【奨 励】 役員 川辺 正直
■ライフル射撃選手 マシュー・エモンズ
おはようございます。マシュー・エモンズというアメリカのライフル射撃選手がいます。彼は2004年、2008年、2012年、2016年のオリンピックで様々な種目に出場し、金メダル、銀メダル、銅メダルを獲得した選手です。ところが、マシュー・エモンズは、順風満帆の選手生活を送ったわけではなく、オリンピックで金メダルを獲得した選手ということよりも、金メダルを逃した選手として人々の記憶に強く残る選手となったのです。
2004年のアテネオリンピックの代表選考会の直前に、エモンズは米国オリンピックトレーニングセンターの厳重に管理されているはずのロッカールームで、自分のライフルがひどく破壊されていることに気づきました。精密に調整された銃身と機関部は、ドライバーと思われるものでひどく損傷していたのです。『銃を開梱したら、何かがおかしいことに気づいたんだ。案の定、誰かが何かをした。撃ってみたが、薬莢が出てこなかった。『何かがおかしい』と思った。誰かがドライバーを持ってきて、銃を壊したんだ。』とエモンズは、語っています。バックアップのライフルを持っていなかったエモンズは、急遽大学時代のチームメイトから、よく似た仕様のライフルを借りて、アテネオリンピックに出場し、『男子50mライフル伏射』で見事金メダルを獲得するのです。
金メダルを獲得してから、わずか2日後、エモンズは『男子50mライフル3姿勢』に出場するのです。決勝の最終第10射を迎えた時点で、彼は2位に3ポイントという絶望的な差をつけて、圧倒的トップに立っており、誰もが2冠達成を確信していました。普通に的へ当たりさえすれば金メダルという状況であったのです。ところが、エモンズが放った完璧なラストショットは、『自分のレーンの的』ではなく、『隣のレーン(オーストリア選手の的)』に命中してしまうという、射撃界でクロスファイアと呼ばれるミスであったのです。
ブルズアイと呼ばれる的の中心を射抜くほど正確なショットだったものの、ターゲット違いの的外れのため、スコアは『0点』と判定され、最終結果は首位から一気に8位(最下位)へと転落してしまったのです。このミス・ショットにより、2位につけていた中国の賈占波(ジャ・ジャンボ)選手が繰り上げで金メダルを獲得するという結果となったのです。
オリンピック級のスキルを持つ競技者がどんなに狙った的を正確に撃ち抜いたとしても、狙った的が的外れの的であったら、スコアは『0点』なのです。さて、『的を外す』という意味の古代ギリシャ語の言葉は、『ハマルティア』という言葉です。この『ハマルティア』という言葉は、キリスト教における宗教的な文脈の中で使われる時には、人間の生きる目的(狙うべき的)は本来、神様を愛し、神様の御心に従って生きることであるのに、その本来あるべき目的から矢がそれてしまい、神様ではない別のもの(自己中心的な欲求、偶像など)に向かってしまっている状態を指す言葉なのです。本日の聖書の箇所の23節で、『ハマルティア』という言葉の過去形の動詞である『エィマルトン』という言葉は、『罪を犯して』と訳されています。『罪を犯した』人間に、『神の義』はどのようにして与えられるのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
ところで、的を外して、オリンピックというビッグゲームで2個目の金メダルを逃してしまったマシュー・エモンズはその後、どうなってしまったのでしょうか?この悲劇的な大誤射の直後、エモンズが競技場のビアガーデンでうなだれていたところ、一人の女性選手が声をかけてきました。それが、チェコ代表の女子射撃選手であり、のちに北京五輪で金メダルを獲得するカテリナ・クルコヴァ(結婚後はカテリナ・エモンズ)であったのです。カテリナ・クルコヴァと彼女の父親は、エモンズの不運に同情し、同時に彼が気丈にインタビューに応じるなど紳士的な態度を崩さなかったことを『真のチャンピオンだ』と称え、今後の幸運を祈って四つ葉のクローバーのキーホルダーを贈ったのです。この出会いをきっかけに、2人は交際をスタートし、2007年に結婚したのです。人の人生における出会いと運・不運とは分からないものだと思います。
■神の恵みにより
さて、聖書の話に入ってゆきたいと思いますが、現在、連続して取り上げておりますローマの信徒への手紙の中で、前回に続き、今日もまた、3章21節〜26節を読んで行きたいと思います。この箇所では、『神の義』という言葉が繰り返し語られています。前回、この箇所でお話しましたのは、パウロが論じようとしている『神の義』というのは、定冠詞のついていない『律法』が示している、律法を行うことによって義とされるという原理のことではなくて、定冠詞のついている『律法』と預言者が旧約聖書で証言していた神の義であるのだということでした。そして、『神の義』というのは、神様が人間を裁く尺度ではなくて、神様がご自分の『義』を、主イエス・キリストの十字架での死と復活を信じる信仰によって、人間に与えて下さり、罪ある人間を義とみなして下さり、つまり罪の赦しを与え、救って下さる、その神様の救いの恵みを意味しているのだということを、お話しました。人間の行いよりも、信仰と神様の恵みが先行しているということなのです。
