小倉日明教会

『忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい』

ルカによる福音書 21章 5〜24節

2025年1月5日 降誕節第2主日礼拝

ルカによる福音書 21章 5〜24節

『忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                  役員 川辺 正直

愛でたし芽でたし

 あけましておめでとうございます。さて、お正月には、誰もが『あけましておめでとうございます』と挨拶を交わします。でも、一生涯の中で、『おめでとう』は、『ありがとう』ほどは、頻繁には使用しないように思います。でも、ここぞという大事な場面で使っているのは間違いありませんから、『おめでとう』は稀少価値の高い言葉だと考えることができます。

 『めでたい』の語源は、『愛(め)づ』+『甚(いた)し』と言われています。 『愛づ』とは、『誉める』、『称える』、『慈しむ』ということです。『甚し』とは、『はなはだしい』、『大いに』、『とっても』ということです。

 ということはつまり、『めでたい』は『大いに讃えるべき』という意味です。 『珍しい』の語源も『愛(め)づらしい』ということから、『好ましくてもっと見ていたい』という意味があります。『め(愛)でたい』と『め(愛)ずらしい』には共通の要素があります。なるほど『めでたい』ことなんか、そうそう頻繁にあるはずがない『めずらしいこと』だということも理解できるのではないでしょうか。

 では、何を大いに讃えるのでしょうか?私たちは、生きている限り、誰しも、嬉しいことも、楽しいことも、悲しいことも、つらいこともたくさんあるはずです。そんな私たちの良いところも悪いところも、ありのままの自分たちの人生を『愛でる』、つまり『大いに讃える』、そういう意味がこの『おめでとう』には込められていると思うのです。

 また、『めでたい』は、植物の芽の字の、『芽出たい』と書くのだという説もあります。字のごとく『芽』は木の芽、草の芽のことです。冬至から春に向かって次第に暖かくなるにつれて、草木は新しい芽を出そうとします。人間に例えれば、満を持して新しい環境や新しい状況を迎え入れ、気持ちを新たにするということかと思います。

 愛の字を書く、『愛でたい』は、これまでの全てを受け入れ、自分たちを讃えながら前を見て生きようという思いが表されていると思います。また、「木の芽」の芽の字を書く『芽出たい』は、これから成長して行く姿を心待ちにして夢見ている気持ちが表現されていると思います。ともに明るい未来志向の気持ちが込められていると思います。私たちは新しい年を迎えた最初の礼拝ですが、昨年の後半から、今年の初めにかけて、世界では激動の時代を思わせる事件が立て続け報道されています。しかし、私たちは新しい年の初めにあたって、神様の言葉に従って、前向きな気持で歩み始めたいと思います。

 現在、私たちはルカによる福音書を連続して読み進めていますが、本日は先週に続いて、21章5~24節の主イエスがエルサレム神殿の崩壊とその後の時代について予言された箇所を読みたいと思います。21章5~38節は、いわゆる終末論と呼ばれる箇所で、とても難解な箇所ですが、1節、1節、丁寧に書かれている意味を読み解きながら、読み進めて行きたいと思います。

終わりの徴

 さて、前回は21章の5〜11節までを読みました。前回、お読みしました5節の人々が神殿について語っている会話をきっかけに、6節以下で、主イエスはエルサレム神殿がもうじき崩壊するという、深刻で重大な予言をされました。それは、弟子たちだけではなく、全ての人にとって重要な教えに導こうとされているのです。そして、主イエスの神殿崩壊の予告を聞いて、不安に思った弟子たちは、それはいつ起るのか、それが起る前にどんな前兆があるのか、と問うたのです。

 マタイによる福音書24章3節を見ると、弟子たちは3つのことを尋ねています。『イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」』とあります。弟子たちは3つのことを尋ねと言いましたが、それが何かと言いますと、1つ目が、そのことエルサレムの崩壊はいつ起こるのかということです。2つ目が、あなたが来られるときにはどんな徴があるのでしょうか、ということです。そして、3つ目が世の終わるときにはどんな徴があるのですか、というものです。

 そこで、最初に主イエスが8〜11節で答えておられるのは、マタイによる福音書の3つの質問の中の3つ目の世の終わるときにはどんな徴があるのですか、という質問に答えているのです。『世の終わるとき』というのは、英語訳聖書であるNew Revised Standard Versionを見ますと、”(The sign) of the end of the age?”となっていて、主イエスの十字架と復活、及び、昇天のあとに誕生する教会時代が終わり、メシア時代に移行する時の徴について答えておられることが分かります。

