小倉日明教会

『恐れるな、聖霊が教えてくださる』

ルカによる福音書 12章 1〜12節

2023年 8月 6日 聖霊降臨節第11主日礼拝

ルカによる福音書 12章 1〜12節

『恐れるな、聖霊が教えてくださる』

【奨励】 川辺 正直 役員

墓碑銘

 おはようございます。さて、アメリカの最も著名な福音伝道者にビリー・グラハムという方がおられます。20世紀中ごろのリバイバル運動聖霊運動の主力となった一人です。今まで生きた誰よりも多く世界中の人々に福音を語ったといわれており、生涯に2億人以上の人々にキリストを述べ伝えたと言われています。そのビリー・グラハムには、ルース・グラハムさんというお連れ合いがおられました。そのルース・グラハムさんが、自分のお墓に刻んで欲しいと願った言葉があります。それは、ビリー・グラハムと一緒に自動車に乗っていたときのことでした。道路が突然、工事区間に入ったのでした。工事区間に入りますと、片側通行の区間があり、徐行運転の区間があり、迂回しなくてはならない箇所があり、その工事区間は珍しく長く続いていたのです。しかも、その工事区間は断続的に、繰り返し続いているので、車は渋滞して、なかなか進めなかったそうです。ところが、いつまで続くのかと思われた工事区間が終了した途端に、きれいな舗装区間が現れて、車がスーッと静かに、流れるように走るようになったのです。それで、ふと、横を見ますと、「工事区間終了。ご忍耐ありがとうございました。」と書いてあったそうです。

 それを見て、ルース・グラハムさんは、私のお墓にはこれを刻んでねと頼んだのだそうです。そして、ルース・グラハムさんのお墓には、彼女の願い通りに、「工事区間終了。ご忍耐ありがとうございました。」という言葉が刻まれているそうです。神様の工事は、今もなお続いていると思います。本日の聖書の箇所を通して、思い通りに行かない現実の中で、キリスト者はどのように生きるべきかということについて、皆さんと共に学びたいと思います。

群衆が集まって来て

 ルカによる福音書9章51節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅という大きな枠組みの中で、様々な機会を捉えて、主イエスが弟子たちに語った教えが語られています。そして、前回取り上げた聖書の箇所では、律法学者やファリサイ派の人々の主イエスに対する敵意が高まって行ったということをお話しました。つまり、主イエスに対する拒否が、現実のものとなったのです。主イエスが迫害を受けるということは、主イエスを信じる者たちも同じ迫害を受けるということです。そこで、主イエスは拒否という現実がある中で、弟子としていかに生きるべきかを教えられるのです。つまり、主イエスはユダヤの宗教的な指導者たちとの対立が明らかになったことで、弟子たちが受ける迫害について予見されているのです。そして、弟子たちに予め教えておられるのです。そして、このことは同時に、すべてのキリスト者にも語られている真実だと思います。現代に生きる私たちも、主イエスに従った弟子たちと同様に、霊的な戦いの中に立たされているのだと思います。キリスト者になる前には、考えもしなかった課題を経験するようになるのです。従って、キリスト者になれば問題はすべて解決するというようなことはないのです。聖書を忠実に読むならば、苦難の意味や苦難の現実について学ぶことがとても大切なことであるかが分かるのだと思います。主イエスは、苦難の現実の中で苦しむキリスト者に、「恐れるな!」と、励まして下さるお方なのです。

 さて、本日の聖書の箇所を含むルカによる福音書12章1節〜13章17節は、一つの大きなブロックなのです。このブロックは、前のブロックで明らかになった、主イエスと主イエスが語る福音に対する拒否という現実の中で、弟子としていかに生きるべきかを教える、連続したメッセージなのです。この世から歓迎されるわけではない、その中でいかに生きるべきかが語られるのです。そして、このブロックの最後に出てくる腰の曲がった婦人の病の癒しは、主イエスの教えの信頼性を保証するしるしとなっているのです。

