小倉日明教会

『目を覚ましている』

ルカによる福音書 12章 35〜48節

2023年 9月 17日 聖霊降臨節第17主日礼拝

ルカによる福音書 12章 35〜48節

『目を覚ましている』

【奨励】 川辺 正直 役員

面接試験

 おはようございます。最近、ある就職活動中の女子大学生の記事が新聞に載っていました。彼女は、4年制大学を出て、東証一部上場の大企業の総合職に就きたいのです。ゆくゆくは海外駐在して、外国暮らしをするというのが、彼女の目標なのです。そして、大企業にエントリーして、ようやく面接試験にまでこぎつけるのです。ところが、その面接試験というのが個人面接の前に行う、集団面接と言いまして、グループで面接を受けるということなのです。その集団面接を受けるまでの間にいる、控室というところに通されたのです。その控え室に行きますと、30人ぐらいの学生たちがいまして、自分の面接の順番を待っているのです。その中に一人、スーパー就活生がいたと言うのです。このスーパー就活生というが、この控室にいる就活生は、みんな俺のライバルだということで、集団面接が始まる前に既に戦いは始まっていると考えているようなのです。そして、その控室にいるその学生たちに、片っ端から声かけて行くのです。例えば、「君、名前なんて言うの?」。「山田ですけど…」。「山田君は、どこの大学?」。「○○大学です」。「あ、〇〇大学、僕も受けたよ、滑り止めで。まぁ行かなかったけどね。〇〇大学からここ受けるか、凄い度胸だよね」。そうやってね、一人ひとりに対して、マウントを取って行くのです。そうやって、もし集団面接で、自分と一緒になったら、もう絶対かなわないでしょと、ここにいる就活生たちの心をへし折って行くのです。既に戦いは始まっている。非常に戦術的な行動をするという人物なのですが、嫌な奴だなぁと思いながら、世の中こういう人が生き残っていくのだなぁと思って、ある意味感心していたそうです。ところが、なんと彼女は、そのマウント取る学生と同じ5人のグループ入って面接試験を受けることになったのです。えー、最悪!と思ったそうです。「では、次の5人の方、面接室に入ってください」と声をかけられて、面接室に入ったわけですが、面接室に入った瞬間、5人の受験生は全員、腰を抜かしたそうです。その理由は、なんと面接官の一人が、控室にいた山田君だったのです。

 実はこの山田君は、就活学生に見える、この会社の30代中堅社員だったのです。つまりこれはどういうことかと言いますと、面接官の質問に対して、学生はみんな事前に準備してきた回答で答えるのです。しかも、ほとんどの就活生は、就活サイトに公開されている就活面接の質問・回答集に従って作った回答で答えるのです。そうすると、皆が皆、同じような回答をするので、一人ひとりの本当の姿が分からなくなってしまうのです。それでは、面接にはならないのです。就活生を迎える会社側は、就活生の本当の姿を明らかにするためにいろいろと考えることになるのです。この記事の会社は、学生になりすました会社側の人間を控室の中に潜り込ませて、就活生がどのような人間なのか、観察していたのです。そういうわけで、このときの面接官山田君は、「A君、僕は○○大学の出身だけど、ちゃんとこの会社の面接官としてここに座っていますよ」、と面接者たちに言ったのです。そして、A君は面接官の山田くんにボロボロにされたそうです。その時に、この記事の女子大生は、やっぱり凄い会社って凄いことするなと思ったそうです。面接の時だけで、人を見るのではなくて、いろいろなことを考えて、いろいろなところから見ているって、この会社凄い、凄いけれどちょっと怖い。この会社入ったら、どんなふうになってしまうのだろうと、少し不安になったそうです。

 私たちも、誰も知らない自分の本当の姿が、全部見通されているとしたら、怖くなるのではないでしょうか?本日の聖書の箇所を通して、神様の眼差しの中で、私たちは主イエスの弟子として、いかに生きるべきか、ということについて、皆さんと一緒に学びたいと思います。

