小倉日明教会

『放蕩息子の帰還』

ルカによる福音書 15章 11〜32節

2024年 3月 3日 受難節第3主日礼拝

ルカによる福音書 15章 11〜32節

『放蕩息子の帰還』

【奨励】 川辺 正直 役員

■同時多発テロの際の特別貨物便

 おはようございます。2001年9月11日に、ニューヨークの世界貿易センターのツインビルに、ハイジャックされた旅客機が突っ込むことによって崩落し、日本人を含む2,977人の方が亡くなられた911事件あるいは同時多発テロと言われている事件が起きました。

 この事件が起きた時、アメリカ政府はアメリカを離発着する予定の全ての航空機をストップさせたのです。アメリカに向かっている航空機も、アメリカを飛び立とうとしている航空機も、全部キャンセルさせたのです。アメリカ本土の上を、ただの一機も飛ばないようにしたのです。それは、どの航空機がテロの道具になっているのか分からなかったからです。

 ところが、このような切迫した状況の中でたった一機だけ例外があったのです。アメリカの本土からオーストラリアに向かう特別貨物便があったのです。この航空機にはナイリクタイパンという名前の毒蛇の血清剤が積まれていたのです。このナイリクタイパンという毒蛇は世界一強力な猛毒を出す蛇なのです。その毒は、ブラックコブラの50倍、日本マムシの800倍の毒にも達し、1度に成人男性100人を殺傷する威力の毒を持っていると言われている毒蛇なのです。この毒蛇に噛まれた人がオーストラリアにいたのです。彼を救う手立てはたった一つ、毒を打ち消す血清注射を打つことだけでした。ことは一刻を争ったのです。アメリカ政府は、今しか救うチャンスがないために、特別許可を出して例外的にこの特別貨物便の離陸を認めたのです。

 神様が人間になるというのは例外中の例外のことだと思います。普通ではない救済方法ですね。なぜそのような普通では考えられないことを神様はなさったのでしょうか。これ以外に罪人を救う道がなかったからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)という言葉の通りだと思います。

 前回より取り上げておりますルカによる福音書の15章は、見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、そして放蕩息子のたとえという、よく知られた3つのたとえ話が収められています。その中でも、本日、取り上げます放蕩息子のたとえ話は、普通では考えられない神様のあり方を示す例話として語られてきた、聖書の中で最も有名なたとえ話だと思います。そして、私たちは、多くの場合、ここだけを切り取って、このたとえ話だけについてのメッセージを聞いてきたのではないでしょうか。しかし、私たちは、ルカによる福音書を連続して読んで来る中で、今日の聖書の箇所にさしかかっているわけですから、ルカによる福音書の文脈の中で、この箇所を読んだらどうなるのかということを考えながら、読んでいきたいと思います。

■ある人に息子が二人いた

 さて、現在、読んでおりますルカによる福音書に於きまして、主イエスとファリサイ派の人々との間で、誰が神の国に入れるのかというテーマで対話が続いています。その中で、今日の15章の放蕩息子のたとえ話があるわけですが、ここで私たちが意識しておかなくてはいけないのは、主イエスはこのたとえ話を誰に向かって語られたのかということです。15章の1節〜2節を読んでみますと、『徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。』と書かれています。従って、主イエスの話を聞いているのは、ファリサイ派の人々と律法学者たちであることが分かります。そして、その周りに徴税人や罪人と言われている人々がいるのです。そして、主イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした、そのタイミングを捉えて、15章の3つのたとえ話を語られたのです。

 本日の聖書の箇所の15章の11節を見ますと、『また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。』と書かれています。ここで、15章の3つのたとえ話を理解する上で重要な、3つのたとえ話に共通した動詞が出てきています。4節では、『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、』とあります。そして、8節では、『「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、』とあります。これに対して、11節では、『ある人に息子が二人いた。』と書かれていますが、英語訳聖書では、『There was a man who had two sons』となっており、直訳すれば、『二人の息子を持つ男がいた』となり、15章の3つのたとえ話は全て、主体となる人が何かを持っているのです。全てギリシア語で『エコウ』という動詞が使われています。この『持つ』という意味の動詞は、自分の所有物だから好き勝手に扱っているという意味ではなくて、所有者が自己犠牲の上に、これを大切にしているという意味で使われる動詞なのです。

