【奨 励】 役員 川辺 正直
■詩人 工藤直子
おはようございます。さて、工藤直子さんという詩人の作品に、『朝』という題の詩があります。次のような詩です。短い詩ですので、お読みします。
『朝』 工藤直子
新聞のように折り畳まれて朝がきた
あくびして朝をひろげ
今日なにが起きるか みる
友よ
あなたの朝は あたらしいか
皆さんは、この詩について、どのように感じられたでしょうか。工藤直子さんは、この詩について、『いつも いつまでも「お初」で』という題の短い文章で、次のように書いているのです。
二十代の中頃だったでしょうか。仕事にも慣れ、昨日の続きで今日があり、手慣れた感じで日々が流れだした頃の詩です。
詩は「友よ」と呼びかけの形を取っていますが、気持ちは「直子よ」と自戒の意味をこめて書きました。
子どもの頃、「新年」というのは何もかもがマッサラのお初というふうに見えて、わくわくしました。目が覚めて出会う服、机、窓の外の景色……歯みがきも、今年はじめてのお初の仕事だから、水道の蛇口にも歯ブラシにもコップにも、ドキドキしながら「あけましておめでとう」と言いました。ほとばしる水を手で受けながら、なんと新鮮な感じを持ったことか。
あんまりなにもかもが「お初」に見えて、あらゆるものに「はじめまして」とアイサツしたくなるものだから、興奮が続いて、ひとりで勝手にクタクタになっておりました。
「いつもと違う」目で、まわりを見ると、ほんとうに世界の景色が変わります。あの子どもの頃の、新年の「はじめまして・ゴッコ」の味が忘れられず、いつもお初状態でいたいものだ、と思うようになりました。
つまり「初めて会うように、人や事柄と出会い続ける」そんな人生を送りたいものだ、と。
そういう気分でいるときは、ふだん何でもなく見過ごしていることがビックリするほど鮮やかに見えるものです。驚いて、使い慣れたコーヒーカップを、まじまじと見つめたり、道ばたにしゃがんで、草のそよぎに「ほほう!」と見とれたりしてしまいます。
詩や童話を書きたくなるとき、というのは、たいてい気持ちが「お初」になっているときのようです。だから「直子よ お前の朝は あたらしいか」と、何度も自分に問いかけてきたのだと思います。
そして今、また新年-お初のはじまりです。
あらためて日々お初、という気分に、たっぷり浸ろうと思っているところです。
このように、工藤直子さんは書かれているのです。聖書は書かれてから、長い時間が経った、歴史的な書物です。数え切れないほどの多くの聖書学者たちが研究し、解説を書き現してきた、今日でもなおベストセラーの書物でもあります。しかも、今日の聖書の箇所は、世の終末について語られたとても難解な箇所でもあるのです。受難週の中というただならぬ状況の中を歩まれている主イエスが、オリーブ山で最後に弟子たちに伝えなくてはならないと考え、語られた終末論についての話を、弟子たちが感じていたのと同じように、今、私たちに語られた話として、ドキドキしながら、読んで行きたいと思います。
■主イエスの再臨による世の終わり
ルカによる福音書の21章の終わりの箇所である、37〜38節には、『それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た』とあります。これと対を成すのが、19章47〜48節で、このように言われていました。『毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである』と記されていたのです。どちらも主イエスが神殿の境内で教えておられ、その主イエスの話を聞くために民衆が集まっていたことを報告しています。この2つの文章に挟まれる形で、20章1節から21章36節には、エルサレム神殿の境内で主イエスが語られたことが記されています。これまで何回かかけて、読み進めてきましたが、本日の箇所はその終わり、締め括りの部分となります。21章に入って主イエスが語って来られたことは、この世の終わりについてのことでした。この世の終わりが近付いてくるとどんな徴があるのか、と問うた人々に対して主イエスは、戦争とか、暴動とか、大きな地震、飢饉や疫病といったことが起る、また、神様を信じ、主イエスに従って歩んでいる者に対する迫害が起り、そのために殺されてしまう者も出る、とお語りになりました。それらの恐ろしい出来事、大きな苦しみ、悲しみを、あなたがたはこの世の終わりに向けて必ず体験していくのだ、とおっしゃったのです。けれども、そこで主イエスが語られたことの最も大事な点は、それらの恐ろしい出来事、破局によってこの世が終わるのではない、ということでした。これらのことは必ず起り、あなたがたはその苦しみを体験する、しかし、それがこの世の終わりではないと言うのです。終わりをもたらすのは、27節に語られていましたように、『そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。』という出来事なのです。『人の子』とは主イエスご自身のことです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗って来る。それは、現在の受難週の内に、十字架に付けられて殺され、3日目の日曜日の朝に復活し、そして40日後に天に昇り、今は父なる神様の右の座に着いておられる主イエスが、その天から、父なる神様のみもとから、もう一度来て下さる、ということです。それを主イエスの再臨と言います。この世の終わりは、恐ろしい破局によってではなく、主イエスの再臨によって来るのだ、と主イエスはおっしゃられたのです。世の終わりに主イエス・キリストが再び来てくださり、私たちの解放と救いを完成してくださる、ということを前回お話しました。
