小倉日明教会

『今の時を見分ける』

ルカによる福音書 12章 54〜59節

2023年10月29日 降誕前第9主日礼拝

ルカによる福音書 12章 54〜59節

『今の時を見分ける』

【奨励】 川辺 正直 役員

宗教改革記念日

 おはようございます。さて、今日から2日後の10月31日は宗教改革記念日です。そのため、教会の暦ではこの日に一番近い今日の主日礼拝では、宗教改革を覚えながらお話ししたいと思います。1517年10月31日、マルティン・ルターによって、当時のカトリック教会の宗教的腐敗を正す「95か条の提題」が、ドイツはヴィッテンベルグの城教会の扉に掲げられて、この改革運動が始まったと言われています。

 マルティン・ルターによって始められた宗教改革の精神は、「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」という三つの言葉に集約されると言われます。ここで、「恵みのみ」とは、罪人の救いの根拠は、ただ神様の恵みのみにあるのであって、教会の権威や人々の行いにあるのではないということです。「信仰のみ」とは、キリストの十字架によってすべての人びとに提供された神様の恵みを、私たち自身に適用する手段は信仰のみであるということです。従って、私たちの善き業が私たちを救うのではないということです。そして、「聖書のみ」とは、私たちキリスト者の信仰にとってのただ一つの基準が聖書であり、教会の伝統や聖書以外の聖伝が聖書より上に来るということはないということです。

 この宗教改革の精神を考えますときに、本日の聖書の箇所は、激動の時代に生きる私たちにとって、決して無関係な話ではないと思います。本日は、「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」という宗教改革の精神を覚えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

群衆への教え

 ルカによる福音書を読み進めてまいりまして、主イエスの公生涯は終わりに近づいて来ました。主イエスはエルサレムに上り、最後の一週間で人々に教え、そして、捕らえられ、十字架に架かり、墓に葬られ、そして、3日目に復活するという、その時に向かって、時が進んでいるのです。すなわち、主イエスの公生涯の時が、今、クライマックスに近づいて来ているのです。そういう中で、ユダヤ人の指導者たちは主イエスが救い主、メシアであることを拒否していました。一般の人々は、主イエスの奉仕を目撃し、主イエスの教えに耳を傾けて来ましたが、主イエスがメシアであることを未だに信じていなかったのです。主イエスが誰かということについて、フラフラしている群衆に対して、主イエスはしっかりしなさい、どうするつもりなのですかと、信仰の決断を迫っているのが、本日の聖書の箇所が語っていることなのです。

 ルカによる12章1節〜13章21節は一つのまとまったブロックと考えることができます。このまとまった聖書の箇所は、前半の5つの弟子たちへの教えと後半の4つの群衆への教えと分けることができるのです。そして、私たちは今、後半の4つの群衆への教えに入っているのです。4つの群衆への教えが何であるかと言いますと、1つ目が、『今の時を見分ける』ことについて(12章54〜59節)、2つ目が、悔い改めについて(13章1〜9節)、3つ目が、人間が抱える必要について(13章10〜17節)、4つ目が、御国のプログラムについて(13章18〜21節)、この4つに分けて、主イエスは群衆に教えられたのです。今日は、1つ目の『今の時を見分ける』ことについて、主イエスが語られたことについて、皆さんと共に読んでゆきたいと思います。ここで、主イエスが語られる『今の時』というのは、今、私たちが生きているこの時代のことではなくて、主イエスが地上を歩まれた時代のことなのです。

 さて、本日の聖書の箇所の54節には、『イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。』と書かれています。主イエスは、パレスチナの気候のことを語っているのです。『雲が西に出る』とありますが、地理的にパレスチナの西側には地中海があります。ですから、雨雲というのは、地中海から立ち上って、東に流れて来るのです。ですから、西の方に雨雲が見えると、それは雨が降る『徴(しるし)』なのです。多くが農業に関わっていたパレスチナに住んでいる人々は、そういった自然現象には非常に敏感であったのです。主イエスを取り囲んでいた多くの群衆は、その自然現象に関する知識を持っていたのです。群衆は、西の空に雨雲が見えると、雨が降るという知識を持っていただけではなくて、それを受け入れる意思を持っていたのです。そして、雨がふるということを受け入れて、自分の行動に生かすことができていたのです。知識があるということと、それに従うかどうかということとは、別物なのです。受け入れて初めて、行動が変化するということなのです。

