小倉日明教会

『2つのイエス・キリストの系図(1)』

マタイによる福音書 1章 1〜17節

2022年12月4日 待降節第2主日礼拝

マタイによる福音書 1章 1〜17節

『2つのイエス・キリストの系図(1)』

【奨励】 川辺 正直 役員

ホワイト・クリスマス

 おはようございます。勤労感謝の日に、クリスマスカードを買いにクリスチャン文書センターに行ったのですが、休日であったために、仕方なくロフトのクリスマス・コーナーに行きました。しかし、ロフトのクリスマス・コーナーに並んでいるのは、様々なグッズといわず、カードの類に至るまで、サンタクロースかクリスマスツリーにちなんだものしか並んでいなかったのです。幼子イエスやマリアを描いたもの、羊飼いや3人の博士たちを描いたものは、ものの見事に一つもなかったのです。仕入れの担当者は、宗教色を排除するために、そのような品揃えをしたのかもしれませんが、このような環境の中で育つ子どもたちが、やがて海外の人たちとどのようにクリスマスを分かち合うことになるか、少し心配になります。それでは、世界の中でクリスチャンの比率が最も多い国の一つであるアメリカ合衆国の人たちは、どのようなクリスマスを迎えるのでしょうか。ここで、私が神奈川県の川崎市におりましたときに通った教会の牧師であり、青山学院大学の名誉教授である関田寛雄先生がアメリカに留学したときの思い出を綴った「アメリカ思い出の記」から『ホワイト・クリスマス』と題された記事を紹介したいと思います。

『ホワイト・クリスマス』     関田寛雄   1989年4月2日 川崎戸出伝道所週報より

 ボストンの冬は雪が深い。夜中にごうごうとエンジンの音がするのでどうしたのかと思っていたら、一夜の間に3~40センチも雪が降り、道路の雪除けのためにブルドーザーが出動していたわけである。男も女も靴ごとすっぽり入る、留め金の着いた大きな長靴をはいて歩いている。翌春まで消えることのないこの雪の中に、クリスマスがやって来る。まことに、ホワイト・クリスマスであった。ある日、思いがけなくK君が訪ねて来た。彼は私が横浜YMCAの職員でいた時、少年部に通って来た中学生であったが、今、ボストン大学に留学しているということであった。K君は大学時代のバイブル・クラスを指導してくれた黒人婦人(横須賀の米軍人の妻)の紹介で渡米したという。そのことがきっかけでクリスマス・イブに、この黒人夫婦に、招待されることになった。当日この家庭を訪ねたが、実は夫は歯科医師で背が高くやせているのに、夫人は背が低く大変な肥満で、その対照がいかにも、ユーモラスであった。特に夫人は底抜けに明るい人で、手製のターキー始めクリスマスのごちそうをたっぷり提供してくれた。

 13、4歳の2人の娘さんがいたが、うちひとりはアフリカから、養女に迎えた娘であった。夫人の説明によると貧困に苦しむアフリカから養子を迎える運動が展(ひろ)がっているということであった。私は、豊かな国の市民がその豊かさをどういうことのために用いるべきなのか、を教えられた思いであった。今、豊かになった日本は、自分の国を超えて外国にまで手をのばして、土地を買いまくる。市民も、不必要なぜいたくに目を奪われ、外車を買い漁り、食べ切れない料理を注文する。しかし、アメリカ市民の豊かさの質はちがうのである。貧しい国々への思いを、「養子という形で具体化」し、つましい生活の中で豊かな心を分ち合う。まことの幸せとはどちらにあるのか、いうまでもあるまい。日本でも最近フイリピンの子供たちの里親運動が始まっているが、ほんの一部の人が知っているだけである。

 ふたりの娘たちは私たちにすばらしい歌を聞かせてくれた。実子の娘は巧みにハープをかなで、それにのせて養女の方は美しい声で「ホワイト・クリスマス」やアフリカの歌をうたってくれた。そのふたりを、目を細めて見つめていたこの黒人夫婦の面影が忘れられない。

 ここには、クリスマスにふさわしい豊かな分かち合いがあると思います。私たちは、今年のクリスマスを誰と、何を分かち合うのかということを考えながら、本日の聖書箇所を学んでゆきたいと思います。

