小倉日明教会

『涙のラブレター : 神のものは神に』

ルカによる福音書 20章 19〜26節

2024年11月3日 降誕前第8主日礼拝

ルカによる福音書 20章 19〜26節

『涙のラブレター : 神のものは神に』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

宇宙の人間原理

 おはようございます。さて、『宇宙の人間原理』という本があります。ひとことで言うと、宇宙というのは、人間が誕生するように何者かによって絶妙に調整されているのだ、という考えなのです。たとえば、太陽は毎秒毎秒、すさまじいエネルギーを放出しています。この太陽のエネルギーを生み出しているのは重力です。太陽は自ら、重力によって自らの中心に向かって圧力をかけ、核融合反応を起こして、その結果として莫大な熱エネルギー、光エネルギーを放射しています。この太陽が捨てたエネルギーを使って、地球上の生命体は生きているのです。

 ところで、この宇宙には太陽のような莫大なエネルギーを外に捨てている星が何百億もあるのです。もし、この宇宙が閉じてしまっていて、大きさが変わらなかったなら、それらの星々が捨ててきたエネルギーがどんどん溜まって充満し、宇宙全体が何千℃にもなり、すべての物質は壊れてガス状になって落ち着く以外にはないのです。ところが、実際にはそういうふうにならないのは、宇宙が膨張していて、エネルギーが捨てられる場所を作り出しているからなのです。このエネルギーを生み出す重力と、その捨て場所を作り出している宇宙の膨張率が絶妙なバランスで保たれているので、私たちは生きることができていると言うのです。宇宙は人が生きるために何者かによって調整されているように見えて仕方がない、というのがこの本の主旨なのです。

 さて、聖書は、この全宇宙を秩序あるものにお造りになった方を紹介しています。それは、神様です。この宇宙の第一原因者なる方を、聖書は『神』とか、『創造主』と呼んでいるのです。そして、神様は、宇宙の中では砂粒のように小さな地球に住む、また小さなちいさな私たち一人ひとりを深くふかく愛しておられる、と語るのです。今日は、この神様が私たちを愛して、与えてくださった、主イエス・キリストのみわざを見てみたいと思います。

 現在、私たちはルカによる福音書の20章を読み進めていますが、今日は19~26節を読みます。19章28節以下で、主イエスがエルサレムへ入られたことが語られていました。主イエスは日曜日にエルサレムへ入られ、その週の金曜日には、十字架に架けられて死なれるのです。今、主イエスは十字架の死に至る最後の一週間、いわゆる『受難週』の中を歩んでおられるのです。前回は、「ぶどう園と農夫」のたとえについてお話しましたが、主イエスは、十字架へと向かう歩みの中で、どのような思いを持って、今日のこの皇帝への税金についての質問に、お答えになられたのか、ということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

機会をねらっていた人々

 さて、本日の聖書の箇所の25節にある、『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』という主イエスのお言葉は、よくご存知の方は多いかと思います。そして、しばしばこの言葉は、キリスト者が国家と宗教の関係を考える際に、引き合いに出されることが多い言葉でもあると思います。国家の権威が及ぶ領域と神様の権威が及ぶ領域の区別を語っていると考え、いわゆる政教分離について語っていると考えられたりします。政教分離というのは、西欧のキリスト教が長い歴史の中で、失敗から学んで築き上げてきた実利的な知恵なのです。しかし、聖書を読みますときに、私たちが常に気をつけなくてはならないのは、一つの聖句だけを切り取って、論じることをしないということです。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』という、主イエスの言葉だけを取り出して論じるのではなく、紀元1世紀のユダヤ人たちの世界観や理解がどうなっていたのかということを知った上で、主イエスがこの言葉を語られた文脈の中で論じる必要があると思いますので、そのような背景についても触れながら、本日の聖書の箇所を見てゆきたいと思います。

 現在、私たちは主イエスの公生涯の最後の1週間を読み進めています。主イエスは、今、エルサレムに来られていますが、過ぎ越しの祭りの季節なのです。過ぎ越しの祭りというのは、出エジプトの出来事を記念する祭りなのです。なぜユダヤ人たちは神様の裁きを受けないで、エジプトを出ることができたのかと言いますと、過ぎ越しの子羊を屠って、その血を鴨居と門柱に塗ったからです。つまり、それは神様の言葉に対する従順を表しているのです。血そのものに力がある訳ではないのです。これこれをしなさいと言われた神様の言葉に応答したから、イスラエルの民は守られたのです。そして、エジプトを出て、カナンの地に行くわけですが、実はそのときに屠られた子羊というのは、やがて来られるメシアである主イエスをあらかじめ示している、予表している存在なのです。ですから、主イエス・キリストの最後の1週間を見ると、過ぎ越しの子羊が選ばれ、吟味され、屠られてゆく、その型とそっくりそのままを写したものになっていることが分かります。従って、今日の聖書の箇所で、主イエスが質問を受けているというのは、過ぎ越しの子羊として吟味を受けて、傷もシミもないことが証明されてゆくプロセスなのだということが分かるかと思います。それが、今日の聖書の箇所のモチーフとなっているのです。

