小倉日明教会

『蒔かれた種は? 道端、石地、茨と良い土地』

ルカによる福音書 8章 4〜15節

2022年9月4日 聖霊降臨節第14主日礼拝

ルカによる福音書 8章 4〜15節

『蒔かれた種は? 道端、石地、茨と良い土地』

【奨励】 川辺 正直 役員

山室軍平、咲く花の元

 おはようございます。明治時代のクリスチャンに山室軍平という人がいます。山室軍平は1872年(明治5年)、岡山県本郷村の貧しい農家の三男として生まれます。体の弱かった息子を心配した母は、無事に成人しますように、人様に迷惑をかけず少しでも人様の役に立つものになりますようにと祈り、好物である卵を生涯食べないことを誓って、彼を育てたそうです。母の愛の中、軍平は育ちますが、9歳の時、貧しさのためは親戚の質屋に養子に出されます。しかし、15歳の時に、もっと勉強をしたいという思いから、家出をして、一人東京に出るのです。義父からは縁を切られ、一人で生きることとなった軍平は、活版工として働きながら、欧米から入って来た新しい学問を学びます。ある日、キリスト教が精神の世界で人を救うと知り、新島襄を慕い、京都にある同志社に入学します。在学中に出会った岡山孤児院の石井十次に強い影響を受けます。

 岡山の高梁で、伝道活動や、石井十次の孤児院で働いていた頃、イギリスから救世軍が日本に来て活動を始めたことを知るのです。信仰による救いの前に、実生活を救おうとする救世軍は、軍平の目指す理想であったのです。救世軍に入隊した軍平は日本人最初の士官(伝道者)となり、キリスト教伝道者として、大衆に分かりやすい福音宣教に情熱を傾けます。また、まだ社会福祉という言葉のなかった時代に、苦しむ人がいたらまず手を差し伸べて行動に移す軍平の社会事業は多岐に渡ります。

 その山室軍平が詠った歌に次のようなものがあります。「咲く花を、歌に詠む人、褒める人、咲かする花の元を知れかし」このように詠っているのです。満開に咲く花を見たときに、皆、花を褒めて歌に詠む。花に見惚れる人はいる。また、花の世話をした職人を褒める人もいるでしょう。しかし、そもそも花を創られた元である神様のことを知ろうではないかというのです。私たちは、本当にこの世界と私たちを創られた神様のことを知ってゆきたいと思います。さて、本日の聖書の箇所で、主イエスが話されたのはいわゆる「『種を蒔く人』のたとえ」です。本日の聖書の箇所で、福音記者ルカは、何を伝えたかったのかということを皆さんと一緒に学んで行きたいと思います。

「種を蒔く人」のたとえ

 本日の「種を蒔く人」のたとえは、非常に有名な箇所です。今日の聖書の箇所までに、主イエスは数々の恵みの業を行っておられます。主イエスはとても恵み深いお方ですので、私たちを今日もとても恵み深く扱って下さいます。そして、ルカによる福音書だけに記されているエピソードになりますが、主イエスは罪深い女の信仰を評価され、その罪を赦されました。そして、前回、お話しました主イエスに仕える女性たちが登場しました。これも、ルカによる福音書だけが伝えるエピソードです。女性でも、主イエスの弟子となれるのだ、なるべきなのだということをお話しました。

 そして、本日の聖書の箇所となりますが、主イエスはたとえを用いてお話しになりました。そして、本日の箇所で主イエスが話されたのはいわゆる「『種を蒔く人』のたとえ」ですが、この取り上げ方にはルカによる福音書に特徴てきな取り上げられ方が見られます。本日の聖書の箇所を含む、ルカによる福音書8章4〜21節は一つのまとまった箇所となっています。この一つにまとまった部分は、3つの部分に分けることができます。

 1つ目が4〜15節の「種を蒔く人」のたとえです。2つ目が16〜18節の「ともし火」のたとえです。そして、3番目が19〜21節の主イエスの母と兄弟たちとなります。主イエスのたとえ話の取り上げ方には、ルカによる福音書には特徴的なものがあるということをお話しましたが、他の共観福音書ではどのように取り上げられているのでしょうか。

