小倉日明教会

『神の国のたとえ ー からし種とパン種』

ルカによる福音書 13章 18〜21節

2023年12月3日 待降節第1主日礼拝

ルカによる福音書 13章 18〜21節

『神の国のたとえ ー からし種とパン種』

【奨励】 川辺 正直 役員

ペンタゴンの中の謎の建物

 おはようございます。今日から、教会は『アドベント』、『待降節』と呼ばれる主イエス・キリストがお生まれになったクリスマスの準備の期間に入ります。このため、アドベントリースを今日から飾っています。アドベントリースは神様の無限の愛を象徴する丸い形をしていて、通常は「主イエス・キリストがもたらす永遠のいのちの希望を示す」ヒバのような常緑樹の葉が用いられます。アドベントリースの中には、4本又は5本のキャンドルが立てられます。

 1本目のキャンドルは「預言のキャンドル」と呼ばれ、「希望」を表しています。主イエス・キリストは聖書の預言の成就としてお生まれになった、私たちの希望です。

 2本目のキャンドルは「天使のキャンドル」と呼ばれ、「平和」を表しています。主イエス・キリストのご降誕を告げたのは天使です。天使は、旧約聖書の詩篇から、「地には平和」と讃美しました。

 3本目のキャンドルは「羊飼いのキャンドル」と呼ばれ、「喜び」を表しています。主イエス・キリストのご降誕が最初に告げられたのは羊飼いたちに対してです。羊飼いたちは飼い葉桶に寝かされている幼子イエスを見出し、喜びに満たされました。

 4本目のキャンドルは「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれ、「愛」を表しています。神様の愛の現れである主イエス・キリストが生まれた場所はユダヤのベツレヘムです。

 多くのアドベントリースにおいて、クリスマスの到来を象徴する白いキャンドルを中心に置き、これは時として「キリストのキャンドル」を呼ばれます。このキャンドルはクリスマス・イヴかクリスマスの当日にともされます。キリスト教会では、こうやってアドベントリースのキャンドルを一つ一つ灯しながら、主イエス・キリストの降誕を待ち望みながら過ごすのです。

 さて、アメリカのバージニア州に国防総省の本庁舎があります。ペンタゴンです。英語で五角形という意味です。文字通り正五角形の形をした建物です。そしてこれは、世界最大のオフィス面積を持っていて、廊下だけでも全部つなぐと28キロになるそうです。地上5階建て、地下2階の頑丈な建物ですが、この建物の中心に同じく五角形の形をした空き地があるのです。2万平米あります。この空き地の真ん中に小さな建物が建っているのです。これは外からは見えません。しかし、偵察衛星で上から見ると、確かにペンタゴンのど真ん中に不思議な建物があるのです。冷戦時代ソ連は、この建物が何なのか、大変気にしていたのです。というのは、ある時間になるとペンタゴンの職員たちがここに集まってくるのです。しかも、その建物に入った職員たちは、一度入るとしばらく出てこないのです。ソ連はこのペンタゴンの中のこの小さな建物の中で、何が話し合われているのか、気になって、気になっていて、長い間ミステリーでしたが、とうとうその正体が判明する日が来たのです。何とホットドッグの売店だったのです。おそらく様々な攻撃からも、諜報活動からも、世界で最も完璧に守られているホットドッグの売店だと思います。一般の人々にとっても、最も、入ることの難しいホットドックの売店ではないかと思います。

 本日の聖書の箇所では、主イエスは『神の国』について、「からし種」と「パン種」のたとえを用いて、語られました。部外者からは隠されているペンタゴンの中のホットドックの売店のように、信仰を持たない者には隠されている、奥義としての「神の国」について、主イエスはどのように語られたのかということも考えながら、今日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

神の国

 本日の聖書の箇所の「からし種」と「パン種」のたとえは有名なたとえ話ですので、この話を聞かれたことのある方が多いかと思います。前後の文脈を無視して、「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」だけを取り出して読むと、このたとえ話は、神の国が確実に成長して世界中に大きく広がっていくということを示すための話だと思ってしまうのではないでしょうか。私もこの箇所を取り出して、そのような前向きな話として語ったこともありますし、実際、教会では多くの場合そのように読まれてきた聖書の箇所です。

 しかし、ルカによる福音書を連続して取り上げて、丁寧に書かれている一つ一つの言葉の意味を読み取ってゆくという、現在、行っているような地道な進め方をしていますと、前後の文脈を意識して読むと、前向きな話として読むことに無理があると思われてくるのです。そうではない読み方はどういうものになるかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

