小倉日明教会

『弱さを隠せない』

コリントの信徒への手紙二 11章 21~29節

2024年 5月 12日 復活節第7主日礼拝

コリントの信徒への手紙二 11章 21~29節

『弱さを隠せない』

【説教】 沖村 裕史 牧師

■弱さ

 パウロは、自分の心配事、悩み、そして弱さを切々と語り始めます。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」と。この後も縷々(るる)、自分の弱さを曝け出し、こう締めくくります。「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」(二三b~二八)。

 三〇歳代の前半、YMCAで若さのままに働いていた頃のこと、この言葉を読みながら思わず、うーんと腕を組んでしまったことがあります。もう少しシャキッとしないと、周囲の人々も困るのではないかと思ったからです。ある人から言われたことがあります。「リーダーの立場にいるのなら、弱みを見せないで欲しい。みんなが辛く、不安なときにこそ、元気な姿で周囲を強く引っ張って欲しい」。なるほどその通りだと思っていました。わたしもまた、「ああ大変だ、悲しい」とつぶやき、弱さを隠せない人を見ると、もうちょっとしっかりしろよ、と叱咤していました。一六節に「わたしを愚か者と見なすがよい」と開き直ったように語るパウロを見ると、わたしは自分の弱さを棚に上げて、思わず「パウロよ、少しは口を慎みなさい」と偉そうに言いたくなります。パウロの弱々しい言葉に、イラついていたのでした。

 そればかりかパウロは、エフェソの信徒にこんな言葉を書き送っています。「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」(六・一九~二〇)。コロサイの信徒にも、「わたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように」(四・三)と書き送ります。パウロはしきりに、「祈ってください」と頼みます。わたしのために祈ってください…祈ってください…何とも頼りにならない、指導者としては実に恥ずかしい言葉ではないでしょうか。

 こんな言葉を真実、心の底から言うためには、人は自分の弱さを、欠けを、包み隠さず相手に伝えなければなりません。誰が好んで、人前で自分の痛みを曝(さら)せるでしょうか。パウロの痛みは、神がよくご存じなのですから、自分の胸の内に密かにしまっておけばよいではないか。弱さとは本来、一人ひとりの秘め事ではないのか、と思います。

 それだけではありません。残念なことですが、この世は実に凶暴な場所です。下手に「これこれについて祈ってください」などと、自分の弱さや罪を公表でもすれば、それを悪用する人もいるでしょう。わたしの心の闇を聞いた人が、わたしの弱みを握るかもしれません。利用され、笑われ、嫌われるかもしれません。

 だからこそ誰もが、他人(ひと)のことは祈れても、自分のことを他人に「祈ってください」とは、そう簡単には言えないものです。それなのに、パウロは自分の弱さをあからさまに曝け出し、自分自身を他人に知らせることを、なぜか全く恐れません。パウロは呟きます。「わたしにはこういう悩みがある。だからわたしのために祈ってほしい」と。

 この手紙の一〇章一節に、「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロ…」とあるように、こんなお腹の中のすべてを曝け出す人は、周囲の老獪(ろうかい)な人々から利用され、その「弱腰」を嘲笑されていたに違いありません。それなのに、それでもなおフィリピの信徒に向かって、彼は叫びます。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(一・一八)。なんということ、なんという愚かさでしょうか。

■信頼

 しかし考えてみると、パウロが曝け出すそんな「弱さ」を嘲笑(あざわら)う「強さ」とは、いったい何なのでしょうか。彼の「弱さ」を蔑(さげす)むわたしの「強さ」とは、果たしてどれほどのものなのでしょうか。

 最初の教会に招かれて三年が経った頃、一人の牧師から、彼の教会のことで相談を受けました。数時間話し合ったその別れ際、彼はわたしにこう告げました。「わたしのために祈ってくれませんか。」驚きました。実を言えば、いつもは堂々として尊敬されている彼が、そんな言葉を口にするなどとは、夢にも思わなかったからです。彼が憐れみを乞うようにして、「わたしのために祈ってほしい」と言い出したとき、戸惑いました。彼は、自分の弱さを、ありのままの姿を、わたしの手に子どものように委ねたのです。わたしが彼の痛みを悪用するかもしれないのに…。どうして?…そう、彼はわたしを信頼してくれていたのです。嘲笑(ちょうしょう)されることも覚悟の上で、わたしに身を委ねたのです。

 では、このわたしはどうでしょうか。自分の弱さを並べ上げ、このわたしのために祈ってくださいと言えるでしょうか。たぶん、言えないでしょう。なぜなら、わたしは本当の所、誰も信頼していないからです。どうもこれが、わたしの言うところの「強さ」のようです。

