小倉日明教会

『ヨハネより偉大な者』

ルカによる福音書 7章 24〜28節

2022年7月17日 聖霊降臨節第7主日礼拝

ルカによる福音書 7章 24〜28節

『ヨハネより偉大な者』

【奨励】 川辺 正直 役員

森首相とクリントン大統領

 おはようございます。クリントン大統領がその任期の最後ともいえる世界イベントとして、九州・沖縄サミットに出席するために沖縄に到着したときに、クリントン大統領を迎えるのに、英語が苦手な森喜朗首相の失言を最小限に抑えるため、どのように受け答えるか秘書官と事前に打ち合わせが行われました。

 秘書官が言います。「総理、クリントン大統領が現れたら、How are you?と言って、握手をして出迎えて下さい。」

 森首相は、「うん、それで、」と答えると、秘書官は、「きっとクリントン大統領はFine! thank you, and you? と定例通り答えると思いますから、そしたらMe too! (私もそうです)と答えて下さい。それ以降はニコニコしていて下さい。後は、通訳が全てサポートします。」このように打ち合わせしたのです。

 さて、当日になりクリントン大統領が大統領専用機から降りてきますと、森首相はクリントン大統領と握手をしながら、「How are you?」と言わずに、「Who are you?」 と言ったのです。これには、クリントン大統領も驚いたと思います。何しろ、日本を代表する政治家に、世界で最も有名な政治家であるアメリカ大統領が、「お前は誰や?」と言われたのですから。

 しかし、そこはジョークの好きなアメリカ人であるクリントン大統領は、ああこれはジョークなのだ、ジョークには、ジョークで返すのが、大人のたしなみと考え、「I’m Hillary’s husband.」と答えました。これは、「私はヒラリーの夫です」と答えたということです。これは、クリントン大統領の自虐ネタになります。ヒラリー・クリントンは、クリントン大統領の奥さんですが、弁護士としても有名で、全米で最も優秀な弁護士100人にも選ばれているのです。そして、クリントン大統領は、大統領選挙中、「私に投票してくれたら、もれなくヒラリーが付いてきます」というキャンペーンで勝利したくらいなのです。

 それで、クリントン大統領が、「私はヒラリーの夫です」とジョークで返すと、森首相は、「Me too!」(私もそうです)と答えたのです。これには、クリントン大統領はあきれ果てたと思います。そして、その後行われた日米首脳会談では、アメリカ側から、普通では考えられないような無理難題が出されて、こじれにこじれたそうです。本当に挨拶一つでも、気をつけなくてはいけないということが思わされます。さて、本日の聖書の箇所が私たちに語りかけているメッセージを皆さんと一緒に学びたいと思います。

洗礼者ヨハネの問い

 本日の聖書の箇所の直前の、前回にお話した箇所を簡単に振り返ってみたいと思います。主イエスの活動について、弟子たちから報告を受けた洗礼者ヨハネは二人の弟子に、19節と20節にある「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という言葉を主イエスに伝えさせるのです。当時、洗礼者ヨハネの信仰は揺らいでいたのです。彼は当時、ヨルダン川東岸のヘロデ大王が建設したマケルス要塞に囚われていたのです。主イエスは数々のメシア預言を成就していました。しかし、イザヤ書61章1節に、「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」とありますが、この1節の後半に、捕らわれている囚人が解放されると書いてあります。しかし、初臨のメシア預言と再臨のメシア預言をごちゃごちゃにしている洗礼者ヨハネは、解放されていないと感じているのです。このヨハネの切実な、実存のかかった問いに対して、主イエスは、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(22〜23節)とお答えになったのです。主イエスは、ヨハネの問いに正面から答えてはおられません。「来るべき方はあなたでしょうか」という問いに、「そうだ」とも「違う」ともお答えになっていないのです。その代わりに主イエスがヨハネに伝えなさいと言っておられるのは、この弟子たちが見聞きしたことです。そして、さらにしめくくる形で、「貧しい人は福音を告げ知らされている」と語られています。福音が告げ知らされること、それこそが、主イエスによってもたらされている救いの中心なのです。神様が、貧しい人、苦しみや悲しみの中にある人に、救いの到来を告げる福音、喜びのおとずれを知らせて下さる、そのことが主イエスによって実現しているのです。このことをヨハネに伝えなさい、と主イエスはおっしゃったのです。

