小倉日明教会

『今の時代とヨナのしるし』

ルカによる福音書 11章 27〜36節

2023年7月2日 聖霊降臨節第6主日礼拝

ルカによる福音書 11章 27〜36節

『今の時代とヨナのしるし』

【奨励】 川辺 正直 役員

■フョードル・ドストエフスキー作 『罪と罰』

 おはようございます。さて、ロシアの有名な作家であるフョードル・ドストエフスキーの作品に『罪と罰』という作品があります。この作品は、ドストエフスキーが賭博でこしらえた借金に苦しみながら書き上げられ、1866年に発表されたものです。当時、彼がどれだけ借金に苦しんでいたかと言いますと、ドストエフスキーが全集の版権を売り渡していたステロフスキーとの間で、1866年11月1日までに新作の長編を書くことを約束していたことから、これが履行されない場合には、以後9年間のドストエフスキーの著作は一切の印税なしにステロフスキーが出版できるという契約になっていたのです。しかし、ドストエフスキーはこの年、1866年の1月から『罪と罰』の連載を始めていたため、とても新しい長編の執筆に没頭する余裕はなかったのです。そこで、彼の2番目の妻となる速記者アンナの協力を得て、『罪と罰』の原稿を書きながら、『賭博者』というもう一つの長編小説を口述筆記させることにより27日間で完成させ、期日ぎりぎりの10月31日にステロフスキーに原稿を渡して事無きを得たのです。一体、天才はどれだけのことができるのかと、思わされます。

 ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公のラスコーリニコフは、貧困のために学費を払えず、大学を除籍された元大学生です。彼によれば、人間には2種類あると言うのです。人を殺して罪に定められる平凡な人間と、ナポレオンのように多くの人の命を奪っても英雄とされる非凡な人だと言うのです。そして、「1つの微細な罪悪は100の善行に償われる」、「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み越える権利を持つ」という独自の犯罪理論をもとに、ある強欲な金貸しの老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企て、自分はその非凡な人なのだと自らに言い聞かせるのです。ちなみに「罪」というロシア語には「踏み越える」という意味があり、一線を超えてしまうといったニュアンスも含まれているのです。

 さて、犯行当日、来るはずのなかった老婆の妹がやって来て、その犯行現場を目撃されてしまうのです。止むを得ず、ラスコーリニコフは第2の殺人に及ぶのです。

 この小説のクライマックスは、家族のために娼婦に身を落としたソーニャという女性が、殺人犯であるラスコーリニコフに聖書を読んで聞かせるシーンです。

 長い長い聖書の箇所をソーニャは朗読するのです。そして、彼女が読んだ箇所が、ラザロをよみがえらせる主イエス・キリストの奇蹟を語っている箇所なのです。

 人を殺してしまった殺人者と自分で自分の人生を殺してしまった娼婦は、罪人のために涙を流し、血を流し、十字架において命まで捨てて、3日後に復活して下さった主イエス・キリストの中に光を見出していくのです。

 この『罪と罰』という作品を見ますときに、ドストエフスキー自身の体験を思わざるを得ません。彼は、「帝政を打倒して社会主義的なユートピアを作ろう」と唱える過激な「ペトラシェフスキーの会」のメンバーでした。しかし、ドストエフスキーは34人の仲間と共に捕らえられ、裁判で死刑判決を言い渡され、練兵場であわや銃殺刑になるというところで、特赦が下され、シベリア流刑となるのです。そして、獄中に唯一持ち込むことのできた本であった聖書を読んでキリスト者となるのです。ドストエフスキーにとって、復活を受け入れられるかどうかが、信仰に導かれるかどうかの臨界点であったと考えさせられます。本日の聖書の箇所には、「ヨナのしるし」という言葉が出てきます。「ヨナのしるし」とは何かということを学びながら、神様に対して、敵対的になっている現代社会の現実の中で、主イエスが、私たちをどのように導かれているかということについて、皆さんと共に学びたいと思います。

