【説 教】 沖村 裕史 牧師
■「○○ファースト」
「○○ファースト」と言えば、昔なら「レディ・ファースト」という言葉を連想したものですが、最近はあまり聞きません。「○○ファースト」と言われて、今、思い出すのは、トランプ大統領の使う「アメリカ・ファースト」であり、一〇年前の二〇一六年、東京の小池百合子都知事が掲げた「都民ファースト」です。
「アメリカ・ファースト」。アメリカ第一主義。アメリカ最優先。
「都民ファースト」。都民第一主義。東京都民最優先。
東京に住んだのはわずか二カ月ほどで、首都圏以外の地方で暮らすことが長かったせいでしょうか、この「都民ファースト」という言葉を聞いた時、あまりいい感じがしませんでした。「アメリカ・ファースト」もそうですが、自分のところが一番、自分のところが最優先というのは、あまりに露骨というか、あまりに無神経で、独善的な印象を受けたからです。
今の時代、自分のところだけですべてをまかなえる国や都市があるはずもなく、いろいろな国々や地域、いろいろな人々、いろいろな分野での関係や交わりがあってはじめて、アメリカという国も東京という都市も成り立っています。事実、東京都内で働いている多くの人は周辺の千葉や埼玉、神奈川といった関東圏の住民であり、外国人を含めて、多くの人のおかげで東京はやっていけるのです。
どうも印象が悪いなあと思っていた時に、ある方の言葉を聞いて、その印象の悪さの正体を教えられた気がしました。
「○○ファースト」の思想というのは、裏返してみれば、「誰かを後回しにする思想だ」というのです。確かにその通りで、誰かを先にすれば、誰かを後にすることになり、「アメリカ・ファースト」はアメリカ以外の国や地域を後回しにすること、「都民ファースト」は都民以外の人たちの暮らしを後回しにすることになります。
もっとも、「誰かを先にして、誰かが後になる」という思想そのものは、必ずしも「悪い」とばかりは言えません。個人の場合であれば、病気の人、苦しんでいる人、問題を抱えている人をまず、最初に何とかしなければ……というのなら分かります。社会的に言えば、貧困、暴力、不正、混乱の中にある地域や国、そこに生きる人々の問題をまず、最初に何とかしなければ……というのも分かります。
「アメリカ・ファースト」や「都民ファースト」の印象の悪さとは、なんだかんだ言ったところで、今なお、政治的・経済的・軍事的に世界で最大・最強の影響力を持っているアメリカが「先だ」という主張、日本でもっとも大きな影響力を持つ大都市である東京が「優先されるべきだ」という主張にこそ、あるのです。
「強いものが先になる」。「大きな者が優先される」。そんな主張に、何の意味があるのか。単なるエゴイズムと何が違うのか。昔ながらの弱肉強食ではないか。そんな主張、思想に本当に未来がある、と言えるのでしょうか。
■人々の「○○ファースト」
さきほどの聖書の中に、子どもたちが登場します。それは、イエスさまに「手を置いて祈っていただくため」であった、と記されています。
当時は、イエスさまのような宗教的・社会的に尊敬されていた人にお願いして、子どものために祈ってもらう、祝福してもらうということがしばしば行われていたようです。しかしそれは、たんなる儀式的な意味ではありません。乳幼児の死亡率が高く、平均寿命が二五歳とも三〇歳とも推測されるローマの時代です。繰り返される戦争、慢性的な飢饉、疫病の蔓延によって、社会は混乱、疲弊していました。栄養状態も悪く、病気にかかればすぐ死に至ることも稀でなかった時代、信頼できる医者も数少なかった時代にあっては、わが子の健やかな成長を心から願う親の求めであり、現に病気にかかっている子どもを救ってもらうための切実な願いでもありました。
そればかりではありません。成人するまで親が健在であることは稀なことでした。ふた親を失い孤児となった子どもたちは、とりわけ弱く、傷つきやすい存在です。今ここに連れてこられた子どもたちもまた、そういう孤児であったのかもしれません。 親と死別した子どもたちはたちまち、生きる手立てを失います。支援が必要でした。