 「強さ」とは、他人を信じられない、他者への不信から生まれるもののようです。相手に自分の弱さを見せたら、相手から攻撃を受けかねないという不安が、「弱さ」を冷たく批判する「強さ」を生み出している気がします。もちろん、無条件に自分の弱さや痛みを曝すことは、危険なことです。その弱さや痛みを悪用する人がいるのは、紛れもない事実だからです。

 しかし、人生の歩みの中、人と人が共に生きるためには、この不信を乗り越える大きな一歩がどうしても必要になってきます。リスクを覚悟した、徹底した他者への信頼が必要になってきます。自分の弱みを示しつつ、「わたしのために祈ってください」と語る、大きな跳躍が、飛躍が求められます。

■弱さを隠せない神

 もともと、パウロは強い人間でした。決して弱みを見せない人間でした。それどころか、十字架で死んだイエスを信じる集団、つまりクリスチャンの弱々しさに苛立ってしようがない、極めて、不敵な男であったことが、使徒言行録にこう記されています。

 「さて、サウロ[ことパウロ]はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(九・一~二)

 恐ろしいほどです。この文面から想像するに、ユダヤ教のエリートとしてクリスチャンに激しい弾圧を加えていた昔のパウロは、「わたしのために祈ってください」などと弱々しいことを言う人間ではなかったはずです。ところが、そんな彼がイエスさまと巡り合い、弱々しい人間に変えられました。不信の塊のような人間が、その不信を乗り越える大きな一歩を踏み出しました。自分の内面を一切語らなかっただろう彼が、繰り返し「わたしのために祈ってください」と恥ずかしげもなく懇願する、大きな飛躍、跳躍を示し始めます。

 それは、決して不思議なことではありません。イエスさまご自身がそういうお方だったからです。パウロの出会った「神」ご自身が、そういうお方だったのです。それは、パウロが今まで見たこともない、自らの弱さを隠せない、恥ずかしい神でした。マルコによる福音書一四章三三節以下の言葉です。

 「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか」(一四・三三~三七)

 イエスさまは十字架で殺される直前、弟子たちを引き連れて祈ろうとされましたが、その時、自分の恐れ、悲しみ、弱さを一切隠そうとはされませんでした。それどころか、弟子たちに向かい、わたしの傍(そば)にいてほしいと願われました。それは、わたしのために一緒に祈ってほしい、ということです。これは、弟子たちを心から信頼しなければ、決して生まれない願いです。

 しかしこの信頼に弟子たちは応えられず、眠ってしまいました。もしもわたしがイエスさまの立場だったら、間違いなくわたしは深く傷つくことでしょう。自分の痛みを何とも軽々しく取り扱われたことを悲しむでしょう。そして弟子たちを二度と信頼しなくなるでしょう。

 ところがイエスさまは、この後も何度も、一緒に祈ってくれるようにと弟子たちに願います。しかし信頼しては裏切られ、「祈ってほしい」と言っては眠られ、十字架にかかる以前に、すでに心はズタズタに引き裂かれます。そう、弟子たちが信頼に足るかどうかと吟味することなく、まるで信頼することそれ自体に意味があるかのように、十字架への道を歩み、生き抜かれました。

 そんなイエスさまに、パウロは完全に捕えられたのです。

 パウロは知ったのでしょう。このイエスさまの、変わることのない信頼、それこそが本物の強さなのだ、と。裏切られ、嘲けられ、利用されながらも、「わたしのために祈ってください」と言い続けられる、愚かなまでの弱さこそが、実は一番まっとうな生き方なのだ、と。

 強さとは、弱さを押し殺して、強さを演じることではありません。弱さを毛嫌いすることでもありません。ましてや、心の中の本当の思いを隠しつつ、不敵な笑みを浮かべることでもありません。

 それは、弱さを、つまり自分のありのままを曝け出しつつ、他人を一筋に信頼していく営みなのです。パウロは、この自らの弱さを隠せないイエスさまを通して、真実な、決定的な強さを、生きることのすべてを見いだしたのでしょう。だからこそ、彼は大胆に「わたしは弱いときにこそ、強い」(Ⅰコリ二・一〇)と言い切ることができたのでした。 弱さを示すことを、もはや恐れない。弱さを隠さないと生きていけないと信じて、強いふりをするわたしたちに、自分を晒しては誰かに傷つけられ、もう同じことは繰り返したくないと思っているわたしたちに、この弱さを隠せぬ人は、荒々しく、今日も迫ってきます。人を信頼することを、何よりも神を信じることを。