【説 教】 牧師 沖村 裕史
■年齢と罪
救い主キリストの出現は、単に御子イエスの誕生にとどまらず、真理の光が現れ、神の栄光が現され、それが世界の隅々にまで実現していく、その出発点となったことを証するものでした。そんな真理と福音の光を、旧約聖書の今日のみ言葉からも読み取っていくことができればと願っています。
それにしても、創世記五章を読まれた方はだれもが、「えっ」と戸惑われることでしょう。ここに書かれている年齢のせいです。到底考えられないような年齢です。これにはいろいろな説明がなされます。その一つに、この年齢は神がこの世界を、人間を創造されたその創造の力がまだ強く働いていることを印象づけるためのものだと説明されることがあります。
しかし旧約聖書を読み進めていくと、気がつかれるはずです。その驚くほどの長寿がだんだん、わたしたちの普通の年齢に近くなっていきます。アダム九三〇歳、ノアの子セム六〇〇歳、アブラハム一七五歳、モーセ一二〇歳…。
そして、そのことの中に人間の罪の問題がある、と言われます。そもそも人間を神が創造された時には、死というものは計算に入っていませんでした。ご存知のように、創世記三章でアダムとエバが罪を犯します。その罪のために、死が入り込んでくることになりました。 たとえ何百年生きたとしても、死というものが最後には人間の生活を終わらせる。厳然たるその事実がここに示されている、そう考えてもよいのではないかと思います。
そういう意味での生と死がここに描かれています。三節に、「アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」と書いてあります。始め一節のところでは、神は自分に似せて人間を創造されたと書いてありましたが、三節になると、アダムは自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけたと書かれます。これは非常に厳しい言葉、辛辣(しんらつ)な皮肉の言葉です。わたしたちは自分に似た子どもを生み出します。それは、わたしたちの罪をそのままに継承する、受け継ぐ人間を生み出しているということです。そんな非常に厳しいメッセージが、ここに記されているのです。
■神と共に歩む
身も竦(すく)むようなそんな罪の系譜の中ほど二一節に、エノクという人が出てきます。今日お話をしたいのは、このエノクについてです。
「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」
何百年生きて、そして死んだ。他の人は、そう書いてあるだけです。しかしこのエノクだけは、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と書かれます。
「神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」
これこそ、人間本来のあり方です。神に造られ、神の息を受け、いのち与えられて、人間は初めて生きるものになりました。そして神と共に歩くように、人間は造られました。エノクはそのように神と一緒に歩いたと言われます。彼が正しい人間であったとか、罪を犯さなかった人間であったとか、そういうことではありません。ただ彼は神と共に、神に頼って生きた。それが、「神と共に歩んだ」という言葉の意味です。
彼も人間の限界を持っていたでしょう。自分の限界を、自分の愚かさをよくよく知っていたことでしょう。そういう人間が、神に向き合って生きていく。そうやって神に向き合い、神に支えられて生きていく人間の姿、本来的な姿がここに記されています。
八木重吉という詩人の「神を呼ぼう」という詩が思い出されます。
「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう
あん、あん、あん、あん
あん、あん、あん、あん
うるせいな
うるさかないよ
呼んでいるんだよ
神さまを呼んでいるんだよ
みんなも呼びな
神さまを呼びな
あんなにしつこく呼びな」
神を呼んで生きる。そんな、あるべき人間の姿を彼は描き出そうとしているのだと思います。
そうです。わたしたちは本来、呼びながら生きる、呼びながら生きている存在です。赤ん坊は何にもできません。自分で何かを持って来て、何かを食べるとか、一切のことをできません。赤ん坊にできることは、泣くことだけです。泣いて、だれかを呼び寄せるだけです。母親を、ときには他の人を呼び寄せ、そして何かをしてもらいながら、泣くことによって、赤ん坊は生きています。
それが人間というものです。わたしたちは、だれにも頼らないで生きることが立派な人間のあり方のように考えますが、人間というものは本来、神を呼びながら生きるように、神を呼ばないでは生きられないように、造られているのです。これが、聖書の基本的なメッセージです。
■導かれて歩む
とすれば、わたしたちが何か道を拓(ひら)くというのではありません。ただ神に導かれながら、歩いていく。それが人間の本来あるべき姿です。
イエス・キリストは言われました。
「明日のことまで思い悩むな」(マタイ六・二四)。
前途は、明日は、わたしたちの手の中にはありません。よく人は、「一寸先は闇だ」と言います。一寸先は何もわからないから、闇だ。何が起こるかわからない。どんな災難が待っているかわからない、と人は言います。その通りです。
だからこそ、わたしたちは明日というものを自分のもとに確保しようと思います。明日は自分のものだということを確かなものにしよう、とわたしたちは焦ります。人間には執着心や名誉欲とかいろいろなものがありますが、それは保証が欲しいからです。何としてでも、自分の明日、将来というものに対する保証が欲しい。明日も自分のものだという保証が欲しい。しかし、その保証を人間が自力で手に入れることはできません。わたしたちには自分の明日のいのちさえ確保することはできないのです。
