小倉日明教会

『しかし、あなたがたは敵を愛しなさい』

ルカによる福音書 6章 27〜36節

2022年2月20日 降誕節第9主日礼拝

ルカによる福音書 6章 27〜36節

『しかし、あなたがたは敵を愛しなさい』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

『後悔したお化け』

 おはようございます。さて、アメリカにキャスリーン・ノリスというクリスチャンの女性教師がいます。彼女は、担任のクラスの子どもたちの中に、家でバカにされ、親からも、兄妹たちからも、友だちからも、のけ者にされている子がいることに気がついていました。あるとき、彼女はクラスの子たちに、呪いの詩を作るように言うのです。そして、いじめられている子には、実に見事に呪いの才能が開花していることに気がついたのです。

 その問題の少年は、『後悔したお化け』という題の詩を書いたのです。彼は、最初に父親に怒鳴られるが大嫌いだということを認めています。そして、彼は詩の中で、姉さんを階段から投げ落とし、めちゃくちゃに壊します。それから、自分の部屋をめちゃくちゃにし、最後に町全体をめちゃくちゃにしたのです。破壊に次ぐ、破壊の詩なのです。しかし、この詩は最後にこのように結ばれているのです。「それから、僕はごちゃごちゃの家に座って、独り言を言った。『こんなことしちゃ、いけないんだ』」。彼は不正を怒るだけ怒って、そのエネルギーを放出しきったときに、何と、自発的に反省し始めたというのです。なぜ、彼は自発的に反省を始めたのでしょうか。

 幼児虐待を深く考えたスイスの心理学者に、アリス・ミラーという方がいます。彼女は、「魂の殺人」という本の中で、このように言っています。「本物の赦しは、憤りの横をすり抜けて行くのではなく、その真中をくぐり抜けて行くのです。私が私に仕向けられた不正を理解し、体感し、そして、憎むことができたとき、その時、初めて私はその人を赦す可能性を手に入れるのです。このような赦しは、法だとか、おきてだとかによって、強制できるものではなく、一種の恵みのように感じられるものですし、禁じられ、抑圧された憎しみによって、魂が毒されることが終わると、どこからともなく現れてくるものなのです。」

 このように語っているのです。ミラーは、乳幼児期に叩き込まれた、有無を言わさぬ「教育」が、生涯にわたってその子供に凄まじい影響を及ぼす「恐ろしい」実例として、ヒトラーなど歴史上の人物や文学者、大きな話題となった犯罪者などの生い立ちを記述、分析し、不正に対する憎しみのど真ん中を抜けてゆくことが重要だと考えたのです。

呪いの詩編

 旧約聖書の中に、詩編という書物があります。詩編は150篇の賛美、祈り、感謝、悔い改め、また神様に対する信頼と愛情を表す詩によって構成されています。しかし、その詩編の中には、「呪いの詩編」というジャンルがあるのです。つまり、悪人を呪い、報復を祈る特徴を持つもので、詩編109篇、35篇、69篇などがあります。ここで、109篇の一部、6節から10節までを読んでみたいと思います。

 彼に対して逆らう者を置き/彼の右には敵対者を立たせてください。/裁かれて、神に逆らう者とされますように。/祈っても、罪に定められますように。/彼の生涯は短くされ/地位は他人に取り上げられ/子らはみなしごとなり/妻はやもめとなるがよい。/子らは放浪して物乞いをするがよい。/廃虚となったその家を離れ/助けを求め歩くがよい。

 このように書かれているのです。呪いの詩編の中での祈りは、自分に敵対する者に対する呪いではなく、神様に向けられた祈りなのです。自分で仕返しをすることなく、神様に託したのです。呪いの詩編とは、神様の前に人を正直にさせ、その心を霊的に解放する目的を持っています。即ち、自分で悪に報復しないためのものなのです。

 今日の聖書の箇所の27節では、主イエスは、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」と語っています。神様を信じない人たちは、この箇所を取り上げて、キリスト教とは、実行不可能な道徳律を教える宗教だということを言ったりもしますが、それは、本当のことなのでしょうか。今日は、主イエスが、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」と語る中で、私たちに何を伝えようとしていたのかということを考えながら、本日の聖書の記事を皆さんと共に学びたいと思います。