 そして、主イエスはまず8〜9節で教会時代に見られる特徴を挙げています。その特徴は何かと言いますと、『わたしの名を名乗る者が大勢現れ』ると言うのです。つまり、偽のキリストが大勢現れる、これが教会時代の特徴だと言うのです。それから、その偽のキリストたちは、『時が近づいた』、つまり、キリストの再臨は近いと預言します。さらに、『戦争とか暴動のことを聞』く、つまり、戦争や暴動が起こるけれども、終わりはすぐには来ない。つまり、教会時代の特徴として、偽キリストの出現、それから、再臨の予告、それから、戦争や暴動が起こる、こういったことは教会時代を通して、ずっと起こることであって、これらが起きているからといって、教会時代の終わりがすぐに来るということではないのだということを、主イエスはまず語られたのです。

 それから、主イエスは、10〜11節で、主イエスは、終わりの時代の徴というテーマに入るのです。主イエスが語る終わりの時代の徴とは何なのかと言いますと、それは『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる』時代だと言うのです。これは、地域戦争のことではありません。これは、世界戦争のことなのです。ラビ用語で、『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる』ということは、世界戦争を意味しているのです。さらに、世界的に大きな地震が起こるというのです。そして、『方々に飢饉や疫病が起こり、』加えて、これから『恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』といったものが時代の終わりの徴になるのだということです。それらが今の時代が終わり、新しい時代が始まる徴になるのだというのです。

 そうして見ますと、2つの世界大戦を経て、ユダヤ人国家が成立したことが、今の時代の終わりの徴のように見えますが、主イエスはそうではないとおっしゃっておられるのではないでしょうか。地域戦争や災害のような破局、崩壊の出来事は、今の時代の特徴として必ず起ることであって、時代の終わりの徴と見えても、本当の今の時代の『終わり』はそれとは別のものによってもたらされるのだということです。それが、先取りになりますが、27節にありますように、私たちが生きる現在の教会時代は、主イエスの再臨によって、新しい時代へと移行するのだということが、前回、お話したことなのです。

迫害の苦しみ

 前回は世の終わりの徴のところまで、お話しましたが、本日の聖書の箇所はその続きとなります。本日の聖書の箇所の12節を見ますと、『しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。』と記されています。主イエスは、弟子たち、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人に教えているのです。ここで、『しかし、これらのことがすべて起こる前に、』とあります。『これらのことがすべて』というのは、この直前に主イエスがお話されていたのは、世の終わりの徴、今の時代の終わりの徴についての話をしておられました。主イエスは、こういうことが起こるけれど、これはまだ世の終わりの徴ではないよと言われました。そして、世界戦争以降が世の終わり、時代の終わりの徴なのだよとおっしゃられたのです。しかし、これらのことが終わる前に、弟子たちは数々の苦難を経験する、それが教会時代に起こることなのだよと言うのです。弟子たちは、ユダヤ人共同体からの迫害、そして、異邦人の支配者たちからの迫害に会うというのです。ですから、本来の聖書的キリスト教というのは、苦難、迫害の意味について非常に重要なメッセージを持っているのです。神様を信じたら、物質的にも、すべて神様に祝福され、上手くゆく、そうはならないのは、信仰がないか、神様から祝福されていない証拠だというような教えがキリスト教世界の中に存在していますが、これは決して、聖書的なキリスト教とは言えないのです。

 苦難の中に、置かれている方がおられることと思いますが、苦難の中にいるからといって、決して神様から愛されていないわけではありませんし、不信仰なのでもないのです。苦難には意味があるのです。神様に忠実に、敬虔に生きようとすればするほど、この世とは衝突するという関係に、私たちはいるということなのです。ですから、主イエスはそのことを予め予告しておられるのです。弟子たちが誤った期待を持つことがないように、弟子たちの心を準備させているのです。

授けられる言葉と知恵

 次に、本日の聖書の箇所の13〜15節を見ますと、『それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。』とあります。迫害には意味があるのだというのは、迫害が証をする機会となると言うのです。実際に、使徒言行録を読みますと、宣教も拡大は迫害によって起きているのです。迫害を受けて、散らされてゆき、散らされた先々で、福音を語るということが、あちこちで起きたのです。そのようなことが起こるから、主イエスは事前に証の内容を準備する必要はないと言われたのです。但し、ここでの証というのは、法廷での尋問で、権力者から追求された時に、何をどう答えるかが、聖霊によって与えられるということなのです。しっかりと聖書研究をして、常に心を整えている人は、多くの場合、御霊に導かれて、思いがけない時に、思ってもみなかったような自分の信仰を言い表す言葉を語ることができるということが、起きてくるのだと思います。法廷での尋問に答える言葉は、精霊によって授けられるから、だから弟子たちの証に反論できる者はいないから、安心していなさいと、主イエスは語られたのです。

