小倉日明教会

『知識と真理が示されているもの』

ローマの信徒への手紙 2章 17〜24節

2026年8月2日 聖霊降臨節第11主日礼拝

ローマの信徒への手紙 2章 17〜24節

『知識と真理が示されているもの』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                        役員 川辺 正直

■車の窃盗事件の報道

 おはようございます。1981年11月、カリフォルニア州サンフェルナンド・バレーのガソリンスタンドから、テキサス州のナンバープレートを付けたゴールドのフォルクスワーゲン・ビートルが盗まれました。この車の持ち主は、車が盗まれた直後にある重大な事実に気づき、青ざめて警察に連絡したのです。実は、この車の持ち主は避暑用の別荘を持っていたのですが、ネズミの出没に悩まされていたのです。そこで、彼はネズミを駆除するため、劇毒であるストリキニーネを仕込んだクラッカーの箱をその車の助手席に置いていたのです。彼は出かけようとして車に乗り込みましたが、サングラスを忘れたことに気づいて、キーをつけたまま車を離れたのです。ところが、その隙に何者かが車に乗り込み、そのまま猛スピードで走り去ったのです。

 警察は犯人がクラッカーを食べて死亡するのを防ぐため、警察は異例の緊急アラートを発令しました。車両と運転手を必死に捜索すると共に、地元のラジオ局などを通じて、『車を盗んだ犯人よ、車内にあるクラッカーを絶対に食べるな!』と犯人の命を救うための緊急放送が繰り返されたのです。カリフォルニア州では毎年数百台の車が盗まれていますが、この車は犯人の命が危険にさらされていたため、この事件は、特に注目を集めたのです。

 どうしてそこまでして自動車泥棒に働きかけ続けたのでしょうか。犯人に罪を問うためではありません。警察とフォルクスワーゲン・ビートルの持ち主は、車を取り戻すことよりも、犯人を捕まえて、犯人の命を救うことに関心を寄せていたのです。

 私たちは神様に背を向けるとき、しばしば神様の裁きから逃れようとしていると感じるのではないでしょうか。しかし、実際には、私たちは神様の救いから、逃れているのではないかと思います。神様は、罪人を救うために、どのような言葉で呼びかけているのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■神は人を分け隔てなさいません

 さて、現在、連続して取り上げておりますローマの信徒への手紙で、パウロは1章18節から5章21節まで、この手紙の大きな部分をかけて『義人』という概念について説明しています。そして、現在、私たちが読んでいる1章18節から20節というのは、パウロが語る『義人』の概念の中の全ての人間は有罪であるという有罪宣言の箇所だということなのです。なぜ、パウロが有罪宣言から話を始めているのかと言いますと、『義人』というのは、神様が罪人に神の義の衣をかぶせて、神の義に転化すること、これが『義人』という言葉の内容なのです。しかし、パウロは『義人』そのもの、神様による義の提供を論じる前に、まず有罪宣言をここでしなければいけないと考えているのです。なぜかと言いますと、罪について理解しない人が、義とされることを求めるはずがないからです。ですから、パウロは非常な勢いで今まで、人類が罪の中にあるということを論理的に展開して来ているのです。前回までに、この2章におきまして2章1〜16節は神様の裁きについての3つのポイントで語られているということをお話しました。そして、ポイントの1つ目は、神様の裁きは、正義に基づいて行われるということです(2〜5節)。2つ目のポイントは、神様の裁きは、行いに従って行われるということです(6〜10節)。そして、3つ目のポイントが、神様の裁きは、分け隔てなく行われるということです(11〜16節)。

宗教改革者マルティン・ルターは、2章11節の『神は人を分け隔てなさいません。』という聖句の解説として、『神は誰ひとりとして軽蔑され、非難され、捨てられることを望まない』と語りました。ルターはパウロの文章をそう読み取ったのです。『誰ひとり』なのです。ルターは、ここに神様のみ心があると考えたということをお話しました。神様には、えこひいきはないということなのです。