イエス・キリストの系図

 さて、今回と次回の2回に渡って、マタイによる福音書とルカによる福音書の中に書かれている2つのイエス・キリストの系図を取り上げたいと思います。新約聖書を開くと、まず目に入ってくるのは、誰々は誰々をもうけ、という形で、人の名前が延々と続く、本日の聖書の箇所であるマタイによる福音書のイエス・キリストの系図です。皆さんの中も、聖書はすごい本だと思って、開くと、今日の聖書の箇所だったという経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。今日の聖書の箇所は、現代の日本人にとっては、とても難しい箇所なのだと思います。そういう難しい箇所ですが、2回に渡って、チャレンジをしたいと考えています。なぜ、私たち日本人にとっては難しい箇所なのでしょうか?それは、現代の私たちは、家系や血筋は何の意味もないのだよということを教えられて育って来たからだと思います。しかし、新約聖書の時代、ユダヤの人びとにとって、系図はとても大切なものであったのです。それでは、ユダヤの人びとにとって、系図はなぜとても大切なものであったのでしょうか。例えば、現代の私たちが銀行に行って、銀行口座を作ろうとした時に、名前と住所を言っただけでは、口座は作ってくれません。免許証や健康保険証などの身分証明書が必要になります。銀行で身分証明書の提示を求められて、系図を出す人がいるでしょうか?恐らく、そういうことをする人はいないと思います。しかし、系図は免許証や健康保険証などがない時代には、系図は自分が何者であるかを証明する身元証明証であったのです。21世紀の現代に於いて、ユダヤ人は世界中のどこに住んでいても、イスラエルに帰還したいと申し出たら、無条件で帰還することができます。そのときに自分がユダヤ人であるということをどうやって証明するのでしょうか?今のユダヤ人には、もう系図はないのです。ユダヤ人の系図は、紀元70年のエルサレム陥落の際に、失われているのです。それでは、どうやってユダヤ人であるということを証明するのかと言いますと、ユダヤ人が住んでいるところにあるシナゴーグと呼ばれる会堂にユダヤ人は所属しているので、会堂にいるラビと呼ばれる聖職者に推薦状を書いてもらうのです。「このAさんは、熱心にシナゴーグに来て、礼拝をしていたユダヤ人です。」というような内容の推薦状をラビに書いてもらうと、ユダヤ人だと認めてもらえるのです。このような会堂がない場合には、「私の家は、先祖代々、安息日を守っていました、過ぎ越し祭を守っていました。家にはメノラーと呼ばれる7本の燭台があり、伝統的なユダヤ人です。」というような内容を証明して、イエスラエルに帰還する権利を与えてもらうのです。

 主イエスが生きておられた時代には、まだ系図が残っており、自分が何者であるかを証明するためには、系図はとても重要であったのです。そのような系図がものを言うようなのは、どのようなときかと言いますと、例えば、イエスラエルの民がエジプトの地を出て、カナンの地に入って、土地を分割するときに重要になってきます。そのときには、何部族のどこの氏族のどの家族に属しているかによって、土地を分割して行くのです。系図がなかったら、自分の部族、氏族、家族を証明できないのです。従って、系図によって、それを見せるというのはとても大事なことなのです。土地の分割のために、系図は大事であったのです。さらに、祭司になるためには、アロンの家系でなくてはならなかったのです。アロンはレビ族です。レビ族の中のアロンの家系にある人が祭司になるわけですから、祭司になるときには、その証明を系図によってしなくてはいけなかったのです。祭司だけではありません、王になる条件もあるのです。王になるためには、モーセの律法では、イスラエルの王は、イスラエル人でなければいけないとなっていたのです。申命記17章15節、「必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。」と、このように書かれています。それが、ダビデ王が出てからは、ダビデの家系が正統の王となるのです。これは、第2サムエル7章16節に、「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と書かれている通りなのです。ダビデ王以降は、ダビデの家系であることを証明しないと、正統な王とは認められないのでした。