信仰者の間ですら

 そして、本日の聖書の箇所の16〜17節では、『あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。』とあります。これが、使徒となる弟子たちが体験する将来の生活だと、主イエスはおっしゃられるのです。家族関係が破壊される。家族にまで裏切られる者も出る。ユダヤ人の家族単位の関係というのは、ユダヤ人共同体の関係というのは、非常に強いのです。それが破壊される訳ですから、これは私たちが想像する以上に、耐えられないような苦しみなのです。そういう中で殉教の死を遂げる者も出てくると言うのです。イスカリオテのユダを除いた11人の弟子たちの中で、10人までが殉教の死を遂げているのです。そして、彼らは主イエス・キリストの名のために、すべての人に憎まれると言うのです。言い換えると、福音の故に周囲のすべての人たちから憎まれるというのです。

 パウロが後に書いている内容ですが、コロサイの信徒への手紙1章6節には、『あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。』とあります。11人の中の10人までが、殉教の死を遂げました。最後まで生き延びたヨハネは老年になって、迫害を受け、パトモス島に流され、そこで黙示録を書くことになるのです。使徒たちが死んで以降の時代は、教会教父たちの時代であり、それから、プロテスタントの歴史で言うと、宗教改革者たちが現れて、迫害の中で、真理を伝え続けてくれたのです。日本にも福音を携えてやって来た宣教師たちがいました。それら一人一人の人がまるで駅伝のタスキリレーのように、タスキを次々と渡し、繋いでくれて、そして、現在の私たちがいるのです。そのようにして、私たちにまで、福音が伝えられ、福音の実が成長しているというのはとても重い言葉だと思います。それ故に、今、私たちが預けられているこのタスキを次の世代に渡す責任が私たちにはあると思います。

忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい

 次に、本日の聖書の箇所の18〜19節には、『しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」』とあります。これは、何のことを言っているのかと言いますと、結論から言いますと、迫害に遭う人がいる、中には殉教の死を遂げる人もいる、しかし、それでもなお、霊的な守りが約束されているということなのです。ここで、誤解しやすいのは、『忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。』というのは、技による救いのことを言っているのではないのです。信仰による忍耐を示すということなのです。信仰による忍耐を示したならば、それは霊的に救われているということの証拠となると言うのです。このことはどういうことかと言いますと、まず神様の守りがある。それ故、私たちの信仰は最後まで守られる。それ故、私たちは忍耐を示すことができる。それは、私たちが霊的に救われてことの証明となるのだということを、主イエスはここでおっしゃっておられるのです。纏めて言えば、弟子たちには厳しい未来が待っている、しかし、それは逆に伝道が拡大するための神様のご計画だから、恐れないで神様を信頼するならば、必ずあなた方の救いが実現するから、忠実に主イエスに従いなさいということを、主イエスは弟子たちに語って下さったということなのです。

エルサレム崩壊の徴

 次に、主イエスの話は、2つ目の回答であるエルサレム崩壊の徴についての話に移ってゆくのです。本日の聖書の箇所の20節には、『「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。』とあります。主イエスがこの話をしているのは、紀元30年のことです。エルサレム崩壊が紀元70年おことです。20節の前半の『エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、』というのは、英語訳聖書を見ますと、”When you see Jerusalem surrounded by armies,”となっています。この”When”という言葉ひとつで、40年という年月を飛んでしまったのです。これが、終末論について話すということが、難しい理由の1つなのです。神様の目から見ると、同じ平面上の出来事なのですが、人間から見ますと、40年という長い月日が飛んでいるのです。さて、エルサレムが軍隊に囲まれると言いますと、間違いなく軍隊はローマ軍なのです。エルサレムがローマ軍によって包囲されることが、崩壊の徴だという訳ですから、それが歴史的にいつどのように起きたのかということをお話しなくてはなりません。ユダヤ戦争という言葉がありますが、通常、ユダヤ戦争と言いますと、紀元66年から紀元74年まで行われた、ユダヤ人による対ローマ戦争です。74年というのは、マサダの砦が陥落した年です。この間に行われた戦争をユダヤ戦争と言うのです。この20節の予言は、そのユダヤ戦争の中で、成就したのです。

