小倉日明教会

『一緒に渡って行こう!」

マルコによる福音書 4章 35〜41節

2022年8月28日 聖霊降臨節第13主日礼拝

マルコによる福音書 4章 35〜41節

『一緒に渡って行こう!」

【説教】 沖村 裕史 牧師

■突然の嵐

 「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」

 「その日」とは、いつのことでしょうか。四章の冒頭に、こう記されています。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた」。人々が至る所から集まって来ました。あまりの多さに、互いの足を踏みつけるほどです。イエスさまは、ガリラヤ湖に面した、なだらかな緑の丘の中ほどに人々を座らせます。そしてご自分は、小さな舟に乗って、そこから人々に語りかけられます。語られたのは、もちろん、神の国のことです。神の国がもうやって来ている。神の愛のみ手が今ここに差し出されている。あなたの罪は赦された。だからもう大丈夫。安心して神を信頼して、新しい人生を歩み始めなさい。そう語りかけておられた、「その日の夕方」のことでした。

 あたりを青い夕闇が包み込もうとしていたそのとき、イエスさまは、人々から離れ、弟子たちに向かってお命じになります。

 「一緒に向こう岸に渡っていこう!」

 舟が岸を離れると、イエスさまは、疲れたからだをその中に横たえられます。弟子たちはイエスさまのために小さな枕を用意しました。愛する師への心遣いです。舟を漕ぐことを弟子たちにお任せになると、イエスさまは、すぐに眠りにつかれました。

 弟子たちは舟を進めます。ガリラヤ湖は海抜下二一三メートルにある、切り立つ山に囲まれた、大きなお盆のような湖です。天気が少しでも変われば、たちまち風が強く吹く、よく荒れる湖でした。ガリラヤ湖で漁をしていたペトロたちもそのことはよく知っていたはずです。空、雲、風、空気、波の動きに目を凝らし、舟を進めていました。舟を進めながら、いろいろなことを話していたかもしれません。わずかばかりの間に、ペトロたちはイエスさまの傍らでたくさんの言葉を聞き、たくさんのことを体験しました。その一つひとつを思い出しながら熱心に話し込んでいるうちに、嵐がすぐそこまで忍び寄ってきていることに気づかなかったのかもしれません。気づいた時には、もう、向こう岸に着くどころではありませんでした。思いもかけない苦難に襲われ、死の危険に晒されます。突然の恐ろしい嵐です。大波が押し寄せては舟に流れ込み、ついには沈むばかりになっていました。このままでは、みな死んでしまう。

 ところが、そのとき、イエスさまは舟の中で、一人ぐっすりと眠っておられました。弟子たちは慌てふためき、必死に呼び起こします。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」、少し咎めるような口調で訴えます。「いつまでも寝ておられないで、どうか少しでも、あなたのお知恵とお力をお貸しください」、そう願いました。

 イエスさまのことを神の御子として信頼をしていたというのではありません。もしそうなら、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言うはずもありません。「あなたが舟で向こう岸に渡ろうといったから、こんな災難にあっているのに。わたしたちはこんなに一生懸命にがんばっているのに。ああ、もうどうしようもない。それなのに、それなのに、あなたは手を貸そうとしないばかりか、目を覚まそうとさえなさらない」。

■自分に都合良く

 わたしたちの人生にも、多くの苦難が、思いもよらないときに訪れます。もし、そのことに少しでも備えることができていれば、危険を多少なりとも避けることができるし、少なくとも冷静に対応することはできるはずだ、そうお考えになるかもしれません。しかし、たとえ予測が立っていても、人生にはどうしても避けることのできない、如何ともしがたい、困難や苦難というものがあります。がんばっているのに、これだけがんばってきたのに、どうして、と呟くでしょう。そして途方にくれ、ああ、あのときこうしていればよかった、ああしておけばよかった、そうだ、あのとき無理をせず、「向こう岸に渡って行こう」などと考えず、あのままでいればよかったのだ、と自らの境遇を嘆くばかりになってしまうこともしばしばです。

