小倉日明教会

『神の業が現れる』

ヨハネによる福音書 9章 1〜12節

2024年 2月25日(日) 受難節第2主日礼拝

ヨハネによる福音書 9章 1〜12節

『神の業が現れる』

【説教】 沖村裕史牧師

■出発点

 道端に盲人が座っていました。エルサレムの神殿に向かう道を大勢の人が行き来しています。彼の膝下に小銭を投げる人があり、また目をそらして急いで通り過ぎる人もいます。立ちどまろうとした子どもが母親に手をひかれて立ち去ったりします。イエスさまと弟子たちも通りがかりました。この盲人を見たとき、弟子たちは、とっさに日頃抱いていた疑問を師に投げかけます。

 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」

 「生まれつき」というのは、なにか運命とか宿命とかを思わされます。だれのせいでこうなったのだろうか、と思う。本人が持って生まれた宿命なのか。両親に罪があったのか。それとも先祖のだれかに…。昔の人はそう考えたという話ではありません。洋の東西、時代を問わず、今の人々にも脈々と受け絆がれている感覚です。

 だれのせいでこうなったか。第三者のそういう好奇心による問いは、病む人を苦しめます。そういう問いが、苦しみを負っている人をさらに追い詰めます。そんな問いを病んでいる本人や家族が抱くようになれば、事態はより深刻です。そういう心理を利用して、物を売りつけたりする人がいます。「この家の先祖が大罪を犯しているのでこういうことになっています。この壺を買えば呪いは解けます」というわけです。

 だれのせいでこうなったのですか。その問いに答えて、イエスさまは言われます。

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」

 本人のせいでも、両親のせいでも、先祖のせいでもなんでもない、と言われます。

 「神の業がこの人に現れるためである」

 弟子たちは聞きました。だれのせいで、こうなったのですか。だれのせいで、こういう結果になったのですか。イエスさまは答えられました。ここに、この人に結果が、結論が出ているわけではない。

 「神の業がこの人に現れるためである」

 神の業がこれからまさに、この人に行われようとしている。この状況を、結果生まれた状況と理解してはならない。神がこれから業を行われる始まりの地点なのだ。イエスさまはそう言われたのです。

 人間は考えます、なぜこうなったか、と。しかし、イエスさまは言われます。ここから神は業を始められるのだ、この現実は神の業の出発点なのだ、と。

■混沌を用いて

 神は天にあって、人間の現実をただ眺めて、ただ嘆かれる神ではありません。人間の現実の只中に来られ、関わり、創造の業をなさる神です。

 この福音書冒頭、一章一四節にこうありました。

 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの聞に宿られた」

 この肉のゆえに躓(つまず)き、悩み苦しんでいるわたしたちの間に、同じ肉の姿をとって来てくださった救い主は、だれよりも近くに共にいて、わたしたちのために業をなさってくださるのだと言います。

 木に登って、救い主イエスを見物していた徴税人ザアカイにも、イエスさまは言われました。

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ一九・五)

 「家に泊まる」ということは、「刎頸(ふんけい)の友になる」ということを意味しています。その人のためなら首をはねられても悔いはないと思うほどの深い交わりに結ばれた友となり、共に生きるようにして、人は救い主に癒されていくのです。

 そして今日は特に、創世記の中のヨセフ物語を取り上げてお話ししたいと思います。

 ヨセフは、ヤコブの息子たち十二人兄弟の末っ子でした。末っ子でしたが、彼には神からの大きな約束が与えられているとの自覚がありました。それは、神が見させてくださった夢によって与えられたものです。その夢を、彼は兄たちに話しました。「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」(三七・七)。また別の夢を見て、それも兄たちに話しました、「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです」(三七・九)と。

 ヨセフはこの夢を、自分がやがて家族を救い、養う者にされるという、神の約束だと信じました。その確信が、波乱に満ちたヨセフの生涯を支えました。しかし、そんなヨセフを兄たちは憎み、彼を荒野の穴へと投げ棄てます。すると、そこを通りかかった隊商にヨセフは助けられ、エジプトに連れて行かれ、奴隷として売られます。その間、ヨセフの言葉はひと言も記されません。

 奴隷として売られた家で、彼は精一杯働きます。主人に信頼され、家の管理を委ねられ、財産のすべてを任せられるまでになりました。しかし主人の妻の誘惑を拒否したことで讒言(ざんげん)され、不忠者、裏切り者として牢に入れられます。人間、落ちるところまで落ちた、その下はないという状況です。しかし、そこでも聖書は語ります。

 「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった」(三九・二一~二二)

 監獄というどん底、しかも陥れられた場所にあっても、ヨセフは投げ出しませんでした。どん底を与えられた場所として、前向きに生きたのです。「主がヨセフと共におられ」たからです。あの約束はこのどん底でも生きている、ヨセフはそう信じ抜きました。

 やがて、この監獄に入れられたエジプト王の給仕役と料理役の見た夢を解くことが契機になって、ヨセフはエジプト王に取り立てられ、王から国の統治を任されるようになります。故郷で激しい飢饉に見舞われた兄弟たちが食糧を乞うために、エジプトのヨセフのもとにやって来ます。ヨセフはその一族をエジプトに呼び寄せ、養うことになりました。神の約束の成就です。

 神の業は人の目に、まっすぐ前進しているようには見えません。しばしば停滞し、時には逆流しているようにさえ見えます。しかし「主がヨセフと共におられ」―神が共にいますので、信じる者はその場所に踏み留まり、そこで生きることができます。閉ざされていた重い扉は開きます。約束への道が見えます。