 次に、55節には、『また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。』とあります。日本では、南風というと、太平洋から吹いてくる、湿気を含んだ、温かい風を想像しますが、パレスチナでは、南風というと、イスラエルの南方に位置する荒涼としたネゲヴ砂漠から吹いてくる風なのです。ですから、南風が吹き出すと、砂漠から熱風が吹いて、暑い日になるのです。この南風は、パレスチナでは春から夏に移行する時期に吹き始めるのです。この砂漠からの熱風が吹くと、花や草は見事に1日で枯れてしまうのです。ですから、このことを聖書では、人間の命あるいは人生の儚さを表現するものとして、草や花は枯れるという言葉で、そして、しかし主の御言葉は永久(とこしえ)に立つというように、比喩的に語られるのです。この南風は、熱を持ってくるだけではなく、砂も持ってくるのです。ですから、南風が吹いてくると、視界が閉ざされてしまう、あるいは、部屋の中には、どんなに閉め切っていても、砂埃が入ってきますので、床も机の上もザラザラになってしまうのです。

 これがパレスチナ地方の気候なのです。西に雲が立ち上れば、雨が降る、南風が吹き出すと、暑くなる。このことは、群衆の全員がよく知っていた気候に関する知識なのです。群衆は自然界の徴(しるし)を見分けることが出来たのです。そして、自然界の徴(しるし)を見分けて、それを受け入れて、自分の生活を営んでいたのです。

 今の時を見分ける

 主イエスはこのことを話された後で、次の『今の時を見分ける』ことを話されてゆくのです。主イエスのここでの教え方は、ユダヤ教のラビの教え方になっていて、すでに知っていることから始めて、次に霊的な話に移って行くのです。その霊的な話というのが、今の時の徴(しるし)なのです。つまり、霊的な徴(しるし)を見ることができるかどうかという話に移って行くのです。

 本日の聖書の箇所の56節には、『偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。』と書かれています。空や地の模様といった自然界の徴(しるし)を見分けても、今の時に与えられている徴(しるし)を見分けることができないと、主イエスは語られるのです。主イエスは、西の雲や南風と同じような今の時を見分ける霊的な徴(しるし)が与えられているのだけれども、群衆は盲目であり、見分けることが出来ていないねと、おっしゃられたのです。ここで、考えなくてはならないのは、主イエスがおっしゃっておられる今の時の徴(しるし)というのが何なのかということです。マタイによる福音書16章3節では、『時代のしるし』という言葉をそのまま使っています。英語訳聖書では、しるしというのは、Signで、時代というのは、timeですので、『the signs of the times』という言葉をマタイによる福音書では使われています。

 それでは、主イエスは『時代のしるし』とは、何のことをおっしゃっておられるのでしょうか。西の雲や南風と同じような意味で、この時代のしるしとして人々が認識し、この時代の特徴を知る者として与えられているものとは何なのでしょうか。福音書では、時代のしるしというのは、メシアの初臨のことを言います。つまり、神様の子である方が人として、この世に来られたということを、群衆に語りかけているということが時代のしるしなのです。さらには、神様の子である方が、人々の前で、メシアであることを証明するしるしを行っているということが時代のしるしなのです。それらを見ていると、今の時代がどういう時代であるかということが分かると言っているのです。

 繰り返しになりますが、『時の徴(しるし)』というのは、メシアの初臨のことです。そして、そのことから分かるのが、『今の時』の特徴が分かるのです。実際、この『今の時』は神様の子である方が人となられた、つまり、神様が人間に最も近づいた時期が、主イエスがおっしゃっておられる『今の時』という時期なのです。人びとは自分たちに語りかけておられるこのお方が神様ご自身であることを認識しなければならなかったのです。

どうして自分で判断しないのか

 次に、主イエスは、57節にありますように、『あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。』とおっしゃっておられます。本日の聖書の箇所で、主イエスが語られた言葉の中で、私たちに最も重く問われている言葉がこの57節の言葉だと思います。ここで、主イエスが強調されているのは、自分で判断しなさい、ということです。ということは、主イエスを取り囲んでいる群衆は、自分で判断していなかったということが分かります。群衆は、何が正しいかの判断を、誰に委ねていたのでしょうか。それは、ファリサイ派の人々や律法学者たちといった指導者たちに委ねていたのです。