 マタイによる福音書とマルコによる福音書と比較してみたいと思います。マタイによる福音書の13章では、ここは長い章ですが、「種を蒔く人」のたとえ、「毒麦」のたとえ、「からし種」と「パン種」のたとえ、「天の国」のたとえと、最も多くのスペースを割いて4つのたとえを記しています。次に多いのが、マルコによる福音書です。マルコによる福音書の4章には、「種を蒔く人」のたとえ、「ともし火」と「秤」のたとえ、「成長する種」のたとえ、「からし種」のたとえと4つのたとえがマタイほどではないですが、相当のスペースを割いて、記されています。

 それらに対して、ルカによる福音書はかなり異なっています。ルカは「種を蒔く人」のたとえと「ともし火」のたとえの、2つのたとえに限定しています。この2つのたとえに集中して、ルカが伝えようとしているのは、神様のみ言葉を聴くこと、み言葉に従うこと、そして、理解したみ言葉を伝えることの重要性を強調しているのです。マタイやマルコとは異なった視点で、ルカは書いていることが分かります。

大勢の群衆と方々の町からの人々

 さて、本日の聖書の箇所、8章お4節には、次のように記されています。「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。」これが、ルカが伝えるエピソードの舞台設定です。ルカは第2回ガリラヤ伝道のどこかで、この話が語られたと言っています。それに対して、マタイとマルコによる福音書では、主イエスが一連のたとえ話を語られたのは、ガリラヤ湖畔になっています。しかし、ルカはこのたとえ話の背景や舞台設定については省略しています。そして、ルカは今日のたとえを聴いている群衆の多様性を強調しています。そのことは、「大勢の群衆が」とか、「方々の町から人々が」と書かれていることから分かります。この多様な人々がこのたとえを聴いていることに、このたとえが語られる理由があるとも言えるのです。つまり、主イエスが語っているたとえを聴いている群衆の中に、既にたとえの中の4種類の土壌があるのだと言うことができるのです。すなわち、このことは主イエスの話を聴いている多様な群衆に対する主イエスの警告がここにはあるのだということです。つまり、警告になっているので、注意して聴かなくてはならないのだということです。

 今日の聖書の記事は、『「種を蒔く人」のたとえ』と見出しには書かれていて、よく『「種を蒔く人」のたとえ』と言われますが、このエピソードを読みますと、主イエスが見つめておられるのは、福音を宣べ伝える主イエス、あるいは主イエスの教えを受けた弟子たちのことである「種を蒔く人」ではないことが分かります。また、神様の言葉、あるいは、神の国の福音である「種」のことでもないことも分かります。それでは、主イエスは何に目を向けられているのでしょうか。それは、種が落ちた土地、すなわち、福音を聞く人の心なのだと言うことです。

 本日の聖書の箇所を理解する上で、当時、ユダヤで行われていた農業のやり方を知っておく必要があります。私たちは、普通、種を蒔くと聞きますと、土地を耕し、畝を作り、腰をかがめて畝の中に種を蒔き、上に土をかける、という細やかな作業を思い浮かべます。ところが、当時のユダヤの農業は、とても生産性が低く、そうではなかったのです。当時、どのようなやり方をしていたのかと言うと、種を蒔く人はエプロンをつけ、エプロンの中に種を入れ、耕されていない土地に、歩きながら、勢いよく種を蒔き散らしていたのです。ですから、種は、風が吹いたり、あるいは、勢い余って、様々な土地に落ちて行ったりする、そういう蒔き方をしていたのです。そして、種を蒔いてから、土地を耕して、土を被せるというやり方をしていたのです。これが当時の農業の姿で、主イエスの話を聞く人々はそのことをよく知っていたのです。

道端に落ちた種

 まず5節で、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。」と語られています。最初の種は、道端に落ちてしまったのです。その種がどうなったのかと言いますと、その種は「人に踏みつけられ」と書かれています。この表現はルカだけの表現です。踏みつけるという行為は、その価値を認めていないときに行う行為です。蒔かれた種を踏みつけるという行為がどういうことなのかについて考えると、ヘブライ人への手紙、10章29節には、「まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」と書かれています。神様の御子の十字架の血を足げにしているのです。軽く扱っているのです。軽蔑しているのです。

 もう一度、今日の聖書の箇所の5節に戻ってみると、「ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、」と書かれています。蒔かれた貴重な福音の種が、蔑まれるのです。踏みつけられるのです。キリスト教会は、このような経験を何度もしているのです。福音を伝えても、それを踏みつけるだけの心の状態の人はたくさんいるのです。その人の心の状態は、道端だというのです。踏みつけられた種はどうなったのかいうと、「空の鳥が食べてしまった。」のです。ここで、空の鳥というのは、悪魔の象徴です。悪魔が来て食べてしまった、でも、その前にみ言葉を聴いている人が、軽蔑しているのです。だから、悪魔が来て食べてしまうと言っているのです。ここで、ルカはみ言葉を軽蔑する人間の心の状態が問題だと言っているのです。それが、5節が教えている内容です。

