小倉日明教会

『主イエスの祈りによって』

ルカによる福音書 22章 31〜34節

2025年4月6日 受難節第5主日礼拝

ルカによる福音書 22章 31〜34節

『主イエスの祈りによって』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                       役員 川辺 正直

世界最大の運送会社

 おはようございます。世界最大の運送会社にフェデラルエクスプレスという会社があります。世界200以上の国々で営業し、600機以上の輸送用航空機を持っている会社です。創業者のフレッド・スミスの頭の中には、この会社の構想がかなり早い段階からありました。彼はイエール大学の学生であった1962年に、経済学のクラスで、その原案となる『コンピューター情報時代における、翌日配達サービス』というレポートを提出しています。しかし、大学の教授から下されたそのレポートに対する判定はC判定なのです。つまり、ぎりぎり合格であったのです。しかし、フレッド・スミスは教授の判定を無視して、1971年に、全世界への『翌日配達(夜間配送)サービスの提供』を目標に掲げ、私財4億円を元手に、90億円の融資を得て、FedExのビジネスを開始し、迅速に荷物を配達するシステムを完成させたのです。今や、世界ナンバー1の航空運送会社となりました。彼が大学時代に書いたレポートは今もフェデックスの本社に飾られているそうです。今まで誰もしたことがないことや、今までの常識を打ち破るものであればあるほど、それを正しく評価できる人は少なくなります。しかし、正しいことは、やはり正しいのです。

 聖書には人間の発想では出て来ることのない、神様の救いが語られています。それを一言で言うならば、恵みによる救いなのです。本日の聖書の箇所で、ペトロは自分が主イエスに背を向けるかもしれないとは少しも考えず、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と語っているのです。本日の聖書の箇所では、ペトロはいかにして主イエスによって支えられたのかということを考えながら、読んで行きたいと思います。

シモン、シモン

 本日の聖書の箇所の31〜32節を見ますと、『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』とあります。ここで、主イエスはペトロに対して、『シモン、シモン、』と呼びかけておられます。シモン・ペトロ1人に、しかも『シモン、シモン』とその名前を2度呼んで、語りかけているのです。ユダヤの社会では、相手の名前を2度、重ねて呼びかけるのは、とても親しみを込めた、深い愛情のこもった呼びかけなのです。ルカによる福音書10章38節以下には、『マルタとマリア』の物語が語られていましたが、そこでも主イエスはマルタに、『マルタ、マルタ」と呼びかけられてから、彼女が『多くのことに思い悩み、心を乱している』ことを指摘されました。同じように主イエスは今日の聖書の箇所でも、深い愛情を持ってシモンに語りかけているのです。

小麦のようにふるいにかける

 主イエスは何とおっしゃられているのかと言いますと、『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。』とあります。誰をふるいにかけると言うのでしょうか。『あなたがたを、』とあります。複数ですので、使徒たち全員だということが分かります。サタンは使徒たち全員を試すのだということを語っておられるのです。『小麦のようにふるいにかけること』というのは、どういうことなのでしょうか。このことについては、幾つかの理解があるようです。脱穀した小麦をふるいにかけることによって、小麦の実がふるいを通過して、大きな石などの不純物を取り除くということかもしれませんし、あるいは小麦の実よりも細かい目のふるいを使えば、実よりも小さい不純物だけがふるいを通過して、実だけを残すことができるということかもしれません。そうではなくて、脱穀した小麦を上下にふるうことによって、軽いもみ殻を飛ばして、実だけを残すということかもしれません。いずれにしても『小麦のようにふるいにかける』とは、不純物を取り除いて純粋な小麦の実だけを集めることを意味しているのです。それと同じようにサタンは使徒たちをふるいにかける、と言われています。彼らをふるいにかけることによって、彼らの中から本当に主イエスに従う者と、そうでない者を選り分けようとしているのです。

サタンの提案

 旧約聖書にヨブ記という書物があります。招詞でお読みしましたヨブ記1章にもサタンが登場します。そして、ヨブが経験したことと、ペトロが経験したこととは、よく似ていると思います。そして、クリスチャンが経験する体験も、ヨブやペトロが経験したこととよく似ていると思います。ヨブ記では、ヨブもまたサタンにふるいにかけられたのです。さらに似ているのは、サタンは使徒たちをふるいにかけるときに、神様の許可が必要であったということです。そして、サタンがヨブを試みたときも神様の許可が必要であったということです。ですから、神様がすべてを支配しているのですが、そのようなことが、神様の許可の下に起こっているのだということなのです。

