小倉日明教会

『神の国の宴会の招待客』

ルカによる福音書 14章 12〜24節

2024年 1月 21日 降誕節第4主日礼拝

ルカによる福音書 14章 12〜24節

『神の国の宴会の招待客』

【奨励】 川辺 正直 役員

カフカの少女への手紙

 おはようございます。チェコのプラハで生まれ育った、ドイツ語作家のフランツ・カフカの名前は多くの方がご存知かと思います。カフカの代表作としては、『変身』、『審判』、『城』や『断食芸人』などが有名です。カフカは不条理な世界観を特徴とした作品で有名な作家です。カフカは、保険局員として働きながら執筆を続け、それから長年結核の闘病生活を送りました。彼は41歳で亡くなるのですが、彼の死の前の年、カフカの最期まで寄り添うことになる、若いポーランド生まれの女性ドーラ・ディアマントと二人で、病気の療養も兼ねてドイツのベルリンに住んでいました。ドーラは、繊細なカフカが、家族以外で一緒に生活することができた唯一の女性だったのです。

 カフカとドーラは、ベルリンで暮らしていた頃に、よく郊外のシュティーグリッツ公園に散歩に出かけたそうです。ある日、いつものようにカフカとドーラが一緒に公園を歩いていると、散歩道の途中で幼い少女と出会いました。少女は声をあげて泣き、すっかり打ちひしがれた様子なのです。2人が、「どうしたの?」と尋ねると、少女は「お人形さんがいなくなっちゃったの」と答えました。すると、カフカはなだめるように、「君のお人形さんは、今ちょっと旅行に出ているだけなんだ。ほんとうだよ。おじさんに手紙を送ってくれたんだから」と言いました。

 「そのお手紙、持っているの?」と少女が尋ねると、「いいや、お家へ置いてきちゃった。でも、あした持ってきてあげるからね」とカフカは答えました。

 少女は、目に涙を浮かべながら、カフカをじっと見ました。彼女の不信と好奇心の入り混じった眼差しに、カフカは優しくほほえみ返すと、少女と別れ、ドーラと一緒に家に帰りました。帰宅したカフカは、さっそく自分の机に向かい、手紙を書き始めました。カフカの姿勢は真剣そのものでした。少女の心に寄り添う「人形の手紙」に、まるで日頃の創作のように取り組みました。

 翌日、カフカたちが手紙を持って公園に向かうと、少女は約束通り公園で待っていました。少女は、まだ字が読めなかったので、カフカはその「人形の手紙」を声に出して読んであげました。手紙のなかで人形は、自分が一体なぜ姿を消したのか、その理由を少女に語ります。

 人形は、決して悲しい理由から姿を消したのではなく、しばらく今の場所を離れて新しい世界を見てみたかったからなのだと少女に伝えました。それから、少女に対して人形は、「毎日手紙を書くから」と約束しました。こうして人形は、カフカという作家の心を借りながら、自分の日々の新しい冒険について語っていくことになります。手紙を重ねるうちに、人形も次第に成長していきました。学校に通い、友人との付き合いも増えていきます。そして、ある日のこと、人形は、悲しい真実を打ち明けるように少女に言いました。

 「あなたのことはとても愛しているわ。でもね、付き合いや日々のしなければいけないことが積み重なって、もしかしたら、もう一緒に暮らせないかもしれないの」人形と少女との避けられない別れの準備は、少しずつ進められながら、少女に宛てた人形の手紙は3週間ほど続きました。カフカは、手紙の結末に悩みました。それは、大切な存在を失ったことで生じた少女の傷口を癒す「物語」でなければなりませんでした。考え抜いた末に、カフカは、人形の「結婚」をフィナーレに迎えることにします。

 人形から少女に宛てた最後の手紙では、婚約のパーティーや準備の様子、若い新婚の2人の家などが丁寧に描写されました。文面に耳を傾けながら、少女の目の前には穏やかな、幸福に満ちた景色が広がっていきました。

 手紙の最後で、人形は、祝福の想いに満たされた少女に向かって、そっと語りかけたのです。「わたしは幸せよ、今までありがとう。そしてわたしたちは、きっともう2度と会えないとあきらめなければならないことを、わかってほしいの」。手紙を読み終えたとき、少女の心のなかの人形を失ってしまったという悲しみはすっかり消え去っていました。少女は、人形が幸せでいるという知らせによって、人形を失ってしまったという悲しみを、悲しみとして受け容れることができたのでした。