■神様の言葉を聞き、それを守る人

 ルカによる福音書9章51節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅という大きな枠組みの中で、様々な機会での主イエスの教えが語られている箇所です。そして、本日の聖書の箇所を含むルカによる福音書11章14節〜54節も、弟子訓練に関する一つのブロックになっていて、主イエスの言葉に対する拒否という現実の中で、弟子としてどう生きるべきかが語られているのです。前回取り上げました11章14〜26節は、「ベルゼブル論争」です。そして、27〜28節では、神様の言葉を守ることの重要性について語られています。また、29〜32節では、「ヨナのしるし」について語られています。さらに、33〜36節では、光に応答することの重要性について語られています。この27〜36節が今日取り上げます聖書の箇所です。そして、37〜54節では、主イエスに対するファリサイ派の人たちの敵意が記されています。

 今日の聖書の箇所は、前回の「ベルゼブル論争」、すなわち主イエスはメシアなのかどうなのか、主イエスの癒やしは、聖霊によるのか、悪魔の力を借りて行ったものなのかどうか、そういう論争を受けて、今日の聖書の箇所があるのです。従って、今日の聖書の箇所は、「ベルゼブル論争」の続きとして、読んでゆきたいと思います。

 さて、本日の聖書の箇所の27〜28節には、『イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」』と記されています。『イエスがこれらのことを話しておられると、』とありますので、この話が、「ベルゼブル論争」の延長線上にある話であることが分かります。群衆の中から、一人の女性が声を上げて、主イエスに言ったのです。この女性は、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」と、主イエスに感嘆して、言ったのです。この女性は、『イエス様、あなたのお母さんは、なんと幸せですね』と言ったのです。それまでの文脈としては、「ベルゼブル論争」があって、群衆は「しるし」を求めたのです。口を利けなくする悪霊の追い出しだけでは、群衆は満足しなかったのです。それ以上の「しるし」を求めたのです。しかし、主イエスは、この女性が叫んだ、この機会を捉えて、大事な教えを語るのです。

 ユダヤ人たちは、血のつながりを重視し、それ故、家族関係を非常に重視しました。そして、ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であることを民族的な誇りとしたのです。ユダヤ人にとって、人の価値というのは、誰が先祖であるかによって決まったのです。また、女性の価値は産んだ子の価値によって決まると考えられていたのです。ここには、そのような文化的背景があるのです。

 今日の聖書の箇所の女性は、母マリアのことをとても羨ましがっているのです。しかし、主イエスは、母マリアを過小評価も、過大評価もしていないのです。確かに、メシアの母となることは、特別なことです。そのことは、ルカによる福音書1章48節のマリアの讃歌からも分かります。『身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、』、このように記されています。確かに、母マリアは幸いな人と言うことができます。しかし、母マリアを人間以上の存在として崇拝することへの警告もここには語られていると思います。

 そういう民族的な習慣や文化の中にあって、主イエスが語られた教えは革命的なものでした。主イエスは、主イエスを産んだ母マリア以上に、幸いな人がいるのだよ、と言っているのです。どういう人かと言いますと、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(28節)とありますように、主イエスから救いの言葉を聞き、それを信じ、実行に移す人は幸いだと言うのです。主イエスは、血縁関係よりも、神様の言葉を聞き、それに従うことを重視したのです。従って、幸いな人というのは、主イエスの教えに耳を傾け、それに従う人である、ということなのです。このことから、群衆もまた、主イエスの教えを聞いたのなら、それを受け入れ、従うべきであるということを、主イエスはおっしゃっておられるのです。なぜ、このことが重要なのでしょうか?ルカの福音書というのは、福音が民族の壁を乗り越えて、異邦人にも伝わって行くということを記録している使徒言行録を構想しながら、書かれているのです。そして、この主イエスの言葉は、現代においても、そのまま適用可能な言葉です。主イエスが語ったというだけで、その言葉を信じ、従う人は幸いであるとおっしゃっておられるのです。この故に、私たちは信仰と恵みによって救われるのです。

 ここでの「神の言葉」というのは、「ベルゼブル論争」に関する主イエスの反論の言葉だと思います。主イエスは、主イエスが行っているこの癒やしは「神の指」によって行っている、だから、自分はメシアとして来たのだ、メシアは既に来ているのだというメッセージなのです。それを受け入れる人は幸いであると、主イエスはおっしゃっておられるのです。主イエスの言葉、真理を聞いている人は、それを信じ、実行すべきだというのです。