『神の義』と訳されている言葉は、旧約聖書のヘブライ語では、『ツェデク』、または『ツェダーカー』という言葉が使われ、『まっすぐであること』、『正しい状態にあること』という意味の言葉です。新約聖書では、ギリシア語の『ディカイオシュネー』という言葉が使われます。この『ディカイオシュネー』という言葉は罪に対する対立概念で、『正しい状態にあること』を示す言葉です。まっすぐで正しい状態であるということは、神様と人との関係が、正常な形に整えられたことを語っています。受け取る人によっては、『神の義』という言葉は、自分の正しさに照らし合わせて考えられてきた言葉でもあると思います。しかし、この『神の義』という言葉は、人間一人ひとりを大切にされる神様が、不当に誰かが抑圧されているのを見て、いたたまれずに行動を起こして、解放されるという意味の言葉であると思います。しかも、この『神の義』という言葉は、神様と人々との正しい関係の中で使われている言葉であることを心にとめておきたいと思います。よく社会正義という言葉を聞くことと思いますが、神様との正しい関係を抜きにした『正義』は、『神の義』ではないことが分かるかと思います。
パウロは、旧約聖書の時代から、定冠詞のついていない『律法』が示している、律法を行うことによって義とされるという原理によってはついに到達し得なかった『神の義』、神様とのまっすぐで正しい関係が、主イエス・キリストにより、この方を信じることで実現されるのだとし、その理由を、本日、お話します23〜24節で語っているのです。
本日の聖書の箇所の23〜24節を見ますと、『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。』とあります。この聖書の箇所は、新約聖書の中でも、最も大切な聖句の一つであると言うことができると思います。そして、この聖句は、宗教改革者であるマルティン・ルターが、長い間、苦しみ続けていた罪の赦しの問題を解決し、行いによる義から、主イエス・キリストを信じる信仰による義への転換、信仰義認を聖書から再発見した箇所であったのです。マルティン・ルターはこのときの体験について、次のように語っています。
『この『神の義』ということばをわたくしは嫌っていた。……わたくしはそれを『公式の』あるいは『能動の』義、神に罪人や犯罪者を罰せしめるように強いる神の資質であると理解していた。……わたくしの良心は極度に不安であった。そして神はわたくしの罪の償いによって懲らしめられるという確信がもてなかった。同様にわたくしはこの義にして復讐者なる神を好まなかった。わたくしはそのような神を嫌った。……わたくしは使徒パウロのこの一節において、使徒がなにをいおうと欲しているかを知りたいと熱心に顧い休みなく深く研究した。ついに神はわたくしに憐みを与えた。わたくしは……『神の義』はここでは神の与える義を意味し、信仰をもつならば、人は義によって生きることを理解し始めた。……この義は『受動の義』であって、それによって神は憐みをもって信仰によってわれわれを義とするのである——。ただちにわたくしは生れかわったように感じた。そしてわたくしは広く開かれた門から天国そのものへはいったように思った』。(ストロール著、『ルター』、波木居秀訳、56〜7頁)このようにマルティン・ルターは語っているのです。聖書について語る者の勤めは、この聖句に於いて語られているみ言葉を説き明かすことであると言っても過言ではないと思います。『神の義』は、人間に対立する神様の正しさではなく、罪にまみれた人間を義とする働きであることを、私たちは認識する必要があるのだと思います。自分の力ではどうすることもできない人間の破れた状態を、神様御自身の方から正して下さる。この『神様の救いの働き』が『神の義』であると思います。この『神の義』は、『イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義』(22節)であり、人間は『ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる』(24節)のだと思います。
