小倉日明教会

『神を賛美するために戻って来た者』

ルカによる福音書 17章 11〜19節

2024年 5月 5日(日) 復活節第6主日礼拝

ルカによる福音書 17章 11〜19節

『神を賛美するために戻って来た者』

【奨励】 川辺 正直 役員

山里亮太さんのお母さん

 おはようございます。南海キャンディーズというコンビで、しずちゃんこと山崎静代さんと活動している山里亮太さんという漫才師がいます。山里亮太さんは落語が大好きで、とうとう師匠について学ぶようになるのです。そして、プロの噺家達と一緒に大きな会場での落語会に出演することになります。しかし、いよいよ本番の前日になった時に、極度の緊張で眠ることができなくなってしまいます。たまらなくなった彼は、深夜にお母さんにLINEをしたのです。今、自分は絶望的な気分になっているということを伝えたのです。するとすぐに返事が返ってきて、そこには次のように書かれていたそうです。「一生懸命努力して、結果がついてきたら自信になる。一生懸命努力して、結果がついてこないと経験が残る。一生懸命努力せずに、結果がついてきたらおごりが生まれる。一生懸命努力せずに、結果もついてこなければ後悔が残る。あんたは一生懸命努力してきた。お母さんはそれを良く知っている。だから、いいものだけが残る。大丈夫あんたは天才だから」その文章を読んだときに、がぜんやる気が出てきたそうです。

 ところで、山里さんのお母さんは、このような気の利いたアドバイスを、どうしてさっと提示することができたのでしょうか。息子が必死で新しいことにチャレンジしている時、お母さんも遠くから見守り、そしてずっと彼のことを考え続けて来たからだと思います。とっさに思いついた言葉ではないと思います。毎日、毎日、祈るような思いで息子のことを心配し、考え続け、応援したい気持ちを暖めに暖めていたので出てきた言葉であったと思います。山里さんにとって、お母さんは唯一無二の存在であったと思います。

 さて、本日の聖書の箇所には、10人の重い皮膚病を患っている人が出てきます。この10人の人たちの誰にとって、主イエスが唯一無二のお方であったのかということも考えながら、この箇所を読んでいきたいと思います。

エルサレムへ上る途中

 さて、本日の聖書の箇所のルカによる福音書17章11節を見ますと、『イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。』と記されています。ここで私たちは、主イエスが、エルサレムへと上る旅の途中であったことを思い起こされるのです。この旅のことは、13章22節に語られていました。そこには「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあります。主イエスはこの時既にエルサレムに向かって進んでおられるのです。それは何のためだったのでしょうか。13章の少し後の33節で主イエスはこう言っておられます。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。ここに、エルサレムへと向かう理由が示されています。それは預言者として死ぬためです。その死ぬというのは、「殺される」ということです。預言者が、とありますが、預言者は神様のみ言葉を示され、それを人々に語る者です。神様のみ言葉を語れば、人々は喜んで聞いてくれるかというと、必ずしもそのようなことにはならないのです。主イエスはエルサレムで死ぬために、エルサレムで十字架に架けられて殺されるためにエルサレムへ向かわれていたのです。本日の箇所でもその途上で起こった出来事が語られているのです。

