小倉日明教会

『赦し、信仰、奉仕』

ルカによる福音書 17章 1〜10節

2024年4月21日 復活節第4主日礼拝

ルカによる福音書 17章 1〜10節

『赦し、信仰、奉仕』

【奨励】 川辺 正直

『僕は人生を巻き戻す』

 おはようございます。『僕は人生を巻き戻す』という実話に基づく本があります。主人公のエド・ザインという人は10歳までとても幸せな少年時代を過ごしていたのです。おじいさんはボクサーで、お父さんは海兵隊員として戦い抜いた根っからの軍人でした。そして、美人で優しいお母さんは一家の太陽のような存在であったのです。しかし、彼が11歳になった時、そのお母さんが乳がんで亡くなってしまうのです。軍人だった厳格なお父さんは、エド少年がやらかした些細な失敗を誤解して、思わず、殴ってしまうのです。それは、彼にとっての、生まれて初めて殴られる経験であったのです。そのショックの中にいる、その日のうちにお母さんが亡くなります。しかも、彼はその亡くなる間際のお母さんの断末魔の叫びを聞いてしまうのです。死というものがいかに恐ろしく、悲しく、暗いものなのか、辛いものなのかが彼の中に焼き込まれてしまうのです。彼はこの経験を引き金に、強迫性障害という病気にかかるのです。

 「時が流れる先には死が待っている。時を巻き戻さなくては愛する家族は死んでしまう」という強迫観念を持ったエドは、すべての自分の動作、すなわち一歩進めた右足は床のどこを踏んだか、どの指がどこに触ったかを完全に記憶し、それを巻き戻す行為を始めるのです。驚異的な記憶力をもっているエドは何時間分でもミリ単位で行為を巻き戻すことができるのです。とうとう彼は普通の生活ができなくなり、家の地下室に引きこもるようになるのです。しゃべった言葉は、回文のように逆から繰り返します。正確に再現できなければ、一からやり直します。お姉さんに用事があって上の階に行くにも、一歩一歩足の踏み場を完全に覚え、足の角度から身体の傾きまで、完璧に記憶し、録画テープの巻き戻しのように、後ろ向きで地下に降りて行くのです。当然、風呂も無理です。歯磨きもだめです。ベッドの上からほぼ身動きがとれなくなってしまいます。尿は瓶につめ、大便はジップロックの袋の中にため込んでいきます。トイレに流すことは変化することで二度と巻き戻しができなくなるからです。

 そんなエドのことを知った、マイケル・ジェナイクというドクターが無償で彼を診察してくれるということになります。彼はベトナム戦争では、パイロットとして活躍した英雄で、帰国してから、ハーバード大学の医学部で教授になった人でした。特に強迫性障害の世界的な権威だったのです。彼は最新の薬と療法で、最高の治療を全力で取り組んでくれたのです。ところがある小さなことがきっかけで、初めて診た時よりも、もっと悪化してしまうのです。その時、ドクターマイケルは彼の前で、号泣するのです。自分の治療者としての限界を痛感し、とうとう彼は治療を放棄してしまうのです。それは世界最高峰のドクターをもってしても、全く歯が立たなかったということがはっきりした瞬間だったのです。

 ところがこの瞬間、エド・ザインの中で突然何かが爆発したのです。それは、強迫性障害に対する怒りです。この病気は自分から人生も幸せも奪い取った。そればかりか、僕のためにこんなにも人生を捧げてくれたドクターを木っ端みじんに打ち砕いてしまった。僕のために心の底から号泣するドクター・マイケルをずたずたに傷つけてしまった。こんな忌々しい強迫性障害というやつに対して、僕は思いっきりぶちのめしてやりたい。おじいさんのボクサーの血が自分の中に流れているのを、彼自身は気づくようになるのです。それまでの彼は、治療に対して全く受け身でした。治せるものなら治してみろよ、というような態度です。しかし、今、心の底から、この人生を変えたい、この病と決別したい、ドクター・マイケルを打ちのめした敵を、今度は僕が打ちのめしてやりたいと、心底思うようになるのです。これが回復のターニングポイントになりました。彼はドクター・マイケルの行動療法を、ドクター・マイケルなしで自分自身に課していくのです。