 ヨブ記1章10〜12節を見ますと、『あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。』とあります。神様の御前に神の使いたちが集まっているところに、サタンがやって来ます。サタンという言葉は、『神様の前に聖徒たちを訴える者』という意味のヘブライ語です。ですから、ここでもそういうことをやっているのです。そのサタンに神様が、『お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている』と自慢したのです。するとサタンは、『ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか』と答え、『ヨブの家族や財産を奪えば、ヨブは神を呪うに違いない』と言ったのです。ヨブは『無垢な正しい人』のように、神に従う者のように見えるけれど、それはヨブが順調で豊かで祝福された人生を送っているからで、それらが奪われたら神を呪うに違いない。ですから試してみますか、とサタンは提案したのです。まさにサタンが提案したことが、『ふるいにかける』ということです。このサタンの提案には、神様のご性質に対する批判もあるのです。サタンは神様に対して、人々が神様を礼拝するように、財産で釣っているのでしょと批判しているのです。ですから、神様はよし勝負だと言われたのです。こうして、サタンはヨブをふるいにかけることによって、ヨブが本当に神に従う者なのか、そうではないのかを試そうとしたのです。神様がサタンに『お前のいいようにしてみるがよい』と言われたので、サタンはヨブをふるいにかけるために数々の苦難や試練を与えていくのです。ヨブ記は、苦難や試練の舞台裏の構造を見せることによって、知らなくても、理解できなくても、神様の恵みは、そこにあるのだということを私たちに教えてくれているのです。

 同じようにサタンは、今、シモン・ペトロをふるいにかけて、主イエスに本当に従う者なのか、そうでないのかを試そうとしています。主イエスに従うという、ペトロの信仰の真実さを試そうとしているのです。ヨブにとって、ふるいにかけられることとは、財産を奪われ、家族を奪われるという苦難に遭うということなのでした。ペトロにとっては、サタンのふるいとは、主イエスが逮捕され、十字架に架けられるという事態に直面して、自分の身も危うくなるという試練でした。私たちはすでにペトロが十字架へと向かわれる主イエスに従っていくことができずに、主イエスを知らないと否認してしまうことを知っています。ペトロはふるいにかけられ、主イエスに従えない者であることが明らかにされるのです。主イエスに従って行くというペトロの思いが真実でないことが、ペトロの信仰が真実でないことが明らかにされるのです。32節の主イエスの言葉は、このようにペトロが主イエスを否認してしまうことを前提として語られているのです。

しかし、わたしは

 サタンは使徒たち全員を試みるのだけれども、主イエスは誰のために祈っておられるのでしょうか。今度は、『わたしはあなたのために、』と、今度は単数形なのです。使徒たち全員がサタンの試みに会うのだけれど、主イエスは『あなた』、つまりペトロのために祈ったのです。それでは、他の使徒たちのためには祈らなかったのかと言いますと、そうではないのです。これは、ペトロの転び方が最もひどかったからであり、さらには、ペトロが使徒たちの代表だから、主イエスはここで、ペトロを取り上げて、ペトロを使徒たちの代表として語っておられるのです。

 ここで、『しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。』とありますように、主イエスの大祭司としての働きは、ここから始まっているのです。ここまでは、主イエスは預言者としての働きを続けてこられて来たのです。しかし、主イエスの十字架での死と復活が近いことから、大祭司としての役割が始まっているのです。主イエスは、あなたのために祈ったよ、『だから、あなたは立ち直ったら、』(32節)とありますが、立ち直ったらというのは何かと言いますと、失った救いを回復することではないのです。一度救われたら、その救いを失うことはないのです。ですが、信仰が後退することはあるのです。英語では、backslidingと言いますが、元の悪習・不信仰に逆戻りすることを言います。主イエスは、これからペトロが主イエスを見捨てることをご存知の上で語っておられます。だからこそ『あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』と言われます。『立ち直ったら』と言われているということは、その前につまずくときが来る、絶望するときが来る、ということにほかならないのです。

 従って、『立ち直ったら、』というのは、信仰が後退したことからの立ち直りなのです。一旦は、後退したけれども、もう一度あるべき姿に立ち直ることができると言うのです。なぜかと言いますと、主イエスが祈って下さったからなのです。だから、立ち直ったときに、使徒たちを力づけてやりなさいと、主イエスはおっしゃられたのです。つまり、このことが、ペトロがリーダーになることの予言なのです。ペトロは失敗する、しかし、主イエスは祈って下さるから、立ち直ることができる。そうなった時に、リーダーとして使徒集団を導き、初代教会の指導者となりなさいと言っておられるのです。やがて、明らかになってくるのですが、復活の主イエスに出会った最初の使徒は、ペトロであったのです。