弟子たちへの教え

 ルカによる福音書9章51節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅という大きな枠組みの中で、様々な機会を捉えて、主イエスが弟子たちに語った教えが語られています。そして、本日の聖書の箇所を含むルカによる福音書12章1節〜13章17節は、一つの大きなブロックとなっています。そして、前のブロックで明らかになった、主イエスと主イエスが語る福音に対する拒否という現実の中で、このブロックでは弟子としていかに生きるべきかが教えられる、連続したメッセージとなっているのです。主イエスを信じ、主イエスの弟子として歩んで行くということは、霊的な戦いの中に入ってゆくことなのです。そして、前回、ルカによる福音書の12章22〜34節を通して、『神様の備え』があるので、恐れてはいけないということについてお話しました。しかし、神様の備えに頼んで、思い煩うことがなくなると、日々に生活の中で神様に目を向けなくなる生活となってしまう危険性があります。そこで、今日の教えがあるのです。今日は12章35〜48節の『人の子の来臨』に備えて目を覚ましていなさいということについて語られている箇所を通して、聖書のみ言葉を学びたいと思います。

 本日の聖書の箇所では、4つのたとえ話が語られています。1つ目が、35〜38節の『夜、腰に帯を締め、ともし火をともして、主人の帰りを待っている僕たちのたとえ』です。2つ目が、39〜40節の『泥棒を警戒する主人のたとえ』です。3つ目は、42〜46節の『忠実な僕と不忠実な僕のたとえ』です。そして、4つ目が、47〜48節の『鞭打たれる僕のたとえ』です。そして、2つ目と3つ目のたとえの間に、ペテロの質問(41節)があるのです。これらのたとえ話は、主の来臨に備える重要性を教えるたとえ話なのです。驚かされることは、主イエスはまだ十字架に架かっておられないのです。まだ、復活されてもおらず、天にも登っていないのです。その段階から、主の来臨、メシアの再臨について語られているのです。このことは、驚くべきことなのですが、このことはなかなか教会でも語られることは少ないと思います。十字架の死と復活についての話は、よく聞きますが、メシアの再臨がいかに重要なことであるかがあまり語られないのではないでしょうか? 今日の聖書の箇所では、前回の聖書の箇所の神様の備えに頼んで、思い煩うことがなくなった弟子は、いかに生きるべきか、ということが語られているのです。

 主人の帰りを待っている僕たちのたとえ

 本日の箇所の35〜36節には、『「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。』と記されています。

 主イエスは35節で「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言っておられますが、現代の私たちにとってはピンと来ない表現ですが、このことは当時の主イエスの弟子たちにとっては、よくわかることであったのです。「腰に帯を締め」というのは、いつでも活動ができる、奉仕の準備ができているという意味なのです。当時は、一般的には長い上着を着ているのです。従って、裾が長いので、動き回るのには不便なのです。長い上着を帯で締めて、短くするのです。そうやって、動きやすくするのです。すなわち、常に行動を起こす準備ができているということなのです。「ともし火をともしている」というのはどういうことかと言いますと、ともし火があるということは、闇を消す準備が出来ているということなのです。そのことは、比喩的に解釈すると、常に真理を語る準備が出来ているという意味なのです。従って、この聖句が意味しているのは、常に、主イエス・キリストのために、働く準備ができている、常に主を証言する準備ができている、それを意識して守りなさいという教えなのです。

