小倉日明教会

『主イエスに遣わされて』

ルカによる福音書 9章 1〜6節

2022年11月20日 降誕前第5主日礼拝

ルカによる福音書 9章 1〜6節

『主イエスに遣わされて』

【奨励】 川辺 正直 役員

「鋳造」と「鍛造」

 おはようございます。さて、金属の加工には、「鋳造」と「鍛造」という2種類の方法があります。「鋳造」というのは、金属をドロドロになる温度で溶かして「液状」としたものを「鋳型」と呼ばれる型に流しこんで目的の形を得る方法です。鋳型の多くは「砂」などが利用できるので、加工コストが安く、同じものが大量に、しかも早く出来るというメリットがあります。また、複雑な形状に対応できることからポンプのケーシングや「鋳物」と呼ばれる鉄瓶などの製造に使用されています。しかし、型に流し込んだ溶融金属に「巣」と呼ばれ空洞部分ができる場合もあり、機械的な強度では割れやすく、衝撃に弱いという欠点があります。一方、「鍛造」は、そのまま金属を「鍛える」加工方法です。「鍛冶屋」という言葉からも分かるように日本では「刀剣」の製造方法として古くから行われてきました。鉄の場合、1000℃以上の高温に熱した塊をその鉄より硬いハンマーで何回も叩き上げで、目的の形に加工するものです。「鍛造」は、何回も金属組織を叩くため組織の密度が高くなり、部品の強度が向上します。このため、自動車のホイールや変速機のギヤエンジンのクランクシャフトなどの強度が要求される部分は鍛造加工で製造されているのです。特に、日本刀のように、「金属を叩いて鍛える」という意味の「鍛錬」と呼ばれる、鋼を折り返して鍛える工程により、不純物を取り除き、炭素量を均一化させたものは、世の中に一つしかないもので、とても強靱なものに仕上がるのです。

 神様は、人間を大量生産の製品のようには作りません。一人ひとり、世の中に一つしかない芸術作品として練り上げ、鍛え上げ、その人の一生をかけて完成に向けて仕上げて行かれる方だと思います。本日の聖書の箇所で、主イエスが弟子たちを鍛え、導かれたかを見てゆきたいと思います。

ルカによる福音書の分水嶺

 本日から、ルカによる福音書の9章に入ります。本日の聖書の箇所を含む9章1〜50節は、ルカによる福音書の分水嶺とも言うべきクライマックスだと思います。主イエスは、4章14節から、ガリラヤでの伝道を始められました。そして、この9章1〜50節が終わると、何が始まるのかと言いますと、9章51節〜19章10節のエルサレムへの旅が始まるのです。ルカによる福音書の特徴は、主イエスがエルサレムに向けて旅をする箇所がとても長いことにあります。その主イエスのエルサレムへの旅とガリラヤ伝道との間の架け橋となっているのが、この9章1〜50節なのです。そして、この9章1〜50節の中心のテーマは弟子たちの訓練なのです。それまでの主イエスのガリラヤ伝道は、民衆に神の国を語り、病を癒やし、悪霊を追い出し、自分がメシアであることを教えようとされた、民衆を対象とした奉仕を展開されていたのです。しかし、今日の聖書の箇所から、12人の弟子たちに対する訓練が始まるのです。

 これまでと何が違うのかと言いますと、これまで主イエスは力と恵みによって、ご自分がメシアであることを民衆に証明されて来られたのです。そして、これまでは12人の弟子たちは、お供する人たちであって、何かを行う人たちではなかったのです。しかし、本日の聖書の箇所から、弟子たちが主役となって行く段階が始まるのです。主イエスがなぜそうしておられるのかと言いますと、主イエスは教会時代への準備を始められているのです。ご自分がこの世から去られた後、教会が設立されて、教会時代に入ってゆくわけですが、使徒と呼ばれる弟子たちが主イエスの働きを継続して行く、そのための準備が本日の聖書の箇所から始まっているのです。

