小倉日明教会

『愛する息子はぶどう園の外で ―ぶどう園と農夫のたとえ―』

ルカによる福音書 20章 9〜18節

2024年10月20日 聖霊降臨節第23主日礼拝

ルカによる福音書 20章 9〜18節

『愛する息子はぶどう園の外で ―ぶどう園と農夫のたとえ―』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

盲目のピアニスト 辻井伸行さん

 おはようございます。さて、盲目のピアニストである辻井伸行さんの名前をご存じの方は多いかと思います。辻井さんは、胎児期の目の形成不全で起こる先天的な障害のために、生まれた時から目が見えないのです。しかし、生後、半年で音楽に強く反応するようになり、2歳半のときからピアノを弾きたがるようになります。両親は音楽家ではなかったのですが、5歳のときに両親は辻井さんにプロの演奏家を目指させることに覚悟を決めて、ウィーン・コンセルヴァトリウムを首席で卒業した、留学帰りの川上昌裕先生に師事することにしたのです。川上先生は辻井さんのために、カセットテープに楽譜の情報を録音する手段を思い付くのです。川上先生は、5分の楽曲を録音するのに時には数時間かかることもある、この『耳で読む楽譜』を200本以上も作成したそうです。そして、お母さんが“炎のレッスン”と呼ぶほど熱のこもった指導が続いたそうです。川上先生の指導のかいもあって、辻井さんは、10歳の時にオーケストラと共演し、17歳で出場したショパン国際ピアノコンクールでは、惜しくも予選で敗退しますが、『ポーランド批評家賞』を受賞します。そして、21歳で、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人として初めて優勝したのです。

 お父さんがテレビの番組の中で、高校時代の辻井さんのエピソードを紹介したことがありました。辻井さんはこんなことを言ったそうです。『僕は目が見えなくてもいいんだけど、もし一瞬だけ目が見えるとしたら、お母さんの顔が見てみたい。』 エピソードを紹介したお父さんは少し涙ぐみながら、こう言い添えました。『かわいそうに思いましたね。』産婦人科医でもあるお父さんは息子の願いを聞いた時、かわいそうで、かわいそうで、内臓が揺れ動くような痛みを感じたことと思います。可能ならばどんな犠牲を払ってでも、目が見えるようにしてやりたい、お母さんの顔を一度でいいから見せてあげたいと思ったことと思います。

 現在、私たちはルカによる福音書の20章を読み進めていますが、今日は9~19節を読みます。19章28節以下で、主イエスがエルサレムへ入られたことが語られていました。主イエスは日曜日にエルサレムへ入られ、その週の金曜日には、十字架に架けられて死なれるのです。今、主イエスは十字架の死に至る最後の一週間、いわゆる『受難週』の中を歩んでおられるのです。主イエスは、十字架へと向かう歩みの中で、どれほどの思いを持って、今日のこの「ぶどう園と農夫」のたとえをお語りになられたのか、ということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

主が作られたぶどう園

 さて、本日の聖書の箇所の9節の前半には、『イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。』とあります。主イエスは、今日のたとえ話を誰に向かって話されているのかと言いますと、『民衆に』とあります。たとえ話が、誰に向かって語られているのかということを確認するのは大切なことです。民衆に話したということから、このたとえ話は、前回お話しましたように、エルサレム神殿の境内で、主イエスの教えを聞こうと、主イエスを取り囲んでいる人々、すなわち、主イエスの教えに好意的な人々、主イエスの教えに耳を傾ける人々に語っているということなのです。

 このことから、神様の言葉、教えに興味を持ち、学んだことに積極的に応答するならば、さらに深い真理に導かれて行きますよ、でも神様の言葉を受け取ろうとしない人には、新しい真理は開かれてこないのだよ、という原則が示されていると思います。ですから、これから語られるたとえ話も主イエスを信じない人には意味が不明だと思います。私たちは、主イエスの教えに興味を持っていますので、私たちもまた、この民衆と同じ、心開かれた者たちであると思います。私たちは、本日の聖書の箇所の民衆と同じように興味を持って、主イエスのたとえ話に耳を傾けたいと思います。