 新約聖書の時代、ユダヤを支配していた王の名前は、ヘロデ大王と言いました。ヘロデ大王はイスラエル人ではありませんでした。エドム人であったのです。エドム人というのは、エサウの子孫です。ということは、ヘロデ大王はローマ帝国から権利を認めてもらって、王としてユダヤを治めていますが、聖書的にはユダヤの王となる正統性がないのです。そのため、ヘロデ大王はユダヤ人を統治するのに恐れがあったのです。それ故、大きな神殿を建てたり、いろいろなユダヤ人たちを喜ばせることをしたりしながら、かろうじてユダヤを統治しているのです。ところが、これは、次週、沖村先生がお話される聖書の箇所となりますが、主イエスが生まれた時に、東方から博士たちがやってきます。マタイによる福音の2章の2節で、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と書かれています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった」、しかし、ヘロデ大王はエドム人なのです。正統性がないのです。その言葉を聞いて、ヘロデ大王はどうしたのか、2章3節です。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」、このように書かれています。ヘロデ王には正統性がない、しかし、ユダヤ人の王としてお生まれになった方が到来した。ヘロデ王にとっては、恐るべきライバルの登場の宣告であったのです。このように系図は、土地の分割、祭司職の条件、王の条件を証明する大切なものであったのです。しかし、今日の聖書の箇所、マタイによる福音書の重要なテーマは、メシアとなる条件もまた、系図によって証明されなくてはならないということです。即ち、誰がメシアであるかということは、系図によって判断されるというのです。メシアは誰の子孫でなければならないのかというと、アブラハムの子孫でなくてはならないのです、そして、ダビデの子孫でなければいけないのです。アブラハムの子孫、ダビデの子孫、それがメシアの条件なのです。それ故、1節には、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」と書かれているのです。福音記者マタイは、ここでこの方がメシアだと、高らかに宣言しているのです。

 アブラハムから始まる系図

 新約聖書には、主イエスの系図がもう一箇所あります。ルカによる福音書の3章23節以下です。マタイの系図は、アブラハムから始まってダビデを経て主イエスに至るものですが、ルカの系図は、主イエスから遡っていって、ダビデやアブラハムを経て、最初の人間アダムにまで至るものです。つまり語られている方向性が反対だし、系図の始まりをどこに置くかも違っているのです。そこに、マタイにおける系図の特徴が表れています。この系図はアブラハムを始まりとしているのです。このことは、この系図が、単なる血の繋がりを語っているのではないことを意味しています。ではなぜ、マタイは主イエスの系図をアブラハムからはじめたのでしょうか?

 その答えは、アブラハムから、神の民イスラエルの歴史が始まった、ということにあります。アブラハムの物語は創世記第12章から始まります。先程、朗読しました創世記第12章で、主なる神はここで、後にアブラハムという名前となるアブラムに、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」と語りかけました。そして、4節には「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあります。アブラムは、主なる神の「あなたを大いなる国民にする」という約束を信じて、主が示す地へと、行き先を知らずに旅立ったのです。この旅立ちから、アブラハムの信仰者としての歩みが始まりました。そしてそれは、主なる神がアブラハムの子孫を大いなる国民として下さるという主のみ業の始まりでもあったのです。その大いなる国民がイスラエルの民です。神の民イスラエルの歴史が、このアブラハムの信仰による旅立ちから始まったのです。マタイはそのことをこの系図の始まりとしています。つまり、マタイによる福音書のこのイエス・キリストの系図は、主イエスの家柄を語っているのではなくて、アブラハムから始まったイスラエルの民の歴史の中に、主イエスの誕生を位置づけているのです。

 イスラエルの民の歴史は、主なる神様がアブラハムとその子孫を祝福して、ご自分の民を築いて下さったという神様のみ業の歴史ですが、そのみ業の目的は、イスラエルの民のみを祝福し、その名だけを高めることではありません。主はアブラハムに、あなたを「祝福の源」とするとおっしゃいました。それは、彼とその子孫であるイスラエルの民が祝福の源となって、そこから神様の祝福が湧き出て世界の人々を潤していく、ということです。3節の後半には「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」とあります。主なる神様は、アブラハムの子孫をご自分の民イスラエルとして、その歴史を導くことを通して、地上のすべての氏族を、つまり全世界の人々をご自分の祝福へと入れて下さろうとしておられるのです。イスラエルの民の歴史は、神様がご自分の祝福を全ての人々に及ぼして下さるという、全ての人々への神様の救いのみ業の歴史なのです。その救いの歴史が、創世記12章のアブラハムの旅立ちから始まったのです。

