【奨 励】 役員 川辺 正直
■群盲象を評す
おはようございます。さて、インドの寓話で『6人の盲目とゾウ』の寓話をご存知は多いかと思います。ジャイナ教の伝承では、6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる形になっています。足を触った盲人は『柱のようです』と答えた。
尾を触った盲人は『綱のようです』と答えた。
鼻を触った盲人は『木の枝のようです』と答えた。
耳を触った盲人は『扇のようです』と答えた。
腹を触った盲人は『壁のようです』と答えた。
牙を触った盲人は『パイプのようです』と答えた。
それを聞いた王は答えた。『あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです』
これが、『6人の盲目とゾウ』の寓話で、このお話の教訓は、真実には様々な側面があり、解釈も様々。自分が本当に正しいと思っていても、 実は全体の一部であり、全体の把握には至っていないケースがあるということだと言われています。全体像を把握することの大切さを伝える寓話ではありますが、現在では視覚障害者に対する差別的な表現として避けられることが多いかと思います。この寓話の問題点は、全体像を知っている者が問い、全体像の中の一部を体験した人の答えを評論家的に見ていることだと思います。
ある牧師が、仙台に仕事で出かけた時のことです。電車の中で、数人の盲学校の生徒たちと乗り合わせたそうです。話をしていると、その子たちは、どうも学校の修学旅行で来ているようなのです。それでその牧師は、『君たち、これからどこに行くの?』と尋ねたそうです。そうすると、そのグループの一人の子が、『今日は、一日、自由行動の日なので、皆で話し合って、松島に行くことにしたのです。日本三景の一つと言われている、松島がどんなところか行ってみたいのです。』と答えたそうです。それを聞いて、この牧師は思わず、『えっ!、目が見えないのに!』と言ってしまい、ひどいことを言ってしまったと、後悔したそうです。でも、その子たちは、屈託なく、ケラケラと笑って、『確かに、僕たちは目が見えません。でも、僕たちは、日本三景の一つと言われている松島に行って、波の音を聞き、海の匂いを嗅ぎ、吹いてくる風を感じてみたいのです。』と言ったそうです。部分的な体験であったとしても、体験することに対するみずみずしい感性と感動が伝わってくる話かと思います。
現在、私たちはルカによる福音書を連続して読み進めていますが、本日は、21章25~28節の主イエスが大患難時代と主イエスの再臨について予言された箇所を読みたいと思います。21章5~38節は、いわゆる終末論と呼ばれる箇所で、とても難解な箇所ですが、受難週の中というただならぬ状況の中を歩まれている主イエスが、オリーブ山で弟子たちに伝えなくてはならないと考え、世の終末について語られた話を読み解くことによって、終末論についての全体像を把握することは困難ですが、弟子たちが感じた驚きや不安を同じように体験しながら、読み進めて行きたいと思います。
■終わりの徴
さて、前回は21章の5〜24節までを読みました。これまでお話しましたことを簡単に、お読みしました5節の人々が神殿について語っている会話をきっかけに、6節以下で、主イエスはエルサレム神殿がもうじき崩壊するという、深刻で重大な予言をされました。それは、弟子たちだけではなく、全ての人にとって重要な教えに導こうとされているのです。そして、主イエスの神殿崩壊の予告を聞いて、不安に思った弟子たちは、それはいつ起るのか、それが起る前にどんな前兆があるのか、と問うたのです。
マタイによる福音書24章3節を見ると、弟子たちは3つのことを尋ねています。それが何かと言いますと、1つ目が、そのことエルサレムの崩壊はいつ起こるのかということです。2つ目が、あなたが来られるときにはどんな徴があるのでしょうか、ということです。そして、3つ目が世の終わるときにはどんな徴があるのですか、というものです。
そこで、最初に主イエスが8〜11節で答えておられるのは、マタイによる福音書の3つの質問の中の3つ目の世の終わるときにはどんな徴があるのですか、という質問に答えているのです。そして、主イエスはまず8〜9節で教会時代に見られる特徴を挙げています。その特徴は何かと言いますと、偽キリストの出現、それから、再臨の予告、それから、戦争や暴動が起こる、こういったことは教会時代を通して、ずっと起こることであって、これらが起きているからといって、教会時代の終わりがすぐに来るということではないのだということを、主イエスはまず語られたのです。それから、主イエスは、10〜11節で、主イエスは、終わりの時代の徴というテーマに入るのです。主イエスが語る終わりの時代の徴として、世界戦争が起こるというのです。さらに、世界的に大きな地震が起こるというのです。そして、『方々に飢饉や疫病が起こり、』加えて、これから『恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』といったものが時代の終わりの徴になるのだということです。それらが今の時代が終わり、新しい時代が始まる徴になるのだというのです。
そして、世界戦争以降が世の終わり、時代の終わりの徴なのだよとおっしゃられたのです。しかし、これらのことが終わる前に、弟子たちは数々の苦難を経験する、それが教会時代に起こることなのだよと言うのです。教会時代において、弟子たちは、ユダヤ人共同体からの迫害、そして、異邦人の支配者たちからの迫害に遭うというのです。そして、12〜19節で、弟子たちには厳しい未来が待っている、しかし、それは逆に伝道が拡大するための神様のご計画だから、恐れないで神様を信頼するならば、必ずあなた方の救いが実現するから、忠実に主イエスに従いなさいということを、主イエスは弟子たちに語って下さったのです。