もう少し、説明を加えますと、『神の義』つまり『神様の救いの働き』は、誰にでも自動的に与えられるのではないということです。『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、』(23節)とありますように、私たちは誰もが、本質的に、神様に背き逆らっている罪人だと言うことができると思います。神様を信じ、神様の言葉に従うことをせず、自分を人生の主人として、自分の思い通りに生きようとしていると思います。その結果、神様をも、隣人をも愛することが出来なくなり、神様とも隣人とも、良い関係を築くことができずに、関係そのものを破壊してしまうことばかりを繰り返していると思います。そのような罪人である私たち人間は、この世においても、死んだ後においても、神様の前に立つことなどできない者なのだと思います。しかしそのような罪人である私たちが、『ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる』(24節)と聖書は語っているのです。このことが、聖書が語る福音の中心なのだということです。
■イエス・キリストによる贖い
本日の聖書の箇所の24節に記されている、『キリスト・イエスによる贖いの業』とはどういうことでしょうか。前回もお話しましたように、『贖い』とは代金を払って買い取ることです。身代金を払って、捕虜や奴隷を解放するという意味もあります。ある人や力の支配下に置かれている者をその支配から解放するために代償を払うことです。この言葉は旧約聖書では、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を、神様がモーセを遣わして奴隷状態から解放して下さった、出エジプトの出来事を現す言葉として用いられています。それと同じ贖いの業を、主イエス・キリストが私たちのためにして下さったというのです。私たちは罪の力に支配されていると言うことができます。勿論、私たちが罪を犯すのは、自分の意志によってであり、それを他の誰かのせいにすることはできないと思います。しかし、それでは自分の意志によってその罪から抜け出すことが出来るかと言いますと、それは出来ないのだと言わざるを得ないのです。罪は私たちを支配している力であり、私たちは罪の虜となっていることから、自分の力で罪から脱出することが出来ないのだと思います。その私たちを罪の支配から解放するために、主イエス・キリストが自ら代償を払って下さった、それが『キリスト・イエスによる贖いの業』なのです。
主イエスが私たちのために払って下さった代償のことを、パウロは25節の前半で次のように語っています。『神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。』。この文章の主語は神です。『キリスト・イエスによる贖いの業』とありますように、主イエスが私たちのために代償を払って下さったことは、キリストの業であると同時に、より根本的には神様のみ業だったのです。神様が、独り子である主イエスを『罪を償う供え物』として立てて下さったというのです。私たちを贖い、義として、神様のみ前に立つことが出来るようにして下さったのは、神様ご自身なのです。神様はそのために独り子である主イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、主イエスの命を、私たち人間の救いのための身代金、代償として支払って下さったのです。
■罪を償う供え物
神様は主イエスを、『罪を償う供え物』として立てた、とパウロは語っていますが、この『罪を償う供え物』という言葉は、ギリシア語の原文では『イラステェィリオン』という一つの単語で記されています。そして、その『イラステェィリオン』という言葉は、旧約聖書の出エジプト記の25章に出て来る言葉をギリシャ語に翻訳した言葉なのです。出エジプト記25章17節以下には、『贖いの座』を作りなさいという命令が語られています。この『贖いの座』を示すヘブライ語の『ハ・ッカッポーレト』という言葉がギリシア語を経て、日本語に翻訳されて、『罪を償う供え物』という言葉になったという訳なのです。
ここでこの『贖いの座』について、もう少しお話したいと思います。出エジプト記25章8節以下は『幕屋』の作り方について語られています。『幕屋』は、荒れ野を旅しているイスラエルの民が神を礼拝するための場所です。カナンの地に入って定住してからはそれが神殿へと発展していきました。そして、出エジプト記25章10節以下には、その幕屋の中に置かれる『箱』の作り方が語られています。この『箱』は、16節にありますように、神様が与えて下さった『掟の板』、つまり十戒を記した石の板を納めるためのものです。『契約の箱』と呼ばれるこの箱は、アカシヤ材で作らなければなりませんでした。なぜアカシヤ材が用いられたのかと言いますと、アカシヤ材は腐食しにくい木材であったからです。つまり、それは主イエス・キリストを象徴していました。主イエスは腐食しにくい、つまり清廉潔白な(完全な)人間でした。主イエスは罪深い人間と同じ、生身の身体をもって生まれてきましたが、主イエスには全く罪がありませんでした。主イエスの外側の人間性を示すものとしてアカシヤが用いられたのです。