 しかし、先ほども申しましたように、これらは、洗礼者ヨハネの問いに対する正面からの答えではありません。これらのことは、ヨハネも既に弟子たちからの報告を聞いて知っているのです。そして先ほど見たように、洗礼者ヨハネの思いの深みを見つめるならば、人々が病を癒されたり、死んだ者が復活したりしていることは分かった、しかし、この私、今獄に捕えられ、まさに殺されそうになっているこの私に対して、主イエスよあなたは何をして下さるのか、という問いがここにはあるのです。前回のこの聖書の箇所では、人間が、そして、私たち自身が「つまずく」ことが見つめられています。主イエスを自分の救い主と信じ、受け入れ、信頼することができなくなる、というつまずきの危機の中に、洗礼者ヨハネもいるのです。私たちも、「主イエスよ、あなたは本当に私の救い主なのですか。今苦しみ悲しんでいる私に、あなたは何をして下さるのですか」という問いを抱く時、ヨハネと同じように、主イエスにつまずく危機に直面しているのです。そして、この問いに対する決断は、論理的に導き出される決断などではなくて、自分の実存を賭けた決断なのです。

 そして、主イエスが洗礼者ヨハネの、「主イエスよ、あなたは何をして下さるのか」、という切実な問い、彼の心の底からの叫びにお答えになった言葉は、23節の、「わたしにつまずかない人は幸いである」という言葉です。洗礼者ヨハネは、獄中で首を切られて死にました。しかし、彼は、「わたしにつまずかない人は幸いである」という主イエスのみ言葉によって、つまずきを乗り越え、主イエスが成し遂げて下さる救いと、永遠の命への希望の中で、幸いな者、神様の祝福を与えられている者として生涯を歩み通すことができたと思います。「わたしにつまずかない人は幸いである」という主イエスの言葉によって、私たちも、この世のいかなる苦しみ悲しみによっても失われない、死の力にも打ち勝つまことの幸いへと招かれているということまでを前回お話しました。

群衆に向かって

 少し、前置きが長くなってしまいましたが、本日の箇所の24節の冒頭には「ヨハネの使いが去ってから」とありますが、このヨハネの使いとは、牢獄の中にいた洗礼者ヨハネが主イエスのもとに送った二人の弟子のことです。「ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた」とありますように、今までヨハネの弟子に向かって語っていた主イエスが、今度は群衆に向かって語り始められるからです。洗礼者ヨハネの使いが去ることによって、物語は新しい場面へと移っていくのです。なぜ、主イエスは群衆に語り始められたのでしょうか。洗礼者ヨハネの二人の弟子によって、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という言葉が伝えられたとき、主イエスの周りにいた群衆は、ザワザワっと、ざわついたと思います。なぜなら、当時、最も民衆に尊敬されていた、預言者によって、「Who are you?」 (お前は誰や?)という言葉が伝えられたからです。森首相の「Who are you?」 (お前は誰や?)という挨拶を聞いたクリントン大統領よりも、群衆はびっくりしたと思います。そして、多くの群衆は、ヨハネの信仰はその程度のものかと思ったのではないでしょうか。そして、同時に多くの群衆は主イエスに対して、同時に「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と同じ問いを発せざるを得ない思いに捕らわれたのではないでしょうか。

 この群衆の中に生まれてきた動揺と主イエスへの問いを深く感じ取られながら、洗礼者ヨハネの使いを見送った後、主イエスはこの群衆たちに向かって語りだすのです。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」(24節)。「あの時あなたがたが荒れ野へとわざわざ出て行ったのはなぜだったのか、思い起こしてごらんなさい」、主はそう呼びかけておられます。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か」。主イエスの時代のユダヤには葦を引き合いにした、次のようなことわざがあったと言われています。「人は葦のように柔軟であるべきで、杉の木のように頑なであってはならない」。ヨルダン川の岸に生えている葦のように、風に吹かれるがままに揺れている、そのような生き方こそ自然で、賢い人生の送り方だという処世術のようなものだと思います。しかし、ヨハネはそのような人ではなかった。彼は領主ヘロデに対しても厳しくその罪を指摘し追求したので、獄に捕えられてしまったのです。

 「では何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か」(25節)と主イエスは問いかけておられます。当時しなやかで柔らかな服は王宮の偉い人が身にまとう服とされていました。華やかな衣を身にまとい、贅沢に暮らす王が住む宮殿、それはこの世の栄華、富と栄えを象徴するものだったでしょう。群衆は決してそのような生活を手に入れることなどできないと知っていながらも、こうした生活に憧れを抱いたと思います。また、そうしたいわゆる偉い人を尊敬したり、また妬んだり羨んだりしていたのです。

 こうした様子は、現代の日本に生きる私たちと本質的には何も変わってはいないのではないでしょうか。葦のように世の中の風潮に流されるがままに生きる、この世の事柄、日々の生活のことでいっぱいいっぱいになっている民衆の姿は、私たちと何も変わるところがないのではないでしょうか。私たちも葦のように時の流れに身を任せ、この世の豊かさに憧れながら、せいぜい平穏無事な生活を送れればそれでよい、と考えているのではないでしょうか。