■ユダヤ人の誇り

 パウロは全ての人間の罪を指摘する中で、2章9節と2章10節の2回に渡って、『ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、』と語っているのです。これは、世界にいる様々な民族の中でユダヤ人とギリシア人だけを取り上げてその罪を問うている、とうことではありません。この場合のギリシア人は、ユダヤ人以外の全ての民族、つまり『異邦人』と呼ばれている人々の代表という意味なのです。ですから『ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、』という言い方は、全ての人類という意味であり、全ての人間が罪を犯しており、神の怒りの下にある、とパウロは語っているのです。しかし、そのことを語るために、パウロは『ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、』という言い方をしているのですが、それはユダヤ人たちが、『異邦人は罪人だが、自分たちユダヤ人は違う』と考えていたからです。ユダヤ人は、自分たちは神様に選ばれた民であるので、神様に選ばれていない異邦人とは違う、特別なポジションにいるのだと考えていたのです。だから自分たちは罪人ではない、神様の前に正しい者なのだ、という自負、誇りを強く持っていたのです。

 本日の聖書の箇所の17〜20節を見ますと、『ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。』とあります。この17〜20節に記されていることが、ユダヤ人の自己認識であると言うことができると思います。17節は、『ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、』という言葉で始まっていますが、この言葉からパウロは、ユダヤ人も有罪だというポイントに入っているのです。ここで、ユダヤ人と訳されている言葉は、ギリシャ語では『ユーダイオス』という言葉が使われています。この『ユーダイオス』という言葉は、古代ギリシャ語で『ユダヤ人』または『ユダヤ教徒』、『ユダヤの地(ユダヤ地方)の民』を意味する言葉で、ヘブライ語の『イェフダー(ユダ)』に由来しているのです。実は、このヘブライ語の『ユダ』という言葉は、『誉れ』という意味なのです。あるいは『神を称える』という意味なのです。ですから、ここでパウロはある意味で、言葉遊びをしていると思うのです。

 あなた方ユダヤ人は、自分が『誉れ』という意味の名前を持っている、あるいは『神を称える』という名前を持っている人間だと誇っていますよね、ならば・・・ということを語っているのです。『ユダ』という言葉が、『褒め讃える』という意味なのだということは、創世紀の29章の35節に出てくるのです。創世紀29章35節を見ますと、『レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。』とあります。レアはヤコブの奥さんです。ヤコブはレアとラケルの2人の姉妹と結婚するのですが、レアはヤコブにあまり愛されなかったお姉さんの方なのです。あまり愛されなかったレアが身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。それ故、その子を彼女はユダと名付けたのです。それから彼女は子を産まなかったのです。レアの長男はルベンと言います。それから、次男がシメオン、3男がレビで、その次がユダなのです。ですから、ユダは4男なのです。4男の男の子が生まれた時に、レアは『今度こそ主をほめたたえよう』と言ったので、ユダと名付けたのです。ここからユダという名前が『誉れ』であり、『神を称える』という意味であるということがわかります。

 次に、ユダヤ人の自己認識として、ユダヤ人は誇り高き民であるということについて見てみたいと思います。ユダヤ人は誇り高き民であるということの、第1の理由は、ユダヤ人は律法を持つことに安んじているということなのだと思います。律法というのは神様の言葉です。あるいは、モーセ5書の総称のことです。モーセ5書というのは、旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つの書物のことです。ユダヤ人は律法を持つことに安んじ、高い誇りを持っていると、パウロは語っているのです。ユダヤ人は律法を持つことに安んじており、神様を誇りとしていると言うのです。ユダヤ人は律法に教えられて、神様の御心を知っている。何をなすべきかをわきまえているというのです(17〜18節)。そして、ユダヤ人の自己認識、自分のことをどのように自負しているかと言いますと、『盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師である』(19〜20節)と自負しているというのです。