 まず、事の発端は、紀元66年のことです。当時、ユダヤ総督にフロリスという人物がいましたが、彼が神殿の宝物を持ち出したのですが、その理由はエルサレムのインフラ整備のために財源が必要だということで、神殿の宝物を持ち出したのです。ユダヤ総督と言いますと、主イエスの時代はポンティオ・ピラトでした。その後の時代に、フロリスという人物がユダヤ総督になっていたのです。ユダヤ人にとっては、神殿の宝物を持ち出すというのは、とんでもない神様に対する冒瀆の罪を犯したということになるのです。ですから、ユダヤ人たちは激昂して、反乱を起こしたのです。実は、この頃、ヘロデ大王が始めた、80年に及ぶエルサレム第2神殿の増築工事が終わったばかりの頃で、大がかりな公共工事がなくなって、雇用不安がユダヤ社会を襲っていて、それも根底にある社会不安であったのです。その社会不安の中で、ユダヤ人の不満が爆発して、反乱を起こす。これは物凄い勢いで広がったわけです。ですから、ユダヤ総督のフロリスでは抑え込むことができなかったのです。そこで、同じ紀元66年に、今度はシリア属州の総督であったガルスという人が軍団を率いて鎮圧にエルサレムに向かいますが、ガルスも敗れてしまいます。ですから、もう手がつけられなくなったのです。

 従って、ローマはこの事態を座視している訳には行かなくなり、本国から有能な将軍と軍隊を送らざるを得ないようなことになったのです。翌年の紀元67年、当時、ローマ皇帝であったのは、悪名高いネロでした。皇帝のネロが将軍を送るのですが、この将軍の名前がヴェスパシアヌスであったのです。将軍ヴェスパシアヌスは、2個軍団と多数の補助部隊を率い、さらに大量の兵器を携えて、ユダヤにやって来るのです。その時に、将軍のヴェスパシアヌスに従って、エジプトから海路で第3の軍団を率いてやって来たのが、息子のティトスであったのです。従って、軍団は全部で3つであったのです。エルサレムを攻撃しようとすると、北から攻めることになります。そうすると、まずガリラヤを制圧することになるのですが、ガリラヤでの戦いが大変な激戦であったのです。ユダヤの中では、田舎者と見られていたガリラヤのユダヤ人たちは、大変、勇敢に戦ったのです。ですから、大軍であったローマ軍も、ものすごく手こずったのです。その時に、ユダヤ人たちが戦った戦跡がガリラヤ地方にたくさん残っています。ここで、注目すべきことは、ユダヤ人の武将で、自分の使命はこの戦争の記録を後世に残すことであると、自分を説得して、ローマに投降した人がいたのです。後に、ローマの皇帝に気に入られて、重用された人がいるのです。その人の名前をヨセフスと言います。ヨセフスはこの時に、戦っているのです。後に、ヨセフスが書き記したのが、ユダヤ戦記という本なのです。ですから、ヨセフスが書き記したこの本の情報があるので、現在、私たちは詳細にユダヤ戦争に関する歴史を詳細に知ることができるのです。

 さて、そのようにしてガリラヤを制圧して、いよいよ紀元67年にヴェスパシアヌスが率いた軍団は、エルサレムを包囲するのです。翌年、紀元68年にローマ本国で大変なことが起こるのです。それは、ガリア地方、ガリア属州の総督であったウィンデクスという人が反乱を起こすのです。これが、68年4月のことなのです。そして、2ヶ月後の68年の6月に、皇帝ネロが自殺をしてしまうのです。大変な事態となったのです。翌年の紀元69年はローマの歴史の中では、大混乱の年で、4皇帝の年と言われていますが、4人のローマ人が1年の内に、次々と皇帝に即位したのです。さらに、その上にゲルマニアで反乱が勃発して、ローマ世界のタガが緩んで行くのです。そして、皇帝ネロの後を継いだ3人の皇帝たちはいずれも暴力によって死ぬのです。ヴェスパシアヌスはエルサレムを包囲しているのですが、軍によって、ローマ皇帝として迎えられることとなり、急遽、ローマに帰還することになるのです。それで、ヴェスパシアヌスはエルサレムの包囲を一時的に解いて、ローマに帰国するのです。そして、69年の12月にヴェスパシアヌスが皇帝に即位して、それで状況が落ち着くのです。それでは、エルサレムはどうするのかということですが、ローマ皇帝であるヴェスパシアヌス自身はもはやエルサレム攻略を行うことはできないのです。そこで、息子のティトスを将軍として、エルサレムに向かわせたのです。