 従って、羊飼いは羊のことを命がけで守ろうとしているのです。女の人は、薄暗い家の中を隈なく探すほどに、無くなったドラクメ銀貨を求めているのです。そして、本日の聖書の箇所の父親は、いなくなった息子を大変悲しんでいるのです。そういう意味でここでの『持つ』という動詞が使われているのです。そのように考えて、もう一度、11節の、『また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。』と書かれているのを読むと、このたとえ話は、私たちが考えているような放蕩息子の立ち返りという感動的な話が中心テーマではないということが分かるかと思います。さらに、このたとえ話は、父なる神様の愛という話が中心テーマでもないのです。では、このたとえ話の中心テーマは何なのか。それを考えながら読むことが、この福音書の文脈に従って読むということかと思います。本日は、この父親から見て、2人の息子がどのように見えているのか、ということを考えながら読み進めて行きたいと思います。

■『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』

 本日の聖書の箇所の12節〜13節を見ますと、『弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。』と記されています。ユダヤの遺産相続はどのように行われるのかと言いますと、父親が年老いて財産の運用管理ができなくなった段階で、遺産を分割するのです。その場合、兄と弟の取り分が異なっているのです。兄が弟の2倍もらうのです。ところが、この聖書の箇所では、お父さんはまだ年老いていないのです。それは、20節で、『ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。』と書かれていますように、このお父さんが弟に走り寄っていることから分かります。

 さて、この弟の要求というのは、ユダヤの人々にとって、通常、考えられないようなものであったのです。弟の言っていることは、一言で言えば、「お父さん、早く死んでくれ」ということなのです。これは、現代の日本でも、このようなことを言う息子は、とんでみない息子だと思います。ましてや、親を敬うことが、十戒の中に定められているユダヤの文化の中で、息子が父にこんなことを言うというのは、極めて異常なことです。従って、ユダヤの社会では、このようなことを主張する息子は、死に値すると考えられたのです。

 申命記21章18節〜21節には、『ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、「わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。』と書かれています。申命記には、非常に厳格に書かれていることが分かります。つまり、契約の共同体に於いては、悪がはびこってはいけないのです。

 現代に生きる私たちの人間観というのは、厳しく罰しても、それで、人が罪を犯さなくなるわけではないということかと思います。例えば、死刑を実行しても、殺人犯がいなくなる訳ではないというのが、現代の一般的な議論かと思います。ところが、先ほどお読みしました聖書の中の申命記の人間観は違うのです。厳罰を持って対応するならば、それを見て人は恐れ、同じ罪は犯さなくなる。だから、神様が臨在される空間においては、悪はしっかりと除き去りなさいというのが、先程の申命記の人間観なのです。従って、旧約聖書の時代のモーセの律法の考え方によれば、このような息子は厳しく処罰されるべき存在なのです。しかし、このお父さんはどうしたのかと言いますと、息子の要求を飲んだのです。兄と弟の取り分は、2対1ですので、弟は財産の1/3、お兄さんは財産の2/3をもらったのです。この場合、財産というのは、ほとんどが土地です。そして、お父さんが死ぬまでは、土地を売ってはいけないのです。お父さんが生きている間は、土地から出てくる収穫物は全部お父さんのものになるというのが、当時のユダヤの慣習であったのです。