 皆さんは、こういう疑問を抱いたことはないでしょうか。それは、旧約聖書にあれだけメシア予言があって、ユダヤ人たちは旧約聖書を知っていたはずなのに、なぜ主イエスが来られたときに、直ぐに受け入れることができなかったのだろうか、という疑問です。旧約聖書にはメシア予言がたくさん書かれています。但し、主イエスが生きた時代、つまり、主イエスが『今の時』と語られた時のユダヤ人たちは旧約聖書の学びはしていないのです。彼らは何をしていたのかと言いますと、ファリサイ派的ユダヤ教を教えられていたのです。つまり、ファリサイ派の人びとが沢山の口伝律法を作って、聖書の教えにくっつけてしまっていて、この口伝律法の学びの方が重要になっていたのです。そのため、聖書が明確に教えている意味を大幅に再解釈していたのです。そのため、預言者たちが語った予言の本来のシンプルで明確な意味が、不明瞭で、複雑なものになっていたのです。そして、ファリサイ派の人びとと律法学者たちのそのような本来の意味を複雑化した教えに支配されていた民衆は、主イエスがいくら語りかけても、理解する心が縛られているために、自分で判断することが出来なかったのです。つまり、権威ある機関から正規に資格認定されている専門家、権威者がそう言っているのだから、自分たちのような一般人の考えることは問題ではなく、専門家の判断に委ねておけば良い、と考えていたのです。

 しかし、旧約聖書のメシア予言を読めば、明確に主イエスという方がメシアであるということが分かったはずなのです。例えば、メシアがいつ登場するかという予言は、ダニエル書9章に出てくるのです。この予言は大変難解な予言ですけれども、70週の予言と呼ばれる箇所で、タイムスケジュールが書かれているのです。メシア到来のタイムスケジュールを予言したダニエル書9章ですが、このような予言を読めば、誰でも自分で真理を学ぶことができたはずなのです。彼らは、メシアの到来と、メシアが御国を提供している、つまり、千年王国を提供している時代にいたのです。しかし、主イエスがおっしゃられたのは、彼らは自分で判断ができないのだと、『あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。』、なぜファリサイ派の人びと、律法学者たちの言いなりになっているのかということであったのです。

 この主イエスの言葉は、大変厳しい言葉で、群衆を糾弾する言葉です。しかし、この主イエスの言葉の中に、主イエスの愛が込められていることを、私たちは読みたいと思うのです。ユダヤ人たちが、民族として主イエスを拒否した時には、もう逃れる道はない、その世代のユダヤ人たちには確実に裁きが降ります。しかし、個人的には、その裁きを逃れる道があるのです。その世代のユダヤ人たちに降る裁きというのが何かと言いますと、紀元70年にエルサレムと神殿が崩壊し、ユダヤ人たちが全世界に離散して行きましたが、これがユダヤ人たちに降る裁きであったのです。けれども、その時に、その裁きから逃れることができた人たちがいたのです。

 裁きを逃れる道とは何なのかと言いますと、神様との和解なのです。そして、神様との和解というのが、どのようにして与えられるのかと言いますと、主イエス・キリストをメシアとして受け容れることが、神様と和解する唯一の道であるというのです。

訴える人と仲直りする

 そして、次に訴える人と仲直りするたとえ話がはじまるのです。今日の聖書の箇所を読んで、このたとえ話がなぜ唐突にここで出てくるのか、疑問に思われる方は多いのではないでしょうか。このたとえ話は、迫りくる神様の裁きから逃れるためには、神様との和解が必要だということを教えているのです。

 本日の聖書の箇所の58〜59節には、『あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。』と書かれています。

 このたとえ話を理解するためには、当時の社会的、経済的習慣を知っておく必要があります。現代の日本であれば、銀行から借り入れをする、あるいは、どこかで買い物をする企業であれば、買掛金を建てますが、返済時期が来ても、返済できない場合はどうするのでしょうか?あるいは、私たちが多額のローンを抱えている、あるいは、多額の借金を抱えている。しかし、請求されても、到底返済できるものではない場合に、どういう救済方法があるのかと言いますと、自己破産の手続きを取ることになるのです。