死んでもよいと覚悟しております

 しかし、このときペトロは主イエスの『しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』という言葉をあまり嬉しくないと思ったのです。主イエスに祈って頂かなくても、ペトロは心の中では、自分で立派にやって行けると考えていたのです。本日の聖書の箇所の33節を見ますと、『するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。』とあります。『御一緒になら』と訳されていますが、直訳すれば、『主よ、ご一緒に牢にも死にも行く覚悟です』となります。主イエスが一緒にいてくださるなら、と条件を言っているのではなく、主イエスと一緒に牢にも死にも行く覚悟を持っている、と告げているのです。主イエスはシモンにペトロという名前を与えられました。それは『岩』という意味の名前です。ペトロという名前をいただいて、『岩』のような固い決意を持って、強い覚悟を持って、主イエスに従って行こうと思っていたのではないでしょうか。まさにここでペトロは大きな自信を持って、その『岩』のような固い決意を、強い覚悟を示しているのです。

 裏を返せば、ペトロは『イエス様、私はあなたの祈りは必要としていません』という、傲慢な言葉を語っているのです。霊的に成長していることの一つのしるしは、自分の力だけでこうなっているのではないのだなあということを、しっかりと理解しているということなのです。この後、ペトロが主イエスを見捨てることを知っている私たちにとって、『主よ、ご一緒に牢にも死にも行く覚悟です』というペトロの言葉は滑稽に思えるかもしれません。しかしこの言葉は、ペトロが信仰は覚悟を持つことだ、と考えていたことを示しています。ペトロは、自分が『岩』のような固い決意を持ち、強い覚悟を持って主イエスに従って行くのが信仰だと思っていたのです。そして私たちも、少なからずそのように思っているのではないでしょうか。牢や死を覚悟することまではなくても、信仰は、自分の決意や覚悟の問題だと思っているのです。『岩』のような固い決意を持ち、強い覚悟を持つことが信仰だと思っているし、そのような決意や覚悟がなければ、まだ信仰を持てていないと考えています。私たちも、ペトロのように、『主よ、あなたに従っていく覚悟を持っています』と告白するのが、信仰を告白することだと考えているのではないでしょうか。ですからペトロのこの言葉は、ペトロだけの特別な言葉ではありません。むしろ私たち皆を代表する言葉として受けとめるだと思います。私たちに先んじて、私たちの先頭に立って、ペトロは『主よ、ご一緒に牢にも死にも行く覚悟です』と言っているのです。

三度わたしを知らないと言う

 それゆえに、34節の主イエスのお言葉は、ペトロ一人に向けられたものではなくて、私たち一人一人に対する予告であり宣言なのです。本日の聖書の箇所の34節を見ますと、『イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」』と、主イエスの言葉が記されています。主イエスは、すべてをご存知なのです。マルコによる福音書14章30節を見ますと、『イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」』とあります。ペトロが主イエスを否認する、この場面の場所は、現在は、鶏が鳴く教会という名前の鶏鳴教会という教会が建っています。当時は大祭司カヤパの官邸であり、この場面の場所が現在も保存されています。この聖書の記述から分かるのは、鶏が、ペトロが3回知らないと言ったことを確認してから、2度目に鳴いたということではなくて、当時の時間をカウントする仕方から、時間が分かるということなのです。一番鶏(いちばんどり)の鳴く時間というのは、午前0時なのです。二番鶏の時間と言うと、午前3時なのです。ですから、ここで主イエスが語っていることは、ペトロは午前3時頃までに、主イエスを3回知らないよと言うよということなのです。実際に、鶏が何回鳴くかということは、関係ないのです。しかし、実際には、聖書の記述によれば、鶏が鳴いたから、ペトロは気づいたわけなのです。