 さて、主イエスが行われた弟子たちに対する訓練とはどのようなものであったのでしょうか。1つは、ご自分が何者であるかを教えることです。あれ、と思われる方もおられることと思います。しかし、弟子たちのメシアに対する理解が不十分なのです。嵐の舟の中で、嵐を静めた主イエスに、いったい、この方はどなたなのだろうと驚いたということから、弟子たちの信仰は成長してきていることがわかります。しかし、主イエスは、神が人となられたメシアであることが、まだ理解できていない段階にいたのです。ですから、ご自分が何者であるかを教えることは、弟子たちの訓練の第1の目的であったのです。そして、2つ目の目的は、メシアの受難について教えることです。このことも、弟子たちにとっては非常に理解し難いことであったのです。現在の私たちにとっては、聖書を読んで、すんなりと理解できることが、当時のユダヤ社会でのメシア理解に捕われていた弟子たちにはとても受け容れ難かったのです。そして、3つ目が、弟子として受ける苦しみについて教えることであったのです。主イエスを信じれば、人生は何も問題がない、日々、勝利というのがキリスト者の生活ではないということです。神様の御心に従って生きようとすると、様々なこの世からの敵対を受けるようになります。弟子として受ける苦しみというのは、主イエスが人々を救うために苦しみを受けたのであれば、主イエスに従う弟子たちも当然その苦しみを受けるのだということです。これらの弟子たちへの訓練を、主イエスはこの後行われて行くのです。この訓練の内容の原則は、現代を生きる私たちにも当てはまります。主イエスが何者なのかは、聖書に書かれている通りに信じることが大切です。その主イエスが十字架に架かって、死んで下さったということ、そして、主イエスに従うということは、私たちも霊的な闘いを通過するというだということが、私たちにも適用されるのだということです。

 12人の弟子たちの派遣

 さて、本日の聖書の箇所の冒頭の1節には、「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。」と書かれています。主イエスは12人を呼び集めたのです。そして、彼らにあらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになったのです。ここで、力と権能という2つの言葉が出てきます。力というのは、「デュナミス」と言います。権能というのは「エクスーシア」と言います。力を表す「デュナミス」という言葉は、ダイナマイトの語源になった言葉です。ここでは、どのような力であったのかと言いますと、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力」であったのです。力というのは、悪霊に打ち勝ち、病気をいやす能力を与えたということなのです。次に、「権能」というのは何なのかと言いますと、「権能」というのは「力」を行使する権利のことなのです。従って、「力」を行使する権利が与えられたということなのです。「力」と「権能」、この2つの言葉を挙げているのは、福音記者の中で、ルカだけなのです。マタイによる福音書とマルコによる福音書では、「力」という言葉はなくて、「権能」という言葉だけが書き記されています。ルカは4章36節でも、『人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」』というように、「力」と「権能」という2つの言葉を使用しています。ルカはこの2つの言葉を並べて使うのを好んでいたことが分かります。

 そして、次に2節には、「そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、」とあります。主イエスは、派遣する目的が何かということを話されたのです。1つは、神の国を宣べ伝えることです。もう1つは、病人をいやすということです。神の国を宣べ伝えるということは、神の国の福音を伝えることです。神の国の王であるメシアが来られた。それが、主イエスである。主イエスは、神の国の王として来られた、この方を受け容れて、救われよというメッセージです。それが、この時点での福音の内容なのです。弟子たちは、この時点では、十字架での贖いを宣べ伝えたわけではないのです。そして、病人をいやしたのです。それは、なぜかと言いますと、弟子たちが伝える神の国の福音の信頼性が、病人をいやすことで証明されたのです。ルカがここで強調しているのは、福音の信頼性は、しるしと不思議によって証明されるということなのです。まだ、聖書が完成していない時期に、このルカによる福音書は書かれていますので、弟子たちが伝える福音が信頼できるということを、しるしと不思議で証明したということなのです。ここで、注意しなくてはいけないことは、偽教師たちも奇跡を行うことができたということです。主イエスの弟子たちと偽教師たちとはどこが違うのでしょうか。偽教師たちは、悪魔の力を借りて、奇跡を行ったのです。偽教師たちが、悪魔の力を借りて、奇跡を行うことができているのであれば、なおさら、主イエスの弟子たちであれば、主イエスが行ったような奇跡が行う必要があったのです。だから、12人の弟子たちには、あらゆる悪霊に打ち勝つ力と権能が与えられ、また、病気をいやす力と権能が授けられたのです。これが、ルカの強調している点なのです。主イエスは、人びとの魂と肉体の健康に、非常に関心を払われました。魂がいやされるように、肉体がいやされるように、主イエスは心を向けられたのです。このため、主イエスから派遣される12人も同じ関心を持って奉仕を行ったのです。

