小倉日明教会

『神に捧げて生きる ―やもめの献金―』

ルカによる福音書 20章 45節〜21章 4節

2024年12月15日 待降節第3主日礼拝

ルカによる福音書 20章 45節〜21章 4節

『神に捧げて生きる ―やもめの献金―』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

■「盲導犬クイールの一生」

 おはようございます。子どもだけではなく、サラリーマンの間でも、静かな人気を集めている本があります。それは、「盲導犬クイールの一生」という本です。販売部数が累計で200万部を突破し、2003年には、NHKでドラマ化もされ大きな反響がありました。

 さて、盲導犬というのは、言うまでもなく、目の不自由な方の目の代わりとなって、助ける犬のことです。実は、盲導犬は3回、親替えをします。

 1回目は生みの親です。これは、母犬です。しかし、盲導犬になる犬は、生後1〜2ヶ月で、母犬から引き離されてしまうのです。

 2回目は育ての親です。盲導犬になる犬は、約10ヶ月間愛情いっぱいに育てる「パピーウォーカー」というボランティアの家庭に預けられることによって、人間の家族と全く同じようにして育てられるのです。当然、犬小屋では飼いません。家の中で、飼うのです。そして、自分の実の親は、犬ではなく、人間だったかもしれないと思わせる位に、大事に育てるのです。なぜなら、人間が大好きな犬でないと、盲導犬は務まらないからだそうです。

 3回目は、しつけの親です。これは、盲導犬訓練センターの訓練士です。盲導犬は訓練センターで、訓練、トレーニングを積むのです。「待て」と言って、座らせた後、耳元で風船を割るそうです。その時に、びっくりしてしまうような犬は、失格だそうです。それから、仲間のいるところに行った時に、じゃれあったり、構ったりする犬も失格だそうです。このように盲導犬になるためには、「適性」や「性格」も大切です。訓練士がどんなに頑張っても、10頭のうち盲導犬になることができるのは3~4頭だそうです。

 こうして、厳しくトレーニングされた犬には、3つの特徴があるそうです。

 第1番目に、とことん自分の使命に、忠実だということです。あるとき、盲人の方の手引きをしていた盲導犬が、前から来た好戦的な犬に噛みつかれてしまいました。しかし、決して、やり返すことなく、主人を無事に家まで、送り届けたのです。ところが、どうも犬の様子がおかしい。そこで、人に来てもらって、見てもらったところ、片足がちぎれていたそうです。そんな傷を負っても、主人の目となることに徹するというのです。これが、盲導犬なのだそうです。

 第2番目に、主人の身に危険が及ぶとわかったときには、たとえ主人の命令でも、従わずに踏ん張るのです。車が近づいている時には、主人が行けと言ったときにも、従いません。主人は、言うことを聞かない犬だと、叱りつけるかもしれません。でも、主人の安全のためには、反抗的な犬だと思われても、こらえるのです。これを、賢い不従順と言うのだそうです。

 そして、第3番目の特徴は、寿命が短いということです。何故でしょうか。主人を守るために、猛烈なストレスがかかるのです。ですから、盲導犬というのは、人間に目ではなく、命を与えると言われている位なのです。

 さて、クイールを手に入れた、渡辺さんという方は、目が見えなくなってから、15年が経っている人です。犬嫌いであった渡辺さんは、クイールと出会うまでの期間、犬に導かれて歩くなんて、人間の歩き方なんかじゃないと言って、盲導犬を拒んでいたのです。その方が、クイールと一緒に生活しながら、こうおっしゃっています。

 「クイールは私に、人間らしい歩き方を思い出させてくれました。もうクイールなしの生活は考えられません。クイールは犬というより、私のパートナーです。」

 こう言っているのです。渡辺さんは、その後、体調を悪くし、病院に、3年の長きに渡って、入院をします。入院すると、盲導犬は訓練所に返さなくてはなりません。3年後、自分の死期が近いことを悟った、渡辺さんは、最後にもう一度クイールと歩きたいと考えて、盲導犬訓練所を尋ねます。そして、渡辺さんは、ハーネスをつけたクイールと、100mほどの短い距離を、ゆっくり、ゆっくりと歩くのです。このとき、クイールは本当に渡辺さんのパートナーであったと思います。

 多くのサラリーマンが、この本に夢中になるのは、渡辺さんに、自分を重ねているからだと言われています。しかし、サラリーマンでなくとも、誰もがこの「盲導犬クイールの一生」という本に夢中になるのではないでしょうか。