 本日の聖書の箇所は、主イエスが、神の国の宴会の招待客について語っている箇所です。神の国への招きに応えることはどういうことかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

宗教的指導者たちの不従順

 さて、現在、私たちが連続して読んでおりますルカによる福音書では、13章の18節から、『神の国』がテーマとなった教えが連続して続いていて、『神の国』というテーマが、主イエスの宣教において、非常に重要なテーマであったということが分かります。『神の国』とは、私たちはそれを千年王国と言っていますが、旧約聖書で言うところのメシア的王国のことです。前回、お話ししました14章の1節から、本日お話しする24節までは、ファリサイ派のある議員の家に、食事に招かれた際に、主イエスがお語りになった、4つの教えが記されています。

 この食事に招かれる直前の文脈を見ますと、主イエスはエルサレムの崩壊を予言されているのです。13章の35節には、『見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。』と記されています。『お前たちの家は見捨てられる。』というのは、エルサレムの神殿のことです。エルサレムの崩壊と神殿の崩壊を、主イエスが予告されたのです。

 そして、主イエスの再臨まで、ユダヤ人たちは主イエスを見ることがないという予告が語られているのです。このことを聞いて、ファリサイ派の人々、イスラエルの宗教的指導者たちが、主イエスに対して、怒りを覚えたことと思います。エルサレム崩壊と神殿の崩壊の原因がどこにあるのかと言いますと、宗教的指導者たちの不信仰、不従順にあるのだと、主イエスは言っているのです。そして、そのことが、今日の話からも明らかになってゆくのです。

お返しができない者を招く

 本日の聖書の箇所の12節には、『また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。』と記されています。前回取り上げました婚宴に招かれた人のたとえ話は、主イエスが食事の席に招かれた人たちに、ある話をされたのです。1つ目には、謙遜は神の国での重要な資質の1つであるということです、そして、2つ目には、人は自分で上席を選ぶことはできないということです、3つ目には、主イエスの弟子となって、自らを低くするなら、神様が高く上げて下さる、ということです。食事の席の上席を争っている人たちを見て、主イエスは謙遜の重要性を語って下さったのです。下座に着いていれば、主人が来て、もっと前にお進み下さいと言って下さるという話でした。これが、前回お話したことで、これらは食事の席の客たちに向けたお話だったのです。

 今日は、それとは異なっているのです。今日の12〜14節の客を招待する者への教訓は、その家の主人に向けた教えで、社会的側面と霊的側面を持った教えなのです。12節で、主イエスがどのようにおっしゃられているかと言いますと、友人も呼んではいけない、兄弟も呼んではいけない、親類も呼んではいけない、近所の金持ちも呼んではならない、とおっしゃられているのです。どうしてかと言いますと、お返しができるでしょ、と言うのです。お返しができる人を招いた場合には、お返しを受けるだけで、それで終わりであって、それ以上のものにはならないのだと言うのです。

 それでは、どのような人たちを招いたら良いのかと言いますと、13節〜14節には、『宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。』とあります。主人が食事に招待するべき人がどのような人かと言いますと、お返しができない者を招きなさいと言うのです。具体的には、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさいと言うのです。つまり、当時のユダヤの社会にあって、誰かの世話にならないと、生きるのが難しい人たちを招きなさいと言っているのです。主イエスはなぜ、このような話をされているのでしょうか?

 そのことを考えてみますと、主イエスがお語りになっているこの原則というのは、神様が私たち罪人を神の国に招くときの原則なのです。神様は、自分でできると思う人は、招かないのです。あるいは、招きを受けても、そういう人は招きに応答しないのです。神様は、この世の基準から言うと、無価値な者、取るに足りない者を招いておられるのです。主イエスご自身の奉仕を見てみましても、貧しい者たち、病気の者たちを招く医者として、ご自分を啓示されたのです。このことによって、神は栄光をお受けになるのです。