石地に落ちた種

 次に6節で「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。」と語られています。2番目に出てくる土地は、石地です。石地と書かれていますが、これは土壌が薄いのです、下が岩盤のようになっているのです。石地があって、その上にわずかばかりの土壌が乗っている。ですから、目で見ただけでは、その土壌がどれだけ深いかわからないのです。その上に落ちた種はどうなるのでしょうか。日が出ると、暖かくなるので、直ぐに芽は出るのです。芽を出しましたが、根を張ることができず、水気がなかったので、その芽は枯れてしまったのです。ここで、「水気がないので」というのも、ルカによる福音書だけの表現なのです。ルカだけが、直ぐに枯れる理由を説明しているのです。

 土壌が薄く、すぐ下が岩盤になっているので、水気がないのです。従って、石地に蒔かれた種とは、み言葉が心にすぐに入りますが、根がないために、しばらく続くだけで枯れてしまう人のことです。み言葉にいち早く感動しますが、困難や迫害が起こるとすぐつまずいてしまうのです。それでは、水気を十分に組み上げるキリスト者の信仰とは、どういうものなのでしょうか。

 エレミヤ書17章7〜8節を見てみましょう。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。」と、このように書かれています。「水路のほとりに根を張り」と書かれているのは、水なし川のことです。水なし川の地下には、地下水脈があります。信仰が深いところにまで根を張っていると、深いところから水を汲み上げることができるのです。その人は、干ばつの年にも、実を結ぶことをやめないのです。これが、主に信頼し、祝福された信仰者の祝福された姿です。私たちは、神様に対する信頼を告白し、干ばつが来ても枯れない、実を結ぶことができる信仰を持ちたいと思います。これは、石地に蒔かれた種とは、全く異なる信仰だと思います。

茨の中に落ちた種

 さらに7節では、「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった」と記されています。これが3番目の土地です。茨の中に落ちた種は、芽を出しても、茨も伸びて、押しかぶさってしまったというのです。14節では、茨の中に落ちたのはどのような人のたとえなのかについて、このように語られています。「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」。「実が熟するまでに至らない人たち」と訳されているので、この人たちは実を結んだけれどその実が熟さなかったと読めます。従って、茨の中に蒔かれるとは、問題は土地にではなく、外にある人です。この世には信仰をふさいでしまうような世の思い煩いと富の誘惑がたくさんあります。それに支配されるなら、信仰は窒息してしまいます。

良い土地に落ちた種

 最後に8節で「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。」と語られています。4番目に出てくるのが、良い土地に落ちた種です。良い土地に落ちた種はどうなったのでしょうか。「生え出て、百倍の実を結んだ。」、このように書かれています。当時、ユダヤでは蒔かれた種の10倍位の収穫しか得られませんでした。よほど条件の良い土地で、豊作の年に、ようやく30倍程度であったのです。ですから、主イエスの話を聞く、当時のユダヤの人たちにとって、100倍の収穫というのは、途方もない祝福であるということが直ぐに分かったことと思います。良い土地に蒔かれた種には、それほどの命の力があるということです。そして、主イエスはどうされたのでしょうか。

 「イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。」と書かれています。「聞く耳のある者は聞きなさい」というのは、たとえの最後に語られるいわば常套句です。いわば決り文句なのですが、どういうことかと言いますと、「霊的な耳を持っている人は、たとえの意味を理解できる」という意味です。そうでない人は、表面的な意味しか理解できないということです。理解できる人は、しっかり理解しなさい。そうではない人が多いからというのです。これは、励ましであり、警告の言葉でもあるのです。「大声で言われた。」と書かれていることは、非常に重要です。「大声で言われた。」と訳されている言葉は、叫ぶ、呼びかける、招くという意味の言葉です。ここでは未完了形ですから、繰り返し「叫び続けていた」、あるいは、繰り返し「呼びかけていた」という意味になります。具体的に何を呼びかけていたかといえば、それは「聞く耳のある者は聞きなさい」ということです。「聞く耳のある者は聞きなさい」とはいったいどういう意味なのか。それは、「聞きなさい」という命令は現在形ですから、直訳では、「聞き続けなさいけなさい」という意味になるのです。