■神の国が近づいていることを知る
本日の聖書の箇所のルカによる福音書21章29〜33節には、『それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」』とあります。この29〜33節は、『再臨』についての教えであり、主イエスの地上のご生涯における最後のたとえ話なのです。
『いちじくの木』は、イスラエルを象徴するものです(ホセア書9章10節)。マタイによる福音書21章19節で、『道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。』とありますように、主イエスは『いちじくの木』をのろい、それを枯らしました。そして、それは後の紀元70年に実現しました。ローマのティトス将軍によってエルサレムは破壊され、多くのユダヤ人たちが世界中に離散したのです。しかし、今日の聖書の箇所の時点で、主イエスは、イスラエルがこの後どうなっていくのかを当然知っておられました。ですから、主イエスは『いちじくの木から教えを学びなさい。』(マタイによる福音書24章32節)と言われたのです。
マタイによる福音書では『いちじくの木』のみが語られているのに対して、ルカによる福音書では、『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。』(29節)と、『ほかのすべての木』についても語られています。これはなぜなのでしょうか。紀元70年に、第1次ユダヤ戦争によって、ローマ軍がエルサレム神殿を徹底的に破壊し、イスラエル国家を滅亡させたことが、世界の終わりの前兆なのかどうかは、当時のキリスト教会にとって大問題だったのです。この出来事を、『いちじく』であるイスラエルに葉が出始めたと考えるのかどうかということなのです。また、現代においても、マタイによる福音書の記述に従って、いちじく(イスラエル)だけを見るならば、『枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。』というのは、イスラエルにいのちが回復することを表していると考え、離散したイスラエルが国家として復興することを意味しているという解釈も可能となるのです。
しかし、ルカによる福音書では、『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。』とあるように、いちじく(イスラエル)だけを見ないで、今まで選ばれていなかったすべての木(民族)に、葉が出始めることに気づくことが求められているのです。それでは、『いちじくの木や、ほかのすべての木』から何を学べと言うのでしょうか。いちじくの木は、冬の間は葉を落としていて、春になると『葉が出始める』のです。そのためイスラエルの人たちはいちじくの木を見て、季節を感じていました。いちじくの木に葉が出始めたのを見て、夏が近いと感じたことと思います。それが、『それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。』という言葉なのです。
『夏の近づいたこと』とは、どういうことでしょうか。『夏』は収穫の季節を意味します。主イエスは再臨の時期を収穫の時期として考えておられました。ヘブル語で『夏』を意味する『カイツ』と、世の『終わり』を意味する『ケーツ』とは語根が同じです。そこに主イエスは目を向けさせようとしているのです。従って、主イエスがこのたとえ話で本当に語ろうとしているのは、季節を感じることではありません。いちじくの木に葉が出始めるのを見て夏が近いのを知るように、『これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい』と言われたのです。『これらのこと』とは、21章8節以下で語られてきたことです。特に10〜11節に記されている、『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる』ことが、『これらのこと』であると言えると思います。また、『神の国が近づいている』というのは、『世の終わり』が近づいている、ということです。なぜなら世の終わりに、神の国、神様の支配は完成するからです。主イエスの十字架と復活によって、すでに神様の支配はこの地上に始まっています。しかし、それは私たちの目には見えません。信じることだけができることなのです。
■すべてのことが起こるまでは、
さて、本日の聖書の箇所の32〜33節を見ますと、『はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。』とあります。『はっきり言っておく。』という主イエスの言葉は、主イエスが重要なことを語る時の常套句です。そして、『すべてのことが』とあるのは、前節の『これらのこと』であり、特に10〜11節に記されていることを指しています。そして、『すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。』の『時代』は、ギリシア語の『ゲネア』という言葉が使われており、『過去と未来とを合わせた悪い時代』、つまり、邪悪で、淫らで、よこしまな、曲がった人々の時代の全てを意味しています。そうした時代が過ぎ去る前に、主イエスが語ったすべての出来事が起きるという意味なのです。そしてこのよこしまな時代が過ぎ去ってはじめて、メシアが支配する新しい時代が来るというのです。