 そして、将軍ティトスがエルサレムを包囲して、紀元70年にエルサレムは陥落するのです。ローマに行きますと、ティトスの凱旋門というのが今もあるのです。エルサレムが陥落してから、十数年後の紀元82年に建てられたものです。そして、74年にマサダの砦が陥落するのです。ティトスの凱旋門にはレリーフが彫り込まれており、ローマの兵士たちが神殿の宝物を略奪して持ち帰っている様子が描かれています。そこには、神殿の中にあった7枝の純金の燭台であるメノラーを高く掲げて持って帰っている様子が描かれています。メノラーがこの凱旋門に彫り込まれているというのは、ユダヤ人にとっては敗北と屈辱の印なのです。ローマにとっては、処理の印なのです。これが、紀元70年に起こったことなのです。

 ですから、主イエスは40年後に起こることを見越して、エルサレムが崩壊するという予言をされたのです。エルサレムが包囲され、その包囲が一旦解かれるから、それがエルサレム陥落の徴だよと、語られたのです。

 本日の聖書の箇所の21〜22節を見ると、『そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。』とあります。『報復の日』というのは、神様がユダヤ人の不信仰を裁く日という意味です。『そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。』とありますが、エルサレムでローマ軍によって包囲されていた人が、山に逃げることができたのはなぜなのでしょうか。それは、ヴェスパシアヌスがエルサレムの包囲を解いて、ローマ本国に帰り、次に、将軍ティトスが来て、再びエルサレムを包囲した訳ですが、ヴェスパシアヌスとティトスによる2度の包囲の間に、ローマ軍が撤収していた期間があったのです。その時に、主イエスのこのときの教えをよく記憶して、40年後の主イエスを信じるユダヤ人たちもしっかりと学んでいたのです。それで、主イエスを信じるキリスト者たちは、エルサレムを逃れることができたのです。それでは、何人くらいがエルサレムから逃れることができたのかと言いますと、この時に約2万人の主イエスを信じるユダヤ人たちが逃れることができたのです。エルサレム以外の地区からは、約8万人の主イエスを信じるユダヤ人たちが合流したのです。従って、約10万人の人々が逃れて、1ヶ所に集まったのです。それが、ガリラヤ地方のヨルダン川の東側のペラという町、ここはデカポリスで、ギリシア・ローマ風の町の一つなのです。このペラという町に逃れて、そこに主イエスを信じるユダヤ人たちの共同体ができたのです。ということは、エルサレムが陥落しましたから、エルサレムの母教会というのはなくなったのです。それが、一時的にペラに移動したのです。そういう出来事が起こることを、主イエスは正確に予見しておられたのです。

 次に、本日の聖書の箇所の23〜24節を見ますと、『それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」』とあります。紀元70年のエルサレム陥落の戦いで、約110万人のユダヤ人が亡くなったと言われています。生き延びた人たちは捕虜となって、ローマの諸方の州に連れて行かれた、つまり、奴隷となって、売買されて行ったということです。ユダヤ戦争後、あまりにユダヤ人の奴隷の供給が多かった為に、ローマ世界での奴隷の相場が暴落しているのです。110万人のユダヤ人が滅び、多くのユダヤ人が奴隷になりました。但し、この不信仰に対する裁きを免れた主イエスを信じるユダヤ人が約10万人いたのです。この数字は、女性や子どもの数を入れると、もっと大きな数になると思います。この人たちは、1人も死ななかったのです。

 それでは、一般のユダヤ人たちがこの生還した主イエスを信じるユダヤ人たちを見ると、裏切り者たちと見えたのです。この時から、実は一般のユダヤ人と、主イエスを信じるユダヤ人たちの間に亀裂が生じるのです。それが、歴史的にユダヤ人が主イエスを信じるユダヤ人を受け入れなくなって行く、最初の始まりなのです。それが、さらに次の約60年後のバル・コクバの乱で、さらにその溝が深くなって行くのです。そして、『異邦人の時代』というのは、異邦人がエルサレムを支配している期間のことです。『異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。』と主イエスはおっしゃられたのです。この後、主イエスは再臨の徴について語られるのですが、それは次回、お話したいと思います。