 ファリサイ派の人々のパン種

 本日の聖書の箇所の12章1節には、『とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。』と記されています。『数えきれないほどの群衆が』とありますが、夥しいほどの数の群衆が集まって来て周りを取り囲んでいる、その中に、主イエスと弟子たちは置かれているのです。1節が語っていることがもう一つあります。それは『イエスは、まず弟子たちに話し始められた』ということです。この後語られていく主イエスのお言葉は、弟子たちに向けて語られたものです。多くの群衆が集まって来ていましたが、主イエスはその群衆たちにではなく、先ず弟子たちに向かって語られたのです。「先ず」というのは、この後群衆たちにも語っていかれるからで、それは12章54節以下です。53節までは、原則として、群衆にではなく弟子たちに対するお言葉なのです。しかし、そのお言葉を聞いている弟子たちは、おびただしい群衆に囲まれ、注目されている、そういう状況をルカは意図的に描いているのです。そして、このような状況の中で、主イエスが弟子たちに語られたのは「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」ということでした。ここに、前回お話しました11章37節以下の主イエスのファリサイ派への厳しい批判とのつながりが現れています。主イエスはファリサイ派の人々のパン種を取り上げて、偽善の危険性を警告しているのです。

 ファリサイ派の人々のパン種とは、何なのでしょうか?今の私たちはイーストとか酵母とか言っていますが、パンを焼くときに、小麦粉に醗酵を促すものを入れて、醗酵して大きく膨らむようになるのです。主イエスの時代は、小麦粉を醗酵させるときに、前の日の醗酵させた生地を少量取っておいて、その取っておいた生地を混ぜて、醗酵させていたのです。その少量取っておいた前の日の醗酵させた生地をパン種と呼んでいたのです。本日の聖書の箇所では、このパン種が比喩的に用いられたときには、パン種は、生地全体に影響を及ぼすということで、「悪影響を与えるもの」という意味になります。主イエスの時代のユダヤの人々にとって、このことはすぐに理解できることであったのです。

 マタイによる福音書16章6節にも、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」という主イエスの言葉がありますが、この場合にはファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことを言っているのです。ルカによる福音書では、パン種というのは、ファリサイ派の人々の偽善のことです。従って、同じパン種という言葉が、違った意味で使われていることが分かります。偽善というのは、何のことでしょうか。それは、内面が邪悪なのですが、外見の敬虔そうに見える行為で隠していること、これが偽善なのです。さらに、4節以下につながる教えとして読むとしたら、偽善という言葉は、体を殺すことしかできない人間を恐れてしまうことです。迫害する者たちを恐れ、殺されることを恐れて、自分の信仰を隠してしまうことです。内側にある信仰を隠して、信仰者ではないかのように外面を取り繕ってしまうことです。言い換えれば、信仰を自分の内面のみの事柄にしてしまい、それを外に現し、証ししようとせずに隠してしまうことです。主イエスがここで「偽善」と呼んでおられるのはそのことなのです。つまりファリサイ派の人々は内側の汚れを隠して外側をきれいにするという偽善に陥っていましたが、弟子たちは、内側の信仰を外に現さず隠して、信仰者ではないように振舞ってしまうという偽善に陥る危機の中にあるのです。

 次に、2節〜3節では、『覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。』とあります。主イエスがここでおっしゃられていることは、偽善で今は隠されていることは、やがて明らかにされるということです。しかし、「悪事千里を走る」とか「天網恢々疎にして漏らさず」というような諺はありますが、人の世では、必ずしもそうではないということを私たちは知っています。現実の世界では、悪人が悪を行ったことを知られずに、そのまま逃げ切ってしまうこともあると思います。しかし、主イエスは人間世界での経験のことを言っているのではないのです。主イエスは、全知全能の神様がおられることを前提に、この聖書の箇所を語っておられるのです。つまり、神様の前に立ったときに、すべてのものが明るみに出されるということなのです。キリスト者の希望は、神様がすべてをご存知だという点にあります。これは、理不尽な扱いを受けている人たち、迫害に遭っている人たち、誤解されている人たちにとっては、慰めになります。人から何を言われようとも、社会からどのような扱いを受けようとも、キリスト者の希望は神様がすべてを知っておられる、やがてそのことが明らかになるというところにあるのです。主イエスは、弟子たちにその希望について語っておられるのです。