 本日の聖書の箇所は、ルカによる福音書17章1〜10節のいくつかの教えが並べられている箇所です。1、2節には、小さな者の一人をつまずかせるぐらいなら、首にひき臼を懸けられて海に投げ込まれる方がましだ、という教えが語られています。ドクター・マイケルのような世界的権威であっても何もできないような瞬間があるのだとしたら、私たちは一体どうしたら良いのかということも考えながら、この箇所を読んでいきたいと思います。

つまずきは避けられない

 さて、本日の聖書の箇所のルカによる福音書17章1〜2節を見ますと、『イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。』と記されています。1節に、「イエスは弟子たちに言われた」と書かれていることから、これらの教えは弟子たち、主イエスに従っている人々、つまり信仰者に対する教えなのです。そして、主イエスがおっしゃられたのは、罪が支配するこの世にあっては、『つまずきは避けられない』とおっしゃられたのです。主イエスは、現実主義者であることが分かります。1節で、注目すべきキーワードは何かと言いますと、それは『つまずき』という言葉だと思います。『つまずき』という言葉は、ギリシア語でスキャンダロンと言います。英語のスキャンダルという言葉の語源となる言葉です。ヘブライ語ではミクショルという単語で、『よろめかせること』という意味になります。さて、ギリシア語のスキャンダロンという言葉のもともとの意味は、獲物を捕らえる罠につける引き金、留め木のことを言う言葉なのです。罠の中の小さな木片に餌を付けておくのです。そして、動物がやって来ると、美味しそうな餌があるので、その罠の中に入って、その餌に食いついた途端に、留め木が外れて、罠の扉が閉まって、閉じ込められてしまうのです。つまり、その留め木が作動して、獲物が捕獲される、それをスキャンダロンと言ったのです。この言葉が転じて、罠に捕獲された獲物の行動も指すようになるのです。ですから、その罠の留め木であると同時に、罠に掛かって慌てている獲物の様を、スキャンダロンと言ったのです。

 本日の聖書の箇所では、このスキャンダロンという言葉が比喩的に用いられています。それはどういうことかと言いますと、他の人たちを罠にかけるような原因になるようなものをスキャンダロン、つまずきと言っているのです。そして、他の人たちを罠にかけるというのは、他の人たちに罪を犯させること、他の人たちを主イエスから遠ざけること、信仰から遠ざけること、これが『つまずき』を与えるということなのです。そして、罠に掛かった人はどうなるかと言いますと、考えが前に進まなくなるのです。そして、主イエスの言葉、そして、聖書の言葉を疑いたくなってしまうのです。これが、『つまずき』を与えるということなのです。『つまずきは避けられない。』しかし、主イエスは、『だが、それをもたらす者は不幸である。』とおっしゃられたのです。本日の聖書の箇所の文脈の中で、主イエスがつまずきをもたらした者というのは、誰を指しているのでしょうか?それは、ファリサイ派の人々がつまずきを与えているのだと言うのです。ファリサイ派の人々は、民衆が主イエスに近づくのを妨げていたのです。主イエスは、ルカによる福音書11章52節で、『あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。』とおっしゃっています。ファリサイ派の人々が民衆に与えたつまずきが何であったのかと言いますと、律法主義というつまずきであったのです。『知識の鍵を取り上げ、』とありますが、これは聖書を読んで単純な意味をそのまま受け取らないで、口伝律法という体系を作り上げて、民衆をその中に閉じ込めて行ったことを指しているのです。従って、そのような教えを聞かされていた人々は、主イエスが救い主であることを認めることも、信じることもできなくなったのです。このことが、ファリサイ派の人々が民衆につまずきを与えていたということなのです。もう一つ、つまずきを与えていた人々がいるのです。それは、先週お話しました話の中に金持ちとラザロという2人の人が登場しましたが、金持ちは富を偶像とする拝金主義というつまずきを与えていたのです。そして、自分は金持ちだから、神様に祝福されていると考えて、遊び暮らしていたのです。そして、このような金持ちの存在は、人々を主イエスから遠ざける生き方になっており、このことは、民衆にとって、つまずきにもなっていたのです。