 ところが、主イエスのおられた時代は、そのような個人を保護するような法律はないのです。従って、借金を返済できないと、どうなるのかと言いますと、返済するまで牢に投獄されるのです。あるいは、返済が完了するまで、奴隷にされるのです。そういう背景の中で、このたとえ話が出てくるのです。返済できなければ、投獄されるのです。あるいは、奴隷にされるのです。そして、最後の1レプトンを返すまでは、自由人とはなれないのです。最後の1レプトンというのは、私たちが持っている支払うことのできる最後の1レプトンではないのです。ここでの最後の1レプトンというのは、借金しているその借金額の最後の1レプトンなのです。つまり、借金の全額を返済しない限りは、と言っているのです。

 1レプトンと言っているこの言葉は、この人が負っている義務の深刻さを表しています。レプトンというのは、当時の最小単位の銅貨です。ですから、一番最後の貨幣単位のレプトンを支払うまで、つまり、今の日本で言えば、最後の1円を支払うまでは、解放されないよということなのです。ですから、この人は大変深刻な状況に置かれているということなのです。この人が望み得る唯一の方法は、家族や知人が弁済してくれることです。分かった、そんなに大変だったら、私が代わりに支払ってあげようという人が出てくれたら、解放されるのです。しかし、大概の場合、お金のない人には、そのようなことは起こらないのです。だから、別の方法を考えないといけないよ、それは、とにかくお願いします、とにかく延期して下さいと、とにかく減額して下さいと言って、願い倒して、貸主と和解することだよと言うのです。

 そのようなことが前提となっていることを理解した上で、このたとえ話を読んでみるとどうなるのでしょうか。ここには、4種類の人が登場します。1番目が、訴える人、すなわち告訴する者です。2番目が、役人です。そして、3番目が、裁判官です。4番目が、看守です。このたとえ話の適用は、この4種類の人たちはすべて神様を表しているのです。つまり、神様が人びとを糾弾し、牢に閉じ込め、そして、そこから最後の1レプトンを返却するまでは出てくることはできないようにするというのです。

 人の世の争い、係争では、告訴する者との和解が重要です。それしないと、牢に閉じ込められて、一生出てくることができなくなってしまうのです。人の世の係争では、告訴する者との和解が重要だということを語った後、主イエスは大と小の議論というユダヤ的な教授法で、ましてや告訴する者が、人間ではなくて、神様であるなら、和解はさらに重要となると教えているのです。人の世の争いでも和解は重要なのだから、ましてや神様との和解はさらに重要となるのだから、私を信じて自分で良い判断を下して、そして、神様と和解しなさいと、主イエスはおっしゃっておられるのです。それは、滅びが迫っている人びとに、切々と主イエスが語りかけている言葉なのです。最後の1人まで、主イエスは失われることのないように、探し続けておられるということなのです。

裁きをまぬがれた者たち

 主イエスは本日の聖書の箇所で自分が生きている『今の時』を見分けるべきだとおっしゃられました。そして、迫り来る裁きを逃れる道があるのだ、民族としては裁きを受けるけれども、あなたに関しては、裁きから逃れなさいと、主イエスはお語りになったのです。そして、その道は何かと言いますと、自ら進んで聖書の言葉を学び、主イエスをメシアと信じること、これが裁きから逃れる道なのだと言うのです。さて、先程、申し上げましたように、ユダヤ人で主イエスをメシアだと信じていた人たちは、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊に於いて、誰一人死ななかったのです。つまり、主イエスを信じた者は、1人も死んでいないのです。主イエスの教えは、その通りに成就したのです。