旅には何も持って行ってはならない

 次に、3節を見ますと、「「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」と、このように書かれています。持って行ってはいけないのは、なぜなのでしょうか。これは、弟子たちの訓練の一環なのです。弟子たちは、神にのみ信頼するように命じられたのです。そして、身軽な姿で旅をすることが勧められたのです。弟子たちが伝道旅行に行くのに、様々な思い煩いがあると、主イエスのみ心を行うことに集中できなくなるのです。ですから、身軽に旅をしなさいと、勧められているのです。

 それでは、何を持って行ってはいけないのでしょうか?1つ目は杖です。長い杖です。これは、短い旅であれば、杖は必要ないということなのです。袋というのは、何のことでしょうか。当時のユダヤ人共同体の習慣では、旅をする時に、袋を持って行って、物乞いをするのです。家々を巡って、旅人が食物を求めるのです。その食物を入れる袋のことなのです。袋は持ってゆくな、なぜかと言いますと、神様が与えて下さるからということなのです。パンも持ってゆくな、これは食物のことですね。金も持ってゆくな、つまり、神様にのみ信頼するようにという教えなのです。さらに、下着も2枚も持ってゆくなと言っています。なぜ、下着は2枚持って行ってはいけないと言っているのでしょうか。下着という翻訳ですが、これはギリシア語のもとの言葉では、「キトン」という言葉が使われており、古代ギリシアの下着を兼ねた衣服のことなのです。裁断しない長方形の布を用い,両肩をピンで留め,ウェストをベルトで締めてひだの美しさをだして着用したものを言います。英語訳聖書では、「チュニック」という言葉使われています。従って、下着と書かれていますが、肌着のことではなくて、現代風に考えれば、「チュニック」のような上着のことを言っていると考えるべきだと思います。

 なぜ、このような命令を主イエスはされているのでしょうか?それは、主イエスがここで、弟子たちを派遣しようとしているのは、小規模な伝道旅行だからです。短期間で終わる伝道旅行が想定されているのです。短期間の伝道旅行であれば、このようなシンプルなライフスタイルを維持することは可能なのです。ここで強調されているのは、福音伝道の緊急性です。時が迫っている、だから、直ぐに旅立って、できるだけ急いで町々、村々を往き巡り、私主イエスのところに帰ってきなさい。こういう短期間の伝道旅行が想定されているのです。

足についた埃を払い落としなさい

 さらに、4〜5節には、「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」と次の主イエスの指示が書かれています。主イエスの弟子たちを、自分の家に受け入れる人というのは、どういう人たちなのでしょうか。その人たちは、神の国を受け容れた人たちなのです。主イエスが神の国の王であり、神の国が今まさに近づいたということを受け容れた人が、感謝を表すために、主イエスの弟子たちをもてなすのです。主イエスに対する信頼と愛が、主イエスの弟子たちに対する扱いに投影されているのです。一旦、受け容れてくれる家があったら、そこに留まる。つまり、家々を渡り歩いてはいけない。これは、現実的な知恵と言うことができます。家々を渡り歩くと、あの人はより良い条件の家を求めて、渡り歩いていると解釈される可能性があるのです。また、家々を渡り歩くと、家を開いてくれた人に対する侮辱ともなるのです。だから、どんな家であっても、受け容れてくれた家があったら、ずっとその町にいる限り、同じ家に留まりなさいと言っているのです。

 しかし、歓迎してくれる家がない場合があります。それは、信仰のない町です。そういう場合には、その町を出てゆく時に、足についた埃を払い落としなさい、ということが指示されています。これは、その町の人たちに対する証言なのです。当時、ユダヤ人の旅人は、異邦人の地を通過して、その地を去る時に、足についた埃を払い落としていたのです。つまり、異邦人の汚れを持ち込まない、異邦人の汚れを拒否するというときの象徴的な行為として、足についた埃を払い落としていたのです。だから、ユダヤ人の町であっても、弟子たちを受け容れないのであれば、不信仰なユダヤ人を拒否するという象徴的な行為をしなさいと、主イエスはおっしゃられているのです。不信仰なユダヤ人を、異邦人と同等に扱うという意味なのです。ここでは、個人ではなくて、受け容れない町全体が拒否されています。マタイによる福音書では、さらに明確に述べられています。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」(マタイによる福音書 10章 14〜15節)。ソドムとゴモラの町と対比させて、その町はどうなのか。ソドムとゴモラの町の方が、よほど裁きに耐えやすいと、主イエスは語られているのです。町全体が、主イエスから拒否されるというのです。