 本日の聖書の箇所の20節には、『そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。』とあります。さて、律法学者たちや祭司長たちは、主イエスを直接捕らえることができないので、主イエスを罠に掛ける機会を伺っていたのです。それで、彼らが何をしたのかと言いますと、義人のように振る舞うスパイのような人を遣わしたのです。回し者というのは、本当の動機は隠して、あたかも真理を求める義人であるかのように見せかけながら、主イエスの隙を伺うスパイのことです。

 ルカによる福音書には書かれていないのですが、マタイによる福音書22章15〜16節を見ますと、主イエスを罠にかけようとしたのは、ファリサイ派の人々であると書かれています。そして、ファリサイ派の人々は、弟子たちをヘロデ党の者たちと一緒に、主イエスのところに遣わせたとあります。そこで、ファリサイ派の人々の特徴とヘロデ党の者たちの特徴について考えておく必要があると思います。ファリサイ派の人々というのは、政治的にはローマの支配を認めないという、反体制派というのが政治的立場の人たちなのです。それで、ファリサイ派の人々は、皇帝に税を納める、つまり皇帝を認めることは、ローマの権威を認めることであり、イスラエルの神様を否定する不忠実な姿勢だとさえ教えていたのです。

 それに対して、ヘロデ党の者たちの政治的立場の特徴は、ヘロデ大王の統治を積極的に支持した人たちなのです。しかし、ヘロデ大王はすでに亡くなっていますので、この時代はヘロデ・アンティパスなのですが、ヘロデ・アンティパスを始めとするヘロデ大王の家系を支持している人たちなのです。そして、ヘロデ家の中からユダヤの王になる者が出ることを期待していたのです。ヘロデ大王というのは、ユダヤの王様ですが、その子どもたちは王様とは認められなかったのです。ですから、ヘロデ家の中からユダヤの王になる者が出ることを期待していたのです。つまり、ローマと仲良くして、ローマの認定を受ける王が出ることを願っていたのです。つまり、政治的にはローマの支配を受け入れている現実主義者たちなのです。しかし、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であることは、あまり喜んではいないのです。彼らが恐れているのは、民衆が暴動を起こして、それが原因となって、ローマが締め付けて来て、より強力な統治体制を取ることを恐れていたのです。ローマの支配を受け入れていますが、ユダヤの王が出て欲しい、ですからポンティオ・ピラトがユダヤの総督であることは喜んではいない、しかし、民衆が暴動を起こして、ローマの支配体制が厳しくなることは望んでいないのです。

 従って、ファリサイ派の人々とヘロデ党の者たちとは、政治的には反ローマと親ローマと対立関係にありますが、ここでは一緒になって、主イエスを罠にかけようとしているのです。これが、本日の聖書の箇所の21節の質問の背景なのです。

言葉じりをとらえようとして

 本日の聖書の箇所の21節には、『回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。』とあります。回し者らが最初に語りかけた言葉というのは、『先生、』と言って、ゴマをするところから始めているのです。この人たちは、主イエスのことは信じていないのです。しかし、口では別のことを言って、主イエスの警戒心を解こうとしているのです。本当はそうは思っていないのに、褒め言葉をもって、近づいてくる人がいる時、注意が必要です。褒め言葉をそのまま受け取ってはいけないということです。彼らは義人を装っているのです。この人たちは、律法に関する主イエスの主イエスの教えを受け入れているかのように振る舞っているのです。先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも全て素晴らしいです。私たちは先生の教えを受け入れています。ところで、律法に関して、質問があるのですが、教えて下さいますかと言いながら、律法のある点について説明を求めるのが、ローマの皇帝に対する納税に関する巧妙な質問なのです。