 それは36節にあるように「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」ということです。主人が帰ったらすぐに戸を開けるために腰に帯を締め、ともし火をともして待っているこの人は、37節によれば、「僕」です。その家にいて、主人に仕える僕が、主人の帰りを待っているのです。つまり主イエスはここで、あなたがたは、僕なのだから、僕としての役割をしっかりと果たせ、と教えておられるのです。ご自分に従い、仕えている弟子たちに、弟子としてのあり方を教えておられるのです。逆に言えば、弟子でない人々、主イエスに従おうとしていない、自分が主イエスの僕だとは思っていない人々にとっては、ここに語られている教えは無意味なものです。つまりここに語られているのは、誰にでもあてはまる一般的な倫理道徳の教えではなくて、あくまでも主イエスに従っていこうとしている弟子たち、信仰者に対する教えなのです。そして、このたとえのポイントは、弟子たち、信仰者たちに、主人を迎える準備ができているということなのです。これが、常に人の子の来臨を待ち望みながら生きる僕の姿勢なのです。

 そして、本日の箇所の37〜38節では、『主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。』と記されています。38節で、「真夜中」と訳された言葉は「第2の時刻」のことです。そして、「夜明け」と訳された言葉は、「第3の時刻」のことです。「時刻」という意味の「プラケー」という言葉は、夜の警戒をする歩哨が交代する時刻を意味します。ちなみに、第1の時刻は午後6時から9時まで、第2の時刻は午後9時から12時までで、第3の時刻は午前0時から午前3時まで、第4の時刻は午前3時から午前6時までです。従って、「真夜中」というのは、午後9時から12時までで、「夜明け」というのは、午前0時から午前3時までであったのです。そして、37〜38節のこの聖句の内容は、仰天するようなことが語られています。真夜中に帰ってきた主人は、僕たちが目を覚まして、待っているのを見て、感動しているのです。その感動の結果、何が起こるのかと言いますと、ここで福音記者ルカは、『はっきり言っておくが、』という表現を使っていますが、これは、これから起こることが大変なことであって、神様の計画の中では確実に起こることであって、これをそのまま受け入れて良いのだということを強調する言葉なのです。その仰天する内容は何かと言いますと、主人と僕の役割が逆転するということなのです。この内容が、仰天するような内容であることは、当時の人たちには容易に理解できたことなのです。主イエスの時代には、主人が僕に給仕することはありえないことであったのです。そのあり得ない逆転が、ここで起こっているのです。どういう逆転かと言いますと、主人の方が帯を締めているのです。ここまで聞いた弟子たちは、腰を抜かすほどびっくりしたことと思います。再臨のメシアが仕える者の姿をとる、そして、その僕たちを食卓につかせ、つまり忠実な弟子たちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれる、というのです。つまり、初臨のときに、低くなられ、最低のところからスタートされた神様の子が仕える者の姿を取ってきて下さったお方が、再臨の時に、栄光の王として帰ってこられるのですが、再び低くなられて、弟子たちに仕えて下さるというのです。つまり、ここでは主人の再臨による神の国の完成時には、しもべたちは「主の食卓」に招かれて、それにあずかることができるという終末的救いが語られています。天に上げられたイエスが終末の日に神として私たちに顕れる、しかも、給仕として顕れるのです。「そのような食卓に招かれたならどんなに幸せなことか、あなたがたも目を覚まして用意していなさい」というのが、ここでのテキスト全体のメッセージなのです。ですから、主の恵みによって救われた人は、今度は頭を切り替えて、関心を払うべきなのは、再臨を待ち望むような生き方をすることだと言うのです。

泥棒を警戒する主人のたとえ

 次に、39〜40節には、『このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』と記されています。再臨を待つ信仰における大事なポイントは、それがいつなのか私たちには分からない、ということです。再臨の時期は神様がお決めになることであって、人間には知ることが許されていないのです。だから、予測ができない、予定が立たない中で、主人の帰りを待っているというのが、まさに私たち信仰者の姿なのです。主イエスは39節で「家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう」と言っておられます。ここには主イエスのユーモアがあります。ご自分の再臨のことを、いつ来るか分からない泥棒になぞらえておられるのです。主イエスのユーモアが分からないと、このたとえ話が何かべつのたとえ話が語られているように、頭が混乱してしまうのです。頭の堅い人は、「イエス様のことを泥棒にたとえるなんて相応しくない」と怒るかもしれませんが、主イエスご自身がそう言っておられるのだから仕方ありません。主イエスは、ご自分のことを泥棒にたとえることもできる、自由な、柔軟な心を持っておられたのです。主イエスはここで、泥棒というのは思いがけない時に来るでしょ、そのように人の子も思いがけない時間に来るのだから、注意していなさいということなのです。