 ルカによる福音書4章18節〜19節には、『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』とあります。これは、主イエスがナザレの会堂で、イザヤ書を朗読した時の聖句です。主の霊は、誰に福音を告げ知らせるのでしょうか?捕らわれている人や目の見えない人といった、圧迫され、打ちひしがれている人に、主イエスは奉仕をされる。これが、神様が罪人を招く時の原則だと言うのです。お返しができない人たちを招くのだというこの主人は、貧しい人たちを招くわけですが、貧しい人たちを招いた主人は、義の行いをしたことになる、そして、その主人は、正しい者たちが復活するときに、報われると言うのです。これは、良い行いをしたから、この人が救われるという意味ではないのです。この主人は神様を信じているのです。この主人の良き行いは、信仰から出ているのです。まず、信仰があって、そこから出た行動だということです。そして、その信仰から出た行動に対しては、報われる時が来るのだと言うのです。イエスの教えは、深遠な霊的な真理を含んでいるのです。つまり、私たちが主イエスによる救いの恵みの中で高められ、世の終わりに神様が与えてくださる復活と永遠の命という大きな報いが与えられるというのです。

神の国で食事をする

 次に、本日の聖書の箇所の15節には、『食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。』と記されています。15節の冒頭に、「食事を共にしていた客の一人は」とありますが、この人は、ファリサイ派の議員が催した食事会に招かれた客の一人であり、主イエスと共に食事をしていたのです。この人が「これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」、と語られています。この人は、霊的に鋭い感性を持った人だと思います。なぜかと言いますと、彼は主イエスが実は「神の国」の宴会について教えているということを理解したのです。ですから、霊的な洞察力を持った人だと言うことができます。しかし、間違っている点があるのです。それは何かと言いますと、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言っていますが、これは誰か他の人のことを言っているのではなくて、彼自身のことを言っているのです。この人は、私もその中にいますよね、私は何と幸いなのでしょう、と言っているのです。

 当時のファリサイ派の人々は、神の国の宴会に招かれるのは、ファリサイ派の人たちの特権であると思っていたのです。ですから、ファリサイ派の人たちが食事を計画した、そこに招かれている人たちも、同じファリサイ派の人たちが多いに違いないと思っていたのです。この発言をした人も、自分はこの宴会の席に招かれると確信しているのです。ですから、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と自分のことを言っているのです。

 そこで、主イエスはこの人の言ったこのタイミングを捉えて、その人とそこにいる人々全員に向かって、誰が神の国に入るのかについての教えを語るのです。ここでも、謙遜の重要性が教えられます。神様の招きを受け容れるほど謙遜な人でなければ、神の国には入れないということが語られるのです。

盛大な宴会への招待

 ここで、主イエスの話が始まるのです。本日の聖書の箇所の16〜17節では、『そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。』とあります。

 ある人が盛大な宴会を催したのです。この宴会の主人は、神様のことです。神様が宴会を用意された、つまり、メシア的王国を準備し、そこに人々を招いたのです。僕が派遣されます。僕は主イエスのことです。御子である主イエスは神の国の到来を宣言し、人々を招かれたのです。神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい。神の国の到来を宣言し、人々を招かれたのです。招かれたのは誰かと言うと、主にユダヤ人たちです。彼らはこの主イエスの話の中では、招いていた人たちです。彼らは既に招かれていたのです。これがユダヤ人たちなのです。主イエスが生きておられた時代に、こういった大きな宴会を開くためには、宴会の準備のために、とても時間がかかったのです。だから、準備ができたと僕は言っているのです。神様も時間をかけて、み国の宴会の準備をしておられたのです。神の国、千年王国が始まる、その始まりの時にみ国の宴会が開かれるのです。文字通りの神の国の宴会です。その準備を神様はしてこられ、用意が整った時が来たのです。このことが、主イエスが公生涯を歩んでおられ、そして、この教えを語られた時の状況なのです。しかし、話はここからややこしくなって行くのです。招かれていた人たちが、どう応答したかということです。

自分の財産を適切に管理するために

 次に、本日の聖書の箇所の18節〜20節を見ますと、『すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。』と記されています。

 18節の冒頭に「すると皆、次々に断った」とあります。招かれていた人たちに、僕が声を掛けたのです。どうぞおいでくださいと、言ったわけですが、ところが、皆、同じように断り始めたのです。宴会に招待され、最初はその招待を受けたはずなのに、皆、次々に断ったのです。ここで、断った理由が3つ挙がっています。これは、3つだけということではないのです。人々が断る代表的な例がここで挙げられているのです。これ以外にも、たくさんの理由が考えられます。これは、一言で言えば、人生の優先順位をどうするのかという問題なのです。私たちは、何を第1に生きるのかという問題なのです。