 盲人というのは霊的な盲人であるということを指しています。ユダヤ人は闇の中にいる者の光であるというのです。無知な者の導き手、未熟な者の教師と記されています。つまり霊的なことに関して、あるいは神様に関する知識においては、ユダヤ人が教師であり、自分たちが異邦人よりも一段上にいるのだというと、ユダヤ人は自負していると、パウロは語っているのです。これは、昔も今も変わらないユダヤ人の本音の中にある、自己認識だと言うことができると思います。ところが、そのような自己認識を持っているユダヤ人がどういう行動をしているのかということを、パウロは問うているのです。

■神を侮り、御名を汚す者

 次に、本日の聖書の箇所の2章21〜24節を見ますと、『それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。』とあります。ここで、パウロが問題にしているのは、ユダヤ人の言行不一致であることが分かります。ユダヤ人は人に教えていると言うのです。しかし、自分自身には教えないというのです。これがファリサイ派のユダヤ教の最大の問題点であると思います。「盗むな」と説きながら、自分たちは盗んでいるというのです。「姦淫するな」と言いながら、自分たちは姦淫を行っていると言うのです。偶像を忌み嫌いながら、自分たちは神殿を荒らしているというのです。これは少し補足説明が必要な箇所かと思います。

 偶像の神殿というのは、ここでは異邦人の偶像の神殿のことなのです。偶像の神を信じる異邦人は、偶像であっても、その神殿を聖なる場所と考えていました。ですから異邦人の盗人も、神殿にだけは入らなかったのです。偶像の神の神殿であっても、神殿は神聖な場所で、神様の怒りに触れると恐ろしいから、異邦人の盗人は神殿には入らなかったのです。ですから、自然とお金持ちは、その偶像の神殿に財産を預けるようになって来て、神殿には沢山のお金があるという訳なのです。ところが、ユダヤ人は真の神様を知っています。偶像の神の神殿というのは、神様はそこにはいないから、盗人の前には本当には無力であるということを知っています。だから偶像の神が無力であることを証明するために、わざわざ偶像の神の神殿に入って、お金を盗んで、ほら、偶像には何の力もないだろうと言っているユダヤ人が、どうやらこの時代によくいたそうなのです。それが偶像を忌み嫌いながら、自分たちは神殿を荒らしているとパウロが語っていることなのです。パウロは、ユダヤ人が律法を誇りとしながら、律法に違反し、神様を侮っていると語っているのです。

 パウロはこの聖書の箇所の24節で、イザヤ書52章5節を引用しています。それは、『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』という言葉です。パウロがここで引用している旧約聖書の言葉は、全て普通の聖書教育を受けたユダヤ人であれば、暗唱している内容なのです。ですから、パッと言えば、パッと分かる内容なのです。パウロは、イザヤ書52章5節を引用することによって、何を伝えようとしたのでしょうか?そのことを次に考えてみたいと思います。

■ただ同然で売られたあなたたちは

 イザヤ書52章3〜6節を見ますと、『主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは/銀によらずに買い戻される」と。//主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。//そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。//それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。』とあります。このイザヤ書の箇所では、『ただ同然で売られたあなたたちは』(3節)、『わたしの民はただ同然で奪い去られ、』(5節)と、『ただ同然で』という言葉が2回繰り返されていることが分かります。『ただ同然で』とは、価値がない、意味がない、存在する必要がない、不要である、良い所もない、無駄ということだと思います。聖書の民は、自分たちがまったく 何の価値もなく、意味もなく、もはや余計な者、ごみのような者として、自分たちを受け止めているのだと思います。確かに、そうだと思います。バビロンに捕囚として連れてこられたイスラエルの民は、故郷を奪われ、家族を奪われ、神殿を奪われ、それまでの財産も生計をも奪われてしまったのです。『ただ同然、ごみくず同然』、今、預言者はこのように捨てられたという思いの中にいる人々の目の前に立っているのです。