 けれども荒れ野にやって来て、洗礼者ヨハネと出会った人々は、もはやそうは言ってはいられないことを知ったのです。洗礼者ヨハネに対して彼らが尋ねた問いは「では、わたしたちはどうすればよいのですか」、という深刻な問いかけだったのです。迫り来る神の怒りをひしひしと感じる、おそれから出て来た問いだったのです。

預言者以上の者

 主イエスはそのことをよく知っておられました。もはや群衆が求めているのは、上手な世渡りの話ではない、どうしたら神の怒りの下に焼き殺されるしかないこの自分が救われるのか、という大問題であることをよく知っておられたのです。それゆえに主はおっしゃいました、「では、何を見に行ったのか。預言者か」(26節)。群衆はこの問いかけにきっと、「そうです。その通りです」と答えたでしょう。けれども、主イエスはこの群衆の理解を越えて、次のように語るのです。「そうだ、言っておく。預言者以上の者である」(26節)。

 そして、主イエスは27節で、旧約聖書のマラキ書第3章1節以下の預言を引かれます。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」。この預言の言葉は、「大いなるおそるべき日」が主によってもたらされる前に、預言者エリヤが再び送られ、「父の心を子に 子の心を父に向けさせる」ことを預言しています。つまり、主が私たちの元に来られる前に、そのための準備をするための使いがやって来るというのです。先ほどの預言が引用された元の旧約聖書の箇所、マラキ書第3章には次のように書いてあります。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者 見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」(1節)。この預言の言葉を、主イエスが引用しておられる7章27節の言葉と比べてみると、何が分かるでしょうか。マラキ書の預言における「わたし」、「わが」という言葉が「あなた」という言葉に置き換えられているのです。

 つまり、主イエスはこのマラキ書の預言の言葉を、父なる神様から自分に向けて語られた言葉として受けとめ、そして自分が来たということは、あのマラキが預言した主なる神がやって来られたことにほかならないのだ、ということを示しておられるのです。

ヨハネより偉大な者

 そして、このことを受けて28節で主イエスは、「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われています。

 この28節を理解することが、本日の箇所における一つのポイントです。ここには、女から生まれた者、つまり人間の内で、ヨハネより偉大な者はいない、ということと、神の国で最も小さな者でもヨハネよりは偉大である、という二つのことが語られています。このことの意味を理解するために参考になるのが、ルカによる福音書の16章16節です。そこには「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」という主イエスの言葉があります。これも洗礼者ヨハネのことに触れた言葉であり、ルカではこのように離れた所にありますが、マタイによる福音書においては、本日の箇所と結びつけられています。この二つ、つまり28節と16章16節を読み合わせることによって、「女から生まれた者のうち」という言い方によって意味されているのは「律法と預言者」の時代、つまり旧約聖書の時代のことであり、「神の国で」というのは「神の国の福音が告げ知らされ」ている今、つまり主イエスが来られてから後の新約聖書の時代を意味していることが分かります。洗礼者ヨハネは律法と預言者の時代、つまり旧約聖書の時代における最も偉大な者なのです。しかし、主イエスによって神の国の福音が告げ知らされている今、そこにおいて最も小さい者も彼よりは偉大なのだと言うのです。それは、主イエスによってもたらされる神の国が、律法と預言者によって歩む旧い神の民イスラエルよりもはるかに素晴らしいものであることを語っている言葉なのです。つまりここには、今や主イエスによって新しい時代が、神の国の実現の時代が始まっていることが見つめられているのです。ヨハネは、旧い時代の最後に立って、新しい時代の到来を告げているのです。そのことのゆえに彼は旧い時代における最も偉大な者なのです。しかし主イエスによってもたらされている新しい時代、神の国においては、主イエスによって義とされた最も小さな者も彼よりは偉大なのです。このことは、分かりきっているようでいて、なかなか理解し難いことではないでしょうか。

レーガン元大統領の息子への最高の贈り物

 歴代の大統領の中で、一番人気の高い大統領はリンカーン大統領です。そして、リンカーン大統領の次に人気の高い大統領は、レーガン大統領だったと言われています。その理由の一つは、ひとことで言うと「頼もしさ」であったそうです。「この人は頼りになる」とか「彼に任せたら大丈夫だ」、あるいは一緒にいるだけで何となく心強い、そんな勇気を与えてくれる人物だったというのです。