 しかし、この弟はそのようなことには構わずに、『全部を金に換えて、』とありますように、土地を売って、旅立ってしまったのです。とんでもない弟です。この話を聞いていた聴衆は誰かと言いますと、ファリサイ派の人々と律法学者たちであり、彼らはここまで話を聞いた時に、どう思ったかと言うと、この父親は馬鹿じゃないのと、軽蔑したことと思います。15章の3つのたとえ話は、全て主人公が軽蔑されているのです。最初の主人公が羊飼いであり、2番目が女、3番目が愚かなお父さんなのです。全ての話が、ファリサイ派の人々と律法学者たちに軽蔑されるところから、話が始まっているのです。従って、聞き手であるファリサイ派の人々と律法学者たちがどのように考えるのかということを考えながら、主イエスの話に耳を傾ける必要があるのです。弟がどこに行ったのかと言いますと、遠い国に旅立ったのです。この弟がこのように身軽に旅立つことができたということ、そして、弟の家族の話も出てこないことから、この弟は独身であったと思います。主イエスの時代、通常、親が許婚を用意していて、男性は18歳位、女性は16歳位で結婚していました。従って、独身であるということは、この弟は間違いなく18歳以下であったと言うことができると思います。

 そして、『遠い国に旅立ち』とありますが、遠い国というのがどこかということですが、これは物理的に遠いということではないのです。宗教的に、そして、文化的に遠い国ということです。つまり、ユダヤ人共同体から、去って行ったということなのです。この弟が去って行った先は、おそらく異邦人の町、デカポリスと呼ばれる町の一つであったと考えられます。人生経験に乏しい、人の心を読むことにも長けていない18歳の青年であったこの弟は、放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまったのです。

 主イエスの話をここまで聞いていたファリサイ派の人々や律法学者たちは、この話のポイントを理解していたと考えられます。彼らが理解していた、この話のポイントというのは、どういうものなのでしょうか。主イエスは、罪人と交わっているという理由で、彼らから非難されてきたのです。そして、罪人というのは、神様から遠く離れている人たちなので、堕落した生活で人生を浪費している人たちだと考えられていたのです。ですから、この息子が遠く離れた国に行って、浪費したというのは、まさにファリサイ派の人々と律法学者たちが考える罪人のパターンなのです。ところが、この弟とは対象的に、兄は父の元に留まり、堕落した生活から身を守ったのです。ですから、聴衆であるファリサイ派の人々と律法学者たちには、自分たちは父の元にいる兄のようだ、そして、罪人は弟のようだ、と考えていたと思います。

■豚の世話をする弟

 本日の聖書の箇所の14節〜16節を見てみますと、『何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。』とあります。

 何もかも使い果たしたときに、ひどい飢饉が襲ってきたのです。古代世界では、大飢饉が来るというのは、よくあったことなのです。人々は大変困るのです。この弟も大変困ったのです。しかし、英語では、「blessings in disguise」という言葉があります。これは、「変装している天の恵み」という意味の言葉なのです。目に見える出来事は、大変な不幸に見えるのだけれども、実はそれは祝福が姿を変えて近づいて来ているということを示しているのです。人生の中で、このようなことを経験されている方も沢山おられるのではないでしょうか。こんな不幸はありえないと思うのだけれど、何年か経って、振り返った時に、あのことが今の自分を作ったのだなあということが分かって来るということなのです。これは、神様の摂理でもあるのだと思います。今、大変な試練の中にいたとしても、神様の御手に委ねれば、「変装している天の恵み」である可能性が高いということを、私たちは覚えておきたいと思います。

 この弟は、放蕩の限りを尽くして、その結末がどうなったかと言いますと、生き延びるために、ユダヤ人であったのにもかかわらず、異邦人の元に身を寄せたのです。どうして、異邦人であることが分かるかと言いますと、豚を飼っていたということからです。10あったデカポリスと呼ばれる町の内、9つまでがガリラヤ湖の東にあったのですが、ガリラヤ湖の東岸では、豚が飼われていたのです。豚飼いというのは、ユダヤ人にとっては、最悪の職業です。従って、ユダヤ人の理解から見れば、豚飼いになったというのは、これ以上落ちぶれることのできない、底辺まで堕ちたということなのです。

 この弟が最後どうなったのかと言いますと、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたいほどになったのです。このことから、いくつかのことが明らかになります。1つは、彼はある人のところに身を寄せたのだけれど、不当に低い賃金しかもらっていなかったということです。お父さんのところとは違って、異邦人のところで働くときには、働いても、働いても、不当な賃金しかもらえないのです。2つ目のこの弟が、世間知らずであったということは、このことからも明らかです。この弟は、最低の労働条件の下で、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたいと思うほど、豚を羨ましいと考えていたと思います。豚を羨ましいと考える人生というのは、最低の人生であったと思います。

