小倉日明教会

『荷は軽い方が良い』

マタイによる福音書 4章 18〜22節

2023年6月11日 聖霊降臨節第3主日礼拝

マタイによる福音書 4章 18〜22節

『荷は軽い方が良い』

【説教】 沖村 裕史 牧師

■大切な人との出会い
 愛は、いのちをはぐくみ、人を生かします。
ちょうど、イエスさまがペトロたちを弟子として招かれたときのように、わたしたちはしばしば、愛の人、愛ある人との出会いによって大きな影響を受け、決定的な変化に導かれます。
 小学校三年生までのわたしの成績は惨憺(さんたん)たるものでした。先日も、母と昔のよもやま話を話している時、「小学校の途中までは、ほんとうに成績が悪くて、あんたの将来のことをとても心配していたのよ」と告白されてしまうほどでした。通知表の所見には、「生活態度が悪い、落ち着きがない」など教師からの否定的なコメントしか書かれていませんでした。
 そんなわたしにとって、三年生の時の担任との出会いは決定的なものでした。担任であった彼女は何かとわたしを誉め、持ち上げるのです。そんな経験の全くなかったわたしはどう反応していいのかわからず、最初はただモジモジするだけでした。
 学級委員などクラスでの役割を決める時のこと、終わりかけになって、先生が突然、推薦する者とていない、わたしの名前をいきなり挙げて、「沖村君の仕事はこれです。いいですね」と宣言されました。わたしはどもりながらも、真面目にこう答えたことを覚えています。わたしよりも成績のいい子がいること、みんなから「愚図」と言われていること、そんなわたしには相応しくない、どう考えてもおかしい、と。
 すると先生はこう言います。「いいのよ、今までのことは。これからのことを言っているの。君がいいと先生は思ってるの!」。それからの一年、曲がりなりにもその役を果たすことができたのは、先生がいつも変わらず、わたしのことを気にいってくれているみたいだ、そう思うことができたからでした。
 思い起こせば、先生は「自分だけを好いてくれていて、ひいきしてくれている」と、みんなに思わせる先生だったようです。それでもわたしにとって、「いいのよ、今までのことは。これからのことを言っているの。君がいいと先生は思ってるの!」、その一言は決定的なものでした。その日以来、わたしの人生の色合いは確かに変わったように思えます。
 当時は、なぜ、あんなに毎日が楽しかったのでしょう。無邪気な小学生だったからでしょうか。よい環境を備えられていたからでしょうか。いいえ、先生に好かれていたからです。そして何よりも、わたしが先生を好きだったからです。そう思えた時、学校はわたしにとって、決して大げさではなく、天国のように、神の国のように楽しい場所となりました。