 さて、9節の後半を見ますと、『ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。』とあります。ここで、主イエスが生きておられた時代の一般的な主人と農夫の関係について、お話したいと思います。当時は、ローマ帝国が支配していた時代であったわけですが、この時代、都市から離れた田舎の郊外の地のほとんどが地主の所有地であったのです。地主はどこにいたのかと言いますと、地主は田舎にはいないのです。地主は都市生活をしていて、畑だけを農夫に委ねて、その収穫を毎年受け取って、自分は裕福な生活していたというのが、一般的で、普通のことであったのです。農夫を使わないで、奴隷を使って、自ら農業を営む場合もありました。しかし、今日の主イエスのたとえ話の場合は、奴隷ではないのです。畑を農夫に貸しているのです。畑を貸す場合の相手は、奴隷ではありません。自由人であったのです。私たちに馴染みのある言い方をすれば、小作農であったのです。地主から土地を借りて、作物を栽培して、収穫の一部を地主に納める、こういう関係であったのです。地主には、どのような人がいたのかと言いますと、寛大な地主であれば人々からは尊敬された訳ですが、そのような地主はごく稀であったのです。しかし、このたとえ話に登場する地主は、当時では珍しい非常に寛大な地主なのです。このような寛大な地主は、下層階級の人々からは尊敬されたのです。上層階級の人々からは軽蔑されたのです。もっと儲かるのに、あいつはバカじゃないのというようなことを言われたのです。

 そして、9節の後半で、『ある人がぶどう園を作り、』とありますが、これはこの地主は自身で苦労してぶどう園を開墾したという背景があることを示しています。これが前提となっているのです。この主人はそこら辺にある、何でもないぶどう園を貸したのではなくて、自分が本当に苦労して、手を加えて、石を取り除き、茨やアザミを取り除け、ぶどうを栽培できるようなぶどう畑を開墾して、それを農夫たちに貸しているという前提があるのです。このことは、マタイによる福音書の21章33節の記載に、『もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。』とあることから、よく分かります。さらに、このたとえ話の背景には、旧約聖書のイザヤ書の5章の1〜2節の『わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。//よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。』という言葉があるのです。これは、イザヤの愛する者のための歌、ぶどう畑のたとえ話です。これが、旧約聖書の中の背景になっていて、このイザヤ書のモチーフを用いて、主イエスがこれからたとえ話を語るのです。

袋だたきにされた僕

 本日の聖書の箇所の10節には、『収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。』とあります。収穫の時になったので、小作料を徴収するというわけです。通常は、土地を貸す時に、主人と農夫の間で、何割納めるかということを、予め合意して、決めてあるのです。ある場合は、収穫量で決めて、どれ位の量を納めるかということです。また、ある場合は収穫に対して何パーセントを納めるかということであったりするのです。当時の一般的な割合では最低25%以上を、小作農は主人に納めていたと言われています。この関係においては、力があるのは、小作農ではなくて、主人の方なのです。主人が土地を貸し、小作料を定め、収穫の時が来たら、その小作料を納めさせるのです。ところが、本日の聖書の箇所のように、収穫の時が来ても、小作料を納めないような問題のある小作農が出てくるケースがあるのです。それに対応するために、主人は私兵集団を抱えていたということがあったのです。つまり、約束を守らない小作農に対して、武力行使ができるように、自分で雇った兵士たちを持っていた主人もいたのです。これが、ローマ時代の収穫の時の小作料の徴収の様子であったのです。

 さて、本日の聖書の箇所で、主人は収穫の時が来たので、通常通り僕を遣わしたのです。ところが、主イエスが語るたとえ話では、農夫が反抗するのです。農夫が力ある者のように振る舞い始めるのです。主人と力関係で、立場が逆転するのです。この事自体が、寛大な主人に対する反抗になっているのです。そこで、農夫たちが何をしたかと言いますと、主人が遣わした僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返したのです。ここでの主人というのは、主なる神様のことです。そして、この主人が派遣した最初の僕ですが、これは預言者を示していますが、預言者の中には、いつ活動したかによって分類するのですが、大きく分類して2種類の預言者がいたのです。バビロン捕囚になる前の預言者群という人々がいるのですが、この人々を捕囚期前預言者と言います。ここでの最初の僕というのが、捕囚期前預言者たちなのです。また、農夫というのは、イスラエルの宗教的指導者たちを表していますが、この農夫たちはその最初の僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返したのです。事実、預言者たちの活動を見ていますと、イスラエルの民から苦しめられ、排除され、殺されそうになるという生涯を送っているのです。主人が派遣した僕を袋だたきにするということが起こったのです。