 そんなときに、「神様を信じなさい」とか「イエスさまを頼りなさい」と言うことは簡単です。でも、果たして本当に、それだけで人は直面する嵐から救われるのでしょうか。

 例えば、仕事に失敗して破産をしたとします。そのときに、「思想家」としてのイエスさまを信じるだけで、わたしたちは再び起ち上れるでしょうか。「明日のことを思い煩うな」というイエスさまの言葉を思い出した途端に元気が出てきた、もう大丈夫なんてことには、まずならないでしょう。

 あるいは、不治の病に侵されて、何の希望も持てなくなってしまうこともあります。そのときに、「社会改革者」のイエスさまを信じるだけで、安らぎや慰めは得られるでしょうか。どんなにイエスさまが、世の中の差別と戦われたことを念じたとしても、それで病気と戦う勇気や死への怖れが克服されるものではありません。

 さらに、家庭が破綻したり、親子関係がまずくなったりしたときに、「魂の救い主」なるイエスさまに縋(すが)れば、人間関係を建て直せるのでしょうか。イエスさまを信じたら、夫の浮気も子どもの非行もピタリとやんだなどというのは、まるでカルトや新興宗教の作り話のようです。宗教への逃避が現実の人間関係を癒すことはできません。

 このように人生の暴風に直面して沈みかけたときには、ただ「神様を信じなさい」とか「イエスさまを頼りなさい」と言うだけでは不十分なのです。少なくとも「思想家」や「社会改革者」や「魂の救い主」といった断片的なイエスさま、それは別の言葉でいえば、わたしたち人間の理解と知恵と力の範囲の中で、自分勝手に、自分の願い通りの、自分に都合よく描いたイエスさまを信じているだけでは、現実を打開する力にはなり得ないのだということです。

 今日の出来事が教えていることは、まさにそのことです。

■いないかのごとくに

 湖が静かなときには、弟子たちはイエスさまの存在を忘れかけていたに違いありません。

 不必要ぐらいに考えていたかもしれません。わたしたちもしばしば、「あたかも神がいないかのごとくに」生きてしまっていることがあります。何事もない普段は忘れていて、自分ではもうどうしようもないと思えるときになって初めて、神を、イエスさまを求める。苦しいときの神頼み。困難の中にあって神を呼び求めることができるのもまた、信仰のあるべき姿のひとつではあるでしょう。

 しかし、実はそのときにも、イエスさまは舟の中におられたのです。弟子たちと共に、わたしたちと共におられました。それなのにまるで、イエスさまがいないかのごとくに、弟子たちは、わたしたちは、恐れ慄(おのの)きます。

 思えば、わたしたちはいつも、そんな不安と恐れに支配されています。そして、本当に信じることのできるものを持たないために、過ちを、罪を犯してしまいます。自立しなさい、自己責任をとりなさい、結果がすべてだ、と言い続けるこの世界に生きるわたしたちは、自分だけを頼りに生きようとします。本当は、ひとりで生きている者など誰ひとりいないし、何よりもいつも神が、イエスさまがわたしたちを見守り、愛し続けてくださっているのに、そんなことに気付きもしません。挙句は、どうせこんなわたしを誰も愛してくれない、誰も見てくれない、誰も助けてなどくれない、わたしなんかにできることはせいぜいこんなもの、どうせ何をやってもうまくいくはずなどない、もう諦めよう、もう駄目だ、自分なんかもうどうでもいい、と暗い呟きが口を突きます。