そして、主イエスは『天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない』と語られます。この世は必ず終わり、天地は滅びるけれど、主イエスの言葉は、つまり神様の言葉は決して滅びないと言うのです。主イエスの十字架と復活によって実現した救いが、主イエスが再び来られる世の終わりに完成することを告げる神様の言葉は、世の終わりに滅びることなく実現すると言うのです。復活と永遠の命の約束の神様の言葉は私たちの死を超えて、世の終わりを超えて、滅びることなく生き続けると言うのです。私たちには滅びることのない神様の言葉、とこしえに天に確立している神様の言葉が与えられているのです。そのことによって死によって失われない希望を、世の終わりを越えて、失われない希望が与えられ、不条理な苦しみの現実の中にあっても、絶望することなく生きていくことができるのです。
■不意に襲って来るその日
本日の聖書の箇所の34〜36節には、『放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。』とあります。
この34〜36節の内容は、それまでの29〜33節の内容から、かなり飛躍していると感じるのは、私だけでしょうか。34〜36節で語られている『その日』というのは、不意に罠のように私たちを襲う『その日』であり、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかる『その日』なのです。しかも、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができる『その日』なのです。そして、36節に『起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、』と記されている『これらすべてのこと』というのは、21章の10〜11節に記されている、『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる』ことを指しています。これらのことから逃れて、人の子の前に立つことができる『その日』に起こることとは何なのでしょうか。
実は、ルカによる福音書とマタイによる福音書を比較すると、ルカによる福音書の21章29〜33節の主イエスのたとえ話と34〜36節の目を覚まして祈ることの勧めの箇所の間には、ルカによる福音書の21章では省略された、もう一つのエピソードがあるのです。それは、マタイによる福音書24章36〜44節の記事です。そこには、次のように記されています、『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。のとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』このように記されているのです。これは、『携挙』についての教えなのです。『携挙』というのは、携え、挙げると書いて、『携挙』と読むのです。私たちは、教会生活を送る中で、『携挙』ということをなかなか聞く機会がなかったかと思います。
しかし、『携挙』については、新約聖書の中にいくつもの箇所に記されており、その中で、代表的なものを紹介したいと思います。テサロニケの信徒への手紙一、4章16〜17節には、『すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。』とあります。また、コリントの信徒への手紙一、15章51〜52節には、『わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。』とあります。また、ヨハネの黙示録11章11〜12節には、『三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。二人は、天から大きな声があって、「ここに上って来い」と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た。』とあるのです。
マタイによる福音書には記されている『携挙』についての記事が、ルカによる福音書の21章で省略されている理由は、ルカによる福音書の別の箇所に記されているために、記述内容の重複を避けるために、省略されたものと思います。ルカによる福音書で『携挙』について記されている箇所は、ルカによる福音書12章35〜40節、17章26〜35節となります。
