小倉日明教会

『しがみついて』

ゼカリヤ書 8章 1〜5節
マタイによる福音書 9章 20〜22節

2026年9月13日 聖霊降臨節第17主日礼拝

ゼカリヤ書 8章 1〜5節<br /> マタイによる福音書 9章 20〜22節

『しがみついて』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                  沖村 裕史 牧師

■初めて「おじいさん」と呼ばれた日

 今は「敬老の日」は九月の第三月曜日と定められていますが、二〇〇二年までは九月一五日でした。今週の火曜日です。そこで今日のこの礼拝では、高齢の兄弟姉妹、家族、友人に思いを馳せ、その祝福を祈りながら、ご一緒に「老い」について考えてみたいと願っています。

 二年前、白髪が目立ち始めたある日、福岡での会合からの帰り、小倉駅からモノレールに乗りました。すると前に座っていた小学生が、「おじいさん、どうぞ」と立ち上がります。「おじいさん」と聞いた途端、「イイよ、すぐ降りるから」と口走っていました。

 言った手前、仕方なく次の駅で降り、後の電車で片野に向かいました。孫以外の見知らぬこどもから、「おじいさん」と呼ばれた初めての日でした。

 今では、電車に乗ると空席を探し回り、ないと分かると「優先席」に座っている若者の前に立ち、「白髪の人の前では起立し、年配者を重んじなさい」というレビ記一九章三二節の言葉を心の中で呟き、少し険しい視線を送る「嫌なジジイ」と化そうとしています。

 一〇〇歳を超えても医師を続けられた日野原重明先生が、「老いるタイプ」に三つの型がある、と言われました。一つは「抵抗型」、まだ若いと言い張り、老いを受け入れようとしないタイプ。二つ目は「不平不満型」、思うようにならないのを他人のせいにし、文句ばかり言うタイプ。三番目が「自己嫌悪型」、失敗を引きずり、その責任を自分自身のせいにし、老いるにしたがってうつ的になるタイプです。

 そのいずれにも、わが身が重なってきそうです。

 今、日本では人生一〇〇年時代と言われ、ある予測では三〇年後の二〇五五年頃には、六五歳以上の高齢者人口は三千八百十万人と総人口の四八パーセント、ほぼ二分の一に迫る勢いです。その時には、生きていればわたしも一〇〇歳?、老いの日々をどう生きるか、深刻な課題です。

■平和の礎、希望の星

 先ほどお読みいただいたゼカリヤ書八章四節にこうありました。

 「万軍の主はこう言われる。

 エルサレムの広場には

 再び、老爺、老婆が座すようになる

 それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして」

 バビロニアの捕囚から解放され、故国に帰還したユダヤ人たちは、破壊されたエルサレムの再興を図ります。預言者ゼカリヤは、再建され平和になったエルサレムの広場に、老爺(ろうや)、老婆(ろうば)が杖を手にして座っている、そんな姿を預言します。

 「老」という漢字は、背中の曲がった人が杖をついている姿だそうですが、杖を手に広場に座っている老爺、老婆たちを、神は、平和の礎とし、エルサレムの再興の希望とされていたのだ、ということです。

 日野原先生は「老いにならない」ために、第四のタイプを勧めます。「平穏に老境に入り、ストレスでなく、自分を肯定して受け入れ、他人を責めず、過去を悔やまず、日頃の人間関係に満足するしなやか型」です。わたしはとてもそうなれそうもありませんが、できるならば、「おじいさん、どうぞ」と言われて、「イイよ、すぐ逝(ゆ)くから」などと間違っても口走らずに、高齢の皆様とご一緒に、「平和の礎、希望の星」の老爺、老婆として、この国の真ん中でどっかりと居座り続けたいものです。。

■しがみついて

 わたしもそんなことを願う年齢になったんだと思いながら、日曜日の礼拝後、緩和ケア病院に入院した母を見舞った時のこと、心と体に淀む疲れを少しでも癒せればと、すぐ近くの桃園公園に立ち寄りました。

 その散歩の途中でのこと、蝉の抜け殼―空蝉(うつせみ)を見つけました。一月も末です。山茶花(さざんか)の一枚の葉にぶら下がっていて、冷たい雨風(あめかぜ)にも耐えて必死にしがみついています。実際には、去年の夏からもう八ヵ月以上も、その状態でいることになります。蝉は、幼虫の時代に土の中にもぐって成長し、七年目―もっと長いとの説もありますが―、地上に出てきます。その地上では、たったの一、二週間しか生きることができません。そのいのちを育んでいた殼が、半年以上も葉にぶら下がっているのです。