次に、主イエスの話は、2つ目の回答であるエルサレム崩壊の徴についての話に移ってゆくのです。そして、主イエスは40年後の第1次ユダヤ戦争で起こるエルサレム神殿の崩壊に於いて起こることを予言されたのです。ユダヤ人は、エルサレムの滅亡と神殿の崩壊が『世の終わり』であるかのように思っていました。しかし、主イエスは、『エルサレムの滅亡は世の終わりではないから、逃げて、生きよ』と、『エルサレムが滅亡した後も世界は続くのだから、そこで生きよ』と言われたのです。ここまでが、ルカによる福音書の21章について、前回までにお話したことです。弟子たちが尋ねた3つの質問の3つ目の質問の世の終わりの徴は何かということと、1つ目のエルサレム崩壊の徴は何かということが終わって、後に残った2番目の質問である再臨の徴は何かということが、今日の聖書の箇所での主イエスの説教なのです。
■患難の時
前々回お話したルカによる福音書21章10〜11節には、『そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』と記されていました。この『世の終わり』のしるしというのは、大患難時代に起こることなのです。マタイによる福音書の24章7〜8節には、『民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。』とあります。8節の『産みの苦しみ』とは、女であるイスラエルが信仰の民(残りの者)を生み出すための苦しみであり、すなわち陣痛の始まりを意味しています。この女イスラエルのことを『不妊の女、産みの苦しみを知らない女』(イザヤ54章1節)と聖書は呼んでいます。ここで語られているのは、罪を犯した者に対する神様の刑罰としての出産の苦しみではなく、神様のご計画の実現・成就のためには必ず『産みの苦しみ』があるということです。実際には、マタイによる福音書24章21節で語られているように、『そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。』ということなのです。
ダニエル書9章24~27節には、『お前の民と聖なる都に対して/七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり/罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し/幻と預言は封じられ/最も聖なる者に油が注がれる。/これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての/御言葉が出されてから/油注がれた君の到来まで/七週あり、また、六十二週あって/危機のうちに広場と堀は再建される。/その六十二週のあと油注がれた者は/不当に断たれ/都と聖所は/次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり/終わりまで戦いが続き/荒廃は避けられない。/彼は一週の間、多くの者と同盟を固め/半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」』とあります。これは、ダニエルに示された70週の預言と呼ばれるもので、『メシアによって統治される王国』が神様の主権によって建てられるということを預言しているのです。
ダニエル書9章の26節の『その六十二週のあと油注がれた者は/不当に断たれ』の『油注がれた者』とは、主イエスのことです。その主イエスが『不当に断たれ』とは、主イエスが十字架の上で殺されることを意味しています。そして、『都と聖所は/次に来る指導者の民によって荒らされる。』の『次に来る指導者の民』とは、直接的にはティトス将軍の率いるローマ軍のことで、彼らによってエルサレムと神殿が破壊されることを意味しています。直接的にはと言ったのは、これが型であって、27節の『終わりの日』に起こる『獣と呼ばれる反キリストによる出来事』を預言しているからです。ダニエルの70週の預言の最後の一週(7年間)の前半(3年半、42ケ月間)に、ユダヤ人と反キリストが7年間の契約を結んで神殿を再建します。そして、マタイによる福音書24章14節に、『そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。』とあります。これはどういうことかと言いますと、教会が『御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝え』るのではありません。神様はこの働きのために『二人の証人』という特別な預言者を立てられるのです。そのことがヨハネ黙示録11章3節に、『わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。』と、示されているのです。