 主イエスが弟子たちに語られる励ましの内容として、『あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。』とありますが、これは迫害の故に隠れて行う福音伝道が、公然とできるようになるという約束が与えられるということを比喩的に表しているのです。この約束は、聖霊降臨以降に成就するのです。さて、聖霊降臨以降に何が起きたのでしょうか。ユダヤ人が主イエスを拒否します。そして、主イエスが十字架上で死に、復活し、昇天します。その後、神様の約束として与えられていた、聖霊が降臨します。弟子たちは、聖霊の力によって、福音伝道ができるようになるのです。ですから、主イエスはここで公然と福音伝道が可能になるという約束を与えられているのです。ルカの視点からすれば、それは使徒言行録で起こる内容の予告でもあるのです。ルカは使徒言行録を執筆することを既に構想しているのです。その内容が予めここで予告しているのです。今は、迫害のゆえに活動が十分にはできないけれど、やがてできるようになるから、神様を信頼しなさいと、主イエスは励まされているのです。

本当に恐れるべき方

 次に、今日の聖書の箇所の4〜5節には、『友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。』とあります。

 主イエスは、弟子たちのことをここで、『友人であるあなたがた』と呼んでおられます。主イエスの友というのは、苦難の時こそ、その本質が出てくる人たちのことです。試練の中でも、恐れなく信仰を告白する者たちのことです。主イエスの友と呼ばれる人たちは、肉体の死さえも恐れない人たちのことなのです。主イエスはここで弟子たちのことを友と呼び、彼らが忠実な福音の使者となることを認めておられるのです。マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書の3福音書を共観福音書と呼びますが、その中で、主イエスが弟子たちを友と呼んでいるのは、実にルカ福音書のここだけなのです。友は苦難を共にし、同じ目的のために、労する人たちのことなのです。主イエスは迫害に遭います。弟子たちも迫害に遭います。しかし、主イエスの弟子は、迫害する者を恐れるのではなくて、神様を恐れる人たちです。神様を恐れるということはどういうことでしょうか?

 『体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども』とは、私たちがこの世で出会い、恐れる人間たちのことです。その人間たちによって、体が殺されてしまうかもしれない、そういう恐れの中に私たちはあります。主イエスはそのような現実があることをはっきりとお語りになります。体は殺されてしまうかもしれない。そのような現実はあるかもしれないというのです。しかし、主イエスは「その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とおっしゃるのです。人間は体を殺すことができるかもしれないが、それ以上は何もできないのです。しかし、神様の力は、体のみではなく、魂にまで及ぶのだ、ということです。その場合の魂とは、私たちの一番中心の本質の部分を指していると思います。人間の力はそこにまでは及びません。しかし、神様の力はそこに及ぶのです。それなら、本当に恐れるべきなのはどちらか、それがここでの問いです。本当に恐れるべきなのは、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方なのです。そして、地獄というのは、永遠の苦しみの場所なのです。

 ところが私たちは、その本当に恐れなければならない方を恐れずに、人間ばかりを恐れているのではないか。つまり私たちは、恐れる相手を間違えているのではないか。本当に恐れるべき方を見つめよ、それがここで主イエスがお語りになっておられることなのです。