サマリアとガリラヤの間

 11節は、主イエスがエルサレムへ向かう途上であったことに加えて、『サマリアとガリラヤの間を通られた』とも語っています。聖書の後ろに聖書地図がありますが、その6「新約時代のパレスチナ」を見ると分かりますように、通常、エルサレムに上るルートは、ガリラヤ湖のすぐ南に行くと、ヨルダン川を渡るのです。そして、ヨルダン川の東側を南に下って行くのです。というのは、当時のユダヤ人たちは、サマリア人の居住地域であるサマリア地方を避けたのです。それは、当時はユダヤ人とサマリア人との間の衝突が良くあったからなのです。ここでは、主イエスはサマリアとガリラヤの間を通られたのです。ガリラヤの一番南とサマリアの一番北が国境地帯になっているのです。主イエスはその辺りを通っておられたのです。従って、主イエスは、ヨルダン川の東側には出ないで、そのままサマリアを南下してエルサレムに向かった可能性もあるのですが、聖書には記述がないので、それから先のことは分かりません。しかし、主イエスは、公生涯の中の最後の過越しの祭りを迎えるために、エルサレムに上ろうとしている旅であるということです。そして、本日の聖書の箇所でのポイントは、『サマリアとガリラヤの間を通られた』ということです。それ故、次の話が出てくるのです。つまり、ユダヤ人とサマリア人の重い皮膚病の患者が同じグループの中にいるのです。このことは、かなり珍しいことなのです。ユダヤ人とサマリア人の間で、お互いが相手に対して持っている偏見、敵対心を考えると、同じグループにユダヤ人の患者とサマリア人の患者がいるというのは、珍しいことであったのです。これは、サマリアとガリラヤの国境地帯だから、このようなことが起きているのと同時に、彼らは本当に悲惨で、惨めな生活を送っていたと考えられます。共通の苦難、つまり、重い皮膚病であったことから、地域の共同体から排除されていたということが、彼らに仲間意識を与えていたと思います。このことから、彼らがいかに大変な生活を送っていたかということが分かります。

重い皮膚病

 本日の聖書の箇所の12〜13節を見ますと、『ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。』と記されています。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が、主イエスに出会ったのです。この箇所が「らい病」と表記されている聖書をお持ちの方もおられるのではないかと思います。以前は、そのように訳されていました。つまり、以前は、この病気は今日の「ハンセン病」のことだと思われていたのです。しかし、聖書に出てくる重い皮膚病は広範囲に及ぶ皮膚病ですが、ハンセン病とは違うことが明らかになっています。また、この言葉が、日本においても、ハンセン病にかかった人々が差別され、社会から阻害されて大きな苦しみを負わされてきたことをもたらしたものでもあったので、新たに出版されている聖書においては、「重い皮膚病」と訳し変えられているのです。大事なことは、当時この病気にかかった人は、「汚れた者」と見なされ、一般の人々と共に住むことも、近くに寄ることもできなかったということです。そのことを語っているのが、レビ記 13章 45〜46節です。この病気にかかった人は、「わたしは汚れた者です」と呼ばわらねばならない、他の人にその汚れが移らないように、常に周囲の人に、「私に近付かないでください」と言わなければならないのです。そして46節にあるように、「独りで宿営の外に住まねばならない」、一般の人々から隔離されて暮らさなければならないというのです。そういう意味でこの病気は当時、体の苦しみのみでなく、精神的にもまことに大きな苦しみをもたらすものだったのです。

 後になって分かりますが、この重い皮膚病を患っている人が10人いるのですが、9人はユダヤ人、1人がサマリア人であったのです。ですから、福音記者ルカがこの記事を書き記しているこの段階では、この10人の内訳はまだ出ていないのです。後になってから、出てくるのです。これは、ショッキングな内容を伝える表現手法の一つなのです。先程も申しましたように、ユダヤ人とサマリア人の間には、民族的な壁があって、一緒に住むということはまず考えられないのですが、彼らは生活を共にしていたのです。なぜかと言いますと、「重い皮膚病」という苦難がその壁を吹き飛ばしたのです。いかに、彼らが悲惨な生活を強いられていたのか、お互いがお互いを憐れみ合うような共同体になっていたと思います。

 彼らは、『遠くの方に立ち止まったまま』、つまり一定の距離を置いたままで、声が届くように、『声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。』のです。

 主イエスが来られたのを見て、彼らは遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、助けを求めたのです。何と言って呼びかけているかと言いますと、『イエスさま、先生、』と言っています。『先生』と言っている言葉は、ギリシア語で『エピスタティス』と言います。呼びかけになると、『エピスタタ』という言葉になります。この言葉は、ルカだけが使っている言葉です。彼らが主イエスを神の子と認めていたのかどうかは、今日の聖書の箇所の記載だけでは分かりません。ただ、ルカが伝えている内容から伺えることは、彼らは主イエスに対して、何らかの信仰に近いものを持っていたということだと思います。それ故、彼らは、『イエスさま、先生、』と呼びかけて、助けを求めたのです。