しかし聖書が求める支援は、倫理に基づく施しでも、政治が目指す目標でもありません。ただ神が示してくださった救いへの応答、信仰に基づくものでした。ここに記される「人々」―親だけでない不特定多数の人々もまた、神の恵みへの応答として、何よりも具体的で切実な愛の思いをもって、イエスさまにこの子どもたちを祝福していただきたい、苦しみや悲しみからこの子どもたちを救っていただきたい、そう願って連れてきていたのでしょう。
■弟子たちの「○○ファースト」
ところが、弟子たちはそんな人々を叱り、追い返そうとします。理不尽とも思える弟子たちの態度ですが、そこには理由がありました。
当時のユダヤ人社会では、子どもは大人に比べて宗教的に価値の低い存在であるとも考えられていました。それは、子どもが「神」について、また神の定められた「掟」や「律法」について充分にわきまえていないとみなされていたからです。そこで、イエスさまのような人物のもとに近づくにはふさわしくないと考えられたということです。それで、イエスさまの弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱りつけました。
もう一つ、理由が考えられます。この後、イエスさまたちはエルサレムに入城することになります。しかも入ってわずか一週間の内にイエスさまは捕えられ、十字架につけられて殺されます。その十字架への旅路にあることを、イエスさまは繰り返し弟子たちに教えておられました。
イエスさまは今、大事な時を迎えようとしておられる。そんな時に余計な負担はおかけしたくない。騒然とした雰囲気の中、弟子たちにとっては当然の配慮と気配りのつもりでした。しかし、それが真実の配慮と気配りであるなら、弟子たちは決して人々を叱ったり、子どもたちを妨げたりはしなかったはずです。直前一八章で、イエスさまはそのような幼な子を招き入れ、しかも弟子たちの真ん中に立たせて、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と教え諭されていたからです。
このとき、弟子たちの思いの中に潜んでいるのは、自分たちはすべてを捨ててイエスさまに従ってきた、イエスさまの弟子として歩んできている、このわたしたちこそが……という弟子たちの自負、優越感です。一見、イエスさまへの気遣いと見えるその裏、本音のところで、自分の幸せだけを求めて神を、イエスさまを利用するだけのこの連中とわたしたちは違う、だから彼らを叱り、追い返す権利がわたしたちにはある、弟子たちはそう考えていたのです。
そう、「弟子・ファースト」です。
■イエスさまの「○○ファースト」
ところが、当のイエスさまはこの弟子たちを叱って言われます。
「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」
ここでまず注目いただきたいのは、「子供たちを来させなさい」という言葉です。弟子たちは連れて来た「人々」を問題とし、彼らを叱り、妨げたのですが、イエスさまが問題としておられるのは、端的に「子供たち」のことです。イエスさまが来るままにさせ、受け入れるようにと命じておられるのは、子どもたちを連れて来たその人々ではなく、苦しみ、傷ついているであろう、その子どもたちです。イエスさまは今、その子どもたちを来るままにさせなさい、妨げてはならない、そう言われます。
そして続けて、「天の国はこのような者たちのものである[から]」と言われます。「天の国」というのは「神の国」のことです。それは、空の彼方にある領域とか、死んだ後に行くところという意味ではありません。「神の国」「天の国」というのは、今ここで神と共に生きるということ、そうした関係性のことです。イエスさまは、神は今ここで子どもたちと共におられる、子どもたちを受け入れ、大切にしてくださるのだと言われたのです。
このイエスさまの言葉は、「なぜ子どもたちが神に受け入れられるのか」ということがテーマとなっています。子どもは素直だからとか、子ともは純粋無垢(むく)だからとか、子どものもつ美徳や価値をイヱスさまが評価したのだという意見もあります。しかし、子どもがいつでも素直か純粋無垢かと言えば、そうとばかりは言えません。