弟子たちの奉仕

 これらの主イエスの指示を受けて、12人の弟子たちの奉仕の次第はどうだったのでしょうか。ルカは12人の弟子たちの奉仕を、短く、非常に簡潔に要約しています。「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」(6節)。これだけが書かれているのです。奉仕の要約が、実に簡潔に書かれています。12人の弟子たちの学ぶべき手本は、主イエスの宣教です。主イエスが宣教し、12人の弟子たちがお供をしていた。そのときと、同じことをしているのです。村から村へと巡り歩きながら、福音を告げ知らせた。そして、いやしを行った。ここでは、悪霊の追い出しをルカは書いていませんが、悪霊の追い出しもあったことと思います。主イエスの宣教を手本として、12人の弟子たちは、奉仕をしたのです。ルカはこの記述だけで、弟子たちの奉仕についての記述を終えています。ルカの強調点は、弟子たちの奉仕の内容よりも、主イエスが弟子たちに何を教えたかということを強調しているのです。それは、ルカによる福音書を読む、私たちが教訓を学ぶことができるように、福音記者ルカはそのようにしているのです。

ルカの語る教訓

 それでは、福音記者ルカは、私たちにどのような教訓を伝えようとしているのでしょうか。このことは、聖書を読む時に、とても重要なことです。私たちは、聖書を読んでいて、自分はこれを実行するように命じられているのか、それともしなくて良いのか、迷うのではないでしょうか。書かれているから、何でもするということになると、非常に重荷になってきます。現代の私たちにとっては、ありえないような命令もあるわけです。従って、聖書を読む時に大事なことは、この聖句は今の私たちに適用すべき内容なのかどうかということを吟味して、聖書を読んで行くことです。それでは、本日の聖書の箇所の、どの内容を今の私たちに適用して行ったら良いのでしょうか。

 まず、考えなくてはならないのは、ここでの主イエスの教えは、この時代のガリラヤ宣教に出てゆく、12人の弟子たちに向けられたものであって、今の私たちに向けられたものではないということです。このときには、神の国は到来したというのが、福音の内容なのです。主イエスは、神の国の王であるというのが、福音の内容なのです。今、私たちは主イエスの十字架での福音を宣べ伝えているのです。内容が異なっているのです。さらに、本日の聖書の箇所では、短期間の伝道旅行が想定されています。さらに、力と権能の付与は、福音の信頼性を担保するために、必要だったのです。ですから、今も福音を語る時に、同じことが起きるとは限らないのです。聖書が書かれ、神様の言葉が完成している時代に、私たちは生きているのです。福音の信頼性は、聖書に書かれている神様の言葉によって保証されているのです。従って、教会時代の私たちにそのまま適用すべきものではないことがわかります。

 しかし、重要なことは、教えの中に普遍的な真理があるということなのです。従って、ここでは教えの中から、普遍的な真理を抽出して語るということ大切です。それでは、ここでの普遍的な真理とは何なのでしょうか?それは、主イエスの弟子たちに求められるのは、いつの時代でも単純なライフスタイルだということだと思います。そのことを次に考えてみたいと思います。

セレンゲディ国立公園(タンザニア)のガイド

 アフリカのタンザニアには、セレンゲディ国立公園という世界遺産があります。四国より遙かに大きい公園なのです。この中には野生のライオン、ヒョウ、ゾウ、キリン、サイ、シマウマなど、まさに大自然がそのままに残されているのです。

 ある時、ジャック・ライダーという人が、この自然公園のツアーに参加しました。ツアーといってもガイドと二人きりなのです。毎晩テントを張って野宿するのです。それで、彼は前もってリュックサックに、旅を楽しく便利に過ごすための道具を山と詰め込んで来たのです。食事を取るための道具、物を切るための道具、削るための道具、穴を掘るための道具、方角を知るための道具、星を見るための道具、応急手当をするための道具、まるでアウトドア製品の歩く広告塔みたいになって参加したのです。ところが、ガイドのマサイ族の男の持ち物は、槍と棒だけなのです。

 最初の晩に、このガイドがリュックの中身を見たいと言い出したのです。それで、彼は文明の利器を地面にずらっと並べて、その使い方や性能を自慢したのです。するとマサイの男は一言、こう言ったのです。「これ全部持ち歩いて、おまえ幸せか?」ジャックはドキッとしたそうです。というのは、実は日中重いリュックサックが肩に食い込んで、景色や動物を見る余裕など、ほとんどなかったからなのです。このガイドの提案によって、ジャックは荷物の選別をすることにしました。そして、どうしても必要な最低限のものだけにして、残りの大半の荷物は近くの村に預けて行くことにしたのです。