「敵を愛しなさい」

 さて、本日は、前回に引き続きルカによる福音書の第6章27〜36節の主イエス・キリストがお語りになった「平地の説教」について読んでゆきたいと思います。本日の箇所で語られている教えとしては、29節前半の「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」というものがあります。また、同じ29節の後半に「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」とあります。さらに、30節には「求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」と書かれています。そして、これらの教えをまとめるようにして、31節には「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という教えが語られています。この教えは「黄金律」(黄金の掟)と呼ばれており、主イエスの教えの中でも最もよく知られているものの一つです。つまり、自分の頬を打つ者にもう一方の頬をも向け、上着を奪う者に下着をも拒まず、求める者にはだれにでも与え、持ち物を奪う者から取り返そうとしない、それらのことのまとめとして、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と語っておられるのです。従って、ここでの「人」とは、自分の仲間や、愛してくれる人ではなくて、むしろ自分の敵、自分を憎んで意地悪をする人です。そういう自分の敵に対しては、私たちは自分がして欲しくないと思うことだからこそする、というのが自然の感情なのではないでしょうか。テレビドラマで、「倍返しや!」というセリフが流行しましたが、倍返しすることで初めて腹の虫が収まるというのが、私たち、普通の人間の自然な感情なのではないでしょうか。しかし、主イエスは、そのような敵に対して、あなたの方から率先して、愛し、親切にし、祝福を祈りなさい、とお語りになっているのです。

 31節以下に語られていることもその続きとなります。そこには、自分を愛してくれる人を愛し、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで「どんな恵みがあろうか」とあります。「恵みがあろうか」というのは言い換えれば、神様が喜んで下さるだろうか、ということです。それらのことは、返してもらうことを当てにして貸すのと同じだ、つまり自分は全然損をせずに、いやむしろ見返りを求めて親切にしているだけだ、そういうことは罪人でもしているのであって、神様が喜んで下さることではない、と語られているのです。ここでの「罪人」は神様を知らない人、従ってその恵みの中に生きていない人ということです。これらのことを受けて35節で再び、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と語られ、そのことが、「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」と言い換えられていきます。つまり、見返りを求めず、自分が損をすることになっても、人に対して善いことをしなさい、というのです。敵を愛するというのは、そういう思いをもって生きることなのだと、主イエスは語っておられるのです。

 このように主イエスが語られている内容を、私たちは、それは確かにそうあるのが望ましいことだけれどもと、頭では理解できても、戸惑ってしまうのではないでしょうか。なぜ、主イエスはそのように語られたのでしょうか。これまでに、主イエスの「平地の説教」というのは、正しいモーセの律法の解釈について語られたものだということをお話しました。それでは、モーセの律法の中では、どのように語られているのでしょうか。

「目には目を、歯には歯を」

 自分の敵、自分を憎んで意地悪をする人に対するとき、私たちにとって、馴染みの深い旧約聖書の記事は、出エジプト記の21章23〜25節なのではないでしょうか。そこには、次のように書かれています。

 「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」

 この聖書の箇所は、皆さんも中学校の社会科の授業で勉強したことのあるハンムラビ法典でもよくご存知の箇所ではないでしょうか。ハンムラビ法典は、1901年、高さ2.25mの石棒に刻まれたものがイランのスサで発見され、最古の法典として知られたものです。ハンムラビ法典が発見される19世紀までは、聖書学者たちはモーセの律法を読んで自慢していたのです。世界のどの民族の、どの法律を見ても、聖書のモーセの律法のようなものはない。モーセの律法以降、法体系として出てくるのが、ローマ法です。しかし、モーセの律法はローマ法よりも、1,000年も古い、だからモーセの律法は特別で、ユニークだと、聖書学者たちは言っていたのです。ところが、20世紀初頭に、ハンムラビ法典が発掘され、これは紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ王が発布した法典だと言うのです。モーセの律法よりも、少なくとも300年くらい前に出来ているのです。しかも、読んでみるとハンムラビ法典も判例法です。しかし、バビロニアから発掘された粘土板による裁判の記録を精査すると、かならずしも法典内容と実際の判決が一致していないことから、ハンムラビ法典がそのまま実施されていたかについては疑問視されていて、王が即位するときの所信表明の意味合いが強かったというのが、現在の通説であるようです。判例が似ている、しかも、「目には目、歯には歯」というのは、同害報復法(タリオ)と呼ばれています。同害報復法もモーセの律法と全く同じ文言で出てくるのです。ハンムラビ法典の方が古いので、聖書を信じない人たちは、モーセの律法はハンムラビ法典を参考にして成立したのだと言っているのです。しかし、そうではなくて、神様が人間に啓示されるときには、その時代に最も一般的な形式なり、言葉を用いて啓示されているのだと思います。ところが、20世紀の半ば、ハンムラビ法典が発掘されてから50年位経ってから、もっと古い法典が出てきたのです。これが、ウル・ナンム法典と言います。これは紀元前2,000年頃と言われていますから、ハンムラビ法典よりも古いものです。メソポタミア文明のウルの第3王朝の初代の王、ウル・ナンムが発布した法典で、これが現存する世界最古の法典と言われています。つまり、ハンムラビ法典よりももっと古い法典が出てきたのです。それを見てみると、ウル・ナンム法典もハンムラビ法典も、モーセの律法も、古代中近東の法体系にある一定の特徴があるということがわかってきたのです。そして、モーセの律法も、その特徴に従って書かれたということがわかって来たのです。それでは、モーセの律法のユニークさはないのかと言うと、そうではなくて、あるのです。古代法では、法体系は2つに分かれて、ひとつは宗教的なもので、祭儀法と言います。そして、もう一つが市民法と言います。これは、民法とか、商法に当たります。そして、祭儀法は祭司が司っているのです。一方、市民法というのは王が司っているのです。祭儀法というのは、いかに神様を礼拝すべきかとか、いかに犠牲を捧げるべきかということについて、事細かに定めているものですが、その中には、倫理的、道徳的な命令はないのです。それが、王が司る市民法となると、財産権をどう守るかとか、人権をどのようにして守るかということが出てくるのです。モーセの律法の場合、神様をどのように礼拝するか、神様にどのように近づくのかということと、隣人をどう扱うかという市民法とが全く同じ箱の中に入っているのです。従って、モーセの律法の特徴は、神様を信じ、神様に近づくことは、隣人に対して、いかに愛と正義とを実現するのかということと一体となっていることだと言うことができるのです。この点において、モーセの律法は一般的な法体系とは全く異なるものとなっているのです。