そもそも聖書に、子どもは純真で汚れを知らないという考え方はありませんし、事実、そうではありません。子どもは純真で汚れなどないと思われる人は、一週間、乳飲み子の面倒を見てくださればわかるはずです。自分の欲求のままに泣きわめくその姿は、とても純真で汚れなどないと言えるものではありません。自分の欲望のままに生きる、人間の罪の姿そのものです。 イエスさまという人は、聖書がそうであるように実にリアリストです。イエスさまがことさらに子どもを理想化した、とは到底思えません。
おそらくここで、イエスさまが子どもの中に見出した「価値」というものがあったとすれば、それは、子どもという存在がその時代の社会と現実の中にあって「弱い」ということ、「小さい」ということ、「後まわしにされる存在」であるということ、それ自体にあったのではないかと思います。
大人中心の社会にあって、弱く、小さく、後まわしにされる存在であるがゆえに、子どもは大人以上に、神という守り手に頼らざるを得ない、依存せざるを得ない存在であるという点に、イエスさまは注目されたのです。誰かが、守ってやらなければならない。誰かが、救ってやらなければならない。誰かが、手を置いて祝福してやらなければならない。そうした守り、救い、祝福を、まず最初に必要とする人々にこそ、イエスさまは近づき、そうした人々をこそ、優先します。子どもたち以外にも、そのようなイエスさまの恵みと憐れみのわざを切実に必要とした人々が、この時代にたくさん存在したし、またどの時代にも存在しているのです。
その意味で、イエスさまは無差別に公平・平等だったわけではありません。イエスさまには明らかに、彼自身が決めた優先順位がありました。イエスさまには、彼独自の「○○ファースト」があったのです。しかしそれは、決して「強いもの」「大きなもの」を優先するものではなく、むしろそれとは正反対のものだったのです。それがイエスさまの「○○ファースト」でした。
■あなたの「○○ファースト」は?
今の時代、「アメリカ・ファースト」であれ「都民ファースト」であれ、そういった主張が声高に叫ばれ、またそれに呼応する人々がいる背景には、現代世界の様々な社会的変化によって自分たちの既得権が揺らぎ、これまでのような「大きさ」「強さ」が失われそうになりつつある状況に対する危機感や警戒感があるのだろうと思います。そうなればなるほど、現状維持に走り、他者を排除してでも、自分たちだけは生き残りたいという方向に向かうということなのでしょう。
しかしながら、そういう方向に本当の未来があるのかと言えば、疑問を持たざるを得ません。「多くのものを持っている者、大きくて強い者は、そうでない者よりも、しばしば自己中心的になりがちだ」と言えるのかも知れません。わたしたちは今、自分の持ち物や能力を何のために、どのように使うべきなのかということを問われています。
わたしたちは、自らのいのちさえ差し出された「十字架の上のキリストに目を向けるように」と促されているのかもしれません。イエスさまが、イエスさま独自の「〇〇ファースト」において、「弱く、小さく、後まわしにされる存在」を優先されたということは、決して単なる理想主義ではありません。イエスさまはリアリストです。
リアリスティクに物事を考えるなら、わたしたち自身がいつかどこかで、「弱く、小さく、後まわしにされる存在」にならないという保証はまったくありません。わたしたちは誰でも病気や事故、様々な人生の問題に出会い、時には失敗したり挫折したり転落したりして、そしてやがては誰もが年老いて、弱く、小さくなり、最後にすべてを失って死んでいくのです。
そんなとき、わたしたちが助けや癒しをほんとうに切実に必要とするときに、「まずあなたから最初にどうぞ」と言ってもらえるとしたら、どれほど心安らかなことであり、また心温まることでしょう。
何を「ファースト」とするのか。誰を「ファースト」とするのか。それをきちんと考えることは、わたしたちにとって、とても大事なことであると思います。