 ここで、主イエスが語っているのは、ペトロの否認が目前に迫っているということなのです。実際に、午前3時位までには、3度も知らないと言っているよということなのです。ペトロは、衝撃を受けて、シュンとしたことと思います。そして、ペトロの『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』という強がりの言葉にもかかわらず、ペトロは3度も主イエスを知らないと言ってしまいます。『三度』とは、ユダヤ的には、『徹底的に』、『完全に』ということです。ペトロは夜が明けるまでに、徹底的に、完全に主イエスを知っていることを否定することになるのです。主イエスと一緒に牢に入っても死んでもよいという強い覚悟を持っていたはずなのに、その主イエスを完全に拒みます。ペトロの「岩のような」固い決意と強い覚悟は木端微塵に砕かれてしまうのです。しかも、ペトロは牢に入れられそうになったのでも、死にそうになったのでもありません。大祭司カヤパの家の中庭で、何人かの人に見られ、『この人もイエスと一緒にいた』と言われただけです。まだ捕まってもいないし、ましてや処刑が決まったわけでもないのです。しかし、ペトロは何人かの人の視線と言葉に耐えられなくなります。自分も捕まるかもしれない、死ぬことになるかもしれない、という恐れに駆られるのです。その恐れによって、ペトロの『岩のような』決意と覚悟はあっという間に崩れ去るのです。私たちがどれほど『岩のような』固い決意、強い覚悟を持っていると思っていても、私たちの決意や覚悟は、本当は『岩のような』ものでは全然ありません。想像を絶するような苦難や試練に直面しなくても、ほんの些細な苦難や試練に直面するだけで、簡単に粉々に砕けてしまいます。私たちの決意や覚悟による信仰は、ちょっと体調が悪くなるだけでも、ちょっと嫌な思いをしただけでも崩れてしまうものだと思うのです。そして、そのように自分の決意や覚悟による信仰が崩れ去るとき、ペトロも、私たちも主イエスに従って行くという、自分の信仰が真実でないことを突きつけられ、つまずき、絶望するより他にないのです。

主イエスの祈りによって

 ペトロが主イエスに『仕える』ことにおいて、最後の最後で『つまずく』(主イエスを裏切る)ことを、主イエスは見通しておられました。ですから、主イエスはペトロの信仰がなくならないように、彼のためにすでに祈ったと語っています。主イエスの祈りは聞かれ、ペテロは自分の真の弱さを悟り、主イエスのとりなしによって立たせられていることを深く経験するようになって行くのです。

 サタンのもくろみは、ペトロの面子を丸潰しにして、二度と主イエスの前に立てないようにすることでした。しかし、主イエスのとりなしの祈りによって、ペトロの罪は赦されて、神様を信じる信仰がなくならないようにされたのです。ここに、主イエスのペトロに対する励ましの言葉、『だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』という言葉があるのです。『立ち直る』と訳されたギリシア語の言葉は、『神に立ち返る、向きを変える』ことを意味する『エピストレホー』という言葉が使われています。主イエスの祈りはペトロが失敗しないようにと願ったのではなく、失敗しても神様にしっかりと立ち返るようにと祈られたのです。ここが重要な点です。つまり、失敗したところから悔い改めて神様に立ち返ることができるのは、私たち人間の力ではなく、神様の恵みのわざだからです。ですから、立ち返った者に対する神様の要求も大きいのです。ペトロの場合は、主イエスの要求は『兄弟たちを力づける』ということでした。

 ルカによる福音書の続編である使徒言行録には、ペトロが立ち直って、弟子たちの中心的存在となり、神様の救いを力強く人々に語っている姿が描かれています。しかし、派手につまずき、絶望の中にいたペトロが立ち直るために、何か英雄的な努力をしたとか、とてつもない決意や覚悟を新たにしたとか、というようなことはまったく描かれていません。ペトロが立ち直ったのは、十字架で死なれ、復活された主イエスがペトロに出会ってくださり、信仰を与えてくださることによってなのです。ペトロは、自分自身の決意や覚悟ではなく、十字架で死なれ、復活された主イエスに依り頼む信仰こそが、本当にペトロの信仰を『岩』のように確固としたものにして行ったのです。そのペトロと同様に、私たちが信仰を持って生きることができるのは、その信仰を主イエスが与えてくださり、そして、主イエスが祈りによって、支え続けて下さっているからです。そして、主イエスのとりなしの祈りによってこそ、私たちの信仰は確かなものとされて行くのです。主イエスは、今、このときも、私たち一人ひとりに向かって、『あなたのために祈った』と、『あなたのために祈った、だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』と語りかけてくださっていると思います。それ故、私たちもまた、主イエスの祈りによって、つまずいたときにも、立ち直ることができるようにされるのだと思います。そして、この主イエスの祈りに支えられて生きる中で、ペトロのように、使命も与えられて行くのだと思います。私たちもまた、ペトロと同じように、主イエスの招きに従って、主にある人びとを『力づける』お手伝いをして行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。