【奨 励】 役員 川辺 正直
■『ハリネズミの願い』、トーン・テレヘン作
おはようございます。オランダで最も敬愛されている作家に、トーン・テレヘンさんという方がおられます。医師のお父さんとロシア生まれのお母さんのもと、オランダ南部の島に誕生。ユトレヒト大学で医学を修め、ケニアでマサイ族の医師を務めたのち、アムステルダムで開業医になられた方です。1984年、幼い娘のために書いたどうぶつたちの物語『一日もかかさずに』を刊行。以後、動物を主人公とした話を50冊以上書きつづけ、文学賞を多数受賞されている方です。テレヘンさんの作品に、『ハリネズミの願い』という作品があります。この作品の中で、主人公のひとりぼっちのハリネズミは次のような森の動物たち宛ての手紙を書くのです。
『親愛なるどうぶつたちへ。ぼくの家に遊びに来るよう、キミたちみんなを招待します。』
そして付け加えるのです。
『でも、誰も来なくても大丈夫です。』
主人公のハリネズミは、自分のハリが嫌いなのです。だけど、自分のハリを取ったら、ハリネズミとしての個性が消えてしまう不安にも駆り立てられているのです。ハリネズミにとって『ハリ』は、コンプレックスであり、自分の『個』としても欠かせないものでもあるのです。逆にその個性である『ハリ』が他の動物たちみんなに生えていて、自分だけが生えていないということを想像したりするのです。ハリがないハリネズミに、他人と同じでない違和感を覚えるハリがある動物たち。ハリネズミは怖くないよと叫ぶものの、その声は届かないのです。ハリネズミは自分のハリを含めて、ありのままの自分を受けいれて欲しいのです。
『でも、誰も来なくても大丈夫です。』という手紙を書いたけれど、誰かくるかもしれないから、カップを2つ用意してみたりするのです。そして、みんなが美味しいと思うケーキを作ってみたりするのです。もしダメだったら、自分で食べてしまえばいいと考えたり、様々な会話や失礼がないかをあれこれと考えるたりするのです。その一方で、来たら嫌な動物たちのことも考えたりするのです。勝手に家のモノを食い荒らすクマや、家具や個性である『ハリ』を売ってしまうキリギリス、自分の話や主張だけをして帰るキリンやネズミ、こういった困った動物たちが、もし自分の家に訪れたとき、あるいは、相手に不快な思いをさせてしまったときの自分を、あれこれベッドの上やベッドの下、テーブルや外で考えを巡り、思い悩み前に進んでは、また最初に戻ってしまうのです。
最後にはそんな架空の会話を繰り返し、ハリネズミは訂正を重ねた招待状をビリビリに破り捨てるのです。誰も訪ねて欲しくない。だってぼくには孤独がお似合いなのだと、ハリネズミは考えるのです。
そのとき、ハリネズミのドアをノックする小さな音がするのです。リスがきたのです。これまでの想像の中のどれでもない動物なのです。また、ドアがノックされたました。
『だれ?』とハリネズミは聞きます。『ぼくだよ』と声がしました。『リス。入れてくれる?』
『なんで?』。
『わからない。ただなんとなく。だれか訪ねてきたらハリネズミが喜ぶかもしれないって思ったんだ』。
これまで進んでは戻り、思い悩んでいたハリネズミに本当の友達ができたというよりも、ハリネズミには、ありのままを受けいれてくれる本当の友だちがいたのだと思います。ハリネズミのとっておきのアザミのハチミツとリスが持ってきたブナの実のハチミツと共に紅茶を飲み、ときおり彼らは頷くのです。まるで、時が止まればいいのと互いに思うほどに。
そんな楽しい時間を過ごして、リスは帰ってゆきます。しばらくして、ハリネズミはリスからの『また会おうね』と書かれた手紙を受け取るのです。
私たちは人生の闇の中で、自分には誇るものもなく、自分には何の価値もなくて、と感じる時があるのではないでしょうか。しかし、そのような弱さの中にあるとき、神様は私たちとの関係をどのように考えておられるのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■すべての人の罪
さて、現在、連続して取り上げておりますローマの信徒への手紙で、パウロは1章18節〜5章21節まで、この手紙の大きな部分をかけて『義人』という概念について説明しています。そして、現在、私たちが読んでいる1章18節〜3章20節というのは、パウロが語る『義人』の概念の中の全ての人間は有罪であるという有罪宣言の箇所だということなのです。なぜ、パウロが有罪宣言から話を始めているのかと言いますと、『義人』というのは、神様が罪人に神の義の衣をかぶせて、神の義に転化すること、これが『義人』という言葉の内容なのです。しかし、パウロは『義人』そのもの、神様による義の提供を論じる前に、まず有罪宣言をここでしなければいけないと考えているのです。なぜかと言いますと、罪について理解しない人が、義とされることを求めるはずがないからです。