異邦人の時代

 24節に『異邦人の時代』とありますが、この『異邦人の時代』を英語に訳すと、”the times of Gentiles”となります。日本語には複数形がないので、『異邦人の時代』と訳されていますが、英語では複数形の”the times of Gentiles”であり、ギリシア語でも複数形なのです。なぜ、複数形になっているのかと言いますと、支配者がいろいろと変わることを示しているのです。”the times of Gentiles”という言葉は、異邦人がエルサレムを支配している期間のことを指す専門用語なのです。”the times of Gentiles”、『異邦人の時代』がいつから始まったのでしょうか。最初の神殿を建てたのがソロモンですが、ソロモンが建てた第1神殿は、バビロン軍によって破壊されたのです。バビロン捕囚が最初に起きたのが、紀元前586年ですから、この時に『異邦人の時代』の時代が始まったのです。これは神殿が崩壊した後が、『異邦人の時代』なのだと言うことなのですが、別の言い方をすると、ダビデの子孫がエルサレムで王位に就くことがなくなったということを表しているのです。と言うことは、『異邦人の時代』が終わる時と言うのは、ダビデの子孫が王として戻って来た時のことだということです。それでは、いつダビデの子孫が王として、エルサレムに来るのかと言いますと、主イエスの再臨の時なのです。主イエスが帰ってくるときは、ダビデの子孫としての王としての再臨なのです。その時に、『異邦人の時代』が終わるのです。ということは、紀元70年のエルサレム陥落の時も、そして、現在も『異邦人の時代』は続いているのです。1967年以降、イスラエルはエルサレムを再統一したと言われていますが、まだ、『異邦人の時代』は終わっていないのです。さらに、大艱難時代に入っても、『異邦人の時代』は続くのです。第1神殿はバビロン捕囚の時に、滅びました。第2神殿は、ローマによって、紀元70年に、全く同じ日であるアブの月の9日(7月中旬〜8月上旬)に滅びたとユダヤ人たちは言っているのです。ユダヤ人たちにとって、アブの月の9日は、神様の裁きと嘆きを思い出す、悔い改めの日なのです。聖書の中には、ユダヤの祭りが書かれていますが、アブの月の9日のことは、書かれていないのです。これは新約聖書の黙示録以外のものは全て書かれている時代の話ですので、聖書にはないのですが、ユダヤ人たちは、アブの月の9日を今でも記念して、この日を悲しみの祭りの日としているのです。今でも、紀元70年の神殿崩壊、そして、バビロン捕囚による神殿崩壊は、ユダヤ人の記憶の中に、刻み込まれているのです。しかし、それにも関わらず、『異邦人の時代』は今も続いているのです。

悟りなさい、逃げなさい、立ち退きなさい

 本日の聖書の箇所で、20〜21節で、主イエスは、『「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。』と語っています。しかし、この主イエスの言葉は、当時の常識とはまったく異なるものでした。当時、エルサレムのような都市は城壁に囲まれていて、最も安全な場所であると考えられていたからです。敵が攻めてくれば、人々は城壁に囲まれた都市の中に逃げて、そこで抗戦したのです。しかも、ユダヤ人にとってエルサレムは単なる都市ではありません。そこには、彼らにとって信仰の中心であり、拠り所であったエルサレム神殿がありました。その神殿を守るためにも、彼らはエルサレムに留まり、エルサレムを防衛しなくてはならなかったのです。ユダヤ人は、エルサレムの滅亡と神殿の崩壊が『世の終わり』であるかのように思っていました。しかし主イエスは、『エルサレムの滅亡は世の終わりではないから、逃げて、生きよ』と、『エルサレムが滅亡した後も世界は続くのだから、そこで生きよ』と言われたのです。

 私たちは自分たちの執着を優先して、より多くのもの、より大切なものを失ってはなりません。自分たちの執着から逃れて、手放したくないものばかりに目を向けることから逃れて、変化の中を生きのびていかなくてはならないのです。変化を拒むのではなく、変化していくことで生き延びて行くのです。私たちが『守らなくてはいけない』と思うとき、それを失ったら世界が終わってしまうかのように思えるとき、『それで、世の終わりが来るのではないから、逃げて、生きのびなさい』という主イエスの言葉に耳を傾け、主イエスの言葉に従って行くのです。『世の終わり』と正しく向き合って生きるとは、世の終わりに至るまで、私たちが自分たちの執着から逃れて、変化を拒むことから逃れて生きて行くことでもあると思います。私たちは、主イエスの言葉の示すことを悟り、今、自分の執着から逃げて、主イエスの一つ一つの言葉に従って、生きることができるようになりたいと思います。

 それでは、お祈り致します