 『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。』と、主イエスはおっしゃられました。ですから、主イエスの弟子たちは、つまずきの原因となってはいけないと、主イエスはおっしゃられたのです。主イエスは、『そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。』とおっしゃられました。『小さい者』というのは、霊的な幼子のことで、信仰に入って、まだ日が浅い人たちのことです。信仰が小さく弱い人がつまずくのです。信仰の小さな人々をつまずかせるのは、信仰が大きく強い人たちです。強い信仰を持っている人たちが、その信仰を言わばふりかざして、信仰者たるものこうでなければならない、と言って、信仰の小さく弱い人たちを批判し、傷つけ、それによって勇気や元気を奪い、つまずかせるのです。主イエスは、弟子たちに、つまり私たちに、主に仕えることにおいて第一に考えなければならないのは、そのように小さく弱い人をつまずかせることのない者となってはいけないよということをおっしゃっておられるのです。主イエスは、つまずきを与えることが、深刻な罪であるという重大さを示すために、『そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。』とおっしゃられました。聖書では、『ひき臼』というのは2種類あるのです。1つは、女性が手で、小麦などを粉にひく、重いけれども女性でも挽くことのできる『ひき臼』です。もう一つは、オリーブオイルを石の重さで粉砕して、オリーブオイルを搾り取るときに使用するような巨大な『ひき臼』です。この大きな『ひき臼』の場合には、人間では挽くことができないので、ロバなどの家畜に挽かせるのです。ここで、主イエスがおっしゃられている『ひき臼』というのは、巨大な方の『ひき臼』なのです。巨大な『ひき臼』というのは、人間よりも大きなひき臼であったのです。このような巨大な『ひき臼』を首に懸けて、ガリラヤ湖のような海に投げ込まれれば、ひとたまりもないことがよく理解できます。つまり、主イエスは、信仰の小さい者たちを主イエスから遠ざけるような原因を作る人は、災いだと警告されたのです。それは、信仰の小さい者たちの魂は、神様の目から見れば、本当に宝物だからなのです。従って、小さい者たちの魂を破壊し、神様から遠ざけることは許されないことなのです。私たちは、ほかの人をつまずかせ、傷つけてしまうことのないように、ほかの人の信仰の活力を失わせてしまうことのないように、自らの歩みを正さなくてはならないよと、主イエスは語っているのです。その上で、『つまずきは避けられない。』とも語っておられるのです。人をつまずかせることを恐れていては、何もできなくなってしまうからです。しかし、つまずきは深刻な罪だと認識している、この二律相反することのバランスの上を私たちは主イエスを見上げながら、歩いて行くのだと思います。従って、現代に生きる私たちは、ファリサイ派の人々がそうであったように、聖書を自然に素直に読めば、明確に分かることを、本来の意味から外れたことを教えるような、教理的な間違いを犯さないように気をつける必要があるのだと思います。

兄弟姉妹を赦す

 本日の聖書の箇所の3〜4節を見ますと、『あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。』と記されています。この箇所では、『もし兄弟が罪を犯したら、』ということが語られています。主イエスの弟子は、人につまずきを与えないだけでは50点だということです。主イエスは、人が自分に対してつまずきを与えるような罪を犯した時には、『戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい』と言っているのです。私たちがつまずくというのは、人から傷つけられた、人から攻撃された、人から誤解された悲しみを受けたといったことかと思います。罪に対しては、赦しを持って対応しなさいと主イエスはおっしゃられたのです。そして、主イエスはそこで先ず、罪を犯した人に対して、『戒めなさい』と言っておられます。その次に、主イエスは、その人が悔い改めるならば、赦しなさいとお語りになったのです。しかも、『一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。』と言っているのです。7というのは、完全数ですので、完全な赦しを行いなさいとおっしゃっておられるのです。完全な赦しが、人の犯した罪につまずかない最善の方法だと、主イエスは教えておられるのです。

