小倉日明教会

『安息日の食事の席で − 水腫の人の癒しと宴席の作法』

ルカによる福音書 14章 1〜11節

2024年 1月 7日 降誕節第2主日礼拝

ルカによる福音書 14章 1〜11節

『安息日の食事の席で − 水腫の人の癒しと宴席の作法』

【奨励】 川辺 正直 役員

讃美歌493 『いつくしみ深い』

 明けましておめでとうございます。讃美歌21に収められている有名な讃美歌に、『いつくしみ深き』という讃美歌があります。『アメージング・グレース』と並んで二大讃美歌と呼ばれているものです。この曲は、日本人にとってもなじみ深い曲です。それは、1910年に出版された文部省の唱歌の中にも、「星の世界」という曲として、この曲は取り入れられたからです。

 この讃美歌の作詞者はジョセフ・スクライヴェンという人なのですが、彼の人生は悲しみと、痛みに満ちたものでした。彼はアイルランドの裕福な家庭に生まれ、名門トリニティ大学の出身でした。 卒業してから、結婚式を明日に控えた24才のある日、婚約者が突然、溺死するという不幸に見舞われました。彼女との思い出がたくさんある故郷に住み続けることが出来なくなって、新しい生き方を求め、25歳の時、カナダに移住し、 学校の教師をしていました。 この悲しい出来事から、彼は気の毒な人々の奉仕に、残る自分の生涯と全財産をささげようと、決心しました。彼は、彼が暮らしていた家の近くに、夫を亡くし子どもを抱えて大変生活に困っている主婦がいましたが、のこぎりと斧を持って彼女の家を訪れ、冬に備えてたくさんの薪を用意するなど、不幸な人々や貧しい人々への奉仕に励んだのです。

 彼に一瞬、春がふたたびよみがえったと思う時が来るのです。それは、41歳の時に、エリザという女性と、もう一度婚約するのです。エリザは亡くなった婚約者の年齢と同じ23歳の方だったそうです。しかし、エリザも結核に侵され、婚約期間中の1860年に病死してしまうのです。彼は二度も婚約者を失います。その悲しみでいっぱいなのに、周りの人々のジョセフに対する目もおかしくなって行くのです。

 「彼の人生には何か呪いが付きまとっているのではないか。」

 「彼はクリスチャンだと言っているけど、実は何か悪いことをしていたのではないか。」

 自分が友達だと思っていた人にまでそんなことを言われて、彼は深く傷つきます。でも彼はこのような経験を通して詩を書いていくのです。その詩が『いつくしみ深き』という詩なのです。

 「イエス・キリスト以上に私の弱さを理解してくれる方はいない、私の悲しみを理解してくれる方はいない、私の友はいない」というそんな歌です。

 今日は、主イエスが、真の慰め主であるということ、そして、神様と向き合うことはどういうことかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

宴会の席に着く主イエス

 本日の聖書の箇所の直前の、前回取り上げました聖書の箇所の最後、ルカによる福音書13章35節を見ますと、『見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」』と、主イエスが語ったことが記されています。ここでは、エルサレムの崩壊、そして、主イエスの再臨まで、ユダヤ人たちは主イエスを見ることがないという予告が語られているのです。このことを聞いて、ファリサイ派の人々、イスラエルの宗教的指導者たちが、主イエスに対して、敵意を持ったことと思います。敵意という文脈の中で、今日の食事の席が開かれているのです。そして、エルサレム崩壊の原因が、実は宗教的指導者たちに原因があるのだということが、今日の話からも明らかになってゆくのです。

 さて、本日の聖書の箇所の1節を見ますと、『安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。』とあります。ルカは今日の聖書の箇所で、ある人を紹介しています。ルカによる福音書13章10〜17節では、腰の曲がった婦人の癒しの記事がありました。そこでは、女性が癒やされたのです。本日の箇所では、水腫の男の人の癒しの記事を紹介しているのです。福音記者ルカは、お金持ちにも、貧しい人にも、また、女性にも、男性にも、また、ユダヤ人にも、異邦人にも、目配りをしながら、福音書を書き記しています。本当に、バランスの取れた人だと思います。