■ヨナのしるし

 次に、今日の聖書の箇所の29〜32節には、『群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」』とあります。群衆は主イエスに「しるし」を見せてくれと言い、それに対して、主イエスは「しるし」はそんなには与えられない、これからは「ヨナのしるし」という特定の「しるし」しか与えられないとおっしゃったのです。ここで、「しるし」というテーマが、続いていることが分かります。

 『群衆の数がますます増えてきたので、』とあり、さらに次の話に続いて来ていることが分かります。そして、主イエスが語られる次の言葉は、「もっとしるしを」と求める群衆に対して語られた言葉であることが分かります。そして、主イエスは語られました。「今の時代の者たちはよこしまだ。」、ここで今の時代の者たちというのは、何のことでしょうか。これは、主イエスと同時代のユダヤ人たちのことを言っているのです。主イエスが同時代のユダヤ人たちのことをよこしまだと言っているのは、主イエスがメシアであることの証明を既に行っているのに、さらにそれを証明する「しるし」を求めたからです。「しるし」を求めるのは、ユダヤ人の特徴です。しかし、主イエスは、「ヨナのしるし」以外には、与えられないとおっしゃられたのです。

 旧約聖書に、ヨナという預言者が出てきます。彼は三日三晩、大魚の腹の中にいて、そこから復活した預言者です。ヨナの話は、ユダヤ人はよく知っている話です。そのため、主イエスはここでは、ヨナがどういう預言者で、ヨナに何が起こったのかということについては、一切、語っていません。語らなくても、群衆には何が語られているのか、よく分かったからです。その上で、「ヨナのしるし」と語られました。従って、「ヨナのしるし」とは、三日三晩、大魚の腹の中にいて、ヨナはそこから復活したことから、「復活」を表すキーワードなのです。

 ヨナの物語を神話と考える人たちがいます。大きな魚の腹の中で、三日三晩、死んでいた。それが、復活した。それを神話と考える人たちがいます。しかし、主イエスは、ヨナとソロモンを並べて論じているのです。ヨナをソロモンと同じように、歴史上の人物とされているのです。これが、「ヨナのしるし」の教訓から学ぶポイントなのです。信仰とは、証拠の上にでなはく、神様の言葉の上に成り立つものなのです。従って、「しるし」を見た、証明されたから信じるというものではないのです。主イエスが、ヨナを歴史上の人物とされたのなら、私たちはその言葉を真理だと、受け止めるのです。それが信仰なのです。

 「ヨナのしるし」には、どのようなものがあるでしょうか?聖書には、この「しるし」を見たら、主イエスがメシアであることを信じるべきであるという「しるし」が3つ出てきます。1つ目が、ドストエフスキーが『罪と罰』の中でも引用した、ヨハネによる福音書11章に出てくる、「ラザロの復活」です。2つ目が、「主イエスの復活」です。3つ目が、ヨハネの黙示録11章に出てくる「二人の証人の復活」です。「ラザロの復活」と、「主イエスの復活」は既に、歴史の事実として、既に起こった出来事です。そして、「二人の証人の復活」は、ヨハネ黙示録11章に入って起きる、予言的な出来事なのです。この3つが、「ヨナのしるし」なのです。これらの「しるし」は主イエスが、父なる神様から派遣されたメシアであることを示しており、これら以外の「しるし」はもう与えられないと主イエスは語っておられるのです。

 ヨナは、ニネベの人々ために「しるし」となりました。ヨナは、迫りくる神様の裁きと、悔い改めの必要性をニネベの町を廻って、説いてまわりました。そして、ニネベの人々は、ヨナの言葉を信じ、悔い改めました。そして、ニネベの町は、裁きは一時的に延期され、破壊を免れたのです。これが、ヨナがニネベの人々ために「しるし」となった、ということの意味です。

 これに対して、主イエスの場合というのは、どうなのでしょうか?30節には、『人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。』とあります。主イエスは、同時代のユダヤ人のための「しるし」となると言っているのです。異邦人はヨナの言葉を信じたが、ユダヤ人は主イエスの言葉を信じない、それが今起きていることなのです。主イエスはヨナよりも素晴らしいお方です。ヨナよりも素晴らしい主イエスを信じないが故に、イスラエルの上に降る神様の裁きは厳しく、確実なものとなります。そのため、裁きの内容は、エルサレムが崩壊し、神の国、メシア的王国の成就は主イエスと同世代のユダヤ人から取り去られ、将来の世代に与えられるために、メシア的王国の成就が延期されるというのです。これが、イスラエルに降る厳しい神様の裁きの内容です。