『御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる』のは、教会によってではなく、ユダヤ人である『二人の証人』によってです。彼らの働きによって、世界的な大きさの宣教の働きが何者にも邪魔されることなく展開します。そして、彼らの宣教の証しがなされた後、『一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。』のです(ヨハネの黙示録11章7節)。しかし、神様は彼らを三日半の後、復活させます。そして、『二人は、天から大きな声があって、「ここに上って来い」と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。』のです(ヨハネの黙示録11章12節)。
『二人の証人』が天に上った後に、マタイによる福音書24章14節の『それから、終わりが来る。』に続くのです。具体的には『一匹の獣』と呼ばれる反キリストが、イスラエルとの契約を破棄して、自分を神として神殿の中に自分のための座を設けるのです。マタイによる福音書24章15節で、主イエスが語る、『預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、 』につながるのです。つまり、この時点が『終わり』の時であり、イスラエルに未曽有の『大患難』(後半の三年半)が始まると言うのです。
未曽有の大患難はいつまで続くのでしょうか。マタイによる福音書24章22節を見ると、『神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。』とあります。『縮めてくださるであろう。』とありますが、その期間はどれ位でしょうか。大患難は、27節の『人の子も来る』ときまでです。マタイによる福音書24章29〜30節には、『「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。』とあり、大患難の後に直ちに主が再臨(地上再臨)されることが語られており、本日の聖書の箇所のルカによる福音書の21章25〜27節の記述へと、つながって来るのです。
■キリストの再臨によって世の終わりが来る
さて、本日の聖書の箇所の25〜26節を見ますと、『「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。』とあります。ここから、再臨の徴に入るということが分かります。25節は、『それから、』という言葉で始まっています。ギリシア語では、『カイ』という言葉です。これは、話をしているテーマが新しいテーマに入ったということを示しています。本日は、前置きが長くなってしまいましたが、ここから、主イエスは再臨の徴、つまり、再臨の前に現れる徴について語るのです。本日の聖書の箇所の前の箇所である24節には、『異邦人の時代』という言葉がありました。『異邦人の時代』が終わる直前に何が起こるのかと言いますと、先程、お話しましたように艱難期が訪れるのです。様々な艱難が人々を襲います。25節では、全世界を襲う艱難が予告されています。天変地異が予告されているのです。太陽と月と星に徴が現れ、地上では海がどよめき荒れ狂うと言うのです。『太陽と月と星に徴が現れる。』とは、何が起こるのでしょうか。
先程、お読みしましたマタイによる福音書24章29節には、『「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。』とあります。つまり、天体の異変が起きるというのです。もっと具体的に説明すると、天からの光がブロックされてしまうというのです。ですから、真っ暗闇が襲うというのです。『星は空から落ち、』とありますが、これは、巨大な彗星が地球と衝突するということではないと思います。地上で星を見ていると、星が光りを放たなくなるので、まるで星が地に落ちたように感じるのを、地上にいる人の視点から見た言葉だと思います。天体の異変によって、真っ暗闇になるのだという言葉は、これは比喩的に考えるべきだという明確で合理的な理由がない限りは、字義通りに読み取るべきだと思います。実際、歴史上、真っ暗闇が地を覆ったという出来事があったのです。それは、いつのことかと言いますと、主イエスが十字架に架かられた時に、全地は暗くなったのです。ルカによる福音書の23章44〜45節を見ると、『既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。』とあり、既に前例があることが分かります。ですから、大患難時代の終わりにこのようなことが起こるのだということは、そのまま受け取るべき言葉だと思います。
旧約聖書では、ヨエルという預言者が次のように語っています。ヨエル書の3章2〜4節には、『その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。/天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。/主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。』とあります。これは、大患難時代の天変地異の予言なのです。
本日の聖書の箇所のルカによる福音書では、さらに『地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。』と書いてあります。『海がどよめき荒れ狂う』といのは、甚だしい高波とか津波のことです。そのことが起こるので、人々はなすすべを知らず、不安に陥ると言うのです。
これが、大患難時代が終わる直前、『異邦人の時代』が終わる直前、そして、再臨の直前の状態だと言うのです。そして、このとき諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥ると言うのです。それから何が起きるのかと言いますと、主の再臨なのです。