 この場面で、主イエスは、ファリサイ派のある議員の家に、食事のためにお入りになった、つまり、招かれたのです。『ファリサイ派のある議員』とありますので、この人が当時のユダヤ議会、サンヘドリンとも言います。あるいは、70人議会とも言うのですが、ユダヤ議会の議員であるその人が、主イエスを食事に招いたのです。このユダヤ議会の議員であるその人が、主イエスに好意を持っていたかどうかということです。前回までの聖書の箇所の文脈からすると、イスラエルの宗教的指導者たちが主イエスに対して、好意的であったわけではないのです。ファリサイ派の人々はむしろ主イエスに対して激しい敵意を抱いていたのです。ルカによる福音書11章53〜54節には、『イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。』とありますことからも分かります。

 ここでも、彼らは主イエスを逮捕する機会を狙っていたのです。つまり、主イエスが律法違反をして、そのことを口実に、主イエスを逮捕する機会を狙っていたので、『人々はイエスの様子をうかがっていた。』とルカは書き記しているのです。さて、主イエスが食事に招かれたのは、安息日のことでした。これまでも、主イエスとファリサイ派の人々との間に論争があったのですが、一番多くあった論争は、安息日を巡る論争であり、安息日の解釈が大いに異なっていたのです。ファリサイ派の人々が持っていた律法は、口伝律法と言いますが、口伝律法によれば、主イエスは何度も、安息日の規定を破ってきたのです。安息日にしてはいけないと、ファリサイ派の人々が考えていたことを、主イエスは行ってきたのです。

 本日の聖書の箇所でも、彼らは主イエスが律法に違反するように、罠を仕掛けたのです。安息日に、主イエスが病気を癒すことをするかどうかをテストしているのです。先程も申しましたように、主イエスを食事に招いているのですが、食事を共にするのは、ユダヤ的には、圧倒的に友情のしるしなのです。友情を示すしるしとして、食事の席があるのです。しかし、今日の聖書の箇所にあるのは、友情ではなく、律法に名を借りた、悪意であり、偽善であったのです。

    

水腫を患っている人

 本日の聖書の箇所の2節には、『そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。』と記されています。『そのとき、』という書き方から、この水腫を患っている人は、意図的にそこに置かれたということが分かります。ファリサイ派の人々が、主イエスの前に、その水腫を患っている人をわざわざ置いたのです。これは、主イエスを逮捕するための罠であったのです。講話をしている主イエスの眼の前に、水腫を患っている人が置かれていたのです。水腫という言葉ですが、これは、むくみや浮腫とも言われ、心臓や腎臓の病気、あるいは、栄養障害が原因となって、体の中に体液がたまって、むくんでしまっている症状のことで、この人はすぐにでも癒される必要のある人でした。

 しかし、当時のユダヤ教のラビたちは、水腫の原因は罪にある、特に、性にまつわる不道徳な罪にあると考えていたのです。旧約聖書の民数記の5章20〜22節には、『しかし、もしお前が夫ある身でありながら、心迷い身を汚し、夫以外の男に体を許したならば、―― 祭司は女に呪いの誓いをさせてこう言う――/主がお前の腰を衰えさせ、お前の腹を膨れさせ、民の中で主がお前を呪いの誓いどおりになさるように。この呪いをくだす水がお前の体内に入るや、お前の腹は膨れ、お前の腰はやせ衰えるであろう。女は、「アーメン、アーメン」と言わなければならない。』と書かれています。このような律法から、本日の聖書の箇所に出てくる「水腫をわずらっている人」は、罪を犯したが故に、神様に呪われた人であると当時の人々は考えていたのです。ですから、律法に精通し、それを守ることに厳格であったファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、不道徳の罪を犯して、水腫になっている、神様にのろわれたこの人を、主イエスの前に置いて、主イエスがどうするか、しかも安息日にどうするのか、主イエスを試したのです。