■今ここで
 天国、神の国とは、どんな場所でしょうか。どこか遠い異国でしょうか、死んでから行くあの世のことを指すのでしょうか、それとも努力によって、この地上に造り出すものでしょうか。いえ、天国とは、神の国とはいつも、大切な人を通して、身近に、突然、現れるものです。
イエスさまがこう宣言されている通りです、
 「時は満ち、神の国は近づいた」
 「時は満ち」の「時」というこの言葉は、パウロが使うクロノスではなく、カイロスというギリシア語です。パウロの「時」は、一定の長さや期間を意識できるものです。それは、救い主なるキリストが来られ、神の定めた救いの時が満ちて、その準備段階としての時に入った、そんな時のことです。現実の世界と神の世界の二つの円を描いて、その二つの円が重なっている。その重なったところに今の自分がいる、そんな時です。しかし、イエスさまが使う「時」は、良い機会、今の時点、という点の時間です。いわば、二つの円は重ならず、接している、その接点としての時です。今、この時こそ、決定的な時だということです。
 その決定的な時に、「神の国が近づいた」。「近づいた」という言葉もよく言われるように完了形で、もうここに来ていると訳すべき言葉です。イエスさまが宣べ伝えられた福音は、神の御国が、今この時に、もうここに来ている、今ここに救いの時がもたらされている、今はその決定的な救いの時なのだ、ということです。
 それも、イエス・キリストとの出会いによって、今ここに神の御国が、決定的にもたらされている、現実のものとなっているというのです。
 例えば、ある人がこの世界は生きるに値するかどうか悩んでいた、とします。苦悩に満ちたこの世界は地獄そのもの、その人は旧約聖書のコヘレトのように、「既に死んだ人を、幸いだ」(四・二)とまで考えていました。
 ところがある日、その人が恋をしました。すると、その人の世界観、その人の世界を見る目は一変します。それまで花を見れば、詩編の詩人よろしく、この世は「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて」(九〇・六)いく、と涙していたその人が恋をした途端、見向きもしなかった草にまで語り出すことでしょう。「今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる!ああ、人生は素晴らしい!」と。
 世界が何の変化も起こしていないのに、地獄のような日々が少しも和らいでいるわけでもないのに、その人は、いきなり世界を受け入れ、道端の草まで肯定してしまうのです。しかし、翌日に失恋でもすれば、昨日までと何ひとつ変わらない世界に向かって、「ああ!やっぱり世界は闇だ…」とつぶやくに違いありません。
 こうした体験は、わたしたちの誰もが味わうことです。
 わたしたちが見ている世界は、世界そのものから影響を受けているのではなくて、実は、たった一人の他者との関係、それも愛の関係から、圧倒的で、決定的な影響を受けているのだ、ということです。
この世界が生きるに値するかどうか、目の前の現実が肯定できるかどうかも、わたしたちにはわかりません。でも、今のわたしたちに予想できることは、誰かと愛の関係に入れば、世界は変わる、世界を肯定できるのだ、ということです。そして世界を肯定する時、そこは、神の国の香りを放つ場所となります。たった一人の人との出会いによって、その人からの決定的な一言によって、「今ここで」世界は本当に変わってしまうのだ、ということです。

■決定的な一言
 そして、そんな出会いはいつも、自分から求めてというのではなく、ただ与えられたと言うほかないものです。イエスさまの弟子たちの中で、自ら進んでイエスさまのもとへ行き、自ら申し出て弟子になったという人は一人もいません。少なくとも福音書にはそのような記事はどこにも書かれていません。ペトロたちにしても、イエスさまが見いだし、イエスさまが声をかけておられます。
 そのようにして、イエスさまは彼らを傍らに置き、教え、何よりも一人ひとりを愛し、友とまで呼んでくださいました。にもかかわらず裏切ることになるそんな彼らのために、最後には、自分のいのちさえ捨てられました。何の知恵も力もない、全く相応しくもない弟子たちに目をとめ、招き、導き、いのちがけで愛してくださったのでした。
 そんなペトロたちにイエスさまが今、決定的な一言を投げかけられます。
 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」
 この言葉を元の言葉のままに訳せば、「わたしについて来なさい。今から後、あなたは人間の漁師になる」となります。「人間をとる漁師」ではなく、「人間の漁師」です。
 漁師だったペトロたちは、貧しさゆえの苦しみ中にありました。当時、魚は高級な食べものでした。しかし漁師たちに余裕などありませんでした。ほとんどの漁師たちが、舟や網などの道具を商人や領主たちから借り受けていたため、四割もの税金を収穫量の中から徴収されたうえに、その借り賃を残りの漁獲量の中から支払わなくてはなりませんでした。彼らの手元に残る魚はごくわずかでした。彼らが怠け者で、不真面目であったというのではありません。生活に追われ、仕事に追われるようにして、ただ必死に働く中、次第に周りのものが全く見えなくなり、大切なもの―神からいのち与えられた人としての尊厳、人間としての誇りさえ見失っていました。
 そんな彼らにイエスさまは「わたしについて来なさい。今から後、あなたは人間の漁師になる」と言われました。そう言われたとき、ペトロたちは、自分が「選んだ」のではなく「選ばれた」、自分の力で「生きている」のではなく「生かされている」ことに気づかされたのではないでしょうか。そして、ここにこそ本当の生きる道があると思ったに違いありません。だからこそ、「すぐに」イエスさまに従った、網も舟も、そのすべてを打ち「捨てて」、従ったのでしょう。