恐れるな

 その文脈の中で、出てくるのが『五羽の雀』の話なのです。6〜7節には、『五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。』とあります。これは、小から大という、典型的なラビ的な議論となっています。価値のない雀のような小さいものでも、神様は見守っておられるのだから、それ以上に重要なあなた方のことを神様が心配しておられない筈はないというのが、この小から大という議論なのです。神様は、雀のようなものさえも覚えておられるのですが、その雀の価値はどれ位と言っているのでしょうか?雀は5羽が2アサリオンで売られているというのです。雀は何のために売られているのでしょうか?当時は、雀は貧しい人たちが食べる、貴重なタンパク源であったのです。安い食べ物であったのです。雀を食べたことがありますでしょうか。焼き鳥屋で、雀を食べたことがありますが、肉を食べるというよりは、骨をしゃぶるというくらい、肉はちょっとしかついていない食べ物です。5羽で、2アサリオンで売っていたのです。アサリオンというのは、ローマの貨幣の単位なのです。16分の1デナリに相当したと言われています。1デナリというのは、労働者の1日分の賃金なのです。その16分の1が、1アサリオンなのです。マタイによる福音書10章29節では、2羽の雀が1アサリオンで売られていたことが書かれています。つまり、雀を売るときは、2羽で売るのが最小単位なのです。2羽で、1アサリオンで、5羽で2アサリオンです。ということは、2アサリオン出すと、1羽がおまけでついて来るということです。そういう、取るに足りない、価値の低い雀なのですが、神様は雀のことを覚えておられるのです。それならば、ましてや神様が弟子たちのことを覚えておられるのは当然のことであるというのです。

 さらに、7節では、『それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。』という励ましの言葉が語られています。神様のお許しがなければ、髪の毛1本、地に落ちることはないのです。だから、恐れなくてもいいのだよ、あなた方はたくさんの雀よりもはるかに価値があるのだからと主イエスはおっしゃられるのです。5羽の雀が2アサリオンで売られているという議論は、迫害する者を恐れなくてもいいという理由になっているのです。父なる神様は、子どもを見守る父親の愛と同じように、あなた方を見守って下さると、主イエスはおっしゃって下さったのです。

同じ言葉を語る

 本日の聖書の箇所の8、9節には、『言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。』とあります。ここで、主イエスは、人々を恐れることなく、その前で、自分をわたしの仲間であると言い表しなさい、と語られているのです。「わたしの仲間であると言い表す」という言葉ですが、これのもとの言葉は、「同じ言葉を語る」という意味です。相手と同じ言葉を語る、それはその人の語ることに同意し、自分も同じ思いであると言い表すこと、つまり仲間であると言い表すことです。この言葉は、しかし、人間どうしの関係においてよりも、神様や主イエスとの関係において用いられていきました。父なる神様や主イエスのみ言葉に同意し、それを信じ受け入れることを表明する時に、この言葉が使われていたのです。その場合には、「告白する」と訳されることが普通です。「信仰告白」の「告白」です。信仰を言い表すことを「告白する」と言うわけですが、その「告白する」は「同じ言葉を語る」という意味の言葉から来ているのです。私たちの信仰告白は、自分が思いついたことや考えたこと、あるいは秘めた思いを語ることではなくて、代々の教会が信じ、言い表してきたその信仰の言葉を受け継ぎ、それと同じ言葉を語っていくこと、同じ信仰に生きていくことなのです。

 人々の前で主イエスへの信仰を告白し、主イエスの仲間、というより弟子であることを言い表すことが求められています。そうするならば、「人の子も天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」とあります。「人の子」というのは主イエスがご自分のことを言われる言葉です。私たちが主イエスへの信仰を人々の前で告白するなら、主イエスご自身が天で、私たちのことを、ご自分と同じ言葉を語る者、仲間、弟子であると言い表して下さるのです。しかし、もしも私たちが人々の前で主イエスを「知らない」と言うなら、つまり主イエスとの関係を否定し、拒むなら、主イエスも私たちのことを「知らない」と言うのです。ここに語られていることのポイントは、「人々の前で」主イエスと自分の関係をどう言い表すか、です。心の中では信じていて、イエス様のことを愛しているのだけれども、人々の前ではそれを表明できない、というのではやっぱりだめなのです。信仰は、心の中に隠し持っているだけでは本物にならないのであって、それを人々の前で言い表すことが必要なのです。主イエスの弟子となる者は、迫害に遭っても沈黙するべきではないのです。このことは、21世紀の今は、キリスト教史の中で、最も迫害が広がっている世紀だと言われています。しかし、そういう中でも、沈黙するべきではないと、主イエスは語るのです。使徒言行録の中では、弟子たちの勇気ある証言が何度も出てきます。弟子たちは、主イエスの教えを忠実に実行して、友と呼ばれるのにふさわしい行いをしたのです。