 本日の聖書の箇所では、3人の人について、その理由が語られています。最初の人は「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言いました。今もそうですが、当時も土地の所有者になるということは、一般の庶民にとっては、夢のようなことです。この人は長い間をかけて、努力の末にお金を貯めて土地を買ったのです。従って、この人は土地の所有者となったことを誇っているのです。畑を買ったので、見に行くのです。共同体の仲間がたくさん来ていることと思います。この人は、共同体の中で尊敬を受けることを期待しているのです。これが、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。」と言っていることの意味なのです。何も、今、見に行かなくても、畑がなくなるわけではないのです。ただ、彼は誇りたいのです。招かれていた宴会に行くよりは、人々の賞賛を受ける方が大事なのです。

 もう一人は「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言いました。この人も、おそらくある程度のお金を持っている人だったのだと思います。牛を二頭ずつ五組、つまり十頭買うにしても、土地を買うのと同様に、それなりにお金が必要だったと思います。この人は、宴会への招きよりも、新しく手に入れた牛に興味があるのです。この人は、牛を買う前に、十分に吟味していたはずです。それなのに、買ってからも吟味しようとして、宴会の招きを断るというのは、物欲に支配されているからなのだと思います。

 もっとも二人がお金を持っていたことが悪いという話ではありません。彼らは手に入れた畑や牛を大切にしているからこそ、買ったばかりの畑を見に行く必要がある、買ったばかりの牛を調べに行く必要がある、と言っているのです。この二人は、自分たちが持っているお金を無駄遣いして、浪費しているのではありません。自分が購入した畑や家畜をきちんと管理しようとしている、つまり自分の財産を適切に管理しようとしているのです。この人たちは良識のある人たちであり、自分の財産に責任を持っている人たちなのです。私たちの多くは畑や牛を買うことはないとしても、それぞれに与えられているお金を始めとする財産を適切に管理しようとするのではないでしょうか。ですから、現代の私たちにとっても、この二人の行動は突拍子もないものではないのです。

家族との時間を大切にするために

 もう一人の人は「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言いました。ここではこの人がお金持ちであるかどうかは関係ありません。結婚したばかりなので妻との時間を持ちたい、と言っているのです。アツアツの新婚生活なのは羨ましいけれど、少し自分勝手が過ぎると私たちは思うかもしれません。しかしもう少し広く捉えるならば、この人が言っているのは、家族との時間を大切にしたい、ということなのではないでしょうか。そうであれば私たちはこの人の行動を、ただ自分勝手な行動と受け止めるわけにはいかないと思います。夫婦であれ、親子であれ、兄弟であれ、家族との時間を大切にすることは重んじられて然るべきだからです。

 この三人だけが招待を断ったのではありません。「すると皆、次々に断った」とあるように、招かれていた人たちが皆、次から次へと断ったのです。ほかの人たちが招待を断った理由は分かりませんが、この三人の理由が、ほかの人たちの理由を代表していると考えれば、ほかの人たちが招待を断った理由も、宴会に出席するよりも優先すべきことがあったからではないでしょうか。

 しかし、本日の聖書の箇所には、並行記事があるのです。マタイによる福音書22章1〜3節には、『イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。』とあります。マタイによる福音書では、この招待が王による招待であり、しかも生涯に1度しかない王子の婚宴であることを明らかにしています。そして、そのような招きを人々はことごとく無視します。それを断ることがどんなに重大なことであるのを示そうとしています。喜びの祝宴、それも神の国の祝宴への招待を断るとはどういうことでしょうか。天の国、神の国への招待を、この世の事柄によって心が一杯になって、少しも重大には感じていないことがここでは浮き彫りにされています。招きに応じないだけでなく、その招きを伝えに来た者たちをも激しく拒否し、敵対しました。そのような人間の思い、この世の事柄に心が奪われてしまう罪によって、主イエスはやがて十字架へとかけられて行くことになるのです。

一人の僕

 次に、本日の聖書の箇所の21〜22節には、『僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、』とあります。

 主人が怒るのは、当然です。先程、申し上げましたように、時間をかけて、宴会の準備をしたのです。そして、この主人は恵みによる招きを与えたのです。それは、父なる神様の思いなのです。大きな犠牲を払って、宴会の準備をして来たのです。全部用意が出来たのです。招かれた人たちは当然来てくれると思っていたのです。しかし、彼らは拒否したのです。主人にとっては、これは自分に対する侮辱なのです。これだけの時間と労苦をかけた宴会が拒否されたのです。この主人は侮辱されたと考えたのです。

