小倉日明教会

『信仰によって歩むとき』

ヘブライ人への手紙 11章 1〜2節
ヘブライ人への手紙 11章 17〜31節

2023年11月12日 降誕前第7主日永眠者記念礼拝

ヘブライ人への手紙 11章 1〜2節<br /> ヘブライ人への手紙 11章 17〜31節

『信仰によって歩むとき』

【説教】 沖村裕史牧師

■神からの光

 さきほど告白した使徒信条にある「聖徒の交わり」としての教会には、この地上を生きるわたしたちだけでなく、天にある方々をも含んでいます。その天に召された方々のお写真に囲まれて、わたしたちはこの手紙の一二章一節の言葉通り、まさに「多くの神の証人に雲のように囲まれて」、この礼拝を守っています。そのことを信じる時、わたしたちは、天に召された方々が決して「失われた人々」ではなく、いのち与えくださった神の恵みによって、わたしたちと共に今も、その御手の内におられる、そう確信することができます。

 そしてここにお写真があるすべての方が、信仰によって生かされ、信仰の内に天に召されました。ここに飾られたお一人ひとりのことを思い起こしつつ、「信仰によって生き、死ぬ」とはどういうことなのか、そのことを皆様とご一緒に学びたい、そう願っています。

 今日、わたしたちに与えられた聖書の言葉は、ヘブライ人への手紙一一章です。これは実際の礼拝で語られた説教だと言われます。その説教の中に「信仰によって」という言葉が一九回も繰り返されます。「信仰によって」という言葉に導かれながら、旧約の時代を生きた「信仰の証人たち」の長い記録がここに綴(つづ)られている、そう申し上げてよいでしょう。信仰の証人とは、神を心から信じる信仰をもって歩んだその人生の中で、神からどのような恵みを与えられたのかを示す、証(あかし)している人々のことです。説教者は、その証人たちの歩みを一つひとつ辿ることによって、神から与えられた信仰の賜物が完成されていく姿を、「信仰によって」という言葉を重ねて、ここに語っています。  

 では、信仰者たちの信仰の賜物、恵みはどこに見出されるのでしょうか。ここに語られているアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーセに共通する場面があります。そのいずれもが死に直面しています。

 アブラハムは、独り子の死を前に苦しみ悩みながらも、愛するわが子を神へ捧げること、いのちを神に委ねることができました。その子イサクの死についてはここに何も語られませんが、イサクが二人のわが子を祝福したのは、創世記によれば、彼が死の床に着いていたときのことでした。ヤコブについての言葉も印象的です。二一節、「杖の先に寄りかかって神を礼拝した」。もう立てなくなっていたということです。神を拝むにも、もう杖に取りすがらなければならない者が、しかしそこで自分の死を嘆くのではなく、自分の子孫のために祝福を祈りました。ヨセフは大国エジプトの大臣にまでなっていましたが、自分が死んで葬られる場所はここではないと決めていました。自分の遺体が約束の地カナンに運ばれることを望み、自分の子どもたちがエジプトから安住の地へと戻って行く姿を思い浮かべています。死に直面しながら、なお祝福を望み見たのです。

 ある方が、もはや回復の見込みもない病の床にありました。ご家族から、天に召されたときには葬儀を教会でとご連絡がありました。病床をお訪ねすると、重病であるはずのその方が姿勢を正すようにしてこう語られます。自分の父も母も信仰を持って死んでいった。それも晩年ようやく信仰を得てのことだった。自分もまた父や母と同じ信仰を得て平安を得たい、と言われます。厳しい闘病生活を続けてこられ、言葉にできない苦しみと痛みを味わう中、平安を求めて神と共にあることを願っておられました。受洗の準備を進めている最中、病状が急変され、心臓が一度止まりました。間に合わなかったかと思いつつ病床に急ぐと、奇跡的に意識が戻っておられました。改めて洗礼の意思を確認し、すぐに緊急の洗礼式を執り行いました。最後の日、しばらく傍らに付き添い、聖書の言葉を読み、共に祈りを献げました。その間ずっと、穏やかな笑みを浮かべておられました。まだ心臓に力がありそうだとお聞きし、安心して帰ったその直後、天に召されました。六七年のご生涯の中、わずか一週間の信仰者として生き、平安の内に天に召されました。

 この人もまた、アブラハム、イサク、ヤコブ以来の信仰の恵みの中に立たれた、と思わずにはおれません。目に見えるのは自分の重い病、もう帰りたいと憧れていた家に帰ることもできず、まして職場に復帰することなど到底叶いません。目に見えるのは、すべての望みが断たれた現実でしかありません。しかし、その向こう側に光を見ることがおできになったのです。