 さて、聴衆であるファリサイ派の人々や律法学者たちは、主イエスの話をここまで聞いて、どう思ったのでしょうか。彼らの理解では、主イエスのたとえ話はここで終わりです。どうしてかと言いますと、彼らは、罪人が当然の報いを受けているのだから、罪人は、罪人のままで罪の中に閉じ込められて、そのまま死んでゆくことを神様が喜ばれると考えていたからなのです。この弟は、ユダヤ人の共同体から切り離され、いかなる援助をも受ける資格も失ったのだから、こうなるのは当たり前だと考えられたのです。だから、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、悪いことをすれば、こうなるということを、私たちは常々言っているでしょ、私たちはそうではないでしょ、と言うのです。彼らにとっては、話はここまでで、もう議論の余地はないのです。

■我に返った弟

 ところが、主イエスの話は、ここで終わらないのです。というのは、ファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、都合の悪いことに、この弟が我に返ってしまうのです。自分の人生は、もう終わりだと思っても、我に返ったら、人生は続いて行くのです。17節〜20節aを見ますと、『そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。』とあります。最悪の状態で、この弟は目が覚めたのです。父の家と自分の状態を比較しているのです。父の家には雇い人が大勢いるのです。ここで言う、雇い人というのは、賃借りの奴隷の家の奴隷を賃金払って雇っているか、あるいは、奴隷から解放されたのだけれど、自由意志でこの家に仕えるという自由意志の奴隷です。雇い人が大勢いるというのは、裕福な家であることを示しています。父の家には、雇い人が大勢いて、食べるものもあり余っている。それに比べて、自分は息子なのに、飢え死にしそうだというのです。そこで、この弟は雇い人の1人にしてもらおうと考えるのです。このどん詰まった状況の中で、この弟は息子として受け入れてもらおうとは考えていないのです。そのようなことは、到底考えられない。ですから、雇い人の1人にしてもらっただけで、大変な恵みだと考えたのです。そして、お父さんに語る言葉を考えているのです。『わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』彼は、天という言葉を使っていますが、これは神様のことです。ユダヤ人は神様という言葉を口にしないので、『わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。』と言っているのです。弟は、このようにお父さんに詫びを入れて、雇い人の1人にしてもらおうと考えたのです。

 これに対して、聴衆であるファリサイ派の人々や律法学者たちがどう思ったのかということですが、とんでもないことだと思ったと、思います。彼らは、罪人は何も分かっていない、なんと思い上がっているのだろうかと、思ったと思います。これが、今日の聖書の箇所の弟の物語なのです。

■走り寄る父親

 ところがここから、ファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、予想外の展開になるのです。20節bを見ますと、『ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。』とあります。まだ遠く離れていたのに、見つけたとありますことから、父親は息子の帰りを待っていたことが分かります。しかも、父親は憐れに思い、遠くから走り寄ったのです。神様が私たちを救って下さったときに、私たちを見て、お前はこんな悪党だろうとは、言わないのです。憐れに思ったのです。ですから、主イエスの弟子になろうとするものは、この憐れに思ったという心がないと、主イエスの弟子にはなれないのです。父親は、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻したのです。私たちは、この箇所を何気なく読んでしまいますが、ここでは年長者である父親が走り寄っていることの意味を考える必要があると思います。走るというのは、威厳を損なうので、ユダヤ人の年長者は、走らないのです。ユダヤ人が考える父親は、どっしり構えて、杖を持って立ち、息子がよろよろと近づいてくるのを待っているというものです。従って、ユダヤ的な文脈では、この父親は年長者の威厳を投げ捨てて、近づいて、家族愛の表現である接吻をしているのです。主イエスが、神様であることを捨てて、人となられた姿もこの父親の姿と同じなのです。

■祝宴を始める父親

 その父親に対して、21節〜24節を見ると、『息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。』とあります。父親は、弟の言葉を途中で遮っていることが分かります。この父親は、この弟の『雇い人の一人にしてください』という言葉を言わせていないのです。そして、『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』と言い、そして、祝宴を始めているのです。