「明日のことまで思い悩むな」とイエス・キリストが言われたのは、明日は神の手の中にあるから、思い煩(わずら)わなくていい、ということです。だから、神に委ねていけばいい。神が備えていてくださる。それが、明日であり、わたしたちの将来なのです。暗闇の中、ただ足元だけを照らし出す神のみ言葉、福音という光を頼りに、一つひとつ前に拓かれていく道を導かれながら歩いていく。そのことを信じて、神に委ねていく。それが、生きていくということです。
■応答としての歩み
その意味で、「神と共に歩む」ということは、別の言葉で言えば、神に委ね、神に祈りながら歩いていくということです。
人は神に似せて造られた、と書かれています。それは、神の創造のみ業を受け止めて、それに感謝し、賛美する存在として人間が造られたのだ、ということを意味します。神はご自分のみ業を、ただ一人で行われることを望まれないのです。神がわたしたちと共にいることを望み、そして人間の応答を望まれる。人間が神のみ業を見て感謝をし、祈り、賛美する。そういう応答、対話を望まれるのです。神は、孤独にご自分のみ業を進められるのではなくて、これに応答する人間との出会いというものをこそ、求めておられるのです。
エノクは神と共に歩みました。神に応答しながら彼は生きました。
神に応答しながら生きていくということが、人が人になっていくあり方ではないでしょうか。神のみ業を見、神のみ業に感謝して祈るという応答の中で、人は人として育てられていくのではないでしょうか。
わたしたちが努力して、がんばってではなくて、神と出会い、神と向き合って、いえ、神が出会ってくださり、向き合ってくださって、初めて人として育てられていく。それが、人間の本来のあるべき姿であり、それが信仰の歩みだと言わなければなりません。
■罪あるままに
事実、ここには「神と共に歩み」とあるだけで、エノクが地上で何をしたのか、何も書かれていません。どういう仕事をしたとか、どういう業績を残したということも書かれません。どういう人間であって、人々にどういう感化を与えたか、どんな立派な影響を人々に与えたか、そういうことも一切書かれません。 どういう人生を彼が歩いたのか、何もわかりません。
ただ一つ言えることは、彼が神と一緒に歩いた、ということだけです。それだけが、彼の人生について言えることです。だから、ひょっとしたら彼は仕事に失敗したことがあるかもしれません。挫折を何度も経験したかもしれません。いえきっと失敗も挫折もしたでしょう。正しいこともしたかもしれないけれども、罪を犯したかもしれません。それが人間です。エノクも普通の人間だった、弱さや限界を持った一人の人間であったと思います。
しかし、そういう人間が、そういう人間として、神と一緒に歩んだのです。神と共に歩むことによってだけ、彼の人生というものは成り立っていたのです。人は、こんなことをして、こういう業績も残して、というかたちで人生が成り立つのではありません。彼が、神と一緒に歩いたということによって、彼の人生に意味が生まれ、彼の人生すべてが意味あるものとして成り立つのです。
そういう意味で、わたしたち人間が、自分の力で自分の人生を成り立たせることはできません。これだけのことをしたから、自分の人生は成り立っている、なんてことにはならないのです。弱く、小さく、欠け多い人間が、神と共に歩く、神と一緒に歩いたところに、人の生かされ生きる道ができるのです。
■神の御手に取られて
そして最後に、「神が取られたのでいなくなった」と記されます。
彼の歩いた道が残りました。彼は自分の足で歩いて、どこかへ行ったというのではありません。苦労して、やっとこさこの道を拓いて、そしてどこかに到達したという話ではありません。
神の方から手を伸ばして、そして彼を取られたのです。
神が主人公です。エノクはその神と共に歩きました。神を礼拝し、神に祈りながら、彼は歩きました。弱い人間だったから、顔を上げて、神に声をあげ、泣くようにして呼び求めながら、彼は生きたことでしょう。そうやって、彼は一所懸命、神の手を握りしめて生きたのです。がしかし、その握りしめていたエノクの手を、神の手がつかむのです。エノクが神を必死でつかんでいるつもりが、実は、神の力が彼を捕らえているのです。彼が一所懸命、神につかまっているつもりが、しかしその手はやがて衰えます。その彼の手は衰えますが、しかし神の方が彼をしっかりと捕らえるのです。そして引き上げるのです。自分が一所懸命、神に向かっていたつもりが、神の方が自分を捕らえていてくださる。それが「神と共に歩む」人の歩みです。
そして、そのことに気づかされ、受けとめることが信仰であり、わたしたちの救いというのは、そういうことです。わたしが一所懸命、神を信じて、一所懸命、神を握って生きているつもりがしかし、そのわたしの力もやがて衰えるでしょう。そのときにこそ、神の手が、わたしの手をしっかりつかんでいてくださっていることに、わたしたちは気づかされます。ああ、自分も救われているんだということを、わたしたちはそこで知ります。
この世界に現れた御子イエス・キリストによって、わたしたちはそんな神に出会わされ、捕らえられています。わたしたちの歩みはそれぞれに、いろいろな難しい問題をたくさん抱えています。しかし、神に叫びながら生きている、やっとこさ生きているようなこの歩みは、やがて神がわたしたちを捕らえて、ご自分のもとに引き寄せてくださる歩みなのだということを、わたしたちはしっかりと覚えていたいと思います。また、そのような一年であるようにと改めて祈り願いたいと思います。