 彼の大統領時代は、まだ冷戦の最中でした。まだ大統領就任して間もないとき、ワシントンDCで銃撃される、暗殺未遂事件が起きました。3秒間に6発もピストルで撃たれ、ボディガードが3人倒れ、レーガン大統領自身も被弾したのです。すぐに大学病院に運ばれたのですが、銃弾は心臓をかすめて肺の奥深くで止まっており、運び込まれる車の中で、実はレーガン大統領は吐血していたのです。重症なのです。しかし、手術台に乗ったとき、麻酔の前に執刀医たちに向かってこう言ったのです。「君たち、もちろん共和党員なんだろうな」。なんと生きるか死ぬかの瀬戸際で、アメリカンジョークを飛ばしていたのです。ところが、実はそのときの手術チームのメンバーは全員民主党の支持者だったのです。しかし、外科部長がこう答えたそうです。「大統領閣下、今日一日だけは、全員共和党です」。こういう話しをアメリカの人たちはたいへん喜ぶのです。

 さて、このレーガン元大統領の葬儀で、彼の息子、マイケル・レーガンが、父からもらった最高の贈り物についてスピーチしました。

 「私はレーガン家の一員であることを誇りとしています。父は、息子である私に多くのプレゼントをくれました。その中で、全ての父親が子どもに贈るべきだと私が考えるプレゼントがあるのです。先週の日曜日、父は久しぶりに目を開いたのですが、そのとき、私は父から受けたプレゼントを思い出したのです。1988年、大統領職を去る一年前、私は父と一緒に飛行機に乗り、ワシントンD.C.からカリフォルニアに向かっていたのです。その機上、自分がどのようにしてイエス・キリストを愛するようになったかということを、息子の私に、父は説明し始めたのです。そのとき、それがどういう意味なのかよくわかりませんでしたが、今、父をなくして、それがどんなに父にとって大きな意味あることであったかを、今、味わいました。」 アメリカの大統領といったら、世界最高の権力者といっていいでしょう。しかし、レーガン大統領は神様の前では一人の罪人に過ぎず、主イエス・キリストによって罪赦された罪人であることを何よりも喜んでいた、というのです。

神がキリストによって大きい者にしてくださる

 さて、先程お話しましたように、「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われている「神の国」とは、天において実現している神の国のことではありません。主イエス・キリストがこの世に来てくださったことにおいて、この地上に到来した「神の国」のことです。その完成は終りの日を待たなくてはならないとしても、キリストの到来によって、その十字架と復活による救いによって、この地上における神の国はすでに始まっているのです。主イエス・キリストの時代に入れられた者とは、神の国がすでに始まっている地上において生かされている者にほかならないのです。

 神の国で最も小さな者でも洗礼者ヨハネより偉大であるとは、ヨハネが終りの日に神の国に入れないことを意味しているのではありません。ルカによる福音書13章28節には「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、・・・」とありますから、「預言者以上の者」である洗礼者ヨハネも終りの日には、神の国に入れられるのに違いないのです。しかし、洗礼者ヨハネは、キリスト以前の時代の終りに立ち、キリスト以後の時代を指し示すという神様から与えられた務めのゆえに、主イエスによって始まった新しい時代に、地上における神の国には加われなかったのです。

 しかし、洗礼者ヨハネとは異なり、私たちは主イエス・キリスト以後の教会時代を生きています。私たちは「ヨハネより偉大な者」、「ヨハネより大きい者」とされているのです。しかし、その偉大さや大きさは、私たちが自分の力によって獲得したものではなく、神様の一方的な恵みによって与えられたものなのです。神様を愛せず、自分も愛せず、自分の隣人も愛せず、神様の前に罪人でしかない私たちを、神様はただ主イエス・キリストのゆえに、その十字架と復活のゆえに、キリスト以後の教会時代に入れてくださり、「偉大な者」、「大きい者」として下さっているのです。私たちは人間の目に見える大きさばかりを追い求めている者なのではないでしょうか。人と比べて、より大きくなることばかりを追い求めています。そのことによって、私たちは人と比べて一喜一憂しています。しかし、私たちが本当に目を向けるべきなのは人間の目に見える偉大さや大きさではありません。そうではなく、神様が主イエス・キリストによって、私たち一人ひとりを罪あるものであるのにもかかわらず、「偉大な者」、「大きい者」にして下さっていることにこそ目を向けるべきなのだと思います。

 神様から与えられた「偉大さ」、「大きさ」は、人間の目には見るべきものなどないように思える荒れ野において、あるいは、小倉日明教会ような小さな教会の礼拝において告げ知らされます。荒れ野で、この礼拝で、神様は私たちに出会ってくださり、主イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに私たちの罪を赦し、私たちを新しくして下さり、キリスト以後の教会時代に生きる者として、まことに小さく、罪深い私たちを「大きい者」として下さるのです。私たちは、この憐れみ深い主に信頼して、歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。