 わたしたちにも、その光を見ることができます。いのちの主である神からの光です。この手紙の説教者は今そのことを語ろうとしています。

■信じる力

 続く二七節にも、力強い信仰の言葉が語られます。

 「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです」

 モーセの目に見えていたのは「王の怒り」です。王の怒りが強力な軍隊として見えています。死の可能性が、いえ死がはっきりと見えていました。しかしそこで、モーセは「目に見えない方」を信じました。まるで見ているかのように確かな現実として、神を信じました。そしてその信仰は、目に見える現実に耐える力として現れると言います。「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいた」、これこそ「信仰によって」生かされている者の姿です。

 冒頭一節の言葉が重なってくるようです。

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」

 この言葉に従えば、信仰とは、目には見えないものが事実であり、期待しているものは必ず来る、と確信することです。この「望んでいる」とは、ただ憧れをもって待ち望むということではなく、「確信をもって待つ」ことです。

 キリスト教が激しく迫害されていた時代のローマで、裁判官の前に引き出された名もないひとりの信徒が語った、印象深い言葉があります。「わたしが神に対して真実であるならば、神はわたしに対して真実であるお方です。だからわたしはどんなことがあっても信仰を捨てません」。この言葉に対して裁判官は問いかけます。「お前のような者でも神のところへ行って、栄光が受けられるとでも思っているのか」。信徒の答えはこうでした。「わたしはただそう思っているのではなく、事実そうであることを知っています」と。

 信仰をもって生きているわたしたちにとって、また、信仰に生きたご家族の姿を身近にずっと見つめて来られた皆様にとっても、思わず頷かざるを得ない言葉ではないでしょうか。「信仰によって」、わたしたち信仰者に与えられる希望とは、おそらく良い結果をもたらしてくれるだろうといった、はっきりしない望みではなく、それが事実である確かさを知ることです。

 この手紙の中に名前を挙げられた誰もが、苦難の中の苦難、試練の中の試練とも言うべき「死」を恐れませんでした。それは、彼らが勇猛果敢な人であったからではなく、いかなる苦難にも、死にも打ち勝つ力を持つ、いのちの主である神を堅く信じていたからです。自分の死のことだけ、自分の困難や苦難だけを考え、囚われ、それだけを見つめている人は、苦難や死への不安の前に手も足も出ず、ただそれを恐れるばかりとなります。しかし信じる者は、自分に約束された神の言葉をたえず覚え、死ぬ直前にもそのことを思い起こして、後に続く者たちのことを祝福することができたのでした。

 苦難と不安に囚われ、縛られた人生に自由はありません。そこから解き放たれるときに、本当の自由が与えられます。苦難と死からの本当の自由が与えられるのです。それこそが、信仰の力、信じる力です。

■信じて生きる

 「信じる者は、救われる」という言葉があります。

 普段はあまり意識しませんが、だれもがいつも何かを信じていますし、信じることで、壊れやすい自分を守っています。わたしたちは科学技術を信じているからこそ、あの鉄の塊である飛行機に乗り、運転する人を信じていればこそ、タクシーにも乗ることができます。

 もしも「信じる」ということが全くできない、できなくなるとすれば、人は、一瞬にして絶望の闇の中に閉ざされてしまうでしょう。そして現代は、信じることのできない、まさに不信の時代です。他人が信じられない。夫も妻も、我が子さえも信じられない。政治やマスコミはもちろん、科学も宗教も、自分自身すら信じられない。だから未来が信じられない。その不信によって、わたしたちは疲れ果てています。

 しかしそんな時代であればこそ、素朴に「信じる」ということの値打ちが、逆に高まっているとも言えるのではないでしょうか。なぜなら、あらゆる問題が、最後は「信じる」ことでしか解決できないからです。疑いは対立を生みます。疑いは疲弊を生み出します。そして疑いはさらなる疑いを生むものです。それに対して、信じることは「力」そのものです。信じれば信じるほど、生きる力が生まれます。

 まず何よりも、自分を、自分に与えられたいのちのかけがえなさを信じたいものです。自分の内に、自らを超えた力が豊かに備えられていることを信じる。昨日の失敗は、その力に目覚めるためだったのです。そして、他人を信じましょう。どんなに弱く愚かで嫌いな人の内にも、信ずるに値する尊い魂があるはずなのです。なぜなら、だれもが神から尊い、かけがえのないいのちを与えられた存在だからです。