 エフェソの信徒への手紙4章32節を見ますと、『互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。』と記されています。赦しの心を持つことは、相手を赦すことだけではなくて、自分の魂を回復する道でもあるのです。ですから、主イエスの弟子である者は、まず心の中で赦しの心を持つ必要があるのだと思います。

 南アフリカの聖公会の司祭であったデズモンド・ツツ大主教は、アパルトヘイト問題を解決するための「真実と和解委員会」の議長を務めた方です。ある時、彼に悩みを打ち明けたイングリットという女性がいました。彼女は4人の若者に暴行され、殺されかけたことがあり、長年に渡って、犯人たちへの憎しみで頭がいっぱいになっていました。彼女の話を聞いて、ツツ大主教は「あなたが怒りを感じるのは当然だよ」とうなずきました。そして、「事件を乗り越える努力をして、彼らを赦してあげてほしい」とお願いしました。それはイングリッドさんにとっては、到底受け入れられないことでした。

  それから数か月にわたって、二人は何度も、何度も話し合いを重ねました。ある時には、ツツ大主教が彼女に、「加害者がどんな気持ちでいるか、考えたことはありますか?」と尋ねたので、イングリッドさんはとても怒りました。それでも、ツツ大主教は彼女に説明しました。「あなたは怒りを吐き出さなくてはいけないよ。でも同時に、心に留めておかなくてはいけない。加害者もただの人間なのだよ。」

  ツツ大主教は和解を促す活動をしている団体に連絡を取るように、イングリッドさんにアドバイスをしました。彼女はその団体の支援を受け、進行役がいる場所で、加害者と会うことを受け入れました。相手は刑務所に入っており、進行役もいるとはいえ、「一体どうなるのだろう?」と震えながら、彼女は加害者の一人の前に座りました。二人は話し始めました。加害者の男性は、ドラッグまみれの極貧の町で育ち、暴力と虐待でひどい子ども時代を過ごしていました。その環境はイングリッドのものとは違いましたが、彼女もアルコール依存症の父親に殴られていました。そのとき彼女は初めて、加害者に共感できるものを感じました。この会話を経て、彼女は加害者への同情を感じるようになり、また安心感に包まれました。彼女にとって、それが「赦し」でした。加害者の暴行を容認したわけではありません。ただ、加害者が悪魔でも獣でもなく、一人の人間であること―自分と同じただの人間であること―を知ったのでした。後にイングリッドさんは、「あのとき荷物を手放したことで、残りの人生の旅が、はるかに身軽で、また楽しめるものになったよ。」と語っています。

 アメリカの大学である実験が行われたそうです。人を赦すことができない71人のボランティアに対して、様々な検査をしたところ、これらの人々は急激に血圧が上がったり、不整脈になったり、筋肉の緊張が見られたのです。憎しみや恨みを抱き続けることは、人の体や感情をすり減らすことが明らかになったのです。この実験を行った教授は次のように語っています。「赦すということは、起きたことを見逃すことでも、大目に見ることでもなく、自分に悪を行った人からの束縛を断ち切ることなのです。」

 赦しとは、負い続けてきた怒りや憎しみ、恨みを手放すことでもあります。抱き続けてきた恐れや不安、不信感から自由にされることでもあります。ですから、主イエスは、私たちに赦すことを教え、また求めておられるのです。