聖霊を冒涜するとは

 本日の聖書の箇所の10〜12節には、『人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。』とあります。10節の「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」とある言葉は謎のような言葉です。赦されない罪がある、と語られているのです。それでこの言葉は私たちを不安にします。ひょっとして私は、「赦されない罪」を知らないうちに犯してしまっているのではないだろうか、そうしたらもう赦されることはなく、救われることもないのではないか、という不安を感じてしまうのです。

 許される罪は何なのでしょうか?『人の子の悪口を言う者は皆赦される。』とあります。つまち、主イエスのメシア性を否定しても、主イエスを信じなくても、真に悔い改めるならば、その人は救われるというのです。その代表的な人はパウロです。パウロは主イエスを信じる者を迫害していたのです。しかし、主イエスをメシアとして信じた結果、彼は赦されたのです。

 しかし、赦されない罪があると言うのです。「赦されない」と言われているのは、「聖霊を冒涜する者」です。それはどういうことなのでしょうか。これは、前々回にベルゼブル論争を取り上げましたが、ベルゼブル論争で、主イエスがサタンの力によって、悪霊を追い出していると、ユダヤ人たちは言いました。しかし、主イエスは聖霊の力によって、悪霊を追い出していたのです。そのことを認めないで、悪魔の力で追い出したと言った、それが聖霊を冒涜するという赦されない罪の内容なのです。この罪は、ユダヤ人の歴史の分水嶺となったのです。この罪を犯して以降、ユダヤ人はエルサレムの崩壊に向かい、世界離散への道を歩むようになるのです。このため、メシア的王国の成就は先に延ばされたのです。今でもユダヤ人たちは、その裁きの影響を受けているのです。この赦されない罪というのは、主イエスと同時代のユダヤ人だけが犯すことのできる罪なのです。聖書は、この罪以外ならどんな罪でも赦されると教えているのです。

 次に、主イエスは、弟子たちの苦難を予見しておられます。弟子たちは、やがてユダヤ人の指導者や権力者たちの前で証言するようになるというのです。そのことを今から心配する必要はないというのです。言うべきことは、そのときに聖霊が教えて下さると言うのです。ここで、聖霊の2面性が表されています。一つは、聖霊に対する冒涜は赦されないという側面と、聖霊に信頼するならば弁明の言葉が与えられるという側面です。これは、審問を受けた時、迫害を受けたときに、与えられる弁明の言葉です。極限的な状況の中で、与えられる聖霊の言葉です。それは信仰のゆえに迫害を受け、逮捕され、裁判を受けるという状況を意識しています。そういうせっぱつまった場に立たされた時に、聖霊は私たちに、信仰の言葉、信仰を言い表す言葉を与えて下さるというのです。ルカは聖霊のそのような働きを強調しています。そのことはこの福音書の続きとして書かれた使徒言行録において特に顕著です。その2章に、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生したことが語られていますが、その時弟子たちは、聖霊によって、主イエスによる救いを語る新しい言葉を与えられたのです。使徒言行録には、この聖霊の働きによって伝道が進み、各地に教会が生まれていった様子が語られています。その聖霊が、今に至るまで働いて下さっているのです。教会の二千年の歴史は、聖霊が信仰の言葉を与え続けて下さった歴史であると言うことができると思います。