たとえを用いる理由

 次に、たとえを用いる理由が述べられています。9節〜10節です。「弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」このように書かれています。弟子たちは、「このたとえはどんな意味かと尋ねた。」のに対して、主イエスはたとえを用いる理由を語るのです。これは、とても大切なことです。質問に対して、答える前に、なぜこのことを話しているのかということを解説しているのです。

 ここで、「神の国の秘密」という言葉が出てきています。「神の国の秘密」というのは、何のことでしょうか。「秘密」というのは、今まで隠されていた啓示なのです。今まで隠されていたけれども、今、新しく啓示された真理のことなのです。従って、隠されていたということより、今、明らかにされたというところに比重があるのです。この「秘密」と訳された言葉は、当時のギリシア・ローマ世界に生きていた人々には、よく理解できた言葉であったのです。当時の人たちは、ギリシア人の神秘宗教のことをよく知っていました。神秘宗教というのは、その宗教の中に神秘、奥義があるというのです。そして、誰も彼もがその奥義を知らされる訳ではないのです。その宗教を信じた人だけが、その奥義を教えてもらえる。それが、神秘宗教のポイントです。

 従って、主イエスの弟子になったら、神の国の秘密を分かるようになるというのは、当時のギリシア・ローマ世界の一般的な認識からは、とてもよく分かったのです。実際に、主イエスを信じた弟子たちには、「神の国の秘密」が教えられます。そして、弟子たちは「神の国の秘密」を理解するようになるのです。そうでない人たち、他の人々にはたとえを用いて話すのです。主イエスの弟子たちは深い意味を理解するようになるのですが、主イエスを信じないものは、たとえの表層的な意味しか理解できないというのです。『見ても見えず、聞いても理解できない』、これがたとえ話の効果です。たとえ話というのは、主イエスの弟子たちにとっては、明らかに意味を理解できる内容なのですが、そうでない人たちには理解できないことなのだというのです。主イエスは、信じる人とそうではない人たちと理解度を区別して教えるために、たとえを用いられたのです。そして、たとえを用いる理由を話された後、いよいよ3番目のこのたとえの解き明かしの箇所に入って行くのです。

たとえの意味

 11節と12節には次のように書かれています。「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。」種は神様の言葉である。そして、種が落ちる土地は聞く人の心であるのです。豊かな収穫を得るためには、人間側の応答、聞いて応答するかが重要なのです。道端に落ちた種は何を象徴しているのでしょうか、それはみ言葉を聞いても、信じて救われない人のことです。悪魔がその人の心から、み言葉を取り去ってしまうので、その人は救われないのです。み言葉とありますが、その内容は、主イエスは、神が人となられたメシアであるということです。道端に落ちた種は、悪魔が来てみ言葉を奪い去ってしまう。それは、信じても救われないようにするためだと言っているのです。ルカは、魂の救いに非常に大きな関心を抱いています。ルカは医者ですので、病気で苦しんでいる人を、癒やしてあげたいという気持ちを強く抱いている人でした。体の病気でさえも、直してあげたいという意識を強く抱いて人でしたので、永遠の生命、永遠の救いがどういうものかということに、ルカは大きな使命意識を抱いていたと思います。神様のみ言葉を理解した者は、他の人の魂の救いに関心を抱かないわけには行かないのです。このことが福音宣教の原動力となって行くのです。

 次に、13節と14節には次のように書かれています。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。」「石地の上に落ちた種」と「茨の中に落ちた種」について、書かれています。「石地の上に落ちた種」とは、試練に遭ったときに、信仰を捨てる人たちのことです。試練に遭ったぐらいのことで、と思われるかもしれません。しかし、この世界の中では、迫害の中で信仰を捨てなければ、生命を奪われる人たちもいるのです。そういう極限状態の中で、迫害に遭って、自分の生命を守るために、棄教する人たちもいるのです。従って、簡単に批判することはできないのです。そして、「茨の中に落ちた種」というのは、み言葉により芽を出すものの、神様のみ言葉以外に、別の関心事があって、信仰の成長が妨げられる人のことです。