 さらに、11節には、『そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。』とあります。別の僕が派遣されます。その2番目の僕はどういう預言者かと言いますと、バビロン捕囚から帰還した時以降に、神様が派遣した預言者たちのことなのです。この預言者たちを捕囚期後預言者と言います。彼らもまた、同じように袋だたきにされるということが起きるのです。10節との比較で見てみますと、『この僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。』と、『侮辱して』という言葉が追加されています。ですから、より激しく拒否したのだということが分かります。農夫たち、即ちイスラエルの宗教的指導者たちは、神様が遣わした預言者たちを排除し、拒否したのです。

 次に、12節には、『更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。』とあります。主人は3人目僕を遣わします。これまでに、1人目が捕囚期前預言者、2人目が捕囚期後預言者と言ってきました。それでは、3人目の僕は誰かと言いますと、バプテスマのヨハネと、主イエスが派遣した主イエスの弟子たちのことなのです。バプテスマのヨハネも、主イエスの弟子たちも、神の国の到来を宣教したのです。しかし、農夫たちはこの僕にも『傷を負わせてほうり出した。』のです。農夫たち、即ちイエスラエルの宗教的指導者たちの反発がより激しくなって来ているということが分かります。神様が遣わした捕囚期前預言者、捕囚期後預言者、そして、バプテスマのヨハネや主イエスの弟子たちは、ことごとく宗教的指導者たちに拒否されたのです。そのため、ついに愛する息子の派遣が行われたのです。

愛する息子の派遣

 本日の聖書の箇所の13節を見ると、『そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』』とあります。この箇所は、涙なくしては読めない箇所だと思います。福音記者ルカは、この部分を主人の独り言、独白という文学形式で記しているのです。この独白という文学形式を用いることによって、内容を単に伝達しているだけではなく、そこに独白する人物の情感を加えているのです。即ち、この主人の思いをたっぷり盛り込んで伝えているのです。ですから、この主人が思案していることが、私たちに伝わって来るのです。この主人は、どうしようかと考えあぐねているのです。これだけ最善のものを与えても、彼らは受け入れようとしない、どうしよう。ここには、神様の涙があるのです。この箇所で、主イエスは、『どうしようか、そうだ、愛する息子を送ってみよう』と、語っておられます。これは、神様の涙と並々ならぬ決意を表現した言葉なのだと思います。愛する息子というのは、主イエスのことです。神様は、そのような並々ならぬ思いを持って、神様のひとり子を世に遣わされたのです。そして、神様はイスラエルの宗教的指導者たちが御子イエスを受け入れることを期待されたのです。それでは、神様の期待は現実のものとなったのでしょうか?

 本日の聖書の箇所の14〜15節の前半を見ますと、『農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。』とあります。農夫たちは、その息子が跡取りであることを認識した上で、殺しているのです。跡取りを殺したら、主人の財産はもう自分たちのものになるのだということで、主人の財産を自分のものにしようとしたのです。当時も小作農によって、主人の行方が分からなくなったり、何年間か小作料を納めなかったりした場合に、勝手に自分の所有地だと主張することがよくあったのです。主イエスの話を聞いている人たちには、これは身近で、よくある出来事であったのです。農夫たちは、主人の財産を自分のものにしようとしていたのです。

 ここでのぶどう園というのは何なのか、財産というのは何なのかと言いますと、イスラエルの民のことなのです。民衆は、神様の所有物であるのです。宗教的指導者たちは、それを神様から委ねられていたのです。しかし、指導者たちはここでは、民衆を自分の所有物にしようとしていたのです。主イエスの時代、宗教的指導者たちは、まるでイスラエルの民を自分の所有物のように扱っていたという事実があったのです。委託されて預かっているものを自分のもののように扱うのは、管理者としては最悪の姿なのです。そして、彼らが何をしたのかと言いますと、その主人の一人息子をぶどう園の外に放りだして、何と殺してしまったのです。ここでの殺人ですが、指導者たちは主イエスが神様の子であることを知っていたのです。しかし、彼らは公に認めなかったどことか、神様の子である主イエスを殺してしまったのです。それが、この聖書の箇所の内容なのです。主イエスが門の外で苦しみを受けるということの預言となっているのです。主イエスは、ゴルゴダの丘で苦しまれ、命を落とされました。門の外です。このことの預言となっているのです。ヘブライ人への手紙13章11〜12節には、『なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。』とあります。この聖句の背景は、贖罪の日の捧げ物です。年に1回、贖罪の日に、罪の清めの捧げ物が捧げられます。その生贄の血は、罪を清める供え物となります。しかし、血を取った後の体は、宿営の外で焼かれるのです。宿営の外というのは、聖所と異なり、汚れた地です。体は汚れた地で焼かれるというのが、モーセの律法の贖罪の規定なのです。そして、ヘブライ人への手紙の著者は、それを主イエスに適用しているのです。これは、主イエスの犠牲の型なのです。主イエスは門の外、汚れた地で苦しまれたのです。そして、主イエスの血は、私たちの罪を清める血として、神様に受け入れられたのです。このヘブライ人への手紙の著者は、それ故、私たちもこの世から安楽を得るのではなく、主イエスのように、この世から除外されたような、門の外で苦しみを受けようではないかと、神様に従う生活をしようではないかと、私たちへの適用を語っているのです。