 家の主人というのは、弟子たちのことです。泥棒が来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。しかし、知らないわけですから、常に用心している必要があるのです。この泥棒を警戒する家の主人のたとえ話は、弟子たちへの警告になっています。ここでは、主イエスがいつもう一度この世に来られるのか、今日なのか、千年後なのか、真夜中なのか夜明けなのか分からないのだから、しっかり用意をしていなさい、主人が帰って来た時にすぐに戸を開けようと、腰に帯を締め、ともし火をともして待っている僕でありなさい、と教えられています。それは言い換えれば、信仰者として生きるとは、常に「主人の帰りを用意して待っている」という緊張感を持って生きることだ、ということです。このことは、日曜日の礼拝の時だけ、キリスト者として生きて、教会を出て、それ以外の時は、神様のことは忘れて生きているというのではいけないのだよと教えられているということなのです。日々の生活の中で、常に主の再臨に備えて生きなさいということを教えておられるのです。

ペトロの質問

 本日の聖書の箇所の41節には、『そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、』と記されています。主イエスの話を、ここまで聞いていたとき、口を挟まずにはいられなくなった人がいたのです。弟子のペトロです。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」(41節)。このペトロの質問があったので、主イエスはその質問に、直接にはお答えにならず、次のより深いたとえ話に入って行くのです。ペトロの質問の内容は、この忠実な僕のたとえ話というのは、誰のために話して下さったのですかという質問であったのです。このたとえ話は、私たち弟子たちのためですか、あるいは、群衆のためですか、という質問なのです。別の言い方をすると、ペトロはこのように尋ねているのです。『イエス様、あなたは主人に給仕してもらえる僕の話をされましたが、それは私たちだけなのですか、それとも、ここにいる群衆も含むのでしょうか』という質問なのです。ペトロは主イエスの話に反応したのです。主人が僕に仕えてくれるようになるという、とてつもない祝福に反応したのです。つまり、ペトロは天来の祝福に目が開かれつつあるのです。ペトロの霊性が高まりつつあるのです。このペトロの質問によって、主イエスは次のより重要なたとえ話を語るのです。つまり、ペトロのこの質問が、主イエスの次のたとえ話を引き出したのです。

忠実な僕と不忠実な僕のたとえ

 本日の聖書の箇所の42〜46節には、『主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。』と記されています。準備をして、緊張感を持って、再び来てくださる主イエスを待ち望みつつ生きるとは、どのように生きることなのか。本日の箇所の後半では、このことが語られるのです。42節で主イエスは「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」と言われています。ここで言われているのは、信仰者の間にも、管理人のような働きを担う人と、その管理人に仕える召使いのような人がいるということではありません。神様の御前にあって、信仰者の間には何の区別もないからです。ですから主イエスに従う人の間の区別が語られているのではなく、主イエスに従う人は誰であっても、「忠実で賢い管理人」になるよう勧められているのです。この主イエスの言葉は、すべてのキリスト者に向けられた、「忠実で賢い管理人」として生きることへの招きなのです。

 この「忠実で賢い管理人」とは、43節に「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」とあるように、主人が帰って来るまで、主人の言われた通りにしていた僕のことです。具体的には42節にあるように、「時間どおりに食べ物を分配し」ていたということです。旅立つ前、主人はこの僕に食料を預け、その管理を委ねました。僕は与えられた務めに、忠実に賢く仕えたのです。「主人の言われた通りにしていた」というのは、主人の言われたことだけをしていたのでもなければ、自分ではなにも考えなかったのでもありません。むしろ預けられた食料を適切に管理するために、その時その時、精一杯考え、適切に判断し、実行したのです。ここで言われている「賢い」とは、単に頭が良いとか、知識や経験が豊富であるとかではなく、自分の持てる力のすべてを用いて判断し、公正に実行していくことです。そのように与えられた務めに忠実に仕えた僕に、帰って来た主人は、「全財産を管理させるにちがいない」と言われています。主人はこの僕に食料だけでなく、自分の持っているすべての物を預け、その管理を委ねると言っているのです。