前回、2章17〜24節で、パウロは、自分たちは『盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師である』(19〜20節)と自負しているユダヤ人に対して、律法を誇りとしながら、律法に違反し、神様を侮っていると語ったということをお話しました。パウロは、自分たちは神の民だと誇っているユダヤ人たちに対する批判は、例えば、次のようなものだと思います。
ある家で、あまりにも勉強しない息子に対して、お父さんが次のように言ったそうです。
『おい。少しくらいは勉強したらどうだ。リンカーンはおまえの年で、独学で弁護士になったのだぞ』。
すると息子は何と言ったのでしょうか。
『何言ってんだよ。リンカーンはお父さんの年に大統領になったんだよ』。
訓戒を与えようとする父親に対して、息子は、あんたなんかにそんなこと言われたくないと言って、反発しているのです。何が問題なのでしょうか。中身がないことだと思います。口先だけで生きていることなのだと思います。親が本気になってその生き方を見せるときにだけ、語る言葉に力を持つのだと思います。これは親だけでなく、学校の教師でも誰でも、人を指導する立場にあるすべての人に言えることだと思います。子どもたちに、『神様のみことばは重要だ』と何百回言っても、自分が主のみことばに生かされ、そして、みことばに生きていなければ力がないのだと思います。
そのように語るパウロに対して、ユダヤ人たちにはブツブツと言い始める心の声があるのです。それが、『そんなことを言ったって、俺達には割礼があるんだよ』という声なのです。ユダヤ人たちは、割礼というのは、特権であって、救いにつながると考えていたのです。従って、パウロは、当然、割礼の問題を次に論じなくてはならなくなっているということなのです。
■アブラハム契約のしるし
本日の聖書の箇所の25節を見ますと、『あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。』とあります。パウロは、ここで割礼は祝福の保障ではないということを語っているのです。割礼というのは、男子の性器の先端の皮を切り取ることです。それは神の民であるユダヤ人のしるしであり、救いのしるしと考えられていたのです。割礼のない者は地獄に行くと、ユダヤ教のラビたちが教えていたのです。それほど、割礼は、ユダヤ人たちにとって重要なものだったのです。旧約聖書において、割礼はそもそも何の契約のしるしであったのかと言いますと、創世記17章に記されているアブラハム契約のしるしであったのです。
創世記17章1〜14節を見ますと、『アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」』とあります。
この創世記の17章に記されているアブラハム契約は、神様が一方的な恵みによってアブラハムとその子孫を祝福される無条件契約です。ですから、アブラハムは、神様の恵みに対し、全人的に応答しなければなりません。そういう文脈で割礼を理解する必要があるのだと思います。大切なことは、アブラハムは、割礼を受けたから義とされたのではないということです。アブラハムは信仰によって、義とされたのです。そして、義とされたことのしるしとして、割礼を受けたのです。
それでは、神様はアブラハムに契約のしるしとして、『包皮の部分を切り取りなさい。』とおっしゃられたのは、なぜなのでしょうか?それは、神様が本当に願っておられるのは、私たちの心の固い部分=生まれつきの人間が持っている、神様との正しい親しい関係なしに生きようとする性質、を切り捨てなさい、ということだと思います。
固い外側の皮膚を切り取ると、柔らかく感じやすい生の肉が出てくるように、私たちの心の外側の固い部分、神様に対して、また義や罪に対して、固く無感覚になっている部分が切り取られると、柔らかい、砕かれた心が表に出てきて、神様の心に自らの心を向けてゆくことが始まるのだと思います。イスラエルの民は、割礼によって神様の契約の恵みを自分の体に刻み付けて歩みました。神様の恵みは、頭の中で考えて分かるとか分からないとか、感じるとか感じないというものではありません。それは言ってみれば自分の体に刻み付けて歩むものです。割礼はある意味で肉体に傷を負うことです。傷の痛みを味わい、その傷跡を一生背負っていくものです。そのようにして神様と関わっていくことにおいてこそ、神様の恵みの内に、私たちは歩む者となって行くのだと思います。
また、この割礼は、契約のしるしであると同時に、自分の体を神様のものとしてお捧げすることのしるしでもあるのだと思います。神様の前に歩む、神様のまなざしの中で生きるとは、目を神様に向けて生きることだと思います。そして、神様が喜ぶことを喜び、神様が感動する事に感動し、神様が心を引き裂かれることに、心を引き裂かれる。これが、『心の割礼』であって、神様が真の礼拝者たちに求めておられることだと思います。