 現在、私たちはルカによる福音書の20章を読み進めていますが、本日は21章45節~22章4節を読みたいと思います。有名な箇所なので、この箇所の説教をお聞きになられた方も多いかと思いますが、今日の聖書の箇所を通して、主イエスが当時のユダヤの宗教的指導者たちのどのようなあり方を非難し、そして、この箇所に登場するやもめの献金に何を見られたのか、ということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

■一連の流れの中にある2つの話

 さて、現在、私たちは主イエスの公生涯の最後の1週間を読み進めていますが、本日の箇所は、20章45節から21章4節までで、20章45〜47節までと、21章1〜4節までの二つの話が収められています。しかし、この2つの話はばらばらに読むのではなく、続けて読むことによって、主イエスが弟子たちに示されたことを受け止めることができると思います。ルカによる福音書の土台となったマルコ福音書では、この2つの話は章をまたぐことなく続いていますし、そもそも章や節は便宜上付けられたものに過ぎないのです。なによりもルカによる福音書そのものが、この2つの話をひと続きの出来事として語っているのです。そのことは、21章1節の『イエスは目を上げて』という記述から分かります。20章45節以下のところでは、当時のユダヤの教師がそうであったように、主イエスはおそらく腰を掛けて座って弟子たちに話しておられました。その話が終わると、主イエスは目を上げられたのです。そして、目線を上げて、ご覧になられた出来事について、さらに話を続けられたのです。このように、本日の聖書の箇所の2つの話は一連の流れの中にあり、続けて読むことを私たちに求めていると思います。そして、続けて読むことによって、福音記者ルカがこの箇所で記そうとしている、主イエスの弟子としての生き方を理解することができるのだと思います。

■律法学者に気をつけなさい

 本日の聖書の箇所の45節を見ますと、『民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。』とあります。主イエスが話している相手は、弟子たちです。しかし、同時に群衆もその教えに耳を傾けています。ということは、今から語られることは、弟子たちと群衆に対する警告だということです。群衆は、主イエスと律法学者、ファリサイ派の人々との論争にずっと耳を傾けて来たのです。その彼らに、主イエスはファリサイ派の人々の教えの誤りについて語るのです。

 ファリサイ派の人々と律法の専門家に対する批判というのは、ルカによる福音書11章37〜54節で、すでに詳細に出てきているのです。ですから、ここでの批判に関しては、ルカは簡潔に記述しています。しかし、律法学者の偽善に注意しなさいという警告がここで出てきているのです。

 次に、46〜47節を見ますと、『「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」』とあります。律法学者たちの行動を分析して、見えてくるのは、行動の動機です。彼らは、なぜそのようなことをするのか。それは人に見せるためなのです。人から称賛されるために、これらのことをしているというのです。つまり、内面の実質よりは、外面の評価にこだわる、本当はそうではないのに、外側はそのように装っている、これが偽善なのです。具体的には、彼らは長い衣を着て、歩き回ることが大好きで、長い衣の裾の四隅に人目を引くような房をつけているというのです。

 衣の四隅に房をつけるというのは、民数記15章38節の『イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。』という規定から来ていることなのです。このような特殊なデザインの衣服を着るというのは、普通はやらないのですが、そもそもは自分たちが選びの民であることを思い出すためのものなのです。先程の民数記15章38節の続きの39〜40節には、『それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。』とあるのです。このような特殊なデザインの衣服は、自分たちが選びの民であることを思い出すためのものなのです。それを着て歩く時に、ユダヤ人たちは、主からこの命令を受けた私たちは契約の民である、主の使命を果たす民であるということを確認するのです。ユダヤ人には、何が期待されたかと言いますと、神様の使命を果たすために、異邦人と同化しないで生きてゆくことが期待されたのです。衣服の四隅に房を縫い付けて、その房に青いひもを付けるというのです。青い色だというのですが、これは王子の身分を示すものです。ですから、房に付けられた青い色の紐を見せながら、自分たちが王子の身分を与えられているということを彼らは確認していたのです。それは、神様が彼らに選びの民であることを教えるための教材であったのです。

 しかし、ファリサイ派の人々と律法の専門家たちは、この規定を守っているのですけれども、自分たちが敬虔そうに見せるために、普通よりも長い衣を纏って、そこに人目を引くような房をつけていたというのです。なぜかと言いますと、人に見られ、目立つからなのです。これは、本来の意味から逸脱した自己中心的な行いであったのです。律法主義というのが何なのかと言いますと、律法の本来の目的を忘れ、外見だけを整えていることが律法主義なのです。あるいは、律法主義というのは、神様が命じていないことを、勝手に人間が作り上げた律法を、人々に要求することなのです。