 わたしたちのいのちは、わたしたちという存在は、いったい誰から与えられたものでしょうか。自分の力で手に入れたものでしょうか。もちろんそうではありません。このいのちも家族も、この性格も顔も、この人生も、そして信仰さえも、すべて与えられたとしか言いようのないものです。わたしたちをはるかに超えるお方が与えてくださったとしか言いようのないものです。しかもそのお方は、考えられないほどの大きな愛でわたしたちを包んでくださるお方だ、とイエスさまは神の国のたとえを通して、繰り返し教えてくださいました。それなのに、わたしたちはそのことを知らず、そのことを忘れて、自分だけを頼り自分に囚われ、ただただ、不安と恐れ、諦めと絶望に支配され、備えられている可能性を、夢を、そして希望を、自分自身の手で押しつぶしてしまう。それがわたしたちの姿です。

 本当にイエスさまがどのようなお方であり、どのような力をお持ちであるかを知っていたなら、弟子たちは慌てふためく必要などなかったはずです。

■一緒に寝ていれば

 そのイエスさまが、今、枕して眠っておられます。

 そのお姿こそ信じる者の姿、その何よりのしるしです。全面的に信じる者のこのような姿こそ、信じられないでいる人々への励ましとなり、信じるためのしるしとなります。神を信じて、洗礼を受け、すべてをみ心にゆだねて、平安の内に生きる姿です。信じれば、苦難や災難など襲ってこないし、一瞬にして消え去ってしまう、というのではありません。どんな恐ろしいことが起こる時にも、神の愛を信じて、安心して眠っている姿。その姿こそが、神が人を根本的に守っているということの、何よりの目に見えるしるしです。その意味で言えば、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と問いかけられた真の信仰が、イエスさまが嵐を沈められた奇跡によってではなく、荒れ狂う湖の上でなお、イエスさまが穏やかに寝ておられるそのお姿によってわたしたちに示されているのです。

 この真実に弟子たちが気づき、イエスさまを本当に信じることができていたら、彼らは慌てふためくことなく、落ち着いて対処することができたでしょう。

 まず何よりも弟子たちは、舟に水が侵入してきたら、かい出せばよかったのです。バランスが崩れかけ、重さで沈みそうであれば、余計な荷物を湖に捨てればよかったのです。ただそれだけのことに過ぎなかったのです。「人事を尽くして天命を待つ」の理(ことわり)どおり、まず自分たち自身でなしうる最善を尽くして、信じる力をもって耐え忍んでおけば、そのうちに嵐も過ぎ去ってしまったかもしれません。

 いえ、誤解を恐れずに申し上げるなら、弟子たちは、イエスさまと一緒に寝てさえいればよかったのです。そんなと思われるかもしれません。しかし、現にイエスさまは目の前で寝ておられるのです。弟子たちは、イエスさまが今ここで寝ておられる、共にいてくださっている、という事実に気づくべきでした。そして、「ああ大丈夫なんだ。心配しなくていいんだ。イエスさまがそこまで信じて寝ておられるのだから、わたしも神の愛を信じよう。信じて、一緒に寝てしまおう」と思えばよかったのです。

 イエスさまと一緒にぐっすりと眠る。なんという安心、平和でしょうか。そうしてイエスさまと一緒に寝ているうちに、風は止み、凪になり、「ああ、よく寝たなぁ」と言って起きた頃には、きっと「向こう岸」に着いていることでしょう。このときの行き着いた先、向こう岸こそ、神の国、天の国です。それが、この世の天国か死後の天国か、それはどちらでもいいことです。生きるも死ぬも、神のみ心のまま。わたしたちは、いのちを落とすかもしれないというような人生最後の究極の嵐のときにこそ、向こう岸に着くまでぐっすりと寝て過ごしたいものです。騒ぎ立てず、静かにイエスさまと一緒に過ごしたいものです。

 湖の、人生の嵐のただ中にも、イエス・キリストはおられます。いえむしろ、そのようなときにこそ、共にいてくださるお方です。 弟子たちがイエスさまにしがみついたように、わたしたちもまた、神のみ前にこの身を投げ出し、真の平安のうちを、深く、強く、そして美しく歩んでまいりたい、そう願う次第です。