 つまり創世記12章は、聖書における大きな転換点です。その前のところ、創世記の11章までに語られているのは、神様がこの世界と人間を創造し、祝福して下さったこと、しかし人間は、蛇の誘惑によって、神様のもとで生きることを不自由なことと思い、自分が主人となって生きようとする罪に陥ったために、神様の祝福を失い、荒れ野のようなこの世を苦しみながら生きなければならなくなったこと、そしてその人間の罪が膨れ上がっていき、この世に様々な悲惨なことが起っていった、ということです。つまり創世記は11章までにおいて、罪によって神様の祝福を失っている人間の現実を語っているのです。そして12章から、失われた祝福を回復して下さる神様の救いの歴史が始まったのです。その救いの歴史を担う民として立てられたのがイスラエルの民であり、その最初の先祖がアブラハムなのです。つまりアブラハムから始まるこの系図は、主なる神様による救いの歴史を語っています。その救いの歴史が、アブラハムからダビデを経て主イエス・キリストに至っていることを語っているのです。アブラハムから始まった、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という神様の救いのご計画は、主イエス・キリストにおいて実現したのだ、ということをこの系図は語っているのです。

三つの時代区分

 マタイが書き記したイエス・キリストの系図は3つの部分から成っています。アブラハムからダビデまでが第1の部分、ダビデからバビロンへ移住させられた時までが第2の部分、バビロン捕囚から主イエスまでが第3の部分です。この3つの時代区分は、イスラエルの民の歴史における3つの時代区分です。アブラハムからダビデまでは、神の民イスラエルの誕生から、エジプトでの奴隷状態からの救いを経て、約束の地でダビデのもとに王国が確立するまで、第2の区分はダビデ王朝の下でのイスラエルが王国として歩んだ時代、第3の区分は、国が滅ぼされ、バビロンに移住させられた、いわゆるバビロン捕囚から主イエスの誕生までです。それぞれの時代が14代ずつになっている、と最後の17節にあります。それは、このイスラエルの歴史が単なる偶然によるのではなくて、神様のご計画、み心によって導かれていることを示しています。歴史は、人間の様々な思惑や偶然の出来事が複雑に絡み合って思いもよらない方向へと流れていくもので、私たちはその中で翻弄されつつ生きています。しかし、大きな目で見た時には、それらの人間の歩みとそこにおける混乱の全てを貫いて、主なる神様が歴史を導いておられ、救いのみ業を行って下さっている。そのことをこの系図は示していると思います。

 イスラエルの歴史において「バビロンへ移住させられた」こと、つまり「バビロン捕囚」は、国を滅ぼされ、故郷から他国へと移住させられたという大きな苦しみの出来事でした。それと同じようなことが、今年起きたウクライナ戦争の中で、起きていることに私たちは心を痛めています。イスラエルの人々においてこのバビロン捕囚は、主なる神様の民であった自分たちが、主のみ心に従わず、ご利益を与える他の神々、偶像の神々を拝むようになったという罪に対する主の裁きでした。ダビデからバビロン捕囚までの時代は、イスラエルが主なる神様の恵みによって最も栄えた時代でしたが、その繁栄の中で神様をないがしろにする罪に陥り、その罪が積み重なってついに神様の怒りによる滅亡に至った時代でもあったのです。神様の民であるはずの自分たちが、罪のゆえに神様に裁かれ、見捨てられてしまったという絶望を彼らは体験したのです。しかし、その絶望の現実の中でも、主なる神様は、アブラハムに与えて下さったあの約束、あなたを大いなる国民とし、祝福の源とし、全ての人々を神の祝福の中に入れて下さるという救いの約束を忘れてはおられませんでした。神様の導きによって、その祝福の約束が、父から子へと受け継がれていったのです。その人々自身は、自分が神の祝福の約束を受け継いでいると意識してはいなかったでしょう。昔先祖アブラハムにそんな約束が与えられたことがあった、と知っていたかもしれませんが、今の自分の現実の人生を見たら、神様の祝福などどこにもない、あるのは苦しみと絶望ばかりで、祝福の約束など何の意味もない、と思っていたかもしれません。この系図の、特に第三の部分に名前がある人々の多くは、そのような現実の中で生き、死んでいったのだと思います。しかしその人々の人生も、主なる神様の恵みのみ手の中にあったのです。彼らが苦しみの中で必死に生き、そして死んでいった、その人生の全てを、主なる神はみ手によって導いて下さっていて、彼らの歩みを通して、主なる神の祝福の約束が継承されていった。そして神様の時が満ちて、主イエス・キリストが誕生し、約束されていた救いが実現したのです。では、主イエス・キリストの誕生によって、約束されていた救いが実現したことに、どう応答したら良いのでしょうか。