祭司のところに行きなさい

 次に、本日の聖書の箇所の14節を見ますと、『イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。』とあります。主イエスは彼ら求めに対して応答していますが、おそらくこの10人の重い皮膚病を患っている人たちにとって、主イエスのこの応答は予想外のものだったと思います。彼らが期待していたのは、主イエスは憐れみ深いお方であるから、主イエスは自分たちの身体に手を置いて、触れて、癒しを祈って下さるということであったと思います。あるいは、身体に手を置かないまでも、清めの宣言を行うという、言葉による癒しを与えて下さるというのが、彼らの期待であったと思います。しかし、主イエスは、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』とだけ命じられたのです。まだ、癒されてもいないのに、祭司たちのところに行って、体を見せるというのは、なかなかできないことです。

 しかし、主イエスのこの言葉は、主イエスの言葉、命令を信じて、行動するなら、癒されるという約束でもあるのです。従って、この10人の重い皮膚病を患っている人たちは、信仰を問われているのです。癒されたとか、清められたとかと、宣言することなく、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』、そうすれば、あなた方は癒されているのだという、彼らの信仰を問う言葉となっているのです。つまり、彼らは、主イエスを『先生』、『エピスタティス』と認め、呼びかけた、それが、本当ならば、あなた方はその言葉に従うはずですよね、そして、主イエスを信じる信仰の結果である癒しを受け取るはずですよというのが、この箇所での、主イエスの答えなのです。そして、驚かされることに、彼ら全員がこの主イエスの命令に従ったのです。その結果、何が起こったのでしょうか?

 14節の後半には、『彼らは、そこへ行く途中で清くされた。』とあります。つまり、祭司のところに行く途中で、癒しを体験したのです。祭司の所に行くというのは、重い皮膚病が癒されたということを確認してもらうためです。祭司は医者ではありません。祭司は、レビ記13章〜14章に書かれている、重い皮膚病の患者が社会復帰するための律法の規定に従って、重い皮膚病が癒されたことを確認し、癒された患者が社会復帰することができることを宣言するのです。従って、主イエスは、社会復帰のための律法の規定を尊重されたのです。それで、主イエスは、重い皮膚病が癒されたと思ったら、最初に自分の身体を祭司に見せ、祭司に癒されたという証明書を発行してもらいなさいと言っているのです。この祭司が発行する証明書によって、元患者たちはユダヤ人共同体に復帰することができるのです。

 癒された人たちは、とても嬉しかったことと思います。どれほどの喜びであるのかは、体験した人でないと分からないと思います。絶望の人生から、社会復帰を果たし、希望のある人生に、一瞬にして変えられた訳ですから。そして、癒された人たちは、どうしたのでしょうか?

戻って来た人

 15〜16節には、『その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。』と記されています。ここには、驚くべき事実が語られています。それは、10人のうちの1人が主イエスのもとに戻ってきました。そして、その戻って来た1人は、サマリア人であったということです。彼は、自分が癒されたことが分かると、何をしたかと言いますと、大声で神を賛美したのです。そして、主イエスのもとに戻ってきたのです。大声で神を賛美しながら戻って来たというのは、どういう意味かと言いますと、彼は主イエスが神様からの使者であることを認めたということなのです。そして、主イエスの足もとにひれ伏して感謝しています。これは、礼拝をするときの姿勢です。つまり、彼は神様に感謝し、主イエスを礼拝したということです。その彼が、何とサマリア人であったのです。このことは、ルカによる福音書を読んでいるユダヤ人の読者にとっては、驚くべき事実なのです。実は、このことが本日の聖書の箇所の最も重要なポイントなのです。『この人はサマリア人だった。』、このことがこの物語の1丁目1番地、中心ポイントなのです。