安息日の癒し

 次に、本日の聖書の箇所の3〜4節には、『そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。』と記されています。ここで、注目したいのは、主イエスが先に律法の専門家たちやファリサイ派の人々に問いかけていることです。その結果、律法の専門家たちやファリサイ派の人々は、主イエスを試す側にいたのですが、主イエスによって、たちまち防御する側に立たされることになったのです。そして、主イエスは、モーセの律法の解釈について、質問するのです。それが、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」という問いなのです。しかし、律法の専門家たちやファリサイ派の人々は、答えなかったのです。黙っていたのです。

 そこで、主イエスはその人を癒しました。翌日まで待たないで、安息日にその人を癒したのです。翌日まで待てば、安息日違反だとは言われない筈なのです。しかし、主イエスは安息日に癒やされたのです。つまり、主イエスは安息日に癒やすのは、律法に適っているということを示されたのです。さらに、癒し方ですが、主イエスは言葉だけでも、癒すことができたのですが、この場合には、その人を取って、癒しているのです。ここには、肉体的な癒しだけではない、心の癒しが伴っているのです。主イエスは、彼の痛みに共感し、それをねぎらい、その人をあるがままで受け入れて下さったのです。それが、『イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。』という言葉なのです。この水腫を患っている人がどのような苦難を通過してきたのかは、書かれていませんが、『水腫を患っている』という言葉だけで、肉体的な苦痛だけではなくて、人々の目を、人々の噂を、そして、ラビたちの評価を聞いて、非常に心に傷を負っていたことが容易に推測されます。この人の苦しみを知って、主イエスは手を取って、癒したのです。そして、それからこの人を帰されたのです。これは、この人を好奇の目に晒される、論争の現場から遠ざけたということであり、また、これから行われる議論にすべての人々が集中できる環境を作ったということだと思います。

安息日だからといっても

 次に、本日の聖書の箇所の5〜6節では、『そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。』とあります。主イエスは、律法の専門家たちやファリサイ派の人々に質問していますが、これは旧約聖書の教え、あるいは、口伝律法に言及しているのです。旧約聖書でも、口伝律法でも、そうなのですが、自分の息子や牛が井戸に落ちた場合、安息日であっても、直ぐに引き上げてあげるではないかと、言っているのです。引き上げない者があなた方の内にいるでしょうか、いないのです。彼らは答えられなかったのです。ここで、主イエスは何を仰っておられるのでしょうか?

 ここで、見落としてはいけないのは、主イエスは先程、癒した水腫を患っている人は、自分の息子であるということを宣言されているのです。主イエスは天地の創り主であり、全てのものの所有者なのです。私たち命の所有者は主イエスなのです。主イエスにとって、この水腫を患っている人は、息子なのだということを宣言されたということなのです。私たちがキリスト者として成長するということは、神様が私たちのことをご自分の子どもと見て、最善を願っていて下さる、本当に心配していて下さるということが、分かってくるということ、それがキリスト者として成長するということだと思います。

 今、苦しみの中にあったとしても、戦いの中にあったとしても、神様が遠くにいるように感じられたとしても、そうではないのだと思います。主イエスは、私たちのことを自分の息子あるいは娘のように思い、私たちのことを心配していて下さるのです。私たちは、主イエスのみ顔に目を向けて、今も生きて、導き、働いておられる主イエスに信頼を告白してゆきたいと思います。主イエスはこの人のことを息子だと考えたのです。

 『彼らは、これに対して答えることができなかった。』とありますが、なぜでしょうか?「反論したかったけれどもできなかった」のだと思います。彼らは、主イエスが何よりも人の命を優先させていることを知っていたのです。だから、反論することができなかったのです。この出来事は、ここで終わりです。しかし、この出来事は、次に続く教えを語るための舞台設定となっているのです。主イエスは水腫を患っている人を癒すことによって、権威あるお方として、ご自分を現されたのです。その権威あるお方が神の国というテーマについて語るのです。従って、その教えに権威があるのは当然のことなのです。そのようにして、主イエスの教えを権威ある教えとして受け止めてゆく、これが正しい受け止め方なのです。