からし種一粒ほどの信仰

 次に、本日の聖書の箇所の5〜6節には、『使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。』と記されています。使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言っています。唐突に、使徒たちが言っているように思われますが、このことはこの聖書の箇所の文脈の中で理解する必要があります。一日に何回赦しなさいと、主イエスはおっしゃられたのでしょうか?主イエスは7回赦しなさいと、おっしゃられたのです。先程も言いましたが、これは完全な赦し、無限の赦しを意味しているのです。しかも、その教えは、小さく弱い者をつまずかせるなという教えとセットでおっしゃられているのです。それを考えて、使徒たちである弟子たちは、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったのです。つまり、私たちにはとてもできないので、そのことを実行することができるように、私たちの信仰を増して下さいと弟子たちは願ったのです。

 この使徒たちである弟子たちの願いに対して、主イエスは、信仰の量ではなくて、信仰の質の方が大切だということをお語りになったのです。正しい信仰こそが大切だとおっしゃられたのです。そのことが、『からし種一粒ほどの信仰』という言葉で語られているのです。私たちは、弟子たちのように、信仰が増すことを願います。しかし、主イエスは、本当の『からし種一粒ほどの信仰』があったら、その信仰は力があるとおっしゃられたのです。弟子たちは大きな信仰を求めたのです。主イエスは、小さな信仰であったとしても、本物であったら力があるとおっしゃられたのです。

 では、本当の『からし種一粒ほどの信仰』が、どれくらいの力があるのでしょうか?『からし種一粒ほどの信仰』があったら、『この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。』と、主イエスは言うのです。この桑の木というのは、イチジク桑の木です。取税人のザアカイが登ったと伝えられているあのイチジク桑の木です。この木の特徴は、地中に深く根を張るのです。ですから、植え替えるために、抜こうと思っても、なかなか抜けない木なのです。主イエスはなかなか抜けない木を取り上げて、そのようなイチジク桑であっても、根こそぎ抜けて、海の中に移って行くと語っているのです。ここで、主イエスが語っていることの意味は、心の中に深く根を下ろし、人をなかなか許せない原因になっているもの、それは、私たちの心の中にある自我、プライド、そして、自分中心の心であるわけですが、その私たちの中の自分本位の思いを抜き取る力がどこから来るのかと言いますと、『からし種一粒ほどの』本物の信仰だと言うのです。なぜ、このような本物の信仰が可能であるのかと言うと、これが天の父なる神様が、私たちを扱って下さる方法でもあるからです。

 一日に七回私たちに対して罪を犯して、七回、『悔い改めます』と言って私たちのところに来る人に対して、七回赦してやるためには、信仰が必要です。その信仰は何かと言うと、神様は実に私たちをそのように扱って下さっているのだという信仰なのだと思います。今日の聖書の箇所は、それから、主イエスは本物の信仰を持っている人は、どのような心構えで生きて行く人なのかという話をされるのです。

取るに足りない僕の心構え

 本日の聖書の箇所の7節〜10節を見てみますと、『あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。』とあります。この主イエスの言葉に、私たちはつまずいてしまいそうになるかもしれません。現代の日本に生きている私たちにとって、このたとえ話の主人は、奴隷制度の上に立つ、過酷な主人のように思えるかもしれません。しかし、それでも私たちは主イエスの語る『取るに足りない僕』のたとえ話を真剣に受け止める必要があるのだと思います。

 主人がいて、僕がいるのです。この僕は、自由意志に基づく奴隷であったと考えられます。従って、自分の意志で、この主人の下で仕えたいと考えて、この家に留まっている僕なのです。この僕が畑を耕したのか、羊を飼っていたのかは、分かりませんが、畑仕事を終えて、帰ってきます。その時に、主人はその僕に、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言うだろうかということです。そうではなくて、むしろ、夕食の用意をさせるということから、このたとえ話の主人の家には僕は1人か2人しかいないということが分かります。ですから、1人の僕が複数の役割を担っているのです。そのため、家に帰って来て、家事のことについても、責任を果たさなくてはならないのです。それが全部終わってから、僕は食事をするのです。その時に、畑仕事が終わって、今日は疲れたぁ、家に帰ったら主人が食卓を用意していて、私を座らせて、給仕してくれるに違いないというようなことは、思ってはいけないよと言うのです。