女性教師、ジーン・トンプソン

 新学期が始まった日、ジーン・トンプソンは自分が担当することになった5年生のクラスを見回し、生徒たちを歓迎し、こう語りかけました。「私にとって、あなたたち全員がかけがえのない存在です。全員を平等に扱います」。ジーンは毎年新しく受け持つ生徒たちにそう伝えるようにしていましたが、実際にはそれが無理なことであることはわかっていました。特に今年は、テディ・ストッダードという名の生徒が彼女のクラスに座っていることもありました。ジーンはテディのことを、以前にも学校で見かけたことがありました。テディはひとりでいることが多く、クラスメイトの誰にも心を開かず、いつも不潔な身なりをしていました。癇癪を起こすこともあり、それが原因で他の生徒たちからも敬遠されているようでした。教師としては常に監視を怠れないタイプの生徒だということは明らかでした。

 学期が始まってから最初の数ヶ月、テディは成績も振るわず、ジーンは心苦しいながらも彼に最低レベルの採点や成績以外与えることができませんでした。やがてこのままではいけないと感じたジーンは、テディーの事情を知るために彼の1年生からの成績や評価に目を通し始めます。テディの資料に記されていた情報に、ジーンは自分の目を疑います。

 テディーが1年生だったときの担任は、彼についてこう記していました。「友だち思いで、好奇心に溢れた明るい生徒。宿題も期限に必ず提出することができ、成績もトップで、礼儀正しく、クラスの雰囲気を明るくするには欠かせない」2年生の記録は、「大変優秀で、他の生徒たちにも慕われている。しかし、お母さんの病気が、少なからず彼に影響を与えている様子。家庭生活にも支障がでているよう」3年生の記録は、「テディーは熱心に勉強を続けています。母親の死を経験し、何とか頑張ろうとしているが、心に大きなダメージを負っている。ます。残念なことに、父親の方はテディーにあまり関心がないらしく、責任感が希薄なため、何らかの措置を講じなければ家庭環境が彼に悪影響を及ぼす可能性がある」4年生の記録は、「テディーは殻に閉じこもっているようで、授業に全く興味を示さなくなっている。友だちは沢山いるようだが、授業中の居眠り、始業時間に遅れてくることも度々ある。テディは今後、難しいケースになっていく可能性がある」

 テディの事情を知ったジーンでしたが、彼女に一体何ができるというのでしょうか。このとき既に学期は半分を終えようという時期で、クリスマスも近づいていました。クラスで開いたクリスマス会では、生徒の多くがジーンにプレゼントを持ってきました。 色とりどりの可愛らしいラッピングペーパーに包まれたプレゼントの中に、一つだけ粗末な茶色い紙袋に入れられたプレゼントがあることにジーンは気づきました。ジーンは生徒たちからもらったプレゼントをみんなの前で開けていき、やがて茶色い紙袋に手を伸ばしました。紙袋の中からプラスチック製の壊れたブレスレットと、半分使ってある香水の瓶を取り出したとき、生徒たちが笑い出しました。ジーンは騒ぐ生徒たちを制すると、きれいなブレスレット、と嬉しそうに声を上げて身に着け、香水を少し手首に付けてこすりあわせました。そして、腕を上げて「いい香りでしょう。」と皆に自慢をしたのです。その日の放課後、テディがジーンのところへやってきました。そして恥ずかしそうにこう言ったのです。「先生、今日はお母さんと同じ香りがする」テディが教室から出て行った後、ジーンはその場でひざまずき、自分がなんと愛のない教師であったかということを神様に告白し、涙を流しなら、悔い改めたのだそうです。