 さらに、ファリサイ派の人々と律法の専門家たちは、何が好きなのかと言いますと、人々がたくさんいる広場で挨拶されることが大好きなのです。たくさんの人々が見ている前で挨拶をされると、自分が重要人物であることが誇示されるというのです。自分のエゴが満足させられるのです。あるいは、『会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。』というのもそうですね。自分が重要人物であることを示すことができるからです。

 さらに、主イエスは次のように言われるのです。47節を見ますと、『そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。』とあります。やもめを保護するというのは、モーセの律法の要請です。モーセの律法は、やもめを守ることを命じているのです。しかし、ファリサイ派の人々は、やもめの家を食い物にしていたのです。どういうことかと言いますと、彼らはやもめの財産を取り上げていたのです。別の言い方をすると、高額の献金を要請して、やもめから財産を奪っていったということなのです。ファリサイ派の人々は、見栄を張って、長い祈りをします。特にこの長い祈りというのは、自らの貪欲を隠すためのものなのです。このような律法学者たちによって収奪的に行われるやもめの献金の場合は、律法学者たちは次のように言っていたのだと思います。

 『あなたにいくらいくら捧げるようにアドバイスしていますが、実は、この決定を出す前に、あなたのために、本当に長く祈ったのです。そして、その祈りの結果、それが神様の御心だという確信を持ったので、申し上げているのですよ』と言って、長く祈ったということを口実に、やもめの家を抵当に取るようなことを、彼らはしていたのです。長い祈り自体は、良いことです。長い祈り自体が問題なのではなくて、長い祈りが自分の貪欲を隠すために用いられているところに問題があるわけなのです。それで、主イエスは『このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。』と言われたのです。いつ、裁きを受けるのでしょうか。それは、終末論的には、最後の裁きの時、白い御座の裁きというのが用意されていますが、その裁きに於いて、こういう人たちは人一倍厳しい裁きを受けることになるのです。主イエスはこのように、律法学者たちへの警告を語ったのです。

■やもめの献金

 それでは次に、本日の聖書の箇所の21章1〜2節を見ると、『イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、』とあります。今まで、諸々の教えが続いて来ましたが、このやもめの献金に対する賞賛が諸々の教えの最後のエピソードとなるのです。そして、やもめの話なのですが、先程、お読みしました20章47節で、やもめの話が出てきました。やもめの家を食い物にするという話です。やもめが、ファリサイ派の人々や律法学者たちの被害者になっているという話がありましたが、ここではそのやもめのテーマを取り上げて、やもめがいかに信仰深い献金を捧げているかという話に展開してきているのです。

 エルサレム神殿の婦人の庭に入りますと、一方の壁に献金箱が置かれていました。当時の文献によれば、13個献金箱があったようです。それぞれ何々献金という区分されている目的が異なる献金箱が13個あったのです。13個のうちの9個は、モーセの律法の命令による献金のためのものでした。残りの4個の献金箱が、自発的な捧げ物のためのものでした。献金箱の入口は、ラッパの形をしていたのです。つまり、献金を投げ入れやすくするために、丸く広がっていたのです。そして、男女の区別なく献金できるように、献金箱は婦人の庭に置かれていたのです。婦人の庭というのは、女性はそこまでは入ることができたからで、その先に行くと、イスラエルの庭という場所となって、男性しか入れなかったのです。婦人の庭に献金箱があるのは、男女の区別なく、献金ができるようにしてあったわけなのです。

 さて、主イエスは婦人の庭に入って、巡礼者たちがどのような献金をどのように捧げるかを見ておられたのです。時期は過ぎ越しの祭りの時期ですから、世界中から来ているユダヤ人の巡礼者たちがたくさん主イエスと弟子たちの前を通るわけです。もうごった返しているのです。そういう中で、人々がどのような姿勢で献金を捧げるかを主イエスは観察されていたのです。金持ちたちは、目立つのが好きですので、これ見よがしに献金箱に大金を投げ入れていたのです。これらのことは、マルコによる福音書12章41節に出てきます。『イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。』とあります。