復讐してはならない

 さらに、レビ記19章17〜18節には、次のように書かれています。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

 17節に、「心の中で兄弟を憎んではならない」と書かれていることから、旧約聖書でも、兄弟、隣人との関係においては「心の中」のことまで見つめなければならないと言っていることがわかります。隣人との関係を破壊する悪意や憎しみが生まれるのはその「心の中」だからです。隣人に対する批判の思い、憎しみや悪意が心の中に生まれてくる時どうしたらよいのか、それが次に語られています。「同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」。隣人に何か批判されるべき問題がある、罪があると思う時、その人を憎み、悪口を言い、苦しめるのではなくて、「率直に戒めなさい」と教えられているのです。そうしないなら、その人の罪を自分も負うことになるのだと言っているのです。神様はその人の罪を率直に戒めなかった自分にもその責任をお問いになると言うのです。

 18節には「復讐してはならない」とあります。隣人を率直に戒めることをしない時、私たちが結局していくのは、その人に対する復讐です。あるいはその次に語られている、「民の人々に恨みを抱く」ことです。つまりここには、私たちが隣人に対して憎しみや恨みの思いを抱き復讐していくのか、それとも率直に戒めるという道を選ぶのか、という問いかけなのです。そして、それらをしめくくる教えとして、18節後半の、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」ということが語られています。

 主イエス・キリストはこの教えを、律法の中で最も大事な教えの一つとして引用なさいました。本日の聖書の箇所でも、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と語られています。この教えはこれだけを取り出して読まれることが多いわけですが、この教えがどういう文脈の中で語られたのかを捉えておく必要があります。つまり、隣人に対する憎しみ、恨み、復讐心が私たちの心の中に湧き上がって来る時に、そのような憎しみに身を委ねて生きるのではなくて、相手を率直に戒めることによって、むしろその相手を愛することが教えられているのです。ですからこれは単なる隣人愛の教えではありません。私たちの中に湧き上がってくる、憎しみや恨みや復讐心を愛によって克服しなさいという教えなのです。そして、そこにも「わたしは主である」という言葉があります。主なる神様の下で、神様の民として、聖なる者として生きる所にこそ、隣人との交わりにおいて、愛によって憎しみに打ち勝っていく歩みが与えられると言っているのです。

アサヒビール社長 樋口廣太郎

 ここで私たちは、戸惑ってしまうのではないでしょうか。憎しみや恨みや復讐心を愛によって克服しなさいということを守ろうとするあまりに、憎しみや恨みや復讐心を無理やり押し込めてしまっては、スイスの心理学者、アリス・ミラーが言うように、禁じられ、抑圧された憎しみによって、魂が毒されてしまうのではないでしょうか。

 主イエスは、私たちの内にある憎しみや恨みや復讐心を知っていて、なぜ「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」とおっしゃられているのでしょうか?

 日本のビールのシェアは、キリンビールがトップで、アサヒビールは2位でした。このアサヒビールを日本一に導いたのが樋口廣太郎という社長でした。彼は、常々、ナンバーワンになるためには、ナンバーワンの味がするビールを作らなくてはならない、でもうかいビールを作ると言っても、どうしたら良いのか、なかなかわからなかったそうです。では、どうやって業界トップへと、導いて行ったのでしょうか?どうやったら美味いビールを作ることができるかと問うことをやめ、どうやったら不味いビールを無くせるかと問うてみたら、ビールを新鮮なままに保つための課題がいくつも見えてきたというのです。樋口社長によれば、現実が行き詰まったままなのは、行き詰まるような問い方をしているからだと言うのです。現実を変えたければ、質問を変えなければならない。ものの見方そのものを逆転しなければならない。

 主イエスが、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と語られているのは、自分自身の憎しみや恨みや復讐心を見続けるのではなくて、あなた自身の問いを変えてみてはどうかと、優しく提案されているのだと思います。

 それでは、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」という主イエスの言葉に応えて、私たちはどのように自分自身に対する問いを変えたら良いのでしょうか?