招待を受けた客の作法

 次に、本日の聖書の箇所の7節を見ますと、『イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。』と記されています。主イエスはここで、招かれた人たちに教える訳ですが、そのテーマは謙遜の重要性ということなのです。ルカはこの教えを、たとえという言葉を使って記しています。たとえ話というのは、霊的な適用があるのです。従って、ここでの主イエスの話は、単に社会生活上の教訓ではなくて、霊的な教訓を含んでいるのです。つまり、神様との関係における謙遜を含んでいると理解すべきなのです。このたとえ話は、律法の専門家たちやファリサイ派の人々のプライドを矯正するためのものと言うことができるかと思います。

 主イエスが生きておられた時代、正式な食卓に連なるということには、どのような習慣があったかを見てみたいと思います。まず、コの字型、あるいは、U字型の食卓が用意されているのです。左肘をついて、横になった状態で、食事をする訳です。その食卓というのは、低い食卓で、左肘をついて、横になって食事ができるほどの高さです。主人が座っている席がありますが、主人に近い席ほど、より栄誉ある席なのです。ですから、主人は高貴な客人を、自分の傍に置くという習慣があったのです。この食卓に招かれた人たちは、主イエスがご覧になると、自分が重要な人物であることを示すために、上席を選んでいたのです。上座を選んでいたということです。それを見て、主イエスがたとえ話を語るのです。

婚宴に招待された人

 本日の聖書の箇所の8〜9節を見ますと、「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。」とあります。本日の聖書の箇所の鍵となる言葉は、『招かれた』という言葉です。ギリシア語で招くという動詞は、「カレオウ」です。これが、招くという動詞なのです。これが、何と8節で2回、9〜10節で2回、13節、16節、17節、24節と、この聖書の箇所は、こんなに招かれたという動詞が出てくるのです。つまり、私たちは神様から招かれているのです。私たちが、キリスト者になったのは、招かれたからなのです。

 そう考えて、8節を見ますと、「婚宴に招待されたら、」とありますが、あるファリサイ派の人が、主イエスを招いたこの食卓は、結婚の披露宴ではありません。しかし、主イエスはたとえ話の中で、結婚の披露宴を取り上げています。これは、メシア的王国の始まりに、宴会が開かれるのですが、それを主イエスは想定して語っておられるのです。メシア的王国の始まりに開かれる宴会というのは、子羊である主イエスと教会との結婚の披露宴だと、聖書は教えているのです。これが、主イエスのたとえ話の意図なのです。ユダヤ人たちは、日常生活の中で、このたとえ話のような体験をしていたのです。自分から選んで、上座に行くと、もうちょっと下がってくださいと言われて、恥をかくことがある、これは彼らが経験したり、目撃したりしてきたことなのです。それで、ユダヤ人たちはそこから霊的な教訓を学ぶべきであると、主イエスは語っているのです。もし、披露宴で上席を選ぶなら、後で、恥をかくことになるというのです。これは、誰もが経験していることで、そこから学ぶ教訓とは何なのかということを、主イエスは教えようとされているのです。神の国で、最も重要とされる資質の一つが、謙遜なのだということなのです。キリスト者が謙遜さをなくしてしまったら、神様に喜ばれることはありません。どんなに人から称賛されるような働き、実践をしている人でも、傲慢さが見えた時に、私たちの心は離れて行くと思うのです。謙遜な人ほど、魅力的に映るのではないでしょうか。神の国で、最も重要な資質の一つが謙遜なのです。

 さらに、2番目の教訓は何かと言いますと、人は招かれているのです。つまり、人は自分では、神の国の上席を選ぶことはできないということなのです。従って、自分から、上席を選ぶなということなのです。3番目の教訓は何かと言いますと、それ故、自らへりくだることを学ぶべきである、謙遜を身につけるべきであるというのです。ということから、4番目の教訓としては、上席につこうとして、高い地位を求めるのではなく、主イエスの弟子となることを求めるべきだと語っておられるのです。主イエスの弟子となることは、へりくだるということなのです。自らを低くする人、自らを低くするなら、神様が高く上げて下さるのだと、このことを主イエスは教えておられるのです。