 それに対して「忠実で賢い管理人」でない僕について、45〜46節では、次ように言われています。『しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる』。「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになる」というのは、主人の留守をいいことに、権威の乱用と主人の財産で贅沢な生活、放縦な生活をすることを意味しています。そんな指導者に対しては弁解の余地すらないほど、厳しい御沙汰がくだされるというのです。そのようになってしまう理由は、どこにあるのでしょうか。それは、この僕が「主人の帰りは遅れる」と思ったことにあるのです。

 私たちはいつ主イエスが再び来られるか分かりません。教会が誕生してから今まで、2000年に亘って主イエスの再臨は実現しませんでした。しかし、だからといって、主イエスの再臨が遅れていると思い、それに備えることを怠るならば、私たちは「主人の帰りは遅れる」と思っていた僕と変わらないことになるのです。主の再臨が遅れているから、それに備えなくても良いという思いの根底にあるのは、本気で主イエスの再臨を信じていない不信仰なのです。主の再臨を本気で信じて生きないとき、私たちは主イエスを主人として生きるのではなく、自分を主人として、自分勝手に生きるようになります。好きなだけ食べたり、飲んだり、酔っ払ったりして、自分さえ楽しく生きられれば良いと思うようになるのです。主の再臨への緊張感が失われるとき、私たちの信仰は崩れてしまうのです。

鞭打たれる僕のたとえ

 本日の聖書の箇所の47〜48節には、『主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。』と記されています。主イエスの再臨を信じ、緊張感を持って再び来てくださる主イエスを待ち望んで生きるとは、主イエスが来られるときまで、私たちが主イエスの言われた通りにして生きることです。

 47節に『主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる』とあります。主イエスの思いを知らされている私たちは、そうならないように、その思いに従って生きていかなくてはなりません。私たちが「忠実で賢い管理人」として生きるとはそういうことなのです。この「思い」と訳されている言葉は、「意志」や「計画」と訳せる言葉が用いられています。私たちは主イエスの意志、主イエスの計画を知らされている者として、その意志と計画に従って生きてゆくことが求められているのです。主イエスの再臨を信じ、緊張感を持って再び来てくださる主イエスを待ち望んで生きるとは、主の思いを知らされている者として、弱さや欠けを抱えつつも主イエスの計画に仕え、主が与えてくださった務めに仕えることにほかならないと思います。

 48節では、主の思いを知らされている者は、知らされていない者よりも多くを求められると言われています。この箇所の最後で、『すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される』と記されている通りです。そして、主の思いを知らされているにもかからず、その思いを受け止めず、主イエスに従うことなく生きた者は、主の思いを知らずに主イエスに従うことなく生きた者よりも、ひどく鞭を打たれ、厳しく罰せられる、と語られているのです。そのように言われると、主イエスの思いを知らないほうが良かったのではないかと思うかもしれません。知らずに主イエスに背いた方が軽い罰で済むなら、主の思いを知ることなく、自分勝手に生きたほうが得なのではないかと思うのです。しかし、忘れてはいけません。主の思いを知らされている者として、再び来てくださる主イエスを待ち望みつつ生きる私たちに、世の終わりに神の国の祝宴に連なりまことに大きな喜びで満たされる、という約束が与えられているのです。この約束のゆえに、主の思いを知らされている私たちは、与えられた務めに忠実に仕え、与えられた賜物を精一杯用いて生きていくことが求められているのです。それでは、次に主イエスの再臨を信じ、再び来てくださる主イエスを待ち望んで生きるキリスト者の生き方とは、どのような生き方なのかということについて考えたいと思います。