さて、ぶどう園の主人は

 次に、15節の後半から16節を見ますと、『さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。』とあります。ここでは、主イエスが『ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。』と、質問をしています。ここで主イエスが質問をしている理由は、聴衆に、そして、同時に指導者たちに、このたとえ話の意味を考えさせるためです。『ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。』というのは、当然の質問なのです。そこまでされて、主人が黙っている筈がないのです。この質問に対して、ルカの福音書では、主イエス自身が答えているのです。マタイによる福音書では、聞いている人たちが答えているのです。ルカでは、『戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。』と主イエスが答えています。それを聞いて、人々は「そんなことがあってはなりません」と答えています。人々が、そんなことがあってはいけませんと、慌てているのが分かります。どうしてかと言いますと、人々は、この主人によってぶどう園の農夫たちが殺されるという出来事の中に、イスラエルという国が裁かれ、消滅してしまうのではないかということを予感したからです。あるいは、ファリサイ派の人々やサドカイ人たちを中心とした宗教的指導者たちが教えているラビ的ユダヤ教のシステム、当時の人々が信頼を置いているシステムの基礎となっているユダヤ教が終わってしまうということを、人々は予感したのです。つまり、イスラエルの国の滅亡とユダヤ教の終焉を予感したので、人々はそんな危険なことは起きてはいけませんよと、答えたのです。

 ここで、主イエスが、『ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。』と語られたのは、神の国は主イエスの時代の宗教的指導者たちから取り去られる、そして、神の国は、将来の世代の、大艱難時代の信仰ある指導者たちに与えられるということをおっしゃられているのです。マタイによる福音書の21章の43節では、『だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。』と記されています。ここで、『民族』と訳されている言葉ですが、これは『エスノス』という言葉で、将来の世代という意味で使われる言葉なのです。ですから、主イエスの時代の指導者たちからは取り去られるけれども、再び、将来の信仰ある指導者たちに与えられるという意味なのです。

隅の親石となる

 それに対して、主イエスは17〜18節に、『イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」』とありますように、語られるのです。ここでは、ぶどう園と農夫のたとえの適用として、別のたとえが出てきているのです。主イエスはここで、彼らを見つめて、人々に答えているのです。主イエスは目を逸らして語っているのではないのです。主イエスは目と目を合わせて、教えているのです。ここに、主イエスの教えの厳しさが表現されているのです。それと同時に、これからイスラエルの上に起きる運命の過酷さを、主イエスは予感しているのです。そして、主イエスは、『それでは、』という言葉から始まる質問をされます。これは、人々が「そんなことがあってはなりません」、イスラエルという国が滅亡したり、あるいは、ユダヤ教が終焉を迎えたりするようなことがあってはなりませんと言うのですが、主イエスは、旧約聖書の預言を見ると、私が言っているようなことが起こると預言されているのだよ、それを教えるために、詩編118篇の22節の『家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。』という箇所を引用されておられるのです。

