沢賢治もいたのです。

 この宗次郎の人生を見るときに、主イエスのご生涯におきまして、愛によって語っても、ユダヤ人たちに受け入れられなかった、主イエスの悲しみの姿を見る思いがします。主イエスが伝道したら、全てがうまく行くという訳ではないのです。本日の聖書の箇所では、主イエスと主イエスのメッセージに対する拒否がクライマックスを迎えます。そして、拒否という現実の中で、弟子としてどう生きるべきかという、信じた者への励ましが語られています。従って、本日の聖書の箇所は、現代の日本に生きる私たちにとっても、非常に身近なテーマであることが分かります。聖書や、信仰や、神様に対して、敵対的になっている現代社会に於いて、主イエスが、私たちをどのように励まされているかということについて、皆さんと共に学びたいと思います。

回帰不能点

 本日の聖書の箇所を含むルカによる福音書11章14節〜54節も、弟子訓練に関する一つのブロックになっています。11章14〜26節は、本日、取り上げます「ベルゼブル論争」です。その次は、27〜28節で、神様の言葉を守ることの重要性について語られています。また、29〜32節では、「ヨナのしるし」について語られています。さらに、33〜36節では、光に応答することの重要性について語られています。そして、37〜54節では、ファリサイ派の人々の敵意が記されています。

 本日は、1つ目の「ベルゼブル論争」について取り上げます。本日の聖書の箇所の14節を見ますと、『イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。』とあります。ベルゼブル論争と言いますと、ルカによる福音書だけに収められているエピソードではないのです。マタイによる福音書12章22〜37節やマルコによる福音書3章20〜27節にも出てくるのです。最も有名なものがマタイによる福音書12章です。しかし、このマタイおよびマルコ福音書の記事と本日の聖書の箇所とは、違うものなのです。マタイ福音書の記事を見ますと、主イエスと敵対しているのは、ファリサイ派の人びとです。また、マルコ福音書では、主イエスと敵対しているのは、律法学者たちなのです。マタイとマルコは、宗教的指導者たちが主イエスと敵対しているということで、この記事を書いているのです。マタイとマルコの記事では、ベルゼブル論争で、ユダヤ人は民族的に、あるいは、国家的に主イエスを拒否したのです。このマタイとマルコが伝える出来事によって、イスラエルはもう後戻りできない点、回帰不能点を越えたのです。このことによって、紀元70年のエルサレム陥落に向けた方向性が決まったのです。主イエスの公生涯を見ますときに、このベルゼブル論争によって、ユダヤ人たちが主イエスのメシア性を拒否したことが、主イエスの宣教活動の分水嶺となっているのです。このことが、マタイとマルコの記事の重要性です。これに対して、ルカの記事では、『群衆は驚嘆した。』とありますように、主イエスに敵対しているのは、群衆なのです。つまり、マタイとマルコの記事とは、別の出来事が起きているということなのです。そして、ルカの記事では、宗教的指導者が下した結論が、民衆レベルまでに広がって来ているということを示しています。

 ルカは、なぜここにベルゼブル論争を書き記しているのでしょうか?それは、聖霊というテーマの繋がりによってなのです。前回、お話しました箇所で、聖霊という言葉が出てきました。直前の13節を見ますと、『このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。』と記されています。ここに、聖霊という言葉出てきていますが、この約束はペンテコステの日に成就したということをお話しました。それ故、主イエスを信じるものには、全員に聖霊が与えられているのです。ルカは、これまでも聖霊の働きを強調して来ています。特に、聖霊の働きは、悪霊の追い出しの際には、顕著に現れるのです。しかし、ファリサイ派の人びとや律法学者たちは、それを否定して、サタンが主イエスに力を与えていると言ったのです。ルカは『聖霊』というテーマの故に、ベルゼブル論争を今日の聖書の箇所に持ってきているのです。

    