ですから、パウロは、割礼そのものは、祝福を保障するものとはならないと言っているのです。祝福は割礼を受けた後に、継続して起こる従順な生活の上に降るのだと言うのです。割礼を受けることが神様の祝福を保障するのではなくて、割礼を受けた人が神様に従順に生活するときに、その人の信仰の上に神様の祝福が下るのだということです。ですから、割礼だけ受けて、律法に背いているのなら、もとから割礼を受けていないのと同じなのだ、というのがここでのパウロの論理なのです。
■“霊”によって心に施された割礼
次に、本日の聖書の箇所の2章26〜27節を見ますと、『だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。』とあります。つまり異邦人が律法の規定を守るのなら、割礼を受けているのと同じだと言っているのです。異邦人、特に心の内側の思いに於いて、神様に従っている異邦人が、儀式的なユダヤ人、つまり割礼だけを受けて、神様に従うことは何もしていないユダヤ人を裁くことになるとパウロは語っているのです。ユダヤ人の誇りであり、2つのかけがえのないシンボルであった割礼と律法が、こともあろうに、今度はユダヤ人たちを裁くための直接の根拠に変わったということなのです。
ここで、パウロが語っていることは、この手紙を読んだユダヤ人には、腰を抜かすようなことであったと思います。割礼を受けていない異邦人が、自分たちよりも優れているとはどういうこと、自分たちを裁くとはどういうことと、ユダヤ人たちはきっとつぶやいたことと思います。
そこで、パウロはさらに28〜29節で、『外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。』と語っているのです。ここでパウロが語っているのは、ユダヤ人であることや割礼を受けていることには何の意味もない、ということではありません。むしろ、本当のユダヤ人、本当の割礼とはどのようなものかを語っているのです。そしてこの手紙を読む者たちに、あなたがたは本当のユダヤ人、本当の割礼を受けた者とならなければならない、と語っているのです。それこそがパウロがここで語ろうとしていることなのです。
つまりパウロは、神様の救いにあずかるとは、真のユダヤ人になることだと言っているのです。神様が多くの人々の中から選び、ご自分の民として下さった真のユダヤ人の群れに加えられることこそが救いなのです。しかし、それは外見的にユダヤ人になり、肉体的に割礼を受けることではありません。『内面がユダヤ人であること』、『“霊”によって心に施された割礼』を受けていることが大切なのです。つまり、本当のユダヤ人、本当の割礼を受けている者となることだというのです。そして、『“霊”によって心に施された割礼』とは、主イエス・キリストの十字架での死と復活による罪の赦しの恵みを指しています。私たち全ての人間は罪の下にあり、神様の怒りを受けるしかない者だと思います。自分の力では、罪の支配から抜け出して、神様の前に正しい者として立てる者は一人もいないのです。そのような私たちのために、神は独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって新しい命、永遠の命を与え、そして私たちを選び、召し集めてその救いにあずからせ、ご自分の民として下さったのです。その救いの恵みが私たちの心に、聖霊の働きによってしっかりと刻みつけられることが、まことの割礼、心の割礼なのだと思います。本日、招詞でお読みしました旧約聖書のエゼキエル書11章19節を見ますと、『わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。』とあります。つまり、神様が私たちから石の心、頑なで神様の恵みを受け入れようとしない心を取り除いて、新しい、瑞々しく柔らかな心、神様の恵みを信じ、神様の民とされていることを感謝し、神様と共に、神様に従って生きようとする心を与えて下さるというのです。それが『“霊”によって心に施された割礼』なのだと思います。
本日、始めにお話しました『ハリネズミの願い』という作品で、誰も訪ねて欲しくない、自分には孤独がお似合いなのだと考えるハリネズミのように、主イエス・キリストという神様からの招待状をビリビリに破り捨てる私たちに、『ただなんとなく。だれか訪ねてきたらハリネズミが喜ぶかもしれないって思ったんだ』と言って尋ねてきたリスのように、神様は主イエス・キリストを通して、私たち人間に『友よ』と語りかけて下さることによって、硬かった私たちの心が砕かれ、柔らかい、砕かれた心が表に出てきて、神様の心に自らの心を向けてゆくことができるようになるのだと思います。私たちは、『“霊”によって心に施された割礼』を受けることに喜びと希望を抱きつつ、主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