 さて、18節には、『そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。』と書かれています。ここで、「神の国」についてのテーマの紹介がされていることがわかります。「そこで」という言葉から、この福音書を書いたルカは語りだしました。「そこで」とありますので、この前に起こった出来事を受けて、次の事柄に繋げて行くための接続詞が用いられていることが分かります。すぐ前に起こっていた事柄というのは、直前の17節を見ますと、主イエスの行った、18年間も腰が曲がったまま、伸ばすことのできなかった婦人の癒しを見て、反対者は皆恥じ入り、群衆たちはこぞって、主がなされた数々のすばらしい行いを見て喜んだのです。つまり主イエスの奇跡の御業は、主イエスがメシアであることを示すしるしになったのだということです。群衆はそのように受け止めたのです。群衆は大喜びしたのです。群衆は、「神の国」は近いと感じたのです。

 そこで、この機会を捉えて主イエスは、群衆の誤解を解くために、「神の国」をテーマとして取り上げたのです。ここで、主イエスが語られた「神の国」というのは、何のことかということを理解しておく必要があります。聖書の中では、「神の国」という言葉は、文脈によって意味が変わって来る言葉なのです。ここでの「神の国」というのは、神学者たちが専門的に奥義としての王国と呼んでいるものです。

 マタイによる福音書13章11節を見ますと、『イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」』とあります。ここで、「天の国の秘密」という言葉が出てきます。この「秘密」と訳されている言葉は、「奥義」とも訳される言葉で、ここから「奥義としての神の国」という名称が生まれて来ています。「奥義としての神の国」というのは、どういう意味の言葉かと言いますと、「奥義」というのは、旧約聖書の時代には啓示されていなかったけれども、新約聖書の時代になって初めて啓示された真理を「奥義」とか「秘密」、「秘義」という言葉で表されているのです。従って、主イエスが語っている今日の2つのたとえ話は、キリスト教世界がどのように発展するかを予言したものになっているのです。キリスト教世界がどのように発展して行くかということは、旧約聖書では預言されていないのです。だから「奥義」とされているのです。そして、教会時代のキリスト教世界も「神の国」なのです。奥義としての王国が、キリスト教世界なのです。大切なことは、この奥義としての王国は一時的なものであるということです。メシアの拒否とメシア再臨の間に挟まっている時代、この奥義としての王国の時代は、真の信者と見せかけの信者が共に含まれている時代、これが奥義としての王国なのです。

 メシア再臨の前に、キリスト教会はその内側に悪の影響を宿すようになる。悪の影響が広がるようになる。このことが予言されているのです。考えてみますと、理想の教会というのは、なかなかありませんね。歴史を振り返れば、キリスト教会の中でも、いろいろな人間の間の軋轢があったり、罪があったり、欺きや裏切りがあったりするということも、しばしばあるのです。なぜ、そのようなことが起こるのか、もう教会には行きたくないと思うような出来事に遭遇したりすることもあるわけです。しかし、それでも教会に集い、共に主を礼拝するということは、とても大事なことです。教会はキリストの体なる教会です。しかし、今の時代は、その教会の中に偽物が紛れ込んでいる時代なのだと言っているのです。ですから、教会に問題があるというのは、当たり前のことだと思います。理想的な状態というのは、キリスト再臨後の終末的に起きることであって、いまの状態は問題を含んだ奥義としての神の国の状態なのです。

 従って、主イエスが語る「神の国」というのは、群衆が期待したようなものではなく、問題を抱えた「奥義としての神の国」の時代に入って行くのだということが、2つのたとえ話から解き明かされるのです。そして、「神の国」を説明するために、次のたとえ話に入って行くのです。

    

 「からし種」のたとえ話

 18〜19節には、『そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」』とあります。何々は、何々に似ているでしょう、何にたとえたらよいでしょうかという言い方をしています。つまり、「神の国」は何に似ているでしょう、何にたとえたらよいでしょうかと主イエスは語っています。これは、たとえ話を用いて真理を説明するときの常套句、決まり文句なのです。ラビたちは、よくこういう言い方をするのです。ラビが行う議論では、真理を説明するためにたとえ話を用いることがよく行われていました。ユダヤ的な議論に於いて、たとえ話が中心的な位置を占めているという点は、ギリシャやローマの哲学者たちの行う議論とは、大きく異なっている点かと思います。