へりくだる者は高められる。

 次に、本日の聖書の箇所の10〜11節には、『招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」』とあります。これは、単に宴会に招かれた時の作法の話ではないのです。末席に行って座る理由は、何なのでしょうか?なぜ末席に座るのか、自分は主人ではないので、自分で席を選ぶ立場にはないのです。自分は招かれた客人であることを忘れてはいけないのです。ここで、私たちを招いた人とありますが、その人が来てくれる、これは、このたとえ話の中では、神様のことです。神様について、言及しているのです。私たちを招いて下さった神様ご自身が来て下さって、神様は自らを低くする人を、高く上げて下さるというのです。その時、どうなるのでしょうか?その人は、みんなの前で面目を施すことになるというのです。このことには、霊的な教訓があるのです。神の国における地位は、自分で獲得するのではないのです。神様によって、与えられると言うのです。そして、この話の結論は、『だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』ということなのです。自分を高くする者は恥をかくことになるのです。へりくだる者は、逆に高くされると言うのです。この原則は、現代に於いても、また、社会生活に於いても、有効だと思います。それと同時に、メシア的王国に於いても、有効で、霊的な適用があると思います。

 謙遜になるというのは、主イエスの弟子として歩むことですので、主イエスはその食卓で人々が上席を狙って、奪い合いをしている様子を見て、何を教えたのでしょうか?それは、メシア的王国では、自分を低くするものが、高く上げられる、つまり、主イエスの弟子として、この世の評価からは関係のないところで、神様に仕えて行く人こそが、高く上げられるということなのです。

主イエスのへりくだりに従う

 主イエスの特徴は、教えただけではなくて、自らそのように歩まれたところにあると思います。ですから、私たちは主イエスの生き方、あり方を通して、さらに、主イエスの教えを通して、2重の意味で、教訓と励ましを受けているのです。主イエスの模範として、直ぐに思い浮かぶ聖句として、フィリピの信徒への手紙の2章の5〜9節です。少し長いのですが、お読みしますと、『互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。』と、このように書かれています。これは、当時教会で用いられていたキリスト讃歌であったと言われています。ここには、主イエスがどのようなお方かが明確に示されています。教会は、ここに記されている主イエス・キリストの姿にふれて、讃美を歌わずにはいられなかったのです。

 ここで先ず、主イエス・キリストが神の身分であったとあります。主イエス・キリストは神と等しい方、神ご自身であったのです。しかし、それに固執せずに、自分を無にして、人間と同じ者になったのです。つまり、主イエス・キリストとは、神でありながら人となられた方なのです。神と人というのは決して混同されることのないものです。しかし、主イエスにおいては、それが一緒になっているのです。更に、ここでは、ただ神が人間となったというだけでなく、へりくだって、十字架の死に至るまで従順だったと言うのです。私たちは、死と聞くと、私たちがいずれ迎える肉体の滅びとしての死を考えます。しかし、聖書は死ということにもっと深い意味を見つめているのです。人間は皆、神様から離れて、自分を人生の主人として歩んでいます。そのような罪に支配された人間が受けなくてはいけない神の裁きが、「十字架の死」なのです。しかし、その十字架の死をキリストが受けて下さったというのです。本来、罪人である人間が受けなくてはならなかった神の裁きとしての死を、人間の姿をとって世に来て下さった神である主イエスが受けて下さったのです。この「十字架の死」という出来事こそ、主イエス・キリストの「へりくだり」ということなのです。ここに、私たちが見つめるべき、へりくだることの原型と言うべきものがあるのです。それは、私たち人間の謙遜などとは全く異なるものであり、キリストの救いにあずかることなしには、生まれて行かないものなのだと思います。

 私たちは、先ず、主イエスの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と宣べ伝えて、神様を讃美したいと思います。この方こそが、私たちのためにへりくだって十字架の死を死んで下さったからです。主イエスのへりくだりに示された救いにあずかることを通してのみ、私たちは、自分に固執することなく、利己心や虚栄心からでもなく、主イエス・キリストを証しするための、愛の業に励むことが出来るのだと思います。私たちは、神様を讃美しつつ、主イエスの招きに応えて、新しい一歩を、歩み始めたいと思います。

 それでは、お祈り致します。