 この事実をもとに、主イエスは弟子訓練の言葉を語るのです。

救いは主イエスのもとに

 次に、本日の聖書の箇所の17〜18節には、『そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」』と記されています。主イエスは、ここで3つの質問を行っています。1つ目が、『清くされたのは十人ではなかったか。』ということです。2つ目が、『ほかの九人はどこにいるのか。』ということです。そして、3つ目が、『この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』ということです。この3つの質問が、何を明らかにしているのか、それは、戻って来なかった9人のユダヤ人の感謝のなさを明らかにしています。つまり、癒しを受けたけれども、感謝を表すことをしなかった。彼らは、ある意味で、代表的で一般的なユダヤ人であったと言うことができるかと思います。一般のユダヤ人たちが、主イエスの奇跡は喜んだけれども、主イエスの教えに対して無関心で、主イエスを救い主として受け入れようとしなかったのです。ですから、この戻って来なかった9人のユダヤ人たちは、一般のユダヤ人の主イエスに対する無関心を浮き彫りにしているのです。

 それに対して、19節には、『それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」』とあります。主イエスは、戻って来たサマリア人を祝福されました。このサマリア人の従順な姿勢、即ち、感謝するために戻ってきて、主イエスも足元で、ひれ伏して礼拝をしたというのは、この人の信仰から出たものなのです。この人が癒されたというのも、この人の信仰によるものです。そして、その信仰は、『先生』と主イエスに呼びかけたこのサマリア人は、本日の聖書の箇所に記されている通りの主イエスに対する信仰なのです。その主イエスに対する正しい信仰が、彼を癒したのです。そして、彼を救ったのです。『あなたの信仰があなたを救った。』というこの言葉は、単に病気が癒されたという言葉ではありません。彼は、同時に魂の救いも得たのです。主イエスを救い主として信じる信仰によって、彼は魂も救われたのです。これが、主イエスが信仰による癒しと救いについて、弟子たちに教えた、弟子訓練の言葉、ユダヤ人ではないサマリア人がこのような信仰を持って救われたことの重要性を弟子たちに教えて下さった内容なのです。

敵対する者を救われる神様の愛に触れて

 10人の重い皮膚病を患っている人たちの応答について見てみたいと思います。10人は、主イエスの言葉を信じ、従ったのです。ですから、そこまでの信仰はあったのです。その結果、祭司のところに行く途中で、彼らは癒されたのです。彼らには信仰がありましたが、問題はその信仰に基づく、忠実さにあったのです。10人の中で、1人サマリア人だけが、帰って来るわけですが、9人のユダヤ人たちはサマリア人よりも律法に関する知識を豊かに持っていた筈なのです。しかし、知識はありましたが、彼らは感謝するために、主イエスのところに戻っては来なかったのです。重い皮膚病から癒された、この9人のユダヤ人たちも、絶望の淵から救い出されて、希望の岸辺へと導かれて来たと言っても良いほど、主イエスお世話になったのにもかかわらず、一言のお礼の言葉をかけることなく、すたすたと歩み去ってしまったのです。彼らは感謝するために、主イエスのところに戻っては来なかったのです。

 それでは、サマリア人の応答はどうであったのでしょうか?このサマリア人は、自分の身に起きたことは、特別な恵みであることを理解したのです。そして、彼は神様の恵みを受けた者には、感謝を表す義務があることを理解したのです。彼は、主イエスの癒しは、特別の恵みであることを理解したのです。

 それにしても、このサマリア人が、他の9人のユダヤ人と違って、主イエスの癒しが特別の恵みであることを理解したのは、なぜでしょうか。主イエスによって、この10人が癒されたことに変わりはなくても、このサマリア人だけは、主イエスがご自分と敵対しているサマリア人をも癒してくださった、と受けとめたのではないかと思います。このことは、他の9人のユダヤ人は考えもしなかったことです。そして、主イエスが敵対している筈の自分をも癒してくださることに、その特別な癒しのみ業に、このサマリア人は神様の特別な憐れみと愛を見たのです。