 22節を見ますと、『ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」』とあります。この質問は、主イエスを罠に掛けるための質問なのです。律法から見て、皇帝に税金を納めるべきか、否かを尋ねているのです。主イエスを引っ掛けるフックが両方の端に2つ付いているのです。イエスと答えても、ノーと答えても、困ったことになる、そのようなトリッキーな質問なのです。もし、皇帝に税金を納めることは、イエス、律法に適っていると答えると、ファリサイ派の人々の教えとは、正反対の教えになり、ローマの権威を認め、イスラエルの神様を軽視することになりますので、そのように答えた途端に、主イエスは民衆の支持を失うことになるのです。

 では、皇帝に税金を納めることに対して、ノーと答えるとどうなるのかと言いますと、親ローマのヘロデ党の者たちは税金を納めている訳ですから、ヘロデ党の者たちを怒らせることになるのです。そして、ファリサイ派の人たちは、ローマ皇帝に税を納めてはいけないと教えていることになるわけで、ポンティオ・ピラトに主イエスを告発する口実が得られることになるのです。このように、皇帝に税を納めることに対して、イエスと答えても、ノーと答えても、難しい状況に立たされることになるのです。実際に、主イエスは税を納めてはいけないと言っていないのに、この先、局面が進んでゆくと、主イエスが納税を拒否したような話にされて行くのです。例えば、ルカによる福音書23章の2節を見ますと、『そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」』とあるのです。しかし、主イエスは言っていないのです。主イエスは皇帝に税を納めることを禁じていないのですが、まるでそう言っているかのように、彼らは主イエスをピラトの前で告発したのです。そのようにノーと答えると、ピラトの前に告発する口実を与えることになってしまうのです。このように、イエスと答えても、ノーと答えても、どちらに答えても難しい質問で、主イエスを取り囲んでいる民衆は、主イエスがどう答えるのか、固唾を呑んで、見ていたことと思います。

デナリオン銀貨

 本日の聖書の箇所の23〜24節を見ると、『イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、』とあります。ここから主イエスが答え始めます。主イエスは彼らのたくらみを見抜いておられました。主イエスは、私たち人間の内にある悪意を全てご存知の方です。ですから、主イエスに対して、隠し通せるものは一つもないのです。主イエスは彼らのたくらみを見抜いた上で、これから彼らに、目で見える形で、回答されるのです。主イエスを取り囲んでいる人々にとっては、衝撃的な内容であったと思います。主イエスは納税に使われる銀貨を見せて、そこから真理を語られるのです。

 主イエスは、『デナリオン銀貨を見せなさい。』と言って、ローマへの納税に使われる銀貨を要求したのです。エルサレム神殿の中では、ローマの通貨は使用できないのです。エルサレム神殿の中で使用する貨幣というのは、ローマの通貨ではなくて、ユダヤの銅貨なのです。神殿内では、ユダヤの銅貨だけが通用するので、一般のユダヤ人が神殿に行って、生贄を捧げようとすると、神殿内の両替商に手数料を払って、神殿内で通用する銅貨に両替しなければならなかったのです。そして、これは大祭司のファミリービジネスになっていたのです。主イエスが宮きよめの際に、倒した両替人の台というのは、ヨハネによる福音書の2章15節に出てきますように、ローマの銀貨からユダヤの銅貨に両替する両替商の台のことです。ローマに税を納めるための貨幣は、デナリオン銀貨です。そして、そのデナリオン銀貨の上には、神格化された皇帝の肖像と銘が刻まれていたのです。銘というのは、文章のことで、文が刻まれていたのです。今日の聖書の箇所で出てくるデナリオン銀貨に刻まれていた皇帝というのは、おそらく紀元14年〜37年の間、皇帝の座に在位していた皇帝ティベリウスであったと思います。皇帝ティベリウスの像と銘が刻まれていたと思います。銘というのは、具体的には英語であれば、『Tiberius Caesar Augustus, son of the Divine Augustus』となり、これは『神であるアウグストの息子、ティベリウス・カエサル・アウグストゥス』という銘が刻まれていることとなります。像もそうですが、この銘が何を表しているかと言いますと、ユダヤ人を支配しているのが、ローマ帝国であることを示しているのです。見方を変えれば、ユダヤ人はローマの徴税制度の下にいることを示しているのです。ローマは支配者として、徴税する権利、正当性を持っている。これがこのデナリオン銀貨が示していることなのです。

