【説 教】 沖村 裕史 牧師
高橋源一郎という作家をご存じでしょうか。写真をご覧になると、ああテレビで見たことがあるって思われるかもしれません。独特な文体が若者から圧倒的な支持を得て、三島由紀夫賞、伊藤整文学賞など数多くの賞を受賞した人ですが、実はミッションスクールである明治学院大学の名誉教授でもあります。
その高橋さんが、ラジオ番組でこんな話をしていました。
大学の講義で数年続けて、学生たちに「わたしのヒミツ」という題でアンケートを行った。そのアンケートを続けてみて驚いたのは、毎年、ほぼ三人に一人が同じようなことを回答してきたことだ、といいます。
皆さんだったら、どんなことを書くでしょうか。
このとき紹介された、現代の大学生の三人に一人が抱えているヒミツ、それはこんなものでした。
「ほんとうは友だちがきらい」
この言葉を聞いて、エッ?と驚きながらも、ああ、そうかも!と妙に納得してしまいました。みなさんはどう思われるでしょうか。
まず最初に単純に思ったことは、それって「友だち」なのかな、ということでした。「ほんとうはきらい」と思っているような相手を「友だち」って呼んでいいのかな、ということです。
その一方で、でも確かに、まあそれほどでもない友だち、広い意味の友だちとして付き合っているということはあるかも、と思います。特に、人間関係を作るのが苦手な人だったら、「ほんとうはきらい」な友だちでも、その人がいなくなったら寂しい、「きらいな友だち」よりもひとりぼっちは「もっときらい」ということがあるかもしれません。とりあえず「友だちらしき人」を確保しておこうということです。
そして、こんなことも考えました。自分が「ほんとうは友だちがきらい」と思っているのと同じように、友だちもわたしのことを「ほんとうはきらい」って思っているかも……。たいていの人は、人からよく思われたいと願っています。それなのに、友だちと思っていた人から「ほんとうはきらい」って思われていたと知ったら、これはやはりショックです。もしかすると、うすうすは「ほんとうはきらわれているかも」と感じながらも、それでも友だちとして付き合っている場合もあるかもしれません。
「狐と狸の化かし合い」というほどではなくても、人間関係というのは、とてもやっかいなものなのです。どこからどこまでが本心なのか、自分の心が自分でも分からなかったりすることさえあります。「友だち」といい、「ほんとうはきらい」といい、でもよくよく考えてみると、「つきあってやっている」のか、「つきあってもらっている」のかすら、だんだん分からなくなってきます。
■「友だち」ってそういうもの
そんなわたしたちに語りかけるように、今日、最初に読んでいただいた聖書、箴言にこう書かれていました。
「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」
「研磨」とは、その字のごとく「研(と)いで磨(みが)くこと」です。友だちは自分を磨き上げてくれる、わたしを成長させてくれる存在だ、ということです。良かろうが悪かろうが、その人がわたしの友だちで、わたしがその人の友だちだとすれば、友だち同士というのは「磨き、磨かれ」ながら成長していくものだ、ということでしょう。
「磨く」というのは「触れ合う」「こすれ合う」といった感じで、それもかなり強い力で、お互いに接触するイメージです。「削り合う」といってもよいかもしれません。「熱が発生する」ほどの「激しく、厳しい関わり方」を連想させます。
しかしその結果として、今までとは違う自分が現れてくる。磨き込まれた、新しい自分が現れてくる。わたしと磨き合った相手の友だちもまた、新しい存在となって現れてくることがある、と聖書は教えます。
そしてここで大切なことは、そういう磨き合いは、必ずしも自分の「すきな友だち」との間でだけ起こるわけではない、ということです。いえ、むしろ、「きらいな友だち」との関係においてこそ、わたしたちはいろいろなことを学び、また学ばされるのではないでしょうか。
小学校三年生の夏休み、捕まえたトンボに糸を付け、自分の周りをぐるぐる飛ばして遊んでいました。だんだん弱ってきていましたが、ちょうどそこに遊びに来ていたひとりの友だちに、「見て、見て、すごいだろ!」と自慢気に差し出したその時のことです。友だちは、いきなり糸を手繰(たぐ)り寄せ、トンボを外すと、手の中で握りつぶしてしまいました。「何するんだよ!」と詰め寄るわたしに友だちがひと言、「かわいそうだ」。はっとしました、「ひどいことしてたのは、ぼくだ…」。わたしは震えました。自分の残酷さ、ひとりよがりな自分の姿が暴かれた、知られてしまったと思ったからです。そのときから、彼は「きらいな友だち」、いえ「苦手な友だち」になりました。わたしは彼におびえ、まともに顔を見ることができなくなり、遠ざかるようになりました。六〇年近くが経った今も、そうです。しかし彼はわたしにとって、今でも忘れることのできない「かけがえのない友」となりました。
人間のだれにも、「すき」とか「きらい」という感情があるのは仕方のないことです。しかし、そうした「すき」とか「きらい」という感情にとらわれすぎるのは問題です。若い女の子たちがバスや電車の中で、人目もはばからず、「嫌いなものは嫌い、わたしはあんなの絶対イヤ」と大声を上げ、さらには「キモイからイヤ!」「汗臭いのもキライ!」「ダサいからダメ!」なんてしゃべり続けているのを聞いていると、なんだかイジメにあってるような気分になり、傷ついて心から血が流れてきそうになります。
もちろん、「すき・きらい」を無理に隠して陰湿なイジメになるのもどうかと思いますが、大切なことは、仮にそれが「ほんとうはきらいな友だち」だったとしても、そういう友だちとの間にも、「磨き、磨かれる関係」は成立するのだ、ということです。
いえ、もっと言えば、自分にとって気持ちの良い友人との関係、言い換えれば、自分にとって「都合のいい人間関係」だけでは、人はいつまで経っても成長しません。人はむしろ、受け入れがたい厄介な関係、上っ面の耳ざわりのよい言葉ではなく、厳しい真実の言葉によって震えるような経験をする中でこそ、変化し、成長し、新しい自分になっていくものです。
■本当の友情って何?