 ベルゼブル論争

 14節で、ルカはベルゼブル論争のきっかけとなった出来事を伝えています。主イエスは何をしていたのかと言いますと、『口を利けなくする悪霊』を追い出していたのです。当時、ユダヤ人たちは、『口を利けなくする悪霊』の追い出しは、メシア的奇跡だと考えていました。それはどうしてかと言いますと、ユダヤ人たちが行う悪霊の追い出しは、最初に悪霊とコミュニケーションを交わして、悪霊の名前を聞き出した後に、その名前を呼んで、追い出すというやり方だったのです。ところが、口を利けなくさせる悪霊の場合には、悪霊の名前を聞き出すことができないので、当時、一般的に行われていた方法によっては、悪霊の追い出しができなかったのです。それ故、それができるのはメシアだけだと、宗教的指導者たちは教えてきたし、民衆もそのように信じていたのです。ところが、ここで、口の利けない人が、悪霊の追い出しを受けて、ものを言い始めた。だから、群衆は驚嘆したのです。従って、この出来事を見ての結論は、主イエスはメシアだというのが、当然、下されるべき結論であったはずなのです。しかし、群衆はそのようには言わなかったのです。群衆は、宗教的指導者たちの影響を受けて、主イエスが行うメシア的奇跡について、悪霊の力を受けて行う、悪霊の追い出しだと、見方が変わってゆくのです。

 本日の聖書の箇所の15〜16節を見ますと、『しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。』と記されています。ここで、『ベルゼブル』と書き記されているのは、悪霊の頭、つまり、悪魔あるいはサタンと私たちが呼んでいる存在です。サタンによって、悪霊を追い出しているのだと、群衆は言ったのです。ここで、ベルゼブルという言葉ですが、これは旧約聖書の列王記下1章に登場するバアル・ゼブブのギリシア語訳です。バアルというのは、カナン人の礼拝していた偶像神の主神、一番中心的な神様のことです。ゼブブというのは、王子という意味です。従って、バアル・ゼブブというのは、バアルの王子という意味なのです。そこから取られた名称の『ベルゼブル』を彼らは使ったのです。ここで分かることは、ファリサイ派の人びとや律法学者たちの言っていることが、民衆レベルにまで降りてきていることです。

 しかも、それだけではないのです。16節に、『イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。』とありますように、拒否しただけではなく、しるしを要求したのです。このことから、彼らは、『口を利けなくする悪霊』の追い出しだけでは、満足しなかったことが分かります。群衆は、主イエスのメシア性を証明するより強力なしるしを要求したのです。かれらは際限なく、求めてゆくのです。これは、主イエスを試みるための要求なのです。

 このように、主イエスを否定し、際限なくしるしを求める群衆も、もともとはそうではなかったのです。ルカによる福音書の7章の29〜30節を見ると、『民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。』とあります。ここで、民衆はバプテスマを受け、指導者たちはそれを拒んだということが分かります。これが、最初の状態であったのです。この最初の頃に、民衆と指導者たちの間にあった違いが、本日の聖書の箇所ではなくなっているのです。ここには、誤ったリーダーについて行くことの悲劇があると思います。

主イエスの反論

 さて、本日の聖書の箇所の17〜18節には、『しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。』と記されています。群衆はしるしを求めました。主イエスは、すぐに彼らの心を見抜かれたのです。主イエスは私たちの心の中をよくご存じです。従って、主イエスに近づくときには、真実な心を持って、近づく必要があります。人々の心を見抜いた主イエスは、6つのポイントで反論を展開します。

 今、お読みしました17〜18節が、主イエスの反論の1つ目になります。「どんな国でも、内輪で争うことはない。もしそれを行ったら、どんな国でも荒れ果て、倒れてしまう。サタンの国もそれと同じで、内輪もめすれば、成り立って行くことはできない。」というのです。サタンの力で悪霊を追い出すというのは、内輪もめ状態なので、そのようなことは起こらないのだ、というのが主イエスの反論の1つ目のポイントです。