 それから身軽になって旅をしている間、手放した荷物が「ああ、今あれば良かったのになあ」と思ったことはただの一回もなかったというのです。何か困ったことや、足りない物が出て来たときには、ガイドに言えば良かったからです。ガイドは槍と棒しかありませんでしたが、しかし、このセレンゲディ国立公園の自然を知り尽くす人だったからです。怪我をすれば薬草を見つけてくる。火が必要なときは石で起こす。うまい井戸水の在処も彼の頭の中にはちゃんと入っていたのです。あるところで、どこにも道らしい道が見あたらない荒れ地に出たことがありました。それで、ジャックはガイドに尋ねたのです。「道はどこだ?」すると男は言いました。「私が道なのです。」このガイドの中には、ゴールにたどり着くために必要なすべてのものがあったのです。それと同じように、主イエス・キリストが道なのだということです。なぜなら主イエスの中に、神様の繋がるためのすべての道備えがあるからです。主イエスと繋がるということが、そのまま神様に繋がるということになると思います。

人生のリハーサル

 本日の聖書の箇所で、私たちが求められているのは、主イエスの弟子となって、地上生涯を歩む人は、主イエスに繋がって、身軽に生きるべきだということではないでしょうか。人生は短い旅だと言うことができます。短い人生を、神様の方を向いて、身軽に生きるべきだということだと思います。そうする時に、豊かな実をつけるようになるのだと思います。私たちは、茨の中に落ちた種のように、この世の思い煩いや、富に覆いふさがれていないでしょうか。短い人生、短時間で終わってしまうようなものです。主イエスに繋がって、シンプルに身軽に生き、神様と共に歩む人は、幸いな人だと思います。

 一方、本日の聖書の箇所の12人の弟子たちの短期伝道旅行は、教会時代の伝道のリハーサルともいうべき出来事であったと思います。弟子たちは、まだそのことに気がついていないのです。しかし、主イエスが十字架につき、3日目に復活し、天に昇り、聖霊が下り、教会が誕生して、彼らが主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるようになった時に、思い返して、あのガリラヤ伝道で、自分たちが派遣されて、奉仕をした、そのことはまさにこの事の準備であったということが分かるのです。短期伝道旅行の中で、成功もあったことと思います、失敗もあったことと思います。しかし、弟子たちにとって、この短期伝道旅行は、まさに、次の時代に向けたリハーサルであったのです。

 それでは、このことから私たちが学ぶ教訓は何なのでしょうか?自分の人生のリハーサルとは何なのでしょうか?私たちは、皆、それぞれ病気になった体験、苦難にあった体験、裏切られた体験、失敗した体験、いろいろな体験を持っています。そのような体験を持っていて、私たちが何を学んで行くのかというと、自分の限界を知るようになって来るのです。失敗して、自分の限界を知るようになって、何を私たちは学んでいるのでしょうか。それは、神様にのみ信頼することを学んでいるのだと思います。そして、極限的な状況の中で、神様にのみ信頼して生きてゆくのかということは、如何にして死んでゆくのかということなのだと思います。私たちの人生の中での成功体験、失敗体験というのは、如何にして死を迎えるのかという、死に方のリハーサルとなっているのだと思います。

 私たちは、今、苦難の中を歩んでいるかも知れません。人生に不平不満を感じているかもしれません。不条理なことを体験しているかもしれません。しかし、それは、神様の前に謙遜になり、神様に信頼し、最期は如何にして死んでゆくかを学ぶリハーサルとなっていると言うことができるのではないでしょうか。そのため、やがて訪れる事態に対応できるように、本日の聖書の箇所で主イエスが弟子たちを訓練されたように、神様は私たちを訓練されるのだと思います。12人の弟子たちの短期伝道旅行が、使徒言行録の時代のリハーサルであったように、私たちが今、経験している様々な体験は、私たちが歩んでゆく先で、神様が私たちの上に働こうとされていることのリハーサルとなっていることを覚えたいと思います。主イエスの力と憐れみを知る時に、私たちは本当に神様に受け容れられていること喜ぶことができるのだと思います。私たちは、そのことを覚えて、今週、一週間を歩んでゆきたいと思います。

 それでは、お祈り致します。