 主イエスは、ここで「神の国」を説明するために、2つのたとえ話を用いていて、最初が「からし種」のたとえ話なのです。からし種というのは、クロガラシの種のことを指すと考えられています。クロガラシの種は、主イエスの時代、最も小さい種として知られていて、調味料として、あるいは、油を採る種としても、とても珍重されました。19節で、『人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、』と語られていますが、厳密には木のように見えているだけで、厳密には木ではないのです。この植物は、ものすごく成長するのです。だから、始まりは小さい、けれど短時間に大きくなることの象徴として、このからし種が用いられているのです。始まりは小さい、しかし、大きくなるという意味です。主イエスは、「神の国」はからし種に似ていると語られたのですが、ここで、主イエスが語られた「神の国」というのは、奥義としての王国と呼んでいるものだということを言いましたが、実にその始まりは小さなものだったのです。主イエスの弟子たちは、少数だったのです。さらに主イエスの教えは、この世の価値観とは正反対のものだったのです。この世の価値観とは対立する主イエスの教えを信じる小さな集まりからスタートしたのです。『人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、』とありますが、木のように成長したのです。からし種は植物学的には、木ではありません。からし種は植物学的には、厳密にはアブラナ科アブラナ属の一年生植物で、野菜と考えられています。からし種は非常に小さな種ですが、パレスチナでは蒔くと、短時間のうちに草丈が非常に高く、成長すると3〜4メートルもの高さの木と見間違うほどにまで成長します。その結果、『その枝には空の鳥が巣を作る。』とあります。空の鳥、つまり野生の鳥がその枝に宿るようになったというのです。さて、ここで問題は、空の鳥が何を意味しているかということです。つまり、空の鳥が良いものなのか、悪いものなのかということが、この箇所を読む上で問題となるのです。それでは、聖書の中で空の鳥がどのように描かれているかを見てみたいと思います。マタイによる福音書13章3b〜4節には、『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。』とあります。種を蒔く人が種を蒔いた4種類の地で、種が育った。しかし、最初の道端に落ちた種は、鳥が来て食べてしまった。ここでの鳥は、悪魔であったり、悪霊であったりということを指しているのです。『種を蒔く人』のたとえ話が、神の国のたとえ話を解釈する基準となっているのです。ですから、『種を蒔く人』のたとえ話で、鳥が悪魔や悪霊のことであったとすれば、同じ原則で解釈するすべきなのです。ここでは、空の鳥というのは、ギリシア語の「ペテイノン」の複数形となっていて、悪魔の手下どもの象徴なのです。ということは、このたとえ話は、キリスト教会は小さな始まりから、巨大なものになるのだけれども、悪の影響を受けるようになるのだということです。それが、奥義としての神の国の解説なのです。

 周りにいた群衆は、旧約聖書が預言していた神の国が直ぐに来ると思ったのです。しかし、主イエスは、そうではない、これから再臨までの間、奥義としての神の国の時代に入り、初めは小さかったキリスト教会は巨大化するけれども、悪の影響を受けるようになるのだという予言的な警告を語っておられるのです。

「パン種」のたとえ話

 次に、本日の聖書の箇所の20〜21節には、『また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」』と記されています。ここで、「パン種」という言葉が使われています。私たちの世界では、パン種(イースト菌)の入ったパンはやわらかく、そして食べておいしく感じるものですが、神様の世界では違います。パン種の入ったパンは、たとえおいしくても、日持ちが悪く、やがてはだめになってしまうのです。

 「パン種」という言葉は、罪や誤りの教理を象徴しています。旧約聖書では、種なしパンの祭りというものがあります。過越の祭りと、それに続く7日間の祭りから、パン種は家から取り除かれたのです。(出エジプト記12章15節)つまり、これは偽りを取り除くという象徴的な行為なのです。パン種という言葉が象徴的に用いられた場合は、罪や偽りの教理を示しているのです。新約聖書で、パン種という言葉が象徴的に使われている箇所をここで紹介したいと思います。マタイによる福音書16章6節には、『イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。』とあります。ここでのパン種というのは、偽りの教理です。マタイによる福音書16章12節を見ると、『そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。』とあります。パン種が象徴的に、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えとして語られていることが分かります。また、コリントの信徒への手紙一5章8節には、『だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。』とあります。ここでも、パン種が悪い意味で象徴的に用いられています。ガラテヤの信徒への手紙5章9節には、『わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。』とあります。パウロのこの言葉は、ほとんど主イエスの「パン種」のたとえと同じ内容を伝えています。