 今の時代は、ポストモダンの時代と言われます。それはどういう特徴を持っているかと言いますと、神様の存在を否定する、聖書を否定する、キリスト教を否定する、そして、自分が中心にあって、主観的に選び取り、人生を生きてゆく、これがポストモダンの懐疑的な世界の特徴です。ですから、今の時代の人にとっては、今日の聖書の箇所の記事、サタンの存在、悪魔の国の存在を現実的なものだと考えるのは、非常に困難になってきていると思います。しかし、主イエスを救い主として信じている私たちにとっては、主イエスの判断は正しいのです。その主イエスが、悪魔や悪魔の国の存在を現実に存在するものとみなして、語っておられるのです。これは、とても大切なポイントです。つまり、主イエスを信じた者は、主イエスの世界観を受け入れるようになります。そうすると、この世というのは、神の国と悪魔の国の戦いが続いている戦場だということがわかってくるのです。主イエスの反論は、私たちにとって、大切なことを宣言しています。それは、「あなたがたは今激しい戦いが行われている戦場の真ん中にいるのだ」ということです。その戦いとは、神様とサタンとの戦いです。しかも、それは局地的な小競り合いではありません。神の国とサタンの国の、滅ぼすか滅ぼされるかの全面戦争、総力戦です。ここに出てくる「国」という言葉は「支配」という意味です。神の国は神様のご支配、サタンの国はサタンの支配です。神様とサタン、どちらの支配が確立するのか。私たちはその決戦場にいるのだ、と主イエスは告げておられるのです。主イエスがある人から悪霊を追い出したというみ業は、その戦いにおいて、一人の人が悪霊の支配から神様の支配へと取り戻されたということです。

 次に、主イエスの反論の2つ目のポイントとして、19節には、『わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。』と記されています。主イエスの反論の2つ目のポイントは、もし悪霊の追い出しがサタンの力によるのなら、ユダヤ人の祈祷師はどうなるのか、というものです。ユダヤ人の中には、実際に悪霊追い出しの祈祷師たちがいたのです。ユダヤ人の祈祷師たちが、サタンの力で悪霊の追い出しをしていると言えば、祈祷師たちにあなた方は裁かれ、大変な目に遭うだろう。従って、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、自分たちに都合の良い二重基準の主張をしている。すなわち、ユダヤ人に向かっては、神様の力を利用していると言いながら、主イエスに向かっては、サタンの力を利用しているという、矛盾した主張をしているのだ、と言っているのです。

 次に、主イエスの反論の3つめのポイントとして、20節には、『しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。』とあります。この主イエスの反論の3つ目は重要です。主イエスは、神の指によって悪霊を追い出しているのです。この『神の指』という言葉は、出エジプト記8章15節に出てきます。出エジプト記8章15節を見ますと、『魔術師はファラオに、「これは神の指の働きでございます」と言ったが、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。』と記されています。魔術師たちが、どの段階で『神の指』という言葉を使ったのかと言うと、モーセが行う奇跡を再現できなくなった段階です。「これは『神の指』だから、自分たちには再現できません。」と魔術師たちは言ったのです。従って、主イエスが何とおっしゃられているのかと言いますと、主イエスは、モーセの奇跡の場合と同じ『神の指』の力が働いているのだと、反論したのです。そして、この『神の指』の力による奇跡は、主イエスにあって、旧約聖書で予言されている神の国が到来しているのだ、ということを示している、と主イエスは語っておられるのです。主イエスの奇跡を見るときに、神様が歴史に介入された、神の国が人間の歴史のただ中に現れた、この段階で、ユダヤ人たちが主イエスを受け入れたならば、神の国が成就していたのだ、しかし、残念ながら、ユダヤ人たちは拒否したのです。それから、今日の聖書の箇所の悪霊の追い出しは、主イエスは、メシアであり、神の国の王である、ということを証明しているのだ、ということです。以上が、主イエスの反論の3つ目のポイントです。