 少し話は脇道にそれてしまいますが、『誰かのごみは誰かの宝物』ということわざがあるのをご存知でしょうか。その諺のようにオランダで“Goedzaq”(グーザックまたはフッザッグ)と呼ばれる袋があるそうです。オランダ語で『お節介』、『お人好し』という意味なのだそうです。『自分はもう要らないけど、もしかしたら誰か欲しい人がいるかもしれない』と思う人が、その袋に入れて道端に置いておくと、道行く人はフリーマーケットに来ているかのような感覚で持ち帰って使う、いわば『小さなお節介』だというのです。欲しい人が現れない可能性もあると思いますが、その場合も特に面倒なことはないというのです。ゴミを回収しにゴミ収集車がやって来るように、残ったGoedzaqを回収しに中古品業者がやって来るのだそうです。回収された残りのモノたちは、中古品業者の手によって販売されたり、リサイクルされたりするのだそうです。

 『ただ同然で売られたあなたたちは/銀によらずに買い戻される』という主の言葉を、私たちはどのように読んだら良いのでしょうか。私たちは通常、お金の額に置き換えて、いくらの値段が付くから価値がある、安い値段だから価値がない、と考えるのではないでしょうか。何から何まで、あらゆるものがお金や数字に置き換えられて、その価値が判断されるのであれば、『ただ同然で』という値札がつけられた『人間の価値』はどう考えたらよいのでしょうか。

 『ただ同然で』という主の言葉は、『決して値段が付けられないもの』という意味合いを含む言葉でもあると思います。他の人を軽蔑する人にとって、その人の生命などどうでもいいし、何の意味や価値もないのだと思います。人間とはどのような存在なのかと考えますと、そもそも値段の付けられない人々を前に、身勝手な値付けをして、さらにその人々を『ただ同然、ごみくず同然』と見なして踏みにじろうとする存在だと思います。そこに人間の罪の典型があるのだと思います。

 本日の聖書の箇所で、パウロがイザヤ書52章5節を引用した理由は、神様から律法を与えられていながら、律法に示されている神様の御心をわきまえることをせず、『ただ同然で売られた』ユダヤ人たちは、銀によらずに買い戻された神様の御心よりも自分の思い、誇りによって、自分たちを特別な存在だと考えて生きている、それがユダヤ人の姿だと、パウロは語っているのです。

 それでは、本日は最後に、イザヤ書52章6節の後半で、『それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。』と語られている意味について考えてみたいと思います。

■「見よ、ここにいる」と言う神

 イザヤ書52章3〜6節を見ますと、『ただ同然で売られた』イスラエルの民の生命の価値を、ほんとうに受け止めて、その重さを知る者は、実は人間自身ではなく、それをお創りになった神なのだと思います。それ故、神様は『ただ同然で売られた』イスラエルの民を『銀によらず買い戻される』というのです。金銀というお金や、この世の価値では、測り得ない重さを知るお方が、私たちの間におられるのであると言うのです。イザヤ書52章6節の『それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言う者であることを知るようになる』という記述は、故郷を奪われ、家族を奪われ、神殿を奪われ、それまでの財産も生計をも奪われ、文字通り『ただ同然で売られた』イスラエルの民の傍らに立って、神様は『見よ、ここにいる』と言う者であるというのは、何か、ありそうにもないような話が語られているように感じる方もおられるのではないでしょうか。

 それでは、ありそうにない話とはどのような話なのかをここで考えてみたいと思います。山口県の防府市の出身で、作家であり、作詞家でもあった方に、伊集院静さんという人がおられました。『受け月』で直木賞、『機関車先生』で柴田錬三郎賞を受賞するなど数々の文学賞を受賞すると共に、『ギンギラギンにさりげなく』、『避暑地のメリー』などのヒット曲の作詞家としても知られている方です。この伊集院静さんが、1978年の冬、仕事も私生活も上手くいかず家族と離別し仕事も辞めた伊集院静さんは、故郷の山口県に帰ろうと東京駅で路線図を眺めていました。そして、ふと『東京を出ていく前に関東の海を見ていくのもいいかもしれないな』と思いたち、心に導かれるままに横須賀線の逗子駅に降り立つのです。そこで、フラリと立ち寄った湘南の小さなホテルでの日々を綴った自伝的随想に『なぎさホテル』という作品があります。この『なぎさホテル』には、次のような1節があります。