 ルカによる福音書21章20〜22節には、『「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。』と書かれています。主イエスがこの予言を語っておられたのですが、この言葉に従った者たちは、1人として滅びなかったのです。どのような流れで、紀元70年の神殿の崩壊が起こったのかは、ジャーナリストであり、作家であるウェルネル・ケラーという人が書いた『ディアスポラ』という本で知ることができます。紀元64年にゲスティウス・フロールスがユダヤの行政長官になったときに、エルサレム神殿の宝物を略奪することに端を発して、ゼロテ党という過激な人たちが、エルサレムを占拠して、ローマに反乱を起こしたのです。この反乱を鎮圧するために後にローマ皇帝となるウェスパシアヌスがローマ軍を率いて、エルサレムに侵攻して、包囲します。ユダヤ人キリスト者たちは、ローマ軍がエルサレムを包囲した時に、それを終末的出来事として捉えました。なぜかと言いますと、今、お読みしました、主イエスの言葉があったからです。そのままローマ軍の包囲が続いていれば、ユダヤ人キリスト者たちは逃げられなかったのですが、不思議なことが起こりました。紀元66年にローマ本国で、政治的トラブルが起こったので、ローマ軍は一時的に包囲を解いて、帰って行ったのです。何がローマ本国で起きていたのかと言いますと、元老院が別の皇帝を立てたことによって、皇帝ネロが自殺し、その後に立てられた3人の皇帝は1年のうちに次々と命を奪われて行ったのです。こうして、ローマ軍の包囲が解かれた時に、主イエスのこの言葉を覚えていた人たち、つまり、主イエスをメシアと信じるユダヤ人キリスト者たちはこの言葉に従って、山へ逃げたのです。山へ逃げるというのは、ヨルダン川の東側に逃げること、荒野に逃げることです。彼らは、アンマンの北西65km、ヨルダン川東岸のペラというところに逃亡して、そして、滅亡を免れたのです。それが、紀元66年のことです。そして、2年後の紀元68年に、ローマ軍が再び帰って来て、エルサレムの包囲を始めます。そして、さらに2年後の紀元70年にエルサレムは神殿と共に破壊されたのです。その時に、約100万人のユダヤ人が殺害され、そして、約10万人のユダヤ人が捕虜となり、奴隷とされて、世界中に離散されて行ったのです。そして、ユダヤ人キリスト者は1人も死ななかったのです。

 ですから、主イエスは、民族的には裁きを受けて、滅びても、個人的には、まだ救われる道がある、だから時が来る前に、私を信じて、神様と和解しなさいと、人びとを招かれたのです。しかし、このエルサレム神殿の崩壊を境に、一般のユダヤ人とユダヤ人キリスト者との間には大きな溝が出来たのです。それは、ユダヤ人キリスト者は逃げて、1人も死ななかったからです。実は、その後バル・コホバの乱というのが、2世紀の初めに起こりますが、それも要因となって、今だに主イエスを信じるユダヤ人は、裏切り者だという認識が一般のユダヤ人の間に広がったというのが、この事件の内容なのです。

 主イエスの教えには、逃れの道があるという内容で、そのことを信じた人たちは、文字通り、裁きから逃れることが出来たのです。このことが主イエスの言葉の真実を証明していると思います。従って、私たちも主イエスの言葉を信頼して、主イエスの言葉に従うならば、私たちは主イエス・キリストが、十字架で死なれることによって、私たちに代って、私たちに下されるべき神様の裁きを、私たちに代って受けて下さったことを信じて行きたいと思うのです。神様の独り子であられる主イエスの十字架の死によって、私たちは罪を赦され、新しく生きる者とされたのです。

 今や私たちは、主イエス・キリストによって実現したこの新しい救いの時を生きています。私たちが見分けるべき『今の時』とは、この主イエスによる罪の赦しの時なのです。主イエスの十字架による罪の赦しが差し出されている『今の時』をしっかりと見分けるなら、私たちは、聖書が伝える言葉の一つ一つの上に立って、何が正しいかを自分で判断し、実行することができるようにされて行くのです。すなわち、群衆の一人として傍観していることをやめ、裁きから逃れさせ、罪の赦しへと招いて下さっている主イエスの呼びかけに応えて、主イエスの弟子となって従っていくのです。 私たちはすでに罪赦されて生かされている『今の時』に入れられています。この『今の時』を見分けることによって、神様のみ前に立つまでの地上の歩みにおいて、私たちは勇気を持って罪を認め、赦しを求め、仲直りするよう努めるのです。そこにこそ対立ではなく和解が生まれ、憎しみではなく赦しが生まれていくと思います。主イエスの十字架による罪の赦しの恵みが私たちを支え、押し出して下さるので、勇気をもって、その一歩を踏み出して行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。