キング牧師、『汝の敵を愛せよ』

 マーティン・ルーサー・キング牧師は、1929年に生まれたアメリカのバプテスト教会の牧師でした。キング牧師の名前で知られ、アフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者として活動しました。そのような中で、「汝の敵を愛せよ」と題する説教集を、ジョージア州の刑務所で書き、1963年に出版されました。その説教集の中の「汝の敵を愛せよ」という題の説教の一部をお読みしたいと思います。

 「われわれは、最も恨み重なる敵対者に対し、次のように言う、『われわれは苦難を負わせるあなたがたの能力に対し、苦難に耐えるわれわれの能力を対抗させよう。あなたがたのしたいことをわれわれにするがいい、そうすれば、われわれはあなたがたを愛し続けるだろう。われわれはきわめて良き良心のゆえに、あなたがたの不正な法律に従うことはできない。なぜなら、悪と協力しないということは、善と協力するということと同じように道徳的義務だからである。われわれを刑務所に放り込むがいい、それでもわれわれはあなたがたを愛するだろう。われわれの家庭に爆弾を投げ、われわれの子どもらを脅すがいい、それでもなおわれわれはあなたがたを愛するだろう。覆面をした暴徒どもを真夜中にわれわれの社会に送り込み、われわれを打って半殺しにするがいい、それでもわれわれはなおあなたがたを愛するだろう。しかし、われわれは耐え忍ぶ能力によってあなたがたを摩滅させることをはっきり覚えておくがいい。いつの日かわれわれは自由を勝ち取るだろう。しかしそれは、われわれ自身のためだけではない。われわれはその過程で、あなたがたの心と良心に強く訴えて、あなたがたを勝ち取るだろう。そうすればわれわれの勝利は、二重の勝利となろう』」。

 このキング牧師の説教には、主イエスの勧めに従って、憎しみや恨みから、「敵を愛する」ということへと問いを変えた、見事な転換が見られると思います。

私たちのただ中に

 さて、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」という主イエスの言葉は、愛によって憎しみや恨みや復讐の思いを克服していくようにという教えです。私たちが隣人との関係を築き、整えていくために一番大切なことは、このことだと思います。私たちが皆、憎しみや恨みや復讐の思いを乗り越えて、自分にひどいことをする人たちを愛することができるようになれば、この社会は本当に明るくすばらしいものになるでしょう。しかし、主イエスの言葉に従って、自分にひどいことをする人たちの人生を大切にするという意味で、「敵を愛する」ことが出来たとしても、私たちの心の中の憎しみや恨みが消えてなくなる訳ではないのです。そして、敵を愛してもなお、心の中に残る憎しみや恨みを神様は、否定はなさらないのです。敵を愛してもなお、心の中に残る憎しみや恨みを抱えた私たちを救うために、主イエスは神様であるのにも関わらず、私たち人間のただ中に、私たち人間の憎しみや恨みのただ中に来られたのです。

 マタイによる福音書22章37〜38節において、主イエス・キリストは、「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」という問いに対して、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」と答えておられます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という、これは申命記6章5節の言葉です。主なる神様を愛すること、それが第一に重要なことだと言っているのです。

 私たちが、「敵を愛する」ことができるようになるためには、重要な第一の掟、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛する」ことがどうしても必要なのだということです。私たちは、自分の力では、敵対する人々を本当には愛することができません。憎しみや恨みや復讐の思いを自分の愛の力で克服することはできないのです。そういう私たちが、新しくされ、造り変えられて、敵対する人々を愛し、その愛によって敵対する人々との関係を築いていくことができるようになるのは、私たちが主なる神様を愛する者となることによってなのです。そして私たちが神様を愛する者となるのは、神様の愛が自分に豊かに注がれていることに気付くことによってです。神様は、独り子である主イエス・キリストを私たちのためにこの世に遣わして下さいました。そして、その主イエスの十字架の死によって、私たちの罪が赦されたのです。そこに、神様の私たちへの、命がけの愛が示されています。このイエス・キリストの十字架での死という、神様の愛が惜しみなく注がれることによって、私たちも、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神様を愛する思いを与えられるのです。そして、そのことによってのみ、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」という主イエスの言葉に従う生活が実現していくのです。私たちもまた、どこまでも主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。

  それでは、お祈り致します。