 もちろん、それは死体―空蝉なのですが、その姿を見て、

 「しがみつき 冬木に耐ゆる 蝉の殼」

 「爪立てて たましひ残る 蝉の殼」

と詠った人たちがいました。

 わたしはその抜け殼を見て、九三年を生きてきた母、そして七〇歳になった自分と、ひと夏の一、二週間しか生きなかった蝉のいのちを重ねてみます。

 そう思うと何だか、夏から半年の間にその抜け殼が老いていくように見えてきました。足の爪を葉っぱに食い込ませるようにして、必死にしがみついている、その姿が愛おしくなってきました。

 ふと、さきほどのもう一つの聖書、マタイによる福音書九章の場面が浮かんできました。

 一二年間も出血が止まらずに苦しんでいた女が、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思って、イエスさまの後ろから服に触れたら、その病が治りました。イエスさまはただ一言、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

 必死になってイエスさまの服に触れた女の行為が、懸命に一枚の葉にしがみついている空蝉に重なって見えてくるようでした。。

 『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ二六・五二)

 今日、そして未来にわたって、わたしたちが生きていこうとするなら、わたしたちがまずしなければならないことは、神の前に立ち止まること、自らを省みること、そして祈ること、「知恵を問う知恵」「剣をさやに納めること」を願い求めることであると、聖書は教えているのです。

■諦めることなく

 マタイは、この女が「後ろからイエスの服の房に触れた」と記しています。「房」とは「へり」とか「端っこ」という意味の言葉です。この女は大胆にイエスさまにしがみついたのではなく、控えめに申し訳なさそうに、しかし必死な思いで、「イエスの衣の裾(すそ)」に触れたのです。

 彼女は、自分が律法によって汚れの烙印(らくいん)を押された存在であること、そのため、むやみに人に触れてはならないことを承知していたでしょう。でも、それでも諦(あきら)めがつかず、葛藤しながら、せめて衣の裾にでもと、そんな思いで彼女は手を伸ばしたのではなかったでしょうか。この 「房」「へり」「端っこ」というマタイが付け足した一言は、そのことを雄弁に語っています。

 マタイは、絶望的な状況に諦めることなく、ひたすらに救いを求める人の姿を、印象的に浮かび上がらせています。生理期間中の女性を「汚れ」と見なす律法ゆえに、一二年間、ずっと「汚れっぱなし」だった女。そのため、忌み嫌われ、人との接触も神殿での祈りの機会も奪われてきた女。普通なら絶望しきって、諦めの境地にでも立ち至っていたに違いないこの女が、イエスさまのことを聞きつけて、その衣の裾にでも触れようとします。

 それはもはや、執念とでも言いたくなるような諦めの悪さです。

 諦めという日本語は仏教用語です。諦観(ていかん)・諦念(ていねん)は、仏教では積極的・肯定的に評価されます。諦念とは「物事の道理を知り、迷いを去ること、諦めの境地に達すること」。諦観とは「俗世に対する希望を立ち、超然とした生活態度をとること」。どうしようもないことでくよくよ悩んだり、往生際(おうじょうぎわ)悪くあがいたりしないで、むしろ俗的な希望や欲望を捨てて超然と生きる。それが諦めの境地、悟りの境地だというわけですが、そういうことからすると、福音書の描く姿は、実に諦めの悪い、悟りからほど遠い存在ということになります。

 しかしマタイは、こういう諦めの悪さこそが救いをもたらすのだと教えます。

 イエスさまは長血を癒された女に言われました。

 「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」

 ピスティスというギリシア語は、「信仰」などと気取りすました日本語に訳してはいけません。ここでこそ、それは「ひたむきさ」と訳すべきです。「勇気を出しなさい」。これもマタイがマルコに書き足した言葉です。新共同訳は「元気になりなさい」と訳しますが、同じ言葉を用いるヨハネによる福音書一六章三三節、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」にならえば、「勇気を出しなさい」です。絶望的な状況にもへこたれず、諦めず、望みを持ち続けること、その勇気をイエスさまは励ましておられます。

 「あなたのひたむきさが、もう既にあなたを救っている」

 「救う」はギリシア語の完了形で記されています。「過去のある時点から現在までずっと救われている」。今、癒されて救われたというのではなく、諦めることなくひたむきに願い続けてきたあなたは、もうすでに救われているのだ、ということです。絶望が支配する状況の中で、諦めることなく、希望をもって救いを願い続けることが、もうすでに救いなのだ、と。

 いつ、何が起こるか分からないわたしたちのいのちです。

 日一日、年を重ねては終わりのときを思いつつ、もうここまで来れば、「イエスさま、お願いです。守ってください」と祈りながら、何があっても諦めることなく希望をもって、イエス・キリストに必死にしがみついて生きるほかありません。

 そんなわたしたちにイエスさまは一言、「年老いた者よ、残された一日一日を大切に生きなさい。わたしの愛を知っているあなたの信仰が、今もこれからも、あなたを救い、平安へと導いていく」と。

 わたしもまた皆さんと同じように、そんな自分の齢(よわい)と、かけがえのない日々と向き合っていきたい、と心から祈り願っています。