■捨てるということ
 思えば、人が生きるということは、ある可能性を選んで、他のすべてを「捨てる」ということかもしれません。とすれば、何を捨てて、何を選ぶかは決しておろそかにはできません。
 確かに「捨てる」ことは大きな決断であったでしょう。しかしペトロたちにとってそれは、自己放棄とか、自己犠牲とか、わたしたちがよく言うような仰々しいことではなく、もっと自然なことではなかったでしょうか。彼らの心を占めていたのは、「捨てる」という意識ではなく、「いのちは神から与えられたもの」「すべては神のもの」「わたしの人生も神の愛の中にある」ということへの確信と感謝であったのではないでしょうか。
 それは傍(はた)から、献身とか、服従とか、犠牲とか、断念とか、いろいろ説明されるのが迷惑なくらいのことです。「捨てる」とは、わたしたちの力ではどうにもできない現実を冷徹に見つめつつも、なお、そこにこそもたらされる驚くべき神の恵みを感謝し、この人生を、このいのちを「神のもの」として新たに受け取り直すことでした。
 人生の年輪を重ねれば重ねるほど、わたしたちの「持ち物」は多くなっていきます。その「持ち物」には、物質的な物や財産であったり、家族や友人との交わりやいろいろな人間関係であったり、また長年積み上げてきた実績とか社会的な地位や役割など、実に様々なものがあります。長く生きれば生きるほど、「持ち物」は自然と多くなっていき、多くなればなるほど、そうした「持ち物」に執着するということも起こってきます。
 わたしたちは、本当に大切なものとそれほどでもないもの、あるいはむしろ捨ててしまったほうがいいようなものとの見分けがつかないまま、時には、こうした「持ち物」のためにかえって悩まされ、葛藤し、苦しむことにもなります。しかし、余分なものを捨て去った後にこそ、大切なものが残るものです。
 もしかすると、その大切なものすら、あるいは捨てなければならない時が来るかもしれません。イエスさまの十字架はまさにそんな出来事でした。ご自分のいのちをも「捨て」て、イエスさまは、わたしたちのために救いの道を開いてくださいました。弟子たちはそのとき初めて、「捨てる」ことの本当の意味を知ったのではないでしょうか。
 イエスさまに従って行くということは、わたしたちが必死になってイエスさまの裾に掴まって、がんばることではありません。そうではなく、イエスさまの後をついて行くわたしたちを、神ご自身が、イエスさまご自身が、担っていてくださるのです。「わたしがあなたをほうり出すことはない。どんなにぐうたらに見える者でも、愚かに見えるような者でも、わたしがいのちを与えたあなたがたをわたしが捨てることなどない」。そう言われます。十字架はそのしるし、イエスさまと父なる神の愛を表す以外の何ものでもありません。神様が選び、捉え、担ってくださるのです。そして今も、イエスさまの後について行け、とわたしたちを後ろから押していてくださっているのです。
 そう、旅行が好きな人、よく旅に出かける人はおわかりになるはずです。「旅の荷物は軽いほうがいい」ということです。イエスさまに従って旅立った弟子たちにとって、また天国、神の国に向かって旅するわたしたちにとっても、この言葉は真実です。肝心なことは、正しい時と場で「捨てる」ことを学ぶことです。ただ神様だけを「持つ」ために、いいえ、神様に「持っていただく」ために、この世で手にするものへの執着を捨てて、身も心も軽やかに、すべての人に等しく与えられている、かけがえのないこのいのちを大切にする道をこそ、皆さんと共に歩んでいきたい、心からそう願います。