皇帝のものは皇帝に

 さて、24節に戻りますと、『「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、』とあります。彼らは、『皇帝のものです』と言わざるを得なかったのです。そして、ローマのデナリオン銀貨を使うたびに、彼らは日々、ローマの支配下にあることを思い知らされていたのです。それから、25節を見ますと、『イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」』と、主イエスの答えが記されています。この主イエスの答えが、有名な聖句であると同時に、今日の聖書の箇所の中心聖句なのです。『皇帝のものは皇帝に、』というのは、どういう意味かと言いますと、ユダヤ人たちはローマの支配下にあったわけですが、もう少しポジティブな言い方をすると、ローマの行政サービスを受けていたと言うことができるかと思います。ローマの守りの中に、置かれていたという言い方もできるのです。ローマの行政サービスを受けているので、ローマに税金を納めるというのは、合法的で、正当なことなのです。ユダヤ人たちは、ローマの統治による恩恵を受けていたのです。恩恵というのがどういうものかと言いますと、例えば、現実にローマのデナリオン銀貨を使っているということは、一定の経済的な安定の中で暮らすことができているということなのです。それが、どういうことなのかと言いますと、皇帝に税金を納めるべきか、否かを問うている彼ら自身が、自分の財布やポケットにデナリオン銀貨を入れていたように、皇帝の権威のもとで発行され、流通しているローマの貨幣を使って、ユダヤ人たちは生活していたのです。

 ある人は、『貨幣は人類の寛容性の極みでもある』と言いました。貨幣は『人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のもの』だからです。『貨幣のおかげで、見ず知らずでも、信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる』のです。ユダヤ人は、ローマ人と文化や宗教が異なっていたにもかかわらず、またその支配に反発していたにもかかわらず、同じ貨幣を用いて、ローマ人に物を売ったり、ローマ人から物を買ったりしていました。同じ貨幣を使うことで円滑な経済生活が成り立っていたのです。このようにユダヤ人自身が、ローマの権威のもとに成り立っている経済システムの中で、ローマの貨幣を用いて生活しているという現実があったのです。さらに、ローマの支配下にあることで、ローマの平和を享受してもいたのです。ですから、ローマによってもたらされる様々な恩恵を受けているということは、税金を納めるというのは、ユダヤ人であっても、市民としては、当然の義務であると思います。それが、『皇帝のものは皇帝に、』という聖句の意味であったと思います。

神のものは神に返しなさい

 それでは、25節の後半の、『神のものは神に返しなさい。』という聖句の意味はどうなのでしょうか。聖書によれば、私たち人間の上には、神様の形が刻まれているのです。私たちは神様の形を身に帯びているのです。つまり、デナリオン銀貨と同じように、神様の像、神様の銘が1人1人に刻まれているというのです。デナリオン銀貨には、皇帝の像と銘が刻まれています。人間には、神様の形が刻まれているのです。そして、それはすべての人が神様の支配下にあることを教えているのです。つまり、すべての人は神様の摂理の御手の中で生かされているということを表しているのです。先程は、ローマの行政サービスを受けているということをお話ししましたが、神様との関係に於いて、私たちは生存するためのすべてのものを神様から受けているのです。私たちが意識しなくても、心臓が鼓動を打ちます。意識しなくても、空気を吸って、呼吸をしているのです。どうしようかと難しく考えなくても、身体をバランスよく動かすことができます。私たち、人間という存在は、全て神様の摂理の守りの中に置かれているのです。それ故、神様に返すべきものを、神様に返す必要があると言っているのです。すなわち、主イエスは、皇帝の行政サービスを受けているのだから、皇帝に税金を納めるのはいいことだよ、そして、それ以上に大切なことは、神様の像と銘を刻まれている私たち1人1人が、自分に与えられている最高のものを、神様にお返しする必要があるよ、とお答えになられたのです。見事な回答で、これ以上の答えはないかと思います。この主イエスの回答に、言葉じりをとらえようとした回し者たちはどうしたのでしょうか。

神のものは誰のものに

 本日の聖書の箇所の26節を見ますと、『彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。』とあります。回し者たちは、驚いて黙ってしまったのです。今日の主イエスの言葉は、現在は広く知られていて、有名な聖句となっています。従って、私たちはこの箇所を読むときには、予め知識を持って読んでいるのです。しかし、それでも私たちは、主イエスの『神のものは神に返しなさい。』という、この回答に感動するのです。そう考えて見ますと、この場に居合わせた人々は、主イエスの言葉にどれほど驚嘆したことでしょうか。全てを創造された神様をおそれる気持ちが強ければ強いほど、腰が抜けるほど、驚いたことと思います。そして、主イエスのこの答えは、議論における論理の上でも矛盾はなく、律法の解釈に於いても矛盾はなく、完璧な答えとなっているのです。それ故、主イエスの答えを聞いて、回し者たちはそれ以上何も言わないで、黙ってしまったのです。神様が語られることは、全てそのままで正しいがゆえに、神様の言葉を前にするとき、人間は沈黙せざるを得ない時が多いのだと思います。そして、そのような主イエスを、私たちは信じているのです。