 レビ記14章4節以下に記されている祭司によるきよめの儀式には、「7日間」、「7度」、「7日目」というように、「7」という数が多く見られます。そして、さらに10節以下に、「8日目に」という規定があります。レビ記14章の14〜16節を見ますと、『祭司はこの献げ物の雄羊の血を取って、清めの儀式を受ける者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗る。祭司は、一ログのオリーブ油の一部を取って自分の左の手のひらに注ぎ、そこに右手の指を浸してその油を七度主の御前に振りまく。』と記されています。ここで、血は主イエスの血潮であり、油は主イエスの御霊、すなわち聖霊です。「右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指」は耳と手と足全体を表わしています。「右の耳」は、「主の声を聞くため」の聖別であり、「右手の親指」は、「主の働きをなすため」の聖別であり、「右足の親指」は、「主に従って歩むため」の聖別の象徴なのです。ですから、主イエスに、重い皮膚病を患っている人たちが癒され、それを祭司に見せるように言われたのは、彼らの「右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指」が神様にある新しい存在として、聖別された歩みをすることが求められていたからなのです。

 7日目までの儀式は、きよめられたことが確認され、主の宿営に戻ることができることを意味していました。しかし、8日目があるのです。8日目は新しい週の初めであり、よみがえりが象徴されているのです。つまり、死のからだを脱ぎ捨てることが重要なのです。私たちの耳は、主の声を聞くために聖別されているでしょうか。私たちの親指は主の働きのために聖別されているでしょうか。私たちの足は主に従って歩むために聖別されているでしょうか。今日の重い皮膚病を患っている10人の人の癒しの話は、単に主イエスがメシアであることだけ理解すれば良いという話ではないのです。主イエスの再臨によって成就する神の国では、すべての耳も手も足も完全にきよめられますが、神の国への招きはすでに始まっているのです。従って、本日の聖書の箇所で、主イエスの弟子訓練の内容は、神様が私たち一人一人を神の国に導き、訓練しておられるということです。それ故、ルカによる福音書の記述は、この後、次回、取り上げる神の国の議論となってゆくのです。

立ち上がって、行きなさい

 主イエスは、癒されたサマリア人に、『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』と語られています。『立ち上がって、行きなさい。』という主イエスの命令は、主の声を聞き、主の働きをし、主に従って歩むことを、私たちに問われているのです。それは、主イエスの再臨によって成就する神の国を前提とした生き方が求められているということだと思います。では、神の国を前提とした生き方というのは、どのような生き方なのでしょうか?

 緒方高司さんという小児科医の先生が、医療現場で出会った子どもたちとの交流を綴った、『君がここにいるということ』という本があります。その本の中で紹介されている一つのエピソードに次のようなものがあります。「みくちゃんに会ったのは、研修医一年目のことだった。私が勤めていた大学病院の小児科に入院してきたのである。しかし、今回は治療のための入院ではない。お腹のガンは、もう手の施しようもないくらいに大きくなっており、これが最後の入院になるということだった。ある日、病室に行くと、みくちゃんは算数の問題集をやっていた。まだ小学三年生なのに、四年生の問題集を解いていた。驚いていたら、ベッドサイドにいたお母さんは言った。小学四年生にもなると結構難しくて、訊かれても私もわからないことが多いんです、と笑っていた。余命わずかな我が子に、算数を教える母の心情に思いを巡らせると、私の心は激しく揺さぶられた。」このように記されています。親が我が子に勉強させるのは、我が子が将来、より良い人生を送るための備えをさせるためです。ところが、みくちゃんはこの時、もう間もなくこの世を去ろうとしていました。もちろんお母さんはそれを知っています。医師は、ここにお母さんの愛を見ているのです。お母さんは愛する我が子、高価で尊い我が子の命を、死を待つだけの命で終わらせたくなかったのです。死んでもなお、生きる命として、希望を持って過ごさせたかったのです。

 私たちには、主イエスが十字架に架かって死に、3日目に復活されることによって、罪の贖いと救いの恵みが与えられています。本日の礼拝の中で、主イエスは、『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』と語られています。私たちは、主の声を聞き、主の働きをし、主に従って歩んで行きたいと思います。 

 それでは、お祈り致します。