その『契約の箱』には、純金がかぶせられました。それは、その内側と外側とにかぶせなければなりませんでした。その回りには金の飾り縁を作ります。なぜ純金がかぶせられたのでしょうか。それは、この純金が主イエスの神性を表していたからです。ですから、純金で覆われたアカシヤ材で作られた『契約の箱』は、人として来られた神様の御子主イエス・キリストのことを象徴していたのです。幕屋の最も奥にある至聖所の中に置かれるのです。そして、『贖いの座』とは、この『契約の箱』の蓋なのです。純金で作られ、一対のケルビム、それは翼のある、天使のような怪物のようなものですが、それが両端に翼を広げた姿で向かい合って置かれています。そして、出エジプト記25章22節には、『わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。』とあります。つまり、この『契約の箱』の蓋である『贖いの座』は、神様がそこで人々にご自身を現し、語りかけて下さる、神様と人間との出会いの場、交わりの場という意味を持っているというのです。
それが『贖いの座』と呼ばれているのは、一年に一度、イスラエルの民全体の罪の贖いのための儀式がそこで行われるからです。そのことはレビ記16章に語られていますが、年に一度、大祭司が至聖所に入り、この『贖いの座』に、罪を償う供え物として動物の血を注ぐことによって、民全体の罪の贖いをするのです。そのことからこの掟の箱の蓋は『贖いの座』と呼ばれているのです。『神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。』という言い方は、当然この至聖所で行われる贖いの儀式を意識しているのです。それによって、25節の『その血によって』という言葉の意味が分かるかと思います。イスラエルの民全体の罪の贖い、赦しのために犠牲の動物の血が『贖いの座』に注がれたように、私たちの罪の贖い、赦しのために、主イエス・キリストの血が注がれたということなのです。血は命を現しています。犠牲の動物の血が注がれたということは、その命がささげられたということです。同じように主イエスの血が注がれたということは、主イエスの命が犠牲としてささげられたということなのです。それが、主イエスの十字架での死なのです。神様は、独り子である主イエスをこの世に、一人の人間として遣わし、その主イエスが十字架にかけられ、血を流して死ぬことによって、私たちを罪の支配から解放するための贖いの業を行なって下さったのです。それが『キリスト・イエスによる贖いの業』なのです。私たちは、主イエス・キリストの十字架の死によって罪の贖い、赦しを与えられているのです。その恵みを信じることによって義とされ、神様のみ前に立つことが出来る者とされているのだと思います。
■無償で与えられる恵み
24節に『神の恵みにより無償で義とされるのです。』とありましたように、それは『無償で』与えられる恵みなのです。つまり『ただで』ということなのです。私たちは、この救いの恵みを頂き、義とされ、神様を礼拝することができるようになるために、何の代償も支払う必要はないというのです。それは、救いの恵みのために支払われるべき代償は、全て、主イエス・キリストが、その十字架の死によって既に支払って下さっているからなのです。それはあたかも、私たちがお財布を出して支払いをしようとしたら、『いいえ、お代はもう頂いていますから』と言われるようなものなのだと思います。私たちの知らないうちに、神様が、独り子主イエス・キリストの十字架の死という代償を、私たちのために支払って下さっていたということなのです。そのことを知らされてびっくり仰天し、そして喜び、感謝して、神様のもとに、主イエスのもとに集まって、神様をほめ讃え、礼拝しながら生きていくことが信仰をもって生きることだと思います。
この神の救いの恵みは、繰り返しますが無償で与えられるものです。私たちが、地上の人生においてどんなよい業を行ったとか、どんな優れた業績をあげたとか、あるいはどんなに善良な人であったとか、そのようなこととは全く関係なく、神様が、御子である主イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を贖い、義として下さったのだと思います。私たち人間がするべきことは、この神様の恵みによって与えられている義を感謝して頂くことだと思います。神様の恵みに対して、『アーメン』と、つまり『本当にその通りです。』と告白することだと思います。それが主イエス・キリストを信じる信仰であり、その信仰によって私たちは、喜びと平安の内に神様を礼拝する者とされるのだと思います。
私たちは、『罪を償う供え物』として立てられて、十字架において、私たちの罪を無償で贖われた、主イエスの福音を信じて、主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