 父親は息子の言葉を途中で遮り、彼を息子として迎えたのです。3つのものを与えています。これが弟に与えられた3つの祝福なのです。いちばん良い服、指輪と履物です。1つ目のいちばん良い服というのは、父親の所有物です。それは、長子の権利を意味しています。いちばん良い服を着せているというのは、長子の権利を譲っている象徴なのです。これが悔い改めた罪人が受ける祝福の象徴なのです。次に、2つ目の指輪ですが、指輪は権威の象徴です。この指輪は、私たちが祈る時に、主イエス・キリストのみ名によって祈っていますが、これは権威の行使です。ですから、キリスト者が祈るときには、主イエス・キリストの代理人として祈るのです。私たちには神様の権威の象徴である指輪が与えられているのです。3つ目の履物ですが、これは息子であることの象徴なのです。奴隷は、履物を履かないのです。ここで、履物を履かせて頂いているというのは、もはや奴隷として神様に仕えるのではなくて、息子として神様の愛の中で生きてゆくということなのです。

 そして、祝宴を始めました。祝宴の食事は、肥えた子牛なのです。肥えた子牛1頭を屠る訳ですが、子牛1頭を屠ると、村中の人を招いても十分な量があったのです。この父親は、祝宴を開いていますが、ここでこの祝宴のテーマが何かということを考える必要があります。これまでに、宴会の席につく、あるいは宴会の席から追い出されるという話が続いていました。宴会は、天の御国、メシア的王国を象徴していた、ということをこれまでにお話してきました。ここでも、同じなのです。そして、この弟がこの祝宴の席についているのです。

■兄の怒り

 主イエスの話を聴いている聴衆は、ここで悔い改めた罪人が御国に入っている姿を想像することができたのです。この弟は、悔い改めた罪人の象徴なのです。それでは、兄はどうなったのでしょうか。ここから、最後に兄の話に入って行くわけですが、古代の作家がよく用いた表現方法があるのです。それは、3つ同じような話を並べて、クライマックスは最後まで隠しておくという手法です。15章で、その表現方法がどのようにつかわれているのでしょうか。最初は、100匹の羊がいたのです。見失ったのは1匹で、それを見つけて喜んでいるのです。しかし、99匹の話は、出てこないのです。次に、女の人はドラクメ銀貨を10枚持っていたのです。失くしたのは、1枚で、もともとあった9枚の銀貨の話は出てこないのです。99匹の羊は隠されているのです。9枚の銀貨も隠されているのです。そして、3番目に、兄の話が出てくるのですが、ここでそれまで隠されていたものが突然現れて、クライマックスとなるのです。ですから、ルカによる福音書の15章の3つのたとえ話のクライマックスというのは、実はこの兄の話だということが分かってくるのです。そして、主イエスが一番言いたかったことは、3つ目のたとえ話の兄の物語の中に、集約されているのです。それが、主イエスがこの3つのたとえ話で用いている文学手法なのです。

 そういうことを踏まえて、25節〜28節aを見ますと、『ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、』と書かれていることが分かります。

 この兄は、ファリサイ派の人々や律法学者たちを象徴しています。この兄は、弟が宴会の席にいることを好まなかったのです。言い換えると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、悔い改めた罪人が神の国に入るという主イエスのメッセージを喜ばなかったのです。

 現代の日本にいる私たちは、自分も宴会の席につけば良いではないかと思ってしまいますが、この兄は宴会の席に入ることを拒否するのです。もっと言いますと、この兄は拗ねているのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、主イエスが示した神の国に、自分たちが入ることを拒否したのです。

■兄をなだめる父親

 それで、父親が出てきて、兄をなだめるのです。28節b〜30節を見ますと、『父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』』と書かれています。ここで、驚くべきことに、父親が家から出てきて、侮辱的な態度を取る兄をなだめているのです。ユダヤの社会通念では、ここまでのことをする義務は、父親にはないのです。しかし、この父親は出てきて、なだめているのです。主イエスは、罪人たちと食事をしたことは事実です。その一方で、ファリサイ派の人々や律法学者たちとも食事を共にしてされているのです。主イエスは、全ての人が神の国に入ることを願い、すべての人を招かれたのですが、自己認識が歪んでいる兄の態度は実に侮辱的です。