 そして、ルカによる福音書のこの箇所では、貧しいやもめが登場します。この貧しいやもめはレプトン銅貨二枚を投げ入れたのです。レプトン銅貨というコインですが、これは当時、流通していた最小単位のユダヤの銅貨です。発掘されたレプトン銅貨の写真を見ますと、プレスする機械があれば、素人でも簡単に作ることができそうな、一つひとつ形も微妙に違う、粗悪な通貨なのです。それがユダヤの最小単位のレプトン銅貨なのです。レプトン銅貨は、聖書の後ろにある付録の『度量衡および通貨』を見ると、『最小の銅貨で、1デナリオンの128分の1』とあります。従って、レプトン銅貨2枚と言うと、どれ位の価値があったのかと言いますと、ローマの通貨の1デナリは、労働者1日分の賃金の価値のあったと言われていますが、1デナリの64分の1、これがレプトン銅貨2枚の価値なのです。仮に1日の賃金1デナリを、現在の日本円で1万円と等しい価値があるとすると、その64分の1は156.25円となるのです。このやもめの女性は、現在の日本円で言えば、156円を献金として捧げたのです。それを、主イエスは見ておられたのです。

■だれよりもたくさん入れた

 そして、本日の聖書の箇所の3〜4節では、『言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」』と記されています。この主イエスの言葉は、弟子たちへの教えです。人間の評価はどうなのかと言いますと、人間の評価はどれ位の額の献金を投げ入れたかで、価値が決まります。これが、人間の評価です。しかし、主イエスによる評価は違うのです。主イエスの目には、どれ位の犠牲を払ったかで、価値が決まるのです。この貧しいやもめは、乏しい中から持っている生活費の全部を投げ入れたのです。そして、このやもめの献金を、主イエスだけが感動をもって、見ておられたのです。ここに、人間の評価と神様の評価の違いがあるのです。律法学者たちの偽善は、神様の目には、全て見抜かれているのです。真実な献金だけが、評価されるのです。主イエスは、このやもめの女性の、他の人たちとはまったく違う、真実な生き方を見つめているのです。

 しかし、ここで皆さんは、このやもめが自分の『生活費』を全て投げ入れたと聞いて、少し心配にならないでしょうか。ここで、将来の備えというのは、とても大切なことで、結局のところ、将来の備えをしないと、他の人に迷惑をかけることになるという論理もあるかと思います。しかし、ここでの強調点は、これは信仰に基づく行為なのだということです。このやもめの女性は、神様が必要を満たして下さるという信仰に基づいて、持っていた2枚のレプトン銅貨を全て捧げたということなのです。それでも、私たちはこの女性がその日の食事はどうしたのだろうかと心配してしまうと思います。

 現代の日本にいる私たちは、なかなか知らないことですが、当時、ユダヤ人の会堂ではやもめに対する援助が行われていたので、この女性はおそらくその日の食事を頂くことができ、それ以降の生活も、神様が定められた律法に基づく方法で、支えられたことと思います。ユダヤ人の会堂で、やもめの援助をしていたという習慣は、初代教会にそのまま踏襲されています。そのことは、使徒言行録6章1節に、『そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。』と出てくることから、分かります。『日々の分配のこと』というのは、給食のことなのです。日々の分配で生活を維持することができたのですが、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシア語を話すユダヤ人との間で、諍いが起きたのです。使徒言行録のことは諍いであったのですが、今日の聖書の箇所でのポイントは、そのようにして身寄りのないやもめたちが、初代教会の信徒たちの愛の捧げ物によって、支えられていたという事実があるのです。ですから、神様の力を信頼して、全てを捧げたこのやもめは、必ず神様によって、支えられたことと思います。

■神に献げて生きる

 先程も申しましたように、このやもめの献金のエピソードは、主イエスが十字架に架かられる最後の週に、エルサレムで語られた諸々の教えの最後に記されているクライマックスの教えなのです。なぜ、このやもめの献金のエピソードが最後の位置に置かれているのかと言いますと、ここにはファリサイ派の人々や律法の専門家たちの偽善的な信仰とやもめの真実な信仰の対比が最後に示されているのです。主イエスが諸々の教えを通して、語られてきたのは、それが偽善的な信仰なのか、真実な信仰なのかということの対比であったのです。そのことが、このやもめの献金のエピソードによって、見事に表現されているのです。主イエスは神殿の中で、人々に、そして、弟子たちに教えて来られました。そして、当時のユダヤの宗教的指導者たちからの様々な質問に答えて行く中で、本当に失望するような思いになられたことと思うのです。イスラエルの宗教的指導者たちの現状が、ここまで闇に覆われているのか。そのような思いの中で、主イエスは婦人の庭に入って、ここで初めて小さな光をご覧になられたのです。このやもめは、主イエスを信じる者が見習うべき手本、型と言うことができます。主イエスは、このやもめの献金を通して、弟子たちに、主イエスの弟子としての生き方を教えておられるのです。