 『私は海岸へ上がり、‘STEPIN’と看板があったので、その庭へ入った。」小説家志望の若者は海風に吹かれながらビールを飲んだ。「――こんな場所で、こうして居られたらいいだろうな。私はビールを飲みながら呟いた。(中略)『昼間、海のそばで飲むビールは美味しいもんでしょう』』

 この一言が、惨めな流浪の旅人を、一世を風靡することになる人気作家を生み出すきっかけになろうとは、誰にも想像できないことであると思います。このとき伊集院静さんに語りかけた人が、『逗子なぎさホテル』のI支配人であったのです。このI支配人は、どういう訳か、伊集院静さんに親切にしてくれるのです。出世払いでホテルに住まわせてくれる。お金を貸してくれる。伊集院静さんはここで小説を書き始めるのです。伊集院静さんは、結局、約7年間、このホテルで暮らしたのです。

 ホテルで暮らし始めて3年目の冬、I支配人に宿代を払っていないことを詫び、礼を言う伊集院静さんとI支配人のやり取りを、伊集院静さんは次のように綴っています。

 『「礼なんか言わないで下さい。それに、あせって仕事なんかしちゃいけません。正直言わして貰うと、仕事だって、そんなにする必要もないのかもしれませんよ。私、こうしてあなたとお酒が飲めて喜んでるんです」

 「私でよかったら、いつでも誘って下さい」

 「それはありがたい。あなた……」

 「何ですか?」

 「あなた、大丈夫だから」

 「何がですか?」

 「何をやっても大丈夫。ほら、先日、居なくなった野良犬……」

 「ええ、あの犬がどうかしたんですか?」

 「あの犬、私とあなたにしか尾を振らなかったんですよ」

 「はあ……」

 「あなた何をやったって大丈夫。私にはわかるんです。けれどあんまりしんどいことをしてはいけませんよ。その方が人生にはいいんですよ」』

 このように記されているのです。この箇所でI支配人の『あなたは何をやっても大丈夫』という言葉には、科学的根拠はもちろんありませんし、明確な論理や筋道もありません。ただ、I支配人は直感でそう感じ、伊集院静さんに『私にはわかるんです』と太鼓判を押し、不思議なことに実際にそうなったのです。『逗子なぎさホテル』での暮らしは、始めは宿代にも事欠く始末でありましたが、書き始めた小説が新人賞に入選したり、ユーミンのステージの演出を頼まれたり、作詞の仕事が舞い込んだりし、伊集院静さんの人生は少しずつ動き始めて行くのです。伊集院静さんはこのホテルにたどり着かなかったら、作家にはなっていなかっただろうと振り返っていいます。なぜホテルのI支配人は伊集院静さんに手を貸したのでしょうか。伊集院静さんは、『どうして親切にしてくれたのだろう。今考えても不思議でしかたない。私が作家として何らかの仕事を続けられて来たのは、あのホテルで過ごした時間のお陰ではなかったか、と思うことがある』と語っておられたのです。

 人と人との出会いにおいても、仕事も私生活も行き詰まった伊集院静さんに手を差し伸べたI支配人との不思議な出会いがあるのだとすれば、『ただ同然で売られた』、何の価値もない、存在する必要がないと思われている人間の傍らに立って、神様は『見よ、ここにいる』と言う者であるというのは、確かなことであると思います。神様の『ただ同然で売られた』人間に対する『見よ、ここにいる』という思いが極まったのが、主イエス・キリストの十字架での死と復活であったと思います。

 私たちは、『ただ同然で売られた』私たちの傍らに立って、神様は主イエス・キリストを通して、『見よ、ここにいる』と言う者であるということに希望を抱きつつ、私たちは主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。