 なぜ、兄が侮辱的なのかと言いますと、この父親を軽蔑しているのです。兄は始めに、『このとおり、』と言っています。通常、尊敬して何かを述べるときには、前に尊敬語をつけるべきなのです。英語であれば、『Sir』とか、『Father』とか、『Mr.』とか、といった言葉をつけるのです。ここでは、『お父さん』という呼びかけの言葉で、文章を始めなければいけないのです。しかし、この兄は、それをしていないのです。『このとおり、』というのは、『あのねぇ』という軽蔑した言い方なのです。この兄の自己認識は、何年も奴隷のように仕えて、言いつけを守ったというものです。奴隷のように仕えたというのは、彼は自発的に喜んで働いたのではなかったということなのです。それなのに、宴会を開いてもらったことはないと言うのです。弟が帰還したことによって、この兄が何か失ったものがあるでしょうか。この兄は、すでに2/3の財産を分けてもらっているのです。この兄の最大の誤解は何かと言いますと、彼は自分の行いによって、父親と自分の関係を保つことができると考えているのです。愛の故に、父親に仕えたのではないのです。彼は、自分のことを奴隷のように考えているのです。

 この父親は弟の息子を失っていたのですが、実はこの兄は物理的には家にいたのですが、精神的にはこの兄も失っていたのだということです。

■兄を招く父親

 ですから、この父親は、31節〜32節のように言うのです。『すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」』とあります。この兄には、家にいる喜びと父の財産の所有権が与えられていました。この権利は、宗教的指導者たちが選びの民として特権的地位を与えられていたことを示しています。ファリサイ派の人々や律法学者たちには、神様の啓示の言葉が委ねられていたのです。そのような特権的な立場に感謝すべきだよ、そして、兄は弟の帰還を喜ぶべきだよと父親は言っているのです。この兄は、『あなたのあの息子』と言っています。父親は、この兄に『お前のあの弟』と言っています。この兄と父親のどちらの考えがまともなのかは、わざわざ言わなくてもよく分かるかと思います。この父親は、31節で、この兄に対して、『子よ』と呼びかけています。この「子よ。」という呼び掛けには「テクノン」というギリシア語が使われています。「子」を表わす言葉としては、他に「ヒュイオス」という言葉があります。それはルカによる福音書の15章だけでも、8回も使われています。子や息子を意味する言葉です。ところが、31節で父が、兄の息子に呼びかける時には「テクノン」が使われているのです。「テクノン」も「ヒュイオス」も同じ意味の言葉と言えますが、こと呼びかける時に使われる場合、「テクノン」は親愛の情をもって呼びかけるときに使われる言葉なのです。

 私たちは、この箇所を読む時に、兄と弟のどちらが好きか、嫌いかで考えてしまいがちです。しかし、この父親は、侮辱的な態度を隠そうともしない兄に対しても、心からの親愛の情をもって関わろうとしているのです。主イエスは、15章の3つのたとえ話を語ることによって、敵意を隠そうともしないで、非難するファリサイ派の人々や律法学者たちに対して、断罪して突き落とすのではなく、心からの真実を込めて、神の国に招かれているのです。この例え話の中で、この兄は祝宴の席についたのでしょうか。それは、今日の聖書の箇所には書かれていないのです。書かれていないのは、そのことは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに主の招きへの応答が問われているということです。彼らに、信仰と恵みによる贖いによる神の子となるかどうかという招きへの応答が問われているのと同時に、現在の私たちにも、同じことが問われているということだと思います。

 主イエスは、私たちの救いのために、十字架での死と復活を通して、心から私たちを神の国に招いて下さるのです。私たちは、その主イエスの招きに真実に応えるということはどういうことかと考える時に、それは我に返るということだと思わざるを得ません。私たちは、我に返って、主の招きに応えて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。