 主イエスの反論の4つ目のポイントとして、21〜22節には、『強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。』と記されています。なかなか難解な箇所です。『強い人』というのは、誰なのか。『自分の屋敷』というのは、何なのか。『財産』というのは、何なのか。『もっと強い人』というのは、誰なのか。『武具』というのは、何なのか。『分捕り品』とは、何なのか。この主イエスの反論の4つ目のポイントの内容というのは、分からないことだらけになっているのです。ここで、『強い人』というのは、サタンのことです。『もっと強い人』というのは、主イエスのことです。『武具』というのは、悪霊どものことです。『自分の屋敷』というのは、悪魔の国のことです。『財産』というのは、悪霊の虜となっている人のことです。『分捕り品』とは、悪魔の国から神の国に移る人たちのことです。従って、21〜22節で言っているのは、サタンは、悪霊どもを集めて、自分の屋敷、すなわち、悪魔の国を守っているから、その財産、すなわち、悪霊の虜となっている人はサタンにとって無事だと言うのです。それが、今のこの世の状態だと、主イエスは仰っているのです。ところが、『もっと強い人』、すなわち、主イエスが来られて、サタンの『武具』である悪霊どもを奪い、『財産』、即ち、サタンが支配し、悪霊の虜となっている人たちが、『分捕り品』である、悪魔の国から神の国に移る人たちとして、解放されるというのです。この主イエスの反論はそのように、サタンに対する主イエスの戦いと勝利を描いているのです。これが、主イエスの反論の4つ目のポイントなのです。

 次に、主イエスの反論の5つ目のポイントとして、23節には、『わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。』とあります。主イエスに味方しない者は、主イエスに敵対する者であるというのです。ここでは、農業における収穫と、牧畜における家畜集めのたとえが使われています。集めるというのは、そういうことです。主イエスに味方するか、主イエスに敵対するかのいずれかであって、中立というのはあり得ないということを、主イエスは仰っておられるのです。

 今日の聖書の箇所に出てくるのは口を利けなくする悪霊です。この悪霊に私たちも捕えられており、そのために、神様を賛美する言葉、祈りの言葉を失い、また隣人に対する愛の言葉を失って、神様に対しても隣人に対しても、本当に語るべきことを語ることができなくなり、語るべきでないことを語ってしまう者となっているのではないでしょうか。口が利けなくなるとは、交わりを失い、共に生きることができなくなることです。悪霊はいるとかいないとか、それをどう理解するかなどと暢気に考えたり、議論したりしている間に、悪霊は既に私たちを捕え、支配しているのです。主イエスはその悪霊と戦い、私たちから追い出そうとしておられるのです。その戦いにおいて傍観者であることはできません。中立を守る、などということはできません。私たちは、主イエスと共に神様のご支配のために戦うか、それとも悪霊、サタンの支配に自らを開け渡すか、どちらかなのです。23節の「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というみ言葉はそういう意味です。「わたしに味方しない者は」、つまり主イエスと共に戦わない者は、傍観者として中立を守っているのではなくて、サタンの支配下にいるのです。主イエスは、暢気に傍観者であろうとしている私たちに、主イエスの側に立ってサタンと戦う者となる決断を求めておられるのです。

掃除をして、整えられた家

 そして、主イエスの反論の6つ目のポイントとして、24〜26節で、『「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」』と記されています。この主イエスの反論の6つ目は、主イエスと共に集めない群衆への警告であり、主イエスの反論のクライマックス、最後の反論になっているのです。主イエスは、悪霊を追い出して、内側がきれいになっても、その空白を別のもの、より清いもので埋めないと、もっと危険な状態に陥るということを警告しているのです。追い出された悪霊は、掃除をして、整えられた家に7つの他の悪霊を連れて、戻って来るのです。つまり、悪霊の追い出しを受けても、主イエスを信じないのなら、前よりも悪い状態になるのだと言うのです。このことが、個人レベルでも、民族レベルでも、国家レベルでも起こるというのです。

 この主イエスのたとえは、イスラエルの民について語られたものです。バビロン捕囚期前の時代、イスラエルの民は、偶像礼拝という悪霊の支配された、背教の民であったのです。神様は、バビロン捕囚という裁きを与えられましたが、捕囚は、偶像礼拝という悪霊をイスラエルの民の心から追い出し、掃除することに成功したのです。そして、バビロン捕囚期後の時代、イスラエルの民は偶像礼拝から、見事に解放されたのです。家がきれいになったのです。ですから、清いもので家を満たすことが必要であったのです。しかし、彼らは主イエスがメシアであることを信じようとはせず、その家に主イエスを迎えようとはしなかったのです。その結果、イスラエルの民の将来は、より悲惨なものとなります。つまり、バビロン捕囚という裁きよりも、さらに厳しい裁きが下る、それが紀元70年のエルサレムの崩壊とユダヤ人の世界離散で、その影響が今の時代に至るまで続いているのです。そして、これからヨハネの黙示録に描かれている艱難期において、ユダヤ人たちは反キリストを神として受け容れるようになるのです。即ち、艱難期の裁きを通して、さらに悪い状態となると言うのです。反キリストから苦しめられ、艱難期の最後にようやく、主イエスを信じるようになる。これが、ユダヤ人の過去から未来に渡る民族的な歴史なのです。