■あなたがたの解放の時が近い
本日の聖書の箇所の27〜28節には、『そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。』とあります。再臨ですが、最悪の状況を迎えたときに、人の子の再臨が起こるのです。人の子というのは、メシアのことです。主イエス・キリストのことです。この時、人々は神様の栄光と共に来られるメシアを目撃するようになると言うのです。神様の栄光というのは、光り輝いています。その時に、地上は暗闇なのです。神様の栄光が、暗闇をかき消す形で、メシアが戻って来られるのです。
ダニエル書7章13節を見ますと、『夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み』とあります。『「人の子」のような者』という記述があることが分かります。この方が、メシアです。その方が、『天の雲に乗』って来られる。これが、神様の栄光なのです。実際に、そのようなことがあるかと言いますと、主イエスの初臨のときにも神様の栄光が輝いたのです。初臨の時の神様の栄光はどのような形で輝いたのかと言いますと、ルカによる福音書2章8〜9節を見ますと、『その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。』とあります。これは、メシア誕生に伴う主の栄光なのです。メシアが誕生したことを告げる主の栄光なのです。ですから、主イエスの再臨の徴は何かと言いますと、全世界が真っ暗闇になる。そこに、神様の栄光が輝く、それが再臨の徴なのです。
従って、28節の『このようなことが起こり始めたら、』というのは、艱難が襲い始めたら、メシア的王国は近い、主の再臨と御国が近いことを思い出すべきであるということなのです。『身を起こして頭を上げなさい。』というのは、希望を表明することなのです。うなだれていないで、希望を表明して、しっかりと立ち上がりなさいという励ましの言葉なのです。そして、このメシアの再臨によって世の終わりに実現するのが、救いの完成である、と知っているからこそ、私たちは『世の終わり』に対して、身を起こして頭を上げて歩んで行けるのです。
主イエス・キリストが十字架で死なれ、復活されることによって、私たちの救いはすでに実現しました。私たちはすでに罪と死の力による支配から解放されて、神様の恵みのご支配のもとに入れられているのです。しかしこの神様の恵みのご支配は私たちの目には見えません。むしろ私たちの目に見えるのは、神様の恵みのご支配とはかけ離れているように思える、まことに悲惨な現実です。しかし、今は目に見えない神様の支配が、目に見えるようになるときが来るのです。それが世の終わりなのです。キリストが再び来てくださるとき、救いが完成して、神様の恵みの支配が誰の目にも見えるようになるのです。確かに世の終わりに、神様が最終的な裁きを行われることによって救いは完成します。しかし、私たちにとって、その裁きは神様の怒りが私たちに下ることではありません。神様の怒りは、主イエス・キリストが私たちの代わりに十字架上ですでに受けてくださったからです。主イエスの十字架の死によって、すでに救われている私たちは、主イエスの救いが完成する世の終わりを待ち望んで生きたいと思うのです。ですから、28節の終わりで主イエスは、『あなたがたの解放の時が近いからだ』と語られます。世の終わりは、私たちにとっては、『解放の時』なのです。『解放の時』と訳されていますが、原文には『時』という言葉はありません。聖書協会共同訳では、『あなたがたの救いが近づいているからだ』と訳されています。世の終わりに私たちの解放が、私たちの救いが完成するのです。私たちが本当に目を向けるべきなのは、世の終わりに主イエス・キリストが再び来てくださり、私たちの解放と救いを完成してくださる、ということにほかならないなのです。
■身を起こして頭を上げて生きる
既に救いにあずかって生きていても、私たちは日々、不条理な現実に直面し、多くの苦しみや悲しみを味わいながら歩んでいます。戦争や災害や疫病、天変地異に直面して、不安と恐れに駆られることがあり、キリスト者のゆえに苦しみを受けることもあります。そのような苦しみや悲しみ、不安と恐れの中で、私たちは背中を丸め、顔を上げることができずにうなだれて歩んでしまいます。あるいは自分の手放したくないものに執着して、それを失うことへの不安と恐れにとらわれ、縮こまって歩んでしまいます。しかし、そのような私たちが、世の終わり、教会時代の終わりに、艱難が極まるそのただ中で、神様は私たちの解放と救いを約束されていることを信じるとき、私たちは身を起こして、頭を上げて生きることが、丸めていた背中をピンと伸ばし、伏せていた顔を上げ、縮こまるのではなく立ち上がって、生きることができるようになるのです。この解放の時が近づいていることに目を向け、そのことを信じて生きる私たちに、なお苦しみや悲しみを味わい、不安や恐れに駆られるときも、世の終わりに至るまで、身を起こして頭を上げて歩んでいく人生が与えられていくのです。
私たちは、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、世の終わりにもう一度来て下さり、私たちの救いを完成して下さる、その主イエスの支配の完成を信じ、待ち望みつつ、身を起こして頭を上げて生きて行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。