■南の国の女王

 次に、本日の聖書の箇所の31節には、『南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。』と記されています。『南の国の女王』とありますが、これも詳しくは説明していません。『南の国の女王』とは、旧約聖書列王記上10章1〜13節に登場するシェバの女王のことです。ユダヤ人にとっては、ヨナと同じように、シェバの女王もよく知っていることなのです。そのため、シェバの女王についても詳しくは説明されていません。シェバの女王はイスラエルの王ソロモンの知恵を聞くために、遠くから旅をして、やってきたのです。ソロモンという素晴らしい王がいるという噂を聞いただけで、遠方からやってきたのです。

 しかし、主イエスと同時代のユダヤ人たちは、主イエスからこれだけ教えてもらいながら、主イエスの知恵に耳を傾けないのです。主イエスとソロモンを比較すれば、主イエスの方が比較にならない位、偉大なお方です。シェバの女王は、ソロモンが語る知恵を聞いただけで、それを受け入れたのです。つまり、シェバの女王の信仰は、主イエスの言葉を受け入れないユダヤ人たちの信仰よりも優れている、と言っているのです。シェバの女王は、目に見える「しるし」がなくても、ソロモンの言葉を聞き、信じたのです。

 本日の聖書の箇所の32節には、『また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。』とあります。ニネベの人々とシェバの女王の共通点は、何なのでしょうか?彼らは、何の奇跡も見ていない段階から、語られる言葉をそのまま信じたのです。「しるし」がないのに、語られる言葉だけで信じた、ここにポイントがあるのです。ヨナの言葉とソロモンの言葉をそのまま信じたのです。ところが、主イエスは、ヨナやソロモンよりも優れたお方であるのにも関わらず、同時代のユダヤ人たちは信じようとしない。ここに問題があるのです。それ故、ニネベの人々も、シェバの女王も、この時代の人々を裁くときには、彼らを罪に定めることができるのだ、というのが主イエスの語る言葉の意味なのです。

■光に応答する

 次に、本日の聖書の箇所の33節には、『ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。』と記されています。この33節の記述は、主イエスと同時代の人々には、体験的によく分かる内容の言葉だと思います。日が沈むと、真っ暗闇になります。僅かばかりの明かりを灯して、それを燭台の上に置くと、部屋の中が明るくなります。外から入ってきた人たちに、その光が見えるようになります。現代の私たちは、夜、停電になったときとか、キャンプ場に行ったときとかいった限られた場面でしか、そのような体験をしませんが、古代の人々は、そのような体験を日常的にしていたのです。

 33〜36節で語られている主イエスの教えは、悪霊の追い出しと「しるし」に関する議論、つまり、「ベルゼブル論争」の締め括りの教えなのです。次回、お話するのは、ファリサイ派の人々がそれに反発したという話なのです。主イエスの締め括りの議論が何かと言いますと、あなた方は無知という暗闇から抜け出して、主イエスの言葉に応答すべきであると、主イエスは語っておられるのです。そのために、このたとえを用いられておられるのですが、主イエスはともし火と燭台のたとえを好んで用いられました。だからといって、たとえの意味が常に同じというわけではないのです。

 例えば、マタイによる福音書5章15〜16節には、『また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。』とあります。このマタイ福音書のたとえを見ると、今日、読んでおりますルカ福音書のたとえと、同じようなものだと考えがちですが、マタイ福音書のともし火とは何なのでしょうか、燭台の上に置いて人々に見せなくてはならない光とは何なのでしょうか?それは、マタイ福音書の16節から、あなた方の光なのだということです。つまり、主イエスの弟子となった者が、内に宿している光を、行いを通して、人々に見せなさいということです。それが、マタイ福音書の5章15〜16節のポイントなのです。

 ところが、ルカによる福音書では、主イエスがともし火なのです。主イエスが闇を追い出すお方として描かれているのです。つまり、主イエスの奉仕、主イエスの教え、特に、今日の聖書の箇所の「ベルゼブル論争」に関する教えは、暗闇の中にいる人たちに、光を届ける働きがあるのだと、主イエスは語っておられるのです。従って、主イエスが届けている光に、どう応答するかが、ここでは問われているのです。