 それでは、聖霊によって与えられる恐れなき信仰の言葉は、現代という歴史の中で見出すことはできるのでしょうか。

恐れなき信仰

 戦前、戦中、戦後の日本の中で、多くの働きをしたイギリス人宣教師にドロシー・エレン・ホーア先生という方がおられます。ホーア先生は、1893年にイギリスで生まれます。そして、1919年、26歳のときに、女性の宣教師として日本に派遣されて、来られました。そして、東京におられたこともありますが、関西を中心に、宣教活動を行われた先生です。ホーア先生は実に活動的な先生で、戦前に教会学校を20校、開設しましました。しかし、昭和12年頃から、特に日英関係が悪化しました。それは、日本が中国に侵入して行ったのと歩調を合わせるが如くでした。ホーア先生の奉仕にも、その影はだんだん現れるようになりました。右翼の言動に、簡単に動かされる人が多かった時代ですから、人々の英国人婦人宣教師に対する態度もガラッと変化して行きました。それは、教会活動に対する冷たい批判として、現れてきました。ホーア先生が子どもたちを訪ねてゆくと、子どもたちが逃げるようになりました。道で遭って、ホーア先生が挨拶の言葉をかけても、彼らは顔を背けるのです。あんなに喜んで来た、あんなに親しげに語り合った子どもたちなのに、もはや子どもたちは教会学校に来なくなりました。ある時のこと、小学校の教師たちが引率する百人近い生徒が、ホーア先生のお宅の前を通りかかって、どこかに行ったことがありました。その中には、かつてホーア先生が開いていた教会学校に通っていた生徒が十数人いました。ところが、これらの生徒が口を揃えて、ホーア先生の悪口を言いながら、家の前を通るのです。ホーア先生を悪く言いながらです。先生は何も言わずに、静かに彼らを窓から見送っていました。その時、ホーア先生は悔しかった以上に、悲しかったと思います。

 ホーア先生は、戦時下にあって、最後に日本を去った宣教師の一人でした。しかも、英国に帰り着いた途端に、英国に帰ったのは間違いであったと感じたそうです。それで、翌日、外務省へ行って日本へ返してくれといって笑われたということを語っておられたそうです。従って、終戦後、渡日の途が開かれるや、ホーア先生は1945年に、第一便で日本に再び帰って来られたのです。それ以来、1950年に57歳で亡くなられるまで、ホーア先生の活躍は実に目覚しいものがあったそうです。聖会に、諸教会内の特集に、婦人会に、伝道会に、児童会に、特殊講演会に、学校に、工場に、果ては、PTAの講演にと、東奔西走、しかも行くとして可ならざるなき、奉仕振りであったそうです。「時には周囲の人もついて行けないばかりか、師の肉体さえもついて行けないほど」の勢いであったそうです。ホーア先生の働きを見るときに、恐れることなく、聖霊によって与えられる言葉を語り続けた信仰者の姿を見ることができると思います。

 私たちはどうしたら、天の父なる神様の愛を知り、その下で生きるようになるでしょうか。それは主イエス・キリストの弟子として生きることを通してです。主イエスを信じ、その信仰を人々の前で言い表し、主イエスに従い、また主イエスによって遣わされていくことの中でこそ、聖霊によって与えられる主の御言葉を聞くことができるのです。神様の恵みを受ける時、私たちの歩みは全ての苦しみも、悲しみも、不安からも解放されるということではありません。主イエスに遣わされて歩む私たちは、「わたしの名のために、すべての人に憎まれる」という苦しみを受けることもあります。伝道の使命を与えられて、恐れや不安がなくなるということはあり得ません。魂を殺すことはできない人間たちによって、体は殺されてしまうことも起るのです。そういう様々な苦しみを私たちも味わうことになると聖書は語っています。信仰者の歩みはそのような苦難に満ちていると思います。主イエスを救い主と信じ、人々の前で言い表す歩みは決して容易な道ではありません。キリスト者の存在そのものが人々の躓きとなる場合もあります。主の御言葉を伝える伝道の歩みには恐れはつきものです。しかし、恐れのあるところにこそ、宣教の課題があるのです。主イエスは私たちを選び、今日も共に礼拝を守ることを許されました。私たちが遣わされるのは、私たちそれぞれが置かれた場においてです。それが伝道の必要なところなのです。私たちがどうしても、恐れを覚え、不安な思いでいっぱいになるところです。主イエスの派遣の言葉を前にして、私たちは恐れを覚えずにはおられません。しかし、主イエスは「恐れるな」と私たちを励まされるのです。主の励ましに支えられ、主に遣わされ、今週一週間の旅路へと歩み出したいと思います。  

 それでは、お祈り致します。