 兄たちの策略、主人の妻の讒言、さまざまな落とし穴がありました。人間の罪が、混沌を作り出します。わたしたちの周りには、そういう混沌が渦巻いています。しかし神の業はそういう混沌を貫いて、用いて進められるのです。

 創世記冒頭の創造の記事にこうありました。

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(一・一~三)

 神は創造される神です。昔、世界を創造された神というのではありません。神は今も、世界を創造しつつある神です。人間世界の闇、混沌を神の霊が包み、何事かを起こすべく「動いてい」ます。混沌は放置されないのです。まさに何事かが起ころうとしている緊迫した状況です。そして神の創造の言葉が発せられます。「光あれ」。すると、光がありました。神は世界の混沌、人間の闇の現実から光を創造されます。混沌にもかかわらず、ではありません。混沌を用いて、です。

■見守られている

 弟子たちは、生まれつき目の見えない人を指して、どうしてこんなことになったのですかと問いました。どうして、こんな暗い現実になってしまったのですか。だれのせいですか。救い主イエスの答えはきっぱりしています。ここにあるのは、結果ではない、ここから神が創造の業を行われる始まりだ。

 「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」

 いやしの業は、イエスさまの方から働きかけ、泥を目に塗ってくださることによって始まりました。しかしその時から、彼がシロアムの池で洗って目の開いた時も、それを見て近所の人々が騒ぎ出した時も、今日の出来事の後、ファリサイ派の人々がその事情を調べた時も、彼の両親が調べられた時も、彼が「イエスは神のもとから来られた方」と告白して譲らず、遂にユダヤ人社会から追放された時も、イエスさまは彼のすぐ傍にはおられませんでした。ですから、目は開きはしましたが、彼はずっとイエスさまを見たことはなかったのです。

 その彼が実際にイエスさまを見たのは、地域から彼が追放されるという意外な結果になったその時です。その時、その彼を心配してイエスさまが現れ、初めて彼はイエスさまをその目で見たのです。ということは、イエスさまは彼の傍にはおられませんでしたが、彼をずっと見守り続けていてくださったのだ、ということです。

 彼にすれば、その時初めてイエスさまを見たのですが、イエスさまの方は、彼を見守り続けていてくださったのです。その意味で、開いた彼の目が見たのは、「イエス」であったというよりは、「見守り続けていてくださるイエス」であったと言うべきでしょう。

 つまりその時、彼は自分の存在が、「イエスに見守られているもの」として見えたのです。そして、それこそまさに彼の目が開いたということであり、彼に現れるとイエスが言われた、「神の業」に外なりませんでした。

 ヨセフもまた幾度も、ここが終わりではないかと思わされる地点に突き落とされました。深い穴の山に、奴隷商人の手の中、奴隷、牢獄。しかし陥落したその場所はいつだって、神の業の始まる始点となりました。そして神は、闇から光を創造され、混沌から秩序を創造されるのです。

■苦難の中にあってなお

 以前、教会の礼拝に目の見えない一人の女性が出席していました。名古屋の教会で洗礼を受け、鍼灸の資格を取るために学校の寮に入っていた女性が、学校の友人の話として、こんな質問を投げかけてきました。

 自分の目が見えなくなったのは親の罪のためだ。親が小さいときに十分栄養を与えてくれなかったからで、聖書には本人が罪を犯したためでもなく、親が罪を犯したのでもないと書いてあるが、友人の場合は、親が罪を犯したから不幸になったのだ、そうではないか、と言います。

 その友人の話は彼女自身のことではないか、そして彼女がそのように思っていることは紛れもない事実なのだろうと思いました。病気になることは決して楽しいことではありません。辛いことです。しかしイエスさまは今、苦難の中にある人に対して、そんな中にあってなお、そここそが神の栄光の現れる場なのであって、決して希望のない世界ではない、と言われます。その苦難がなくなるというのではありません。その苦難を神の御心として有難く受け取れと言うのでもありません。それでもなお、その苦難の中にあってなお、あるがままに、かけがえのないものとして、あなたは今も神に生かされている、神の恵みが溢れ出ている、と宣言してくださっているのです。神は一向にわたしを癒そうとはしてくださらないという不満の中にあった彼女はまだ、目が見えない人の、この奇跡の出来事の一面しか理解していませんでした。

 しかし彼女のこの姿は、わたしたちの姿でもあります。不平や不満、不安や恐れにとらわれることの多い、わたしたちです。肉眼が見えていても、日々の不安や恐れゆえに、真実を見誤ってしまいます。自分の健康に欠けが多いことを嘆き続ける、わたしたちです。肉体の健康が確かであっても、心の力が萎えていることを呟き続けるわたしたちです。魂の力が乏し過ぎると言って、まるで生まれつき目の見えないこの人のように、うずくまるわたしたちです。

 しかし、だれの因果がそこに現れたわけでもありません。神の業は、そこにこそ現れるのです。イエスさまがご自身の存在を賭けて、そうあの最も惨めな十字架を栄光に輝くものとしてくださって、この約束を決定的なものとして示してくださったのです。

 わたしたちは、教会は、そこにこそ立ちます。 遣わされた者として、生きる喜びの中にあり続けることができます。レントというこの季節、この光栄を思い、共に励まし合って、「神の業」を担い続けていきたいものです。イエスさまはいつも、わたしたちを見守り続けてくださり、わたしたちが求めさえすれば応えてくださっているのですから。