 当時の文化的環境の中では、主人が僕と一緒に食事を摂るというようなことは、あり得なかったことだったのです。主人は主人、僕は僕です。だから、思い違いをしてはいけないよと、主イエスはおっしゃっておられるのです。主イエスは誰にこのことを語っておられるのかと言いますと、弟子たちに語っておられるのです。そのことは、私たちにも語っておられるということなのです。主人は、僕がそこまでしても、その僕によくやってくれて、ありがとうとは言わないのです。それはどうしてかと言いますと、当たり前のことだからです。そういうわけで、主イエスの弟子もそのような心構えを持つべきだと言うのです。全ての仕事を終えた後で、この僕が何と言っているのかと言いますと、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言っているのです。主イエスは、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』という心構えでいなさいと、おっしゃられているのです。主イエスは、このたとえ話を、弟子たちの『わたしどもの信仰を増してください』という願いに対して、信仰は量ではなくて、質だよと語ったことに続いて、このたとえ話なのです。主イエスは、信仰がどのようにしたら増してゆくのかというと、信仰はこのたとえ話のように、奉仕を通して成長してゆくのだよと、答えて下さっているのです。しかも、正しい心構えを持った奉仕を通して、成長して行くのです。

 信仰を成長させてゆく方法には、様々な方法があるかと思います。日々、聖書のみ言葉を学び、神様との対話を重ねてゆくということも、成長して行くためには必要なことだと思います。しかし、ユダヤ的には、知るということは、体験であるということを考えますときに、奉仕こそが信仰の成長にとって最も大切なことだと思います。小さな奉仕を忠実に果たして、私は取るに足りない僕ですと祈る。その結果、信仰が育つ、そうするとより大きな奉仕ができるようになる。その奉仕ができた時に、私は、役に立たない僕ですと祈る。そのサイクルを繰り返して行くことによって、私たちの信仰は育てられて行くのです。私たちは、自分に委ねられている奉仕を忠実に行い、神様の前でなすべきことをしただけの、神様から報酬をいただく価値がない僕なのですと言う時に、どんなに逆風にさらされても揺るがない岩のような信仰が、神様の恵みによって、神様から与えられるようになるのだよと、主イエスはおっしゃっておられるのです。

 エフェソの信徒への手紙2章8〜10節を見ますと、『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』と記されています。救いは神様の恵みです。行いも神様の恵みです。エフェソの信徒への手紙のこの言葉は、神様の恵みによって、すべてキリスト者の生活が支えられていると伝えているのです。先程、神様は繰り返し、繰り返し、完全な赦しを与えて下さるということを学びました。そのことは、私たちは好き勝手にやって良いという許可が与えられているということではないのです。無限に完全な赦しを与えて下さる神様の前で、私たちがお詫びをするときに、心の中に何とも言えない悲しみと、次はもっと神様に喜ばれる生活がしたいという意欲が生まれてくるのです。それは、聖霊が私たちの心に語りかけて下さるからです。取るに足りない僕ですという心構えこそが、信仰を育て、私たちを自由にするのです。私は、取るに足りない僕ですという心構えを持ち、忠実に神様に仕えてゆく時に、結果として、恵みにより信仰が増し加えられているということが、聖書が語る信仰の姿なのだと思います。

 従って、多くのつまずきが私たちの前に置かれているこの現代にあって、私たちは聖書が語る福音が何を教えているのかをしっかりと受け止めて行きたいと思います。私たちは、心から聖書が語る一つ一つの言葉に耳を傾け、主イエスのみ心を私たちの心として、生きてゆきたいと思います。

 それでは、お祈り致します。