 本日の聖書の箇所で、主イエスは政教分離を教えているのではないのです。また、聖と俗の区別を教えているわけでもないのです。今日の聖書の箇所で、主イエスが、『神のものは神に返しなさい。』とおっしゃられた時、主イエスが『神のもの』と指しているものは何なのでしょうか?今日の文脈の中での狭い意味では、『神のもの』とは、神殿に納められる神殿税のことを指していると言うことができます。神殿税の税額は、年間2デナリオンだったと言われています。神殿税は20歳以上のユダヤ人の男性に課される税金でした。主イエスが『神のもの』と語って、指しているのは神殿税だけではありません。神殿への捧げ物も含みます。しかし、生贄にすることのできるお墨付きを持った動物を売るのも、買うためにローマの貨幣をユダヤの貨幣に両替するのも、神殿の境内の中で行われる商売は、先程も言いましたように、大祭司カヤパのファミリービジネスとなっていたのです。それ故、主イエスが、『神のものは神に返しなさい。』と語るのは、『神のもの』とされているものが、『神のもの』にならず、大祭司のファミリーのものになっている現実を、主イエスは暗に批判しているのです。

 主イエスが『神のもの』と指しているものは、それだけなのでしょうか?そのことを次に考えてみたいと思います。

『神のもの』とは

 放送作家の橋本昌人さんという方が、『涙のラブレター』という本を編集しました。いろいろな人が、それぞれにとって大切な人に宛てたラブレターを集めた本なのです。この『涙のラブレター』という本の中に、次のような手紙があります。大阪の梅田で、居酒屋をやっていた大将が、結婚を控えた娘さんに宛てた手紙です。その手紙の中の話を手短に紹介したいと思います。

 この大将は、親子3人で幸せに暮らしていたのですが、ある日、最愛の奥さんを交通事故で亡くしてしまうのです。残された娘さんは、まだ6歳なのです。突然の出来事に、大将は奥さんがもう帰ってこないという現実をなかなか受け入れられなかったのです。そのため、思い詰めた大将は、娘さんを連れて、無理心中をしようと考えたのです。それで、最後の思い出作りに、娘さんと遊園地に出かけて、1日中、思い切り笑って、遊んだのです。2人で、思い切り遊んだ後、娘さんがニコニコしながら、一言こう言ったそうです。『もういいよ、お父さん。もう、お母さんのところに行こ・・・』。その娘さんの言葉を聞いた大将は、ハッと目が覚めて、死ぬことを踏みとどまったそうです。そして、『アホなこと言うな!そんなこと言うたら、お母さん、また拗ねるぞー』と言った途端に、娘さんが号泣し、親子で抱きしめ合って泣いたそうです。

 主イエスは『神のものは神に返しなさい。』と言われました。前回、お話しました「ぶどう園と農夫」のたとえを振り返って考えますと、『神のもの』とは、主人が農夫に預けたもの、つまり神様が私たちに預けてくださっているものだと言うことができます。農夫たちは主人に収穫の一部を納めなかったので、『神のものは神に返しなさい。』というのは、私たちが、農夫たちのようになるのではなく、神様から預かっているものの一部を神様に返しなさい、と言われているようにも思えます。つまり献金や奉仕について語られているように思えるかと思います。しかし、そうではないのです。農夫たちの問題は、主人に収穫の一部を納めなかったことではなく、主人から預かったものを自分のものとしてしまい、主人から与えられた自由を乱用したことなのです。ですから『神のものは神に返しなさい。』とは、神様から預かっているものを、自分のものにすることなく、神様の御心に従って、神様のために、神様のご栄光を現すために用いていくことなのです。私たちが持っているものはすべて、私たちの命でさえも、神様から預かっているものであることを知り、それらを神様のために用いていくことこそ、『神のものは神に返しなさい。』という言葉に応えて、生きることなのだと思います。そのように生きることが、神様の支配の下で、生かされつつ、この世の現実の中で、この世の現実を直視して生きることなのだと思います。

 農夫たちはぶどう園の主人が送った、主人の愛する息子を殺しました。同じように私たちは、神様が遣わした独り子、主イエス・キリストを十字架に架けたのです。しかし、神様は十字架で死なれた主イエス・キリストを復活させ、主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちに救いを与えて下さいました。私たちは救われたことに感謝して、神様から預けられているものを、神様のために用い、『神のものは神に返しなさい。』という、み言葉に従って生きて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します