マタイによる福音書24章37節を見ると、『携挙』は『ノアの時と同じ』ように実現すると言うのです。それは、洪水が来て、すべての人をさらってしまう日まで、人々には洪水が来ることが分からなかったように、そのようにして人の子の到来(:さまざな携挙)があるということです。サタンは人々を食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりという日常の生活に人々を忙しくさせて、洪水という神様の裁きが来ることに麻痺させます。サタンはすでに救われた私たちに対し『食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり』という日常の営みに心を支配させ、思い煩いを与え、神様の訪れについて無感覚にさせようとすると言うのです。洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分からなかったように、人の子の到来(さまざまな携挙)もそのように実現すると言うのです。
40節の二人の『男』も、41節の二人の『女』も、主にある救われた兄弟姉妹です。しかも、彼らが『畑』にいたり、『臼をひいていれば』とあることから、日常の働き、普段の生活の営みをしていることが分かります。そのような状況の中で『一人は連れて行かれ、もう一人は残される』のです。どこに連れて行かれるのかと言えば、それは天です。『連れて行かれ』と訳された『パラランバノー』というギリシア語の言葉は、『連れ去る、迎え入れられる』とも訳される言葉なのです。この出来事が、『携挙』(=携え挙げる)のことで、パウロは、『引き上げる』(『ハルパゾー』)という言葉を使っています(テサロニケの信徒への手紙一4章17節)。これは一瞬にして奪い取って行くことを意味しています。この時に、『連れて行かれる者』は幸いですが、『残される者』は不幸です。ちなみに、『残される』と訳された『アフィエーミ』というギリシア語の単語は、『取り残される、見捨てられる』とも訳される言葉なのです。ここでの重要な点は、『連れて行かれ』るのはクリスチャンで、『残される』のはノンクリスチャンだということではないことです。クリスチャンでありながら、『連れて行かれ』る者と『残される者』がいるということです。『残される者』は当然ながら、大患難時代の中を、それこそ死に物狂いで通らなければならなくなるのです。『いつも目を覚まして祈りなさい。』(36節)という警告の言葉が生きて来るのです。
■人の子の前に立つ
36節には、滅びから逃れて、『人の子の前に立つことができるように』と言われています。それはどういうことでしょうか。再臨の主イエスの前に立って、ちゃんと申し開きをし、自分の正しさを示して滅びではなく救いに入れていただくことができるように、ということでしょうか。そうではありません。私たちは、再臨の主イエスによる最後の審判において、自分の正しさ、清さ、立派さによって救いを獲得することができるような者ではないのです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られるその日は、私たちの解放の日だと言われていました。その解放は私たちの正しさや信心深さによって実現するのではありません。私たちの罪は私たちを支配しており、自分の力でそこから抜け出すことができないのです。ですから、再臨の主イエスの前に立たされて、自分の正しさはどうか、と問われたなら、私たちが救われる可能性はないのであって、私たちは滅びるしかない存在なのです。私たちの救い、解放は、私たちの罪を主イエスが全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって与えられるものなのです。ですから滅びから逃れるということは、主イエスの前に正しい者として堂々と立つことによってではなくて、主イエスによって罪を赦された者として、その救いの恵みに信頼し、ただ主の憐れみにのみ依り頼む者として、主イエスの前に立つことによってこそ実現するのです。世の終わりの、主イエスの再臨の時に、そのように主イエスを信じる者として、主の前に立つことこそ、私たちは求めていかなければならないと思うのです。
■いつも目を覚まして祈りなさい
そのための勧めが、『いつも目を覚まして祈りなさい』ということです。『目を覚まして』ということは、眠り込まないでということです。心が眠り込んでしまう、それは心が鈍くなるということです。神様のみ言葉に対する生き生きとした感覚が失われて、神様の言葉にこそ信頼するのでなく、この世の事柄、この時代を支配している力に心を奪われていくことです。そうなると、この世の事柄にはいつも目を覚ましていて、敏感に反応するのに、神様の言葉には全く反応しない、眠り込んだ状態になってしまうのです。そうならないために、主イエスは祈ることを勧めているのです。祈ることは、神様の、主イエスのみ前に立ち、目の前の神様と会話をすることです。生活の中にそういう時を持つことによってこそ、私たちは今生きている日々の生活の中で、主イエスの前に立つことができるのです。つまり祈ることによって、主イエスの前に、信仰が新たにされるのです。そういう意味で、私たちの信仰には祈りが大切なのです。神様との関係を新たにし、生き生きとした信仰を継続するということは、祈ることだと言うことができるのです。
神様は、今日も私たちに、
『友よ
あなたの朝は あたらしいか』
と語りかけて下さいます。その主の声に応えて、私たちは、目を覚まして、新しい気持ちで、祈りを捧げて行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。