 『それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』』と主イエスは尋ねられたのです。詩編118篇の22節の預言の意味は、あなた方はどのように解釈しているのですかと主イエスは尋ねられたのです。実際に、イスラエルは滅び、苦難の時代に入って行くのだよと、主イエスは教えられたのです。『家を建てる者の捨てた石、』というのは、人々が最も評価しないもののことなのです。これは、建築家が建材としてふさわしくないと考えて、捨てた石が実は最も大切なものとして認められてゆく、それが要の石、コーナーストーンとなったというのです。コーナーストーンというのは、家を建てる時の1番隅に置く、基礎となる石のことなのです。1番、価値がないと思って、捨てられた石が、最も重要なものとして認められるようになる。つまり、ここでのこの石というのは、メシアである主イエス・キリストのことなのです。人々が見捨てたメシアが、実は最も重要な救いの礎となるのだ、最も重要な役割を果たすようになるのだ、ということなのです。このように、旧約聖書には書いてあるではないか、そして、この石は同時に裁きの手段ともなるのだ、だから、旧約聖書の預言から見ると、この石、メシアはイスラエルを裁くものとなるのだ、そして、イスラエルは裁かれるものとなるのだというのです。

 ここで、2種類の裁きの方法が出てきます。最初が、『その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、』とありますが、これは何のことを言っているのかといいますと、これは初臨のメシアのことです。イザヤ書8章13〜15節を見ると、『万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。//主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる。//多くの者がこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ/罠にかかって捕らえられる。』とあります。この聖句は、イスラエルにとっては、メシアである主イエスは、『つまずきの石』、『妨げの岩』となる。そして、『多くの者がこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ/罠にかかって捕らえられる。』という預言が、すでにイザヤ書8章があるのです。ですから、『その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、』というのは、初臨のメシアに躓くものは、つまり、初臨のメシアに躓く者は、不信仰の故に、粉々に砕かれるとおっしゃられたのです。

 主イエスは、イスラエルが滅びるなんてことを言ってはいけないのだという人たちに対して、メシアは人々から拒否されるけれど、最後は最も大切なものと、認められるようになる、しかし、そのメシアに躓く人たちが出てくる、初臨のメシアに躓く者は不信仰の故に粉々に砕かれると語られたのです。そして、このことは、紀元70年、つまりこのときから約40年後に起こるのです。これが、紀元70年のエルサレム崩壊の預言なのです。その石の上に落ちればというのは、人々がその石に躓くということなのです。その人は粉々に打ち砕かれると言うのです。

 次に、後半の『その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。』とありますが、今度は、人々が石の上に落ちるのではなくて、石が人々の上に落ちるのです。これは、メシアの再臨を預言しているのです。再臨のメシアは天から降って来られるのです。諸国を裁くために、そして、不信仰の人たちを裁くために、天から降って来られるのです。メシアは石である、そして、メシアが来られた時に、神様を認めない国々が破壊されるという預言はダニエル書2章34〜35節に、『見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。』と、記されているのです。バビロンの王ネブカドネツァルは、巨大な像の夢を見ました。像は各部分が異なった材質で出来ているのですが、これは世界の王国の変遷を示しています。異邦人諸国のどの国が覇権を握るかという、その歴史の変遷を預言しているのです。そして、ダニエル書の記述は、最後に『一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。』となっているのです。『一つの石』というのは、メシアのことです。『人手によらずに切り出され、』というのは、この石は神様から遣わされた石だということなのです。その石が、その巨大な像の鉄と陶土の足を打ち砕くのです。地上の諸国が、粉砕されるというのです。そして、やがてその石は大きな山となって、全地に広がるのです。全地に広がった山というのは、比喩的に使われた場合は、これは権威、王、あるいは、王の統治、あるいは、帝国を表すのです。大きな国が、全地に設立されたということです。そして、その石は、この世の世界の王国を滅ぼす神の国、メシア的王国だということが預言されているのです。そして、神の国はその予定されている時期、ヨハネの黙示録によれば1000年間が終わるまで、継続して立ち続けるのだということが預言されているのです。私たちはそこに向かって、行こうとしているのです。そのように再臨のメシアは、諸国を裁かれるために来られるわけですが、このことはまだ起こっていません。最初の初臨のメシアが躓きの石となったというところは成就したのです。そして、再臨のメシアが人の上に落ちるというところは、まだ成就していないのです。それが成就するときを、私たちは待ち望んでいるわけなのです。

 私たちは、『どうしようか、そうだ、愛する息子を送ってみよう』と、神様の涙と並々ならぬ決意を覚えたいと思います。そして、主イエスが、門の外の汚れた地に立てられた十字架で血を流され、私たちの罪を清める血として、神様に受け入れられたことを覚えたいと思います。私たちは、主イエスが再び来られるのを待ち望みつつ、神様の言葉に従って、歩んで行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します