 テディからお母さんの思い出の贈り物を受け取ったこの日以来、ジーンは勉強や成績だけでなく、生徒たちをより注意深く見守るようになりました。クリスマス休みが明けると、ジーンは生まれ変わったような気持ちで新学期に臨みます。ジーンは特にテディを一生懸命勇気づけ、授業についていけるように気を配りました。すると、それに応えるように、テディの方にも変化が現れ始めたのです。以前は、悲しみや孤独感のために隠れていた笑顔や明るさが蘇り、ジーンが応援すればするほど、テディは元気とやる気を取り戻していったのでした。その結果、テディはクラスでも一番を争うほど優秀な成績で小学校を卒業していきました。それから1年後、ジーンは教員室のデスクの上に一通の手紙を見つけます。「先生は、僕が出会った中で一番素晴らしい先生でした」それは、テディからの手紙でした。6年が過ぎ、ジーンはまたテディの手紙を受け取ります。「トンプソン先生、高校を2番の成績で卒業します。先生に最初に知ってもらいたかったのです。テッドより」さらに4年後、ジーンは再び手紙を受け取ります。「トンプソン先生、首席で大学を卒業します。先生に最初に知ってもらいたかったのです。勉強は大変でしたが、とても楽しい学生生活でした。テディより」手紙は「先生は今でも僕の一番大好きな先生です」と、結ばれていました。さらに、その4年後、便りが届きました。「トンプソン先生、僕は医学博士の学位をいただきました。先生に一番最初に知ってもらいたかったのです。それから来月27日、結婚します。式には母が生きていれば座るはずの席に座ってください。今や先生だけが僕の家族です。昨年父は亡くなりました。テディより」

 ジーン・トンプソン先生は、テディとお母さんの思い出を分かち合い、テディに寄り添い、励ますことによって、テディの人生に生きる力と勇気を与えたのだと思います。

慰めに満ちたイエス・キリストの系図

 私たちは、私たちと苦しみと喜びを分かち合い、共に生きるために、この世に来られた主イエス・キリストの系図から深い慰めを受けることができます。この系図に出てくる人々の生きた時代は様々です。神様の恵みを受けて繁栄していった、いわゆる右肩上がりの勝ち組の時代を生きた人々もいました。反対に衰退、下降線をたどっていく、負け組の時代を生きた人々もいました。自分たちの罪の結果として、国の滅亡や捕囚を絶望の中で体験した人々もいました。生まれた時からその滅亡、捕囚の苦しみ、絶望の中にあり、その中で人生を歩み、死んでいった人々もいました。どんな人生を歩んだのか、私たちが知ることができる人もいますが、そんなことも一切分からない、全く無名の人々も多くいます。一人ひとりの人生だけを見るならば、神様の祝福などどこにも見出せないではないかと思うことも多くあります。しかし、今日のこのイエス・キリストの系図は、歴史の中に埋もれていった人々、一人ひとりの人生が、独り子イエス・キリストによって救いを実現して下さる神様のご計画の中にあったことを語っているのです。

 現代の日本に生きる私たち一人ひとりの人生も、主イエスによって実現したこの救いの中に置かれています。主イエスの十字架と復活によってもたらされる救いを信じる信仰によって、招かれ、養われる私たちは、私たちの人生が、このイエス・キリストの系図に記されている人々とその家族たちがそうだったように、恵み深い神様の救いの歴史の中に置かれていることを喜びたいと思います。私たちは、不安に満ちた激動の時代を生きていますが、人間の営みのあらゆる混乱、苦しみを通して、歴史を支配しておられる主のご計画が実現していくことを信じて、主の言葉に従って歩んでゆきたいと思います。

 それでは、お祈り致します。