 そうすると、救われたけれども、途中で信仰を捨てざるを得なかった人たち、あるいは、信仰の上で挫折してしまった人たちは、どうなるのだろうかということが疑問になります。主イエスはこのことには沈黙しているのです。このことはどう考えたら良いのでしょうか。聖書全体の教えからは、救われているならば、その人が信仰を捨てたように見えたとしても、救いを失うことはないと思います。さらに、救われているならば、その人はやがて実を結ぶと思います。しかし、試練に遭う、あるいは、茨の中に落ちることで、実を結ぶまでに時間がかかる人がいます。あるいは、救われているものの、生涯、実を結ばない人もいることと思います。従って、ここで大切なことは、神様の言葉にどう応答するのかを考えるべきだということです。ですから、主イエスは救われているかどうかについては、沈黙しておられるのです。

主イエスは私たちを良い土地へと招いておられる

 さて、本日の聖書の箇所の15節を見てみます。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」、このように書かれています。「良い土地に落ちた種」が象徴しているのは、どのような人たちなのでしょうか。彼らに特徴的なことは、誠実に、み言葉に耳を傾けていることなのです。そして、み言葉をよく守り、忍耐して実行していることなのです。そして、実を結ぶ、すなわち、人格的な変化を遂げる人たちのことなのです。恵みにおいて、憐れみにおいて、そして、義を求める心において、主イエス・キリストに従うものとなるということなのです。これが、良い土地が象徴している人々の特徴なのです。良い土地の心の人は、救われています。さらに、良い土地の心の人は、主イエス・キリストにとどまり、実を結ぶ人なのです。私たちは、欠けの多い者ではありますが、良い土地の心の人になりたいものです。

 このたとえについて、主イエスは大声で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。それは、このたとえがとても重要で、神の国の秘密、奥義を説明しているということなのです。神の国の秘密とは何のことを言っているかと言いますと、ユダヤ人たちは主イエスを拒否しますが、その後に訪れる信仰的な状態のことを言っているのです。すなわち、教会時代の信仰的な状態、恵みの時代の信仰的な状態について言っているのです。今、私たちが生きている時代の信仰的状態を秘密としての神の国と言っているのです。なぜ、主イエスは秘密と言っているのでしょうか。それは、旧約聖書の時代には、教会が誕生するという預言がないのです。隠されていたのです。神様の計画の中にはあったけれども、旧約聖書の時代には隠されていた教会という真理が、新約聖書の時代になって主イエスによって、啓示されたのです。それが、秘密としての神の国であり、それがこのたとえの中で語られているのです。ルカが、「種を蒔く人」のたとえと「ともし火」のたとえの2つしか取り上げていないのは、この2つが非常に重要だからです。特に、この「種を蒔く人」のたとえが、神の国の秘密を説明するたとえとして、最も重要で、このたとえが神の国を理解する上での枠組みになっているのです。

 現在の教会時代の信仰的な状態を理解するのに、このたとえ話を通して見ると、全て理解できるのだと思います。福音宣教に対する4種類の応答について考えてみたいと思います。今、私たちに伝えられている福音とは、私たちのために、主イエスが十字架で死に、墓に葬られ、3日目に復活し、今も生きていて、教会のかしらとなっておられる。これが、今、私たちに伝えられている福音です。この福音に対して、4種類の応答があるのです。福音を聞いても、足で踏みつけて信じない人、すぐに信じるけれども、いつの間にかにいなくなってしまう人、しばらく信じているのに、信仰的に成長しているように思えない人、そして、4番目が、いつもみ言葉に聞き、主イエスに従い、信仰が成長している人、これらの4種類の人たちがこの教会時代にいるのです。私たちは、そのことの目撃者なのです。従って、教会時代を理解する枠組みとして、この「種を蒔く人」のたとえが分かっていると、全て理解できるのです。

 良い土地になることを願う人は、どうしたら良いのでしょうか。神様の秘密、神様の啓示を学ぶときに、それを理解させて下さいと祈ることです。理解が足りないところを助けて下さいと祈るのです。神様は、その祈りに応えて下さいます。しかし、本当に願わないときには、表面的な理解で終わってしまいます。私たちは、理解させて下さいと祈りながら聖書を読むか、ただ単に聖書を読むかで、その積み重ねを経るときに、大きな違いを生じて来ます。祈らないならば、その理解は表面的な理解で終わってしまうのです。これが、「種を蒔く人」のたとえが教えている真理だと思います。私たちの前には、4種類の土地が広がっています。私たちは、どの土地を選ぶのでしょうか。私たちは、主イエスが大きな声で叫び続け、招き続けておられる良い土地となることを、祈り続けて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。