 このやもめは、自分が持っているお金に対してどれ位の割合の献金をささげたら良いだろうかと考えていたのではありません。『持っている生活費を全部入れた』と記されているのは、ささげる割合について語っているのではありません。『生活費』と訳されている言葉は、もともとは『生活』とか『命』を意味する言葉が使われています。つまり、『持っている生活費を全部入れる』というのは、金額の問題でも割合の問題でもなく、福音記者ルカはここで、自分の生活のすべてを、自分の命を神様に献げて生きることを見つめているのだと思います。

 献金というのは、神様に自分の生活のすべてを献げて生きることの『しるし』です。ですから、献金は『献身のしるし』と言われているのです。主イエスが、このやもめの献金のエピソードで語っているのは、自分の生活のすべてを神様に献げて、神様に委ねて生きることであり、そのように生きることこそ、主イエスは弟子たちに、そして私たちに願っておられるのだと思います。自分の生活全体を神様に献げ、神様に委ねる生き方は、本日の聖書の箇所の金持ちたちや律法学者たちの生き方とは、そして、この世の中の当たり前の生き方とは、まったく違う生き方です。人々の中での評価を第1とするのではなく、ただ神様と繋がることを第1として、神様が自分の人生を導いてくださることに信頼して生きるのです。このような生き方は、旧約聖書列王記上17章8節以下に記されているエリヤとサレプタのやもめの物語でも示されています。干ばつが起こり、やもめとその息子は、壷の中にある一握りの小麦粉と瓶の中にあるわずかな油で作った食べ物を食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりでした。しかし、このやもめは、エリヤの言葉に従って、その最後の食材である小麦粉と油でまずエリヤのために小さいパン菓子を作り、その後で、自分と息子のために作ることにしたのです。その日を生きるために必要な食べ物をエリヤに渡すことは、自分の命を神様に委ねて、神様に献げて生きることの象徴です。このエリヤとサレプタのやもめの物語は、そのように神様に自分の命と生活のすべてを献げて、委ねて生きる者を、神様が養ってくださることを記しているのです。

 主イエスは、最後の食材である小麦粉と油でまずエリヤのために小さいパン菓子を作ったサレプタのやもめのように、2枚のレプトン銅貨を捧げたやもめの信仰に、エルサレムで初めての小さな光を見出したことと思います。ここで、少し補足しておきますと、ファリサイ派の人々が作った口伝律法では、慈善のために献金する場合には、レプトン銅貨1枚だけではダメで、最低レプトン銅貨2枚以上捧げなければいけないと定められていたのです。しかし、今日の聖書の箇所で、やもめが捧げている献金は、神様に対するもので、慈善のためではないので、レプトン銅貨1枚でも良かったのです。しかし、このやもめはレプトン銅貨1枚でも良かったのですが、1枚を捧げて、もう1枚を手元に残しておこうと考えたのではなくて、2枚捧げたのです。繰り返しになりますが、このやもめは神様が必ず必要を満たして下さることを信じて、すべてを捧げたのです。

 私たちは、このやもめの献金のエピソードから何を学ぶべきなのでしょうか。この後、主イエスは、十字架に架けられます。それは、人間の罪をご自身の身に受け、主イエスが裁かれて下さったという出来事です。神様の御子が世に来られたのは、十字架でご自身を献げきることによって文字通り、『自分の持っている物をすべて』『生活費を全部』を献げて下さったのです。主なる神は、乏しい中から献げたのではありません。満ちあふれる豊かさ、『有り余る』ほどの豊かな富を持っていながら、その一部ではなく、すべてを献げて下さったのです。神様が人となるということ、十字架の死において自らを献げたというのはそういうことなのです。コリントの信徒への手紙二の8章9節でパウロは自発的な施しについて語る中で、クリスマスの出来事を、『あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。』と記しています。主イエス・キリストが豊かであったのに、私たちを豊かにするために貧しくなってくださった。父なる神様のもとから世に降り、私たちの罪の贖いのために、十字架で死んで下さったのです。そのことを受け入れ、主イエスの十字架によって自らが赦され、生かされていることを受けとめる中で、私たちは神様を第1として、本当に主イエス・キリストにすべてを献げていく者とされて行くのだと思います。このやもめの献金のエピソードが伝える主イエスの弟子としての生き方に、神様に献げて生きる生き方に、主イエスは私たち一人ひとりを招いておられるということを受け入れて、主の言葉に従ってゆきたいと思います。

 それでは、お祈り致します。