 ヨハネによる福音書5章43節には、『わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。』と記されています。これは、主イエスを拒否したことと、反キリストを受け入れたことの予言を、主イエスが語っているのです。イスラエルに民族的レベルで起きたことは、私たちにも個人的なレベルで起きるのです。

 そうならないためにはどうすればよいのか。答えはただ一つです。七つの悪霊よりももっと強い方である主イエス・キリストに、この家に住んでいただくこと、この家の主(あるじ)となっていただくこと、そして主イエスにこの家を守っていただくことです。つまり、主イエスによって悪霊の支配から解放された私たちは、悪霊が出て行き、罪が赦されて救われたことを喜んでいるだけではいけないのです。主イエスによって悩みや苦しみから救っていただいて、後は自分で自分をきれいに掃除し、整え、自分の力で生きていけると思ったら大間違いなのです。それは、きれいにした家を空き家にしておくのと同じです。その家は結局、より強い悪霊の住処となってしまうのです。大切なことは、自分という家に主イエス・キリストをお迎えすることです。主イエス・キリストに私たちの家の主人となっていただくことです。先ほど申しましたように神様は私たちを、聖霊の宮として、神様の聖なる霊の住まいとして造って下さいました。私たちがその神様によって造られた本来の祝福された人間として生きるためには、主イエス・キリストを主人としてお迎えし、主イエスに宿って頂くことが必要なのです。

 聖書は、主イエス・キリストを受け入れた者は、新しく作られた者だと言っています。その人は、心のなかにあった邪悪なものを掃除して頂き、心に主イエス・キリストを迎えた人、聖霊を迎えた人なのです。その人は必ず、神様の後に従いたいと願い、祝福の道を歩むようになります。私たちがかつてどのような人間であったとしても、かつてどのような歩みをしていたとしても、人生の変革を経験した人は、主イエス・キリストのアイデンティティ、神の子のアイデンティティを頂いたのです。主イエス・キリストのアイデンティティは何によって与えられるのでしょうか。主イエス・キリストが、私たちのために、サタンと、罪の力と、戦って下さり、ご自分の苦しみと死と復活によって勝利して下さったことによって与えられるのです。この主イエスの十字架における戦いと、その勝利によって、私たちの罪の赦しが与えられるのです。主イエスの戦いは私たちのための戦いです。そして、主イエスはご自身の命をささげて戦われました。そして、その戦いにおいて勝利されました。その主イエスの死と復活によって与えられる救いを信じるところに、私たちの罪の赦しがあるのです。主イエスの味方となって、聖霊によって力づけられつつ、この悪魔の国との戦いを主イエスと共に戦っていくことができるのです。その戦いは様々です。私たちそれぞれが、自分に襲いかかってくる苦しみや悲しみと戦っていくことでもあります。苦しみや悲しみの内にある隣り人を慰めの言葉をかけ、支えて共に生きていくことでもあります。様々な問題、悩みの内にある人々のためにとりなし祈ることです。そして、行動していくことでもあります。この地上における一人ひとりの歩みの中において、今自分が遣わされている場所で、与えられている交わりにおいて、主イエスを証ししていくのです。主イエスが味方であることを明らかにすることです。主イエスと共に歩んでいく日々の具体的な歩みの全てがその戦いです。私たちはその中に置かれています。私たちは先立って進まれ、戦われる主イエスと共に、主イエスの勝利に支えられて歩みたいと願います。 

  それでは、お祈り致します。