ここで少し長くなりますが、「本当の友情」について語る一文をご紹介させていただきます。池田晶子『一四歳からの哲学』からの抜粋です。
「…自分が友だちに本当に求めているのは何なのかということについて、一度ゆっくりと考えてみるといい。ただ一緒にワイワイやって面白いだけの友だちというのは、やっぱりそれだけのことであることが多い。本当に面白いのは、決してつまらなくならないのは、大事なことを語り合える友だちだ。大事なことを語り合うのだから、信頼できる友だちだ。お互いに、その大事なことこそが大事なことなんだとわかっているとわかっているから、信頼し合うことができるんだね。こういう友情というのは、本当にいいものだ。大事なことによってつながっているのだから、壊れるということがないんだ。
よく、『友情が壊れた』って言う人がいるだろ。でも、壊れるような友情は、本当の友情じゃなかったんだ。本当に大事なことではなくて、何らかの損得でつながっていただけなんだ。あの人と友だちになると、こんなふうに得で、こんなふうに損だとか、そんな計算を友情だと間違えていただけなんだ。…
本当の友情、本当の友だちこそがほしいのだけど、いない、と悩んでいる人が多いみたいだ。でも、いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう。
一人でいることに耐えられない、自分の孤独に耐えられないということだね。でも、自分の孤独に耐えられない人が、その孤独に耐えられないために求めるような友だちは、やっぱり本当の友だち、本当の友情じゃないんだ。本当の友情というのは、自分の孤独に耐えられる者同士の間でなければ、生まれるものでは決してないんだ。なぜだと思う?
自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛することができるということは、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、じつは自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがないとわかるね。…
そんなふうに自分を愛し、孤独を味わえる者同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい。お互いにそれまで一人で考え、考え深めてきた大事な事柄について、語り合い、確認し、触発し合うことで、いっそう考えを深めてゆくことができるんだ。むろん全然語り合わなくたってかまわない。同じものを見ているという信頼があるからだ。…」。
■「友」と呼ばれて~ユダの場合
それでも、きらわれるのはイヤだなと呟いてしまうわたしたちに、今日、読んでいただいたもうひとつの聖書がさらに語りかけてきます。
イエスさまが弟子のひとり、イスカリオテのユダによって裏切られる場面です。ユダが手引きをして、人々がイエスさま捕らえにやって来た時、イエスさまはユダに、こう語りかけています。
「友よ、しようとしていることをするがよい」
イエスさまはこの時、いったい何を言おうとしているのでしょう。いったいどういうつもりで、自分を裏切るユダに向かって、「友よ」と呼びかけられたのでしょうか。
裏切る相手に対してこんな言葉をかけるなんて、普通だったらあり得ないことです。誰よりも混乱し、戸惑ったのは、呼びかけられたユダ自身だったに違いありません。イエスは自分のことを怒っているのだろうか、恨んでいるのだろうか、呆れ果てているのだろうか…。
「友よ」というこの呼びかけは、これ以上ない痛烈な皮肉として裏切り者ユダに浴びせかけられた言葉だった、と説明されることがあります。しかしわたしは、そんな皮肉などではなかったと思えてなりません。
ユダに向かって語る「友よ」という言葉の中には、イエスさまの感じた、寂しさとか悲しみとかやるせなさとか、そういったユダに対する何とも言い表せない複雑な思いが込められている、そんな気がします。とんでもないことをしてしまった相手を見つめ、苦い思いを噛みしめながら語られた「友よ」というイエスさまの言葉は、「すき」とか「きらい」を超えて、それでも「わたしはあなたを見捨てない」という、イエスさまの強い思いを、深い、深い愛を表す言葉ではなかったかと思えるのです。
「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」
聖書は、わたしたちすべての者が、一人の例外もなく「友」と呼んでくださるイエス・キリストによって「研磨される」、磨き上げられ、成長させられる、そのことを伝えようとしている。そう言ってよいかもしれません。
その「研磨」の先にあるものは、この後、ユダが選んでしまったような自殺や自滅ではなく、新しい自分の発見、ほんとうに人間らしい人間への歩みであるはずです。
聖書は、たとえイエスさまを裏切るようなことをしてしまった人間でさえも、イエスさまがその人を「友」と呼ぶかけることによって、イエスさまと共に、もう一度、新しく歩み出すチャンスが与えられているのだ、ということを語っているのです。
聖書は、わたしたちすべての人間に向かって「友よ」と呼びかけてくださる方、わたしたちの「友」であり続けてくださるイエス・キリストがおられた、いや、今もここにいてくださる、という福音―喜びの知らせを教えています。
このもうひとりの「友」が、いつもわたしたちを見つめていてくださるということを心に刻んで、今日一日を、今日からの新しい一週間を、喜びと希望をもって歩んでいただきたいと心から願う次第です。