遠藤周作、『海と毒薬』

 遠藤周作の小説に、『海と毒薬』という作品があります。戦時中の1945年5月17日から6月2日、九州帝国大学医学部第一外科で米軍捕虜の人体実験が行われました。撃墜されたB29の生存者のうち8名が九州大学に連行され、人体実験の材料として生きたまま解剖されたのです。事実は関係者によって隠ぺい、否認されていましたが、1946年、匿名の投書によって発覚し、最終的にはGHQによる厳しい尋問で明らかになってB級戦犯として、5人が絞首刑、18人が懲役刑の判決となり、指揮および執刀を行った医師は独房で自殺しました。この事件をモチーフにした作品が『海と毒薬』という小説なのです。

 この作品の中には一番こわいものは世間であって、神なんかこわくないという、そういう考えの人物がたくさん出てくるのです。世間にさえ知られなければ罪なんか怖くない、罰なんかない、バレなければ何をやっても大丈夫だと考える人たちが出てくるのです。人体実験のモルモットにされたのは米兵だけではありませんでした。助かる見込みのない患者が治療のためではなく、ただ新しい手術方法の実験台になるのですね。9割の確率で死んでしまう手術なのですが、病院の外では毎晩空襲で死んでいく日本人がたくさんいるのです。どうせいつかは死ぬのだから、もう死ぬことが近づいている人間を医学の進歩のために利用するのは、それは価値ある良いことなのだという論理で、人体実験を始めようとするのです。

 しかし、この小説の中で断固として人体実験や人権蹂躙に反対する人物が一人だけ出てくるのです。それは、日本人の医学部教授と国際結婚したドイツ人女性ヒルダという人です。ある時、助かる見込みのない患者が発作を起こすのです。ドクターは看護師に麻酔を打って、安楽死させることを命じます。看護師がまさに注射を打とうとしたその時、それを見ていたヒルダは彼女を突き飛ばして、大声で叫ぶのです。「死ぬことは決まっていても、殺す権利は誰にもありませんよ。神さまがこわくないのですか。あなたは神さまの罰を信じないのですか」

 ドイツ人のヒルダは聖書の神様を信じていました。神様は善悪を司る絶対的な存在だと考えていました。ですから、ヒルダは、「神様が生み出した命を何人も犯すことは許されない、仮に犯したなら神様の罰を受ける」と、はっきりと信仰に従って、主張することができたのです。再臨の主を待ち望むのは、このような生き方なのだと思います。

主人の思いを知って生きる

 主イエスが本日の聖書の箇所で私たちに求めておられるのは、主イエスの再臨において、神様のご支配、神の国が完成することを信じて、それを待っていることです。そして、それこそが、前回の31節にあった「ただ、神の国を求めなさい」ということなのです。神の国を求めるとは、神様のご支配が完成する時が来ることを信じて待ち望むことです。その神の国は、主イエスの再臨において完成するのです。つまり本日の35節以下は、神の国を求めて生きるとは具体的にどのように生きることなのかを教えているのです。それは主イエスの再臨による救いの完成を信じて待つことです。緊張感を失って眠り込んでしまうことなく、目を覚まして主イエスの帰りを待つのです。主イエスの再臨によって神様のご支配が完成することを信じて、再臨を、目を覚まして待っている僕として生きるのです。それは、厳しい罰を恐れてびくびくして生きることではありません。むしろ神様が自分に多くのものを与え、多くのものを任せて下さった、その恵みと信頼に感謝して、私たちも神様を信頼して生きていくことです。天の父である神様が、私たちに必要なものをご存じであり、それを与えて下さるという信頼に生きるところに、思い悩み、心配からの解放が与えられるのです。主人の思いを知って、それに応えて目を覚ましている僕として、私たちは生きてゆきたいと思います。 

 それでは、お祈り致します。