 34〜35節を見てみますと、『あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。』とあります。ここでは、「体のともし火は目である」という言い方になっていることが分かります。主イエスは、ここでは人間の目をともし火にたとえているのです。普通、ともし火といいますと、そこから光が出てくる、光源を指した言葉かと思います。ここでは、光源という意味ではなく、光を外から取り入れる器官という意味で、人間の目が「ともし火」だとおっしゃっておられるのです。人間の目が光源という意味ではなく、主イエスの教えという光を体に取り入れる器官として目があると言っているのです。ですから、『あなたの体のともし火は目である。』という言い方になっているのです。主イエスの教えを受け入れる人は、澄んだ目を持っている人だと言っているのです。その人は、霊的に光の中に置かれるのです。主イエスの言葉に、「しるし」を求め、「しるし」が与えられたら信じてやるというのではなくて、主イエスが語っているだけで、それを受け入れるという目を持っていれば、体全体が明るくなるのだというのです。主イエスの言葉を受け入れない人は、霊的に闇の中に留まるというのです。つまり、主イエスの言葉に、どう応答するかによって、その人の内面の明るさが決まってくるのです。

 36節には、『あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。』と書かれています。主イエスはここでの一連の教えを積極的な言葉で締め括っています。主イエスの言葉を受け入れるならば、『全身が輝いている』と語っていますが、ここで『全身』と言っているのは、その人の霊的な状態、あるいは、人格のことです。即ち、主イエスの言葉を受け入れるならば、その人の人格は、霊的に明るいものとなるというのです。

 ニネベの人々とシェバの女王は、わずかの光に応答したのです。しかし、主イエスと同時代のユダヤ人たちは、大いなる光である主イエスと主イエスの教えに応答しなかったのです。現代を生きる私たちはどうなのでしょうか?私たちには、主イエスと同時代のユダヤ人たち以上に光が与えられているのです。このことは何を意味しているのかと言いますと、今日の聖書の箇所で、主イエスと同時代のユダヤ人たちが厳しく叱責されているのであれば、私たちにはそれ以上に厳しいものになるということです。

 私たちには、どのような光が与えられているのでしょうか?復活の目撃者情報、これは、2つ目の「ヨナのしるし」である主イエスの復活を目撃したという使徒たちの情報です。新約聖書には、復活の主イエスと出会って、復活の主イエスを証言したほとんどの使徒たちが、どんなに脅され、責められても、証言を翻すことなく、その証言の故に殉教の死を遂げていったのです。人間は、嘘のために死ぬことは難しいと思います。私たちのこの教会は、その使徒たちの命がけの証言の上に建っているのです。それから、主イエスを信じた者には、聖霊の力が与えられているのです。また、現代では無数の聖書が与えられています。一部の権威主義の国では、聖書が手に入り難い国もありますが、今の時代ほど、豊かに聖書が手に入る時代はなかったと思います。さらに、私たちには、福音記者ルカがこの福音書を書いたときから、2千年のキリスト教会の歴史があるのです。これらのものが私たちには、豊かに与えられているのです。そのため、私たちが神様の前に立たされたときには、それでも私たちは知らなかったなどとは言うことができないのです。このような豊かな光に応答しないのなら、ニネベの人々とシェバの女王が私たちを裁くことになると思います。

 「ベルゼブル論争」の文脈の中で、今日の聖書の箇所で主イエスによって語られている教えというのは、幸いな人というのは、神様の言葉を守る人である、そして、「しるし」を求めても、「ヨナのしるし」以外には与えられない、そして、光に応答する目を持つ、ということなのです。私たちは、与えられたみ言葉を受け入れ、み言葉によって神様の方に向き直っていきます。私たちに与えられているしるし、私たちが求めるべきしるしは神様の言葉です。主イエスが語った言葉というだけで、受け入れ、従う「そこに」、ソロモンにまさり、ヨナにまさる、神の国の到来の現実があります。救いの恵みの現実があるのです。私たちは今日のこの礼拝で与えられる、神様の言葉によって、私たちが救いと恵みの現実に招かれていることを告げ知らされ、希望を与えられて歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。