 この招きを拒否したのは、特に主イエスの時代の宗教的指導者たち、すなわち、ファリサイ派の人たち、律法学者たちです。今日の聖書の箇所のファリサイ派の議員の食事の席についているファリサイ派の人たちが招きを拒否したのです。だから、主人は怒って、僕に何と言ったのでしょうか。この主人は、『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』と言ったのです。つまり、ここで挙げられている人たちはどういう人たちかと言いますと、指導者たちが、そして、ファリサイ派の人たちが見下していた人たち、律法を知らない、地の民と言われていた人たち、その人たちが招かれることになったと言うのです。地の民である「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」とは、いずれも当時の社会においては差別されていた人たちです。体に傷のない完全なものが聖なる神に仕えるのにふさわしい人々だと考えられていたその当時では、体に障害のある人々が、汚れた者として神の前に出ることは認められなかったことを考えますと、ルカによる福音書の書き方は大切なことを伝えています。そして、この主人は『急いで町の広場や路地へ出て行き、ここに連れて来なさい。』と言っているのです。なぜ、急ぐのでしょうか?宴会の準備ができたのです。だから、今、空席になって、急いで新たな客を招く必要が生じたのです。そこで、僕はそのようにしたのですが、僕は、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と報告したのです。

 招かれていなかった多くの人が招きに応じたのですが、まだ、席に余裕があったのです。そこで、この主人は、意外な人たちまで招くことにしたのです。ここから、異邦人が招かれるという話になってゆくのです。

招きに応えて

 本日の聖書の箇所の23〜24節には、『主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』』とあります。これは、主イエスの時代のユダヤの習慣を理解しておく必要があります。当時の習慣では、客が全員揃うまでは、宴会は普通始まらないのです。だから、空席がある内は、宴会は始まらないのです。そこで、主人は僕を町の外の通りまで遣わして行くのです。通りや小道にいる人たちというのは誰のことかと言いますと、私たち異邦人のことなのです。異邦人たちは、町から遠く離れたところにいるのです。異邦人は、神様がイスラエルの民と結んだ契約からは、遠く離れたところにいたのです。この宴会の招き、イスラエルとの契約とは無関係だったのです。この無関係であった異邦人が招かれ、『無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』と言っているのです。『無理にでも、』というのは、強制的に、意志に反して、そうせよという意味ではないのです。これは、熱心に説得し、熱心に招きなさいという意味なのです。私たちは、聖霊の熱心さに、説得して頂いて、主イエス・キリストを信じる者となったのです。

 24節に、『あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』とあります。最初から招かれた人たちは、不信仰の故に、神の国から排除されるというのです。それとは対象的に、契約の外にいた異邦人が招かれるというのです。異邦人の救いは、ルカによる福音書と使徒言行録を一貫して貫く重要なテーマなのです。指導者たちが主イエスを信じない。その招きを断る、それ故、彼らは滅びてゆく、エルサレムは崩壊し、神殿は破壊される。彼らが原因なのだ。イスラエルが躓いた時に、今度は、招きは、異邦人にまで届けられ、異邦人がその宴会に出席するようになると言うのです。

 私たちへの熱い思いのゆえに、真剣な思いのゆえに、神様は主イエスを私たちのところに遣わしてくださり、十字架に架けてまで、私たちの救いを実現してくださったのです。神様は私たち一人ひとりを主イエスによって実現した救いへと招いておられます。私たちはなにか条件をクリアすることによってこの救いに与るのではありません。ただ神様の招きを受け入れ、その招きに応えることによって、恵みにより、救いに与るのです。私たちがなすべきことは、神様の招きを軽んじることなく、真剣に受けとめることだけなのです。神様の招きに応え、救いに与るとき、私たち自身の奥底にある渇きや飢えが満たされます。私たちの人生が虚しさから解放されて、救いの豊かな恵みで満たされるのです。神様がただならぬ思いで、独り子を十字架に架けてまで、私たちを招いてくださっています。そうであれば私たちも、この神様の招きを真剣に受け止めずにはいられないはずです。私たちは神様の真剣な思いを受け止め、神様の招きを断ることなく、その招きに応えて、喜んで神の国の食事の席に着きたいと思います。  

 それでは、お祈り致します。