 本日の聖書の箇所の21節には、『パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』とあります。ここで、パン種を混ぜるとありますが、「混ぜる」という動詞は、ギリシア語で、「エンクルプトウ」と言いますが、これは「隠す」、「しのばせる」という意味の言葉が使われています。つまり、「パン種」を3サトンの粉に忍ばせる、隠すのです。その結果、この粉全体が膨らむと言うのです。このたとえ話の背景を考えて見ますと、ローマの町々には、この当時、すでにパン屋がありました。ですから、専門のパン屋からパンを買って食べるというのが一般的になっていたのです。しかし、パレスチナの地、ガリラヤ地方では、まだそこまでは行っていなくて、女性がパンを家で焼いていたのです。ここでは、3サトンの粉とありますが、1サトンというのは約14リットルなのです。従って、3サトンは約42リットルになるのです。42リットルの粉というのは、1人の女性が捏ねることのできる最大の量なのです。42リットルの量というのは、その量でパンを焼くと、大体100人くらいが食べて満腹となる、それくらいの量なのです。このパン種のたとえ話から学ぶ教訓ですが、これは偽りの教えがこっそりと入り込んで来る、キリストに関する教えの中に誤った異端の教えが、ずるがしこく奥義としての王国に浸み込んでくることを教えているのです。そして、偽りの教えが入り込んで来た結果、粉全体が膨らむのだ、つまり、キリスト教会全体が影響を受けるのだということを教えているのです。

神の国が成長する中で

 本日の聖書の箇所で、私たちは「からし種」と「パン種」のたとえ話について、学んできました。「からし種」と「パン種」のたとえは、単純に、旧約聖書で預言された神の国の完全な姿を描いているのではなく、むしろその反対です。主イエスが、奥義としての神の国のたとえとして「からし種」を取り上げたことは、少し考えてみると、とても不思議なことと言うことができます。それは、聖書では、オリーブ、ぶどう、イチジクの木は祝福の木で、地上で神のあかしをするイスラエルを比喩的に表しているものだからです。しかし、からし種は、食欲増進のためにだけ用いられるものです。

 また、エゼキエル書の17章22〜24節には、『主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。』とあります。22節の『この柔らかい若枝』とは、来るべき救い主、メシアを表す言葉です。この小さく低められていた若枝を、主は大いに成長させて、枝を伸ばし、実を実らせ、うっそうとしたレバノン杉にしてくださると言うのです。

 レバノン杉とからし種の木とは、似て非なるものだと言うことができます。今日の聖書の箇所で、からし種が成長した木には不思議なことがあります。1つ目が、最も小さい種から最も大きい木のような野菜になるという驚くべき生長です。2つ目が、庭園の野菜である草木が大きな木になるという不自然な生長を遂げ、その木の枝に空の鳥が巣を作るということです。「からし種」のたとえ話では、空の鳥が来て、そこに巣を作ることになるように、悪影響が出てくるのだということを教えているのです。そして、これはより具体的に言うと、キリスト教の要素を一部用いて、異なった教えを教える異端の象徴でもあるのです。木に巣を作っているというのは、キリスト教の一部を利用して、間違った教えを教えているということです。

 さらに、「パン種」のたとえ話では、わずかばかりのパン種を忍び込ませると、粉全体が膨らむのだ、「パン種」は誤った教えや偽善といった悪影響が広がって来る、ということを教えているのです。「パン種」はキリスト教会に影響を与える誤った教理です。「パン種」を混ぜると全部が膨らむのです。従って、「パン種」という言葉が象徴的に用いられた場合、それは誤った教えが入り込むと、キリスト教会全体に誤った教えが存在するようになると言っているのです。

 これらがこの2つのたとえ話の意味なのです。私たちは、同じ聖書を読みながら、なぜおかしげな教えが存在するのかと疑問に思います。しかし、主イエスはすでにこの段階から、弟子たちに、そして、私たちに警告を与えておられるのです。主イエスの話を聞いたときに、人びとが正しく理解できていれば、これからキリストの再臨までの間に、キリスト教会がどのような歩みをしてゆくのかということを理解した筈なのです。

 現代に生きている私たちは、主イエスの教えがその後の約2,000年の歴史の中で、どのように展開したのか、これが現実になったのかどうかということを確認できるところに立っているのです。ですから、私たちは聖書から、福音の真理を理解して、主イエス・キリストを救い主として受け入れているならば、その信仰によって救われるという信仰に立ちたいと思います。そうでなければ、どんなに立派な看板を背負っていたとしても、どんなに人びとに認められる社会実践をしていたとしても、救われてはいないのです。現代においても、様々な異端やおかしげな教えが存在していることは驚くようなことではないのです。それを前提に、今日の聖書の箇所で、主イエスは注意するように教えて下さっているのです。私たちは、主の警告に従って、しっかりと聖書のみ言葉を学び、備えて行きたいと思います。あなたに関しては、正しく学びなさいと、主イエスが語られていることを覚えたいと思います。私たちは、聖書の一つ一つのみ言葉を正しく理解して、聖書の一つ一つのみ言葉の上に立った、自立した信仰を持ちたいと思います。 

 それでは、お祈り致します。