 そのようにして、相手を疑うことをやめたとき、新しい関係が生まれてくるはずです。だれでも、疑われれば閉じこもってしまいます。人から信じられることで初めて、開かれていきます。信じるほどに実際に喜びが増し、信じるほどに友が増えていく。この事実こそが、信じることの根拠です。信じる者が救われるというよりも、実は、信じること自体がすでに「救い」なのです。

 それこそが、信じる力、信仰によって生きる、ということです。。

神が覚えておられる限り

 この手紙に語られている信仰者や、今ここにお写真が並べられている方々のこと―目には見えないものを信じながら、その生涯を歩み抜かれた信仰の先達たちのこと―を思うとき、厳粛な思いに満たされます。その一人ひとりの人生が、抗しがたい力をもって、わたしたちの、今の生き方に問いかけてきます。

 あなたは今、「何によって」生きていますか、と。

 この手紙に記されている信仰者が皆、平穏で幸いな生涯を送ったというのではありません。信仰のゆえに苦しみ、殺された人がいたことも語られています。ここに飾られた天に召された方々の人生も、波風ひとつない、全く破れのない人生であったというのではなかったでしょう。しかしその中でこそ、信仰は強められ、確かなものとなったに違いありません。

 その意味で申し上げれば、生きているのはもはや、わたしたちによるのではありません。むしろわたしたちは、信じる心を与えられ、信じる力に支えられ、信じることによって生かされ生きている、そう言えるのかもしれません。

 祖父が認知症となったとき、一人で散歩に出かけたことがありました。程なく自宅に電話がかかってきました。「お宅のおじいさんじゃろう。道端で倒れちょるぞ」。わたしは自宅を飛び出し、祖父がいると教えられた場所まで走りました。祖父は駐車場の隅っこにうずくまっていました。涙をこらえながら、祖父をおんぶして家に帰りました。祖父は不思議そうにわたしを見ていました。どこのだれだろう、という眼差しで。祖父は、あれほど可愛がってくれていた孫のこともわからなくなっていました。ではそれで、わたしと祖父との関係は終わりでしょうか。いえ、終わりません。たとえ祖父が完全にわたしを忘れても、わたしが祖父を覚えている限り、二人の家族としての絆は成立するのです。

 もう一方、特別養護老人ホームに入っておられたご婦人のことを思い出します。彼女は認知症が進むにつれ、あれほど親しみ、愛しておられた教会のことや信仰に関することを少しずつ忘れていきました。初めの頃は、たとえわたしの名を思い出せなくても、愛唱の讃美歌や主の祈り、イエスさまの名前を告げると、それを口ずさみ、やさしくほほえんでくださっていました。しかし症状が進むにつれ、イエスさまの名前にすら反応されなくなり、わたしに向かってこう言われるようになりました。

 「イエスさま?それはだれ?人の名前?あなたがイエスさまなの?こんにちは!」

 彼女の信仰とは何だったのでしょうか。好きな讃美歌も、主の祈りも、イエスさまヘの熱い思いも失った彼女は、信仰者として終わってしまったのでしょうか。いえ、決してそうではありません。たとえ信じる心を完全に失ったとしても、記憶としての「人格」が完全に失われたとしても、神との関係は、信仰は終わりません。わたしたちが神を忘れても、神がわたしたちを忘れない限り、わたしたちと神との関係は、信仰は、いつまでも続くのです。

 わたしも、あのご婦人のように、また祖父のように何もかもわからなくなるかもしれません。信仰だ、救いだと心を込めて語っていますが、すべてきれいさっぱり忘れることでしょう。そのとき、わたしは、わたしの信仰は終わりでしょうか。いえ、決してそうではありません。神がわたしを忘れない限り、神がわたしをとらえていてくださる限り、わたしと神との関係は、死して後も、永遠に続くのです。

■信仰という希望

 イザヤ書四九章一五節から一六節の言葉です。

 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」

 このことを信じることこそ、信仰によって生かされ生きるということです。わたしたちは、どんな時にも何があろうとも、たとえわたしたちが神のことを見失うことがあったとしても、そして死んで後も、わたしたちは神によって捉えられているのです。その信仰によって生かされているのですから、わたしたちは希望を失うことがありません。

 その希望は、目には見えませんが、たとえ死の時にあっても、いえ、そのような時にこそ、この世の中で最も確かな希望です。その希望を抱いて生きることこそ、わたしたちが信仰によって生きること、信仰によって生かされることなのではないでしょうか。 わたしたちはこの地上にあって、聖書に記されている、そしてわたしたちのよく知る信仰の先輩たち、信仰の友という多くの信仰者の群れに囲まれ、励ましを受けながら、共に信仰によって生かされる者でありたい、信仰の道を歩むものでありたい、心からそう願う次第です。